木曾の懸橋底も見えねば

「薬研、いる?」
「ん? ああ、居るぞ」
 板戸越しに、声がかかった。それで集中力が途切れて、薬研藤四郎は億劫さを押し殺して返事した。
 視線を上げ、猫背になっていた背筋を伸ばした。両腕をぐー、と高く掲げて筋肉を解し、ずれた眼鏡は下ろす手で外した。
 その頃には板戸も大きく開かれ、呼び声の主が顔を出した。寒そうな素足を赤色の褞袍で隠して、白い襟巻が首に巻き付いていた。
 頬は赤らみ、息が苦しそうだ。鼻が詰まっているのか、口が閉じられると同時にずずず、と音が響いた。
 はあ、と深い溜息が聞こえて、薬研藤四郎は苦笑した。大事な眼鏡を文机に置いて、中に入るよう促した。
「どうした」
 戸を開けたままだと、温かな空気が逃げてしまう。入れ替わりに外の冷気が流れ込んできており、薬研藤四郎の細い脚を撫でた。
 ヒヤッとした気配に鳥肌を立て、剥き出しだった太腿を白衣で隠した。それでハッとしたのか、小夜左文字は慌てて戸を閉めた。
 敷居を跨ぎ、板張りの部屋へと入る。室内の中心には火鉢が置かれ、黒い炭の中心で赤い火が花咲いていた。
 入り口近くにまで、色々なものが置かれていた。それが真っ先に気になって、小夜左文字の視線は自然とそちらに流れた。
 もう一度鼻を啜り、口から息を吐いた。肩を上下させて襟巻の具合を調整して、座ったまま動かない薬研藤四郎の前へと進み出た。
「悪いな。座布団がねえや」
「別に、良い」
 文机に置かれた燭台では、太めの蝋燭の火が揺れていた。入口すぐのところにも行燈が据えられて、橙色の淡い光を放っていた。
 明かり取りの窓は高い位置にあるが、外が曇っている所為であまり頼りにならない。障子紙を貼った格子窓がカタカタ揺れて、隙間風が冷たかった。
「邪魔したか」
 壁も床も天井も、一面板張りだ。屋敷の広間のように、畳は敷かれていない。しかも季節は冬、火鉢ひとつでは間に合わなかった。
 そんな床に直接腰を下ろすのは、正直辛い。けれど外の寒さよりはずっと楽だと言い聞かせ、小夜左文字は遠慮がちに膝を折った。
 骨張った身体を低くして、正面から問いかける。この部屋で唯一の座布団を占有して、薬研藤四郎は首を竦めた。
「いいや、構わないさ。それより珍しいな、お前がこっちに来るなんて」
 場所を分けてやりたいところだが、真ん中で切り裂くなど出来ない。申し訳ないが我慢して貰うことにして、黒髪の短刀は首を傾げた。
 ここは薬室。屋敷の一画に設けられた、薬研藤四郎専用の部屋だった。
 壁一面に薬棚が並べられ、彼の名の由来となった道具の他に、様々なものが所狭しと詰め込まれていた。
 季節、昼夜の別を問わず、薬草の匂いが常に立ち込めている。この匂いに慣れていないと、立っているだけで気分が悪くなるような場所だった。
 手入れ部屋へいくまでもない怪我などは、薬研藤四郎の領分だ。切り傷、火傷、打ち身、など等。なんでもござれの名医だった。
 だが今日は、怪我人はいないらしい。薬を調合する道具は揃って脇に退けられて、山のように積み上げられていた。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
 出陣や遠征で本丸を留守にする時以外、彼は大体、この部屋に籠っていた。あまり広くなく、半地下なので冬場は特に寒いというのに、だ。
 粟田口の短刀は数が多く、どれも遊びたい盛りだ。そんな中異彩を放つ彼は、一期一振がやってくるまで、手のかかる弟たちの取りまとめ役を担っていた。
 長兄が合流を果たした今、兄代わりもお役御免となったからか。
 遊び回るより別のことに時間を使いたいと、薬研藤四郎は暇を見つけては、此処でひとり、過ごしていた。
 歌仙兼定が大体台所にいるのと、同じようなものだ。本丸で最も古株の打刀と並べて、小夜左文字は足を崩した。
 褞袍の裾を尻に敷いて、胡坐を掻いた。踵を綿の入った布で保護して、爪先は両手で握りしめた。
 その指先は荒れ放題だったが、毎晩欠かさず軟膏が塗り込められているのを、薬研藤四郎は知っている。秋の終わり、寒さが厳しさを増し始めた頃、作り方を教わりに来た打刀がいた為だ。
 毎日水仕事を頑張ってくれている刀に、これを禁じねばならない程には、荒れ方は酷くない。甲斐甲斐しく面倒を見て貰っているのだと想像すると、関係ない自分までもが何故だか照れ臭かった。
「薬研?」
「いや、なんでもない。で、なんだ。俺に分かると、良いんだけどな」
 含み笑いを零していたら、怪しまれた。慌てて取り繕って、薬研藤四郎は膝を叩いた。
 白衣の上に頬杖をつき、わざわざ訪ねて来た理由を改めて問う。
 小夜左文字はこくりと頷き、はあ、と口から息を吐いた。
「ん?」
 ため息では、ない。落ち込んでいる様子は、表情からは嗅ぎ取れなかった。
 唇を薄く開き、音に聞こえるように、吐き出した。それを三度も繰り返されて、色白の短刀は眉を顰めた。
 怪訝に首を傾げ、正面を見据えた。探るような眼差しを受けて、生傷が絶えない短刀は顎を突き出し、口をヘの字に曲げた。
「いやいや」
 拗ねられたけれど、薬研藤四郎には何が何だか、分からない。
 睨まれたので堪らず突っ込みを入れて、少年は頬を引き攣らせた。
「どうしたよ、小夜」
「白くならない」
「あ?」
 いったい何がしたいのか、さっぱり見当がつかなかった。仕方なく答えを欲して訊ねれば、ぼそっと小声で呟かれた。
 明らかに不満げな声色に、呆気にとられて目が点になった。ぽかんとしてから瞬きを繰り返して、薬研藤四郎は黒手袋の指で頬を掻いた。
「小夜?」
 連日の冷え込みで頭が可笑しくなったとは、流石に思いたくなかった。熱でもあるのかと懸念を抱いたが、そもそも刀剣の付喪神が病に罹るのも妙な話だ。
 怪我人なら多数おれども、病人が出た例は未だない。
 折角用意してあるのに使い道のない薬の数々を横に見て、薬室常駐の短刀は肩を竦めた。
 苦笑していたら、小夜左文字も気まずそうに身を捩った。膝をもぞもぞ動かして、迷った末、斜め上を指差した。
 その先には、何もない。強いて言うなら窓があるだけで、障子紙越しに外の光を感じた。
 藍の髪の短刀は俯いたままだった。指示された方角から瞬時に視線を戻し、薬研藤四郎は首を傾げた。
「んん?」
 依然として、要領を得ない。
 あれこれ頭を働かせてみるが、どれもピンと来なかった。お手上げだと白旗を振ってみせれば、小夜左文字は渋々といった態度で口を尖らせた。
「寒く、なった」
「うん? ああ、そうだな」
 暦は着々と春へ向かって進んでいるが、その気配を嗅ぎ取るのは至難の技だった。
 昼夜問わず気温は低く、庭は雪に埋もれ、池の表面は凍り付いた。屋根に積もった分を下ろすのは太刀らの仕事で、雪だるまは数日経っても溶けることなく、軒下で威張っていた。 
 外を駆け回るのは難しく、元気が有り余っている弟たちの欲求不満は募るばかり。なにか面白い遊びでも考え出さないと、暴動が起きかねなかった。
 馬も寒さに震え、鶏は何羽か、冬を越せずに死んでしまった。餌を求めて里に下りてくる獣が増えて、庭の奥に仕込んだ罠は盛況だという。
 そういう状況で、今更寒いだなんだの話題は、奇妙に感じられた。それなのに敢えて口にする理由を想像していたら、今度はちゃんとしたため息を吐き、小夜左文字が身体を前後に揺らした。
「寒く、なってから」
「お? ああ」
「吐く息が、白く。なっただろう」
「そうだな」
「……何故だ?」
「うん?」
 余所事を考えていたら、急に話し始められた。危うく聞きそびれるところだった薬研藤四郎は意識を引き戻し、訥々と紡がれる言葉に凍りついた。
 上目遣いの眼差しに、思考が停止した。
 探るように見つめられて、黒髪の短刀は顔の筋肉を引き攣らせた。
「なんだって?」
 質問の意味が、咄嗟に掴めなかった。もう一度言ってくれるよう頼み込んで、彼は真ん丸になっていた瞳を眇めた。
 それが、失礼に感じられたらしい。小夜左文字は憤然として、言葉を補い、繰り返した。
「だから。冬になってから、僕や、皆や、馬も、全部。吐く息が白くなっただろう」
 語気荒く捲し立てられ、それでようやく、彼の言いたいことが分かった。右手を上下に振り、珍しく身振りを交えての言葉に、薬研藤四郎は嗚呼、と緩慢に頷いた。
 それで先ほど、何度も口から息を吐いていたのだ。
 合点が行って、胸がスッとした。謎が解け、目の前が明るくなった。
「成る程。そういうことか」
「薬研は、分かるか」
 特に面白くもないのに可笑しくて、両手を叩き合わせ、クツクツ喉を鳴らした。一方で小夜左文字は真剣な顔をして、知りたそうに身を乗り出して来た。
 前屈みになって、目つきは鋭い。
 意外なところから、意外な質問を受けて、少年は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「小夜も、変なとこで律儀だな」
「……意味が分からない」
「なんだってまた、んな事が気になったんだ?」
 夏場は、息は曇らない。冬だけだ。しかも室内では、なかなか起こり辛い。
 早朝、冷え込んだ廊下に出た時などでは、白く煙ったりする。だが台所に入って火を熾した後では、この現象はぱったり途絶えた。
 どうしてなのか、分からない。毎日当たり前のように繰り返して来たけれど、ふと疑問に思った。
 一度考え出したら不思議でならず、他のことが手につかなかった。
「薬研は、気にならないのか」
 笑われて、不満そうだ。頬を膨らませてぼそぼそ言った短刀仲間に、薬研藤四郎は相好を崩した。
 こんなこと、弟たちから訊かれたこともない。放っておいても別段害はないし、知らなくても困るものではなかった。
 それなのにわざわざ調べに来た辺りが、律儀と言わざるを得ない。
 流石は戦国時代きっての文化人の刀だと目を眇め、黒髪の短刀は火鉢の五徳に、避けていた鉄瓶を置いた。
 一度沸かして、茶を煎れるのに使った残りだ。中身はすっかり冷めており、揺らせばちゃぷちゃぷ音がした。
「そうかー。小夜も、ついにこっち側に足を踏み入れるかー」
「薬研?」
「文系一辺倒じゃ、面白くねえだろ。あとで化学の本、貸してやる」
 嬉しさから白い歯を覗かせて笑い、先ほど使って隅に追い遣っていた急須や、長く使っていなかった来客用の湯呑みを、棚の奥から引っ張り出した。出涸らし状態の茶葉は捨て、新しいものを用意して、逸る心を抑えこんだ。
 その間小夜左文字は怪訝に眉を顰め、首を傾げていた。何のことだか分からないと言いたげな顔をして、浮かれ調子で茶の準備をする短刀を見詰め続けた。
「で、吐く息が白くなるって、話か。参考までに訊くが、小夜はどう考える?」
 合間にくるりと反転して、薬研藤四郎の白衣がふわりと膨らんだ。裾を躍らせて問いかけられて、藍の髪の少年は顎を引き、身構えた。
 自分では答えが見つけられないから、知っていそうな刀を探して、此処に来たのだ。それなのに質問されて、彼は意地の悪い短刀を睨みつけた。
「歌仙は、……その方が風流だから、と」
「ぶっは」
 同部屋で暮らす打刀に問えば、そう言われた。
 知りたかったのとはまるで異なる回答だったが、薬研藤四郎も堪え切れず、噴き出した。
 持っていた急須ごと腹を抱え、ひーひー言いながら息を吸う。瞼はぎゅっと閉ざされて、目尻には涙まで浮かんでいた。
「薬研」
「いや、わりぃ……けど。さすがは、歌仙の旦那だ。風流って。ふうりゅ……ぶははははっ」
 そこまで笑うことかと小夜左文字が憤るが、滑稽で仕方がない。自称文系の腕力自慢ならば、成る程、風流のひと言で片付けてしまうのも道理だった。
 なんとか落ち着こうと足掻くものの、横隔膜が引き攣り、止まらなかった。腹の中から痛みが生じて、息をするのも大変だった。
 頬の筋肉が勝手にぴくぴく震えて、思い出すだけで変な声が出そうだ。当分はこの話題で笑って過ごせると、記憶に焼き付けて、薬研藤四郎は深呼吸を繰り返した。
 大きく吸って、吐き出して。
 それを五度連続させて、火鉢に向き直った。
「風流……くっ」
「薬研」
「悪い、悪い。んな怒んなって」
 だが座ったところでぶり返して、肩が小刻みに揺れた。顔の上半分を手で覆って耐えるけれど、隠し切れるわけがなかった。
 苛立った声で名前を呼ばれ、再度深呼吸して両手を合わせた。機嫌を直してくれるよう頭を下げて、彼はしゅわしゅわ言い始めた鉄瓶に視線を流した。
 細くなった口から、白い煙が噴き出ていた。勢いは強く、五寸ほどの長さになっていた。
「小夜の質問の、答えだけど。こいつと、同じだ」
 湯気はやがて千々に砕け、四方に散って、消えた。後にはなにも残らない。触れようとしても揺れ動くだけで、掴み取るのは不可能だった。
 そんな湯気を指差され、小夜左文字はきょとんとなった。
「同じ?」
「そう」
 白い息は冬場限定だが、湯気なら年中通して見られるものだ。それが同じだと言われても、まるでピンと来なかった。
 疑念を抱いて眉を顰めた少年に、薬研藤四郎は呵々と笑った。上機嫌に身体を揺らして、沸騰した湯を急須へと注ぎ入れた。
 乾燥させた茶葉が膨らみ、ちょっと癖のある匂いが溢れ出た。期待していたと違う香りに、小夜左文字は興味深そうに瞬きを繰り返した。
「ほら、飲めよ。温まるぞ」
 薬効を重視した薬膳茶で、冷えた身体を温めてくれる。独自に調合した特製品だと言えば、短刀は感心した顔で頷き、両手で湯呑みを受け取った。
 自分で飲む分も湯呑みに注いで、薬研藤四郎は喉を潤した。苦みが若干強めだが、冷え込む部屋で過ごすには、欠かせない一品だった。
「にがい」
「良薬はなんとやら、てな」
 案の定小夜左文字もひと口飲んで、舌を出した。眉間に皺が寄っており、かなりの顰め面だった。
 兄である一期一振も、似たような顔をした。乱藤四郎や秋田藤四郎は、匂いを嗅いだだけで受け取りを拒否してくれた。
 彼らのために、匂いは良いがもっと苦い茶を作ってやろうと決めたのだった。
 すっかり忘れていた過去の誓いを思い出して、薬研藤四郎は唇を舐め、湯呑みを両手で抱きしめた。
「で、話は戻るが。小夜は、湯をずっと沸かしてたら、段々量が減ってくのは、知ってるな」
「ああ」
 脇道にずれていた話題を戻し、投げかけられた疑問の解決に取り掛かる。炭火に掛けられた鉄瓶を指し示せば、台所での出来事を思い出しているのか、小夜左文字はコクリと頷いた。
 出されたものは、意地でも残さない覚悟らしい。苦い茶をちびちびと、舐めるように飲む姿はいじらしかった。
 無愛想な癖に、やることは逐一可愛らしい。その落差が面白くて、薬研藤四郎は誤魔化すように茶を啜った。
 一気に飲み込みはせず、咥内に留めてから喉へ流す。そうやって口腔を温めた上で吐く息は、ほんの少しだけだったが、白く霞んでいた。
「あ」
 即座に反応し、小夜左文字が目を丸くした。狐に抓まれた顔でぽかんとして、薬研藤四郎を唖然と見つめた。
 実験は、成功した。
 目の前の反応も期待通りのもので、黒髪の短刀はしてやったりと顔を綻ばせた。
「答えは、水蒸気だ」
「う、うん?」
「水ってのは、沸騰すると気体に変わるんだ。ちなみに、固まったのが氷な。んで、その熱を加えることで気体に変わった水蒸気が、湯気って俺らが呼んでるもんだ。だから沸騰させ続けると、水はどんどん気体になって出て行って、量が減るって仕組みだ」
 空中にくるり、と円を描き、得意満面と言い放つ。
 小夜左文字は馴染みのない単語に首を傾げたが、詳しい説明は省略し、薬研藤四郎は言葉を続けた。
「で、水蒸気って奴は、冷えると、また水になる。冷えすぎると、氷になる。気体は目に見えないが、液体と固体は目に見えるし、触れるだろ」
「う、……うん」
「そんでもって、小夜。俺らが吐く息にも、いくらか水気が含まれてる」
「えっ」
 立て板に水を流すように、少年は饒舌だった。両手を広げたり、叩き合わせたり、身振りを交えながら説明して、興奮し、頬は紅に染まっていた。
 正直言って、小夜左文字にはその半分も理解出来なかった。しかし思いもよらぬところから意外な事実を知らされて、再び興味を取り戻し、身を捩った。
 試しに掌に息を吹きかけてみるが、表面は乾いたままだ。本当にそうなのかと疑って、少年は前に向き直った。
 教師役の短刀は満足げに首肯して、まだ熱い鉄瓶を指差した。
「んな大量に含まれちゃいねえよ。で、小夜。質問だ。空気中の水蒸気を見えるようにするには、どうすればいい?」
「え……?」
 触れそうで触れないぎりぎりのところに指を彷徨わせ、問いを投げる。
 油断していた少年はぎょっとなって、半眼し、顎を撫でた。
「え、ええと……確か。あ、冷ます?」
「正解――あっち!」
 目を泳がせ、記憶を手繰り、引き寄せた情報を音に置き換えた。即座に薬研藤四郎は指をくるりと回転させて、勢い余って鉄瓶に突っ込ませた。
 野太い悲鳴に小夜左文字は吃驚し、四肢を戦慄かせた。幸いにも表面をつん、と小突いた程度で大事には至らなかったが、珍しい失敗に、薬研藤四郎は鼻を愚図らせた。
 奥歯を噛み、痛みを堪える。息を吹きかけ表面を冷まし、手首をぶんぶん振り回して患部を空気に晒した。
「大丈夫か」
「これ、くらい……薬塗るまでもねーよ。つーか、こんくらい、鉄瓶は熱いって話だ」
 格好悪い失態を誤魔化し、強引に話を続けた。心配無用だと強がって涙を呑み、心配そうにしている短刀に無理して笑いかけた。
 炭火で温められた鉄瓶の水は、そう時間をおかずに湯になった。細い口から湯気が噴き出し、勢いは凄まじかった。
 鉄瓶の内部と、薬室内部では、温度はかなり異なる。当然薬室の方が低い。火鉢があるとはいえ、夏の日なたよりよっぽど寒かった。
 だから沸騰した湯から生じた蒸気は、鉄瓶を飛び出した直後に水に戻る。一部の水蒸気が細かな水滴となり、それが白く煙っているように見えるのだ。
 宙を舞う水滴は、そのまたすぐ後に常温下で気化して、露は空気中に溶けて消える。息が白く染まるのも、理屈は同じだった。
 先ほど薬研藤四郎は、茶を口に含ませることで、呼気の温度を上げた。屋外より暖かい空間でも再現出来たのは、このお陰だった。
「……へえ」
「この身体は、あったけえからな」
 ただの刀でしかなかった頃は、寒さなど感じなかった。現身を得た今だからこそ出来ることだと笑って、彼は残っていた茶を飲み干した。
 空になった湯呑みを置き、小夜左文字の分も引き取る。急須と並べて文机に預けて、立ち上がって背筋を伸ばした。
「こんなんで、満足いただけたかな」
「ああ、とても勉強になった。ありがとう」
「なんか聞きたいことがあったら、また来ると良いさ。そうそう、小夜。ちょっと待て」
 謎は解けた。風流だから、のひと言で片付けなくて良かったと頷き、小夜左文字も起き上がろうとして、寸前で引き留められた。
 用は済んだのに、まだ何かあるのか。
 怪訝にしていたら、戸棚の抽斗を探っていた薬研藤四郎が何かを取り出し、差し出した。
「それは?」
「歌仙の奴に、軟膏作る時の精油、これも足すよう渡しといてくれ」
「……分かった」
 透明な硝子の容器だった。蓋は黒色で、厚みがあり、長さは一寸程度。直径はその半分にも満たなかった。
 小さいのに、精巧に出来ている。中身はやや黄味がかった液体で、揺らせば動きに合わせて波を打った。
 水仕事が多く、手荒れが酷い少年は、毎晩眠る前、両手に軟膏をたっぷり塗り込めるのが日課だった。お蔭で皸は出来るが、あまり悪化せずに済んでいた。
 そんな手作り軟膏のことを、彼は知っていた。何故かと考えるが答えは出ず、首を捻るうちに押しつけられた。
「あんまり入れ過ぎると、緩くなるからな。一滴ずつで良い」
「伝えておく」
 衝撃に弱いものなのか、上から落とすのではなく、直接掌に置かれた。反射的に握りしめて、逃げ遅れた薬研藤四郎の指まで掴んでしまった。
 黒の皮手袋の、柔らかいけれど冷たい感触が肌を撫でた。触れあった瞬間、黒髪の短刀はビクッとして、ひと呼吸置いてから苦笑を漏らした。
「小夜の手って、あったけえな」
 手袋越しで分かるのかと言いたくなったが、堪えた。だが疑う眼差しは防ぎきれず、小夜左文字は曖昧に笑う少年と、黒に覆われた指先を交互に見た。
 先ほど貰った茶が効いて来たのか、確かに身体の内側から熱が湧き起こっていた。汗が滲むほどではないけれど、血管が拡張して、冷えやすい末端に血が巡っているのが感じられた。
 だが目の前にいる短刀は、どうだろう。
 同じ茶を飲んだというのに、まるで温まっている風に見えなかった。
 火鉢を傍に置いて、部屋の中は温かい。だというのに彼だけが、異様に冷たかった。
「薬研は、……冷たい」
「俺はな。まあ、仕方がねぇさ」
 手袋の表面を手繰り、手首に触れても熱を感じなかった。ヒヤッとした感触は雪を思わせて、凍えそうだった。
 屋敷の大部屋は、人の出入りが激しい。戸の開閉の度に暖気が逃げるし、あそこの火鉢は鶴丸国永が独占していた。
 薬室は他の部屋に比べて狭く、気密性は高い。出入り口はひとつしかなく、温められた空気が逃げる場所は少なかった。
 彼がいつも此処にいる理由が、胸の中でざわめいた。
 自嘲気味の呟きに、雷撃を食らった気分だった。
 顔を上げれば、照れ臭そうに笑う顔があった。苦々しさを押し殺し、諦めさえ窺える表情だった。
「……仕方、なくは。ない」
「小夜?」
 その顔は、嫌いだ。
 思った時には、勝手に動いていた。噛み締めるように呟いて、小夜左文字は薬研藤四郎から手袋を剥ぎ取った。
 許可は求めなかった。突然のことに驚き、少年は当然の如く抗った。
 それを、自慢の打撃で捻じ伏せた。問答無用でひん剥いて、革細工は丸めて床へ叩き落した。
「おい、なにし――」
 現れた指先は、それこそ雪も真っ青な白さだった。血の気がまるでなくて、冷たく、氷のようだった。
 いきなり無体を働かれ、薬研藤四郎が声を荒らげた。力技で利き手を取り戻そうと足掻いて、指先に熱を感じて竦み上がった。
 はあ、と息を吐かれた。
 火鉢に炭を欠かさず、暖房を利かせているのに冷えている指先に、思い切り。
 大きく口を開けて、小夜左文字が呼気を浴びせかけていた。
 直後、左右から挟み持たれた。押さえつけるように揉んで、解して、また息を吹きつけられた。
 体内の熱を絞り出す姿に、水蒸気の幻が見えた。ぐにぐに捏ねて摩擦を起こし、温めようと躍起だった。
 人差し指から始まって、中指、薬指、小指と進んで、親指へと戻った。その次は掌全体を擽ってと、手つきは不慣れながら、手順に迷いはなかった。
 いつもそうやって、誰かに温めて貰っているのだろう。
 光景が瞼の裏に思い浮かんで、笑いと同時に、何故か涙がこみ上げて来た。
「これで、ちょっとは……薬研?」
「ああ、悪りぃ。大丈夫。すげー、あったまった」
 左手も、と言ったら、やってくれるのだろうか。そこまで願い出るのは、贅沢だろうか。
 もっともそんな不格好な真似が必要ないくらいに、既に身体は暖かい。じんわり優しい熱が広がって、身に沁みる寒さなど吹き飛んでいた。
「あんがとな、小夜」
「どういたしまして、だ」
 ぎこちなく礼を言えば、得意げに胸を張られた。効果抜群だろうと息巻かれて、苦笑するしかなかった。
 歌仙兼定も、左文字の上ふた振りも、彼を甘やかし過ぎだ。そこに自分も加わるのかと頬を緩めて、薬研藤四郎は立ち去る背中を見送った。
 暖気が逃げないよう、戸は素早く開かれ、閉じられた。足音は程なく聞こえなくなって、壁に囲まれた部屋は一気に静かになった。
「あちぃ、な」
 素手のままの右手を頬に当て、呟く。
 今しばらくは手袋をしなくても良いと笑って、少年は涙を堪え、天を仰いだ。

2016/03/13 脱稿

波と見ゆる雪を分けてぞ漕ぎ渡る 木曾の懸橋底も見えねば
山家集 1432 雑