空にや春の立を知るらん

 長かった冬が、ようやく終わろうとしていた。
 庭を埋め尽くしていた雪は日陰の一部を残してほぼ消えて、軒先からぶら下がる氷柱も姿を消した。防火用に貯めていた桶の水は凍らなくなり、雪下ろしの作業も過去のものとなった。
 長時間の肉体労働の結果、戦でもないのに腰を痛める刀が続出したのが懐かしい。薬研藤四郎お手製の湿布は良く利いて、治療に訪れる者は後を絶たなかった。
 火鉢を囲んでの談笑はどんな時でも盛り上がり、賑やかだった。餅を焼いたり、酒を温めたりと、入れ代わり立ち代わり、多くの刀が広間を訪れた。
 皆で寒さに耐え、騒々しく過ごした。
 もっと重苦しく、辛い季節になるかと思いきや、意外だ。どんな状況下に置かれようとも変化を愉しみ、日々を満喫する刀は、存外本丸に多かった。
 短刀たちは毎日雪遊びに興じ、大人げない打刀や太刀がそこに加わった。雪合戦は数組に別れての本格的なもので、陣地の奪い合いは運動不足の解消の他に、遡行軍との戦いに備えた訓練も兼ねていた。
 あれはあれで、なかなか楽しかった。
 次は一年先の遊行を振り返りながら、小夜左文字は拾った石を籠に投げた。
 雪が解けたということは、芽吹きの季節がくる、ということだ。畑を耕し、肥料を撒き、農作物を育てる準備が始まる、という意味だ。
 冬を越すために備蓄しておいた食糧は、残り少ない。この頃の食事は一層質素さを増しており、大食漢の大太刀や槍が肩身を狭くしていた。
 きゅるるるる、と鳴る腹は哀愁を誘う。見かねた短刀たちが己の分を分け与えようとする光景は、食事時の定番となりつつあった。
 もっともそれは、粟田口筆頭の太刀である一期一振が許さない。本丸に至ってまだ日が浅い彼だけれど、既に長兄としての立場を確立し、弟たちに対して優しく、時に厳しく振る舞っていた。
 今日も大勢いる弟を指揮して、畑へと繰り出している。
 そこに何故か巻き込まれて、左文字の末弟は小さく溜息を吐いた。
 汗ばむ肌を手拭いで撫で、休憩しようと背筋を伸ばした。膝を起こして立ち上がり、掴んだ籠はずっしり重かった。
 雪に閉ざされていた畑は、その間一切手が加えられていない。雪解け後にはどこから現れたのか石が散乱して、荒れ放題だった。
 本丸に集う刀が増えた分、耕作地も広げる必要があった。作付面積が広がれば、その分収穫数も増える。但し荒地を整備するのは大変で、辛抱強さが求められた。
 遠くでは一期一振が、鋤を手に硬い地面を掘り返していた。
 地中に空気を送り、土を柔らかくする。牛が居れば幾らか楽な作業なのだが、生憎と本丸に居るのは馬だけだった。
「今日中に、どこまで行けるか」
 武器である刀剣が、農具を手に田畑を手入れするなど、滑稽な話だ。今でも有り得ないと思う。ぶつぶつ文句を言う刀が大半で、進んでやりたがる者は圧倒的に少なかった。
 それでも、己らが食べるものを作るのだ。
 手を抜けば収穫が減り、もれなく自分の食い扶持も減る。その辺の理屈は、冬の間の質素倹約生活で身に沁みていた。
 野良仕事は粟田口だけでなく、暇を持て余した刀たちも混じっていた。
 同田貫正国や御手杵、陸奥守吉行など等。堀川国広に山伏国広の姿も見えて、その足元にある白い塊は、恐らく山姥切国広だろう。
 嫌だなんだと言いながら、みんな、春の訪れを喜んでいた。屋外を自由に駆け回れる解放感に笑みを零し、嬉しそうだった。
 小夜左文字にとっても、春の到来は喜ばしい。矢張り寒さに震えるよりは、温もりに包まれている方がずっと良かった。
 これからどんどん、過ごし易くなっていく。
 夏の暑さがどれほどになるかは想像するしかないが、極寒の真冬よりは楽だろうと、根拠なく信じられた。
「よっ、と」
 両肩にずっしり来る籠を持ち上げ、畑の外れへと運ぶ。彼の今日の仕事は、この一点のみだった。
 集めた石を捨てて籠を空にし、そこでようやく一息つく。何度も汗を拭いた手拭いはほんのり湿り、鼻に近付ければ微かに臭った。
 刀でありながら、塩分を微量含んだ汗を分泌するのだから、それもまた可笑しなものだ。鉄に塩など言語道断なのに、本体である刀が錆びないのは、不思議としか言いようがなかった。
 現身というものは便利だが、痛覚その他あれこれを過剰なまでに有しており、時折面倒臭い。
 疲労感も、そのひとつ。あと苦手なのが空腹感と、睡魔だ。
「つかれた」
 ぽつりと零せば、途端に実感が湧いてきた。体内に蓄積された疲れが一気に噴出して、膝が震え、立っているのが辛くなった。
 運んできた石は結構な量で、かなり堪えた。短刀がやるべき仕事ではないと内心愚痴を零して、彼は顎を拭い、生温い唾を飲み込んだ。
 空の籠に凭れかかる形で腰を落とし、呼吸を整える。吸い込んだ空気は土の匂いが混じり、異様に青臭かった。
「戻るか」
 空は澄み、雲は高い。遠くから五虎退と秋田藤四郎の笑い声が聞こえて、目を向ければ一期一振も小休止中だった。
 動き易い内番着の袖を捲り、鋤を杖代わりにして立っている。様子を観察していたら太刀が不意に振り返られて、距離があるのに目が合った気がした。
「……なんだ?」
 妙にきょろきょろして、落ち着きがない。様子が変だと察して、小夜左文字は首を傾げた。
 軽くなった籠を右肩に担ぎ、小走りに畑へと戻る。ふっくら柔らかくなった土を踏んで突き進めば、粟田口の長兄は弱り切った表情で右往左往していた。
「どうかしたか」
「ああ、小夜殿。乱を見ませんでしたか?」
「乱藤四郎?」
 運んできた物を下ろし、問いかける。
 あまり背が高くない太刀は手にした鋤を左右に揺らしつつ、今にも泣きそうな顔で捲し立てた。
 普段の凛とした佇まいはどこへ消えたのか、泣きそうな顔をしていた。視線は常に揺れ動き、遠くを気にしていた。
 つられて後方を振り返って、小夜左文字は嗚呼、と小さく頷いた。
 そういえば乱藤四郎の姿を、ここ暫く見ていない。畑に居る粟田口の短刀は五虎退に秋田藤四郎、前田藤四郎に厚藤四郎だけで、あとは脇差と打刀だった。
 薬研藤四郎は本丸で薬草を煎じる作業に忙しく、農作業には最初から不参加だ。元気に走り回っている短刀の中に、少女と見紛う外見の少年は含まれていなかった。
 いつから居なくなったのか、まるで気にしていなかった。
「僕は、……すまない」
 言われて初めて、乱藤四郎の不在を知った。覚えがないと素直に謝罪すれば、一期一振は一度大きく目を見開き、力なく首を振った。
「いえ。小夜殿が悪いわけではありません」
「いつからだ?」
「それが、私にも。確か埋まっていた木の根を一緒に掘り出して、捨ててくる、と言って……」
 汚れるのも構わず手で顔を覆い、思い出そうと眉間に皺を作った。質問を受けた太刀は項垂れて更に小さくなり、苦悶の息を漏らした。
 目の前のことに集中し過ぎて、弟の行方に気を払っていなかった。
 痛恨の失態だと落ち込む男に、些か度が過ぎると笑うことも出来ない。
 そこまで心配しなくても、乱藤四郎は一期一振より練度が高い。まだ本丸に来たての兄よりも、屋敷内や、その敷地について、遥かに詳しかった。
 放っておいても大丈夫なのに、少々過保護過ぎる。
 彼を見ていると、昔馴染みの打刀が自然と思い出された。あれも大概だが、こちらの方がもっとひどくて、小夜左文字は苦笑の末に肩を竦めた。
「探して来よう」
「小夜殿」
「貴方は、ここにいて。貴方まで居なくなったら、他の刀が騒ぐから」
 五虎退や秋田藤四郎は、甘えん坊で、泣き虫だ。
 長兄の姿が見えないと知れば、きっと動揺するだろう。
 その点小夜左文字は、心配する者が少ない。一期一振と前後して左文字の長兄も本丸へ至ったが、彼は弟に構おうとせず、今日も屋敷の部屋に引き籠っていた。
 他者との接触を嫌い、孤独を好む。その辺りが、姿も性格も似通わない左文字の、唯一とも言える共通点だった。
 対する一期一振は、多くの弟を率いている。探しに行くべきはどちらか、火を見るよりも明らかだった。
 提案に目を丸くした太刀は、言葉を継がれ、押し黙った。左手で口元を覆い隠し、短い逡巡の末に頭を下げた。
「よろしく、お願い申し上げる」
「分かった」
 悲痛な声で頼まれて、小夜左文字は首肯した。空の籠を預けて踵を返し、瞬時に来た道を戻り始めた。
 道中一度だけ振り返れば、立ち尽くす兄を心配したか、短刀たちが駆け寄るところだった。先頭を行く秋田藤四郎を抱き留めて、太刀の表情が少しだけ和らいだ。
 もし小夜左文字の姿が見えなくなったとして、江雪左文字や、宗三左文字はどんな反応をするだろう。
 想像しようとするが思いつかなくて、少年はゆるゆる首を振った。
 これが昔馴染みの打刀であれば、容易に思い描けるのに。
 藤色の髪の歌仙兼定は、今頃台所で、包丁片手に奮闘しているに違いない。畑仕事が終われば一度覗きに行こうと決めて、小夜左文字は先ほど石を捨てた場所まで戻った。
 小さな塔と化しているそれらを一瞥し、奥に続く林を覗き込む。
 乱藤四郎は土中から出て来た木の根を捨てに行った、と聞いている。となれば行き先は林の方か、屋敷で出た塵芥を燃やす焼き場のどちらかだ。
 そして焼き場は、一期一振が耕していた場所からかなり離れている。
 そういう点を考慮すれば、林の中に入ったと思って間違いない。
 あまり奥に行き過ぎると、猪が出る。狼も、数は少ないが、山の方に生息していた。
 そういう野生動物と遭遇したら、危うい。野良仕事中は邪魔になるからと、彼らは刀を携帯していなかった。
 大丈夫だとは思うが、懸念は消えない。嫌な予想を噛み砕き、鼻の頭を親指で弾いて、小夜左文字は下草が伸びる林へと踏み出した。
「こっちには、あまり来たことがないな」
 屋敷の南に広がる庭は広大だが、今剣と一緒に探索を繰り返し、地形は大雑把に把握していた。しかしこちらの雑木林となると、屋敷から距離があるのも手伝って、あまり立ち入ったことがなかった。
 そもそも、訪ねていく理由がない。薪拾いは別の場所で間に合っているし、わざわざここまで足を運ぶ必要はなかった。
 好奇心を擽られ、突き進んだのか。
 乱藤四郎の心境を読み解こうと試みたが、なかなかに難しかった。
「まあ、いい」
 彼が何を思い、どんなつもりで皆の元を離れたのかは知らない。正直、どうでも良かった。
 さっさと用件を済ませ、仕事を終えて、屋敷へ帰ろう。
 決心を新たに大きな一歩を刻んで、小夜左文字は長身の常緑樹を仰ぎ見た。
 枝打ちされておらず、幹が変な方角に曲がっていた。表面にびっしり蔦植物が絡みついて、張り出た木の根が邪魔だった。
 平らな場所が少なく、歩き辛い。
「ちっ」
 思わず舌打ちして、短刀は苔が生えている木の幹を叩いた。
 整地されていない、自然のままの森に苛立ちが募る。乱藤四郎の姿は影も形も見えなくて、予想を違えたかと、不安が胸を過ぎった直後だ。
 微かに声が聞こえた気がして、小夜左文字は反射的に伸びあがった。
 爪先立ちになり、地表から突き出ていた木の根に飛び乗った。低い背を補って目を凝らし、木々の間に見える光に眉を顰めた。
 息を吸えば、ほんのり甘い。
 堪らず舌なめずりして、小夜左文字は高い場所から飛び降りた。
 十歩とかからなかった。
 密集する木々を抜けて突き進めば、不意に道が開け、逆に躓きそうになった。
 目の前がぱあっと明るくなり、光に溢れる世界に唖然となった。総毛立って立ち尽くして、少年は瞠目し、凍り付いた。
「ふんふ~ん、ふふ~ん」
 前方では尋ね人が呑気に鼻歌を奏で、地面に座り込んでいた。鮮やかな新緑の中に身を置いて、両手いっぱいに色とりどりの花を摘んでいた。
 そこは文字通り、花畑だった。
 林の中に、忽然と現れた。蜜蜂の羽音が耳朶を掠め、小夜左文字はハッと息を呑んだ。
 硬直していた四肢に電流を流し、瞬きを繰り返して呼吸を整える。鼓動は大きく弾んで飛び回り、見開いた目の奥がちかちかした。
 こんな場所が、屋敷のすぐそばにあった。
 全然知らなかったと愕然として、彼は夢かと疑い、頬を抓った。
「痛い」
 爪で皮膚を抉り、引っ掻いた。痛覚はきちんと反応しており、これが現実で間違いなかった。
 およそ八畳の空間に、花が咲き乱れていた。頭上を仰げばこの辺りだけ木々が途切れ、青空が広がっていた。
 緑の雑草に紛れ、紅紫色の花が背を伸ばしていた。形状は水面に咲く蓮に似ており、その小型版といったところだった。
「蓮華草か」
 踏み潰さないよう出来るだけ避けるが、全部は無理だ。
 地面が見えないくらいびっしり生えている草花に目を眇め、小夜左文字は鼻歌を止めた乱藤四郎に肩を竦めた。
「なにをしている」
「あれ、小夜。どうかした?」
 要らないものを捨てに出た筈なのに、こんな場所でなにをしているのか。放っておけば勝手に分解され、土に戻る木の根は見当たらず、代わりに少年の頭上には、花で作った冠が載せられていた。
 蓮華草を摘んで、花茎を繋げて作ったらしい。
 見た目に寄らず器用な短刀に、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
 折角探しに来てやったのに、当人がこれでは報われない。
 心配するだけ無駄だった。落胆して、藍の髪の短刀は己の額を叩いた。
「一期一振が探していた」
「ええ? いち兄が?」
 項垂れながら呟けば、声を拾った少年が大袈裟に叫んだ。甲高い声を上げ、目を丸くして遠くを窺い見た。
 兄が来るのではないかと一瞬期待して、予想が外れてがっかりと肩を落とす。両手は膝に落ち、立ち上がるまで結構な時間が必要だった。
 その頃には小夜左文字も、彼の傍へと辿り着いた。周囲には千切れた花が散乱し、無残な有様だった。
 物言わぬ植物とはいえ、種を遺そうと懸命に生きている。それをこんな風に扱うのは、命に対してあまりにも失礼だった。
 もっとも乱藤四郎は、気にしていない様子だった。作りかけの花輪を手に頬を膨らませ、指を動かし、残りを手早く編んで行った。
「ちぇ。もうそんな時間かあ」
 悪びれる様子はなく、不満を隠そうともしない。図々しいというか、肝が据わっているというのか、愛らしい外見の割に豪胆だった。
「心配していた」
「うん、分かってる。あとちょっとだから。えっと、これをこうして、こう……」
 皆のところへ戻るよう、繰り返し促す。しかし乱藤四郎は抗って、手元に意識を集中させた。
 小夜左文字に見向きもせず、摘んだ花を繋げていった。葉を落とした花茎を捻り、並べて、簡単に解けないよう絡めていった。
 迷い無い手捌きで、端と端を組み合わせる。
 ようやく完成を見た花冠は、彼が被っているものより一回り大きかった。
「でーきた。へへ。どう、見てよ小夜。可愛いでしょ?」
「僕に訊かれても……」
 使った花の数も倍以上で、輪は太めで、がっしりしていた。そんな品を手に問いかけられて、花に興味などない少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 可愛いかどうかなど、分からない。見栄え良く出来ているとは思うが、小夜左文字は欲しいと思わなかった。
 困り果てていたら、乱藤四郎はぶすっと頬を膨らませた。期待した返事が得られなかったと拗ねて、憤慨して煙を噴いた。
「いいよー、だ。いち兄にあげようっと」
 あっかんべー、と舌を出し、瞬時に気持ちを切り替えた短刀が手元を見ながら嘯く。
 正直一期一振にこれが似合うとは思えないが、あの男のことだから、きっと喜んで受け取るだろう。
 光景は易々と想像出来た。
 誰もが羨む仲睦まじいやり取りに、劣等感がチクリと疼いた。
 胸の辺りがもやっと来て、小夜左文字は口を噤んだ。浅く唇を噛んで痛みを堪え、駆け出した短刀を追って視線を巡らせた。
 花畑の真ん中に佇み、去りゆく背中を黙って見守る。
 乱藤四郎は一度として振り返らず、小夜左文字の存在など忘れているようだった。
 彼の頭の中は、花冠を兄に渡すことでいっぱいだ。
 耐えきれずかぶりを振って下を見れば、試作品だろうか、花冠の残骸が幾つか残されていた。
 何度も捩じったのだろう、花径はぐにゃぐにゃに歪んでいた。爪が食い込んだらしき跡から汁が滲み出て、手に取ればぬるっと滑った。
「こんなものの為に」
 折角綺麗に咲いた花を、己の欲を満たすためだけに摘んで、荒らした。
 蓮華草は植えておけば良い肥料になるし、薬草にもなる。癖があるものの食べられるし、使い道は多岐に渡った。
 花冠を作って遊ぶ植物ではないのだ。それを、無造作に扱われた。
 腹立たしさはなかなか収まらず、捨て置かれたものを踏み潰したくなった。
 それを理性で引き留めて、小夜左文字は片膝を折り、落ちていたものをひとつ、拾った。
「茎を、巻きつけているだけなのか」
 作っているところを横で見ていたが、早過ぎて詳細は分からなかった。どうやってあんな風に輪にしていたのか気になっていただけに、謎が解けて、少し胸がスッとした。
 紐を使っているわけでもなく、茎を縛っているわけでもない。
 あくまで巻き付け、絡ませているだけと知って、少年は感嘆の息を吐いた。
 花を無駄にしたという苛立ちと、器用さへの感心が拮抗していた。好奇心がむくりと首を擡げ、自分でも作れるかと疑問が沸いた。
 時間の無駄と嘲笑いつつ、一度くらい試しても損はない、と天秤が揺れ動く。
 膝をぶつけ合い、逡巡して身を捩った。
「あっ」
 最中に持っていたものを捻ってしまって、小夜左文字は小さく悲鳴を上げた。
 花冠の茎が外れ、繋がっていたものが一瞬のうちに崩壊した。慌てて握りしめるが間に合わず、半分近い花がボタボタと地面へ落ちた。
 残った部分も、きつく絡み合っていたものが緩み、原形を留めない。仕方なく手放せば、窮屈さから解放された蓮華草が、花茎を伸ばしながら足元に沈んでいった。
 自分が摘んだわけではないのに、この手で散らした気分になった。少なからず衝撃を受けて、暫く身動きが取れなかった。
 朽ちた花は哀れで、精彩を欠いた。冠の形を成していた時の方がよっぽど鮮烈で、輝いて見えた。
 小夜左文字が壊した。
 花をより美しく魅せていたものを、自ら潰してしまった。
「直せる、か?」
 無意識に呟いていた。自問自答して、小夜左文字は地面に腰を下ろした。
 乱藤四郎が座っていた場所に身を置いて、散乱する花を集めた。尻端折りを解いた着物の裾に並べて、記憶を頼りに、見よう見まねで繋げようとした。
 だが。
「く、このっ」
 なにが悪いのか、芯となる花にぐるぐる巻き付けた花茎は直ぐに緩み、解けてしまった。
 ひとつ成功しても、次が巧くいかない。押さえ込むのに必死になっていると、巻き付けるのに手間取って、巻き付けに集中していると、押さえこみが疎かになった。
 左右の手に異なる動きを、しかも同時にさせるのがこんなにも難しいとは。
 刀を手にした時は無意識にでも出来ることが、花を手にした途端、情けないくらいに出来なかった。
 こんなにも不器用だったのかと驚き、密かに傷ついた。
 簡単に見えて、想像以上に難しい。何度も失敗して、ちっとも上手くいかなかった。
 蓮華草は文句も言わず、何も語らない。黙って茎を折り、花弁を散らす少年を見詰めるのみだ。
 だからこそ花を傷つける一方の自分が、歯痒くてならなかった。
「どうして、こんな……」
 乱藤四郎は手間取ることなく、すいすい編んでいた。草鞋を編むのと何が違うのか、さっぱり分からなかった。
 手本となる少年の指捌きを思い出そうとするけれど、集中して見ていなかった分、記憶は曖昧だ。失敗作らしき残された花輪も、外から眺めるだけでは構造が分からなかった。
 分解して調べたいところだけれど、戻せなくなるのが辛い。あそこで粟田口の短刀を引き留めなかったのを後悔して、小夜左文字は下唇を噛んだ。
 爪の隙間に花の汁が染み込んで、指先は緑に染まっていた。試しに嗅げば痛烈な青臭さで、春菊を湯がく際の数倍の濃度だった。
 堪らず鼻を摘むが、その手だって蓮華草を散々触ったものだ。泣きっ面に蜂とはこのことかと涙を呑んで、少年は嗚咽を漏らし、花冠の残骸に見入った。
 捩じ切れた繊維が薬指の爪に引っかかり、当て所なく揺れていた。散らばる花は散々弄り倒された結果、色がくすみ、花茎は複雑骨折を起こしていた。
 深緑色の折れ目が無残で、花はどれも俯いていた。どうして作り直そうなどと、無謀な挑戦をしたのか、後悔ばかりが胸に渦巻いた。
「こんなの、出来たって」
 花冠が作れなくても、刀としての価値は下がらない。戦場に出るには不要なもので、ましてや仇討を願う身にとっては。
 そんな無用の長物に、夢中になった。
 必死になった。
「なにをやっているんだ、僕は」
 時間を無駄にした。木乃伊取りが木乃伊になった。
 畑仕事は、どれくらい進んだだろう。短刀ひと振りが居なくなったところで、進行速度にそう違いが出るとは思えなかった。
 結局は、その程度の存在だ。鼻の頭を擦り、自嘲気味に笑って、藍の髪の少年は熱くなった目頭を押さえた。
 姿の見えない乱藤四郎を案じ、一期一振は右往左往していた。
 その後入れ替わるようにして小夜左文字が居なくなったのに、誰も探しに来ない。
「ああ。ひとりは……落ち着くよ」
 心に隙間風が吹いた。強がりを言って目を瞑って、少年は抓み取った蓮華草を口元に持って行った。
 鼻から息を吸えば、微かに甘い香りがした。後日種を集めに来る事にして、いい加減戻るべく、起き上がろうと身を揺らした。
 ザリ、と土を踏む音がした。
 殺気めいたものを感じてハッとして、短刀は反射的に背筋を伸ばした。
 蜜蜂が空を撫でた。羽音を追いかけるように首を巡らせて、直後。
「あぁ……」
 安堵に膝を折った男を見つけて、彼は五度、瞬きを繰り返した。
「本当に、居た」
「歌仙、どうして」
 独白が聞こえた。頭を抱え込み、木の根元に蹲るのは、藤色の髪の打刀で間違いなかった。
 白の胴衣に袴を着け、襷は外していた。但し邪魔になると梳き上げた前髪はそのままで、落ちて来ないよう結ぶ幅広の紐も、綺麗な輪を保っていた。
 問いかけに、答えはなかった。目を丸くしたまま総毛立って、小夜左文字は思いがけない来訪者に唇を戦慄かせた。
 指の隙間からちらりと覗かれ、背筋が粟立った。歌仙兼定は二度、三度と肩を上下させてから起き上がり、大股で花畑を横断し始めた。
 鮮やかに咲き誇る蓮華草を一瞥し、躊躇なく踏み潰した。それで我に返り、小夜左文字は膝に山積み状態だった草花を払い落とした。
 急いで身なりを整えて、打刀との距離がなくなる前に両手は背中に隠した。緑に染まる指先を腰の位置で捏ねあわせて、目を泳がせ、視線は合わせなかった。
「小夜」
「う、いや、……すまない」
 畑仕事を放棄して、花冠作りに勤しんでいた。それは決して褒められた行為ではなく、断罪されてしかるべきものだった。
 乱藤四郎を叱る権利など、自分にはなかった。その反省も含め、先回りをして謝罪をすれば、歌仙兼定は含みのある表情で目を眇めた。
「おや。すると君は、謝らなければいけないことをしていたのかい?」
「ぐっ」
 顎を撫で、意地悪く声を潜める。
 嘲弄を内に隠した囁きに、小夜左文字はビクッと身を震わせた。一瞬のうちに青くなり、脂汗をだらだら流した。
 歌仙兼定の主な仕事場は、台所だ。食事当番として朝から晩まで、忙しく動き回っていた。
 そんな彼が、屋敷から遠く離れた場所に居る。ちょっと散歩に出て迷い込んだ、という訳でないのは明白だ。
 彼は此処に来た時点で、「本当にいた」と呟いた。即ち誰かから、小夜左文字が林の中の花畑にいると、教えられたに他ならない。
 予想はついた。
 先回りをし過ぎて、墓穴を掘った。
 蓮華草の海に沈む少年を見下ろして、歌仙兼定はカラカラと喉を鳴らした。
「一期殿が、小夜が居ないと騒いでいてね」
「……」
「探索隊を組むべきだと言いだしたから、僕が引き受けたんだよ。乱藤四郎に、感謝しないと」
「やっぱり」
 弟が無事戻って来たはいいものの、農作業を終えて片付けの準備に取り掛かったところで、今度は別の短刀が居ないと判明した。心配性の太刀は案の定騒ぎ出して、江雪左文字たちに伝えに行こうとして、それを歌仙兼定が阻止した格好だ。
 一期一振の過保護ぶりには、呆れを通り越して感動すら覚える。
 想像した通りだったと額を覆って、小夜左文字は肩を落とした。
「あとで、謝りに……いく」
「そうだね。それがいい」
 但し気にしてくれたのは嬉しいし、気付いて、心配してくれたのは有り難かった。
 ささくれ立っていた心が少しだけ和いで、ぽっと光が灯ったようだった。
 淡い輝きに目尻を下げて、同意してくれた歌仙兼定を仰ぎ見る。ようやく目が合った男は小首を傾げ、それからひと呼吸置き、ストン、とその場に腰を落とした。
「歌仙」
 しゃがんで、蹲踞の体勢を取った。膝は肩幅に広げ、頬杖をついて覗きこまれた。
「それで、小夜」
「なんだ」
 戸惑っていたら、柔らかく話しかけられた。目を眇めて楽しそうに笑って、もう一段階姿勢を低くし、野草に埋もれる花を一輪、抓み取った。
 既に引き千切られていた、淡い赤紫色の花を。
「花冠は、完成したのかい?」
「――っ!」
 それをくるくる回して、語尾を上げて問いかけられた。
 矢張り聞いていたかと赤くなって、少年は仰け反り、座ったまま距離を取った。
 仰向けに倒れるぎりぎり手前の角度を維持して、腹筋をぷるぷるさせながら瞠目する。真っ赤に染まった顔を隠そうとすれば、当然緑に濡れた指先が人目に晒された。
 爪の輪郭がくっきり浮き上がり、指の腹も良い具合に色付いていた。言葉でどれだけ否定したところで、散乱する蓮華草という物証を突き付けられては、逃げ切るのは不可能だった。
 王手を掛けられた。
 今すぐ逃げ出したい衝動に駆られて、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
 完成したか、否かは、一目瞭然だ。
 だというのに敢えて問い質した打刀は、相当性格が悪い。昔は純真で可愛らしかったのに、どこでひん曲がってしまったのだろう。
 知らぬ間に、背を抜かれていた。
 そういう恨みも込めて上目遣いに睨みつければ、歌仙兼定は呵々と肩を揺らし、頬杖を解いた。
 抓み持っていた花を嗅いで、おもむろに腕を伸ばした。
「なに」
「うん、可愛い」
 結い上げた髪を揺らされて、咄嗟に喉に力を込めた。首を竦めて振動をやり過ごせば、素早く腕を引っ込め、男が満足げに頷いた。
 なにをされたか、見えなかった。怪訝にしつつ頭を触れば、指先を覚えのないものが掠めた。
 歌仙兼定の手に、蓮華草はなかった。もしや、と触覚を頼りに探って、小夜左文字はがっくり肩を落とした。
「なにするの」
「とてもよく似合っているよ」
「歌仙」
 緋色の髪紐に、蓮華草が添えられていた。落ちないよう結び目に突っ込まれて、茎の先は髪に突き刺さっていた。
 こんなことをされても、嬉しくない。褒められたところで、反感が強まるだけだ。
 それなのに、外せなかった。
 無邪気に笑う打刀を間近に見ていたら、嫌だと思う気持ちは砂となって崩れ落ちた。
 馬鹿にするなと、怒る気力も沸かない。ドッと疲れが押し寄せて来て、もうどうでも良くなってしまった。
「まったく……」
 ただ、やられっ放しは性に合わない。溜息を吐いて顔を覆って、小夜左文字は足元から花を一輪、拾い上げた。
「小夜?」
「動くな」
 尻を浮かせて姿勢を高くして、歌仙兼定に身を寄せる。打刀は咄嗟に逃げようとしたが、言葉で制し、許さなかった
 まだ綺麗に咲いている花を上にして、萎びている茎を摘む。丸みを帯びた先端を指で潰して平らにして、藤色の髪を掬うように差し入れる。
 平織の紐に絡ませて、結び目の丁度真ん中に花が来るよう調整した。先端は輪にした茎の内側に潜ませて、強く引っ張り、余った部分は髪の中に忍ばせた。
「よし」
「小夜……」
「花冠だ、歌仙」
 我ながら、巧く出来た。失敗続きだった冠作成の技術が、こんなところで生きた。
 胸を張り、自信満々に言い放つ。
 眼前の男は最初こそ不満そうだったが、得意げな顔をする短刀を眺めているうちに、考え方を変えたようだった。
 ふっ、と脱力して笑い、目を細めた。困ったような、照れたような顔をして、最後に現れたのは歓喜だった。
「ありがとう」
「礼には及ばない」
「これは、大事にしないといけないね」
「ああ。勝手に外したら、許さない」
 嬉しそうに礼を言って、打刀はゆっくり立ち上がった。確かめるように花をそっと撫でて、微笑み、短刀へ利き手を差し出した。
 迷うことなく掴んで、小夜左文字は腹に力を込めた。引っ張る男の力を利用して起き上がり、衣服に付着する草花を払い落とした。
「良く似合うぞ」
「小夜もね」
「……外して良いか」
「不公平だ」
 嫌味を込めて褒めれば、自分の頭にも花があるのを思い出した。咄嗟に抓んで引き抜こうとしたら、歌仙兼定は声を荒らげ、口を尖らせた。
 花で飾った刀など、本来なら有り得ない。
 だが刀の付喪神が現身を得た本丸は、有り得ないことの宝庫だった。
「戻るか」
「そうだね。皆、心配している」
 苦笑を漏らし、小夜左文字は呟いた。傍らの打刀も鷹揚に頷き、鮮やかに咲き誇る花を一輪、身を屈めて摘み取った。
 流れるような仕草だった。節くれだった指で優しく包み込み、顔の手前へと持って行った。
「良い匂いだ」
「どうする気だ」
「折角だから、飾ろうと思ってね。屋敷の中も、これで一層、春らしくなる」
「ああ……」
 蜂や蝶が好む香りを楽しみ、回答は明朗だ。にこやかに告げられて、考えもしなかった小夜左文字は緩慢に頷いた。
 屋敷のあちこちには、冬の名残が見受けられた。
 片付けを待つ火鉢、閉められたままの雨戸。綿をたっぷり入れた褞袍に、皸対策の軟膏など等。
 それらが居座り続ける限り、冬が終わったとは言い切れない。屋内は依然暗く、どうにも辛気臭かった。
 そこに美しく咲く花を一輪、飾ったら。
 きっとそこから華やかさが広がって、褪せた景色に色が戻るだろう。
 想像したら、胸が弾んだ。
 楽しみが出来て、なんだか嬉しくなった。
「薬研藤四郎にも教えてあげよう」
「なぜだ?」
「解熱剤に使えるんだ。若芽は食べられるよ。いくらか摘んでいくかい?」
 小さく嘯いた声に反応すれば、男はすぐに教えてくれた。
 小夜左文字が教えなかったこと、そして小夜左文字が知らなかったことを、知らないうちに仕入れていた。それは今に始まったことではなく、本丸で再会して以来、ずっとだった。
 離れていた時間がそれだけ長かったと、密かに思い知る。
「歌仙」
「なんだい?」
「歌仙は、冠は……作れるの、か」
「さすがにそういうのは、やったことがないねえ」
「そう」
 歩き出した男に並び、胴衣の袖を引く。問われた男は笑いながら言って、不思議そうに首を傾げた。
「小夜?」
「そうか。歌仙は、作れないか」
 花冠は、意外に難しい。簪代わりに髪に挿すしか出来なかった打刀を笑って、短刀は太い木の根を飛び越えた。
 負けっ放しは、癪だった。知らなかったことを覚える時間は、幸いいくらでも用意されていた。
 含みを持たせた台詞に戸惑い、歌仙兼定が眉を顰める。
 首が左右に揺れて、頭上の花飾りが一緒に踊った。
 今はたった一輪でしかないそれを、近いうちに大きな輪にしてみせる。心に誓って、小夜左文字は駆け出した。
 

2016/03/03 脱稿

山里は霞みわたれるけしきにて 空にや春の立を知るらん
山家集 春 7