君が千歳や空に見ゆらん

 可愛らしい子供の笑い声に、騒々しい足音が重なった。
 鬼ごっこの最中なのか、それとも道を急いでいるだけか。ともあれ粟田口の短刀たち数振りが、団子になって走って行くのが見えた。
 開け放たれた襖、そして障子越しに、縁側の景色が望めた。木目が美しい廊下の真ん中で立ち止まって、小夜左文字は視界を駆け抜けた影に肩を竦めた。
 今日は粟田口の長兄である一期一振に出陣はなく、遠征の任務も入っていないという。だからこそ短刀たちは大喜びで、朝から兄の周囲で飛び跳ねていた。
 その兄たる太刀も、弟たちに取り囲まれて嬉しそうだった。騒がしいだろうに嫌な顔ひとつせず、纏わり付かれても拒まなかった。
 甲高い笑い声は遠くまで響き、間延びしてなかなか消えない。
 耳にこびりついて、簡単には離れなかった。
 あれは誰の声かと考えて、残された少年は天井を仰いだ。
 部屋越しに一瞬見えた小さな影は、黒に金の彩り艶やかな外套を羽織っていた。
 記憶が確かなら、あれは一期一振愛用の品だ。いつも肩から背に向かって垂らして、戦闘の際には優雅にはためかせていた。
 それを、どうして短刀が羽織っていたのか。
「前田藤四郎のように見えたが」
 先頭を行くおかっぱ頭の短刀も、普段から白色の短い外套を装備していた。後を追っていたのは秋田藤四郎と、平野藤四郎であり、僅かに遅れて五虎退が駆けて行った。
 部屋を挟んで反対側の通路にいた小夜左文字には、誰も気が付いていなかった。短刀たちは兄の具足を借りて、兄の真似をして遊ぶのに夢中だった。
「似合わないのに」
 もっとも彼らがどれだけ憧れようと、短刀は太刀になれない。
 他より小柄とはいえ、一期一振は太刀の端くれだ。その身丈に合わせた装備品が、短刀に適するわけがなかった。
 それなのに馬鹿な真似をして、何が面白いのだろう。
 呆れて、ため息が出た。深く肩を落として、小夜左文字は手に持つものを抱え直した。
 もう少しで落とすところで、危なかった。ホッと安堵の息を吐いて、少年は右から左へ唇を舐めた。
 折角綺麗に折り畳めたのだから、最後までこの形を維持したい。
 どうせ近日中に広げられ、台無しになると分かっていても、上手く出来たのは嬉しかった。
 手にもつ白の肌着は、いずれも彼の兄たちのものだ。ふた振り分でどれも大きく、丈は長かった。
 もし小夜左文字がこれを羽織れば、裾をかなり擦ることになる。平安朝の女御ではあるまいに、ずりずりと引きずって歩くのは、かなりみっともなかった。
 裃のように出来れば良いが、肌着なので柔らかくて、無理だ。肩を威張らせ、居丈高に歩く自分も想像出来なくて、短刀は早々に首を振った。
 くだらない妄想劇を終わらせて、兄たちが暮らしている区画へと向かう。静かな環境を好む太刀と打刀は、昼夜問わず騒がしい母屋ではなく、後から増築された離れで生活していた。
 歴史修正主義者が送り込む遡行軍に対抗する為、審神者なる者が刀剣男士を集め始めてから、かなりの時が過ぎた。
 最初は戦力も微々たるものだったが、今ではすっかり大所帯だ。同じ釜の飯を食う仲間が増えて、総数は五十に至ろうとしていた。
 何度か増改築を繰り返した屋敷は、完全に原形を失っていた。用途不明の部屋もいくつかあって、迷路に近い空間もあった。
 迷い込んだら、簡単には出られない。
 ここで暮らして長い小夜左文字でさえ、時に道を見失い、戸惑うことがあった。
 曲がり角を間違えないよう注意して、小走りに廊下を巡る。途中、前を通り過ぎた台所からは、美味しそうな良い匂いがした。
 夕餉の準備が、始まったのだろう。戸の隙間からは、忙しそうにする背中が見えた。
 これが終わったら、手伝いに来よう。
 心の中で頷いて、短刀は通い慣れた道を進んだ。
 肌着は今朝、彼が洗濯し、物干しに並べて干したものだ。先ほど乾いていたので回収して、一枚ずつ丁寧に畳んで来た。
 本来は持ち主が自ら洗濯するのが、本丸の決まりだった。しかしこの約束は当初から形骸化しており、兄たちの衣服を洗うのも、乾かすのも、末っ子の仕事だった。
 好きでやっていることだから、嫌だと思ったことはない。そもそも兄たちは――特に長兄は浮世離れしたところがあって、洗濯も苦手だった。
 華奢な見た目に反し、あの男は意外に力が強い。勢い余って引っ張り過ぎて、何着も破いて駄目にする姿を見かける度に、なんとも言えない気分になった。
 一着洗うのも、三着洗うのも、手間にそう違いはない。ならば自分がまとめて引き受けると言って、我を押し通したのはかなり前だ。
 周囲からは呆れられたが、応援もされた。兄弟間のわだかまりを小さくする、良いきっかけになれば良いと、背中を押してもらえた。
 その願いが叶ったかどうかは甚だ怪しいが、彼らが本丸に来たばかりの頃に比べれば、関係性は向上している。短いながらも会話が続くようになって、引き籠り気味だった兄たちも、自らの意志で外へ出る機会が増えた。
 特に長兄の江雪左文字は、畑仕事がお気に入りだ。土を耕し、泥にまみれるのを喜びとして、頼まれなくても鍬を握る日々だった。
 だから日中、彼が離れに居ることは少なくなった。
 文机の前に座り、写経に勤しむ背中に呼びかけるのは、気が引けた。あの緊張から解放されたのは、正直とても有難かった。
「あにさま、は」
 今日も今日とて、長兄は野良仕事に精を出している。
 もうひとりの兄はどうしているか想像して、少年は渡り廊を駆け抜けた。
 小さな池を持つ中庭の正面に、左文字のふた振りが暮らす部屋はあった。六畳ほどの個室で、左が江雪左文字、右側が宗三左文字の部屋だった。
 内部は襖で繋がっており、出入りは自由だ。縁側から続く障子は開いており、風が通るようになっていた。
「いない」
 先に奥側から済ませようと覗き込めば、室内は薄暗く、動くものの気配はない。内部は綺麗に片付けられて、髪の毛一本落ちていなかった。
 布団は畳まれ、長持の上に置かれていた。文机も整理が行き届き、硯箱はきちんと蓋が閉められていた。
 煙管盆が足元に置かれ、居心地悪そうに身構えていた。手前に放置された座布団は薄く、真ん中が凹んでいた。
 衣桁に薄桃色の衣が掛けられ、袈裟は折り畳まれていた。化粧箱がその傍に鎮座し、抽斗が少しだけ飛び出していた。
 静まり返った空間に、安堵と寂しさが飛び交った。複雑な感情に口を尖らせて、小夜左文字は運んできた白衣をふたつに分けた。
 うち、上に積んでいた方を袈裟の上に置き、表面をそうっと撫でた。埃などないのに払う仕草をして、やり遂げた気分で頷いた。
「よし」
 どうやら次兄も、どこかで時間を潰しているらしい。恐らくへし切長谷部のところと推測して、彼は踵を返し、敷居を跨いだ。
 会えなかったのは残念だが、本丸で一緒に暮らしているのだ。その気になれば、いくらでも顔を見に行けた。
 感謝の言葉が欲しかったわけでもないし、これはこれで構わない。
 気を取り直して廊下へ戻って、短刀は隣室を覗き込んだ。
 こちらもまた、もぬけの殻だった。
 江雪左文字が畑に居るのは知っていたから、特別驚くことはない。落ち込み、がっかりすることもなく、左文字の末弟は長兄の部屋に身を移した。
「失礼いたします」
 一応頭を下げて、断りを入れた。許可を待たずに姿勢を正し、ひょい、と境界線を飛び越えた。
 畳の縁を踏まないよう進んで、衣桁の前まで行く。薄墨色の衣の上には、裏面が小札で埋め尽くされた袈裟が掛けられていた。
 刀は床の間に飾られて、異様な存在感を放っていた。それを操る現身がたとえ離れた場所にあろうとも、本体とも言えるものは冷たい眼差しをして、来訪者を観察している風でもあった。
 試されている、とも感じられた。ひとりきりではあまり長居したくなくて、小夜左文字は身震いすると、今朝方託された白衣をそうっと、その場に降ろした。
 形が崩れないよう丁重に扱い、息を殺して、衣擦れの音ひとつ立てない。慎重に膝を折って、手放した瞬間に背筋を伸ばした。
 誰もいないというのに、自然と姿勢が改まった。背中で大きな蝶々結びが揺れて、髪を結う紐も軽やかに跳ねた。
 仰々しいまでに畏まり、緊張の面持ちのまま縁側へ戻ろうとする。
「あ」
 右足を軸に身体を反転させようとして、途中できらりと輝くものが目に入った。思わず首をぐりん、と引き戻して、少年の視線は机上に釘付けになった。
 江雪左文字の部屋は、宗三左文字の部屋以上に物が少ない。執着心を棄て、質素倹約を心がける刀には、茶器や花器、書物を手当たり次第買い漁る者の気持ちなど、永遠に分からないだろう。
 そのうち、兄に説教して貰おうか。
 同居している打刀の収集癖を思い出しながら、短刀はそろり、右足を滑らせた。
 摺り足で進み、目的地の手前でストン、と腰を落とす。
 白か灰色ばかりの暗い部屋の中で、文机に無造作に置かれたそれは、明らかに異質だった。
「数珠」
 綺麗に丸く削られた石を繋ぎ、輪にしたものだ。傍には収めていたであろう桐箱が、蓋を開けた状態で放置されていた。
 最も大きな石の先に小さな石が連なって、その先には濃紺の房が付随していた。瓢箪の形で置かれており、手垢はついておらず、まだ真新しかった。
「あにうえの、数珠?」
 左文字兄弟は各々袈裟を装具としており、数珠もまたそのひとつだった。特に兄ふた振りに関しては、日頃の生活でも手放すのは稀だった。
 四六時中身に着けて、仏の加護を請うている。勿論、農作業に勤しんでいる時も同様だ。
 だというのに、その数珠が、ここにある。
 しかも使われている石は、小夜左文字が今まで目にしたことのないものだった。
「新調されたのだろうか」
 黒を基本として、金に近い明るい茶色が入り乱れていた。混じり合い、融け合って、優雅に調和し、見事な仕上がりだった。
 好奇心が擽られて、恐る恐る手を伸ばした。下から掬い上げるように持ち上げてみれば、見た目通り、ずっしり重かった。
 珠ひとつひとつが大きく、見事だった。虎琥珀を惜しげもなく使用しており、光に透かせばより美しく輝いた。
 いかにも高そうで、価値がありそうな一品だった。歌仙兼定に見せたら、跳び上がって喜びそうでもある。
「綺麗だ」
 掛け値なしにそう思えて、本音はするりと零れ落ちた。顔の前に高く掲げて、小夜左文字は兄の数珠に目を輝かせた。
 凛とした表情が似合う長兄が、これを左手に掛けている。その姿は想像が容易で、しかも非常に美しかった。
 重厚で、どっしりとして、それでいて優美。
 江雪左文字の名に相応しい数珠と、手放しで賞賛出来た。
「すごい」
 これを持つ兄を、是非とも見てみたかった。感嘆の息を漏らして、小夜左文字は艶やかな石の表面を撫でた。
 彼の手に、これはかなり大きい。経文を唱える際、手繰って行くのも一苦労だ。
 だとしても、誘惑には逆らえない。好奇心が擽られ、甘酸っぱい感情が胸の内に広がった。
 胸の前に虎琥珀の数珠を下ろして、少年は首を竦め、素早く左右を見回した。
 勿論、部屋の中には彼しかいない。
 分かり切ったことを今一度確かめて、彼は右手で数珠を垂らし、左手をその輪に向かって動かした。
「おや、そこに――」
「っ!」
 刹那。
 耳に飛び込んできた低い声に戦き、小夜左文字は膝を揃えて跳び上がった。
 どきーん、と跳ねた心臓が飛び出しそうになって、慌てて口を閉じて飲み込んだ。全身の汗腺から脂汗が噴き出して、瞳は虚空を彷徨い、四方を飛び回った。
 耳元で銅鑼が喧しく鳴り響き、混乱した思考は煙を吐いて役目を放棄した。泡を噴いて気絶したくなって、蟹の気分が味わえた。
「小夜、ですか?」
 鼓動は騒々さを増し、耳鳴りが酷い。呼びかけにも上手く反応出来ず、咄嗟に握りしめた両手は胸元へ深く食い込んだ。
 背中を丸め、猫背になった。
 目を白黒させて、短刀は冷や汗を垂らしながら恐る恐る振り返った。
「どうか、しました……ああ」
 身を竦め、青くなっている弟を前に、江雪左文字は眉を顰めた。洗ったばかりで、まだ濡れている手を前後に揺らして、思案気味の細い瞳は瞬時に脇へ流れた。
 袈裟の足元に置かれた白衣に、感じるものがあったようだ。納得だと首肯して、その上で、彼は文机の前の末弟に首を捻った。
 洗濯ものを届けに来ただけなのに、どうして衣桁とは反対側に居るのだろう。
 不思議そうに見つめてくる眼差しに、小夜左文字の全身に鳥肌が走った。
「しっ、失礼仕ります!」
 兄の数珠が綺麗だったので、見惚れていた。手に取ってその重みを体感して、兄が装備している姿を想像していた。
 正直に本当のことを言えたなら、どれだけ良かっただろう。
 だが生憎、小夜左文字はそこまで素直ではなかった。粟田口の短刀たちのように、行儀よくはなれなかった。
 動揺し、動転していた。
 焦った口から飛び出したのは、退室の挨拶だった。
 勢い任せに頭を下げて、障子のところで立ち止まっている兄の脇を駆け抜ける。ドダダダダ、と足音を五月蠅く響かせて、礼儀などお構いなしだった。
 見咎められて、怒られようとも、あの場に居続けるよりは百倍良かった。一刻も早く逃げ出して、遠くへ離れてしまいたかった。
 恥ずかしかった。
 兄の装備に憧れるような、未熟な刀と知られたくなかった。
 耳の裏まで真っ赤にして、全力で走った。道中誰かとぶつかりかけたが、急いでいたのもあり、謝らなかったし、顔すら見なかった。
 寸前で衝突を回避して、縁側から飛び出そうになった身体は、柱を掴むことでどうにか支えた。遠心力を利用して角を曲がって、闇雲に屋敷の中を駆けた。
 どこをどう進んだかなど、まるで分からない。
 気が付けば小さな坪庭に出ていて、彼は目を丸くし、肩で息を整えた。
「どこだ、ここは」
 半畳ほどの広さに白い玉砂利が敷き詰められて、中央には苔生した手水鉢が置かれていた。窪みには雨水が半分ほど溜まっており、枯れ葉が何枚か沈んでいた。
 普段出歩く場所でないのだけは、確かだ。
 心当たりがすぐに出て来なくて、短刀は深呼吸を繰り返し、辺りを見回した。
 明かり取りを目的とした空間を前にして、気持ちも少し落ち着いた。唇を舐めて軽く胸を叩いて、汗でぐっしょり湿っている手をゆっくり開いた。
 ふわりと、栴檀の香りが鼻腔を掠めた。
 先ほどまで兄の部屋にいたから、というだけでは説明がつかない匂い。
 その芳しさに反して、小夜左文字の顔からは一気に血の気が引いていった。
「しま……っ!」
 四肢を戦かせ、悲鳴を上げる。
 瞬きを忘れて見つめる先にあるものは、黒と金が美しい立派な数珠だった。
 虎琥珀が陽光を浴びて、きらきらと輝いていた。
 極楽浄土の趣を感じさせる雅さに、唾を飲む音は自然と大きく響いた。同時にたらりと汗が滴り、乾いた肌を擽った。
 どくり、どくりと鼓動は五月蠅く、眼は乾燥し、充血して真っ赤だった。それでも微動だにせず、小夜左文字は仏像の如く凍り付いた。
 江雪左文字の数珠を、持ってきてしまった。
 突然現れた兄に驚き、置いてくるのを忘れた。掴んだまま離さず、握り締めたままここまで来てしまった。
 そんなつもりはなかったのに、盗んだのと同じだ。いかにも貴重で、高価な品だけに、生きた心地がしなかった。
「ど、ど、どう、し、よう」
 動揺が激し過ぎて、言葉が上手く繋がらない。細切れに音を刻んで呻いて、少年は身を竦ませた。
 丁寧に磨かれた石はどれも艶々して、触り心地は抜群だった。小夜左文字の体温を吸ってか、冷たくはなく、盗人相手にも対応は優しかった。
「あにうえに、お、お返し、しなければ」
 盗る気は一切なく、動転していて、返すのを忘れただけ。
 正直に告白して頭を下げれば、あの兄のことだ、きっと許してくれるだろう。
 だが、もし許してもらえなかったら、どうする。
 普段は使わず、大事な時にだけ用いる数珠だったら。
 なにか謂れがあり、人目に触れないようにしていたものだったら。
 血に汚れ、罪に穢れた短刀が手にして良いものではなかったら。
 江雪左文字は、滅多に怒らない。どんな時でも声を荒らげることはなく、いつだって静かだった。
 弟である小夜左文字も、殆ど叱られた記憶がない。その代わり、この一年で分かった事がある。
 彼は、見捨てるのだ。
 諦めてしまう。いくら言っても無駄と分かれば、早々に見切りをつけて、二度と見向きもしなくなる。
 それは大声を張り上げ、感情を剥き出しにされることより、よっぽど辛いことだった。
 拳骨で殴られる方が、何百倍も、何万倍も良い。ようやく兄弟らしくなってきたところなのに、振り出しに戻されるのは、絶対に嫌だった。
 だというのに、足が竦んだ。自分が犯した愚に萎縮して、思うように動けなかった。
 兄の数珠は、大きかった。
 精悍で、凛々しく、男らしさに溢れていた。
 羨ましい。
 こんな数珠が似合うような存在になれたら、どんなにか素晴らしいだろう。
「あにうえ」
 心がきゅうっと窄まって、涙が出そうになった。
 俯いて、両手で数珠を掲げて、胸へと押し付けた。
「小夜」
「……はい」
 足音には、随分前から気付いていた。
 観念して振り返って、小夜左文字は深々と頭を下げた。
 紺の作務衣に身を包み、江雪左文字が頬を緩めた。肩を上下させて息を整え、目を眇め、なかなか顔を上げない弟の前へと進み出た。
 走って来たのか、息が切れている。
 泥汚れが残る足指を確かめて、短刀は浅く唇を噛んだ。
「申し訳、ありません」
「なにを、謝るのです」
 苦い唾を飲み、苦心の末に謝罪を述べた。しかし江雪左文字は分かっているだろうに、弟に説明を求めた。
 意地悪で、酷なことをする。
 背筋を伸ばして姿勢を正し、短刀は苦々しい面持ちで手にした数珠を撫でた。
「小夜」
「盗もうと、思ったわけでは」
 小さな手には不釣り合いな、立派な品だった。それを差し出し、少年は顔を伏した。
 左文字の太刀は僅かに眉を顰めただけで、表情は殆ど変らなかった。掠れる小声で弁解した後も同じで、胸の裡は読み解けなかった。
 まるで能面だ。いや、あちらの方がまだ感情豊かかもしれない。
 彼が何を考えているか、全く分からない。共に暮らし始めて一年が過ぎるのに、小夜左文字は兄について、知らないことの方が多かった。
 返事はなく、手の中の数珠もなくならない。
 この後どうすればいいか悩んで、短刀は恐る恐る長兄を窺い見た。
「あに、うえ」
 上目遣いに見上げた途端、ぱあっと視界が広がった。
 江雪左文字は呆れたように肩を竦めて、口角をほんの少し持ち上げた。
「分かって、いますよ」
「あにうえ」
「出したままにした、のが。よくは、ありませんでした」
 声は低く、ゆっくり流れていった。
 少々まどろっこしく感じられる緩やかな口調は、けれど今日に限って、小夜左文字には安心出来るものだった。
 穏やかに告げて、彼は小夜左文字の手に手を重ねた。数珠を受け取るのではなく、弟に握らせて、反応を窺い、目尻を下げた。
「あ、あのっ」
「はい」
「あにうえの、念珠が、その。とても立派で、あにうえに、良くお似合いだった、ので。それで、あの。僕の手、には、大きいと、分かっているのです、が……」
 上下から挟まれて、優しく包まれた。
 それが引き金になって、口下手な少年は懸命に言葉を繰り出した。
 今なら前田藤四郎の気持ちが、良く分かる。兄に、その装具に憧れて、身に着けたいと願うのは、ごく自然なものだった。
 似合うかどうか、ではない。
 あんな風になりたいと思うから、試さずにはいられない。
 但しその気持ちを、上手く言い表すのは至難の技だった。
 ただでさえ口数が少なく、他者と接するのが苦手な小夜左文字だ。その上相手が長兄である江雪左文字ともなれば、言いたいことの半分も伝えられなかった。
 案の定途中で行き詰まり、言葉が途切れた。
 小さく呻いて鼻を愚図らせて、顎が軋むまで奥歯を噛み締めた。
 あまりの情けなさに、泣きたくなった。分かって欲しいことは沢山あるのに、どうやって理解して貰えばいいのか、その答えが見つからなかった。
 顔を伏して、肩を突っ張らせ、懸命に涙を堪える。
 すると何を思ったのか、江雪左文字は小夜左文字の手に、虎琥珀の数珠を掛けた。
 親指と人差し指の間に珠を預け、房を垂らした。自らは手を退いて、驚く弟に長い髪を揺らめかせた。
「よく、似合います」
「あにうえ」
「気に入ったのでしたら、ええ。どうぞ、小夜に」
 嬉しそうな顔をして、目を細めた。合間に小さく頷いて、持って行って構わないと、有り得ないことを口にした。
「そんな!」
 愕然として、小夜左文字は叫んだ。慌てて数珠を外し、突き出して、強引に兄に押し付けた。
 こんな高級なもの、とてもではないが受け取れない。なにより、短刀が扱うには大き過ぎた。
 猫に小判、豚に真珠。
 小夜左文字に虎琥珀の数珠、だ。
 急に声を荒らげた弟に、江雪左文字は面食らったらしい。一瞬だけ目を丸くして、受け取った数珠を哀しげに小突いた。
 彼にしてみれば、たかが数珠なのかもしれない。替えの物はいくつか所持しており、ひとつ失ったところで惜しくなかった。
 弟が望むのであれば、叶えてやろう。その程度の、浅墓な考えだった。
 或いは持つ者としての傲慢さだと、持たざる者の側を歩んできた短刀は、感じたのかもしれない。
 拒絶された衝撃からゆっくり回復して、暫く迷い、太刀は静かに頷いた。
「では、もし……私、が。私に、なにか、あれば。その時は、貴方に。これを」
「――――っ!」
 どうすれば末弟が受け取ってくれるかを考えて、最も可能性が高い案を声に出した。
 訥々と思いを告げて、形見として託す旨を述べる。
 瞬間、短刀は零れ落ちそうなくらいに目を見開き、唇を戦慄かせ、四肢を大きく痙攣させた。
 淡い紅色だった肌から血の気が引いて、一瞬で真っ青になった。全身がわなわな震えて、空の両手は握りしめられ、強く、大きく揺れ動いた。
 江雪左文字は、戦が嫌いだ。
 争い続ける愚を犯すこの世というものを、心底嫌悪していた。
 敵と戦い、斬り伏せるのは刀としての天命かもしれない。だが出来ることなら講和し、くだらない争いを早期に終わらせてしまいたかった。
 戦場に出れば、何が起きるかは分からない。運が悪ければ、万が一も起こり得るだろう。
 その時の為、望む者があるとするなら、そこに行き着くよう、あらかじめ手筈を整えておくべきだった。形見分けとして誰に託すかは、先に決めておく方が無駄に争いを引き起こさずに済んだ。
 良かれと思っての、発言だった。
 最良を選択したと、自負していた。
 それなのに。
「いや、に……ございます」
 俯き、息を殺し、小夜左文字は唸った。
 獣のように呻いて、懸命に声を絞り出した。
「小夜」
 下向かれて、表情は見えない。よもや二度も拒否されるとは思わず、江雪左文字は些か傷つき、狼狽えて足をふらつかせた。
 左足を引き、傾いた身体を支えた。
 その出来たばかりの空間に踏み込んで、華奢な短刀が涙に濡れる眼を吊り上げた。
「絶対に、嫌に御座います!」
 睨みつけ、怒鳴り、大きくかぶりを振った。握り拳を胸に押し付けて、全身を撓らせ、同じ言葉を何度も繰り返した。
 時に空を殴る仕草をして、足を踏み鳴らした。癇癪を爆発させて、赤子のように駄々を捏ねた。
「いや、です。いやだ。いやに御座います」
「小夜……」
「あにうえがいなくなるのは、小夜は、いやです!」
 泣き喚き、吼え散らす。
 誰も近付かない坪庭の前で叫び、短刀はひっく、と二度続けてしゃくりあげた。
 唇を噛み締め、鼻を啜り、懸命に涙を堪えて喘いでいた。
 形見分けは、死んだ者の所有物を、生き残った者たちが譲り受ける行為。つまりは江雪左文字が、いずれここから居なくなる前提の話だった。
 争いが嫌いだった。
 醜く、愚かで、哀しみに満ちた世の中に、辟易していた。
 早く消えてなくなりたいと、ずっと願って来た。戦場になど出たくない、誰かを傷つけるくらいならいっそ自分が、とさえ思っていた。
 死は、江雪左文字にとっての幸いだった。
 もう苦しまなくて良いのだと、解放されるのだと信じていた。
「嗚呼……」
「こんなもの、欲しくありません。いりません。欲しくなど、ありません」
 どうしてこんな単純なことを、勘違いしていたのだろう。
 愚かだったのは自分の方と気付かされ、愕然とし、江雪左文字は手の中のものを握りしめた。
 小夜左文字は弱々しく訴えて、大きく鼻を啜った。ずずず、と音を響かせて、口から息を吐き、湿る目尻を両手で擦った。
 塩辛い唇を舐め、肩を上下させ、乱れた呼吸を整えた。動きは忙しなく、落ち着きなく、子供じみていた。
「そう、です……ね。ええ。小夜の、言う通り……です」
 なんと馬鹿馬鹿しく、浅慮なことを言ったのだろう。
 弟に教えられて反省し、江雪左文字は数珠の房を捏ねた。
 今となっては、何故あんな考えを持ったのか、疑問だった。振り返っても首を傾げるしかなくて、自分自身のことなのに、可笑しかった。
 自虐の笑みを浮かべ、目を閉じる。
「あにうえ……?」
 態度の変化を察し、短刀が不安げに声を潜めた。小声で呼びかけ、眉を顰め、おずおず手を伸ばしてきた。
 その細い指が袖を掴む前に、江雪左文字の方から握りしめた。強く、但し痛くない程度に加減して、頼もしい弟に相好を崩した。
 そして。
「そういう、ことですので。貴方にも、……どうやら、譲るのは、難しそうです」
「え?」
 やおら腰を捻り、廊下の奥に向かって語り掛けた。突然のことに小夜左文字は吃驚して、不審がり、長兄を真下から覗き込んだ。
 そこに、誰かいるのだろうか。
 全く気付いていなかった短刀は目を点にして、薄暗い空間と、兄の顔とを見比べた。
「――なんだ。知ったんですね」
「あにさま」
「無論です」
 そこに、良く通る声が響き渡った。
 物陰に隠れる形で立っていた打刀が、居心地悪そうに身動ぎ、姿を現した。
 明るい方に出て、襷で縛った袖を掻いた。薄紅色の髪を揺らして、狭い歩幅でゆっくり近づいて来た。
 背が高く、手足は柳の枝のように細い。瞳は左右で色が異なり、剥き出しの脚には短めの数珠が絡みついていた。
 押せば簡単に倒れ、呆気なく折れてしまいそうな容姿だ。けれど見た目ほど柔でないのは、本丸で暮らす誰もが知っていることだ。
 この屋敷に住まうのは、刀。
 歴史に名を残して来た、数多の刀剣の付喪神ばかりだ。
 盗み聞きしていたのに悪びれもせず、宗三左文字は右耳に掛かる髪を掻き上げた。不遜な笑みを浮かべて目を眇めて、呆気にとられている末弟の頬を小突いた。
 いったいいつから、あそこに居たのだろう。
 疑問は声にならなかったものの、伝わったようで、左文字の次兄は両手を重ね、クスクス笑いながら口元を隠した。
「だって、小夜が、すごい勢いで走っていくでしょう? そのあとで、兄上が血相を変えて走って来るじゃないですか」
 行き先を聞かれ、指差して方角を教えた後、こっそり後ろを追いかけた。
 どんな楽しいことが待っているのか、わくわくした。
 そんなことをあっぴろげに告げられて、小夜左文字は絶句し、江雪左文字は深く肩を落とした。
 そう言えば確かに、道中誰かとぶつかりかけた。
 あれは宗三左文字だったのかと頷いて、小柄な短刀は恥ずかしさに頭を抱え込んだ。
「これを、出したのも。貴方ですね」
「良いじゃないですか、眺めるくらい。欲しいだなんて、僕は一度も言ったことがありませんよ?」
 その横で江雪左文字が、手にした数珠を揺らめかせた。それに宗三左文字は間髪入れず頷いて、生意気に言い返した。
 虎琥珀の数珠は高級品で、且つ珍品だ。これだけ立派なものはそう多くなく、望んでも簡単には手に入らない。
 そんな貴重なものを、使いもせずに箱に仕舞ったままにしている。
 勿体ないと嘯いた次兄に、長兄は長い溜息を吐いた。
 いけしゃあしゃあと、よくぞ口に出来たものだ。その図々しさに呆れるやら、逆に尊敬するやらで、銀髪の太刀はこめかみを指で叩いた。
「宗三」
「それは、兄上が一番似合うんですよ」
 咎めようとすれば、寸前で制された。
 揚げ足を取る形で話を逸らされて、上手く言い包められてしまった。
 小夜左文字までもが次兄に同調し、力強く頷いた。拳を作って力み、鼻息荒く肯定されて、江雪左文字は戸惑い、降参だと白旗を振った。
「そうですか」
 この先どれだけ譲り先を探しても、引き取り手は見つかるまい。
「責任、重大ですね……」
 房を掬い、顔の前で珠を掲げ持つ。
 嬉しいような、照れ臭いような。
 上手く言い表せない感情を抱いて、戦嫌いの太刀は静かに目を閉じた。
 

2016/02/22 脱稿

群れ立ちて雲井に鶴の声すなり 君が千歳や空に見ゆらん
山家集 雑 1173