一歩進む度に、手にした瓶子がちゃぷちゃぷ音を立てた。
荒縄を首に結んだ酒壺が、前後左右に揺れていた。中身は幾分減っているものの、注ぎ足すところにまでは至らない。お行儀よく飲むつもりはないので、徳利や猪口の類は持ち歩いていなかった。
素面に近い為か、足取りはまだ確かだ。左右にふらつく機会は少なく、千鳥足には程遠かった。
早くどこか、落ち着ける場所を見つけたい。
「む~う」
辺りを素早く見回して、次郎太刀は口を尖らせた。
彼は大酒飲みとして知られ、朝から晩まで、酒を友として過ごしていた。但し情緒面での教育に悪いので子供たちの前では飲むな、と口煩く言われていた。
そうはいっても、この本丸には、短刀の数がやたらと多い。
粟田口派がその大部分を占めて、一大派閥を形成していた。長兄である一期一振は不在ながら、代理として薬研藤四郎が眼を光らせており、自分は良いが他の弟たちの前は駄目、と言って聞かなかった。
「どうせ飲むなら、見晴らしが良いとこがいいしねえ」
だが隠れてこそこそ飲むのは、気に入らない。月見酒も悪くないが、昼間から豪快に呑む楽しみには劣った。
とはいえ、短刀たちがあまり足を向けず、且つ景観に優れた部屋など、そう多くない。
昼間は光を求め、誰もが南側の庭に面した区画に集まる。外で遊ぶ短刀も多く、彼らの視界に入らないようにするのは難しかった。
薄暗い、黴臭い一室で辛気臭く過ごすのだけは、避けたかった。
「なーんで、あの刀は、平気なのかねえ」
彼が寝起きしている大部屋は、日中でもあまり日が当たらない、本丸の北側にあった。背が高く、大柄な大太刀の為に用意されたような区画であるが、その片隅には他者との接触を嫌う刀が、ひっそり暮らしていた。
魔王織田信長の銘を刻まれた打刀は、大広間での食事にも顔を見せず、滅多に表に出て来ない。昔馴染みの刀たちがなにかと構い、面倒を見ているようだが、積極的に交友を持とうとはしなかった。
その弟はといえば、辛うじて刀たちの輪に加わり、あれこれ動き回っていた。もっともそれだって、あくまで兄よりは幾らか積極的、と言える程度でしかなかった。
親交を持つ相手と、そうでない相手とで、態度は露骨に変わった。打刀である歌仙兼定とは仲が良いようだが、それ以外だと今剣くらいしか、一緒にいるところを見かけなかった。
同じ短刀でありながら、粟田口の面々とは、一定の距離を保っている。小夜左文字は寡黙で、陰気で、日々楽しく酒を飲む、が身上の次郎太刀とは、どうにも相容れない刀だった。
「ま、よく知らないんだけど」
たまに一緒に出陣するが、言葉を交わした記憶は殆どなかった。
真っ先に戦場へ飛び出して、畏れることなく敵の懐へと潜り込む。その戦いぶりは狂気じみていて、まるで死にたがっているようにも見えた。
数回、振り回した刀に巻き込みそうになったことがあるけれど、寸前で察知し、ちゃんと躱してくれた。背が低いので視界に入りにくく、見落としていたと謝った時は、頬を膨らませて拗ねていた。
その時は、少しは可愛げがあると思った。
けれど戦いぶりを見る限り、近寄り難い雰囲気があるのは、否めなかった。
「さーて、ここはどうかなー?」
詳しくは知らない相手を頭から追い出して、縁側からひょい、と障子戸の内側を覗き込む。
長い黒髪を左右に揺らし、次郎太刀は細い目を丸くした。
「おっ」
中は薄暗く、動くものの気配はなかった。
試しに戸を開いてみれば、見事に蛻の殻だった。奥行きがある板葺の間は閑散としており、左右の戸も閉じられていた。
「ここは、えーっと。なんだっけ?」
屋敷をうろうろしていたので、現在地がぱっと出て来ない。
この後誰か使う予定がある間かどうか知りたくて、彼は背筋を伸ばし、縁側から辺りを窺った。
けれど、取り立てて何も見当たらなかった。
子供たちの声は遠くで、演練場の声も聞こえてこない。足音は響いて来ず、軒から覗く空は青かった。
後ろを見れば、広い空間に洗濯物がはためいていた。
「ああ。次の間か」
現在本丸で暮らす刀剣男士が勢ぞろいしても、この板葺の間は埋まらない。それくらい広い部屋は、更に広い大座敷に続く手前にあった。
ここは武家屋敷で言う、控の間だった。
嬉しいことに、天井が高い。次郎太刀の身長でも、欄間に頭がぶつからなかった。
「兄貴も、ここならのんびり出来るんだろうにねえ」
未だ会い見えるのが叶わない大太刀を思い浮かべ、早く来ないかと密かに願う。だが会えば会ったで小言が五月蠅かろうと、女郎姿の刀は首を竦めた。
今は戦装束を解き、楽な格好だった。結い上げて簪で飾った頭も、今は緩くまとめただけだった。
「景色は、ま、いっか。よーっし、飲むぞー」
独り酒が寂しい限りだが、飲めればもう何でもよかった。肴も欲しいが、今から台所まで足を延ばすのは面倒だった。
懐には、前回の残りである鯣の足がある。今日はこれで我慢と言い聞かせ、次郎太刀は敷居を跨いだ。
大広間の方が見晴らしが良いのは分かっているが、流石にあそこで大の字にはなれない。人の出入りもあるので、次の間程度で落ち着くのが丁度良かった。
「よっこらしょ、っと」
やっと見つけた、安住の地。
もう歩き回らなくて済むのかと思うと、心は晴れやかだった。
障子戸を全開にしたまま、次郎太刀は酒瓶を置いた。荒縄を手放して庭の方へ向き直り、見た目に反して男らしく胡坐を組んだ。
片膝を立て、そこに肘を置く。陣取ったのは敷居を越えてすぐの場所で、軒下の景色が良く見えた。
上空は地上と違って風が強いのか、雲の流れが速い。澄んだ青色に綿雲が泳いで、形状を眺めるだけで楽しかった。
竹竿で作られた物干し台には、短刀のものらしき服がずらりと並んでいた。他には誰のものなのか、白い褌が、風を受けてゆらゆらはためいていた。
下帯と知っていなければ、優雅なものだと笑って眺められたものを。
堪らずククッ、と喉を鳴らして、次郎太刀は酒瓶の栓を引き抜いた。
楽な体勢を作り、豪快にひと口呷る。
「ぷっはー」
ごくごくと喉を鳴らせば、爽やかな香りと味が口の中いっぱいに広がった。果実など使っていないのに、ほんの少し酸味の利いた匂いがして、喉を流れる一瞬だけ、口腔を焼くほどの熱を感じた。
舌の上に雑味は残らず、口蓋垂になにかが引っかかって居座るような感覚もない。
「うまいっ」
まるで水だ。しかし確かに、これは酒に違いない。
頬を紅潮させて一声叫んで、次郎太刀は耐え難い幸福感に胸を震わせた。
こんなに美味なものが、この世には沢山ある。
あちこちの銘酒を集めて、是非とも飲み比べしてみたかった。
「あとは、やっぱり美味い肴と、一緒に呑んでくれる奴がいれば、だねえ」
本丸内を見回せば、それなりに酒を嗜む者はいた。だが次郎太刀ほど酒豪でなければ、昼間から好んで飲みたがる者はいなかった。
早くお仲間を見つけたい。
膝を寄せて抱え込んで、彼はまだ見ぬ刀たちに思いを馳せた。
濡れた酒瓶の縁を拭い、もうひと口呷ろうかと荒縄を手繰り寄せる。
足音が聞こえたのは丁度その時で、次郎太刀は瞬きをして顔を上げた。
「あ……」
直後、ひょっこり小さな頭が現れた。柱の陰から姿を見せて、室内を覗き込んだところで停止した。
目が合った。あちらはビクッと背筋を震わせて、敷居を跨ぐ手前で歩みを止め、警戒気味に背筋を伸ばした。
漏れ出た声は、限りなく小さかった。思わず、といった感じで零れた音色には、戸惑いが過分に含まれていた。
誰かいると、考えてもいなかったのだろう。
大きく見開かれた瞳から想像して、次郎太刀は肩を竦めた。
「なんだ。あんたかい」
務めて穏やかに微笑み、積極的に話しかける。それで緊張が解れたか、藍の髪の短刀はほっと息を吐いた。
「すまない」
その上で、何に対してなのか、謝罪を口にした。
驚き、失礼な態度を取ったとでも思っているらしい。詫びられて、次郎太刀は目尻を下げた。
「いーって、いーって。なんだったら、あんたも飲むかい?」
萎縮した態度を豪快に笑い飛ばし、酒瓶を掴んで高く掲げる。
行儀に五月蠅い打刀が聞いたら、目を吊り上げて追いかけて来そうだ。だが藤色の髪の男は、見た限り、近くにはいなかった。
酔いが回ったわけではないが、気が大きくなっているのは否定しない。呵々と笑って訊ねた次郎太刀に、小夜左文字はきょとんと目を丸くした。
「い、いや。僕は」
「そうかい? 美味しいのに」
「……知ってる」
「うん?」
「なんでもない」
こんな見てくれで、酒を勧められるとは予想していなかった。
そんな風に解釈した次郎太刀だけれど、外れだったらしい。目を逸らしてぼそぼそ言われて、彼は首を右に倒した。
よく聞き取れなくて、もう一度言ってくれるよう頼むが、断られた。
小夜左文字は首筋を赤く染めて、緩く首を振り、軒下から空を仰いだ。
「ここ、使うのかい?」
爪先立ちになり、遠くを窺って黙り込んでいる。目を眇めてなにか考えている様子に、次郎太刀は眉目を顰めた。
ようやく見つけた、落ち着ける場所だ。それを横から奪い取られるのは、正直言えば良い気がしなかった。
感情は、声に滲み出たらしい。途端に小夜左文字は振り返って、一瞬押し黙った後、ふるふる首を振った。
「いや。……使う、が。居てもいい」
「ふうん?」
「少し、うるさくする」
追い出したりはしないと告げるが、随分曖昧だった。告げられた内容は具体性に欠けており、言葉を選んで喋っているうちに、必要な分まで削ぎ落としてしまったようだった。
彼に近しい存在なら、このやり取りだけで何かを察せられるのかもしれない。だが次郎太刀には、残念ながらそういう才能がなかった。
「うーん?」
一度では理解出来ず、頭を捻るがあまり働いてくれなかった。
軽い酩酊状態で首を傾げる大太刀に、短刀は口をもごもごさせた。
言葉足らずを自覚しているのか、表情は曇り気味だった。それでいて頻りに外を気にして、その場で足踏みを繰り返した。
逡巡し、躊躇して、やがて思い切って足を踏み出す。
「雨が来る」
座っている次郎太刀の脇を駆け抜ける直前、彼はそんなことを口走った。
板葺の間の奥までいって、隅に積み上げていたものを引っ張り出した。持ち上げ、広げて、忙しく左右を見回した。
「雨?」
なにをしているのか、さっぱり分からない。すれ違いざまのひと言も上手に扱えなくて、次郎太刀は怪訝に目を眇めた。
試しに外に目を向けるが、小夜左文字が言うような雨雲は、どこにも見当たらなかった。
空は青く澄み、綿雲が追いかけっこしていた。太陽が照りつけて、地表には影が伸びていた。
聞き間違いを疑い、再度後ろへ目を向ける。
左文字の末弟は三段ある足台を壁際に置いて、その天辺に登っていた。
背伸びをして、壁になにかを括りつける。しっかり結べているかどうかを確認して、台座を飛び下りて、綺麗に着地を決めた。
続けてその台座を抱え、反対側の壁へと走った。彼と一緒に細い縄も床を走り、壁に結ばれたところでピンと真っ直ぐになった。
どうやら彼は、壁に縄を張り巡らせるつもりらしかった。
ジグザグに動き、少しもじっとしていない。縄は空中で交差することなく、一筆書きの如く部屋を覆った。
足音が響き、確かに少し騒がしい。
忙しなく働く少年に気を取られて、次郎太刀はぽかんとなった。酒を飲むのも忘れて惚けた顔をして、近くまで戻ってきた短刀に瞬きを繰り返した。
「なにやってんの?」
「雨が」
「晴れてるよ?」
「今は、まだ。だが、雨の匂いがする」
呆気にとられて問いかけて、遅れて首を捻った。明るい外を指差しながら言えば、小夜左文字は肩で息を整え、小振りの鼻をヒクつかせた。
すん、と大気の匂いを嗅ぎ、唇を舐めた。
確信を込めて告げられた。真剣な眼差しと表情は、冗談を言っている風ではなかった。
ただ、俄には信じ難い。試しに次郎太刀も真似をしてみたが、彼の言う『雨の匂い』とやらは、残念ながら嗅ぎ取れなかった。
なにが違うのだろう。
分からなくて、眉間に皺が寄った。外は爽やかに晴れており、雨雲の気配は感じられなかった。
ただ、この少年が嘘を言うとも思えない。
何を信じれば良いか分からず、次郎太刀は困惑を強めた。
「ええ、っと……」
相槌も碌に打てなくて、言葉に迷った。どう会話を続けるべきか悩んでいたら、待ちきれなくなった小夜左文字が焦った顔で唇を噛んだ。
「早くしないと」
「あっ」
独り言を残し、止める間もなく部屋を飛び出していく。
伸ばした手のやり場がなくなって、次郎太刀は仕方なく、酒瓶の胴を撫でた。
中身はまだ沢山残っているが、呑む気が湧いてこなかった。
小夜左文字は縁側に出ると、左に曲がって走って行った。その方面には玄関があって、案の定、暫く待てば草履を履いた子供が庭に現れた。
一目散に竹竿に駆け寄って、干されているものを引っ張った。地面に落とさないよう注意しつつ、小さな身体を懸命に伸ばしていた。
「あー、あぁ。あんなに必死になっちゃって」
洗濯物はどれもまだ乾ききらず、湿っていた。ひとつひとつは軽いものの、数が揃えばかなりの重量だった。
本丸で最も背が低い短刀の両腕は、瞬く間にいっぱいになった。視界の下半分が塞がって、かなり動き辛そうだった。
足元がふらついて、まるで酔っぱらっているようだ。苦心しながら足を進めて、辿り着いたのは次郎太刀のすぐ目の前だった。
「よい、っと」
掛け声ひとつと共に、抱えていたものを縁側へ置く。
半ば放り投げる形になって、白い塊は山になる前に崩れていった。
「手伝うかい?」
洗濯物はまだ残っていて、少なくともあと三往復は必要だった。見かねて手助けを申し出れば、短刀は汗を拭い、首を横に振った。
「問題ない」
「本当かい?」
「……ああ」
強がりを言って、断られた。念押ししてみたが結果は同じで、意外に頑固だった。
見た目の儚さとは裏腹に、芯は強い。
感心する大太刀の前で彼は深呼吸を繰り返し、再び竹竿へと駆け出した。
その後ろ姿と、縁側で潰れている洗濯物を順に見て、次郎太刀は最後、軒先を流れる雲に目を向けた。
「うん?」
気が付けば、太陽が隠れていた。いつの間にか雲の数が増えて、青空が隠されつつあった。
雨が降る様子はまだないけれど、一抹の不安を抱かせる色合いだった。
少しだけ暗くなった世界に、瞬きを繰り返す。その間に小夜左文字は生乾きの衣服を掻き集め、縁側へと放り投げた。
皺が出来るだとか、そういうのは二の次になっていた。
とにかく雨が降り始める前にと、そういう意気込みだけで動いていた。
「雨、ね」
本当に、あの子の言う通りになるのかもしれない。
次の間に張り巡らされた縄は、屋内で洗濯物を干す為の竿代わりだった。
「なるほど。こりゃ、確かに五月蠅いね」
小夜左文字に言われた台詞を想い返し、次郎太刀は緩慢に頷いた。こうしているうちにも空模様は段々怪しくなって、灰色の雲がちらほら見え始めた。
少し前まで、あんなにも快晴だったのに。
驚きの変化に愕然としていたら、ようやく最後の洗濯物を回収して、小夜左文字が縁側に這い上がった。
草履をその場で脱ぎ捨てて、膝から登って布の山へと倒れ込む。
「大丈夫かい?」
勢い余って突っ伏した短刀を覗き込んで訊ねれば、問題ないとでも言いたいのか、小枝のような腕がふらふら揺れた。
柔らかな感触が心地良いのか、少年はしばらく動かなかった。顔面のすぐ横に他人の褌があるのも気にせず、うつ伏せで、大の字になった。
「ふっ」
そういうところは、子供だ。
五虎退の虎がふかふかして温かいだとか、鶴丸国永の外套が羽毛布団のようだとか。そういう話を粟田口の短刀たちが話していたのが、ふとした拍子に脳裏をよぎった。
小夜左文字は、そんな事に興味がないとばかり思っていた。
どうやら、違ったらしい。
それが何故だか嬉しくて、次郎太刀は頬を緩めた。
ちゃんと可愛いところがあった。見た目相応なところがあると知れて、心がほっこり和らいだ。
「あ、降ってきた」
「っ!」
そこにぽつ、と小さな音が紛れ込み、大太刀は声を高くした。独白への反応は素早く、小夜左文字はがばっ、と身を起こした。
洗濯物を抱きしめつつ、腰を捻って庭を見た。空色の目を真ん丸にして、少年は獣の如く飛び跳ねた。
雨雲は、驚きの速度で空を覆い尽くした。青色はすっかり駆逐されて、一面鈍色だった。
ぽつ、ぽつ、と落ちて来た雨粒は瞬く間に勢いを強め、荒々しく大地を叩いた。小さかった水溜りはどんどん大きく広がって、軒を打つ音が騒々しかった。
突如、空が閃光に包まれた。ピカッ、と世界が真っ白になって、直後に轟音が空を切り裂いた。
どこかで雷が落ちた。地面が揺れて、一瞬の恐怖に鳥肌が立った。
首を竦めたくなる衝撃に、次郎太刀は感嘆の息を吐いた。
「ひゃ~、びっくりだねえ」
あと少し遅かったら、小夜左文字は水浸しだった。洗濯物もびしょ濡れで、洗い直さねばならなくなるところだった。
まさに、間一髪。
素晴らしい判断だったと心の中で拍手して、次郎太刀は野生の勘を働かせた少年を褒め称えた。
その短刀はいそいそと起き上がり、集めた衣服を奥へ避難させた。両手両足、身体全部を使って、敷居を跨ぎ、焦げ茶色の床に移し替えた。
真横に山を作られて、次郎太刀は笑った。呵々と喉を鳴らして、額を拭う少年に相好を崩した。
「お疲れ様だねえ」
労いの言葉を告げて、酒瓶を高く掲げ持つ。
乾杯の仕草を取られて、小夜左文字は困惑気味に目を泳がせた。
「こんなの。べつに」
口籠り、そっぽを向く。その頬は仄かに熱を帯び、赤く染まっていた。
素っ気ない態度ではあるが、変化を感じた。次郎太刀はうんうん頷いて、持っていた酒をぐいっ、と呷った。
上物の酒を大胆に呑んで、赤ら顔で心地良さげに息を吐く。
風圧で前髪を掬われて、小夜左文字は堪え切れず苦笑した。
「誰かに頼まれたのかい?」
「いや?」
若干頬を引き攣らせ、摺り足で後退された。どうやら息が酒臭かったらしいが、今更どうすることも出来なかった。
代わりに質問を繰り出せば、短刀は静かに首を振った。
洗濯物の山に手を伸ばし、種類毎に選別を開始した。集める時は必死だったので、構っている余裕がなかったからだ。
乱藤四郎のものらしき股袴と、誰のものか不明の褌を引き剥がす。そうやって小振りの山をいくつか作って、彼はすくっと立ち上がった。
「干してきゃいいのかい?」
「次郎太刀?」
縄を張り巡らせる時、短刀は足台を使っていた。床に洗濯物が擦れないように、高い位置に吊るさなければいけないからだ。
彼の背丈では、縄は壁に結ぶのは台に乗ればまだ楽だが、洗濯物を干すのは簡単ではない。
先ほどは手伝いを拒まれてしまったが、今回は断らせるつもりはなかった。
酒瓶に栓をして、次郎太刀は立ち上がった。袖をまくって肩を露出させた大太刀に、小夜左文字は吃驚して目を丸くした。
「ひとりより、ふたりでやる方が速いってね」
「しかし」
「いいって、いいって。この次郎さんに、任せなさ~い」
そんな彼に早口に言って、嫌がられる前に洗濯物を掻っ攫った。野郎どもの下着の山を小脇に抱えて、頭が引っかかりそうな縄を潜り、鼻歌を歌いながら歩き出した。
小夜左文字は後ろで空の手を揺らし、当惑して目を泳がせた。
逡巡が窺えた。
どうして良いのか分からないと、態度が語っていた。
他者に親切にされる、その理由が分からないらしかった。これまで目立った交友もなかった相手から、突然優しくされて戸惑っていた。
聞けば彼の刀としての境遇は、あまり喜ばしいものではなかったらしい。
守り刀でありながらその役目を果たせず、奪われ、良いように使われて、救いだされはしたものの、その後方々を流転した。ひとつのところに長く留まらず、金銭に替えられて、彷徨い続けた。
神社暮らしが長かった次郎太刀には、その辛苦が分からない。
けれど辛い思いを沢山した分、ここでは優しくされて良い程度には、思っていた。
「ねえねえ、これって、なんか決まりとかある? 適当に吊るしちゃっていい?」
けれどそういう辛気臭い話をするのは、あまり好きではない。
だからわざと明るく言って、次郎太刀は小夜左文字を振り返った。
次の間の奥へ行き、緩みなく張られた縄を小突く。それで短刀は拳を作り、すぐに解き、掌の汗を拭った。
「あまり、近過ぎると。重なって……乾かない」
「はいは~い、なるほどねえ」
ぼそりと言って、最後に次郎太刀を見た。ただ並べていけばいい、としか思っていなかった大太刀は鷹揚に頷いて、奥が深いと顎を撫でた。
感心して、口角を持ち上げる。
笑いかけられた短刀は瞬時に顔を背け、自分も干す作業に入ろうと、生乾きの洗濯物を持ち上げた。
外では雨音が響き、庭には大きな水溜りが出来た。薄墨で塗り潰したような景色が広がって、夕方を待たずして夜のようだった。
「ふ~ん、ふふん、ふふ~ん」
「それ、は。広げてやらないと、皺が残る」
「へえ?」
「こうやって、叩いて。伸ばす」
「ほっほ~う。勉強になるなあ」
そんな中で上機嫌に動き回れば、小夜左文字から注意が入った。細かいところまで気を配っている短刀には、感嘆の声しか漏れなかった。
まさか神刀が、洗濯物を干して回ろうとは。
自分の刀も大概物干し竿だと笑って、次郎太刀は新たな足音に首を傾げた。
「ああ、小夜。見つけた。……なんだ。回収してくれていたのか」
「歌仙」
息を切らし、やってきたのは打刀だった。藤色の髪を揺らして、袴姿の男は真っ先に短刀に話しかけた。
雨に濡れる庭を見て、竿が空になっているのに安堵の息を漏らす。続けて洗濯物で埋まった次の間を覗き込んで、それでようやく、次郎太刀の存在に気が付いた。
「うわっ、……と。いや、これは失礼」
意外な組み合わせに、驚きが隠せない。うっかり悲鳴を上げたのを慌てて取り繕って、歌仙兼定は詫びて頭を下げた。
それをカラカラ笑い飛ばして、次郎太刀は最後の一枚を縄に引っ掛けた。
落ちないようぶら下げて、身を屈めて洗濯物の列を潜る。
「よーっし。お~わりっ、と」
床の上にあった衣服の山は、今や跡形もなかった。次の間は白い布で埋められて、頭がつっかえ、真っ直ぐ歩けそうになかった。
なかなかの重労働だった。肩を回し、高らかと吠えて、次郎太刀は満面の笑みを浮かべた。
こんなに働いたのは、本丸に来て初めてかもしれない。
酒を飲むのも楽しいが、こうやって雑事に励むのも、存外悪くなかった。
高らかと吠え、自身を労って満足げにはためく洗濯物の群れを見る。その後ろでは雨降る景色を背負い、小夜左文字と歌仙兼定がなにやら耳打ちし合っていた。
背が低い短刀に合わせ、打刀が膝を折って屈んでいた。手を壁代わりにしてひそひそ喋って、聞き役の打刀はうんうん頷いていた。
「そう、それは良かったじゃないか」
「……うん」
「なにかお礼をしなければね」
「お礼……」
「ん?」
漏れ聞こえてきたやり取りに、視線が混じった。見つめられて次郎太刀は首を傾げ、背伸びをしている短刀に眉を顰めた。
この場合、屈んでやった方がいいのだろうか。
考え、悩んでいたら、小夜左文字が先に目を逸らした。ふいっ、と赤い顔を隠して、歌仙兼定の袖を引いた。
「台所、余ってるもの」
「色々あるよ。……ああ、すまなかったね、次郎太刀殿。手伝わせてしまったようだ」
打刀の背中に潜り込んだ短刀に、歌仙兼定は視線を往復させた。小夜左文字に返事した後、次郎太刀に向き直り、改めて頭を下げた。
少ない言葉で短刀の真意を探り、会話を繋げる技術は見事と言うほかなかった。
あれでどうして、お互い分かり合えるのか。
不思議に思いつつ、言わないで済ませ、次郎太刀は肩の高さで手を振った。
「あー、別にいいって。アタシも、結構楽しかったしね」
昼間から酒を飲むくらいには、退屈していた。
良い運動になったと笑って言えば、歌仙兼定はホッとした顔で胸を撫で下ろした。
そんな彼を急かし、小夜左文字が再度袖を引っ張った。早く行こうと促して、足元は落ち着かなかった。
爪先立ちで足踏みしている短刀に目を向ければ、視線が交錯した途端、本格的に歌仙兼定に隠れられてしまった。
「やれやれ」
「うーん……」
「分かったよ、小夜。次郎太刀殿は、しばらくこちらに?」
「そのつもりだけどー?」
逃げられて、次郎太刀は低く唸った。もしや嫌われたかと懸念していたら、間に立った打刀が肩を竦め、話を切り出してきた。
問われ、深く考えないまま答える。
雨は止まないし、後ろは洗濯物だらけだが、移動する気は起きなかった。最早飲めればどこでもいいと、夕餉まで腰を据えるつもりでいた。
鷹揚に頷けば、藤色の髪の刀は嬉しそうに微笑んだ。
「だ、そうだよ。小夜。頑張らないとね」
「うる、さい」
「そうだ。蛤があるよ、蛤が。次郎太刀殿はお好きかな」
「酒蒸しがいいかな~……って、なんの話?」
笑顔を向けられる理由も、まとまりのない会話も、良く分からない。
戸惑って訊ねれば、歌仙兼定は意外そうに目を丸くした。そしてすぐに表情を戻して、隠れている短刀の頭をぽん、と撫でた。
「つまみを用意しよう。小夜が、ね」
「歌仙」
「うん?」
そうして彼を強引に、前に押し出しながら、囁く。
焦る短刀を余所に、素知らぬ顔を決め込む打刀を前にして、次郎太刀は突飛な流れにきょとんとなった。
視線を泳がせ、赤くなっている少年を見て、不意に思い立って後ろを振り返った。
すとん、と答えが落ちて来た。
どうやら手伝って貰った礼をするつもりなのだと知れて、後からじわじわ、歓喜が押し寄せて来た。
「あらら、別にいいのに~」
「いや、か」
「まっさかー。もらえるものは、ありがた~く、いただくよ」
そんなつもりはなかったのに、思わぬ展開になった。嬉しくて顔は自然と緩んで、不安げにした短刀には慌てて首を振った。
両手を重ね、頬に添える。百点満点の笑みを浮かべれば、小柄な短刀は照れ臭そうに首を竦めた。
意外に律儀で、真面目で、可愛いところがある。
小夜左文字に対して抱いていた評価は、昨日と今日とで百八十度入れ替わっていた。
「少し、待て」
「りょうか~い」
仏頂面のまま言われたが、不機嫌にしているのだとは思わなかった。つっけんどんな口調にも、嫌な気はしなかった。
朗らかに笑い、手を振った。小夜左文字は小さく頷くと、歌仙兼定の腰を両手で押した。
「分かった、分かってるから。大丈夫だよ、小夜」
早く行け、とせっつく短刀に、打刀もどこか嬉しげだ。楽しそうに声を響かせて、去り際、次郎太刀に目配せした。
今日の酒は、とびきり美味いものになりそうだ。
「たまには、悪くないね」
生憎の雨であるが、心は晴れやか。
満足げに呟いて、彼は酒瓶を抱き、縁側に腰を下ろした。
2015/08/24 脱稿
山家集 上 502
東屋のあまりにも降る時雨かな たれかは知らぬ神無月とは