木枯らしが吹く、寒い日だった。
前日まで降り続けた雪は止んだが、庭は一面真っ白に覆われていた。木々の枝にまでどっしり積もって、バサバサと落ちる音が絶えず響いていた。
菰を巻いた松の木が重そうに枝を撓らせており、冬場でも緑が残る葉が憐れだった。今もまた、どこかの木から雪の塊が落ちて、聞いていて楽しくない音色が耳朶を擽った。
遠くでは足を取られて滑ったのか、誰かの野太い悲鳴も聞こえてきた。
息を吐けば白く濁り、鼻の頭は凍て付きそうだった。水仕事に忙しい手は赤く染まり、あちこち切れて血が滲んでいた。
皸を起こしている指に吐息を吹きかけ、小夜左文字は藁で編んだ雪沓で大地を踏みしめた。
粟田口の面々が履いている靴は、底の凹凸が乏しくて滑りやすい。反面藁で作ったこの沓は、柔らかな足元でもしっかり身体を支えてくれた。
普段は素足に草鞋だが、流石にこの時期だけは別だ。戦場に出る時は履きかえるけれど、本丸にいる間はこれで充分だった。
「もう一足、作っておくか」
昨夜完成させたばかりの試し履きは、案外悪くなかった。予備の分も用意しておくに越したことはなくて、少年は上機嫌に呟いた。
足を持ち上げれば、爪先から雪がぽろぽろ零れていく。水分を吸って重いそれは、ひと粒ひと粒が大きかった。
雲間から光が射しており、放っておけば溶けるだろう。
ただ天候次第では、どうなるか分からなかった。
息を吸うだけで、鼻の穴がひりひりした。君は薄着過ぎる、と直綴の上から着せられた綿入は寸法が大きくて、袖も、裾も、余り気味だった。
前は胸元の紐を結んだだけで、衿はやや開いていた。それでは首元が寒いからと、これまた借り物の襟巻が二重に巻きつけられていた。
雪沓は膝のすぐ下までの長さがあり、膝小僧は綿入に隠れがち。お蔭で随分温かいが、反面、若干動き難かった。
褞袍を着るのに邪魔だから、袈裟は着けていない。それが最初のうちは心許なかったけれど、数日としないうちに慣れてしまった。
口元まで覆う白の襟巻を引っ張り、冷えた空気で胸を満たす。
溜め込んだ分を一気に吐き出して、小夜左文字はゆるゆる首を振った。
柔らかな雪を蹴散らし、ざくざく言わせながら暫く進む。後ろを向けば足跡が転々と残されて、意味もなく嬉しくなった。
雪が降るようになってから、庭に出る刀は一気に減った。みんなして寒いのは苦手と口を揃えて、火鉢を囲んで動かなかった。
中には季節を問わず、演練場に通う刀も何振りかいた。だがこちらは少数派で、雪に喜び遊び回る子も同じだった。
粟田口の面々は、最初こそ面白がっていたが、この頃は屋内で過ごす時間が増えていた。雪合戦をしようにも数が揃わず、雪だるまもさほど増えていなかった。
朝方、軒先に出来た氷柱を折って回るのは、小夜左文字の仕事だった。長い棒を振り回すのはなかなか骨が折れる作業であり、見かねた大太刀や槍が手を差し伸べてくれるのもしばしばだった。
氷柱は放っておくと、どんどん大きく育っていった。それはそれで面白いが、先端が尖っているのもあり、落ちると危険だった。
池には薄く氷が張り、その下で鯉が泳いでいた。厚みはさほど無くて、短刀であろうとも乗れば割れて、こちらも危なかった。
厚藤四郎が身体を張って実践し、見事に冷たい水の中に転落した。助け出すのも大変で、以後冬場の池で遊ぶのは禁止された。
そういう事情もあり、表で遊ぶ刀は少ない。
誰も踏んでいない真っ白い雪に跡を刻んで、小夜左文字は屋敷を一周しようと歩を進めた。
こんな状況だから、畑仕事もひと休みだ。春に向けて土を耕したいところではあるが、雪を退かしたところでまた降るので、徒労に終わることが多かった。
庭先に放置された桶の、表面に氷が張っていた。掴めば丸い形のまま持ち上げられるそれも、目新しいものではなくなっていた。
雪にはしゃぎ回っていたのは、最初だけ。
食べたところで美味しくないそれは、屋根に積もれば屋敷を押し潰す厄介者だった。
雪かきは朝のうちに終わったようで、大きな塊が所々に落ちていた。それを避けながら更に進み、小夜左文字は薄水色の空を仰いだ。
曇ってはいるけれど、雪雲は見当たらない。
暈を被っている太陽に目を細めて、短刀の少年は細い水路を飛び越えた。
こちらは凍らず、雪も積もらず、ちょろちょろと音を立てながら流れていた。右を向けば檜造りの渡り廊が見えて、その先は中庭だった。
廊の下を潜れば、綺麗に整えられた庭園への近道だ。大小様々な石が配置され、苔の緑はこの季節でも鮮やかだった。
雪は少なめだが、全くないわけでもない。枯れ色が目立つ中で淡雪は非常に目立って、水墨画の光景にささやかな彩りを添えていた。
その中庭の先に、兄たちの居室がある。
だが今は訪ねる気になれなくて、小夜左文字は小さく首を振った。
宗三左文字も、江雪左文字も、他の刀と大きく雰囲気が違っていた。
長兄は戦いを厭い、出陣を拒んだ。次兄も似たようなもので、審神者に命じられても滅多に部屋から出なかった。
彼らが戦列に加わった際、既に居た刀たちは歓迎を表明した。しかし共に過ごす時間が長くなるにつれ、双方に隔たりが生まれ始めた。
刀でありながら、己の存在意義を真っ向から否定する江雪左文字。
籠の鳥を気取って他者を下に見て、皮肉ばかり口にする宗三左文字。
大広間での食事にも参加せず、兄弟相手にも冷たい態度を取る。一定の刀としか交友を持とうとせず、言葉さえ交わさない彼らへの風当たりは、日増しに厳しくなっていた。
周りの刀たちが兄を悪く言うのを聞くのは、辛い。
けれど小夜左文字には、どうすることも出来なかった。
弟でありながら、距離を保たれていた。向き合う機会は少なく、会話は更に少なかった。
宗三左文字に至っては、薬研藤四郎の方が余程親しい。それがとても羨ましく、妬ましくもあった。
いつか自分も、彼のように忌憚なく話が出来るようになるのだろうか。
顔を合わせれば緊張させられて、上手く言葉が出ない。喋りたいことは沢山あるのにひとつも思い出せなくて、「あ」だとか「う」だとか、意味を成さない音ばかりが口から零れ落ちた。
そういう状況が改善出来る見込みがあるかどうかは、さっぱり分からなかった。
せめて向こうから積極的に話しかけて来てくれれば、どうにか対応出来たものを。
お互い無口なのが災いした。宗三左文字はまだしも、江雪左文字は輪にかけて口数が少なかった。
どうせ会いに行っても、嫌な顔をされるだけ。
それで傷つくくらいなら、避けて通るのが賢明だった。
「はあ……」
折角上機嫌だったのに、一気に陰鬱な気持ちになってしまった。
雪沓が上手く編めたと嬉しがっていたのも、露となって消え去ってしまった。
溜息を吐き、小夜左文字は赤らんだ頬を撫でた。
戻ろうかと悩むけれど、玄関はかなり遠い。このまま進み続けても、距離的にそう大差なかった。
自分の足跡だけが残された雪原を眺め、薄雲が広がる光景にも目を向ける。
「うん」
どちらを選ぶか天秤にかけて、少年は力強く頷いた。
この先左手には、演練場があった。北進を続ければ畑に出て、右に曲がれば湯屋があった。
屋敷と湯殿は、棟が分かれていた。渡り廊で繋がってはいるけれど、建物としては完全に別のものだった。
湯を沸かすのに火を使うから、万が一の時の為の策だ。ただこれのお陰で、折角身体を温めても、移動中に冷えてしまうのが難点だった。
昼間から誰か使っているのか、白い煙が一本、屋根越しに見えた。
「ちがう?」
ただ方角や、雰囲気からも、発生源が湯殿ではない予感がした。
まさか火事が起きているとも思えず、小夜左文字は首を傾げた。怪訝に眉を顰め、念のためと駆け足になった。
もし失火しているようなら、急いで消さなければいけない。他の刀を呼び集めて、本丸に延焼する前に食い止める必要があった。
雪に覆われた竹林を左に見て、少年は走った。着慣れない綿入と襟巻に苦戦しつつ、自慢の雪沓で地を蹴った。
「はっ、は……はぁ、んっ」
何度も天を仰ぎつつ、煙の位置を確認する。恐らくここだ、と目星をつけて道を急いで、なにかが燃える焦げ臭さに息を詰まらせた。
唾も一緒に飲みこんで、肩を上下させ、呼吸を整える。
バクバク言う胸を支えて足を止めた短刀に、問題の場所でしゃがみ込んでいた男たちは一斉に振り返った。
「んあ?」
雪を掻き分けて地面を露出させて、尻を浮かせる形で屈んでいた。
濃緑色の上下を着て、手には槍ならぬ竹竿が握られていた。前方では枯葉の山が燻って、生乾きの枝がパチパチ音を立てていた。
灰色の煙が風に揺られ、空へゆっくり登って行く。
それを上から下に追いかけて、小夜左文字は瞠目した。
「は……え?」
予想していたものと、かなり違う。
驚き過ぎて、声が出なかった。絶句して瞬きを繰り返して、少年は頭の上に疑問符を乱立させた。
そこにいたのは、無骨な打刀と、背高の槍だった。
同田貫正国と、御手杵だ。ふた振りが囲むのは枯れ落ち葉の茶色い山で、その中心には燻っている炎が見えた。
一気に燃え上がってはおらず、熾火状態だった。芯の方だけが熱を持ち、時折獣の舌を真似て蠢いた。
空を彷徨う煙は、苦い。風に流された分をまともに受けてしまって、小夜左文字は渋い顔をして咳き込んだ。
「けほっ」
「ああ、悪りぃ。大丈夫か?」
急ぎ口を袖で塞ぎ、息を止める。しかし鼻から吸い込んだ分が粘膜に残って、いがいがした感触が不快だった。
背を丸めて噎せている子供に、反応したのは御手杵だった。
秋の終わりまでだらしなく開いていた上着の前は、今は喉元までぴっちり閉じられていた。但し動きに邪魔だからか、袖は肘の手前までまくり上げており、太くはないが筋肉質な腕が覗いていた。
急ぎ立ち上がり、駆け寄って来た。大きな手で背中を撫でられて、小夜左文字は濡れた口元を拭った。
「大事ない」
「そっか。そりゃよかった」
多少無理をして言えば、彼は強がりをあっさり信じた。不安げだった表情をパッと切り替えて、人好きのする笑顔を浮かべた。
まだ本丸に来て日が浅い男だが、気さくな性格をしているのもあって、すっかりここの生活に馴染んでいた。上背があり、意外に力持ちで、短刀たちからも人気だった。
大太刀にはどこか近寄り難い雰囲気があるけれど、御手杵は違う。彼は遠くでもじもじしている子供達を見ると、話しかけられるより早く、自ら彼らを遊びに誘った。
但し今は、傍に短刀はいない。焚き火を前にして蹲っているのは、同田貫正国だけだった。
「なあ。まだ焼けねえのか」
その打刀が、顔を上げてぼそっと言った。小夜左文字など眼中にない態度で、舞い上がる煙を指差した。
「ああ。ちょっと待ってな」
呼ばれて、御手杵が振り返る。軽く右手を振って竹竿を揺らして、黒ずんでいる先端を枯葉へと突き刺した。
もれなく立ち上る煙の量が増えた。もくもくと灰色に濁ったものが広がって、裏庭の一帯を曇らせた。
視界が霞んで、小夜左文字は仰け反った。迫りくるものを避けようと風上に向かって、同田貫正国がいる方へと逃げた。
「うあ」
途中、よく見ていなかった所為でなにかに躓いた。倒れそうになって片足立ちで飛び跳ねて、少年は跳ね上がった鼓動に冷や汗を流した。
トン、トン、トン、と等間隔で横へ跳び、着地を決めて胸を撫で下ろす。はー、と息を吐いて額を拭って、前方を見れば古びた桶があった。
中の水が、ちゃぷちゃぷ揺れていた。もっと勢いつけてぶつかっていたら、蹴り倒してしまうところだった。
「あぶなかった」
水を浴びれば、火は消える。
焚き火を邪魔するところだったと安堵して、彼は枯れ葉の山を掻き回す御手杵に首を捻った。
竹竿を持ち上げたり、突き刺したりして、煙る枝葉を探っていた。何をしているのか怪訝にしていたら、やがて黒ずんだ灰の中から、ごろんとなにかが転がり落ちた。
白い煙を全体にまとって、非常に熱そうだ。
形状はやや細長で、楕円形。表面は真っ黒で、焦げた石にしか見えなかった。
「あちぃぞ」
「わーってる」
それを、同田貫正国は素手で掴もうとした。御手杵から警句が発せられたが構わず、指先でちょいちょい、と押しながら地面を転がした。
途中、表面を覆っていた黒ずみが剥がれ、地表へと残された。
よくよく注意して見れば、それは炭化した紙だった。雪に湿った地面との摩擦で粉々に砕けて、多くは風に攫われて空へと消えていった。
「なにを、している」
「んぁ? おめーも食うか?」
「だな。陸奥守の旦那に言ったら、分けてくれると思うぜ」
冬の空から目を逸らし、男たちに向き直る。
焚き火から取り出された塊を見詰めていたら、男たちふたりだけで勝手に会話を進められた。
事情が読み解けず、意味が分からない。
首を傾げて怪訝にしていたら、火傷した手を水に浸し、同田貫正国が緩慢に頷いた。
「芋、食うだろ」
言って、拾い上げた塊の表面を払った。濡れた手で炭化した紙をべりべり引き剥がして、出て来た紫色の物体を小突いた。
そこまで言われて、小夜左文字は理解した。
「唐芋」
同田貫正国が握りしめているもの、それは本丸の畑で栽培している唐芋だった。
見た目は悪いが、味は甘い。栗にも勝るとまで言われており、焼いても、炊いても、申し分なかった。
どうやら彼らはその芋を、焚き火で焼いていたらしい。
この芋については、陸奥守吉行が並々ならぬ情熱を注いでいた。収穫後の管理も彼が務めており、勝手に盗み出すのは至難の業だった。
昼餉は終わって、夕餉までまだ間があった。八つ時の甘味は短刀や脇差中心に配られて、打刀以上に回って来ない日は多かった。
だから彼らは、自分たちだけで楽しんでいたのだろう。但し見つかっても、追い払おうとはしなかった。
熱々の皮を剥き、黒衣装の打刀は芋に齧り付いた。大きく口を開け、がぶりと頭を噛み千切った。
剛毅な食べ方が、いかにもこの刀らしい。
むしゃむしゃ咀嚼する音が聞こえて来て、小夜左文字は頬を緩めた。
「いらねえの?」
「僕は、いい」
陸奥守吉行を探しに行くかと思えば、動かなかった。焚き火の傍で佇み続ける少年に、御手杵は訊ね、返事を受けて頷いた。
芋を探す間に散らばった枯葉を一ヶ所に集め、上手に竹竿を操る。突くことしか出来ない、と言い張る割には器用で、そちらを眺めている方が面白かった。
どうせ八つ時の菓子は、歌仙兼定が作ってくれているはずだ。
今ここで芋を食べていては、それが腹に入らない可能性が高かった。
焼き芋の美味さは知っているが、丁寧に作られた和菓子には敵わない。贔屓目と分かっているが、比較対象にもならなくて、少年は不遜に笑い、胸を張った。
明らかにひと回り以上寸法が大きい褞袍ごと身を揺らし、膝をぶつけ合わせる。遠慮しているわけではないと仕草で示せば、御手杵は穏やかに微笑んだ。
「そっか」
向こうでは同田貫正国が、物言いたげな顔をしていた。だが焼き立ての芋を食べるのに忙しくて、話に割って入ってこなかった。
本丸の中に入れば、火鉢で炭が燃えていた。腰が重い面々がその周囲に集って、だから冬は嫌いだなんだと、実りのない会話を繰り広げていた。
焚き火も、温かかった。火傷しない程度に距離を保って、小夜左文字は両手を広げ、翳した。
皮膚からじんわり熱が伝わり、身体の芯まで届くようだった。煙たいのだけが難点だが、慣れればどうということはなかった。
「御手杵は、食べないのか」
「ん? ああ、俺はもう食ったから」
「俺がこいつを見つけた時には、もうふたつ食った後だった」
「言うなって。しょうがねーだろ、我慢出来なかったんだから」
ふと気になって傍らに問えば、槍の青年は暴露話に顔を赤くした。同田貫正国に指差されて、恥ずかしそうに竹竿を振り回した。
ぶんっ、と空気を唸らせて、風圧が乾いていた木の葉を弾き飛ばす。小夜左文字は前髪を掬われて、目に入った細かい塵に奥歯を噛んだ。
咄嗟に瞼を閉じたが、間に合わなかった。
眼球に刺さった痛みに息を詰まらせ、少年はもみじの手で顔を押さえこんだ。
「いった……」
「あーあぁ」
「わ、やべ。悪い、小夜助」
か細い悲鳴に、同田貫正国のやる気のない非難が重なった。御手杵は慌てて竹竿を放り投げると、猫背で俯いている少年に駆け寄った。
膝を折って屈み、心底申し訳なさそうな顔をした。大丈夫か、と問いかけて、細い腕を左右から挟み持った。
褞袍の袖ごと握られて、小夜左文字は鼻を啜った。自然と溢れた涙で目尻を濡らして、何度も瞬きして、入り込んだ塵を洗い流した。
「へい、き。だ」
手首で涙を拭い、途切れ途切れに囁く。
それで御手杵は肩の力を抜いて、地面に尻から倒れ込んだ。
「よかった~~」
心からホッとした表情で、万歳しながら叫ばれた。雪が解けた地面はほんのり湿っているのに、着ているものが濡れるのも構わず、嬉しそうに白い歯を見せた。
他人事なのに、我が事の如く扱って、喜んだり、哀しんだり。
そうやって他の刀たちに気持ちを寄り添わせられるから、彼は皆から慕われているのだろう。
あまり会話をしたことがなくて、よく知らなかった。
なんだか親近感が湧いて、小夜左文字は首を竦めた。
「もう、心配ない」
「洗ってこなくて平気か?」
「問題ない」
歌仙兼定並みに過保護だが、彼ほど押し付けがましくない。引き際をわきまえている槍に深く頷いて、短刀は睫毛に残る涙を弾いた。
深呼吸して、喉と胸の間辺りを軽く叩く。
微かに残る違和感を払拭しようとしていたら、御手杵が懐をごそごそし始めた。
「ちょっと待ってな」
小夜左文字を引き留め、手は忙しなく動いた。胸元、尻、腰とあちこち叩いて回って、最終的に上着の右衣嚢から、目当てのものを引き抜いた。
ゴロゴロ言う球体を掌に転がして、良く見えるように差し出す。
無骨な手が掴んでいたのは、光を透かす綺麗な硝子玉だった。
「びいどろ?」
「ああ。綺麗だろ?」
全部で三つ。色は透明と、赤と、青だった。
親指の先ほどの大きさで、歪みのない球形をしていた。ぶつかり合えばカチリと音が響き、跳ね返ってコロコロ転がった。
びいどろを使った品は、これまでにいくつか見たことがあった。金魚鉢や風鈴や、酒杯といったものがあった。
しかしこれは、初めて見た。実用品と言うには用法が思いつかず、調度品にするにしても些か小さかった。
それをひとつ手に持って、御手杵は片目を閉じ、その斜め上に球体を掲げた。
曇りがちの柔い日差しを受け、びいどろの赤が彼の頬に落ちた。影が色をまとって、きらきら輝いていた。
「へ、え……」
今まで、影は全て黒一色と思っていた。
濃淡こそあれど、水墨画の中から抜け出せない。そう信じて、疑わなかった。
赤色の影がそこにあった。
ゆらゆら揺れて、不可思議な光景だった。
「すごい」
「へへ。いいだろ?」
感嘆の息を漏らせば、御手杵がにっ、と笑った。白い歯を見せて得意になって、偉そうに胸を反らした。
芋を食べ終わった同田貫正国だけが、冷めた顔をしていた。食べられないものには興味ないと言いたげで、眇められた双眸は眠そうだった。
「けどよ。こいつを、もっと綺麗に出来んだぜ」
「どうやってだ?」
「よーっし、小夜助。そこの桶、こっち寄越してくれ」
頬杖ついている打倒の前で、御手杵は上機嫌に言い放った。興味を示した短刀に不敵に笑い、口角を持ち上げ、古びた木桶を指差した。
先ほど蹴り飛ばすところだった桶には、なみなみと水が張られていた。持ち上げればずっしり重く、底の方には黒い破片が散らばっていた。
御手杵はまず、その桶に近くの雪を放り込んだ。
「なにをするんだ?」
「つっべて。うん、これくらいでいいかな。小夜助、火箸探してきてくれ」
びいどろの球を、どうやってもっと輝かせるのか。
答えをなかなか教えようとしない彼に、小夜左文字はふと思って頬を膨らませた。
「さっきから気になっていたが、それは僕のことか?」
「ん? 駄目か?」
「…………べつに」
素で聞き返されて、咄嗟に否定出来なかった。
今までそんな変な呼び方、されたことがなかった。慣れなくてどうもむず痒くて、そわそわして落ち着かなかった。
ただ呼び捨てにされるより、親しみを感じた。
分け隔てなく接せられているのが伝わって来て、照れ臭かった。
仄かに頬を朱に染めて、小夜左文字は素っ気なく言い捨てた。踵を返したのは火箸を探しに行ったからで、気恥ずかしさから逃げたわけではなかった。
畑で使う農耕具などを収納した物置小屋で言われたものを見付け、駆け戻った。待ち構えていた御手杵は、黒い鉄製の棒を二本受け取ると、赤色の硝子玉を指で弾いた。
「そら」
言って、燃える枯れ枝の山目掛けて放り投げた。ズボッ、と沈むと同時に火箸を操り、素早く木の葉で覆って隠した。
同田貫正国も、突然のことに目を丸くした。あんな綺麗なものを惜しげもなく投げ放った彼に、小夜左文字は騒然となった。
「燃やすのか」
「この程度の火じゃ溶けねえから、安心しな」
唖然としたまま呟けば、高い位置から合いの手が返された。御手杵は棒を通じての感触を頼りに球体を転がして、万遍なく熱が通るよう動かした。
表情は余裕綽々としており、慌てる素振りはなかった。余程自信があるらしく、鼻歌まで聞こえて来た。
そんな槍を惚けたまま見つめて、小夜左文字はパチパチ燃える焚き木の煙を手で払った。
「そろそろかな」
風向きがまた変わった。煙たさに咳き込んでいた少年は、続けて起こった爆発音にビクッとなった。
バチィッ! と、かなり凄まじい音がした。油断していた所為で驚かされて、心臓が口から飛び出そうになった。
白い煙が膨らんで、一瞬のうちに掻き消えた。桶から水飛沫が立ち上って、跳ね飛んだ水滴が雪沓にまで降りかかった。
「おいおい、なんだこりゃ」
向かい側で見ていた同田貫正国も、腰を浮かせて声を荒らげた。眠気を吹き飛ばして瞬きを繰り返し、苦笑している槍を睨みつけた。
御手杵は小さく舌を出して首を竦め、後頭部を左手で掻き回していた。
「わりぃ、わりぃ。失敗した」
軽い調子で謝罪して、木桶に突っ込んだ火箸で水を掻き回す。
いつの間に移動させたのかと唖然として、小夜左文字は煙が染みる目をパチパチさせた。
桶を覗き込めば、底に沈殿するものが増えていた。
「ばらばらだ」
「ちいっと、加熱し過ぎちまった」
それは他ならぬ、炎にくべられた硝子玉だった。
真ん丸かったものが、真っ二つになっていた。大きい塊と、小さな塊とに分かれて、細かく刻まれ、破片が光を反射していた。
きらきらと、綺麗だった。
「これが?」
凹凸が激しい壁面を通し、屈折した光は不可思議な彩を産み出した。小さな虹が浮き上がっており、これはこれで美しかった。
膝を折ってしゃがみ、水面を覗き込んだ少年が声を弾ませる。
しかし御手杵はゆるゆる首を振り、残った二個の球を掌に転がした。
「次は巧くやる」
小夜左文字は聞き逃していたが、彼は先ほど、失敗した、と言った。この経験を教訓にすると、独白は力強かった。
「長く入れ過ぎたんだな。もうちっと早めに、早めに」
「やめとけって。あぶねーぞ」
「大丈夫だって。よーし、いっくぞー」
自分自身に言い聞かせ、御手杵が青色の硝子玉を構えた。堪らず同田貫正国が止めに入ったが、槍は耳を貸さなかった。
失敗したままでは終われないと、そう思っているのだろう。彼もご多聞に漏れず意地っ張りで、負けん気が強かった。
気合いを入れて、燻る炎の中へ球体を放り込む。火箸を素早く操って、全体に熱が通るよう転がし続ける。
それから四十か、五十を数えた辺りだろうか。
真剣な表情をして、御手杵は長い火箸を器用に操った。
滑りやすい硝子に灰を塗し、それを滑り止めとして鉄棒で抓み取る。落とさないよう細心の注意を払い、水を張った木桶へと放り投げる。
「うっ」
ジュッ、と何かが焦げる音がした。
水柱が白く翳って、真上に散った飛沫が桶の中へと落ちた。ボタボタとその辺一帯だけが通り雨に見舞われて、小夜左文字は唖然としたまま、汗を流している槍と足元を見比べた。
煙は徐々に晴れていった。
次第に明るさを増していく視界で、キラリと何かが輝いた。
「さて、どうだ?」
同じものを見つけ、御手杵が声を高くした。興奮気味に鼻息を荒くして、火箸でぐるぐる水を掻き回した。
渦が巻いて、中心部が僅かに低くなった。流れに合わせて底に溜まっていたものも浮き上がり、転がって、壁にぶつかり音を立てた。
なんだか分からないけれど、胸が高鳴った。
わくわくしてならず、小夜左文字は無意識に汗ばむ手を握りしめていた。
拳を作り、固唾を呑んで見守る。
やがて御手杵は手を休め、水流が静まるのを待って火箸を置いた。
「巧くいっててくれよ?」
期待を込めて呟いて、右手を桶の中へ突っ込んだ。
戦闘狂の打刀までもが、焚き火の向こうで息を潜めていた。つられて小夜左文字も息を止め、御手杵の利き手に意識を集中させた。
瞬きも忘れて凝視して、緩く握られた指が解かれる瞬間を待つ。
「お、やった」
「なに?」
「どれどれ?」
掌から零れた水が、焚き火の上にボタボタ落ちた。手にした感触で歓声を上げた槍に、短刀も、打刀も興味津々だった。
背伸びをして、小夜左文字は瞳を見開いた。同田貫正国も関心はあったようで、立ち上がり、焚き火を回り込んだ。
御手杵は左右から注がれる眼差しに相好を崩して、掌に残った球体に目尻を下げた。
火の中に放り込まれる前、それは鮮やかな青一色だった。
しかし今、彼の手にある球体には、内側に無数の割れ目が入っていた。
縦に、横に、斜めに、交差して、並走していた。しかし表面に傷らしい傷は見当たらず、今にも破裂しそうなのに、球体は形を維持し続けた。
乱反射する光は、桶に沈む破片どころではなかった。青い影は不規則に散らばって、まるで夜空を飾る天の川だった。
たったひとつの硝子玉の中に、夜空が閉じ込められている。
摩訶不思議な光景に息を飲んで、小夜左文字は背筋を戦慄かせた。
「ひゃっ」
鳥肌が立った。汗が噴き出て、震えが止まらなかった。
背中がゾクッと来て、少年は悲鳴を上げた。反射的に自分で自分を抱きしめて、藍の髪の少年は身体を上下に揺さぶった。
襲い来た寒気を堪え、摩擦で温める。剥き出しの膝をぶつけ合わせて、内股気味にひょこひょこ動き回った。
愛くるしいその仕草を笑って、御手杵は濡れている球体を袖に擦り付けた。
表面の水滴を取り除き、改めて光に晒す。
「すげえな。どうなってんだ」
「ああ。あっためた奴を、急に冷やすとこうなるんだ」
横から覗き込んだ同田貫正国が、疑問符を撒き散らして首を捻った。御手杵は原理を手短に解説して、小夜左文字に向き直った。
「え?」
「ほら。持ってけ」
やおら言って、戸惑う少年に硝子玉を差し出す。
今にも地面に落としそうな雰囲気に、短刀は慌てて両手を広げた。
左右を並べ、隙間を埋めた。御手杵はその真ん中に割れ目が入った硝子玉を、落とすのではなく、そっと置いた。
少し前まで炎の中にあったのに、冷たかった。触れれば壊れてしまいそうで、小夜左文字はなかなか動けなかった。
「衝撃に弱いからな。乱暴に扱うと、こっちみたいになるから気をつけろ」
上と下を見比べて、気もそぞろに落ち着かなかった。そんな少年に目を眇め、槍の青年は爪先で木桶を蹴った。
軽く揺らして、水面を波立たせた。その底には細かくなった硝子片が、宝石のように煌めいていた。
そちらにも視線を投げて、小夜左文字は深く息を吸い込んだ。告げられた内容を一緒に飲みこんで、胸にしっかり刻み付けた。
宝物をもらった。
きらきら光って、見たこともない輝きを放っていた。
「大事に、する」
「へへ。そうしてくれや。あ、そうそう。他の連中には内緒な。俺も、あんまり持ってねえんだ」
「……いいのか?」
「構わねえさ。大事にしてくれんのなら、な」
恐る恐る表面を撫で、小夜左文字は聞こえた台詞にハッとなった。貴重なものを分けられて臆しかけたが、御手杵は居丈高に言って右目だけを閉じた。
短刀は数が多く、粟田口などは特に賑やかだ。小夜左文字ひとりが優遇されたと知れば、不満の声も聞かれよう。
喧嘩になったら、勝ち目がない。同田貫正国をちらりと窺えば、彼は手近な小石を拾い上げ、これでも可能かと訊ねていた。
「いや、それは……割れるだけじゃねえ?」
「そうか。難しいもんだな」
彼は割れ目が入った硝子玉よりも、割れる工程の方に興味があるようだった。奪い取られる様子もなく、言い触らしそうな気配もなくて、小夜左文字は肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。
頬を緩め、嬉しさに目尻を下げる。
「気に入ったか?」
「ああ。……ありがとう」
「どーいたしまして」
訊かれ、迷わず頷いた。照れ臭さを覚えながら礼を言えば、御手杵は両手を後頭部に掲げ、白い歯を見せた。
光に透かせば、青色があらゆる方角に散らばって見えた。片目を閉じて太陽を覗き込んで、小夜左文字は小さな幸せを噛み締めた。
ギシギシと、嫌な音が響いていた。
空っ風が空を舞い、血腥さが鼻についた。左腕からはじくじくした痛みが生じて、肘から先に力が入らなかった。
動けば、鮮血が地表に散った。ぬるっとした感触が肌を伝い、直綴の下に着込んだ白衣を赤く染めていた。
脂汗が止まらないのに、末端から冷えていくのが分かる。身体の芯はかっかと燃えるように熱いくせに、表層部に近付くにつれて、氷の如く冷たかった。
相反する状況を抱えて、小夜左文字は走った。歯を食いしばって、必死に、追ってくる異形から距離を稼ごうとした。
戦場では常に先陣を切り、敵の戦列に突撃するのが彼の戦い方だった。
けれど今回は、それが裏目に出た。一撃で屠れなかった相手を前に、彼は撤退戦を強いられていた。
常々前に出過ぎだと怒られていた。ひとりで突出し過ぎると、万が一の時に守ってやれないと言われて来た。
耳を貸さなかった。
手助けなど必要ないと突っぱねて、改めようとしなかった。
その結果が、これだ。後ろで声を張り上げていた仲間を想って、短刀は痺れ始めた肩に奥歯を噛み締めた。
中央突破を目論み、表向きは達成された。敵の戦列を乱し、統率を失わせる策は成功だった。
けれど、止めを刺せなかった。
思わぬ反撃を喰らって、手傷を負った。一撃は想像以上に鋭く、身の自由を奪われた。
「っは、……は、っく、は。んぐ!」
ここで足を止めるわけにはいかなかった。刀装は既に剥がされ、なにも残っていない。あと一発喰らったら、どうなるか分からなかった。
全身が悲鳴を上げていた。血まみれの左腕は、いつ引き千切れても可笑しくなかった。
咄嗟に頭を庇って、肉を抉られた。確かめる暇もなかったけれど、下手をすれば骨が覗いている可能性があった。
汗が止まらなかった。息が上がって、時折目が霞んだ。
止血している余裕などなかった。血を流し過ぎている。分かっているが、のんびり手当てしている場合ではなかった。
追われていた。距離は少しずつ、少しずつ狭まっていた。
折れるなど、どうということはないと思っていた。
仇を討てるのであれば、この身がどうなろうと構わないと息巻いていた。
『死』が迫っていた。目に見える形で、背後から押し寄せていた。
「は、ぁ……っい、……だ、あっ」
知らぬ涙が溢れていた。鼻が詰まり、息が苦しい。圧迫された心臓が悲鳴を上げて、足がもつれそうになった。
転びかけた。必死に踏ん張って耐えるが、ズン、と鉛のように重くなった身体は言うことを聞かなかった。
倒れるのだけは回避したが、速度が一気に落ちた。最早地を蹴って、駆けるのも難しい。足裏は地面から剥がれず、引きずるように進むのがやっとだった。
吸い込むより、吐き出す息の方が多かった。
頭がくらくらして、状況がどう変わっているか、なにも分からなかった。
恐ろしかった。
肉体的な痛みよりも、心が押し潰される恐怖が勝った。
恨みだけで生きて来た。審神者の命に従っているのも、仇を見つけられるかもしれないという、虚しいだけの願いがあったからだ。
仇討はとうに果たせているのに、まだ追いかけてしまう。
あの山賊を見つけ出して殺さなければ、この身は救われない。穢れた刀身の罪は漱がれず、清められることはないのだと信じて、疑わなかった。
目的を遂げないまま、こんなところで滅びたくなどない。
否、そうではない。
そんなこと、最早どうでも良かった。
涙が頬を伝った。犬のように舌を出して息をして、小夜左文字は刀を握る右手で胸元を押さえこんだ。
暗く澱んだ世界の中で、キラキラ輝くものがあった。少ない光を集めて闇を照らし、澄んだ青色の影を産み出していた。
星空を閉じ込めた硝子玉を、無意識に探していた。
宝物は、ひとつ、またひとつと増えていった。仲間が増えて、経験を積んで、新しい記憶を得る度に、抱えきれないくらいに沢山の輝きで溢れ返っていた。
「い、……や、だ」
それらがぽろぽろと、指の隙間から零れ落ちていく。
意見が合わなくて喧嘩をしたり、仲直りしようとして余計怒らせてしまったり。
美味しいものを食べた。新作の味見役を押し付けられて、あまりの塩辛さに悲鳴をあげもした。
季節が巡っていった。庭の景色が変わっていくのを見守って、雪の冷たさに歓声を上げた。
兄弟に会った。
巧く会話が出来なくて、そう接すれば良いか分からないままだけれど、少しずつ歩み寄れている感じはしていた。
早く安全なところに逃げて、身を隠して、体勢を立て直す。
やるべきことは分かっているのに、足取りは重く、なかなか前に進まなかった。
斬られたところが熱かった。
身体中どこもかしこも痛くて、却って痛みというものが分からなくなりかけていた。
目の前が白くぼやけていた。濃い霞がかかって、なにもかもが濁って見えた。
己の荒い呼気だけが聞こえていた。耳鳴りは酷くなる一方で、頭がガンガンして、眩暈は一向に治まってくれなかった。
諦め悪く足掻くけれど、身体はついてこなかった。
全ては自分の未熟さ、愚かさが招いたことと。今更悔やんだところで後の祭りと、押し殺し切れない笑いが漏れた。
鼻を愚図らせ、唇を噛む。
牙を突き立てれば皮膚が破れ、血が滲んだ。それで辛うじて理性を保って、小夜左文字は刀を握りしめた。
一緒に出陣した仲間たちは、どうなっただろう。
短刀がひとり欠けたところで、戦闘に支障はないはずだ。むしろお荷物がいなくなって、清々しているかもしれなかった。
彼らが無事であればいい。
助けは期待できないし、望むのも烏滸がましかった。
敵を振り切れていれば、それが一番良かった。しかし振り返って確かめる気力は、欠片も残っていなかった。
どうせ絶望するだけと、最初から分かっていた。首筋はチリチリして、内臓は沸き立っていた。
圧倒的な悪意が背後から迫り、小さな身体を呑み込もうとしていた。絡め取られればひとたまりもなく、蟻を踏むように潰されて終わりだった。
早く。
早く、もっと遠くへ。
「く、……っあ、は……ぅぐっ」
懸命に力を振り絞り、棒と化した足を鼓舞した。動かない腿を殴って叱り付け、一歩でも先に進もうとした。
けれど、叶わない。
なにをどうやっても、思い通りにいかなかった。
万策尽きた。
乾いた笑みが浮かんで、身を揺らした小夜左文字は、直後。
瞠目し、虚空を掻き毟った。
敵が迫っていた。
鉈のような刀を振り回して、無表情で。空っぽの眼に赤黒い炎を宿し、刀剣男士を打ち滅ぼさんとして。
淡々と、粛々と。
歴史修正主義者の命令通りに、事を成さんとして。
思えば彼奴らも、小夜左文字たちとさほど変わりない。一方的に喚び出され、一方的に使命を押し付けられて、身を削って闘わされて。
けれど哀れみは覚えなかった。
敵側にまで同情してやれるほど、小夜左文字は心優しくもなければ、出来た刀でもなかった。
いつだって自分のことに精一杯で、いつだって目の前のことに必死だった。
今だって、そう。
「待っ……!」
悲痛な叫びは、足元に向けて発せられた。
刀を握る手を懸命に伸ばして、掴もうとしているのは大切な、大切な宝物のひとつだった。
服の間から零れ落ちた硝子玉が、一直線に地面に向かっていた。必死に追いかけるものの指は空を掴み、あと少しのところで届かなかった。
脳裏に、穏やかな日常の光景が浮かび上がった。
衝撃に弱いから注意するよう、背高の青年が笑っていた。
落ちる。
落ちてしまう。
急いで捕まえようと、躍起になった。無我夢中で、一瞬だけ、他のこと一切が頭から抜け落ちた。
痛みも、緊迫する状況も。
迫りくる一撃も、なにもかもを。
「――っ!」
ビュンッ、と空を切り裂く音が首の真後ろで奔った。
産毛が一斉に逆立つ圧迫感に瞠目して、小夜左文字は削り取られた後ろ髪の一部に騒然となった。
硝子玉が割れる音は、彼の耳に届かなかった。
木っ端微塵に砕け散った破片が指に当たって、その痛みが現実味を呼び戻した。膝からガク、と崩れ落ちて、少年はヒュッ、と息を吸い込んだ。
黒々とした巨躯が見えた。
禍々しい気配を纏って、横薙ぎに払った刀を縦に持ち替えようとしていた。
破損した鎧の間から見えるのは、真っ黒い闇。ただそれだけ。
だが面頬で覆われた口元は、確かに嗤っていた。
惨めな短刀を踏み潰す愉悦に浸り、傲慢に勝ち誇っていた。
両手で巨大な刀を握り、頭上に掲げ、振り下ろす準備に入る。
行動はゆっくりで、大胆だった。しかし小夜左文字には立ち上がる力も、跳んで避ける体力も、なにひとつ残されていなかった。
砕かれてしまう。
自分も、この硝子玉のように。
粉々に、跡形もなく――――
「串刺しだあ!」
「っ!」
咄嗟に頭を庇い、覚悟が決まらない心ごと抱きしめた。
鋭い声は死角から発せられて、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ぐらりと、敵大太刀の身体が揺れた。その身を守る頑強な鎧の一部が剥がれ落ちて、その中心部から、鋭く尖った銀の穂先が閃光を放った。
一瞬自分が突き刺される錯覚に陥って、小夜左文字は絶句した。瞠目し、硬直して、突然過ぎる出来事に呆然となった。
蹲ったまま唖然として、目を真ん丸にして凍り付く。
身の丈七尺はありそうな大太刀は天を仰ぎ、鎧を突き破った穂先が失われると同時に、ガラガラと崩れていった。
巨大な角を持つ兜が地面にひっくり返り、端からサラサラ溶けていく。砂粒となって風に流され、そのまま光に呑まれて消えていった。
目の前での出来事が、すぐに理解出来なかった。
「……え、ぁ」
長く忘れていた瞬きを思い出し、短刀の少年は雲間から射す光にかぶりを振った。惚けたままへたり込んで、槍を手元に戻した背高な青年を、信じ難い思いで見つめ続けた。
彼はやや茶色がかった髪を、無作法に掻き上げた。人好きのする笑みは一旦奥に仕舞われて、表情は真剣そのものだった。
「無事か、小夜」
放たれた声は低く、槍のように鋭い。眼差しは剣呑で、注意深く周囲を探っていた。
索敵は苦手なくせに、他に敵がいないか警戒を怠らない。構えを解かないまま摺り足でにじり寄られ、小夜左文字は大きく肩を、二度、三度と上下させた。
現実味が戻って来た。
乾いた風に乗り、遠くから呼ぶ声も聞こえて来た。
「小夜!」
知った顔が小さく見えた。共に出陣した一番隊の面々が、揃ってこちらに向かっていた。
敵は一掃し終えた後らしく、彼らは刀を鞘に戻していた。それで御手杵も槍を下ろし、安堵の息を吐いた。
険しかった表情が和らぎ、口元に薄く笑みが浮かんだ。仲間の合流を待つべく手を振って、小夜左文字が無事だと大声で皆に教えた。
「どう、……して」
「んあ?」
生き延びた。
破壊されずに済んだ。
実感はじわじわ沸き起こって、それに合わせて忘れかけていた痛みも蘇った。
血は依然流れ続け、貧血で頭がぐらぐらした。安堵もあって力が抜けて、今にも気絶してしまいそうだった。
それを必死に堪えて、小夜左文字は唇を戦慄かせた。
どうして生き長らえられたのか。偶然が偶然を呼んで、最早奇跡と呼ぶしかなかった。
絶体絶命だった。完全に駄目だと思った。
どうにもならないと、諦めかけていた。
御手杵は掠れた小声に首を傾げ、傷だらけの小夜左文字に眉を顰めた。痛ましい姿に苦々しい表情をして、陽光を浴びる硝子片にも半眼した。
長い腕を伸ばして、大きな欠片を抓み取る。
「そっか。割れたのか」
「……っ、すまない」
「いや」
彼はそれが何であるか、すぐに分かったようだ。感嘆の息を吐いてしみじみ言って、震えあがった少年にはゆるゆる首を振った。
目を眇め、破片を光に翳した。青色は当初に比べて幾分色を濁らせ、出来上がる影は黒ずんでいた。
折角もらったものを、壊してしまった。
大事にすると約束しておきながら、なんということだろう。嫌な思いをさせてしまったと悔やんで、小夜左文字は申し訳なさそうに奥歯を噛んだ。
落ち込んで、項垂れた。
その丸い後頭部に、ぽん、と大きな手が触れた。
「お前の代わりに割れてくれたんだ。感謝しねえと」
くしゃくしゃと掻き回して、御手杵が呟く。
あの時、敵大太刀は短刀の首を断ち切ろうとしていた。その細い頸部を一閃して、胴と分離させようと目論んでいた。
それを、小夜左文字は躱した。前のめりになって、姿勢を低くして、ぎりぎりのところで回避した。
紙一重だった。あと一秒でも遅ければ、御手杵はここで朽ち果てた刀をひと振り、回収する羽目になっていた。
罅の入った硝子玉が、小夜左文字を救った。
落ちた珠を拾おうとしていなければ、彼は今、此処に居ない。
「小夜、怪我は。怪我は、大丈夫か」
「うっわ、こりゃ酷ぇ。早く戻って手入れ部屋放りこまねえと」
「撤退する。準備急げ」
駆け寄ってきた面々が矢継ぎ早に言葉を発し、止血を試みる者もいた。歌仙兼定に即席の包帯で腕を巻かれながら、小夜左文字は騒がしくなった周囲をぼんやり見回した。
御手杵はまだそこにいて、長い槍を肩に担いでいた。忙しく動き回るへし切長谷部を興味深そうに眺めるだけで、手伝う気は皆無だった。
それはそれで、彼らしい。
「いっ……」
ぼうっとしていたら、歌仙兼定に思い切りよく傷口を縛られた。ぎゅうぎゅうに締め付けられて、別の痛みに涙が出た。
「これからは今日みたいな、馬鹿な真似は控えることだ」
「分かっ、た」
説教は、こりごりだった。
反省は充分過ぎるくらい、した。愚かしい真似をして皆に迷惑をかけたと、心から思っていた。
敵に追い詰められた恐怖は、まだ消えていない。胸には疼く物が残って、折りを見てじくじく痛みを発していた。
心の中が膿んでいた。
澱が溜まって、腐臭を発していた。
俯いていたら、ため息が聞こえた。応急処置を終えた打刀が血で汚れた手を手拭いに擦りつけて、ついでとばかりに頬に押し付けて来た。
やや乱暴に拭われて、無理矢理顔を上向かされた。ちゃんと目を見て返事をするよう、無言で威圧された。
「ぐ……」
迫力は凄まじく、本気で怒っているのが窺えた。歌仙兼定の短気ぶりは重々承知しており、折角助かったのに、生きた心地がしなかった。
苦虫を噛み潰したような顔をして呻き、鼻を愚図らせる。
そこへ。
「まあまあ、その辺にしといてやれよ。いいじゃねえか。こうして無事だったんだから」
「御手杵」
調子のよい明るい声が、高い位置から降ってきた。間に割り込んで仲裁に入り、憤っている歌仙兼定を先に宥めた。
向こうの方ではへし切長谷部も、撤退準備を進めつつ、ちらちらと様子を窺っていた。
歌仙兼定の説教が長引きそうなら、止めに入るつもりでいたのだろう。そうなれば新たな火種が発生しそうだったが、幸い、最悪な展開は回避された。
穏やかで朗らかに言われて、細川の打刀は口にしかけた言葉を呑み込んだ。どうせのらりくらりと躱されるだけと、口論になる前に降参した格好だった。
「引き上げるぞ」
そうこうしているうちに、へし切長谷部が号令を下した。戦利品を数えていた獅子王と鯰尾藤四郎が一斉に立ち上がって、小夜左文字は御手杵によって引っ張り上げられた。
「立てそうか?」
「御手杵、小夜は僕が」
「歌仙の旦那も、結構痛そうな顔してんだけどな。俺は無傷だし、これくらいはやらせてくれ」
二本足で立てるかどうか聞かれ、首を振ろうとしたところで別の声がかかった。
頭の上をすり抜けた打刀の台詞に、斜め向かいにいた槍の青年は屈託なく笑って、自身の鼻をちょん、と小突いた。
確かによく見れば、歌仙兼定はあちこち傷だらけだった。
小夜左文字ほど酷くないが、袖が裂けて、袴も汚れていた。鼻の頭から左頬に向けて切り傷が走っており、血は乾いていたが、見るからに痛そうだった。
他の刀たちは軽傷か、刀装のお陰で無傷が殆どだというのに、だ。
「宜しく、頼む」
指摘を受けて、歌仙兼定は悔しそうに顔を伏した。御手杵は鷹揚に頷くと、自力で動けない短刀を片手でひょい、と担ぎ上げた。
傷に障らないよう注意しつつ、小柄で軽い体躯を胸に抱く。
易々と扱われた方は意外な高さに驚きつつ、近くなった青年の顔に渋面を作った。
「あんまり心配かけてやんなよ」
歌仙兼定が怒るのは、小夜左文字の脆さを案じているからだ。ひとりで暴走しないよう、口を酸っぱくして言い聞かせるのだって、心から彼を想っているからだ。
それを時に鬱陶しく、面倒臭いと感じることもある。
恩着せがましいと反発して、押し付けるなと突っぱねたくなることもある。
「……うん」
それでも彼は、飽きることなく繰り返した。
傷口に巻きつけられた布は赤く染まって、鮮やかな牡丹の柄はすっかり駄目になっていた。
不格好に外套を切り裂いた男に目をやって、短刀は小さく頷いた。
疲弊しきった身体を槍に預け、重い瞼を素直に閉ざす。
「御手杵も」
「ん?」
宝物は壊れてしまった。粉々に砕けて、跡形も残らなかった。
けれど何もかもがなくなったわけではなく、失われずに残ったものも、確かに存在した。
「あり、が、とう」
言い慣れない言葉を音にして、呟く。
聞こえた小声にきょとんとして、御手杵は首を竦めた。幾分重くなった身体を抱え直し、嬉しそうに笑った。
「どーいたしまして」
呵々と声を響かせ、眠ってしまった子供に相好を崩す。
その足取りは上機嫌で、踊るかのように軽やかだった。
2015/10/06 脱稿
竜田姫染めし木末の散るをりは 紅洗ふ山川の水
山家集上 497