閉めたはずのカーテンからの、漏れ入る光が眩しかった。
「う、……ん」
瞼を越えて瞳を射す輝きに、深く沈みこんでいた意識が揺り動かされた。暗闇が彼方へと追いやられて、心地よい睡魔を連れ去ってしまった。
空が明るい。
遮光カーテンは何をしているのかと、頭の片隅で文句が溢れた。販売店に言って抗議しなければ、と今日の予定も忘れてひとり憤って、ついに耐えられなくなってごろり、寝返りを打った。
柔らかな感触が背中に広がった。それでも眩さは防ぎきれなくて、物理的に壁を作るべく、右腕を額へと落とした。
覚醒しきらぬままの行動に、加減などありはしない。
「いった」
思いの外高いところから、勢いよくべりちとやってしまった。自分で自分を叩く結果に陥って、歌仙兼定はやり場のない苛立ちに口を尖らせた。
お蔭で完全に、目が覚めた。
少しだけ赤くなった額を陽に晒して、彼は瞼を持ち上げ、邪魔な前髪を後ろへ梳き流した。
寝返りを打った際の名残だろう、右膝がほんの少し持ち上がっていた。左足は力なく投げ出され、爪先が掛布団からはみ出していた。
「もう朝か……」
その状態でしみじみ呟いて、ぼんやりと木目が美しい天井を眺める。
左腕は胸元に添えられており、右腕を頭の上にやったポーズは、傍目からはかなり滑稽に映った。
想像して沈黙し、彼はもぞもぞ身動いで姿勢を正した。まずは両足を揃えて伸ばし、そこから半身を起こして、欠伸を零した。
「さっき眠ったばかりだったのに」
枕もとの時計を見れば、午前七時に届くかどうか、という時間だった。古めかしい柱時計も同じ頃合いを指し示しており、知らぬ間に時空が歪んだ、という事態が発生したわけではなさそうだった。
昔読んだ安っぽいSF小説を思い返して、彼は自嘲気味に笑った。もう一度前髪を掻き上げて、首を振り、掛布団は足元へずらした。
六畳ほどの部屋に、窓はひとつだけ。廊下に続く襖の反対側は押入れで、余った壁は書棚で埋められていた。
分厚い専門書を中心に、理路整然と片付けられていた。その脇には文机が置かれ、手前には草臥れ気味の座布団が、控えめに鎮座していた。
布団は部屋のほぼ中央に敷かれ、真上には明かりの消えた蛍光灯が垂れ下がっていた。
築年数だけが無駄に積み重なっている屋敷は平屋建てで、不便なところも多い。表向き華やかに映っても、中に入ってみれば改修工事が必要な場所だらけだった。
少々埃臭い空気を吸い込んで、欠伸をもうひとつ。
辛うじて残っていた眠気を奥歯で磨り潰し、歌仙兼定はしおらしく寝床を出た。
カーテンは、開いていた。窓の鍵は掛かっており、外を覗けば緑濃い庭が一面に広がっていた。
植物が力を蓄える時期だから、どれもこれも葉を茂らせて、のびのびしていた。餌を求める小鳥が枝を揺らして、チィ、チィ、と可愛らしい鳴き声を響かせた。
あの鳥は、なんという名前だっただろう。
すぐに思い出せなくて渋面を作り、彼はガラス窓に額を貼り付けた。
「顔を洗ってくるか」
しかし、思ったより冷たくなかった。
眠っている間に浮き出た油脂がくっきり残されて、無様だ。指で拭い取って、歌仙兼定は力なく肩を落とした。
寝入る前に稼働させた冷房器具は、タイマーをセットしておいたので、自動的に切れていた。湿気が取り除かれた空間は快適だったが、いつまでも此処に居続けるわけにはいかなかった。
寝間着代わりにしている作務衣の上から喉の下を掻き、その格好のまま襖を開ける。右に滑らせ、外との繋がりを作れば、一瞬のうちにムッとする熱気に取り囲まれた。
「年々……いやになるな」
涼しい空間に別れを告げて、彼は年を追うごとに厳しくなる夏に嘆息した。誰に言ったところで詮無い苦情を飲みこんで、ひたひたと、飴色が濃い廊下を突き進んだ。
慣れた足取りで、ふたり並んで通るのがやっとの道を行く。角を曲がったところで幅は少し広くなり、庭に面する明るい窓が現れた。
反対側に目を向ければ、梅雨時に入る前に張り替えた障子戸が見えた。
戸はいずれも閉まっており、中で動くものの気配はなかった。二間続きの座敷は無駄に広く、最も手前にある次の間を足せば、四十畳近くになる計算だった。
しかし近頃は、めっきり使わなくなった。
訪ねてくる人も減って、障子を取り払っての大宴会は、遠い昔の記憶となっていた。
どんちゃん騒ぎの幻を振り払い、歌仙兼定は突き当たりを左に曲がった。天井が高い床張りの空間に出て、右を向けば磨りガラスの玄関が控えていた。
式台は広く、がらんとしていた。上り框の下、三和土に靴は少なく、端の方に遠慮がちに寄せられていた。
全て左右揃えられ、行儀よく並んでいた。少々堅苦しい光景からふっと目を逸らして、彼は小振りの鼻をヒクヒク蠢かせた。
どこからか、甘い匂いが漂って来た。
正体は分からないけれど、すきっ腹に沁みる香りだ。堪らず唾が溢れ出して、歌仙兼定は音立ててそれを飲みこんだ。
「……はあ」
しかし喜び勇む身体に反し、心は深く沈んでいった。昏い穴倉から天を見上げて、男は力なく肩を落とした。
台所に行けば、恐らくは温かな朝食が用意されていることだろう。
それが誰の手によるものなのか、考えるだけで憂鬱になった。
朝早くから落ち込んで、もうひとつため息を零す。だが行かざるを得なくて、彼は渋々、踵を返した。
玄関に背を向けて、奥へ続く経路を取る。途中あった扉は無視して少し行けば、古びた木製のドアに行き当たった。
ノブを回して押せば、ガチャリと大袈裟な音がした。立てつけが悪い戸を力技で黙らせて、彼はタイル張りの床に爪先を置いた。
真っ直ぐ正面を向くと、己と瓜二つの顔があった。勿論それは肖像画などではなく、ただの四角い鏡でしかない。
角がやや黒ずみ、表面には雑巾で拭いた筋が残っていた。その下には陶器製の洗面台があり、蛇口はくすんだ銀色だった。
今時懐かしい、握って捻るタイプだ。水と湯の区別がつくように、青色と赤色のマークがそれぞれ取り付けられていた。
そのうち、右側の青色の方を掴み、軽く捻る。間髪入れず水が溢れ出して、手を差し伸べれば少し温めだった。
それを両手で掬って口を漱ぎ、寝ぼけた感じが残る顔へも叩き付けた。二度、三度と繰り返して、軽くこすって、歌仙兼定は犬を真似て頭を振った。
「髭は……後でいいか」
吐息と共に呟き、軽く顎を撫でる。手を振れば雫が舞い、鏡にも何滴か飛び散った。それを拭いもせず、放置して、利き手を宙に彷徨わせ、タオルを掴み取った。
「はあ」
口を開けば、ため息が漏れた。健やかな目覚めとは言い難い状況に肩を落とし、彼は洗濯したてで良い匂いがする布に顔を埋めた。
この柔軟剤の香りにも、随分と慣れてきた。
最初の頃は不愉快だったのに、今となっては、これでないと落ち着かないくらいだ。
毒されている。
いつの間にかすっかり馴染んでしまっていると苦笑して、彼はタオルを元の場所に戻した。
右手には風呂場へ続く扉があって、換気の為か、少しだけ開いていた。
その手前には汚れ物を入れた洗濯籠がふたつ、仲良く肩を並べていた。うち、赤色の方には、パジャマらしき布の塊が押し込められていた。
柄物ではなく、単色のごくシンプルなものだ。可愛げがなければ、面白みもない。試しに抓み取ろうとして、歌仙兼定は自分の右手を叩き落した。
「あの子は、何時に起きているんだろう」
代わりにぼそりと呟いて、静かに目を閉じた。
暗闇が広がって、そこにぽつん、と小さな光が現れた。それはじわじわ範囲を広げると、うねり、歪み、形を変えて、ひとつの影を産み出した。
華奢な体躯、強い決意を秘めて引き結ばれた唇、すべてを諦めたかのような冴えた眼差し。
頬に残る小さな傷跡、痩せた手足、年齢以上に幼い容姿。
肩まで伸びたぼさぼさの髪、似合わない上物の服。新品だと分かるぴかぴかの靴と、脛や腿に巻きつけられた白い包帯。
アンバランスさが際立っていた。
相反するものがひとつの身体に同居して、酷くちぐはぐで、不安定だった。
あれからもう、一ヶ月近くが経つ。
時が過ぎる速さを痛感して、歌仙兼定は洗面所を出た。
トイレには立ち寄らず、台所を目指した。先ほど素通りした扉の前に立って、気になって藍色の作務衣の裾を撫でた。
皺を伸ばして、髪の毛も手櫛で整えた。鏡の前でやるべきだったと反省して、彼は意を決して引き戸を滑らせた。
ゴロゴロと、木の板が敷居を駆けていった。目の前が一気に広がって、薄暗かった視界が明るさを取り戻した。
照明が灯っていた。
北に面した磨りガラス以上に、人口の光が瞳に不快だった。
「あ」
くつくつと、鍋が煮える音がした。玄関まで漂っていた甘い香りが強まって、無意識のうちに喉が鳴っていた。
三十センチほどある足台に立っていた少年が、音に反応して顔を上げた。右手に持つ包丁の先を揺らめかせ、手を止めて、背筋を伸ばした。
藍色の髪が躍っていた。高い位置で結われて、毛先は双葉のように別れていた。
「おはよう」
朝の挨拶を、気を張っているのが伝わらないように隠して、告げる。
昨日よりは自然な感じが出せたと自分を褒めて、歌仙兼定は境界線を跨いだ。
築五十年を超える屋敷の台所は、複数人が一緒に作業しても問題ない広さを誇っていた。
但し、その分器具は古い。ガスコンロは脂汚れがこびりつき、換気扇は回すとガタガタ音を立てた。
ステンレスの流し台は銀色で、洗面台の鏡同様、くすんだ色をしていた。傍らには食洗機が置かれて、そちらはまだ新しく、綺麗だった。
冷蔵庫、炊飯器、電子レンジの類もひと通り揃っていた。もっともどれもサイズは小さめで、単身世帯向けのもので揃えられていた。
こちらもまた、ちぐはぐだ。三世代が共に暮らせそうな構造なのに、現在の住民はたったふたりだけだ。
「……おは、よう」
部屋の真ん中には、足の長いテーブルがあった。セットの椅子は、昔は六つあったはずだけれど、何故か今は四脚まで減っていた。
壁際に、重そうな食器棚があった。年単位で開かれていそうにない扉の奥では、年代物の洋酒の瓶が、暇を持て余して居眠りしていた。
テーブルの上には、出来上がったばかりと思われる卵焼きがあった。厚みがあり、ふっくらしている。白い湯気が立ち上って、美味しそうだった。
甘い香りは、そこから漂っていた。茶碗の中身は空っぽだが、箸は用意されて、いつでも食事が始められそうだった。
今日の献立は、白米に厚焼き玉子、味噌汁と青菜の煮浸し。漬物はしば漬けが用意されて、醤油が横に添えられていた。
カチャ、と音がして、味噌汁を温めていた青い火が消えた。足台に立っていた少年は軽い身のこなしで床に下り、歌仙兼定の為に椅子を引いた。
上座の、屋敷の主人が座るべき席だった。
一生懸命背伸びをする彼に、男は眉を顰め、唇を歪めた。
「小夜、そういうことはしなくていい」
「歌仙」
「椅子くらい自分で引く。いつも言っているだろう」
ついつい、声が荒くなった。不機嫌を隠し切れず、子供を強く叱ってしまった。
右手を挙げ、そして下ろす。行き場のない指で空を引っ掻いて、歌仙兼定は諦めて首を振った。
背凭れ付きの椅子の後ろで、少年は居心地悪そうに小さくなっていた。空色の双眸は不安に彩られて、悟られまいとしてか、すぐに逸らされた。
「だが、僕は」
「君がどういう育てられ方をしたのかは、知らないけれど。ここは僕の家だ。僕の家のルールには、従ってもらう」
薄い唇だけが動き、言い募ろうとしたけれど、歌仙兼定は許さなかった。蚊の鳴くような小声を上書きして、誰も座っていない椅子を手前に引いた。
並べられていた空の茶碗のうち、大きい方を掴み取って反転する。炊飯器までは三歩の距離しかなくて、使い方は勿論熟知していた。
釜を開ければ、むわっと湯気が立ち上った。それを顔面で受け止めて、彼は後ろで物言いたげな少年を睨みつけた。
「ほら。寄越しなさい」
「自分で」
「小夜?」
「……わか、った」
自分の分を先によそい、残る手を差し出す。右手で杓文字を構える男に、少年は観念したのか、苦虫を噛み潰したような顔をした。
渋々両手で茶碗を取り、歩いて歌仙兼定の方へ近づく。彼が持つ椀は欠けもなく、綺麗で、まだ新しかった。
女性向けのものなのか、表面には細かな花柄が施されていた。小振りで、丸みを帯びて、可愛らしい。
そこに白米を山盛りにして、男は満足げに胸を張った。
「こんなに」
「食べなさい」
「……味噌汁、入れてくる」
「ああ、頼むよ」
だが少年は、嬉しくなさそうだった。明らかに多いと分かる量に陰鬱な表情を作って、頭ごなしの命令に反発してか、話題を逸らした。
くるりとターンして、彼は茶碗をテーブルに置いた。味噌汁用の木の椀は別で用意されており、少年は台座に飛び乗ると、銀色の御玉で汁を掻き混ぜた。
手慣れた動きでふたり分用意して、ひと椀ずつ手に戻って来た。先に歌仙兼定の前に置いて、常に自分は後回しだった。
年上だから尊重されているのか、それとも別の理由があるのか。
間違いなく後者だと嘆息して、男は奇妙な同居人に視線を流した。
「いただきます」
食べる前に両手を合わせ、きちんと頭を下げる。箸使いは丁寧で、食べ方も綺麗だった。
身長は、百二十センチに届かない。極端な痩せ型で、体重も吃驚するほど軽かった。
人が見れば、幼稚園児と言い出しそうだ。
だが彼は、これで小学四年生だった。
戸籍を取り寄せ、調べたから間違いない。本人が口にした生年月日と、書類に記されていた内容は、完全に一致していた。
病気が原因でこうなった、というわけでもない。
となれば、単純に栄養が足りていないだけ。
しっかり躾けられているのに、三食まともに与えられない環境下にあった。そういう境遇は同情するに値して、歌仙兼定を余計複雑な気持ちにさせた。
「うん。美味しい」
「……そう」
料理の腕も、悪くなかった。
作れる献立は限られていたが、教えればすぐに覚えた。包丁捌きに不安はなく、火の扱いにも長けていた。
厚焼き玉子を半分に切り分けて、口へと放り込む。
砂糖入りの甘い味付けにも、もうすっかり慣れてしまっていた。
台所にテレビはなく、ラジオはあるが電源は入っていなかった。互いの咀嚼音まで聞こえそうな静けさは、存外、悪くなかった。
カチャカチャと、食器と箸が擦れ合う音が暫く続いた。温くなった味噌汁を一気に飲み干して、歌仙兼定はひと息ついたと唇を舐めた。
腹が満たされて、気持ちは落ち着いていた。
まだ時間が早いので、外の騒ぎ声は聞こえて来ない。もっともこの屋敷は、広大な庭に囲まれているので、敷地の外でなにか起きたとしても、簡単には伝わらなかった。
腹を撫で、引いた状態で放置されている上座の椅子を一瞥する。続けて彼は、もそもそと口を動かす少年に見入った。
正面の席にしてみたが、嫌がられなかった。
最初のうちは、一緒に食事をするのさえも拒否された。それを思えば、大した進歩だった。
「僕の部屋のカーテンを開けたのは、君か?」
食事を終えて、箸を置く。両手を合わせて瞑目したまま問えば、前方から不自然な衣擦れが聞こえた。
食べ続けていれば生じない類のものだ。瞼を持ち上げて、歌仙兼定は案の定だと苦笑した。
右手に箸、左手に茶碗を持ったまま、彼は掴み損ねた白米に目を泳がせていた。テーブルの上には親指の先ほどの塊が、肩身狭そうに転がっていた。
思ったよりも動揺させてしまった。意地悪を言ったつもりはないのだけれど、反省して、男は落ちた米を指で抓んだ。
「あっ、あ」
「これは、やめておきなさい」
「でも」
「小夜?」
「……分かった」
拾い上げ、空になった皿に落とす。少年は声を上擦らせ、目だけでなく、箸でも後を追おうとした。
一度落としたものを食べるなど、行儀が悪い。そんな真似は許せなくて、歌仙兼定は渋る少年を黙らせた。
不承不承ながら頷き、彼は箸を置いた。味噌汁の椀を両手で持ち上げて、口を漱ごうと汁を飲んだ。
仕草ひとつひとつは上品なのに、時々意地汚い。
それも彼の育った家の所為とすれば、実に嘆かわしいことだった。
「今日の予定は?」
「片付けて、掃除と、宿題と、買い物」
「どこかへ遊びに行く予定は?」
「………………」
試しに問えば、昨日聞いたのと同じ内容が繰り返された。折角の夏休みだというのに寂しい限りで、追加の質問には無言を貫かれた。
顔を背けられて、視線は絡まなかった。
困ったものだと前髪を弄って、歌仙兼定は椅子に座ったまま身を揺らした。
事の発端は、遠い、遠い昔のこと。
彼の祖父がまだ若かった頃にまで遡る。
その男には、親友と呼べる男がひとりいた。
まるで実の兄弟であるかのように親しみ、なんでも相談し合える間柄だった。血縁者より余程信頼が深く、互いを頼りとし、助け合う仲だった。
そんな彼らには、夢があった。こんなにも信頼し合っているのに、直接的な繋がりが自分達にはない。だからとある酒の席で、酔いも手伝ってか、ふたりはいつか身内になろう、と約束を交わした。
自分たちのどちらかに娘が生まれれば、もう片方の息子に嫁がせる。そうやって、姻戚関係を結ぼうと。
当の子供たちには甚だ迷惑は話であるが、男たちはこの話題で大いに盛り上がった。
しかし結局、彼らには娘しか生まれなかった。
これではかつての約束が果たせない。だったらそこで諦めればよかったものを、性懲りもなく、ならば孫の世代に、となったのが問題だった。
その頃になれば、双方の交流も幾分疎遠になっていた。だというのに約束だけが生き続けて、ついにこの夏、年頃になった孫同士で見合いをさせる、という話が急浮上した。
年寄りたちが老い先短いと騒ぎ出して、未だ成し遂げられていない約束が復活した。これを見届けない限り死ねないと、双方揃って捲し立てた。
現代においては、有り得ない感覚だった。しかし老人たちは大真面目で、窘める声を聞き入れなかった。
仕方なく、子供世代はひとつの手を打った。
形だけでも見合いをさせて、ことを収めよう。既成事実を作ってさえしまえば、後はどうとでもなる、という算段だった。
話を聞かされた時、歌仙兼定は呆れてものが言えなかった。
病院に放り込まれている老人の我儘ぶりもだが、なにより自分の親に落胆した。産まれる前から婚約者めいたものがいる、というのは初耳だったし、会って、適当に話をして、断ってこい、というやり方も気に食わなかった。
向こうだって困惑しているだろうに、まるで自分たちだけが被害者のような振る舞いだった。
祖父のことは、嫌いではなかった。むしろ好いているし、尊敬もしている。賑やかな人で、幼い頃は色々な話を聞かせてくれた。
この家は、元々祖父の屋敷だった。彼が体調を崩して長期入院となり、退院しても養護施設行きでここに戻ることがないのは、既に決まったことだった。
空き家にするのは忍びないし、取り壊すには惜しい。
だから一部をリフォームして、譲り受けた。もしかしたらこの屋敷の相続には、例の見合いの話が絡んでいたかもしれなかった。
祖父の資産は、かなりのものだ。狡い話、親友の孫との結婚が、遺産相続の条件だった可能性は否定出来なかった。
知らないところで、勝手に話が進められていた。
それも、歌仙兼定が不満を抱く一因だった。
もうあの親は、信用しない。変な話に巻き込んでしまったと頭を下げて、見合い相手には誠心誠意、謝ろう。
そう決めて、出向いたホテルで。
約束の時間になっても、その相手は一向に現れなかった。
ひとりで平気だと言って、付き添いは断っていた。
とある高級ホテルの最上階の、予約を取るのも難しいレストランの、窓際の景色が良いテーブルで。
二時間待ちぼうけをくらって、諦めて店を出て。
出口のところで会ったのが、そこにいる少年だった。
小学校の制服だろう、白い半袖シャツにリボンタイ、黒の半ズボン姿だった。
胸には有名私立学校の校章が刺繍されて、痩せた身体を隠していた。
包帯から、黒い痣が覗いていた。切り傷や擦り傷は、今よりずっと多かった。
ぴかぴかに磨かれた靴と、光を失った瞳。
名前を呼ばれた時は、ぎょっとした。差し出された手紙の内容を見て、更にぎょっとさせられた。
驚くことに、この少年こそが見合いの相手だった。
否、代理人だ。
いや、それも少し違う。
もっと正確に言うならば、無責任に役目を押し付けられた影武者、といった辺りだろう。
とにかく、本当の見合い相手は逃げた。来ない。来たところで、婚姻関係が結べるものでもなかったが。
どういう因果か、祖父たちには娘しか生まれなかった。
だから孫世代に望みを繋いだというのに、今度は双方の孫が、あろうことか全員男児だった。
歌仙兼定には弟がひとりいる。歳は二つ下で、まだ大学生だった。
一方少年には、兄がふたりいた。上の兄は既に社会人であり、下の兄は大学生という話だった。
どうして最初の時点で確かめなかったのかと、親に文句のひとつも言いたかった。だが長年待ち望み続けた祖父たちの気持ちを思えば、言い出し難かったのも理解出来た。
ただやはり、先に教えておいて欲しかった。
事情を告げられ、歌仙兼定は驚き過ぎて叫んでしまった。ホテルの通路で大声を出して、要らぬ恥をかかされた。
もう二度と、あのホテルに行けない。
こめかみに生じた鈍痛を堪えて、彼は壁に吊るしたカレンダーを見た。
八月も、そろそろ終わりに近い。
残暑は依然厳しく、湿気は鬱陶しかった。口の中に残っていた米粒を飲みこんで、男は忙しく箸を動かす少年を眺めた。
名前は、小夜左文字。
歌仙兼定と形だけの見合いをする予定だった次兄から、当日になって代役を押し付けられた三男坊だ。
彼の家庭の事情は、詳しく聞かされていない。だが渡された手紙には、こう書かれていた。
綺麗な字で、たったひと言。
この子をよろしく頼みます、と。
訊けば長兄が書いたという。家まで送ると言えば、嫌だと言って動かなかった。
貴方のところへ行く、と言い張って聞かなかった。夜遅かったというのもあり、放置するわけにもいかず、仕方なく連れて帰って来てしまった。
以来一ヶ月が経っても、健在の筈の彼の両親は、こちらに顔を見せようともしなかった。
一度だけ、長兄と名乗る人物から電話があった。
勝手な申し出で心苦しいが、と前置きされて、翌日には当面の生活費が書留で届けられた。
夏休みの間、預かるだけ。
当初はそんな心構えだった。
違うのだろうか。一生、面倒を見させられるのだろうか。
もやもやしたものが胸に浮かんでは、消えて、気が付けば眉間に皺が寄っていた。
「歌仙?」
「ごちそうさま」
不機嫌な顔になっていた。自分で気付いて嘆息して、彼は今一度両手を叩き合わせた。
小夜左文字も、丁度終わったところだった。椅子を引いて立ち上がって、男はふたり分の食器を、言われる前に積み重ねた。
「僕が」
「歯を磨いてきなさい。掃除も、今日は良い」
この少年は家事の一切を、一手に引き受けようとした。
それがこの屋敷で暮らすための条件だと、勝手に思い込んでいる。歌仙兼定だって独り暮らしが長く、料理も洗濯も自分で出来るのに、率先して仕事を奪おうと躍起だった。
およそ子供らしくなくて、見ていて面白くない。
聞き分けが良過ぎるのも問題と腹を立て、彼は流し台の蛇口を捻った。
勢いよく水を出し、食器の汚れを跳ね飛ばす。小夜左文字は後ろでおろおろした後、両手をぎゅっと握りしめた。
言われたことをしようとせず、言われていないことをやろうとする。
矛盾ばかりだと肩を落とし、仕方なく、歌仙兼定は水を止めた。
八月は中盤を過ぎ、盆の行事もひと段落した。
墓参りは済ませた。テレビを賑わす帰省の大混雑も、遠い世界の話だった。
濡れた手を振って、雫を飛ばす。面倒になって、どうせ着替えるからと作務衣で拭いて、彼は大きすぎるシャツ姿の少年に視線を投げた。
「どこか、行きたいところは?」
教室の生徒たちも田舎に帰るなり、旅行に行くなりで、本日の稽古の予定は組まれていなかった。
せいぜい挨拶回りをする程度で、格別急ぐ仕事はない。
時間は余っていた。
スケジュールは真っ白だった。
藪から棒の質問に、小夜左文字は目を丸くした。きょとんとしてから首を傾げ、まるでワンピースな半袖シャツを引っ掻いた。
襟が広すぎて、腕の付け根にまで達していた。ズボンは履いている筈だが見えなくて、生足が際どかった。
いい加減、服も買い足してやらないといけない。
なにもしていないのに、悪いことをしている気分になった。慌てて明後日の方向を向いて咳払いして、歌仙兼定は返事を待った。
少年は戸惑いがちに目を泳がせ、抓んだ服を弄り回した。皺を作り、広げ、叩いて伸ばし、また握りしめた。
「僕、は。別に」
「小夜」
「歌仙は、忙しいだろう」
言い淀み、促せば言い訳に利用された。
本気で思いつかないのか、それとも遠慮しているだけか。
両方だと判断して、歌仙兼定は両手を腰に当てた。
「今日は、君に合わせる。だから君がなにか言ってくれないと、僕だってなにも出来ないよ」
三か月分に届きそうな生活費の差出人は、江雪左文字という名前だった。中身に今はまだ手を付けていないが、そろそろ役立たせなければ、怒られそうだった。
遊園地でも、動物園でも、海でも、山でも、どこでも良い。
学生時代に遊びまわっていたわけではないので、あまり詳しくないのが難点だが。その辺は、弟に訊けば喜んで教えてくれるだろう。
学生の身分を満喫している馬鹿を思い浮かべ、頬を緩める。
それをどう受け止めたのか、小夜左文字はシャツの裾を伸ばし、俯きながら身を揺らした。
「あ、の。……じゃ、あ」
「うん。言ってごらん」
奇妙な出会いから始まった共同生活は、一ヶ月に達しようとしていた。けれど彼と出かけた回数は両手で余るほどで、内容も近所を連れ回し、どこにどんな施設があるかを説明した程度だった。
一緒に買い物に行ったのも、最初のうちだけ。
今や彼は、ひとりで財布を握り、スーパーを梯子していた。
まだ小学四年生なのに、生活力が高かった。我が儘も言わず、黙々と働いていた。
なにが好きか、趣味はなにか。思えば一度も聞いたことがない。
ゲームもせずに、暇があれば百科事典を広げているような子供の望みなど、まるで思いつかなかった。
小夜左文字は臆し気味に、瞳だけを持ち上げた。ちらちら様子を窺って、言おうか言うまいか迷い、口をもごもごさせた。
頬は赤らみ、恥ずかしがる表情は年相応だった。
かわいらしいところもあると目を見張って、小夜左文字は膝を折り、身を屈めた。
目線の高さを揃え、顔を覗き込む。至近距離から見詰められて、少年はうっ、と息を詰まらせると、爪先を捏ねながら鼻を啜りあげた。
深く息を吸って、臆し気味に歌仙兼定を見る。
こうやって近距離から顔を合わせるのは、初めてかもしれない。
思っていた以上に綺麗な空色に驚いていたら、薄い唇がひくりと震えた。
「小夜」
吸い込まれそうだった。
美しい彩に見入って、無意識に手を伸ばそうとした。
膝が浮いた。前髪が擦れ合う直前だった。
「僕、は。歌仙、の。お茶、……点ててる、とこ。見てみたい」
触れる寸前、少年が笑った。
控えめに囁いて、自分から首を傾がせ、大きな掌に擦り寄った。
甘えた声だった。
子供らしい無邪気な、それ故に無垢な艶を含んだことばだった。
告げられた言葉に、男は瞬間、背筋を粟立たせた。指先に触れた淡い熱にもぞわっとなって、歌仙兼定は面映ゆげな少年に瞠目した。
電流が走った。
雷が落ちたようだった。
息さえ忘れて硬直して、男は初めて欲を示した小夜左文字に絶句した。
「……だめ、か?」
「いや――」
返事がないのを、訝しまれた。
長い時間が過ぎたあと、ぼそりと聞かれ、我に返った。
小さく首を振って、男は口元を覆った。勝手に赤く染まる頬を隠して、全身を襲う異様な熱量に奥歯を噛み締めた。
「そんな、ことで。いいのか」
恐る恐る問えば、小夜左文字は迷うことなく頷いた。首を大きく縦に振って、やや興奮気味に、強請る眼差しを投げつけた。
たった今思いついた雰囲気ではなかった。
ずっと胸に抱き続けて来た、そんな想いが感じられた。
「かせん」
小さな手が、作務衣の衿を掴んだ。ぎゅっと握りしめて、遠慮がちに引っ張った。
この手を、どうやって振り払えると言うのだろう。
拒絶の言葉は、ひとつも思い浮かんでこなかった。
「やれやれ……」
気恥ずかしさを堪え、歌仙兼定は嘯いた。目尻を下げて頬を緩め、力が籠っている少年の手に手を重ねた。
一本ずつ、ゆっくり紐解いてやって、両手で挟んで包み込む。
「仕方がないね」
「歌仙」
「なんだったら、稽古もつけてあげようか。但し僕は、スパルタだよ?」
思ったよりも、舌は滑らかに動いた。上機嫌に囁いて、調子に乗って右目だけを閉じた。
意地悪く言って、子供を茶化す。
だが小夜左文字は、笑った。
「……うれしい」
頬を朱に染めて、心から幸せそうに呟いた。面映ゆげに目を細めて、首を竦めた。
花が咲いたようだった。固かった蕾が綻んで、艶やかに咲き誇った瞬間だった。
ズドン、と何かが突き刺さった気がした。
その衝撃に息を飲んで、歌仙兼定は頭を抱え、顔を伏した。
2015/09/13 脱稿
君に染し心の色の裏までも 絞りはてぬるむらさきの袖
拾遺 松屋本山家集42