松も昔の友ならなくに

 手伝って欲しいことがある、と言われたのは、朝餉が終わってすぐの事だった。
 今日の彼は、内番を命じられてもいなければ、出陣を言い渡されてもいなかった。遠征任務すら入っておらず、終日手が空いている状態だった。
 一方小夜左文字は、内番として馬当番に指名されていた。
 動物は苦手だと、常から言っているにも関わらず、だ。
 小夜左文字が厩に顔を出すと、馬は怖がって逃げ回った。それを捕まえ、外に連れ出すだけでも、人の数倍の時間が必要だった。
 そこから汚れた厩舎内部を掃除して、新しい飼い葉を用意して。
 本当は身体を洗って、毛並みも整えてやりたい。しかし彼に触れさせてくれる馬は少なく、相方となる刀には毎回迷惑をかけていた。
 心苦しく、申し訳ない限りだ。しかし審神者が決めたことだから、放り出すわけにはいかない。渋々従って、全部終わったのは午後に入ってからだった。
 獣臭くなった身体を軽く拭いて、汚れた内番着は脱いだ。袈裟は着けず、黒の直綴姿になって、少年はパタパタと足音を響かせた。
「遅くなった」
 いつ行く、との約束はしなかった。だが待ちぼうけを食らわせたのは、間違い無かった。
 もしかしたら、もう終わっているかもしれない。通路の角を曲がって縁側に出て、小夜左文字は顎を滴り落ちる汗を拭った。
 馬当番が済んでからで構わないなら、と最初に言われた時点で伝えてはいた。しかし気が急いて、心は落ち着かなかった。
「之定」
 あの刀が助けを求めてくるなど、珍しいことだった。
 本丸で最古参に当たる打刀は、基本的になんでも出来た。畑仕事は嫌がるが、料理するのは好きで、台所にも率先して立ちたがった。
 彼の作る食事は、とても旨い。但し薄味が多いので、食べ盛りの一部の刀からは不評だった。
 このところ、彼ばかりが炊事場を占領していたので、今日は別の刀が包丁を握っていた。毎日君ばかり働かせて悪いから、と笑っていたのは燭台切光忠だ。
 そうやって他人に居場所を奪われたから、違うことをしようと決めたのだろう。
 助力を求められた内容は聞いていないが、おおよその見当は付いていた。
「之定、いるか」
 日差しが明るい縁側をゆっくり進んで、小夜左文字は障子戸の向こう側に声をかけた。白い紙が貼られた戸には、小柄な影が薄く浮き上がっていた。
 呼びかけに、応答はすぐには得られなかった。代わりにガタゴトと物音がして、衣擦れの音がそれに続いた。
 近付いて来る気配がある。警戒して、小夜左文字は半歩下がった。縁側の板目を踵で踏み、じわじわ濃くなる黒い影に顔を上げた。
 直後、障子がスッと開かれた。
 右に滑った戸を目で追って、すぐに視線を持ち上げる。そこには袴姿の男が、鼻の頭を黒くして佇んでいた。
 背は、高い。大太刀や槍と比べれば無論及ばないが、本丸で最も小柄の短刀に言わせれば、彼の背丈は十二分に大きかった。
 肉付きの良い体格をして、肩幅は広かった。首の筋肉も発達しており、決して太くはないのだが、どっしりとして安定感があった。
 白の胴衣に襷を結び、邪魔になる前髪は後ろに流して結んでいた。その胴衣も所々黒く汚れ、埃が付着していた。
 足袋も、同じだ。爪先が酷く汚れている。ならば裏側は、もっと黒ずんでいるに違い無かった。
「終わって、……ないのか」
「すまない、小夜」
 そして彼の後方では、木箱や葛籠が、それこそ山のように積み上げられていた。
 中には、いつ崩れてもおかしくない塔まであった。壁際に置かれた文机にも、物を置く空間が一切残されていなかった。
 足の踏み場もない、とはまさにこの事だ。唖然としながら呟いて、小夜左文字は肩を落とした。
 歌仙兼定も申し訳なさそうにしながら頭を下げて、頬に掛かる髪を指に巻き付けた。
 照れ臭そうに笑って、道を譲られた。とは言っても畳の目地が見えないくらいに、彼の部屋は物で溢れかえっていた。
「よくぞ、ここまで」
「ははは。凄いだろう?」
「褒めていないぞ、之定」
 心の底から呆れ、呟く。後ろで戸を閉めた男は気分を入れ替えたのか、呵々と笑って、居丈高に胸を張った。
 まったくもって、反省の色が見えない。どこにこれだけ買い集める金があったのかと、小夜左文字は室内を見渡して肩を竦めた。
 見た感じ、茶器が最も多かった。四角い木箱に入っているのは、恐らく全て碗だろう。他に茶筅、茶匙といった小道具や、茶壺といったものまで、幅広く見受けられた。
 それ以外で特に多いのは、硯箱だろうか。
 衣装に凝る趣味はないらしく、もっぱら茶道具ばかりだ。それも見目良いものから、何故買ったと言いたくなる代物まで、落差は非常に大きかった。
 玉石混淆、ずらりと並べられており、さながら品評会だ。ずっと眺めていたら笑いたくなってきて、少年は好事家の刀を振り返った。
 藍色の髪を揺らし、小首を傾げる。
 眼差しを受け止めて、風流を好む男は頬を緩めた。
「さすがに、多すぎると思ってね」
「咎められたか」
「置き場所が欲しいと言ったら、却下されたよ」
「……当然だろう」
 あまりにも集めすぎて、収納する場所がなくなった。審神者に直訴したけれど、すげなくあしらわれた。
 他の刀たちだって、狭い部屋でなんとかやりくりしているのだ。彼ひとりを特別扱いするわけにはいかなかった。
 小夜左文字も、嫌々ながら馬当番を引き受けている。歌仙兼定が専用の茶室を貰ったと聞けば、良い気はしなかった。
 厩舎の掃除の途中、後ろ足で蹴られそうになったのを思い出して、短刀は頬を膨らませた。低い声で素っ気なく吐き捨てた彼に、打刀は困った顔で首の後ろを掻いた。
「それでね、小夜。頼みというのは他でもない」
「捨てればいいのか」
「全部、じゃないよ?」
 そうして改まった態度で少年に向き直り、口を開いた。皆まで聞かずに少年が続きを呟いて、根こそぎ破棄される危険を察した打刀は早口になった。
 慌てて釘を刺し、両手を広げた。必死になっている男に目を眇めて、小夜左文字は短くため息を吐いた。
「選べば良いんだな」
「そう。そうなんだ、小夜。話が早くて助かるよ」
 余所を見ながらぼそぼそ言えば、歌仙兼定は勢い良く両手を叩き合わせた。人を持ち上げる台詞を声に出して、揉み手をして機嫌を取ろうとした。
 とどのつまり、歌仙兼定はこの集めに集めた品を、一部を残して捨て去ると決めた。
 だが本人はどれもこれも気に入っているので、なかなか的を絞れない。そこで目利きの才を持つ者を招いて、残すべきものを決めてもらうことにした。
 あらかじめ予想はしていたけれど、案の定だ。
 傷を避けて頬を掻いて、短刀は面倒臭そうに首を振った。
「それくらい、自分でどうにか出来ないのか」
「出来ないから、こうして頼んでいるんじゃないか」
 馬当番がもっと長引いていたら、彼はどうするつもりだったのだろう。寝床を用意する空間すら無い室内を見渡して、そこの打刀より年嵩の短刀は右手で顔を覆った。
 昔から凝り性なところがあるとは思っていたが、知らないうちにもっと酷くなっていた。収集癖が悪いとは言わないが、ここまで来ると最早病気に近かった。
 前の主の影響を受けすぎだ。過去を軽く振り返って、少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「蜂須賀虎徹辺りに言えばいいのに、どうして僕なんかに」
 歌を愉しみ、茶道に通じた主を持った過去なら、ある。茶器の善し悪しも、多少なら判断が可能だ。
 けれど、そこの男ほど優れてはいない。本当に良いのか問いただせば、藤色の髪の刀はむっと口を尖らせた。
「彼とは、趣味が合わない」
「ああ……」
 拗ね顔で言われて、他に返す言葉がなかった。緩慢に相槌を打って、小夜左文字は小さく頷いた。
 確かに蜂須賀虎徹は派手好みで、侘び寂びを重視する歌仙兼定とは相容れない部分があった。万が一彼に助けを求めようなら、結果は惨憺たるものになるだろう。
 彼の目利きの才は、決して悪くない。ただ此処にいる男とは、方向性が逆だった。
 深く納得して、左文字の末弟はいよいよ逃げ出せないと苦笑した。覚悟を決めるよりほかなくて、責任重大だと首を竦めた。
「どうなっても知らないよ」
「小夜を信じている」
「買いかぶりすぎだ」
 もう一度念押しして、短刀は一歩前に出た。床に直置きされている茶器を踏まないよう爪先立ちになって、ぱっと目に飛び込んできた器を手に取った。
 傷つけないよう大事に持ち上げて、箱書きを見るべく身を乗り出す。
 だが筆で書かれた文字を読むより先に、後ろで見ていた男が反応した。
「素晴らしいよ、小夜」
 声を高くして叫ばれた。思わずビクッとなって、少年は慌てて後方に顔を向けた。
 腰を捻って振り向けば、歌仙兼定が頬を紅潮させ、興奮に鼻息を荒くしていた。
「それはね、特に気に入っているもののひとつなんだ。美しい色艶をしているだろう。形も堂々として、とても味わい深い」
「之定……」
 歓喜に胸を高鳴らせて、嬉しそうに言われた。聞いてもいないのに、茶碗の由来や手に入れた経過まで、事細かく語って聞かせてくれた。
 それを小夜左文字は、うんざりした表情で聞き流した。
 これから取捨選択をしよう、という時に、逐一茶器の経歴を語るつもりなのだろうか。ならばこうやって床に色々散乱しているのも、ひとつ眺めては思い出に浸って、を繰り返していたからに違い無かった。
 道理で、半日以上が過ぎても終わらないはずだ。彼ひとりに任せていたら、三日が経っても部屋は片付かないに違い無い。
 一気に憂鬱になって、藍の髪の短刀は桐の箱に茶器を押し込んだ。
 蓋を被せ、紐は結ばずに差し出す。目の前に突きつけられて、歌仙兼定は口上を中断させて目を瞬いた。
「小夜?」
「これは、残しておいて良い。どこかに分けて、ほかと混ざらないように」
 不思議そうにされて、少年は嘆息した。当初の目的を忘れている男に言って、早く受け取るよう急かした。
 さっさと終わらせないと、夕餉に間に合わなくなる。日が暮れて暗くなれば、片付け自体が出来なくなった。
 埃っぽい空気を嫌い、障子も開け放つよう言い渡す。歌仙兼定は両手で桐箱を引き受けて、間を置いて首肯した。
「わ、分かった」
 声を上擦らせ、首を二度、三度と立て続けに縦に降った。その仕草は滑稽だったが、小夜左文字は笑う気も起こらなかった。
 生憎だが、彼のご託に付き合っている暇はない。頼まれた以上はさっさと終わらせようと決めて、少年は次の茶器を手に取った。
 ゴツゴツした表面を撫で、無骨な形状に右の眉を持ち上げる。何度か角度を変えて眺めて、最後にゆるゆる首を振った。
「これは、だめだ。之定」
「ああ、それは……仕方が無いかな」
 ぱっと見た感じ、風合いが面白く感じられた。しかし残念ながら、賓客をもてなす茶席に出せる代物ではなかった。
 悪くないが、格別良くもない。
 手元に残すには値しないと言えば、男は意外にも、あっさり引き下がった。
 もっと粘るかと思いきや、拍子抜けだ。先ほどのような長口上が始まるのかと思っていただけに、当てが外れて呆気にとられた。
 ぽかんとしていたら、歌仙兼定は照れ臭そうに笑った。
「前に、時間がなくてね。目についたものを手当たり次第に」
「それでか」
 偶然立ち寄った店で眺めて、深く吟味しないまま買ってしまったものらしい。他にも多数ある品質が悪いものは、大抵他のものとまとめて一括購入したか、良品を買う際に一緒に押しつけられたものだった。
 それらも少なからず味があると、捨てずに残してきたから、こうなった。
 ならば部屋が物で溢れかえるのは、当然の帰結だ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、助けてやる気も失せかけた。
 小夜左文字だって、暇ではない。本の一冊くらい読みたいし、馬小屋掃除で汚れた内番着も洗いたかった。
 頼まれ事を優先させたから、脱いでそのままにしてきた。部屋が臭くなっていなければ良いが、まず間違い無く、当分臭い続けるだろう。
 思い出したら、気が滅入りそうになった。
 こめかみに指を置いて頭痛を堪え、少年は急激に明るくなった視界に瞬きを繰り返した。
 歌仙兼定が障子戸を開けたのだ。涼しい風が吹いて、暗く沈みそうになった心を慰めてくれた。
 明るさに瞳が馴染むのを待って、肩の力を抜いて苦笑する。見れば歌仙兼定は、最初に渡された桐箱を、衣紋掛けの足音に慎重に置くところだった。
 愛おしそうに箱を撫で、目を細めていた。
 茶の道に心酔して、けれど狂うことなく、忠実であろうとしている。
 好きが高じた結果だと苦笑して、小夜左文字は暗がりで光を放つものに手を伸ばした。
「之定、これも」
「小夜」
「僕は、これが好きだ」
 良いと思ったものと、そうでないものとを大雑把に分けていた時だった。際だって目を惹く器を見つけて、自然と手が伸びていた。
 苦心の末に確保した空間に腰を据えて、両手で抱いてじっくり眺める。紛れもない上物を発掘して、短刀は顔を綻ばせた。
 足の踏み場を探しながら戻って来た男は、怪訝にしつつ眉を寄せた。小さな手が抱え持つものを間近から見詰めて、やがて合点が行ったのか、嗚呼、と小さく頷いた。
 それは白の釉薬を使った楽焼きで、高さは三寸少々。肉厚で、手捏ねで形成されたものだった。
 釉薬は全体に厚く塗られていたのだが、窯で焼く際になにか不可思議な現象に見舞われて、中程からは下は茶色く焦げていた。お蔭で側面の色合いは二層になり、内部も下半分が黒く染まっていた。
 まるで、雪を被る富士山のようだ。
 対照的な色の組み合わせが、奇跡となって目の前に現れていた。
 見ているだけでも心が沸き立ち、手が震えた。その美しさといったら、どの茶碗よりも遙かに優れていた。
 群を抜いて素晴らしい品を手に、少年は頬を紅潮させた。歌仙兼定も同意して、彼の傍らに身を沈めた。
 並んで座って、光に晒す。これで茶を点てればさぞかし美味かろうと、気がつけばそんな軽口を叩いていた。
「之定?」
 珍しいものを、見た。迷ったけれど、来て良かった。
 面倒臭いことに巻き込まれたと、本音では思っていた。けれど引き受けて正解だったと相好を崩して、小夜左文字は視線を感じて首を傾げた。
 左を見れば、すぐそこに歌仙兼定の顔があった。穏やかな笑みを浮かべて、嬉しそうにしていた。
「では、それは君にあげよう」
「……いいのか」
「構わないさ。駄賃としては、少なすぎるかい?」
「まさか!」
 そして事も無げに言って、小夜左文字を驚かせた。
 片付けの手伝いの駄賃としては、大きすぎるくらいだ。とても釣り合いが取れない。明らかに比率がおかしかった。
 けれど、ならば返せと言われても、もう差し出せない。類い稀な器に魅入られて、簡単には手放せなかった。
 こんなにも素晴らしい品を、こうもあっさり譲り渡してしまうなど、あり得ない。
 信じ難くて様子を窺うが、歌仙兼定はにこりと笑うだけだった。
「男に二言はないよ。その代わり、ね」
「分かっている。最後まで、手伝う」
「ありがとう、小夜」
 きっぱり言い切って、男は手を伸ばした。頭を撫でられて、小夜左文字は首を竦めながら答えた。
 力強く宣言して、満面の笑みで返され、頬が緩んだ。短刀は嬉しそうに茶器の縁を撫で、慌てて立ち上がると、衣紋掛けへと駆け寄った。
 先ほど歌仙兼定が置いた桐箱の上に、転がらないよう大事に乗せて、手を離す。
 揺れもせず鎮座した茶器に鷹揚に頷いて、彼は不要と判断したものを部屋の外へ追い出した。
「木桶でも借りてこよう。之定が使わなくても、本丸の誰かが使うかもしれない」
「ああ、そうだね。妙案だ」
 例の二碗ほどではないにせよ、一度は歌仙兼定のお眼鏡にかかった品だ。本丸に集う刀剣男士の中には、彼ほどではないにせよ、茶を嗜む刀が数振り存在した。
 茶道に興味が無い刀でも、普段使いの茶碗を欲しがる者がいるかもしれない。要らぬものとして捨て去るには勿体なくて、引取先を探すのは急務だった。
 短刀の提案に、打刀は諸手を挙げて賛同した。是非ともお願いすると口にして、少年の背中を押した。
 単調で退屈な作業が、一気に騒がしくなった。
 また掘り出し物が見つかるかもしれない。本丸に引きこもっていては目にするのも叶わない品々に、多く出会えるかもしれない。
 そう考えると、楽しかった。
 目移りした。歌仙兼定が片付けに手間取る気持ちが、痛いくらいに理解出来た。
「之定、これは」
「ここの、ほら、この歪み具合が秀逸なんだ」
「だが扱い辛い。相手を選ぶ」
「うーん、そこなんだよねえ」
「だったら僕は、こちらの、鉄釉に金彩の焼き付けが」
「なるほどねえ。しかし僕としては、うん」
「……難しいな」
 あれこれ吟味して、論議するのは面白かった。こんなこと、ひとりで居る間は気付けなかった。
 教えて、教えられて、時間がいくらあっても足りなかった。無機質に選り分けていくのではなく、理由を考えて選別する楽しさが身に沁みて伝わって来た。
「参ったな。宝物がどんどん増えていく」
「減らすのだろう?」
「違うよ、小夜」
 そんな中で、歌仙兼定がふと呟いた。陽は大きく西に方向き、影が長く伸び始めた頃だった。
 空が赤く染まっていた。台所から借りて来た木製の番重には、不要と判断された茶器類が堆く積み上げられていた。
 部屋の中は、かなり簡素になっていた。足の踏み場どころか、寝具を広げる空間も、十分過ぎるほど確保されていた。
 鑑定品の残りはあと僅かとなり、それが済めば箒で軽く掃いて、綺麗にする仕事が待っている。
 なんとか今日中に終わりそうだ。緊張が解けて気が緩み、寛いでいた中でのやり取りに、少年はきょとんとしながら首を捻った。
 大粒の目で見上げられ、歌仙兼定は目尻を下げた。幸せそうで、それでいながら少し違う感情を滲ませて、打刀は手にしたものを床に置いた。
 背筋を伸ばし、姿勢を正した。改まられた少年は反対側に首を倒し、灰色の茶器と昔馴染みの刀を見比べた。
 不思議そうにされて、男は根負けして噴き出した。
「確かに、物は減ったけどね。残った分には、君とこうして、あれこれ話ながら選んだっていう、記憶が染みつくだろう」
「……付喪になるか」
「どうかな。そうなれば、嬉しいけれど」
 彼らは、刀剣に宿る付喪神。歴々の主の強い想いを宿す、力を持つ存在だった。
 たわいない会話を交わして、小夜左文字は茶碗を撫でた。それから障子戸近くの衣紋掛けに顔を向け、西日に照らされた空間に顔を綻ばせた。
 数が絞られた品々の中でも、あの茶碗だけは異質の輝きを放っていた。
「ならば、あれも」
「君の宝物にしてくれるかい?」
「もちろんだ、之定」
 多くの茶器を目にしたが、やはりあれが一等優れていた。太っ腹な打刀に深く頷いて、小夜左文字は目を細めた。
 記憶は宝になると、教えてくれたのは彼だった。思い出は忘れがたく、拭い去りがたいものだと、胸に突き刺さった。
 風はいつしか夜のそれに変わって、一気に冷たさを増した。薄着で過ごすには酷な季節がやって来て、少年は手にした茶碗の縁をなぞった。
「小夜?」
 季節がいくつか巡って、本丸の顔ぶれも前と少し変わった。賑やかなのは相変わらずで、出陣やら、遠征やらと、毎日が忙しかった。
 呼びかけられて、庭に出ていた彼は振り返った。軒を支える柱の横に、行灯を手にした男が立っていた。
 藤色の髪が、陰影の所為で赤く染まって見えた。背は高めで、肩幅は広く、肉付きが良くてどっしりとした体格をしていた。
 白の胴衣に、袴姿だった。襷は結ばず、髪も解かれていた。
「そんなところでなにをしているんだい、小夜」
「歌仙」
 行灯を揺らし、男が声を荒らげた。寒いだろうと案ずる言葉も発して、早くこちらへ来るよう手招きもした。
 それに黙って首を振り、左文字の短刀は淡い笑みを浮かべた。
「じき、戻る」
「そうかい? 宝物を見せてくれる約束だろう」
「忘れていない。済ませたら、すぐ行く」
 両手で茶碗を抱き、訥々と言葉を返す。それで納得してくれたのか、歌仙兼定は窄めた口から息を吐いた。
 頬を凹ませ、不満を表情に残しつつ、踵を返した。行灯を揺らして縁側を行き、その後ろ姿はすぐに見えなくなった。
 暗さが戻って来た。
 下弦の月から目を逸らし、少年は手元に視線を落とした。
 楽焼きの器になみなみと注がれているのは、緑濃い茶ではない。
「本当なら、点ててやるべきなのかもしれないけれど」
 黒く焦げた底部を覗き込んで、短刀は波立つ水面にはにかんだ。月の光がキラキラと輝いて、まるで宝石箱のようだった。
 仄かに香る神酒に目を眇め、彼は目の前に聳える小高い塚を仰いだ。頂には誰が作ったのか、梵字を記した塔婆が衝き立てられていた。
 この下には、なにもない。
 分かっている。皆、重々承知していた。
 けれど供えられる花は途切れず、団子や、握り飯が尽きる事はなかった。
 それらを踏まぬよう気を配り、草履で乾いた土を踏む。ザッ、と音を響かせて、少年は白と黒が並ぶ茶器を掲げた。
 背を逸らし、ぐっ、と息を止める。
 杯から呷るが如く半量を一気に喉へと押し流して、彼は喉を焼く熱に咳き込んだ。
「かはっ」
 噎せて横隔膜を引き攣らせ、爛れる痛みに奥歯を噛んだ。自然と湧いた涙で睫を濡らして、顎を軋ませ、茶碗を頭上高く持ち上げた。
 躊躇を振り払い、一気に腕を振り下ろす。
 神酒が溢れた。斜めに宙を駆けて、塔婆の下辺を濡らした。
 続けてガシャン、と盛大に音がした。地面に叩き付けられた衝撃で、陶器に罅が入り、粉々とはいかずとも、砕け散る音が闇を裂いた。
 無残な姿となった茶碗を蹴り飛ばし、肩で息をして、小夜左文字は唇を噛んだ。溢れ出そうになった嗚咽を堪え、きつく、固く、目を閉じた。

2015/08/31 脱稿

 藤原興風(34番) 『古今集』雑上・909
誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに