年の明くるを待ちわたる哉

 空気が凍る、そんな音が聞こえて来そうな夜だった。
 凛と冷えた大気が、遠慮を知らずに肌を撫でた。茨に抱きつかれているような錯覚を抱いて、悪寒が走り、背筋が粟立った。
「……っ」
 緊張に頬が強張り、息が喉に詰まった。
 呼吸を止めて居竦んで、五秒が過ぎた辺りで跳ね上げていた肩を落とす。
 ふうぅ、とゆっくり吐き出して、入れ替わりに吸い込む夜気は冷たい。もれなく舌がぴりぴりして、咽喉が萎縮した。
 喉が狭まり、肺が笑った。内臓が痙攣して、ひっく、としゃっくりに似た音が漏れた。
 ぞわぞわと迫る寒気に抗って、小夜左文字は己を抱きしめた。脇腹を繰り返し撫でて、摩擦熱で肌を温めようと画策した。
 とはいえ、小さな手二本ではとても間に合わない。夜空に呑み込まれる熱の方が、新たに生じる熱よりも、圧倒的に多かった。
 それでも、場所を動く気になれない。
 見上げる空に雲は少なく、月は淡く輝いていた。
 満月には及ばないけれど、明るさは際立っている。周囲に散る星々はその強すぎる光に怯え、霞んでいた。
 炭で塗り潰したかのような天空に、月だけが眩しい。
 さほど珍しい光景ではないのだけれど、今宵はまた格別だと、幼い外見の少年は頬を緩めた。
「綺麗だ」
 率直な感想を述べて、唇を引き結ぶ。
 口からでも、鼻からでも、吐く息は全て白く濁った。
 目の前が一瞬曇って、すぐに消えてしまう。その儚さにも相好を崩し、彼は誘われるまま目を閉じた。
 視界を闇に染めても、棘を持つ冷気は緩まない。むしろ強まった気がしたが、少年は構おうとしなかった。
 薄手の寝間着に派手な色柄の褞袍を着込み、更にその上から綿の入った布団を被っていた。日中は素足を晒しているけれど、今は布の中に隠して、露出させるのは首から上だけだ。
 遠目からだと、不格好な雪だるまだ。下だけが綿で丸々と太って、首は細く、頼りなかった。
 普段結い上げている髪は解いて、背に垂らしていた。それが丁度襟巻の代わりを務め、夜気を幾ばくか防いでくれていた。
 もっとも、寒いものは寒い。
 大きな掛布団を外套代わりに羽織って、見目幼い短刀は視線を間近へ戻した。
 瞬きひとつで瞳を下方に向け、縁側の先へと落とす。だがそこにあるべきものは見えず、異なるもので覆われていた。
 雪だ。
 数日前に寒波が押し寄せ、結構な量が降った。その後かなり溶けて消えたのだけれど、日蔭などではまだたっぷり残っていた。
 雪下ろしが必要な季節が来たと、一部の刀からは恨み節が聞かれた。だが放っておけば屋根が押し潰されかねず、平穏な生活を守るには必要なことだった。
 炬燵や火鉢を取り囲み、動かない連中に、目いっぱい働いてもらおう。既に道具は揃っており、準備万端だった。
 前の冬には本丸に居なかった刀も多いから、説明からやり直しなのは面倒だが、致し方ない。その辺は獅子王が率先してやってくれると期待して、小夜左文字は気の抜けた笑みを浮かべた。
 目尻を下げて、口角を僅かに持ち上げる。
 一年前は、意識して出来なかった。今でも不慣れだけれど、少しは見られるものになったと思う。
 色々なことがあった。
 嬉しいことも、嫌なことも、哀しいことも、悔しいことも。
 思い出していたら、それこそきりがない。一晩かかっても、語り切れそうになかった。
「冷えるな」
 じっとしていたら、胡坐を組んでいた脚が痺れた。もぞ、と身じろいで、小夜左文字は重なり合う足首の位置をずらした。
 隙間風が肌を撫で、駆け抜けていった。意地悪な冷気に思わずムッとして、少年は頬を膨らませ、首を竦めた。
 亀を真似て小さくなって、それでも縁側から動かない。
 いっそ朝までこうしていようか考えて、彼はちらりと、背後を窺い見た。
 障子戸は閉められ、中の様子は見えなかった。
 有明行燈の細い明かりが、白い紙越しに感じられた。他に灯明の類はなく、軒先の吊り灯篭の火も消えていた。
 団子のように丸まって座る短刀を照らすのは、空を支配する月と、地表の雪が反射した光だけ。
 それでも歩き回るには十分で、心地良い明るさだった。太陽のように眩し過ぎず、瞳に突き刺さりもしない。長い間眺めていても、首以外は疲れなかった。
「きれい、だ」
 もう一度空を仰ぎ、大きな月に目を眇める。
 飾り気のない言葉は、偽らざる本心だった。
 こんなにも美しいものを、何十回、何百回と眺めて来た。それはとても幸せなことだと、ふと、前触れもなく思った。
 夜は暗くあるべきで、月の明るさは、復讐には邪魔なものと考えていた。
 今でも夜の戦場に出れば、同じことを感じる。敵に気取られずに接近するには、朔の夜が最適だった。
 だがこうして、本丸の軒先から眺める分には、月は明るい方が心地よかった。
「奇妙なものだ」
 一時期は仇を討つことだけを考えて、それに固執した。
 勿論復讐を遂げたい、という願いは胸の奥底に宿り、蠢いている。だが屋敷で休む一時だけは、禍々しい想いを忘れそうになった。
 いや。薄れる、と言った方が正しいか。
 違うことに気を取られ、復讐に思考を振り向ける時間が減った。他にやるべきことがある生活に、殊の外慣れてしまった。
 二律背反の心境に苦笑を浮かべ、緩く首を振る。自嘲にくつくつと喉を鳴らして、小夜左文字は小刻みに肩を震わせた。
 腹筋が引き攣り、少し痛んだ。肩に被せていた布団が右にずり下がって、慌てて引き上げると共に、その柔らかな感触に頬を寄せた。
 擦り付ければ、乾燥した肌に繊維が引っかかった。チリッと来て、痛みはすぐに消えた。
 軽くだが押し潰されて、中に含まれていた空気が逃げた。奥底に潜んでいた香りが鼻腔を掠め、甘酸っぱい感情が胸を満たした。
 夕餉を済ませ、翌日の準備などを済ませた後、床に入った。
 布団は冷え切っていてなかなか寝付けず、ようやく眠れたと思った矢先、目が覚めてしまった。
 月の明るい夜だった。
 誘われるまま外に出て、以来この場から動けない。
 掛布団を一枚拝借して来た所為で、同居人が寒がっていなければいいのだけれど。少し心配になって再び障子を振り返り、少年はそうっと耳を澄ませた。
 息を殺し、様子を窺う。
 物音ひとつせず、どこもかしこも静かだった。
 梟の声も聞こえず、夜行性の獣でさえ塒に引き籠っているらしい。それも無理ない寒さだと身震いして、小夜左文字は干からびる寸前だった唇を舐めた。
 今年も残すところあと僅かとなり、日中はどこもかしこも騒がしかった。
 大掃除はひと段落して、角松の準備は整った。大広間には巨大な鏡餅が用意され、重箱に詰める料理もなんとか間に合った。
 刀剣男士総出の餅つきは、大賑わいだった。
 つきたての熱々の餅に、黄な粉を塗して、食べる。その美味さは絶品で、小豆たっぷりの汁粉は舌が蕩けそうだった。
 実際のところ、舌は蕩けるどころか、火傷したのだが。
 思い出すだけで、口がもごもご動いた。夕餉をたっぷり食べたというのに、もう小腹が空いている。だが今から台所に忍び込む元気は、残念ながら持ち合わせていなかった。
 白湯が飲みたいと思っても、立ち上がりたくない。
 縁側になど出るのでなかったという思いと、月夜の美しさを愛でられて良かったという思いが、交互に頭を支配した。
 口を窄め、ふぅ、と息を吐く。
 細く伸びた煙はゆらゆら揺れて、瞬き二回のうちに掻き消えた。
「寒い」
 布団を被ったまま腰をくねらせ、猫背を強めた。顎まで布団に埋めて、染み込んでいた己の熱に安堵した。
 目を瞑れば、睡魔が襲ってきた。このまま委ねてしまいたくなって、身体が傾いたところで、慌てて姿勢を正した。
 衣擦れの音が聞こえた。首を伸ばし、振り返って、眉を顰めている間に、障子戸が僅かに開かれた。
「ああ、なんだ」
「起こしたか。すまない」
「いや。姿が見えないから、心配した」
 ごそごそと物音がしていたから、中でなにが起きているのかは、おおよそ見当がついていた。結果は予想通りで、小夜左文字は申し訳なさに首を竦めた。
 歌仙兼定は寝間着姿で、肩に褞袍を羽織っていた。表が黒で、裏地が赤い派手な代物で、小夜左文字と揃いだった。
 隣に居るべき存在が失われていると知って、手に触れたものを掴んで飛び起きたのだろう。袖を通すのを後回しにしてまで、彼は探しに出るのを優先させたのだ。
 厚みのある足指が冷え切った床板に触れ、その瞬間だけ、男は眉を顰めた。嫌そうに唇を歪めて半眼して、数秒じっと耐えて、次の一歩を踏み出した。
 隣に来るのに、二歩とかからなかった。布団を背負った短刀は気まずげに目を逸らし、庭に向き直った。
「小夜」
「月が、綺麗だ」
 呼びかける声は、寝起きの所為もあるのか、低く掠れていた。
 若干強めの語気で咎められたのを掻い潜って、逃げるように、少年は捲し立てた。
 苦しい言い訳を展開させて、天を仰ぐ。打刀はつられて瞳を持ち上げ、軒先から覗く闇を見詰めた。
 望月よりは細く、半月よりは太い。居待月と寝待月の間くらいかと考えて、歌仙兼定は目を眇めた。
 濡れ羽色の闇に、白銀の月が薄ぼんやりと輝いていた。輪郭は僅かに滲んでおり、虹色の暈を被っている風にも見えた。
「空気が澄んでいるからね」
「歌仙」
「床を出るのなら、僕も起こしてくれないと。肝が冷えた」
「……気を付けよう」
 気のせいか、中秋の名月よりも色が冴えている。冬の月も悪くないと首肯して、打刀は膝を折り、短刀の左隣に座した。
 最中に顔を見ぬまま愚痴を言えば、少年は一瞬間を置き、低い声で囁いた。
 感情を押し殺し、抑揚なかった。お蔭で内心笑っているのか、困っているのか、判断がつかなかった。
 我儘を言った自覚はあり、歌仙兼定は緩く湾曲した髪を掻き上げた。肩から羽織るだけだった褞袍に袖を通して、前身頃を隙間なく、ぴっちり重ねあわせた。
 ただ残念ながら、脚までは覆えない。胡坐を掻いて肌が触れ合う場所を増やしてみるが、効果があるとは言い難かった。
「かせん」
「問題ない」
 なんとか落ち着ける体勢を探そうともぞもぞしていたら、見かねた小夜左文字が被っていた布団を捲った。腕を伸ばして広げて、傍に来るよう促した。
 だがパッと見て肉まんじゅうと勘違いしそうな格好は、正直言って、雅ではない。褞袍を羽織っている時点でなにを、と笑われそうだが、風流を好む刀として、受け入れられないものがあった。
 微妙な境界線の前に佇み、悩んで、断った。それが意外だったのか、小夜左文字はきょとんと目を丸くして、二度、三度と瞬きを繰り返した。
「……そう」
「ああ、いや。違う。小夜の心遣いは、十二分に有り難く思っているんだけどね」
 やがて空色の瞳は地に沈み、漏れ出た声に覇気はなかった。
 落ち込んでいる雰囲気を察して、打刀が慌てて弁解に入る。両手を胸の前で右往左往させて、いつにも増して早口だった。
「歌仙?」
「その。君が、冷えてしまうだろう」
「別に、いいのに」
 滑稽な舞を披露されて、少年は頬を膨らませた。無用な気遣いだと口を尖らせ、拗ねて膝を抱え込んだ。
 男の為に用意した布団の隙間を閉じて、いよいよ丸く、小さくなった。その態度は見た目相応の幼さで、内面の成熟具合との差異が可笑しかった。
 悟られないよう笑って、歌仙兼定は寝かせた膝に頬杖をついた。
「冬の月夜の庭というのも、悪くないね」
 空気は凛と冷え、下手に動けば切り刻まれそうだった。
 突き刺さる冷気に、もれなく見る側の心までもが、鋭く研ぎ澄まされていく。溶け残った白い雪が反射する輝きもまた、無愛想な景色に彩りを添えていた。
 明るくはないけれど、暗くない。
 存外心地良いと深呼吸して、小夜左文字は鷹揚に頷いた。
「じき、春だ」
「暦の上はね」
「だとしても」
 新年を迎えたとしても、すぐに暖かくはならない。本格的に雪が降り始めるのはこれからだし、布団や褞袍の綿を抜くのは、もっと先の話だ。
 けれど一日が一歩となり、季節は着実に前に進んでいく。
 昨日と同じように見えて、ふとした瞬間に変化を感じるのが、何よりの楽しみだった。
「小夜は、春が好きかい?」
「夏よりは」
「それは確かに」
 気まぐれな問いかけに、少年は間髪入れず言った。
 短い返答に男は破顔一笑して、大いに同意する、と膝を打った。
 夏は、ひたすら暑かった。ちょっと動くだけで汗が滲んで、不快な臭いが屋敷中に充満した。
 とある刀の部屋から茸が生えたのは、梅雨時の出来事だ。布団を敷きっぱなしにして、衣服もその辺に脱ぎ捨てて放置していたら、変な菌が繁殖したのだ。
 あんな思いは、二度と御免だ。
 畳ごと取り替えなければならなくなったのを思い出し、歌仙兼定は無意識に拳を作った。
 なにやらひとりで腹を立てている打刀に目を細め、小夜左文字は布団の中で両手を捏ねあわせた。
 皮膚は乾燥し、カサカサしていた。水仕事が多いので手荒れも酷く、爪の周りは真っ赤に腫れて、関節部分はぱっくり裂けていた。
 風呂上り、軟膏をたっぷり塗り込んだが、もう乾いていた。後でまた塗っておかないと、目覚めた時、枕や布団が血まみれになってしまう。
「寒い?」
「いや」
 身じろいでいたら、危惧された。首を振って答えて、短刀は白く煙る靄に顔を埋めた。
 視界が白く濁るかと思ったが、吐いた息は確かめる前に消えた。三度も試したが一度も成功せず、なかなかに難しかった。
「なにをしているんだい?」
「べつに」
 深い意味もなく、理由もない行為だった。思いつきで初めて、上手くいかなかったので繰り返しただけだ。
 だから訊かれても、答えられない。一瞥してはぐらかして、小夜左文字は肩を二度、上下させた。
 首は自然と後ろに傾き、視線は空を映し出した。
「今日ごとに 今日や限りと 惜しめども 又も今年に 逢ひにけるかな」
「やれやれ。君はずっと、今日限りの命と思い続けていたのかい?」
「……駄目か」
「いいや。そうだね。世の中というものは、なにが起きるか分からないから、面白くあるんだ」
 沸き起こった感情と言葉を混ぜ、囁く。
 紡いだ音は歌となり、横で聞く男に笑われた。
 大晦日を詠った歌は、一日を一歩として、気がつけば年の瀬が来たと教えてくれる。そして年が明けたとしても、同じように、また一日を一歩として刻んでいくのだ。
 結局今年も、復讐を遂げられなかった。
 だが全体的に、悪くない一年だったと言わざるを得ない。
「来年は、どうなるかな」
 昨年末の時点で本丸に至っていなかった江雪左文字は、今や主戦力の一員にまで育ち、嫌々ながら出陣する毎日だ。一期一振や日本号も同様であり、小さくない小狐丸まで、いつの間にか屋敷に棲みついていた。
 粟田口派の短刀が一段と数を増やし、三間続きの大部屋ですら、手狭になってしまっている。槍たちの共同部屋は男臭さに酒臭さが加わって、梅雨時に黴が生えそうだった。
 ふと思い浮かんだ疑問に、合いの手は返らない。小夜左文字は沈黙し、歌仙兼定を見もしなかった。
 代わりに真っ直ぐ月を仰ぎ、大きく口を開き、息を吐いた。
「今とそう、変わらない」
 出陣と遠征と、日常任務の繰り返しの中に、ちょっとした騒動が起きて、その繰り返し。
 新たな強敵が現れようとも、次なる時代に派遣されようとも、やることは結局、どれも同じだ。
 戦って、戦って、傷ついて、癒して。
 また戦場に出て、戦って、そうやって毎日が過ぎていく。
 歴史修正主義者が諦め、審神者の勝利が決定的にならない限り、戦いの日々は終わらない。
 仲間がどれだけ増えようと。
 とても倒せそうにない敵が現れたとしても。
 眠って、起きて、食べて。
 笑って、怒って、泣いて、拗ねて。
 これまで散々繰り返して来た日常に、決定的な変化は訪れない。
「歌仙がいるなら、僕は、それで」
 多くは望まない。
 今あるものだけで構わない。
 変化は要らない。
 これ以上の贅沢は、ほかにない。
「小夜」
「おいで」
 掠れる小声の呟きに、男の貌がぱっと華やぐ。背筋を伸ばして目を丸くした打刀に向かって、短刀はおもむろに手を伸ばした。
 肩幅よりも大きく広げ、被っていた布団は背に落とした。身軽さを取り戻した反面、薄着になった少年を迎えに行って、歌仙兼定は膝を起こした。
 倒れ込む体躯を胸で受け止め、遠慮なく抱きしめる。
 熱が弾け、火花が散った。
 心地良い温もりに満面の笑みを浮かべて、小夜左文字は冷えた頬を分厚い胸板に押し当てた。
「こんなに冷たくなるまで」
「歌仙は、温かいな」
「僕の熱で良いのなら、いくらでも貰ってくれ」
 丁度空には雲が流れ、月の光を隠そうとしていた。打刀は小柄な短刀を楽々抱えあげると、落ちた掛布団を拾い、大股に敷居を跨いだ。
 開けっ放しだった障子を閉めて、暫くもしないうちに、室内に明かりが灯った。
 置き行燈に火を入れて、大勢が寝静まる中、そこだけが橙色の輝きに包まれる。
 白い紙に影が浮かび、手を取り合う姿が見て取れた。それはやがてひとつに重なって、灯明は吹き消され、全ては闇へと呑み込まれた。
 

2015/12/31 脱稿