目の前に広がるのは、見知らぬ河原だった。
そこがどこであるか、まるで分からなかった。来たこともなければ、訪ねようと思ったこともない。右を見ても、左を向いても、灰色の石ころしか転がっていなかった。
川があった。
大きな川だ。流れは緩やかで、波はほとんど立っていない。遥か彼方の対岸は黒々しい雲に覆われて、岸辺に生える木々はどれも葉が落ち、枯れ果てていた。
枝ぶりも立派な大樹なのに、惨めな姿と化していた。朽ちて白くなった枝の先には襤褸布が引っかかり、風もないのに当て所なく揺れていた。
派手な色柄の名残が見えるものがあった。
金銀の刺繍が施され、大層豪華な晴れ着まであった。
けれどそれも、所々解れて、破れていた。長く風雨に晒されて来たのか、往時の栄華さは鳴りを潜めていた。
耳を澄ませば、遠雷のような音が聞こえた。
おぉぉ、おぉぉ、と絶えずこだましている。ずっと聞いていると、胸が締め付けられるように痛んだ。
息苦しさを覚え、小夜左文字は藍の袈裟を握りしめた。左手は無意識に首の数珠を撫で、その奥に隠れていた喉仏を引っ掻いた。
「……なに、ここ」
不意に恐怖に襲われて、足が竦んだ。草履を履いた足が尖った小石を蹴り飛ばし、カコン、と小さな音を立てた。
途端に対岸からの声が大きくなって、彼は耳を塞いで身を強張らせた。
黒い雲に覆われた川向うで、赤い火柱が上がった。火山でも爆発したのか、血にも勝る鮮やかな紅が轟音と共に天を突いた。
地鳴りがして、足元が揺れた。立っていられなくなって、小夜左文字は片膝を折ってしゃがみ込んだ。
頭を抱えたまま、地震が収まるのをじっと待つ。灼熱の溶岩に焼かれる死者の声は益々強くなり、何度殺されようとも終わらない苦しみが、対岸にいる短刀にまで襲い掛かった。
いったい、どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
揺れが落ち着いた後もしばらく蹲り続け、小夜左文字は脂汗を流して荒い息を吐いた。
瞬きを忘れた眼が、足元に敷き詰められた小石を映し出した。尖っている部分が刺さったのか、右の親指からは血が出ている。けれど痛みはまるで感じなくて、彼は緩くかぶりを振り、思い切って顔を上げた。
景色は変わらなかった。噴煙は見えず、ただ鉛のように重い悲鳴だけはずっと続いていた。
あれは、地獄へ落とされた者たちの嘆きの声だ。
生前の罪を贖う為に、死者はいつ終わるとも知れない責め苦を受け続ける。ある者は炎に焼かれ、ある者は串刺しにされ、またある者は獣の牙に貫かれる。
閻魔大王の前では、どれだけ弁が立とうとも無意味だった。
鏡に映し出された過去の悪行に釈明は許されず、無慈悲な裁定が下される。地獄に通じる門が閉まる夜はない。
目を凝らせば、遥か遠くに橋が見えた。渡し船の前には行列が出来て、身ぐるみを剥がれた者たちが集い、止め処なく涙を流していた。
再び彼岸に目をやれば、相変わらず不気味な雲が、空の低い場所に留まっていた。
景色が見えないのが唯一の救いだが、代わりに鼓膜を震わす声が止まない。
獄卒たちの容赦ない責め苦がいかに厳しく、辛いものであるか。聞こえてくる叫び声だけでも、手に取るように理解出来た。
己もいずれ、あそこへ行く。
彼は多くの無辜の民を手にかけ、この身を血で濡らして来た。
その罪は非常に重く、生半可な苦しみでは許されたりしない。
「そうか」
ここに来てようやく、小夜左文字は気が付いた。
「僕は、……折れたのか」
己が何故、この場所に立っているのかを。
他人事のように呟けば、急に現実味が沸いてきた。曇っていた眼が晴れて、寸前の記憶がまざまざと蘇った。
そう。小夜左文字は折れた。
一介の刀剣であった彼は審神者なる者に喚び出され、付喪神として人の姿を得た。歴史改変を目論む異形との戦いに身を投じて、敵の斬撃を受け、数多の傷を負った。
そしてついに、砕かれた。
致命傷を受けた。振り翳した刃は敵に届かず、世界は暗転した。
次に目覚めた時、彼はこの岸辺に立っていた。
「あれは、では、三途の川か」
得心がいった。納得だと首肯して、少年は目の前に横たわる広い、広い川に視線を投げた。
水は黒く濁り、澱んでいた。
土砂でも流れ込んでいるのか、底が見えない。当然魚が生息しているわけがなく、穏やかな流れはひっそり静まり返っていた。
ここに身を投じれば、二度と浮き上がることはないだろう。実際、橋を渡る死者の中には、この後待つ裁きを恐れ、自ら川に飛び込む者もいた。
小夜左文字が見ている前で、またひとり、断末魔の叫びを残して消えていった。それに引きずられる形でもうひとり、更にひとりと、立て続けに水柱があがった。
川面を揺らす水飛沫は、そう時間が経たないうちに終息した。流れは再び穏やかになり、絶望の淵に立つ死者を手招いた。
目を閉じれば、京都の夜を彩る提灯の炎が浮かび上がった。
月明かりさえ見えない裏通りを駆け、狭い路地で戦っていた。一歩進む度に敵が躍りかかって来た橋は、今思えばとても短かった。
爛々と目を輝かせた凶刃を掻い潜り、先陣を切って刃を振るった。戦に怯える他の短刀たちを庇うように進んで、率先して傷を受けた。
まだいける。
もっと行ける。
皮膚が裂け、血が流れようとも休まなかった。ここで立ち止まるわけにはいかない。己を鼓舞して、獣となって吼えた。
その結果が、これだ。
思い出しているうちに、笑いたくなってきた。実際クツクツと喉を鳴らして、小夜左文字はあちこち破れている袈裟を撫でた。
下に着込んだ直綴の真ん中に、大きな穴が開いていた。
背中側も同様だった。手探りで触れれば、白衣を通り越して素肌に直接指が当たった。
「――っ!」
瞬間、槍で貫かれた衝撃が彼を襲った。吐き気がして、恐怖が四肢を覆い尽くした。
身の自由を奪われて、小夜左文字はカタカタ震えながら丸くなった。瞠目したまま冷たい汗を流し、開きっ放しの口からはなんだか分からない声が漏れた。
彼は折れた。
咄嗟に身を守ろうとした刀諸共、槍が小さな体を打ち砕いた。
これで楽になれると、一瞬、考えた。
もう復讐に固執しなくて良い。居もしない仇を探し求め、戦場を血眼になって駆け巡らなくても済むのだと、思った。
分かっていたはずだ。この身に、安らぎの時はやってこないと。
「当然、だよね」
肩を上下させ、小夜左文字は乱れた息を整えた。濡れた口端を手の甲で拭って、少年は皮肉な笑みを浮かべた。
自嘲して、ゆっくり肩を落とす。
蒼色の瞳は光を失い、双眸は乾いていた。
極楽へ行けるなど、端から思っていなかった。地獄行きは至極当然で、妥当な判断だった。
だというのに、少なからず傷ついた。
「そうか……」
この広大無辺な川を渡った先は、地獄だ。一度入れば二度と抜け出せない、永遠の檻だ。
兄である江雪左文字は常々、この世こそ地獄だと口にしていた。
戦が絶えず、連日連夜どこかで、誰かが死ぬ。
平穏を求めようとも、そんな世界、どこにもありはしないのだ。
「もう、会えないのか」
愁いを帯びた横顔が、流れるように消えていった。
己の身の置き所を探し求め、彷徨っていた次兄の顔も現れ、消えた。
賑やかな本丸の、喧しい連中が、泡の如く弾けて消えた。今剣に、厚藤四郎に、堀川国広や、燭台切光忠も。
最後に残った大きな泡も、手を伸ばす前に儚く散った。
紫の髪が風に揺れて、小夜左文字は溢れ出そうになった嗚咽を飲んだ。
彼は刀としての役目を終えた。
最早二度と、現世に戻ることはない。
あそこに帰ることは出来ない。
どれだけ歩いても、どんなに走っても。
今一度、本丸に帰還を果たす日はやって来ない。
会えない。
誰にも、ずっと。
もう、逢えない。
「……っ」
不意に感情が突き上げて来た。全身が震え、背筋が粟立った。
奥歯を噛み、小夜左文字は涙を堪えた。あまりにも残酷な現実に押し潰されそうになって、彼は懸命に己を奮い立たせた。
辛くない、わけがない。
けれどここで泣くのは、絶対に認められなかった。
刀としての矜持を最後のよすがとして、二本足で凛と立つ。地獄で苦しむ亡者の声は途切れず、彼の努力を嘲笑った。
「僕は、……左文字の、刀だ」
たとえその刀身が砕かれようとも、誇りまでは折られたりしない。
最期の一瞬まで清廉と輝いてみせると息巻いて、小夜左文字は横薙ぎに腕を払った。
歯を食い縛り、眉間の皺を深くして。
たとえ地獄の鬼が相手でも、決して怯んだりしない。
力強く決意して、荒々しく足を踏み鳴らして。
彼は鞘より抜き放った刀を、逆手に握りしめた。
歌が聞こえた。
子供の声だった。
悲鳴も聞こえた。
悲しみに暮れる叫びだった。
鬼がいた。
赤黒い肌をして、金棒を振り回していた。
遠い昔に見た、地獄絵図そのままだった。醜悪な顔をして、鬼が追い回しているのは、小さく、ひ弱な、白い影だった。
石の塔があった。
よくよく気を付けてみれば、そこかしこに、無数の塔が建てられていた。
白くぼんやりとした影が、その足元に蹲っていた。無垢な涙は、その朧げな影から流れ落ちていた。
歌は、和讃だった。
賽の河原で石を積むのは、父母よりも先に死んだ子供たち。
親不孝を詫びて、ただひたすらに石を積み上げていく。それを、鬼が崩す。塔が完成することは、ない。
父の為、母の為。兄の為、姉の為。これから生まれてくるだろう、弟たちのため。
幼くして死した子が、現世に遺した者たちを想って重ねた石を、鬼たちは無遠慮に、容赦なく壊していく。
許せるわけがなかった。
見逃せるはずがなかった。
「やめろ。やめろ!」
小夜左文字は吠えた。腹の底から湧き上がる怒りに身を任せ、彼は金棒を振り回す鬼目掛けて突進した。
後のことなど考えなかった。
既に数えきれない罪を背負って、地獄行きは免れない。今更ひとつやふたつ、罪状が増えたところで関係なかった。
手に馴染む短刀を握りしめ、砂利を蹴る。高く跳んで、少年は鬼を一閃せんと刃を振り翳した。
しかし。
「――な!」
あと一寸で鬼の頭蓋を打ち砕く。そんな瞬間に、肝心の鬼の姿が掻き消えた。
目標を見失い、小夜左文字は目を剥いた。
白く淡い影が見えた。涙を流す、哀れな子供の貌が瞳に飛び込んできた。
「しま……っ」
慌てて腕を引こうとしたが、間に合わない。
鬼の暴虐を阻もうとした。それなのに彼の刀は、あろうことか、守ろうとした子の塔を、木っ端微塵に打ち砕いた。
目論見と正反対な結末を目の当たりにして、小夜左文字の心に罅が入った。ぴしっ、と硬い音を響かせ、必死に守ろうとしてきたものの角がぽろりと欠けた。
目を見張り、少年は立ち尽くした。崩れ落ちた石の塔を茫然と見詰め、掌中から滑り落ちそうだった刀を急ぎ握り直した。
肩で息をして、振り返る。
鬼がいた。
哂っていた。
無駄な足掻きと短刀を虚仮にして、次の標的を探して金棒を振り回した。
「待て!」
止めようとしたが、間に合わない。
あと少しで完成を見るはずだった塔はガラガラと音を立て、跡形もなく消し飛んだ。
伸ばした手は、なにも掴めなかった。虚空を掻き、小夜左文字は立ち尽くした。
またひとつ、罅が走った。
目に見えないなにかが、足元から崩れていく気がした。
視線も自然と下に落ちて、ぼろぼろに千切れた草履と、傷だらけの爪先を映し出した。
小石が沢山、転がっていた。
ここで塔を作っていた子供の影は、場所を移したのか、いつの間にか見えなくなっていた。
「僕、は」
人の形をした影は、涙を流していた。哀しみに支配されて、己の救いよりも、別れねばならなかった家族の為に祈っていた。
それを小夜左文字が壊した。
よかれと思ってやったことが裏目に出て、罪だけが積み上げられていく。
声が震えていた。
立っていられなかった。
鬼の高笑いと、子供の泣き声がこだました。死者の叫びが川向うから響き、川面を飾る水柱は花火のようだった。
がくりと膝を折り、小夜左文字は蹲った。
「いたっ」
偶然当たった石は角が鋭く尖っていて、躊躇なくその指を刺した。
血が出ていた。じんわり赤く染まっていく指を口に含めば、どこか懐かしい味がした。
「あにうえ」
鉄錆びた匂いまでも舐めとって、彼は欠けてボロボロになった刀を手放した。
両手で河原の石を集めて、作るのは粗末な石塔だった。
大きくて平らな石を土台にして、その上に少し小さめの石を置く。更にその上に、またひと回り小さい石を重ねて、を繰り返す。
江雪左文字の顔を思い浮かべながら。
「あにさま」
宗三左文字の顔を思い出しながら。
「今剣」
共に京へと出陣した、烏天狗を懐かしみながら。
「燭台切光忠、大倶利伽羅」
台所で良く顔を合わせた男たち。
「堀川国広、和泉守兼定」
同じく台所で時々一緒だった、世話好きの脇差と、その邪魔ばかりする太刀。
「厚藤四郎、五虎退、乱藤四郎」
粟田口の短刀たちには、よく酷い目に遭わされた。悪戯に巻き込まれ、関係ないのに連帯責任で正座させられた。
「一期一振」
藤四郎たちの長兄には、妙な形で世話になった。弟たちへのついでだと色々なものをもらったし、江雪左文字との仲を取り持ってもらったりもした。
「へしきり長谷部」
黒田での縁で、彼とはたまに、碁を愉しませてもらった。これからは次兄宗三左文字と、喧嘩をせずに過ごして欲しい。
「薬研藤四郎」
粟田口の短刀の中で、一番世話になったのは彼だろう。ぎこちなかった宗三左文字との関係が改善に向かったのは、間違いなく彼のお陰だった。
「鶴丸国永」
悪戯好きな太刀には、頻繁に驚かされた。どうか暗く沈んでいるだろう本丸を、その持ち前の明るさで、眩しいくらいに照らしてはくれないだろうか。
積み上げる石が、段々小さくなっていく。
崩さないように乗せていくのは大変で、神経を削る作業だった。
そして、なにより。
「ああ――っ」
獄卒が振るう金棒が、彼の努力を薙ぎ払った。
短刀を握る暇もなかった。最初のうちは斬りかかり、悔しさを爆発させていたが、どうやっても刃は鬼に届かず、寸前ですり抜けて終わりだった。
なにも残らなかった。高く積み上げた石塔は倒されて、土台の石まで破壊された。
そんなことを、五度も、六度も繰り返した。虚しさが心を占めて、そのうちに、鬼に反発する気持ちさえ持てなくなっていった。
疲れていた。
石を掴む手にも、力が入らなかった。
「……う、っ」
悲しいのに、涙は出なかった。
喉を引き攣らせ、小夜左文字は傷だらけの両手を握りしめた。
現世に未練などなにもない。そのはずだ。これで誰も恨まずに済むと、憎しみを抱かずに済むのだと、喜びさえ抱いていた。
だというのに、どうしたことだろう。
石を積み、崩され、また積んで、崩されて。
それを繰り返す度に、本丸での日々が無性に懐かしくてならなかった。
最初は嫌だった。
審神者に反発し、逆らい、窘められ、渋々従った。仲間が増えて騒がしさが増して、兄だという刀剣が現れて、復讐への執着が薄れていくのを肌で感じていた。
あそこは暖かかった。
とても、優しい場所だった。
「かせ、ん」
喘ぐように息を吐き、石を取る。握りしめて、どうせ崩されると分かっている塔に積む。
哂う鬼が見えた。振り上げられる金棒を止める手立てが、彼には残されていなかった。
それでも諦めきれなかった。
もう一度会えるのなら、何度壊されても、石を積み続けるのを止めたくなかった。
兄、江雪左文字は言った――この世は地獄だと。
小夜左文字もそう思う。
けれど少なくとも、皆が居るうちは。
皆と一緒にいる時だけは、そこが地獄たりえるわけがなかった。
帰りたい。
帰りたかった。
またあの場所で、兄たちと。
仲間たちと、賑やかな日々を過ごしてみたかった。
獄卒の鬼になど屈しない。
絶対に、折れたりしない。
目を吊り上げ、少年は吠えた。無体に振る舞う鬼を威嚇して、今一度、ぼろぼろになった刀へと手を伸ばした。
掴み取り、身構える。蒼の瞳を爛々と輝かせて、打ち倒すべき相手を見出し、刀の矜持を高らかに叫んだ。
鬼に塔を崩されて涙する子供たちを背に庇って、守り刀としての尊厳を奮い立たせた。
「僕は小夜左文字。全てに復讐する者だ。貴様たちの悪行の数々、地獄の果てで悔いるがいい!」
牙を剥き、最後の力を振り絞った。高く、高く跳びあがって、彼は渾身の一撃を鬼へと放った。
着地場所を誤りはしない。避けられても追撃の手は緩めず、右に、左に動き回って、河原の塔から鬼を遠ざけた。
今のうちに、と心が急いた。石積みの塔が完成した後、何が起きるかは分からないが、そうしなければいけない気がして、身体が動いた。
無論獄卒たちも黙っていない。生意気な短刀風情を打ち負かそうと、鬼は聞き苦しい雄叫びを上げた。
金棒を振り回し、小柄な少年を追い回す。けれど大振りな一撃を躱すのは容易で、小夜左文字の敵ではなかった。
「殺してやる。ああ、殺してやるさ!」
後方で、ぽっ、ぽっ、と白い光が弾けるのが見えた。子供の影は手を合わせ、安らいだ表情で頭を垂れた。
一瞬見えた光景は、小夜左文字を安堵させこそすれ、不安にはさせなかった。
きっとこれで良かったのだ。胸を撫で下ろして、彼は次々集まってくる鬼たちに不遜な笑みを浮かべた。
口角を持ち上げ、嘲笑を投げ返す。
挑発し、彼奴らの意識をこちらに集める。どこかの太刀を真似て石を蹴って目潰し代わりにして、一斉に襲い掛かって来た獄卒の頭を跨ぎ、その背中を踏みつける。
食らえば骨まで砕ける金棒は、密集する鬼たちにとっては仲間を屠る武器でもあった。
共倒れを狙って巧みに場所を移動して、大振りの一撃を易々躱して逆に斬り付ける。怪しげな幻術は効力を失ったのか、肉を貫く鈍い感触が、柄を通して伝わって来た。
袈裟斬りに刃を振るい、即座に後ろへ跳んで金棒を避ける。背後から狙って来た鬼の股を潜り抜けて逆に後ろを取り、脚の腱を切って倒れたところで、真上から振り下ろされた金棒からさっと逃げる。
肉が拉げる音がした。
断末魔の叫びは、人のそれではなかった。
鬼の数は減らない。逆にどんどん増えていく。一方小夜左文字はひとりきりで、四方を取り囲まれれば逃げ場はなかった。
もっともここを切り抜けられたとしても、彼に行く宛てなど、ありはしなくて。
地獄で死んだら、どうなるのか。
興味は尽きず、逆に笑いがこみあげてきた。
「どうした。小夜左文字はここにいるぞ!」
雄々しく吠えて、賽の河原の鬼を集める。
永劫にこれが繰り返されるとしても、悔やむ理由は、ひとつもなかった。
色めきたった鬼たちが、徒党を組んで襲って来た。逃げられないように全方向から一斉に押し寄せて、小夜左文字を押し潰した。
光が、爆ぜた。
世界はすべて、輪郭があやふやだった。
ぼやけた視界に、彼は眉目を顰めた。ふわふわと当て所なかった意識が一ヶ所に集約されて、戻ってきた聴覚が鳥の囀りを拾い上げた。
「こ、こ……は」
口を開いても、巧く音が出なかった。乾ききった唇は動かすと痛くて、鼻から吸い込んだ息は粘膜を焼き、熱を産み出した。
噎せそうになったが、咳さえ出ない。
徐々に形をはっきりさせていく世界に瞬きを繰り返して、小夜左文字は見えた天井に眉目を顰めた。
あの目玉のような木目を、知っている。
河童か、大天狗の横顔か。異なる見え方で論争したのは、もうかなり昔の話だ。
光は足元から差し込んで、障子戸の影が畳に刻まれていた。外の様子は見えないけれど、恐らくは快晴で、心地よい風が吹いていることだろう。
洗濯日和。
そんな言葉が思い浮かんで、彼は鉛のように重い腕を引き上げた。
肩まで覆っている布団から抜き出し、額を覆おうとする。けれど命令に反し、身体は全く反応しなかった。
指がぴくぴく痙攣を起こすのみで、肘が曲がらない。腹にも力が入らず、首を横に倒すのさえ一苦労だった。
動けない。
起き上がれない。
「な、に……が」
まるで全身が、石になってしまったようだった。
意識だけが冴え渡り、魂と肉体が分離してしまったみたいだった。
掠れた声で呻き、小夜左文字は懸命に抗った。起き上がろうともがいて、必死になって歯を食い縛った。
お蔭で少しずつ、感覚が戻って来た。
後頭部がほんの少し浮いて、首が前に傾いた。肘を支えに上半身を持ち上げて、鉄片で出来ていそうな重い布団を押し退けようとした。
「んぅ、……う……」
自分のものではない声が聞こえたのは、そんな時だった。
腹の上から響いた呻きに、短刀は瞬きを繰り返した。
誰かがそこにいる。
人の腹を枕にして、よく知る男が唸っていた。
藤色の髪が見えた。正座したまま前に崩れ落ちたのか、折り重なり合った膝が畳の縁を踏んでいた。
巧く動けなかったのは、この巨大な重石があったのも影響している。
理解した途端に怒りが湧き起こって、小夜左文字は発作的に右足を蹴り上げた。
もれなくあらゆる筋肉や神経が激痛を発したが、そもそも声が出ないので呻きようがなかった。下から突き上げられた男も眠りを妨げられて、大袈裟すぎる反応で飛び上がった。
「えっ。ええ!?」
まだ寝ぼけているのか、目を白黒させて大慌てで左右を見回す。狼狽激しい表情は滑稽だったが、無理をした報いを受けていた小夜左文字に、笑い飛ばす余裕などなかった。
奥歯を噛み締め苦悶に耐え、眼差しだけで男を射抜く。
地獄の底から蘇った短刀に、目が合った打刀はきょとんとした顔で凍り付いた。
まるで死者が蘇ったかのような表情をされて、面白くない。
「かっ、……」
なにをそこまで、驚く必要があるのだろう。
不満を訴えるべく口を開いたものの、相変わらず喉は焼けて、声は音にならなかった。
吐く息も細く、長く起き上がっていられない。
力尽きるのに、五秒とかからなかった。再び布団の上の人となった彼に、歌仙兼定は顔色を青くして、直後に興奮に赤く染め変えた。
「ささっ、さ、さ、さっ……さよ。小夜、が!」
動揺しすぎて舌が回らず、名前ひとつまともに呼べない。
ひっくり返って頭のてっぺんから声を出して、やれ雅だ、風流だと五月蠅い男は慌ただしく立ち上がった。右往左往して落ち着きなく動き回り、挙動不審に足を踏み鳴らしたかと思えば、突然頭を抱え込み、ハッ、と息を飲んで硬直した。
軽く十秒以上は停止して、瞬きひとつしない。
「……?」
今度は彼が石になったかと懸念して、小夜左文字は眉を顰めた。
瞬間、だった。
「小夜が。小夜が。さよがあああああああ!」
細川の打刀は絶叫し、障子戸を蹴破る勢いで飛び出していった。
足音うるさく掻き鳴らし、雅さを忘れて駆けて行ってしまった。
開け放たれたままの障子戸からは朝の光が差し込んで、燦々と照る陽光がいやに眩しかった。
目を細めて、小夜左文字は状況を整理すべく息を吐いた。
四肢の力を抜き、馴染みのある天井を仰ぐ。本丸で毎日寝起きしている部屋は、前と変わらず、綺麗に整理整頓されていた。
随分と長い間、眠っていた気がした。
夢を見た。内容は判然としないものの、あまり楽しいものではなかったことだけは、辛うじて覚えていた。
ズキン、と腹に痛みが走った。
触れようと思ったが、身体は依然動かない。どうしたものかと悩んでいた短刀は、遠くから近付いてくるけたたましい足音に顔を顰めた。
「さよくん!」
程なくして、障子戸が思い切り左右に開かれた。耳に痛い甲高い声が響き渡って、怒り心頭の元大太刀が、色違いの目を吊り上げた。
緋色の瞳を尖らせて、今剣は敷居を跨ぐと同時に飛び上がった。
「さよくんは、おおばかです!」
「ぐえぇっ」
大声で怒鳴り、布団から動けない小夜左文字に圧し掛かった。大の字で着地を決めて、逃げようがなかった短刀仲間を押し潰した。
内臓が圧迫され、槍に貫かれた傷が疼いた。完全に塞がっているはずなのに痛みが膨らんで、二度目の悶絶に少年は泡を噴いた。
「しっ、し、ぬ……」
「ばかです。ばかばか、さよくんのばか!」
呻くが、訴えは届かない。人の腹に馬乗りになった短刀はぽかすかと小夜左文字を殴って、ただでさえ傷ついている身体に追い打ちをかけた。
このままだと、本気で殺されかねない。
早く退いて欲しいのに、抵抗出来ない身体が恨めしかった。どうしてこんなにも疲労が蓄積されているのかと、混乱に拍車がかかって眩暈がした。
限界に達した意識が強制終了を企て、目の前がふっ、と暗くなった。と同時に今剣の拳も一気に遠ざかって、安堵したのも束の間、高い場所から抗議の声が降ってきた。
「はなしてください、いわとおし。ぼくは、もーれつにおこってるんです!」
薄目を開けて上を見れば、烏天狗が浮いていた。空中でじたばた暴れて、両手両足を振り回していた。
もっとも今剣の背中に羽が生えたわけではなく、単に薙刀に吊り上げられただけだ。本丸でも際立って大きい男は見た目同様豪快に笑って、右腕にぶら下げた短刀を提灯のように揺らした。
「落ち着け、今剣よ。これ以上やっては、左文字の小僧がまた手入れ部屋行きだぞ」
「む、うー」
憤りももっともだが、冷静になるよう促す。外見と違って思いの外細やかな気遣いが出来る薙刀を呆然と見上げ、小夜左文字は膨れ面の今剣にも視線を投げた。
目が合って、思い切り睨まれた。ふんっ、と鼻息荒く顔を背けられて、その怒りの度合いが推し量れた。
戸惑い、眉を顰める。
困り果てた表情を下に見て、岩融は呵々と笑った。
「だがな、左文字の小僧よ。お主も悪い。あまり皆を驚かせるな。俺は、今剣が泣くところを、そう何度も見たくはないぞ」
「いわとおし!」
ふっと真顔になって、薙刀が低い声で告げる。
内容に異議ありと今剣が吠えたが、岩融は聞こえなかったふりをして肩を竦めた。
改めて烏天狗の少年を見れば、その目元は黒く濁り、酷い隈が出来ていた。
そういえば歌仙兼定も、最初のうちは顔色が悪かった。髪はぼさぼさで、無精髭も生えていた。
眠っているうちに、いったい本丸になにがあったのか。
それ以前に、どうして長い眠りに就かねばならなかったのか。
途切れ途切れの記憶に荒い息を吐き、唇を舐める。振動を伴った足音が複数、また聞こえて、今度は頭側にあった襖が力任せに開かれた。
あまりにも勢いが良過ぎて、衝撃で頭が浮いた。固い枕が僅かにずれ動いて、小夜左文字は目を丸くした。
「小夜!」
「小夜……」
どきりとして、直後に聞こえた声にまたも瞠目する。
振り返るのも叶わなくてじっとしていたら、天井に固定された視界に、あちらから潜り込んでくれた。
薄紅色の袈裟と、銀の袈裟。
肩で息を整えて、左文字のふたりが枕元で膝を着いた。
香の匂いがした。いつも涼しい顔をしている江雪左文字までもが、額に汗を浮かせ、乱れた呼吸で胸を上下させていた。
数珠が見えた。
血の気の引いた貌に、今剣よりもずっと酷い隈が出来ていた。
眉目秀麗なふたりが、揃ってだった。まるで二晩、三晩と寝る間を惜しんで経を唱えていたかのようで、その憔悴具合は凄まじかった。
「ああ……」
感極まって、宗三左文字は両手で顔を覆った。何度も、何度もかぶりを振って、やがて小夜左文字へと身を乗り出した。
今剣とは違い、手前に倒れ込まれた。肩に触れられ、腕を引っ張られ、自由の利かない手を掴み、握り締められた。
江雪左文字は薄く開いていた唇を引き結ぶと、物言いたげな眼差しで弟を見据えた。溢れんばかりの想いを奥歯で噛み締めて、最後に深く頭を垂れた。
「感謝します」
小夜左文字の、そのもっと先に居るなにかに向けて謝辞を述べる。
心の底からの安堵が感じられて、少年は当惑したまま左右を見回した。
気が付けば、歌仙兼定も部屋に戻っていた。
「小夜、起きたって?」
「これ、厚。静かになさい」
「小夜君が目を覚ましたって、本当かい?」
「おいおい、やっとかよ。小夜の奴、随分と寝坊助だな」
「ようやくか。まったく、鍛錬が足りん。腑抜けているぞ、小夜左文字」
他にも大勢、部屋に集まっていた。入りきれない者が縁側や廊下にまで溢れて、その賑やかさといえば、過去に例がないほどだった。
驚き、唖然として、小夜左文字は助けを求めて歌仙兼定を見た。細川で一緒だった打刀は小さく肩を竦めると、彼が身を起こす手助けをして、その背を支えた。
そして懐に手を入れて、小さな包みを取り出した。
「本当に、危なかったんだからね、小夜」
これがなければ、助からなかった。
そう囁いて彼が差し出したのは、京へ出陣する際、審神者が持たせた守り袋だった。
きつく結ばれていた紐は解け、傾ければ中身が転がり落ちて来た。それを左の手で受けて、小夜左文字はどくりと鳴った鼓動に四肢を戦慄かせた。
「地蔵、……菩薩」
賽の河原で、子供たちは石を積む。
親不孝を詫びながら、高く、高く、石を積む。
地獄の鬼が邪魔をする。塔を壊し、薙ぎ払う。
永遠に、終わらない。
終わらせられるは、ただひとつ。
地蔵菩薩の加護ひとつ。
守り袋に入っていたのは、菩薩を描いた木片だった。それが見事に真っ二つ、真ん中で裂け、割れていた。
右手に錫杖、左手に宝珠。
子供を守護する地蔵菩薩は、ふたつに別れても尚、小夜左文字に優しく微笑みかけていた。
2015/6/17 脱稿