あやなく袖に しぐれもりけり

 その日、本丸に帰り着いたのは、陽もとっぷり暮れた後だった。
 遠征に出ていた面々を出迎えたのは、寝ずの番を任された蜻蛉切。それ以外の刀剣男士は、審神者も含め、とっくに寝床に就いたという。
 お陰で屋敷内は静まり返り、まるで誰も居ないかのようだった。
 疲れ果てて帰って来たというのに、皆を起こさないよう、息を潜めなければならないとは。
 世知辛いものだと呟いたのは歌仙兼定で、聞いていた全員がほぼ同時に頷いた。特に身体が大きい大太刀が窮屈そうで、次郎太刀は酒の入った瓶を大事そうに抱きしめていた。
 その中で跳ねる水音で、誰かが目覚めるわけがないのに。
 未だ現世での生活に馴染めていないのか、彼らの怯えようには笑うしかなかった。
 履物を脱いで、抜き足、差し足で奥へと進む。審神者への報告は明朝にするとして、歌仙兼定は大きな欠伸を零した。
 右手で顔を覆い、優雅さも忘れて口を開く。もっとも隣を行く陸奥守吉行も、同田貫正国も、似たような顔をしていた。
 特に鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎など、今にも眠ってしまいそうな雰囲気だ。こっくり、こっくりと舟を漕いで、ちゃんと起きているのかも怪しかった。
「君らはもう、先に休んだ方がいいんじゃないかな」
 彼らは今日、審神者の意向を受けてとある時代に出向き、歴史修正主義者たちが仕込んだ罠や、裏工作を回収する任に当たっていた。
 もし放っておけば、歴史が大きく変わってしまう。それは時の政府としては、絶対に防がなければならない事態だった。
 単に刀を握り、戦場で駆け回っていればいいのとはわけが違う。
 その地域に明るい刀を選び、敵に気取られない技能に優れた刀を隊に加え、状況を総合的に判断可能な刀を隊長に据える。
 出立前から打ち合わせを重ねて、お陰でなんとか無事に終わった。安堵した途端にどっと疲れが押し寄せて来て、疲労感は戦場に出るのとは段違いだった。
 早く湯浴みをして、泥だらけの衣服を着替えたい。
 けれどそれよりも、なによりも、一刻も早く布団に包まり、惰眠を貪りたかった。
 人の身体というものは、便利なように見えて、なかなか不便に出来ていた。自由自在に動き回れるといっても限度があり、食事と睡眠を削れば途端に力が出なくなる。
 道中で冷えた握り飯を食べはしたが、空腹は凄まじい。
 ただそれ以上に眠気が勝って、許されるならこの場で倒れてしまいたかった。
「なあ。あんた、なんか作ってくんねーのか」
「ははは。いやあ、さすがに、ちょっと」
 同田貫正国に問われ、歌仙兼定は笑って首を振った。風呂上りになにか食べたい気持ちは少なからず持ち合わせていたが、自分が作るとなると、話は別だった。
 期待の眼差しを向けられても、応じられない。
 やんわり断られた無骨な太刀は盛大に舌打ちすると、湯殿へ向かう足取りを速めた。
 隊で一緒だった面々を置き去りにして、一番風呂を狙う気らしい。
 ただ懸念すべきは、本丸の檜風呂に湯が張られているかどうか、だった。
「水風呂でなければ、良いんだけどね」
 審神者に命じられて律儀に起きていた蜻蛉切が、頃合いを見計らって沸かしてくれていればいいのだが。
 そこまで気が回る男かと、生真面目が過ぎる槍を思い浮かべ、歌仙兼定はいよいよ前後に振れ始めた鯰尾藤四郎の肩を押した。
「君は、あっちだよ」
「ふぁぁい……」
 囁けば、欠伸のような返事があった。瞼は完全に閉ざされており、足取りは覚束なかった。
 それでも本能が導いているのか、骨喰藤四郎の手を引いて、粟田口たちが集う部屋を目指して歩いていく。途中までそれを見送って、歌仙兼定は肩を竦めた。
 暫く待ってみたが、大きい音は聞こえてこなかった。
 無事寝床に辿り着いたと判断して、彼は鷹揚に頷いた。
「さて、僕も」
 湯殿からも、水風呂に驚く悲鳴は聞こえてこなかった。行っても安心だと苦笑を浮かべ、歌仙兼定は二歩進んだところで足を止めた。
 ふと気になって、暗闇が支配する廊下の奥を覗き込む。
 誰かがこちらを見ていた気がしたのだが、人の気配は感じ取れなかった。
「疲れているのかな」
 今日は一日中神経を張り巡らせていたので、その影響かもしれない。歴史修正主義者にも、時代の中心を生きていた人々にも、存在を察知されないようにするのは大変だった。
 出来るなら、二度とやりたくない。
 凝って硬い肩を揉み解し、歌仙兼定は両腕を上げて伸びをした。
 もれなく背骨がボキッ、と鳴った。防具の上から腰を押さえこんで、彼は年寄りみたいに背中を丸くした。
「いて、てて」
 みっともないことをしてしまったが、誰にも見られなかったのは幸いだ。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は湯殿への道を急いだ。
 時間にゆとりがあったなら、身体を隅々まで洗い、濡れた頭もしっかり乾かしてから寝床に入る。けれど夜はもう遅く、梟の声さえ聞こえない頃合いだった。
 もし響いてくるとするならば、藁人形に釘を打つ音くらいだろう。
 想像して、耳を澄ます。
 勿論聞こえてくるわけがなくて、歌仙兼定は自分に苦笑した。
「橋姫は、宇治だろうに」
 つまらないことを考えてしまった。ぽたぽたと毛先から大量の雫を垂らし、男は床板から足の裏を剥がした。
 烏の行水では疲労が抜けず、却って怠さが出てしまった。眠気は少し収まったけれど、横になったらどうなるかは分からなかった。
 額に張り付く前髪を掻き上げ、目を瞑っていても辿り着ける部屋を目指す。
 足取りは鈍く、襖の向こうから聞こえる鼾がまるで子守唄だった。
 静かなようで、実際はそれなりに騒がしい。
 なにを言っているか分からない寝言も聞こえて来て、失笑を禁じ得なかった。
「僕も、早く寝よう」
 この疲れは、下手をすると朝になっても抜けないかもしれない。
 朝餉の時間までに起きられるか不安になって、彼はもう一度、大きな欠伸を噛み潰した。
 顔をくしゃくしゃにして睡魔に抗い、部屋に辿り着くまでは、と気合いを入れ直す。だが無事に到達出来たとしても、眠るための布団はなにも準備出来ていなかった。
 遠征に出掛ける前、綺麗に畳んで長持の上に片付けたのが悔やまれた。
 他のずぼらな太刀を見習い、敷きっぱなしにしておけば良かった。万年床にするつもりはないけれど、一日くらい放置しても、誰も文句は言わないだろうに。
「失敗したな」
 審神者に命じられた時は、こんなに帰りが遅くなると思わなかった。
 居残り組に頼んでおけばよかった。布団を下ろして畳に広げるくらい、そう難しい仕事ではない。本丸に来たばかりというのもあり、留守番ばかりさせられている前田藤四郎などには、持ってこいの任務だったのに。
 気付くのがあまりにも遅すぎて、後悔ばかりが胸を占めた。
 眠る前から憂鬱になっていては、楽しい夢など、夢のまた夢。気持ちを切り替えようとして、歌仙兼定は頭を振った。
 水滴を撒き散らし、先ほど痛めてしまった腰を叩く。背筋を伸ばして前を見据えれば、自室として宛がわれている部屋は目と鼻の先だった。
 明かり取りを兼ねている格子窓から、上限の月が見えた。薄く伸びる雲が暈となり、周囲は白くぼやけていた。
 吹き込んできた風が、その肩に羽織る外套の裾を擽った。花模様をあしらった赤い裏地が視界で踊って、飛んで行かないよう、彼は喉元の合わせ目を掴んだ。
 丸めた着衣を左脇に抱え、身に着けているのは白い湯帷子だ。肘を越えて上腕までを覆う長手袋もそちらに含められ、肌着の紐が真下を向いて垂れ下がっていた。
 同田貫正国や陸奥守吉行は、風呂を出た後、褌一丁で部屋に戻っていった。次郎太刀は一度部屋に寄って、着替えを揃えてから遅れて湯屋に現れた。
「そう、いえば」
 一方歌仙兼定は、当たり前のように寝間着としている湯帷子に着替えていた。
 脱衣所にあったから、何の疑いもなく手を伸ばした。広げてみたら間違いなく彼のものであり、一式揃っていたので疑問にも思わなかった。
 けれどよくよく考えると、それはおかしい。
 彼は本丸へ帰還した後、まっすぐ湯殿に向かった。寄り道はしなかった。脇差ふたりを見送って歩みを止めはしたが、それくらいだ。
 第一、浴場に入る前、脱衣所の棚には何も入っていなかった。
「……おや?」
 空腹と眠気が強すぎて、頭がまるで働かない。しかし奇妙な現象だというのは理解出来て、彼は顎に手をやり、首を傾げた。
 誰かが持ってきてくれたのかと考えるが、ではいったい、誰だろう。
 蜻蛉切が一番有り得そうだが、彼は湯を沸かしこそすれ、個々の着替えを運んだりはしない。現に一緒に湯船に浸かった刀剣たちは、各々好きな格好で部屋へ戻って行った。
 歌仙兼定だけだ。知らぬ間に着替えが用意されていたのは。
「まさか、ね」
 冷静に振り返ると、ぞぞぞ、と寒気がした。折角温まった身体が一気に冷えて、彼は頬を引き攣らせた。
 先ほど脳裏をよぎった、橋姫の逸話が蘇った。
 但しあれは、嫉妬に狂った女が鬼になった話だ。歌仙兼定には悋気される相手などおらず、そもそも今回の一件は、呪うというよりも、甲斐甲斐しく世話を尽くされていた。
 洗濯されて綺麗な湯帷子の袖を広げ、奇怪に思いつつ低く唸る。
 だが考えたところで結論は見えず、暗中模索するのも馬鹿らしかった。
「いいや。考えるのは、明日にしよう」
 今宵はもう、眠りたい。
 面倒なことは全部後回しと決めて、彼はようやく帰り着いた自室の襖を開けた。
「ただいま」
 そうして中に誰も居ないのに、気の緩みからか、帰宅を告げる言葉を発した。
 足元を見つつ、何気なく囁いてからハッとする。
 幻聴すら聞こえない室内に瞠目して、歌仙兼定は脱力して肩を落とした。
 脇に抱えていた荷物まで、一緒になって床に沈んだ。敷居の手前で立ち止まって、彼は濡れた髪ごと頭を抱え込んだ。
「参ったね」
 出立前にちゃんと片付けたはずの寝床が、どういう理屈か、綺麗に整えられていた。
 真向いの障子戸越しに、月明かりが薄く感じられた。衣紋掛けは空っぽで、木枠の影が畳に長く伸びていた。
 部屋の中央には布団がひと組用意され、上掛け布団の角が一ヶ所、外向きに折られていた。そこから中へ潜り込めと言わんばかりの周到さで、敷いた者の気遣いが読み取れた。
 挙句、枕元には茶瓶まで用意されていた。丸盆の上に湯呑みと一緒に並べられて、喉の渇きを潤せるよう、致せり尽くせりだった。
 流石に握り飯は用意されていなかったが、湯殿に出向く前、空腹である旨を口にしていたら、結果は違ったかもしれない。
「これでは、橋姫ではなく座敷童だね」
 どうやら福をもたらすと言われる存在が、この屋敷にも棲みついているようだ。
 世話焼きの物の怪の正体を察して、歌仙兼定は口元を綻ばせた。
 本丸には髭切が居ないので、鬼が出るとしたら若干心許なかった。杞憂で済んで良かったと安堵して、彼は落とした荷物を拾い上げた。
 両手で抱え、敷居を跨ぐ。この際行儀は忘れて後ろ手に襖を閉めて、運んできたものを枕元へと投げ捨てる。
 頭を乾かす気力は、米粒ひとつほども残っていなかった。
「疲れた」
 このままでは衣服に皺が寄るが、片付けたいとも思わない。折角布団を敷いてもらったのだから、この場合、好意に甘えるのが礼儀だった。
 ぽつりと呟けば、後から実感が湧いてきた。
 部屋に着くまでは、と気を張っていたのだろう。最後の糸がぷつりと切れて、歌仙兼定はガクリと膝を折った。
 そのまま布団目掛けて身体を傾け、受け身も取らずに寝転がる。
 身体全部が横倒しになったところでうつ伏せから仰向けになって、彼は闇に染まる天井から目を逸らした。
 瞼を下ろしても、瞳に映る闇の濃さは同じだった。ならばこうしている方が良いと四肢の力を抜いて、芋虫となって布団の中へと潜り込んだ。
 もぞもぞ身動ぎ、上掛け布団を押し退ける。被るのではなく、細長く畳んで抱きしめる格好で足を絡め、腕を回して、その天辺に頭を預ける。
 枕は使わなかった。寝姿に構っている余裕など、どこにもありはしなかった。
 だらしないと言われようとも、構わなかった。今、最も楽な体勢を探して何度か身体の位置を入れ替えて、彼は最後、すぅ、と息を吸い込んだ。
 それまで身じろぎ続けていたのを止めて、ぴたりと停止する。呼吸の間隔を心持ち長めにして、注意深く周囲に探りを入れる。
 疲弊した肉体は休息を欲したが、神経は逆に研ぎ澄まされていた。
 悪戯心がむくむく湧き起こり、子供のように心が沸き立った。緩む口元は布団に押し付けて隠して、歌仙兼定は外にはみ出ていた爪先を引っ込めた。
 不自然にならないよう気を付けつつ、膝を曲げて丸くなる。掛布団を抱いていた腕から力を抜けば、肘から先が柔い傾斜を滑り落ちた。
 右肩を下にして、真横ではなく僅かに角度を持たせた状態を維持し、耳を澄ませる。
 こちらが外を窺っているように、あちらも室内に意識を研ぎ澄ませているようだった。
 いつ来るか、まだ来ないのか。
 睡魔とも戦いながら胸を高鳴らせて、しばらく後。
 百も数えないうちに、スッ、と音もなく障子戸が開かれた。
 月明かりに影を作り、小さな体躯が隙間から入ってくるのが分かった。足音を立てぬよう細心の注意を払い、息も殺して、慎重過ぎるほど慎重に。
 中に入った後は、開けた時同様、時間をかけて戸を閉めた。
 ただ、戸を合わせた瞬間、パシン、と小さいながらも音が響いた。
「ぅぁっ」
 思わぬ事に息を飲んだのは、歌仙兼定だけでなかった。
 夜半遅くに不法侵入を試みた相手もまた、怯えて小さく悲鳴を上げた。
 恐らくは首を竦め、身を固くしていることだろう。少しの間無音が続いて、歌仙兼定は噴き出しそうになった。
 目で見て確かめたいが、下手に動けば気取られてしまう。じっと我慢の時を過ごして、彼は動き出した気配に頬を緩めた。
 こちらが無反応を試みて、安心したらしい。
 入室時に比べれば随分大胆になって、枕元へ向かう足取りは速かった。
「……歌仙」
 膝でも折ったのか、衣擦れの音がした。声は比較的近いところから降って来て、危うく返事をしそうになった。
 顔をあげようとして、寸前で思い止まる。平常心を心掛け、緊張で強張った四肢の力を抜く。
 瞼を強く閉じすぎてもいけない。たとえ暗く、視界が悪いとはいえ、相手は山賊として闇に乗じ、人々を襲って来た刀だ。
 気取られたら、大変だ。どんな痛い目を見るか、分かったものではない。
 眠ったふりを続けて、歌仙兼定は投げ出していた腕に触れた熱に背筋を粟立てた。
「……っ」
 つい、抵抗しそうになった。掛布団の上に居座っていた腕を取られて、反射的に振り払いたくなった。
 だがそんな真似をしようものなら、目論見は一瞬にして露見する。それだけは是が非でも避けねばならず、彼は平常心、の言葉を呪文の如く繰り返した。
 一方で歌仙兼定の緊張ぶりを知らず、実態を持つ座敷童は掛け布団から大きくはみ出た腕を持ち上げると、胴に添わせる形で敷布団へと下ろさせた。
 人の身を得た現在、不用意に他者に触れられるのは不快の極みだった。
 背後を取られるのも、心穏やかではいられない。四六時中気を張り巡らせるのは疲れるが、己の間合いにずかずかと入り込まれるのは避けたかった。
 寝首を掻かれる可能性を考え、本能がざわめき立つ。
 それを意図的に抑えこんで、歌仙兼定は深く息を吐いた。
「歌仙?」
 大丈夫、心配ない。
 繰り返し己に言い聞かせて、仰向けに姿勢を作り変える。
 訝しげに名前を呼ばれたが、今度は返事をしようとは思わなかった。
 強張りを解き、薄く唇を開いて息を吐いた。すぅすぅと、一定の調子を維持していたら、胸元にあった掛布団の端が肩まで引き上げられた。
 その上でとんとん、と胸郭の辺りを布団ごと軽く叩かれた。
 まるで赤子をあやす母親だ。体格は歌仙兼定の方が勝っているものの、世に生み出された時期はあちらの方が早かったのを思い出し、奇妙な縁を覚えて笑いがこみあげてきた。
「髪、濡れて……起こしてしまうか」
 つい頬が緩んだが、疑われなかった。楽しい夢でも見ているくらいに思われたらしく、声は別のところに触れた。
 自己完結した独り言は、濡れたままの髪を拭いてやるかどうかで逡巡したものだった。
 それを証拠に、右耳に被さる髪を触られ、脇へと梳き流された。湿った毛先は乾いた肌に絡みつき、頭皮を引っ張られる感覚は嫌ではなかった。
 心地よさを覚える仕草からは、慈しみが感じられた。素肌に触れた熱は少し高めで、遠ざかりかけていた眠気を呼び戻した。
「ん、……ぅ」
 振り払おうと軽く頭を振れば、鼻から漏れた息が音を伴った。途端に髪を梳く手が引っ込められて、なかなか戻ってこなかった。
 嫌がっている風に、解釈されたのかもしれない。
 偶然だったがそうとも取れる仕草をしてしまい、後悔が過ぎった。けれど言い訳を声に出すわけにもいかなくて、歌仙兼定は苦悶して奥歯を噛み締めた。
 但し、それもすぐに解いた。
 あまり長時間続けると、不自然と受け止められかねない。深く眠っていると偽って、彼は折角被せてもらった布団を押し上げた。
 左腕を引き抜いて、掛布団を巻き込む形で寝返りを打つ。すよすよと寝息を立てて、右を下に体勢を入れ替える。
 背中に隙間が出来て、そこから冷気が流れ込んだ。思わず首を竦めて、歌仙兼定は背を向けた格好となる相手を慎重に探った。
 変に思われなかったと期待して、曲げた右肘に頬を押し当てる。耳の下に空間を確保して、音が拾いやすい姿勢を作り上げる。
 そこでひと息ついた直後だった。
 背面に生まれた穴を広げて、布団の端が持ち上げられた。
 内臓がゾワリと来て、四肢に電流が走った。全身の産毛が逆立ち、心臓が肋骨の内側で跳ねた。
 それはもぞもぞ動きつつ、人の寝床に潜り込もうとしていた。敷布団に膝を置いて、捲った掛布団の内側に居場所を移そうとしていた。
 それまでの注意深さが嘘のように、行動は大雑把だった。
 開き直ったのか、それとも何があっても起きないと高を括られたのか。
 どちらにせよ、油断していた。安堵を覚え、これでようやく眠れると浮足立っていた。
「おやすみ、歌仙」
 無事に寝床を確保して、小柄な短刀は嬉しそうに囁いた。人の背中に張り付いて、表に出ている右肩をぽんぽん、と叩かれた。
 いじらしい仕草に、いい加減我慢も限界だった。
「ああ――そうだね」
「っ!」
 耐えきれず、口を開く。
 言うと同時に掛布団を跳ね除けて反転して、歌仙兼定は寝る体勢に入っていた短刀を上から抱きしめた。
 華奢な体躯を胸に閉じ込め、ぎゅっと束縛して離さない。予期していなかった展開に少年は零れんばかりに目を見開いて、一瞬にして飛んで行った眠気に瞬きを繰り返した。
 首に冷たさを感じて身を固くして、小夜左文字は唖然としたまま暗がりを見詰めた。
 障子越しの月明かりを浴びて、蒼い瞳が輝いていた。
「お、……おき、起きて」
「ははは、すまない。小夜。君が来ると思っていたから、つい、ね」
「かせっ―――んむ」
「駄目だよ、小夜。大声はみんなの迷惑だ」
 動揺激しく捲し立てた彼の口を塞ぎ、歌仙兼定が人差し指を唇に押し当てる。
 悪びれもなく言い放った男を恨めし気に睨んで、小夜左文字は気取れなかった自分の迂闊さを呪った。
 不満はあったが黙っていたら、手はあっさり引き下がった。口呼吸を再開させて、左文字の短刀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 もっとも、いくら眼力を強めたところで通用しない。男は横になったまま呵々と笑って、肩を揺らして目を眇めた。
「ずっと待っていたのかい?」
「……最初は、獅子王のところに」
 五寸ばかりの距離を保ち、顔を向き合わせて尋ねる。
 小夜左文字は一瞬躊躇してから、歌仙兼定が不在時に間借りしている寝床を白状した。
 血に濡れた逸話を持つ短刀は、その境遇もあり、毎夜悪夢に魘されていた。悔やまれる過去を思い返し、殺してしまった命に怯え、罪の重さに潰れそうになっていた。
 安寧は訪れない。
 朝までぐっすり眠るなど出来ない。
 けれどちゃんと休まなければ、復讐相手を探し出す前に自分が倒れてしまいかねない。
 矛盾していた。手の施しようがなかった。
 散々悩み、考え、試した結果。妥協案として彼が選んだのは、他人の寝床に潜り込む事だった。
 歌仙兼定は小夜左文字同様、命名の由来が血腥い。だのに自分の名に誇りを持ち、謂れを得意げに語っては皆を呆れさせていた。
 彼のような豪胆な持ち主には、死者も迂闊に手を出せない。
 対して獅子王は、その名が示す通り、百獣の王の威厳を秘めていた。
 悪霊も、獅子を相手にするのは分が悪いらしい。本人も大らかな性格をしており、小夜左文字が怯える怨霊めいたものを引き寄せなかった。
「そう。色々とありがとう。でも、起こしてしまってすまなかったね」
「別に、いい」
 だから小夜左文字は、歌仙兼定が居ない時は獅子王の寝床に行く。彼もこの短刀に気を許しており、事情は分からないがいつでも大歓迎だと笑っていた。
 そんな太刀の布団から出て、わざわざこちらに移って来た。
 そうなる遠因を作ったのを詫びれば、小夜左文字はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 宙を泳いだ瞳が地に落ちて、鼻筋が敷布団に埋もれた。顔を伏した彼に苦笑して、歌仙兼定は自分の側に偏っていた布団を引っ張った。
 温もりを分けてやり、折れそうに細い肩を数回に分けて叩く。
 先ほどの意趣返しだと知った少年は頬を膨らませ、額が触れそうで届かない場所にある紫の髪を掴んだ。
「濡れたままだ、歌仙」
 毛先を手繰り寄せ、指に絡めて掌を額に押し付ける。間に挟まれた髪は冷たく冷えており、歌仙兼定は嫌がって首を振った。
「いいよ、別に。面倒だ」
 今更身を起こし、手拭いを探し出して頭を乾かすのは手間だ。
 そんな時間があるなら、一秒でも長く眠っていたい。そう豪語した彼に、小夜左文字は呆れた顔で呟いた。
「朝になった時、どうなっても知らないよ」
 腕を胸元に戻して、布団を被り直す。彼の髪は白い布団に広がって、波飛沫を連想させた。
 いつも高い位置で結い上げているので、変なところに癖がついていた。とある地点で一度内側に曲がり、直後に外側へ跳ねているのを眺めて、歌仙兼定はそのひと房を引き寄せた。
 人差し指に巻きつけてみるものの、この程度では真っ直ぐになってくれない。辛抱強く櫛を通し続けるしか、対抗する手段はなさそうだった。
 歌仙兼定もこのままいくと、朝起きる頃には頭が素晴らしいことになっているだろう。髪が自然と乾く過程で奇怪な癖がついて、とても雅とは言えない髪型が完成するに違いなかった。
 だというのに、彼は構わないと言い放った。
「明日、櫛で梳いてくれ」
「僕がか?」
 それに加えて無責任な依頼をして、小夜左文字を驚かせた。
 他人の髪に触れた事など、ほとんどない。巧く出来る保証などどこにもないのに、歌仙兼定は含み笑いを零すだけだった。
「ほかに誰がいるんだい。頼んだよ」
「歌仙」
「君の頭は、僕がやってあげるから」
 鏡を前に、ああでもない、こうでもないと言いあう。
 それはそれで楽しそうだと目を細めて、男は止められなかった欠伸に大口を開けた。
 これまでで最大の眠気に見舞われて、抗いきれない。
 無事に座敷童を確保出来たからか、安堵が勝った。瞼を持ち上げ続けるのも一苦労で、歌仙兼定は心地よい熱を胸に閉じ込めた。
 背中で腕を交差されて、囚われた小夜左文字は困った顔で口を尖らせた。
「僕に任せたんだ、文句は聞かないよ」
「ああ、勿論だ」
 拗ねて言えば、目を閉じた男に頷かれた。瞼は既に閉ざされて、本当に分かっているのか怪しい口調だった。
 今すぐにでも眠りに落ちようとしている顔を眺めていたら、不思議なことに、自分まで眠くなって来た。
 睡魔というものは、伝染するらしい。小夜左文字も小さく欠伸をして、温かくて心地よい空間に身を委ねた。
 四肢の力を抜き、太い腕を枕にして口を開く。
「おやすみ、歌仙」
「おやすみ、……小夜」
 囁けば、夢うつつに返事があった。
 今度は嘘寝ではないらしい。続けて聞こえた寝息に苦笑を漏らし、小夜左文字は目を閉じた。

2015/06/07 脱稿