よに逢坂の 関はゆるさじ

 遠く、どこかで鶏の鳴く声が聞こえた。
 或いはそれは、錯覚だったのかもしれない。目覚めを促すべく頭が勝手に過去の記憶を引き出して、そういう幻聴をもたらしたのかもしれなかった。
 もっとも、憶測をいくら積み重ねたところで、本当のことは分からない。
 唯一はっきりしているのは、迂闊にも目が醒めてしまったこと。
「う、……ん」
 寝返りを打って見た障子戸の向こう側は、残念ながらまだ日の出には程遠い暗さだった。
 しかしどこかで、誰かが動いている気配があった。ほんの僅かではあるけれど、締め切っているにかかわらず、空気の振動を感じた。
 襖の向こう側に、既に起き出している者がいるのだろう。あちらも寝入っている者たちを起こさぬよう慎重を期しているが、元々眠りが浅く、且つ警戒心が強い小夜左文字相手では無駄な努力だった。
「むう」
 本音を言えば、まだ眠っていたかった。目が醒めたとはいっても頭はぼんやりしており、身体は鉛の如く重かった。
 一番鶏は本当に鳴いたのだろうか。
 最初の疑問に立ち返って、彼は再度、寝返りを打った。
 薄い敷き布団の上で身動いで、骨が当たって痛かった肩の位置を調整する。胸元までずり下がっていた掛け布団を被り直して吐息を零せば、呼応するかのように、向かいで眠る男が鼻を鳴らした。
 穏やかな寝息も聞こえた。暗がりの中で目を凝らせば、暢気な寝顔がぼんやり浮かび上がって見えた。
 瞼は閉ざされ、唇は僅かに開いていた。すぅすぅと一定の間隔で吐息が零れ、試しに触れてみればほんのり温かかった。
 命の息吹を感じて、小夜左文字は軽く曲げた膝の間に両手を押し込んだ。
「かせん」
 静かに眠る男の名前を呼んでも、反応はない。眠っている相手に語りかけても無意味なのは知ってはいるが、どうしても声に出さずにはいられなかった。
 目覚めてしまった以上、とやかく文句を言う気はない。これも何かの定めかと受け止めて、小柄な短刀は背に流した藍の髪を揺らした。
 東の地平線に、太陽の姿はまだ見られない。
 けれど既に、一部の者たちが活動を開始していた。
「朝餉の、支度」
 それが何を意味しているのかは、想像に難くない。
 本丸に暮らす刀剣男士の数は、ゆうに四十を超えていた。むさ苦しい男所帯には大飯食らいが多くて、夜明け前から竈に火を入れないと、朝餉に間に合わない程だった。
 となれば、遠くで忙しく動き回っているのは、今日の食事当番だろう。
 手伝いに行った方が良いのだろうか。
 考えて、小夜左文字は身体を横にしたまま頭を振った。
 彼自身は、食事当番として審神者に任命されていなかった。だがたまに、手が空いた時などには手伝うようにしていた。
 暇潰しに丁度良かったし、それにあそこに陣取る面子は、ほぼ固定されていた。
 決して静かな環境ではないけれど、見知った相手と過ごせるので、無用の気を遣わなくて良い。燭台切光忠や堀川国広は親切だし、小夜左文字が人付き合いを苦手としているのも理解してくれていた。
 もっとも彼が台所に顔を出す一番の理由は、そこで眠っている男がいつも居るから、なのだけれど。
 若干認め難い事実に小鼻を膨らませて、寝間着姿の短刀は唸って眉間に皺を寄せた。
「うぅぅ」
 眠気はまだ残っていた。身体も怠い。
 昨日無理をしたつもりはないが、出陣で山登りをさせられたのが、僅かながら尾を引いているようだった。
 そういう事情があるから、今日は丸一日、休みだ。未だ夢の中の歌仙兼定も、同様だった。
 だというのに、頭だけが妙に冴えている。
「勿体ないことをした」
 どうして目が醒めてしまったのか。
 誰も責められない事案に眉目を顰め、小夜左文字は弾力のない寝床に顔から突っ伏した。
 悔しさを堪えて碌に綿も入っていない敷き布団を鷲掴みにすれば、引っ張られた分だけ布が動いた。その微細な揺れは、当然ながら真横で眠る男にも届けられた。
「んぅ……」
 ほんの一寸にも届かない変化だったが、敏感に気取った男が低く呻いた。喉の奥から声を絞り出して、穏やかだった表情は瞬時に不機嫌になった。
 口を真一文字に引き結び、顰め面を作って顎を引く。ぎゅっと強く閉ざされた瞼はヒクヒク痙攣しており、覚醒が近いと小夜左文字に教えてくれた。
 呻き声にはっとなった少年は身を乗り出して様子を確かめ、己の迂闊な行動に冷や汗を流した。
「歌仙」
 起こしてしまった。彼だって、疲れているというのに。
 まだ目覚めると決まったわけではないのに後悔を抱き、申し訳なさでいっぱいになった。咄嗟に名を呼んでから慌てて手で口を塞いで、左文字の短刀は布団の中で後退を図った。
 そうやって動くから、余計に歌仙兼定の覚醒が促されるとは気付かない。
 大人しくじっと待っていられなくて、右往左往していた矢先。
 ついに恐れていた事態が起こった。
「……ん、ぁ……ふあ、ああ……んむ、ん……?」
 大きな欠伸を零し、右半身を下に寝転がっていた男がその状態から背を反らした。ぐっと伸びをして猫背を修正して、掛け布団からはみ出ていた爪先をもぞもぞ動かした。
 寒いのか、膝を曲げて下半身だけ小さく折り畳んだ。その膝頭が小夜左文字の足に当たって、瞬間、彼は大仰に竦み上がった。
 怯えた猫と化し、全身の毛を逆立てる。
 警戒心を露わにした少年をぼんやり眺めて、歌仙兼定は夢うつつのまま瞬きを繰り返した。
「……おは、よう……?」
「おお、お、おは、ようだ。歌仙」
「もう、朝……かい?」
 寝ぼけているのか、言葉は掠れて、辿々しかった。
 眼が宙を泳ぐが、瞼は半分ほどしか開いていなかった。夜明け前の薄暗い室内は現実と夢の境界線を曖昧にしており、彼が半信半疑になるのも、致し方がない事だった。
 語尾を僅かに持ち上げて、歌仙兼定が首を捻る。微睡んでいる男の貌は不思議と艶っぽく、あまり見る機会がないのもあって、新鮮だった。
 本人に言えば、締まりがなくて格好悪いと反論されそうだ。
 だから口にはせず、小夜左文字は問いかけに対し、首を縦に振るだけに留めた。
 首肯を受けて、男は眉間の皺を深くした。もう一度、今度は小さく欠伸をして、布団から引き抜いた左手を額に押し当てた。
「そんな、わけが……まだ暗いよ」
 眠気を噛み殺しつつ、低い声で囁く。
 気を緩めると襲って来る睡魔に抗っているのが窺えて、小夜左文字は目を眇めた。
「鶏の声が聞こえた」
 それは夢か、幻か。
 時を告げる鳥の声は、本物だったかどうかも分からない。けれど確かに聞いたと告げれば、幾分頭がはっきりしてきたらしい、歌仙兼定が垂れる前髪を掻き上げて口を尖らせた。
「聞き間違いじゃないだろうね。まだ夜だよ」
「僕を疑うのか」
「そうじゃない。けど、……ああ、駄目だ。まだ眠い、小夜」
 ふて腐れた声で反論されて、少し厳しめに切り返すが、効果はなかった。
 歌仙兼定は仰向けに姿勢を変え、両手で顔を覆った。無理矢理視界を暗闇に染めて、そのままばたりと、立てた肘ごと布団へ倒れ込んだ。
 小夜左文字の側へ身体を寄せて、驚く短刀を胸に抱え込もうとする。
 咄嗟に逃げようと足掻いたが、上下を布団に挟まれた狭い空間なだけに、身の自由は利かない。寝起きだというのに意外な俊敏さを発揮して、歌仙兼定は湯たんぽ代わりの少年を懐に閉じ込めた。
「歌仙、いいのか。朝餉の支度が」
「今日は堀川国広に任せてある。放っておけ」
「……朝だぞ」
「夜をこめて鳥の空音ははかるとも」
「僕は函谷関の門番か?」
 ここで目覚めたのには、何かしら理由がある。縁がある。
 けれど歌仙兼定は小夜左文字の催促に再三首を振り、聞こえたのは誰かの鳴き真似だと言って取り合わなかった。
 騙された側にされた短刀は不満げだったが、かといって束縛を振り解こうとはしない。
 身を包む熱は刀らしからぬ温かさで、逆らいがたい心地よさだった。
「あと少しでいいから……」
 歌仙兼定は既に眠る体勢に入っており、甘える声に力はなかった。
 見ればもう、目を閉じていた。三秒としないうちに寝息が聞こえて来て、あまりの素早さに小夜左文字は愕然となった。
 どうやら本当に、眠かったらしい。
「仕方が無い」
 この状況から抜け出すには、彼の手を振り解かなければいけない。
 それでは折角眠った彼を起こしてしまうことになる。
 天秤を片側に傾かせ、小夜左文字は肩を竦めた。短く息を吐いて四肢の力を抜き、まだまだ暗い天井から目を逸らした。
 瞼を降ろせば、そう待たずとも眠気が忍び寄って来た。
 次目覚める時は、本物の鶏の声を聞いた時。
 この事は笑い話にしようと決めて、小夜左文字は優しい温もりに身を委ねた。
 

2015/5/23 脱稿