うき世をいとふ 心ある身ぞ

 陽射しが心地よい日だった。
 庭先の桜の木はいよいよ花盛りとなり、冬場は白く覆われていた地表も新緑で溢れかえっていた。そこかしこから新芽が顔を出して、可愛らしい双葉が露に濡れて輝いていた。
 寒い時期は屋敷に引き籠っていた男たちも、気温が高くなるにつれてにわかに活気づいた。今も軒先に茣蓙を広げており、屋外での宴会は毎日のように繰り返されていた。
 御役目御免となった火鉢は部屋の隅に追い遣られ、使われなかった炭は納戸の一角で埃を被っている。もっとも寒の戻りがあるのはいつものことなので、また気温が下がる可能性は非常に高かった。
 雪が降る中での花見はなかなかに趣深く、乙なものだとは思う。
 しかしガタガタ震えながら眺めるのは、どちらかと言えば雅ではない。
 片方に比重が傾き過ぎるのは宜しくなくて、匙加減はなかなか難しかった。天候は思いのままにいかない代表例だから、それ故に稀な光景は際立って美しく、なんとも言えない風情があった。
 しかしどれだけ風流な光景も、どんちゃん騒ぎの前では台無しだ。
 花より団子。
 桜よりも、酒とつまみ。
 頼まれて作った鳥肝の串焼きを皿に並べて、歌仙兼定は深々とため息をついた。
「まったく、どうしてこう」
「すみませーん。熱燗追加、お願いしまーす」
「承知した!」
 愚痴を零そうとすれば、遮って開けっ放しの扉から声が飛び込んできた。続けて小柄な脇差が姿を現して、限界に達した男は腹の底から怒号を響かせた。
 勢いよく皿を調理机に叩き付け、苛立ちを隠しもせずに奥歯を噛む。
 絶好調に不機嫌なその姿に、空の徳利を抱えた堀川国広は頬を引き攣らせた。
「す、すみません。本当に……」
「ああ、まったくだ」
 首を竦めて小声で謝罪した彼に、歌仙兼定は憤懣遣る方なく頷いた。
 荒々しい口調で同意して、鼻から息を吐く。空になった両手は胸の前で組まれて、仁王立ちの様相からは、不愉快極まりないという感情が痛いほど伝わって来た。
 最早苦笑する他なくて、堀川国広は遠慮がちに三本ある徳利を机に並べた。
「これ、貰っていきますね」
「ああ。せいぜい有難がって、味わって食べるよう伝えてくれたまえ」
「分かりました」
 続けて香ばしい匂いを放つ焼き串を持って、世話焼きの少年は小さく頭を下げた。遠くからは酒や料理の追加を急かす声が聞こえており、堀川国広は慌てた足取りで調理場を去っていった。
 パタパタという足音はすぐに消えて、ひとりに戻った歌仙兼定は痛むこめかみに指を押し当てた。
「まったく……」
 どうしてこんな日に限って、燭台切光忠は不在にしているのだろう。
 遠征に出向く隊を編成し、指令を下した審神者にまで恨み言を吐いて、彼は少し落ち着くべく深呼吸を繰り返した。
 薬研藤四郎に酒の支度をさせる訳にもいかなくて、目下、水場を取り仕切っているのは彼だけだった。
 堀川国広は先の通り、給仕で手いっぱいの状態で、とても手伝える状況にない。他に頼りになる者はおらず、最初こそ上機嫌に作業していた歌仙兼定も、いい加減堪忍袋の緒が切れそうだった。
 いったいどれだけの量を飲み食いすれば、彼らは気が済むのだろう。
 連日のように繰り返される花見の宴は、傍から見ていても過分に見苦しいものだった。
 一時期に比べれば格段に人が増えた本丸は、毎日が騒がしく、五月蠅いくらいに賑やかだった。
 空室ばかりだった屋敷は一気に手狭になり、今や部屋数が足りないくらいだ。
 そういう事情もあって、兄弟刀は出来るだけひと部屋で集まるよう言われていた。もっともその命令は今や形骸化しており、守られているとは言い難かった。
 歌仙兼定にも、同じ『兼定』の名を持つ弟じみた存在がいた。しかしお互いに相性が宜しくないというのもあって、寝起きする部屋を別にしていた。
 代わりに小さい昔馴染みが毎夜のように部屋を訪れ、勝手に人の布団に入って来る。そして明け方、一番鶏が鳴く頃に去っていく毎日だった。
「そういえば、魘されていたな」
 ふと思い出して、歌仙兼定は眉を顰めた。
 冬場は日が昇った後でも寒いので、ふたりして起床が遅くなることが多かった。
 前は寝起きに顔を合わせるのを嫌がっていたけれど、最近はあまり気にしていない様子だ。寝顔を眺めていたら引っ掻かれたのは昔の話で、朝の挨拶も、このところは普通に返って来ていた。
 しかし今朝に限って、それがなかった。
 夜更けに、苦しそうな声で唸っているのを聞いた。嫌な夢でも見たのだろうか、とても辛そうだった。
 背中を撫でてやっているうちに表情は穏やかになっていったけれど、眠り自体が浅かったのか、明け方を待たずに出て行ってしまった。お蔭で歌仙兼定自身も良く眠れなくて、それが今の苛々の遠因にもなっていた。
 真横で身じろがれたのだから、目も覚めるというものだ。しかし起きていると知ったら、あの子はきっと気に病むだろう。
 他人に対してつっけんどんでありながら、臆病者で、実は結構な寂しがり屋。
 本人が聞いたら烈火の如く怒りそうな感想を心に並べ立て、歌仙兼定は頬を緩めた。
「そういえば、そろそろ八つ時だね」
 北に面する窓から外を眺め、陽の翳り具合でおおよその時間を推測する。顎を撫でてひとつ首肯した彼は、目の前でぐつぐつ音を立てている鍋と、散乱する空の徳利を見比べた。
 そうして十秒近い沈黙の末、男は袖を縛っていた襷を解いた。
「よし。僕は今日、充分過ぎるほど働いた」
 紅白の紐をしゅるりと引き抜き、鍋は竈から外して、火が点いた炭には灰を被せる。後はどうぞ好きにしてくれと嘯いて、彼は満足げに胸を張った。
 遠征に出向く顔ぶれが増えたお陰で、もれなく暇を持て余す刀剣男子も増えていた。それが連日開催される宴会に繋がって行くわけだが、歌仙兼定は一度だって、その席に参加したことがなかった。
 ただ呑み、食い、騒ぐだけの場に、風情はひと欠片もありはしない。あんな風にみっともなく過ごすくらいなら、裏方として調理場を取り仕切る方が何倍も心地良かった。
 しかし、今日はそれも仕舞いだ。
 たまには自分たちでなんとかすればいい。心の中で舌を出して、彼は意気揚々と歩き出した。
 役目を終えた襷は首に掛け、手を伸ばしたのは食器などを入れる棚だった。その下には引き戸があって、中には冬場に作った干し柿が、小振りな樽に入った状態で保管されていた。
 表面に白い粉がふいているそれをひとつ取り、男は隠しておいた甘味の容器を元の状態に戻した。
 古びた樽は、蓋をしてしまえば中身が見えない。傍目には味噌臭い漬物を漬けているように見えるので、菓子等の隠し場所としてはうってつけだった。
 見える場所に置いておくと、子供たちがこっそりつまんで食べてしまう。前にそれで酷い目を見ているので、以後、隠し場所には気を遣うようにしていた。
「さて、と」
「すみません、歌仙さん。つまみがもう、全然な……あれ?」
 必要なものは手に入った。
 後は渡す相手を探すだけと、背筋を伸ばして立ち上がった矢先だった。
 またしてもパタパタと足音を響かせて、息を切らした堀川国広が土間に姿を現した。
 額に汗を流し、焦った表情で凍り付く。それを歌仙兼定は涼しい顔で眺め、少しも悪びれた様子なく微笑んだ。
「僕はこれにて失礼するよ」
「え? あ、あの。えっと、すみません。それはどういう――」
「僕に手打ちにされてもいいのなら、自分で頼みに来るように。そう伝えてもらえるかな」
 屈託なく告げて、持った干し柿を二度、三度と宙に投げる。孤を描いて落ちて来たそれを片手で器用に受け止めて、男は戸惑う少年に目尻を下げた。
 爽やかながら物騒な宣告に、堀川国広は瞳を泳がせ、青い顔で押し黙った。
 いくら料理が好きとはいえ、無銭で働かされるのは腹が立つ。しかもあれこれ注文が多く、感謝の言葉はひとつもない。
 それが良い大人のすることか。
 清々しい笑顔の裏にどす黒い感情を隠した男を前に、空色の瞳の脇差は一度だけ、深く首を縦に振った。
「わ、かり……ました」
 歌仙兼定の命名の由来が、脳裏を過ぎったのだろう。どことなく怯えた態度で返事をすると、細川国広は駆け足で、来た道を戻っていった。
 打刀とはいえ本丸では最古参に当たる歌仙兼定は、敵の大太刀さえも一閃してしまえる実力者だ。最近は戦線に赴く回数が減っているものの、腕は決して鈍っていない。
 そもそも台所を一手に引き受けている男に、屋敷で暮らす者たちが勝てるわけがなかった。
 元は刀剣でありながら人の身体を得た彼らは、それ故に時が過ぎれば腹が減り、傷を負えば痛みを感じるようになった。夜になれば眠くなり、疲れが溜まれば動きが鈍った。
 それが良いか悪いかは、各個人の感性の差だろう。
 相応にこの身体での生活を楽しんでいる歌仙兼定にとって、その所為で悪夢に苦しむ子供の気持ちは、至極遠いものだった。
 痛みを覚えるようになったからこそ、己が一介の刃だった頃、期せずして傷つけた人々を想って苦悩する。望んでもいないのに殺さねばならなかった境遇を憂い、それを強いた者への恨みを抱く事で、罪滅ぼしにしようとする。
 誰かに責められたわけでも、罵倒されたわけでもないのに。
 復讐を糧として生きて来た元主の生きざまに感化された男が、それを由来として名を与えたばかりに。
「さて、小夜はどこにいるのかな」
 彼は眠る時、いつだって小さく、丸くなって。
 まるで闇に怯える赤子のように、心細げに手を握ってくる。
 そんな罪深き哀れな短刀は、今、どこに居るのだろう。
 屋敷を勝手に抜け出す真似はもうしないだろうから、探せばきっと見つかるはずだ。甘く考え、歌仙兼定は干し柿を袖にしまって歩き出した。
 邪魔な前髪を結んでいた紐も外し、陽が照って明るい庭へと足を進める。遠くからは堀川国広から話を聞かされたのか、野郎どもの野太い悲鳴が響いて来た。
「あちらでは、ないだろうし」
 小夜左文字はどちらかと言えば賑やかな場所を嫌い、ひとり静かに過ごすのを好む短刀だった。
 もっともそれは単純に、人付き合いが下手なだけだ。自分から積極的に話しかけるのが苦手なようで、所有者が度々変わった境遇もあり、他者を信用しない傾向が強かった。
 それは刀剣たちを喚び出した審神者に対しても、同様だった。
 お蔭で主に忠誠を誓う一部の刀剣からは、顰蹙を買っていた。しかし他人の評価を気にしない性格でもあるので、表面上は、穏やかな日常が繰り返されていた。
 ひとりにしておいたら、自滅的な方向に思考が沈んで行ってしまう。
 だから都度捕まえて、引き揚げてやらないといけない。
 騒がしい方角に背を向けて、歌仙兼定は空を舞う蝶に目を向けた。
 白い羽に黒色の模様が入った小さな虫は、咲き始めた花の蜜を求めてふよふよと彷徨っていた。目を凝らせばそれは一匹だけでなく、三匹、四匹と、緑の間を飛び交っていた。
 もっと暖かくなれば、もっと沢山の動物が顔を見せてくれるだろう。毛虫が出るのはお断りだが、それも自然の営みのひとつだ。
「蚊帳を調達しておかないとね」
 夏になれば、寝苦しい夜が増える。
 耳元をうるさく飛び交う疎ましい羽虫を思い浮かべて、歌仙兼定は肩を竦めた。
 屋敷には色々な品が揃っているけれど、足りないものは沢山あった。それを調べて買い足していくのは楽しみであり、刀剣としての本来の姿を忘れさせる愚行でもあった。
 次の季節を体感できるかどうかさえ、分からないというのに。
 今後の展望など何ひとつ見えない暗中に佇み、審神者に最初に選ばれた打刀は口角を持ち上げた。
 笑いを押し殺し、湯屋の裏手を巡って、農耕具などを収めた小屋が作る日蔭から遠くに目を眇める。
 無駄に広い敷地には、様々な施設が用意されていた。
 厩に、演練場のみならず、畑まである。手入れは全て刀剣たちの仕事で、交代制で務めていた。
 今日はどうやら、一期一振が畑仕事を任せられていたらしい。傍には彼の弟でもある、元薙刀の骨喰藤四郎の姿もあった。
 更には厚藤四郎や、秋田藤四郎達も近くにいた。皆動き易く、汚れても良い格好をして、土いじりに精を出していた。
 いつもうるさい短刀たちだが、兄の目があるからか、真面目に働いていた。もっともやんちゃな厚藤四郎は頻繁に五虎退にちょっかいを仕掛けて、逃げる弟を追い回していた。
「うわあん、やめてくださぁい」
「知ってるか。蚯蚓って、土を耕してくれる良い奴なんだぞ。だからほら、ちゃーんと感謝しねーとな」
「やめてください。顔にくっつけないでー」
「こら、それ以上やると怒りますよ。嫌がっているでしょう」
「ちぇ。はーい」
 騒々しいやり取りに、見かねた長兄が声を高くした。鍬を手に肩で息をして、手伝っているのか、邪魔をしているのか分からない弟たちを叱責した。
 なんとも仲睦まじい、微笑ましい光景だろう。
 酔っ払い連中とは方向性が違う賑やかさに、歌仙兼定は苦笑を禁じ得なかった。
「ああ。これは、お恥ずかしいところを」
 立ち止まっていたら、向こうも彼の存在に気が付いた。頬に着いた泥を拭って頭を下げられて、歌仙兼定は丁寧な挨拶に慌てて手を振った。
「仲が宜しくて、羨ましい限りです」
 草履の裏で砂利を踏み、建物の影から抜け出して距離を詰める。他人行儀のお仕着せな返答で茶を濁して、彼は一期一振に近付いた。
 笑顔が爽やかな青年は、農作業を求められても嫌がったりしない。むしろ楽しんでいる雰囲気が感じられて、それが歌仙兼定には不思議だった。
 もっとも彼の元主は、太閤まで登り詰めてはいるけれど、元をたどれば農家出身だ。
 土いじりは、或いは得意分野なのかもしれなかった。
「あっ、歌仙だ。なあ、おやつなに。おやつなに?」
「これ、厚。行儀が悪いですよ」
「えー……」
「ははは。いえ、大丈夫ですよ。今日は堀川殿に任せて来たので、彼に訊いてくれるかな」
「りょーかーっい」
 整えられたばかりの畝の手前に立ち、空気を含んでふっくら柔らかな土を踏みしめる。すかさず厚藤四郎の声が飛んできて、歌仙兼定は他人に責任を押し付けた。
 その堀川国広は、花見中の連中から非難の嵐を喰らっている最中だろう。
 だが彼だって、悪いのだ。彼が和泉守兼定を無闇に甘やかすから、調子に乗った太刀が旗振り役となり、宴会が開かれるのだから。
 少しは反省すれば良い。
 本当なら宴の席に乗り込んで、その喉元に切っ先を押し付けたって構わないのだ。それをしないだけまだ良心的で、寛容だと言わざるを得なかった。
 昔に比べて、随分我慢強くなった。
 自画自賛して胸を反らして、男は広い畑に散らばっている、粟田口の面々を眺めた。
 何人かは遠征で不在だが、残る全員はほぼ勢揃いしていた。秋田藤四郎と五虎退は泥団子作りに夢中で、他の子たちは各々出来る範囲で働いていた。遠くでは薬研藤四郎が種まきをしており、平野藤四郎がこれを手伝っていた。
 どの子も仕事熱心で、真面目で、明るい。
 その社交性を別の子にも分けて欲しいと密かに願い、歌仙兼定は中心に立つ一期一振に肩を竦めた。
「ところで、小夜左文字を見かけませんでしたか」
 雑談に乗っていたら、いつまで経っても本題に入れない。
 袖の上から干し柿を撫でつつ問いかければ、白い作業着の男は考え込むように視線を落とした。
「左文字殿の、末の弟君ですか」
 呟いて半眼し、顎を撫でようとして、指が汚れていると思い出して慌てて止める。しかし結局触れてしまって、彼はそのまま首を捻った。
 深く思案している表情に、知らないのだというのは楽に想像がついた。
「ああ、いえ。ご存じないのであれば」
「五虎退、君は知っているかな」
「ひえっ、はい! あの、すみません!」
 となれば、待つだけ無駄だった。
 話を切り上げるべく声を上げた歌仙兼定に、一期一振も状況を察して声を響かせた。突然話しかけられた粟田口の短刀は大袈裟に反応し、口癖なのか、必要のない謝罪を大声で叫んだ。
 どうしてそこで謝るのか、意味がまるで分からない。
 皆で唖然としていたら、頭を抱えた一期一振が諭す口調で囁いた。
「怒っているわけではないから、落ち着いて」
「うぅ、すみませぇん……」
 優しく語り掛け、弟のひとりを宥める。やり取りには慣れが感じられて、これが彼らの日常だと思い知らされた。
 場違い感は半端なかった。
 尻がむずむずするような居心地の悪さに苦笑して、歌仙兼定は虎の子を抱き上げた短刀に目を細めた。
 怖がらせないよう気を配り、知っているなら教えてくれるよう訊ね直す。すると五虎退は口を噤み、本瓦葺きの屋敷に顔を向けた。
「小夜君だったら、朝は、御屋敷にいましたけど」
「あー、うん。畑に誘ったんだけど、来なかったよ」
「なんだか具合、悪そうでした」
「てか、眠そうな感じだったよな」
「そうですね。すっごい大きい欠伸、してました」
「えっと、あの。小夜君は、今日、朝ごはん、残してました」
 それが契機になったのか、そばに居た他の短刀たちも、口々に知っていることを語り出した。
 果てには居場所と関係ない事を言い始めて、放っておけば収拾がつかなくなりそうだった。
「珍しいですよね。小夜さんって、いつもいっぱいお代わりするのに」
「だよなあ。俺より良く食べてんぜ。あんなちっちぇーのによ」
「この前は、岩融さんと御櫃の取り合いになってました」
「あれは、怖かったです。僕のところに、岩融さんが倒れて来そうになって」
「岩融のおっさん、でっかいもんなー。秋田なんか、蚤みたいなもんだろ」
「そっ、そんなに小さくありません!」
 ぽんぽんと話題が転がって、果てには藤四郎同士の喧嘩が勃発しそうになった。当然それは一期一振が寸前で制して、彼は惚けていた歌仙兼定に困った顔で微笑んだ。
 無理矢理引き剥がされた厚藤四郎と秋田藤四郎に挟まれて、太刀にしては背の低い男は静かに頭を下げた。
「申し訳ない。あまりお役に立てませんで」
「止めてください。それより、こちらこそ御手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
 丁寧な謝罪に恐縮して、作業を中断させてしまった非礼を逆に詫びる。背筋を伸ばした一期一振はそれでホッとしたような顔をして、傍に居た弟の頭を撫でた。
「少し休憩しようと思っていたところでしたので」
 穏やかに笑って、気に病む必要はないと言う。それが遠回しの気遣いだとしても、心配りは有難かった。
 心安い相手に顔を綻ばせて、歌仙兼定は今度こそ場を辞すべく一礼した。
 踵を返し、歩き出す。
 その背中に。
「左文字殿の弟君は、兄君達と巧く行っていないのでしょうか」
 今度は一期一振が、唐突に話を振って来た。
 突然声を荒らげた兄に、弟たちは不思議そうな顔をした。歌仙兼定も足を止め、率直過ぎる疑問に三秒かけて返事をした。
「いいえ。そのようなことはありませんよ。ただ、おふたりとも、貴殿のようには器用でらっしゃらないだけです」
 実際、左文字三兄弟の関係はあまり良好とは言えなかった。
 長兄は刀剣にあるまじき戦嫌いで、次兄は物腰柔らかながら毒ばかり吐く皮肉屋。そして歌仙兼定が探し求める三男は、復讐に囚われた戦闘狂。
 三者三様に個性が強く、どう考えても巧く行くとは思えない。
 しかし表に現れてこないだけで、彼らは互いに、相手のことを慮って行動していた。
 それがあまりにも不器用過ぎて、通じ合わず、すれ違いばかり起きてはいるけれど。
 彼ら三人が本丸に揃ったばかりの頃に比べれば、距離は随分と縮まっていた。
 但し、表向きは何も変わっていない。
 相変わらず上の兄ふたりは皆と別々に食事をするし、少ない部屋をひとりで使っていた。寝床も当然別々で、末弟は依然、他人である歌仙兼定の布団に潜り込んでいた。
 複雑な感情を裡に秘めた返答に、一期一振は深く追求しなかった。
 振り返り見た彼は額面通りに信じたのか、安堵の表情を浮かべていた。他人事なのに何故か嬉しそうで、それが歌仙兼定には不快だった。
 なにひとつ関係ないくせに、当事者になった気分でいるのが腹立たしい。上品ぶって、親切ぶって、善人ぶろうとしているところが癇に障った。
 貴方にあの子の何が分かるのかと、発作的に叫びそうになった。
 それを寸前で堰き止めて、男は軽く会釈して身体を反転させた。
 取り繕うのは得意だった。激情をただ闇雲に発散させるのは、三十六人分で打ち止めだった。
 このただならない感情の正体には目を向けず、真っ直ぐ進んで屋敷の傍へと戻る。日陰に入って冷えた空気を吸い込んで、彼は手本ともいうべき兄弟たちを一瞥した。
 既に遠く、小さくなっている彼らは、長兄を中心にして幸せそうだった。
 黙々と雑草を毟っていた骨喰藤四郎は褒められて照れ臭そうで、厩から馬糞を調達してきた鯰尾藤四郎は叱られてしょんぼりしていた。
 元気な笑い声がこだまして、絵に描いたような大家族がそこにあった。
 だからこそ、一期一振は気になったのだろう。
 他の兄弟関係にある者たちとは一線を画す、左文字の刀たちが。
 愛され、慈しまれているとは到底思えない、その末弟の存在が。
 本人のあずかり知らぬところで、彼を思い遣っている者がいる。それが小夜左文字にとって良い事なのだろうというのは、理屈としては理解出来た。
 けれど、穏やかでいられなかった。
 心がざわめいた。
 神経がささくれだって、胸の奥がもやもやした。
 納得したくなくて、歌仙兼定は奥歯を噛み締めた。顎が軋むまで力を込めて、鼻から勢いよく息を吐き出した。
「いっそ、誰かに一太刀浴びせてやろうか」
 この不快感は、どうすれば拭い取れるだろう。
 物騒なことを考えて、彼は藤色の前髪を掻き上げた。
 一瞬だけ額を晒し、当て所なく彷徨い歩く。野太い雄叫びはもう聞こえず、代わりに勇ましい掛け声が耳に痛いくらいに響いて来た。
 気が付けば、演練場が目の前に迫っていた。
 壁が薄いので、声は幾らでも外に漏れた。どうやら三名槍のふた振りが手合せ中らしく、その咆哮は外に居る歌仙兼定の腹にまでズシリと来た。
 傍で聞いていたら、鼓膜が破れそうだ。
 思わず耳を塞いで苦笑して、彼は開け放たれた入口に回り込んだ。
 薄く平らな石の上に履物が、片方は行儀よく、片方はぶっきらぼうに脱ぎ捨てられていた。見物人はないようで、一本終わった後は急に静かになった。
「相変わらず、見事だ」
 野蛮な連中の技とは違い、動きのひとつひとつが洗練されている。見ていて惚れ惚れする芸当は、雅と評するに値した。
 拍手をしたのは無意識で、音は奥行きが深い建物に良く響いた。
「おや。これは、歌仙兼定殿ではありませんか」
「珍しいな。あんたがこっちに来るなんて」
 汗を拭っていた槍二本はほぼ同時に振り返って、上り框に腰かけた男に各々の反応を見せた。奥にいた御手杵は長い槍を肩に担ぎ、蜻蛉切は仰々しい仕草で礼をした。
 深くお辞儀されて、歌仙兼定は座したまま手を振った。先ほどの一期一振とのやり取りが思い出されて、あまり畏まってくれるなと、先手を打って釘を刺す。
 それを受けて、御手杵がこれ幸いと顔を綻ばせた。元々行儀が良いとは言えない男なだけに、上品に振る舞わずに済んだと嬉しそうだった。
 但し、蜻蛉切の方は一筋縄ではいかない。調子よく笑っている槍仲間を一瞥して、大柄な男は困った風に肩を竦めた。
「どうです。一本、合わせて参りますか」
 そして定型句とも言える誘い文句を口にして、右腕を演練場の奥へと伸ばした。
 筋骨隆々として逞しい大男の提案は、願ってもないものだった。敵方にも槍使いが複数混じる事があるので、大太刀よりも広い間合いに慣れておきたい気持ちは少なからずあった。
 しかし今は、そんな気分ではない。
 第一彼は戦仕度を解いており、得物である刀も部屋に置いたままだった。
「いやあ、折角だけれど遠慮しておくよ。また今度、よろしく頼む」
 至極残念そうに言って、目を細める。
 しかしこの返答は想定内だったようで、蜻蛉切はさほど落胆せず、朗らかに微笑んだ。
「お勤め、感謝いたします」
「よしてくれ。好きでやっていることだ」
 その上でまた恭しく頭を下げられて、歌仙兼定は苦笑した。
 数ばかりが増えていく刀剣たちの食事の世話は、かなりの時間と労力が必要だった。手先が器用で味覚に優れている者はそう多くなくて、必然的に炊事場に立つ者は数名に限られた。
 彼のような、日頃の感謝を率直に伝えてくれる相手になら、いくらでも酒やつまみを用意してやるのに。
 花見がお開きになって不満顔だろう連中を思い浮かべ、歌仙兼定は小さく溜息を吐いた。
「爪の垢を煎じて、飲ませてやりたいよ」
「いかがなされました?」
「ああ、こちらのことだ。気にしないでくれ。それより、小夜左文字を見なかっただろうか」
「左文字の……末の弟君ですか」
 口を開けば文句しか言わない同門を頭から追い出し、本来の目的を遂げようと話を切り出す。
 急に早口になった歌仙兼定に、蜻蛉切は太い眉を寄せて思案顔を作った。
 後ろの御手杵も似たような表情で、心当たりがないと言っているようなものだった。
「こっちには来てねーけど。なんかあったのか?」
「なんだか、調子が悪そうだったのでね。少し心配になっただけだよ」
 背高の青年に訊ねられ、先ほど畑で得た情報をもとに言い足す。すると御手杵は瞳を宙に浮かせ、あちこちに修理した痕が残る堂内を見回した。
「つーか、具合悪いんだったら、演練場なんて来ないんじゃねえの?」
 ここは武芸を極める為の場所であり、精神を研ぎ澄ます為の空間だ。集うのは心身ともに健康な者だけで、体調不良を抱えたまま訪れるべきところではなかった。
 言われてみればその通りだった。
 全く考えていなかった歌仙兼定はぽかんとして、成る程と大袈裟に手を叩いた。
 目から鱗が落ちた。
 その発想はなかったと、冷静に振り返れば当たり前とも思える事に大袈裟に驚かされた。
 と同時に納得して、彼は見当違いな方向に歩いていた自身の頭を叩いた。
「それは、思いつかなかった」
「おいおい。あんたも疲れてんじゃねえの。大丈夫か?」
「確かに、私もそう思います。今頃は、部屋でお休みになられているのではないでしょうか」
 とんだ失態だと呟けば、御手杵には呆れられ、蜻蛉切にも言われてしまった。
 最早反論の余地はなかった。
 どうして畑で話を聞いた時、真っ直ぐ屋敷に戻らなかったのか。うっかりするにも程があって、歌仙兼定は自省して肩を落とした。
「部屋、ね……」
 そうして少し憂鬱な気分になって、袖を手繰って干し柿を握り締めた。
 布の上から形をなぞり、行方の知れない短刀を想って目を閉じる。瞼に浮かんだのは藍色の髪を持つ少年と、その後ろに控えるふたりの男だった。
 表面上はぎこちない彼らだけれど、兄ふたりは各々のやり方で、末の弟を慈しんでいた。
 もし調子を崩した小夜左文字が、兄たちを頼っているのだとしたら。
 居場所を探り当て、訪ねて行くのは野暮でしかなかった。
 兄弟水入らずを邪魔するほど、歌仙兼定は図々しくない。しかし顔を見たい気持ちは却って膨らんで、どっちつかずの感情がなんとももどかしかった。
 頬に掛かる髪を指に絡め、彼はどうしたものかと遠くを見た。
「ありがとう。屋敷の方を探してみるよ」
「大事ないと、よいですな」
「まったくだ」
 一期一振の時とは違い、蜻蛉切の言葉は素直に受け止められた。歌仙兼定は袴の襞を整えて立ち上がり、別れの挨拶代わりに手を振った。
 今回は呼び止められなかった。暫くすると雄々しい咆哮が後ろから聞こえて、彼は一度だけ振り返って肩を竦めた。
 今宵の夕餉に、彼らにだけ特別な一品を追加してやろう。
 それくらいの贔屓は許されるべきだと舌を出して、彼は屋敷に戻る道を草履の裏で踏みしめた。
 砂利を転がし、竹林に囲われた離れに通じる小路の前を素通りする。
 その静かで、他よりも不思議な程に涼やかな空間は、不可思議な力を有する審神者の気配を色濃く漂わせていた。
 ちらりと見えた邸宅の庭には、白い狐の姿があった。
 審神者に文でも届けに来たのだろう。小さな獣はコンと鳴いて、煙となって姿を消した。
 最初の頃は驚いたが、すっかり慣れてしまった。屋敷の主が出てくる様子もなくて、彼はそのまま道を行き過ぎた。
 近いうちに、出陣するのかもしれない。決めるのは主の気持ちひとつで、彼ら刀剣に意見する権利は与えられていなかった。
 中には盲目的にあの者を信奉する輩も存在するが、そこまで無条件に信用出来る相手だとは、歌仙兼定は思っていなかった。
 小夜左文字のように、最初から疑ってかかっているわけではない。ただ相手の言葉を鵜呑みにするのは危険で、思考の放棄は身を滅ぼす元凶と知っているだけだ。
 敵と味方を見極め、どちらに付くのが得策かは、常に考えている。
 今は審神者に与する方に利があるから、そうしているに過ぎない。
「さて、どこから手を付けたものか」
 鳥の声と風のざわめきしか聞こえない場所を離れ、無駄に広すぎる母屋を仰ぎ見て呟く。両手は腰に当てて、男は疲れた顔で苦笑した。
 何度も増改築を繰り返している屋敷は構造が複雑で、ちょっとした迷路と化していた。最初の頃はまだ分かり易い間取りだったのに、いつの間にか改造が施され、当初の見取図は全く役に立たなくなっていた。
 ここに住んで長い歌仙兼定でも、時々目的地を見失って戸惑うことがある。後から来た者なら尚更で、蛍丸が迷子になった時は、捜索隊が組まれたほどだ。
 なんとも傍迷惑な話だが、新参者が迷う事で他者と交流を持ち、親交を深めるきっかけになる事もある。それを思うと、この奇怪な間取りも、案外悪くなかった。
 但し、当て所なく探し回る分には、厄介極まりなかった。
 先に宗三左文字や、江雪左文字の部屋を当たるべきか。
「行ったら刺されそうだけれど」
 嫌な記憶を蘇らせて、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 小夜左文字関連で、この二人からは過去に数回、酷い目に遭わされていた。不可抗力だったというのに、弁解は一切聞き入れられなかった。
 有無を言わさず刃を突き付けられて、あの時は本気で駄目かもしれないと覚悟した。なんとか無事に生き延びられたけれど、以来彼らに対して、少なからず苦手意識が出来てしまった。
 逃げていては始まらない。そうは言っても、腰が引けてしまうのはどうしようもなかった。
 彼らの元に向かうのは最後にしようと決めて、歌仙兼定は爪を立てて頭を掻いた。
「よし」
 二度の咳払いで気を取り直し、褌を締め直して母屋で一番古い区画へ進路を取る。
 南に面した家屋は陽の光が沢山取り込めるよう、柱や壁を極力減らした構造だった。
 縁側が真っ直ぐ伸びて、特に日当たりが良い部屋は皆の溜まり場だった。昼間から呑んだくれていた連中も、冬場はそこで火鉢を囲んでいた。
 暖かくなって、気が緩んだのだろう。解放感から調子に乗って、歯止めが利かなくなったのだ。
 そんな呑兵衛たちは食べるものがなくなったからか、既に庭先を離れた後だった。
「ちゃんと片付けはしているんだろうか」
 桜の下に茣蓙が敷きっ放し、食器や徳利が散乱しっ放しだったら、どうしてくれよう。
 陰鬱な気持ちを奥歯で噛み締めて、歌仙兼定はすっかり静かになった庭園を、ゆったりした足取りで進んで行った。
 子供でも出来る事を大人がしないのは、格好悪いとは思わないのだろうか。馬鹿騒ぎだけは一人前で、それ以外はお粗末としか言いようがない同門出身の弟には、ほとほと愛想が尽きそうだった。
 堀川国広も、いい加減目を覚ました方が良い。
 昔馴染みとはいえ、あんな最低な男に尽くしてやる義理はないだろうに。
 痛むこめかみに指を置き、首を振って降ってきた桜の花びらを避ける。良く見れば足元にも沢山散っていて、乾いた土色を美しく彩っていた。
 川面に満ちる花びらとまではいかないが、これもなかなか風流だ。なるべく踏まないよう注意して、彼は進路を遮る枝の下を潜った。
 軽く腰を曲げて屈み、花の海を抜けて背筋を伸ばす。藤色の前髪に花弁が一枚引っかかって、抓んで風に流すのも楽しかった。
 花を愛でるとは、本来、こういう事を言うのだ。
 梅林に出向いた時もそうだが、景色よりも食べ物、飲み物に夢中になる連中とは、一緒にされたくなかった。
 とはいえ、賑やかに過ごす事自体は、嫌いではないから困る。
 せめてもう少し気遣いを足してもらえたら、こちらだって機嫌を損ねることなく過ごせるのに。
「青二才に何を言ったところで、馬の耳に念仏だろうけれど」
「ほーお。そいつぁ、いったい誰の事だ?」
「おや?」
 声に出した愚痴は、近くにいた男にしっかり拾われていたようだ。
 棘のある口調で話しかけられて、思ってもなかった歌仙兼定は目を眇めた。
 縁側のすぐ傍に、浅葱色の外套をまとった男が立っていた。
 長い黒髪を背に垂らし、紅玉の飾りが耳朶に見え隠れしていた。隣には洋装姿の堀川国広が立ち、おろおろと左右を見回していた。
 喧嘩腰で向かって来られて、歌仙兼定も反射的にムッとなった。目つきを鋭くして睨み返して、直後に鼻で笑って右手を顔の横で揺らした。
「おやおや、そんなところに居たのかい。てっきり布団にでも包まって、恐怖にガタガタ震えているかと思っていたよ」
「お生憎様。こちとら、砲弾飛び交う戦場で命のやり取りやってたんだよ。誰かさんのくそちっせー、つまんねえ癇癪なんかに付き合ってやる暇はねえよ」
 堀川国広に頼んだ伝言は、しっかり彼に届けられていたようだ。
 挑発的な台詞に噛み付いて、和泉守兼定は偉そうな口ぶりで大仰に肩を竦めた。
 露骨に人を馬鹿にしてはいるけれど、視点を変えれば強がっている風にも映る。突っかかってくる理由はひとつしかなくて、歌仙兼定は不出来な弟にやれやれと首を振った。
 相手にするだけ時間の無駄だ。遠くからきゃんきゃん吼えるだけの犬に構っている場合ではないと、彼は即座に踵を返した。
 そこへ堀川国広の高めの声が響いて、気を取られた歌仙兼定の足取りが鈍った。
「違うでしょ、兼さん。そうじゃないでしょ」
「しょうがねーだろ。こいつが、あんな事言うから」
「今回は、だって、兼さんが悪いんだから。ちゃんと言わなきゃって、兼さんだって納得したじゃない」
「だからって、なんで俺だけなんだよ。他の連中だって、良い具合にこき使ってただろうが」
「みんなには、僕が後で言っておくから。まずは、代表して兼さんから」
「てめーは俺の味方だったんじゃねえのかよ」
「兼さんの、駄目なところを指摘してあげるのも、助手の僕の務めだからだよっ」
 脇差の少年に背中を押され、太刀が渋って地団太を踏む。
 完全に打刀を蚊帳の外に置いた会話だったが、内容から推測するに、今回の歌仙兼定台所放棄事件が根底にあるようだった。
 日頃から何かと世話になっているのに、礼のひとつも言ってこなかった。それで歌仙兼定が怒ってしまったのだと、堀川国広は思ったのだろう。
 その考えは概ね正しい。
 いくら好きでやっていることとはいえ、それが日常となり、やって貰って当たり前、という傲慢な決めつけが固定化されてしまえば、文句のひとつだって言いたくなるというものだ。
 人の善意は、あくまで善意。
 見返りのない労働を根気よく続けられるのは、思考を放棄したただの愚か者だけだ。
 けじめはきっちりつけるように。
 そう主張する堀川国広に抵抗して、和泉守兼定はどこまでも強気で、生意気だった。
「だったら、お前が言やぁいいだろ。つーか、お前だって俺と似たようなもんだろうが」
「そうだよ。だから一緒に、いつもありがとうって、ひと言言えば良いだけじゃないか」
「ぜってー、嫌だ。こんな奴に頭下げるなんざ、死んでも願い下げだね」
「兼さん!」
 繰り返し責められて、反発心が強まったのか。
 人を指差しながら吐き捨てた和泉守兼定に、堀川国広は声を張り上げて怒鳴った。
 しかし男は聞き流し、腕を組むとそっぽを向いてしまった。臍を曲げて小鼻を膨らませ、意地を張って口を尖らせた。
 まるで三歳か、四歳程度の子供だ。やんちゃ盛りで悪戯ばかり、直ぐに人の所為にして意地を張る青年に、歌仙兼定は我慢出来ずに噴き出した。
「くっ」
「ああ?」
「駄目だよ、兼さん。短気は損気って、言うでしょ」
「うっせえ。大体、嫌だったら、最初に頼まれた時にそう言やぁいいんだろうが」
「では、次からは丁寧にお断りするとしよう。もう僕は、君の食事は今後一切作らない。それで良いね?」
「うっ……」
 笑われて目を吊り上げ、和泉守兼定が唾を飛ばして喚き散らした。そこに歌仙兼定が割って入り、爽やかに微笑んだ時点で勝敗は決したようなものだった。
 売り言葉に、買い言葉。
 取り返せない失言に後から気付き、本丸で最も年若い刀剣は一瞬で青くなった。
 横では堀川国広が深く溜息を吐き、改めて相棒の背中を押した。
「ほら、兼さん」
「う、っく……あー、畜生。どいつもこいつも、俺ばっかり悪者扱いしやがって!」
 本陣の台所担当は複数人存在するが、各々で得意分野が異なっていた。
 たとえば燭台切光忠は魚料理が中心だし、薬研藤四郎は異国の料理に研究熱心だ。そして歌仙兼定は丁寧に出汁を取り、季節の野菜を取り揃え、見た目にも拘った料理が主流だった。
 当然刀剣別にも食事の好みはあって、誰が夕餉を作ったかで一喜一憂する毎日だった。
 もし歌仙兼定が、本当に和泉守兼定の食事を作らなくなってしまったら。
 彼はその日、他の面々が豪奢な料理に舌鼓を打つ中、ひとりだけ麦飯と漬物で腹を満たさなければならなくなる。
 それはなんと虚しく、惨めな光景だろう。
 胃袋を人質に取られた男は癇癪を爆発させ、悔しさを滲ませて下唇を噛み締めた。
「事実、褒められたものではないだろう。君の前の主は、君に、ただ偉ぶって居丈高でいればいい、とでも教えたのかい?」
「ぐぬ、う……」
「兼さん?」
 弱いところを次から次に責められて、今や大の大人が涙目だ。
 堀川国広にまで強めの語気で促されて、和泉守兼定は鼻を愚図らせ歯を食い縛ると、覚悟が決まったのか、不意に背筋を伸ばした。
 天を向き、姿勢を正し。
 両手は脇に添え、勢いつけて腰を九十度に曲げて。
「どーっも、すいやせんでした。これからも、どうぞよろしくお願いしあっす!」
 半ばやけっぱちに、そしてかなり棒読み気味に。
 足元を見ながら大声で吼えた。
 感情が籠っていたかと言えば、答えは否だ。
 しかし一応は姿勢を見せたということで、及第点を与えても良いだろう。
 この無様な光景を、いい気味だとは思わない。
 ただ呆れるばかりだ。手間のかかる弟を前に、歌仙兼定は堀川国広と一緒に肩を竦めた。
「考えておくよ」
「そんだけかよ!」
 完全に許したわけではなく、善処すると言えば泣き付かれた。
 間髪入れずに叫ばれて、滑稽過ぎて声を抑えられなかった。
「ふふっ」
 腹を抱え、背中を丸めて息を止める。しかしぎりぎり間に合わず、笑い声が漏れてしまった。
 それで、からかわれたと気付いたようだ。和泉守兼定は顔面を真っ赤に染め変えて、ぷるぷる震えて目を吊り上げた。
「ほら見ろ。やっぱこんな奴に頭下げるこたぁ、なかったんだよ。見ろよ。こいつのどこが可哀想なんだよ」
「まあまあ、兼さん。落ち着いて。小夜君は、きっと、兼さんに歌仙さんを取られてばっかりで、面白く無かったんですよ」
「小夜?」
「あ?」
 八つ当たりされるのを宥め、脇差が慣れた様子で言葉を並べ立てる。その中に出てきた名前に打刀は耳を疑い、声の調子が変わったと察した太刀は意味深に口角を歪めた。
 ようやく反撃の好機が訪れたと、不敵な表情は分かり易いくらいに告げていた。
「へーへー。良かったじゃねえか。可愛い子ちゃんに庇われて、兄上様はさぞやご満悦でありましょうよ」
「小夜が、此処に来たのかい?」
「ええ。もう大分前ですけど」
「って、おい。聞けよこら」
 しかし歌仙兼定は和泉守兼定の嫌味をあっさり無視し、話が通じやすい堀川国広に顔を向けた。
 問われた少年は首肯して、矢張り相棒を無視して屋敷の中を指差した。
「大体、いつ頃のことだろうか」
「まだここで、兼さんがみんなと騒いでいた時ですので、結構前ですね」
「……おい、お前ら」
「そうか。すると、僕もまだ台所にいた辺りだね。小夜は、何か言っていたのかい?」
「ええ。歌仙さんがひとりで忙しくしているのを知っていたからなのか、貴方のことを、その。『かわいそうだ』と」
「小夜が、そんなことを?」
「おい。おーい、堀川ー。ほりかわくーん?」
「はい。その時は、僕も忙しかったから、ちゃんと聞いていたわけではないんですけれど」
「へえ、あの子が、僕を。そう。そんなことを言っていたのか」
「聞けって。おい、こら。お前ら、俺を無視すんじゃねえ」
「本当は、あの時気付けていれば良かったんですけれど。僕も気が回らなくて。本当に、すみませんでした」
「いや、いいんだよ。面白いものも見られたし。それで、小夜はどっちへ行ったかな」
「ちょっと待て。その面白いものって、もしかして俺のことか」
「……他になにがあるんだい?」
「そうですよ、兼さん。ちょっと黙っててください」
 なんとか話に割り込もうとしていた和泉守兼定に、残る二人は限りなく冷たい。一応聞いてはいた両名はほぼ同時にすっぱり叩き斬って、半泣きの太刀を地の底へ突き落した。
 止めを刺された格好で、よろりとふらついた男はそのまま地面にしゃがみ込んだ。いじけて「の」の字を指で書いて、不貞腐れる姿はいっそ哀れだった。
 残るふたりはほぼ同時に嘆息して、惨めな男を視界から追い出した。
「それで、小夜は」
「御屋敷の中に、入って行きましたけど」
 変に相手をしてやると、つけあがるだけだ。
 静かになって、丁度良かった。少しは反省してもらう事にして、二代目兼定の打刀は話を戻し、求め人の行方を問うた。
 堀川国広が告げながら見た方角には、屋敷の縁側に上がる為の沓脱ぎ石があった。四角く、細長いその灰色の石の上には、行儀よく、一足分の草履が並べられていた。
 この屋敷で、草履を履いて過ごす刀剣はそれほど多くない。短刀に限定すれば、たった一人しか存在しなかった。
 黒の鼻緒が光を浴びて、ぽかぽか陽気で温められていた。懐に入れるのも楽そうな小ささに目を眇めて、歌仙兼定は一列に並ぶ障子戸に視線を投げた。
 あそこから屋敷に上がったのであれば、彼の兄らが過ごす部屋は遠回りだ。屋内からいけないことはないけれど、かなり迂回させられるので、一旦外に出てから向かう方が近道だった。
 少し気が楽になって、彼は頬を緩めて肩の力を抜いた。
「嬉しそうな顔しやがって」
「兼さん」
 そこに嫌味をぶつけられて、歌仙兼定は出来の悪い弟を振り返った。
 相棒に注意されても構うことなく、和泉守兼定はしゃがみ込んだまま頬杖をつき、自分の目元を繰り返しなぞった。
「なんか、すんげー怠そうな顔してたぜ、あの餓鬼。目の下にでっけー隈作ってよ。御盛んなのは構わねえが、ちゃんと寝かせてやってんのか?」
「邪推しないでもらえないか。僕と小夜は、そういう関係ではないよ」
「ほんとかよ」
 毎晩同じ布団に包まって眠っているものだから、そう思われていても仕方がないけれど。
 誓って邪な感情がないと言い張るが、和泉守兼定は最後まで不満げだった。
 胡乱げな眼差しを投げつけられて、歌仙兼定は嘆息と同時に堀川国広を一瞥した。しかし脇差の少年はさっと顔を背けてしまい、視線は交錯しなかった。
 両手は背中に回して結びあわせ、足の先から頭の先までピンと伸ばして畏まる。
 そういうわざとらしい態度に愛想笑いを浮かべ、歌仙兼定は緩く首を振った。
「そりゃあ、勿論。愛おしいとは思っているけれどね」
「あそこの兄貴らは物騒だからな。せいぜい、背中に気を付けるこった」
「だから勘違いしないでくれないか。小夜は、弟みたいなものだよ」
 小夜左文字とは、細川の城で一時、共に過ごした間柄だった。
 言うなれば昔馴染みであり、数少ない友のひとりだ。当時の歌仙兼定にはまだ名がなく、性格も今と違って気性が荒かったので、あまり良い関係を築けてはいなかったけれど。
 それでも突然審神者に喚び出され、人の形を与えられたばかりの頃。
 あらゆる事象に戸惑う中、知った存在に会えたのは心強かった。
 また会えて嬉しかったし、交流を深めるのは楽しかった。
 小夜左文字が他の刀剣たちと比較して、一段高いところに居るのは否定しない。
 けれどそうなる根拠が下賤な感情と思われるのは不本意だし、許し難かった。
 重ねて否定した歌仙兼定に、和泉守兼定は返事をしなかった。
「報われねえなあ」
 代わりにぼそりと呟いて、膝に手を置き立ち上がった。
 地面に擦っていた袴の汚れを叩いて落とし、堀川国広に指で合図を送る。手招かれた少年は遠慮がちに頭を下げて、麗しい太刀の隣に並んだ。
「夕飯、頼んだからな」
「覚えておくよ」
「忘れやがったら、承知しねーぞ」
「もう、兼さん。行くよ」
 念を押され、歌仙兼定は飄々と返した。気に障った男はさらに言い募ろうとしたけれど、相棒に遮られて渋々踵を返した。
 あの二人は、これからもずっと、あの調子なのだろう。
 遠くなっていく背中を黙って見送って、彼は小指の先ほどもない小石を踏み潰した。
 草履の裏で地面に擦りつけ、振り返りもせずに歩き出す。沓脱ぎ石の手前で一旦足を止めて、律儀に並べ直された粗末な履物に頬を緩める。
 口を開けば物騒な事しか言わない子だけれど、意外なほどに行儀は良かった。
 小夜左文字は見た目からしてみすぼらしく、目つきは子供ならざる険しさだった。灰汁の強い口癖は人を怯えさせ、近寄りがたい雰囲気の少年だった。
 しかしいざ触れてみれば、その心は繊細で、傷つき易く、玻璃細工よりも遥かに脆い。傍にいれば彼が多くの苦しみを胸に抱えており、押し潰されてしまいそうなのを必死に堪え、耐えているのが分かるはずだ。
 願わくは、その行く末を最後まで見守りたかった。
 誰よりも近い場所で。
 誰よりも尊い存在を。
「短刀たちの部屋は、あちらだから」
 自らも履物を脱ぎ、歌仙兼定は縁側に身を移した。焦げ茶色の柱を右手で撫でて、各部屋を指差しつつ、間取りを声に出して確認した。
 藤四郎たちが使っている大部屋は、此処からだと遠かった。方向違いも良いところで、選択肢から外しても大丈夫そうだった。
 小夜左文字が行きそうな場所は限られている。
 短刀の中で特に仲が良い今剣は、相棒の薙刀と一緒に遠征中だ。ならば彼らの部屋も除外対象で、残るのはごく僅かだった。
 指を折って数えるまでもない。
「僕の、……部屋か」
 最初からそれ以外なかった答えを口にして、歌仙兼定は額を覆った。
 目を瞑り、深呼吸を二度繰り返す。次に顔を上げた時、表情からは迷いが消えていた。
 足音を響かせて縁側を進み、角をひとつ曲がって壁のある廊下に入る。そこから数歩行けばまた縁側に出て、陽光が板張りの通路を照らしていた。
 木目がくっきり出ている床板を踏みしめて、彼は閉め切られた戸の前で足を止めた。
 背を向けた庭では、枝垂れ桜が美しく咲き乱れていた。
 風が吹けば花弁が舞って、廊下にもいくつか紛れ込んでいた。鹿威しの音が遠くから流れて来て、鳥の囀りが心地よかった。
 コクリと喉を鳴らして、歌仙兼定は障子の引き手に指を掛けた。
 自室なのだから、中に人がいるか問う必要はない。部屋主は此処に居る。もし誰かいるようなら、それは主不在の隙を狙った不届き者だ。
 そのような勝手な真似をする輩は、万死に値する。
 唾を飲んだばかりだというのに、口の中は乾いていた。舌の腹を口蓋に張り付けて、彼は意を決して戸を右に滑らせた。
 昼間でも薄暗い室内に、白い筋が細く走った。斜めに伸びた光は徐々に幅を広げ、人ひとりが楽に通り抜けられるだけの太さで停止した。
「これ、は」
 もれなく歌仙兼定自身も目を見開き、あらゆる動きを中断させた。
 踏み出そうとしていた足を床に戻し、愕然と室内を見回す。六畳少々とそれほど広くない空間は、今朝の時点では、塵ひとつ落ちていないくらいに綺麗に片付いていた。
 整理整頓が行き届き、布団も畳んで長持の上に置いておいた。裏地が牡丹柄の外套は、その他の衣装も含め、皺にならないよう衣紋掛けに預けていた。
 だというのに、その衣桁が倒れていた。
 ちょっとやそっとの揺れではびくともしない代物だ。しかし現実に、それは畳の上で寝転がっていた。当然掛けられていたものは床に落ちて、あられもない姿を晒していた。
 それだけではない。
 布団も、長持から落ちていた。きちんと三つに折り畳んだはずなのに、上掛け布団も含め、悉く足元に散らばっていた。
 更には長持に収めていた、出番が終わった冬物の衣服まで表に出ていた。
 蓋は開け放たれ、中を漁った形跡が窺えた。縁に羅紗の上着が引っかかっており、上物の衣装がなんとも無残な有様だった。
 誰の仕業かは、考える余地もなかった。
 しかし彼の悪戯にしては程度が低く、ましてや部屋を荒らされる理由が浮かんでこない。苛立って暴れたという可能性は残るが、それにしたってやり方が幼稚だった。
 おおよそ小夜左文字らしからぬ行動に眉目を顰め、歌仙兼定は敷居を跨いで中に入った。
 後ろ手に戸を閉めて、外からの光を遮る。
 障子紙越しの薄明かりを頼りに目を凝らし、彼は踏み出そうとした足を慌てて戻した。
 もう少しで自分の服を踏むところだった。
 ずっと首に掛けていた襷を外して一緒に脇に退けて、部屋の中心部に出来上がっている小山に眉を寄せる。
 こんもり丸い膨らみは、歌仙兼定が普段身に着けている胴衣に他ならなかった。
 色柄が派手な外套もそこにあった。但し小山の容積は、部屋中の布を集めたものより大きかった。
 一番幅を取る布団は、雑に広げられて畳を覆っていた。枕は横倒しになり、遠くで寂しそうにしていた。
 耳を澄ませば聞こえてくる寝息に、男は顔を覆って苦笑を隠した。
「これは、怒れないね」
 忍び足で近寄り、そろりと手を伸ばす。
 重ねられた布を割り広げて覗きこめば、案の定、人の服に包まる格好で、小さな子供が眠っていた。
 これではまるで、赤子の御包みだ。
 膝を折って丸く、小さくなっている小夜左文字を見下ろして、歌仙兼定は降参だと白旗を振った。
 朝餉での席は離れていたので、目の下の隈に気付いてやれなかった。
 夜中に魘されていたのだから、もっと注意してやるべきだった。
「すまない。小夜」
 自分のことに手いっぱいで、察してやれなかった。強く反省し、頭を垂れて、彼はすぅすぅと寝入る子供に顔を近づけた。
 恐る恐る撫でた頬は温かく、柔らかで、涙の痕は乾いていた。
「ん……」
 触れられて、気に障ったのだろうか。
 小夜左文字は目を閉じたまま小さく呻き、嫌々と首を振って顎を引いた。
 顔を伏されてしまって、歌仙兼定は腕を引っ込めて淡く微笑んだ。
「起こすのは、可哀想か」
 折角干し柿を持って来たのだが、お預けだ。袖から引き抜いたものを掌で転がして、彼はそれを小夜左文字の枕元に置いた。
 穏やかな寝顔は愛らしくて、日頃のつっけんどんさが嘘のようだった。
 こうしていれば、年相応に見える。険しい目つきは瞼の裏に隠されて、彼を悩ませる数多の罪過も、夢の中には及ばなかった。
「小夜。小夜左文字」
 その名を口遊む度に、愛おしさが膨らんでいく。この罪深く、哀れな魂の為に、祈りを捧げずにはいられなかった。
 なんと美しく、儚いのだろう。
 人を魅了して止まない、狂おしいほどの輝きは、どれほど血に濡れようとも穢れを知らず、無垢なままであり続けた。
 彼に再び巡り会えた幸運に感謝して、歌仙兼定はその額に額を押し当てた。
 目を閉じ、軽く擦りつける。淡い微熱を確かめて離れた後、少し赤くなっている場所へとくちづける。
 一連の動作を淀みなく終わらせて、温かな頬を両手で挟みこむ。
「小夜、左文字。小夜。僕の、小夜」
 細川の城で彼を見初めた時、歌仙兼定にはまだ名がなかった。ただの一振りの刀でしかなくて、だからこそ心を擽られる美しい名を持つ少年に嫉妬し、離れた後も焦がれずにはいられなかった。
 繰り返す言葉は、果たして眠りの淵に佇む少年に届いたのだろうか。
 むずがって背を仰け反らせた短刀は、二度、三度と細く開けた唇から息を吐き、睫毛を震わせてこめかみを引き攣らせた。
 小振りの鼻がヒクヒク動いて、薄い瞼が強く閉ざされる。覚醒に入ったと知っても歌仙兼定は微動だにせず、少年の一挙手一投足を脳裏に焼き付けた。
 嬉しそうに頬を緩め、宝玉にも勝る藍の瞳が現れるのをじっと待つ。
「う、ん……?」
「小夜」
「…………之定、の……?」
 やがて静かに開かれた眼はとろんと蕩けており、彼が未だ夢と現の境界線にあると教えてくれた。
 焦点の定まらない双眸が宙を彷徨い、呼びかけに応じて正面へ戻された。三度もの瞬きを経て華奢な首はコトンと右に倒れ、唇から零れ落ちた声色は平素より若干高めだった。
 心地良い澄んだ音色に顔を綻ばせ、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。
「そう。僕だよ。歌仙兼定だ」
 記憶の混濁が起きているのか、懐かしい呼び方をされた。
 それもまたこの身に焼き付けられた銘に相違ないけれど、どうせなら唯一無二の名前で呼ばれたかった。
 ずっと彼に、呼んで欲しかったのだ。
「か、せ……ん」
 たどたどしい舌遣いで、甘やかな声で囁かれた。
 それが何よりも嬉しくて、男は湧きあがる幸福を噛み締めた。
「そうだよ。歌仙兼定だ。ああ、構わないよ、小夜。もう少しおやすみ」
「かせ、ん」
「君を怖がらせるものは、僕が打ち払おう。君の眠りを邪魔するものは、僕が全て取り除こう。だから安心して、ゆっくり休めばいい」
 昼間から眠っていたら、夜に眠れなくなるかもしれない。けれどそうなったなら、夜通し話をして過ごせば良いだけだ。
 歌を詠むのもいい。月明かりに照らされる夜桜を眺め、あれこれ語らいあうのも楽しかった。
 中途半端な覚醒状態にある少年を促し、歌仙兼定はふくよかな頬に親指を滑らせた。耳の付け根を擽って、もう一度無防備な額へと唇を落とした。
 軽く触れて離れた男に、微睡む少年はふにゃりと、力の抜けた笑みを浮かべた。
「まじない……?」
 か細い声で囁かれて、それが何を意味しているのか、一瞬理解出来なかった。
 けれど二度の瞬きの間に思い出して、歌仙兼定は苦笑した。
 随分と懐かしい話を引っ張り出して来たものだ。とうに忘れ去った後だった記憶を掘り返して、彼は小さく頷いた。
「そう。元気の出る、まじないだよ」
 あの時は小夜左文字から、歌仙兼定に、だった。
 誰に教えられたのか、初心な反応は可愛らしく、だからこそ大いに驚いたし、戸惑わされた。
 まだ覚えていたのかと、半分眠っている少年に囁きかける。朗々と響く声で肯定してやれば、小夜左文字は控えめに笑い、瞼を下ろした。
 数秒と経たず、穏やかな寝息が聞こえ始めた。血の気の戻った肌は艶々して、目の下の隈は幾分薄くなっていた。
 業深き罪から解放されて、今だけは、彼は自由だ。
「ああ。本当に、君はとても美しい」
 健やかな眠りに落ちた少年の白い頸をなぞり、男は夢見心地に呟いた。
 皮に張り付いている鎖骨を擽り、飛び出る事なく埋もれたままの喉仏を撫で。
 ほんのり紅に色付く唇にも指を添えて。
 このまま縊り殺したくなる衝動を抑え、歌仙兼定は祈るように目を閉じた。
「小夜。僕の小夜。僕だけの、小夜」
 幼子を腕に抱き上げ、壊れたかのように繰り返す。
 胸に渦巻くこの感情は、決して賤しい劣情ではない。
 憐みを含んだ和泉守兼定の眼差しを蹴飛ばして、歌仙兼定は幸せそうに微笑んだ。

2015/03/14 脱稿
2015/06/14 一部修正