雲ぞ心にまづかかりける

 明るい夜だった。
 薄い雲が東の空を漂い、星々は望月に遠慮して控えめに輝いていた。庭の池では眩しい光が反射して、そこだけ昼のように明るかった。
 足元を照らす光源は十分で、出歩くのに不便なかった。虫の声がそこかしこから響いて、合唱は喧しかった。
「影はまた 数多の水に 映れども すみける月は ふたつともなし」
 天頂に月を見て、足元にその写しを見る。
 どちらがより優れているかの論は他に任せることにして、小夜左文字はさあっ、と吹いた秋風に小さく身を震わせた。
 反射的に脇を締めて、内股気味に膝をぶつけ合わせる。何か羽織ってくれば良かったかと後悔するが、今から取りに戻るのも億劫だった。
「……いいか」
 数秒の逡巡を経て、彼は首を横に振った。自身に言い聞かせるように呟いて、草履の裏で草を踏みしめた。
 夏場の勢いを残し、庭は雑草にまみれていた。
 抜いても、抜いても生えて来るので、そのうち面倒になって放置された所為だ。小夜左文字も何度か手伝ってはみたものの、根が一片でも残っているとそこから茎が生じるので、お手上げだった。
 比較的根気強い刀剣男子も、五度目にして音を上げた。いい加減にしろ、と雑草に向かって怒鳴っていた男を思い出して、彼は薄く笑みを浮かべた。
 あれは面白かった。
 野良仕事など刀のやることではない、と言い張りつつも、命じられたらちゃんとやり遂げるのだから、悪い男ではない。その根性を内心褒め称えて、小夜左文字は夜の散策に意識を戻した。
 頭上に枝を広げる樹木は、未だ青々と葉を茂らせていた。
 これらが色付き、落ちるのは、もっと先の話だ。そうしてその時期が来るということは、冬が訪れる、ということをも意味していた。
「この辺りも、雪は降るのだろうな」
 辺り一面が真っ白に染まる様は美しいが、同時に恐ろしい。雪の重みで屋根が崩れたら一大事だし、なにより寒さの所為で作物が育たない。
 秋のうちにしっかり備蓄して、準備を整えておかなければ。
 幸いにも、ここの所は好天続きだ。恐れていた日照りもなく、雨の日続きで根が腐る事もなかった。
 無事に実り、収穫を迎えられるのは、何よりの喜びだ。次の年もそうなるよう密かに祈り、小夜左文字は進路を邪魔する枝を退かした。
 腕を横に払い、出来上がった隙間を潜り抜ける。屋敷は左手に聳え立ち、灯りは消えて、静かだった。
 夜空を照らす月はこんなにも綺麗なのに、愛でる者は他に居ないらしい。
 なんと勿体ない事だろう。
 戦上手の無骨な者たちは、今宵の快晴がどれほど幸運なのか、知りもしないのだ。
「歌仙が居れば、少しは、まだ」
 口から出たのは、愚痴だ。
 本人も非常に悔しがっていたのを思い出して、小夜左文字は肩を竦めた。
 なにもこんな日に、遠征に出なくても良いものを。
 審神者に向かって堂々と苦情を申し立てていた男は、今頃、旅先の宿で空を見上げているのだろう。
 芒を飾り、餅を並べて、きちんと祝いたかったと言っていた。池に舟を浮かべるのは流石に無理があるけれど、橋の上から水面の月を眺めて、歌を詠みたがっていた。
 彼の代わりに丹塗りの橋を渡って、小夜左文字は開けた頭上に目を眇めた。
「秋の月 むかしを今に うつしても ややすみまさる 宿の池水」
 月にまつわる歌を口ずさみ、ひょいっと段差を飛び越える。
 再び草で埋もれた地表の人となって、彼は襟足を擽った髪に首を振った。
 中秋の名月を愛でる宴は、小夜左文字も楽しみにしていた。しかし審神者は関心がなかったようで、粘る歌仙兼定に素っ気なかった。
 どこで見上げようが、月は月。
 満ち欠けは周期的に訪れるのだから、今を逃しても、次がある。
 確かに、その通りだ。審神者の言い分も分かる。けれど一寸した事で季節の移り変わりを楽しみ、面白おかしく日々を過ごす男にとって、今宵の月には格別の想いがあったに違い無い。
 その落胆ぶりは、凄まじかった。
 明日の朝、遠征より無事戻って来た際は、たっぷり慰めてやる事にしよう。
 嫌味かと言われそうだが、実際にはその通り。
 ただの嫌がらせだと苦笑して、小夜左文字は虫の声を蹴り飛ばした。
 一瞬だけ静かになって、すぐにまた喧しくなる。りりり、りりり、と楽を奏でる小さな虫は、声こそ聞こえども、姿は見えなかった。
 時々草の間を飛び交う物があるが、動きは素早く、捕まえるのは難しい。
 二度挑戦して両方とも失敗して、少年は諦めて肩を落とした。
 深く息を吐き、耳元を飛び交う羽虫を追い払う。そちらは雅でないと叩き落して、彼は長く伸びすぎて先端が垂れている草を押し退けた。
 ガサガサと足元を五月蠅くして、屋敷に続く道へと進路を取る。だが足取りは鈍く、速度は急激に落ちた。
 一旦は前方に投げた足を戻して、小夜左文字は寝間着姿で立ち尽くした。
 髪は解かれ、毛先は肩より下にあった。昼間結い上げている癖が残り、一部不格好に膨らんでいるが、櫛を通す気は起きなかった。
 腰より少し高い位置に巻いた帯代わりの紐は太めで、結び目は斜めに傾いていた。そもそも白の湯帷子は寸足らずで、裾は膝に掛かるかどうか、という位置だった。
 粗末な身なりだが、本人は意に介さない。いつの間にか、草葉で切ったらしい腕の傷を撫でて、小夜左文字は深く、長く、息を吐いた。
「もう少し、巡って来よう」
 陽はとうの昔に地平線へと沈み、本丸の面々はとっくに寝床に入っていた。
 その多くは夢の世界へと旅立ち、明日の訪れを静かに待っていた。庭から望む屋敷は真っ暗で、月影に照らされて輪郭が見える程度だった。
 一部の者は遠征で本陣を離れているものの、十人以上の刀剣男子が此処に居る。だのに話し声ひとつ聞こえず、動く影もなかった。
 日中は、それこそ耳を塞ぎたくなるほどの騒がしさだというのに。
 まるで別世界だった。静謐に包まれた空間に佇んで、小夜左文字は再度襲って来た寒気に己を抱きしめた。
 剥き出しの腕を掴み、撫でさすって熱を起こす。けれどその程度で震えは止まらず、心に芽生えた嫌な感覚も消えなかった。
 風にそよぐ草葉が、足首を擽った。
「……っ!」
 たったそれだけのことにも大仰に竦み上がり、小夜左文字は右足を蹴り上げた。
 月の光が生み出す影の中に、不気味な腕が無数に生えていた。うぞうぞと蠢き、哀れな贄を地中へと引きずりこもうとしていた。
 それは、良く見ればただの雑草だ。しかし夜が明るいが故に生み出された暗がりの不穏さが、少年の眼を曇らせた。
 恐怖に心臓が縮こまり、全身に鳥肌が立つ。
 血濡れた人々の怨嗟の声が耳にこだまして、虫の囀りを掻き消した。
「や、……やめ、ろ。やめろ。来るな」
 己の記憶が創り上げた幻に怯え、小夜左文字は声を震わせた。顔を引き攣らせて頭を振って、少年はよろめき、後退した。
 草履の裏で砂利を踏み、何度か転びそうになりながら、風に踊る枝のさざめきに総毛立つ。
 彼は嘗て、盗賊の掌中に在った。
 望まぬまま多くの命を屠り、その血を浴びて、生き長らえて来た。
 赤子さえ殺した。母親の命乞いに耳を塞いで、冴えた刃で無垢な魂を貫いた。
 その報いが、これだ。
 既に存在しない者への復讐に妄執し、罪滅ぼしとする事で己の存在を保っている。自分は懸命にやっていると、そう主張する事で償っている気になって、赦されようとしている。
 弱い心を必死に隠し、強がって、孤立して。
 本当は独り寝の夜に怯えて、行く宛てもなく彷徨っているだけなのに。
「かせ……っ」
 無意識に名前を呼ぼうとした。
 幼子が見る物は全て幻だと笑い、恐がる必要など何処にもないと軽く言ってのける男に、気が付けば縋ろうとしていた。
 その男の胸には牡丹の花があった。豪奢に、そして優美に咲き誇るこの花は、百花の王とも呼ばれていた。
 可笑しな男だった。
 血腥い謂れを持ちながらも、歌仙兼定は逆にそれを誇っていた。己に相応しい名だと自慢して、修羅の道の真ん中を平然と歩いてみせた。
 彼と居れば、怖くない。
 何故なら彼の方が、死霊などより余程恐ろしいからだ。
 けれど今宵、彼は屋敷に居なかった。時間のかかる遠征に駆り出され、抗議したが通らなかった。
 日を跨ぐ遠征任務は、今回が初めてだった。本丸に早い時期から集っていた他数名も、同じように遠くへと出向いていた。
 大太刀を喚ぶのに成功したと、夕餉が始まる直前に審神者が騒いでいた。
 その影響だろう。十五夜を見ながら歌を詠む歌仙兼定の願いは、一年間持ち越しとなった。
 大の男が、本気で泣きそうな顔をしていた。
 次郎太刀に首根っこを掴まれ、引きずられて旅立つ姿は滑稽だった。
 あの時、引き留めればよかった。もしくは一緒に行くと、手を挙げればよかったか。
 後悔が胸に渦巻き、細い首を締め上げた。吸い込む息と吐く息がぶつかって、呼吸ひとつもままならなかった。
「っあ、……は、ぁぐっ」
 身体中の関節がみしみし音を立て、雑巾の如く絞られる感覚に陥った。頭の先と足の先を掴まれて、それぞれ反対側に捻られている気分だった。
 爪を立て、胸を掻く。ガリガリと素肌に赤い筋を何本も刻み付けて、小夜左文字は自分自身を傷つけながら強く奥歯を噛み締めた。
 顎が砕けそうになるまで、きつく目を瞑ってかぶりを振る。
「いぁ、あ、……あああっ!」
 腹の底から呻き声を上げて、救いのない世を照らす月を仰ぐ。
 その、今にも引き裂かれてしまいそうな背中に。
 ひやりとしたものを感じた。
 冷たい――けれど刺さるほどではない清らかなものが、小夜左文字の震える身体を撫でた。
「くっ」
 直後にぞわっと来て、竦んだ脚がもつれた。立っていられず、ふらつくままに尻から地面に転がって、小柄な短刀は呆然と目を丸くした。
 なにが起きたのか分からなかった。
 しかし彼を呑み込もうとしていた黒々しい気配は瞬く間に途絶え、何処かへと押し流された。風に揺られる草木は凛として、月の輝きは相変わらず冴えていた。
 明るい夜に、子供を怖がらせるものはなにもない。
 何度も瞬きを繰り返して、小夜左文字は恐る恐る辺りを見回した。
 虫の声が戻っていた。りりり、りりり、と響く音は心地よく、穏やかで、優しかった。
「今、なにが」
 景色は何も変わっていない。
 月が眩しい本丸の庭には、なんの異変も起きていなかった。
 小夜左文字が見た幻は、悉く打ち払われた。彼が招き入れた穢れは、突如として清められた。
 瞠目し、少年は荒ぶる鼓動を宥めた。深呼吸を数回繰り返し、尻の汚れもそのままに起き上がった。
 捲れあがっていた寝間着の裾を直し、改めて辺りを見回す。
 波の音にも似た木々のざわめきを頭上に聞いて、彼はふと、呼ばれた気がして屋敷を見た。
「誰か、いる」
 本丸の縁側に、先ほどまでなかった影があった。
 白銀の月光を集め、一部分が妙に明るい。夜闇の中に在りながら、昼の太陽を思わせる輝きは、黄金色の髪が原因だった。
 月の光を集め、彼の周囲だけがいやに神々しかった。
「獅子王」
 それは数日前に、屋敷に至った太刀だった。
 鵺の毛皮を肩に掛け、勇猛果敢に戦陣を突っ走る。やや猪突猛進の傾向があり、世間知らずの様相ではあるが、人柄は良く、短刀たちからは人気だった。
 戦列に加わって、まだ日が浅いからか。
 次郎太刀と違って遠征に加えて貰えなかった彼は、小夜左文字同様、留守番組だった。
 穂先の長い雑草を掻き分けて進めば、物音であちらも気付いたようだ。寝間着姿の青年は顔を上げ、現れた少年に相好を崩した。
「よう。悪い奴だな」
「あなたに言われたくない」
 夜更かしをしているのを、軽く咎められた。けれど獅子王とて、人のことは言えない。
 しかも彼の傍らには、首に縄を結んだ瓶子が置かれていた。
 盃は二口。うちひとつは、太刀の手に握られていた。
「ああ……」
 もうひと口にも、酒が注がれていた。底浅の器に月が映え、美しい彩を形成していた。
 それらを順に見て、小夜左文字は得心顔で頷いた。
 謎は解けた。先ほど己の身に起きた出来事は、すべて彼が原因だった。
「どした?」
「いや。礼を言う」
「なんだそれ。変な奴だな」
 肩の力を抜き、首を竦める。怪訝にする男に感謝の意を示せば、当然意味が分からなかった獅子王は首を傾げた。
 酒には穢れを祓う力がある。
 神前に供えられたものならなおのこと、清めの力も強かろう。
 自分たちが付喪神だということを、時々忘れそうになる。あのような雑兵に食われそうになったことを恥じて、小夜左文字は苦笑した。
 獅子王は依然不思議そうにしていたが、待っても仕方がないと悟ったようだ。五秒が過ぎた辺りで正面に向き直り、盃を高く掲げた。
 満月に乾杯して、ぐい、とひと息で呷る。
「くっ、はー」
 そうして心地良さげにかぶりを振って、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 全身で幸福を表現し、濡れた唇を舌で舐める。既に酔っているのか恐ろしいほど上機嫌で、鼻の下はだらしなく伸びていた。
「ひゃー。うっめー」
 歓喜の咆哮を上げ、げらげらと笑い声を響かせる。一瞬で空になった盃を左手に持ち替えて、右手は酒が入った瓶子と伸ばされた。
 それを先に持ち上げて、小夜左文字は彼に半歩、近付いた。
「お?」
「僕がやろう」
「おお、いいのか?」
 空振りした右手を床板に添えて、獅子王は意外な申し出に目を輝かせた。きらきらと眩しい笑顔で頷いて、早速空の盃を差し出した。
 こんな丹塗りの器を、どこで調達してきたのだろう。
 酒だって、台所で見かけるものとは違っていた。
「へへっ。次郎太刀のところから、ちょっと、な」
「……」
 不思議そうにしながら注いでやっていたら、疑問点を見抜かれた。
 鼻の頭を擦って得意げに言われて、小夜左文字は呆れて肩を竦めた。
「神罰が下っても知らないよ」
「大丈夫だろ。ちょっとだけだって」
 どうして本丸に来たる刀剣たちには、こうも怖いもの知らずが多いのだろう。
 神刀でありながら酒浸りの大太刀もどうかと思うが、その懐からひと提拝借して来るのも、度胸があり過ぎだった。
 悪戯っぽく笑い、獅子王は口に人差し指を押し当てた。内緒だと片目を瞑って囁いて、ずっと傍らに据えたままだった盃を空の手で掬い上げた。
「呑めよ」
「……いいのか」
 酒の入った瓶子はひと振、縁側には獅子王と小夜左文字。
 ふた口並んだ盃は、後から来る誰かの為と思っていた。けれど周囲に人気はなく、灯明も見えなかった。
 あるのは眩いばかりの月明かりのみ。
 黄金色の髪に光を集め、太刀にしては小柄な男は目を眇めた。
「ああ。その方が、じっちゃんも喜ぶ」
 訝しむ短刀に朗らかに言い放ち、獅子王は満たされたばかりの酒を呷った。一回で飲み干して、早く受け取るように右手の盃を揺らした。
 月を閉じ込めた酒が、大きく波打った。縁から零れようとしているそれに背筋を粟立て、小夜左文字は慌てて瓶子を置いた。
 両手で盃を受け取って、微かな香りに鼻を鳴らす。
 水のようで、水でないそれは、紛うことなき神酒だった。
「百獣の王、か」
「んー?」
「いいや。こちらのことだ」
 獅子もまた、権威の象徴。
 強さの権化であり、邪を寄せ付けない神力の持ち主だ。
 その名を冠せられた太刀が、月夜に神酒を捧げたのだ。短刀如きが引き寄せた魔など、一発で祓い退けられよう。
 本人の与り知らぬところで、救われた。獅子王にその意図がなかったとしても、感謝の念は自然と溢れた。
 次第に波が引いていく盃を眺め、小夜左文字は縁側に腰を下ろした。
 瓶子を挟み、獅子王と並んで座る。両足が地面から離れ、爪先は中空を漂った。
 膝から先をぶらぶら揺らして、短刀は結局手酌になってしまった太刀を仰いだ。
「僕に酒を勧めるなんて」
「なんだ。飲めねえのか?」
「いいや。でも、あなたが初めてだ」
「別にいいんじゃねえの? 俺は、気にしない」
 ふたりして月の明るい庭を眺め、言葉を繰る。獅子王は頬杖をつき、背中を丸めて盃を口に運んだ。
 横顔は秀麗で、粟田口の短刀と遊び耽る昼の姿とは違っていた。口数は少なく、淡々と酒を飲んでは盃を空にしていた。
 小夜左文字は揺らしていた脚を止め、両手に抱く丹塗りの杯を眺めた。
 酒は、飲めないわけではない。ただこの身体だから、勧められたことはなかった。
 見た目が幼いと、そういう部分で損だ。代わりに甘い菓子を呈されるので、不満は相殺されているけれど。
「これは、……僕が呑んで良い物なのか」
 なにかと人の世話を焼きたがり、口喧しい男を頭の脇へ追い払う。
 想像の世界で文句を言う歌仙兼定に首を振り、小夜左文字は傍らに問うた。
 獅子王は意外そうに目を丸くして、すぐに照れ臭そうに微笑んだ。
「いいんだ。じっちゃんは、もう呑んだだろ」
 気恥ずかしそうに告げて、誤魔化すように杯を呷る。潔い飲みっぷりは、哀しみを紛らせようとしている風にも見えた。
 彼が言う翁とは、源頼政の事だ。
 鵺を討ち取った武勲に加え、従三位にまで登り詰めた公卿であるが、その末路は哀れのひと言に尽きた。齢七十を過ぎて平家に対して決起して、早々に目論見が露見して逆に滅ぼされた。
 あと数年もすれば、穏やかな眠りと共に、西方浄土へと旅立てたかもしれないのに。
 積年の不満が爆発したのか。それとも若気の至りで先走った者を守るべく、重い腰を上げねばならなかったのか。
 真相は、小夜左文字の知るところではない。唯一分かることがあるとすれば、ここにいる獅子王が、かの翁を心から慕っていること、くらいだろう。
 月見酒も、かつての主に捧げたものだった。
 それを譲り受けたとあって、小夜左文字は身が引き締まる思いだった。
「頂戴仕る」
 畏まって呟き、目礼してから盃を口に運ぶ。歯で噛まないよう下唇で受け止めて、薄く開いた隙間から少量ずつ、咥内へと招き入れる。
 隣で獅子王が笑った。
 他人行儀が過ぎると顔を綻ばせ、数回に分けて飲んだ子供に瓶子を掲げた。
「……美味だ」
 仰け反っていた姿勢を戻し、ぽつりと零す。
 即座に新たな酒が注がれて、小夜左文字は首を竦めた。
 獅子王は胡坐を崩した体勢で、右足は縁側から垂らしていた。左の爪先は右太腿の下にあり、色白の肌はほんのり紅に色付いていた。
「良い飲みっぷりじゃねえか」
 愉快だと笑う表情は、次郎太刀に通じるところがあった。
 あまり褒められるべきでないところを褒められて、小夜左文字は頬を緩めた。注がれ過ぎて溢れそうだった酒を慌てて口で引き受けて、喉にするする入って行く神酒の心地よさに目尻を下げた。
 不思議なことに、口に入れた瞬間、果物のような爽やかな香りがした。
 勿論、酒の材料にそのようなものは入っていない。一切の異物を排除して、丁寧に、丹精込めて作られた酒は、見事なまでの透明度だった。
 雑味がなく、爽やかだった。殆ど水のようだが、飲み終えた後に喉の辺りがかーっと熱くなった。舌触りは滑らかのひと言に尽きて、鼻から抜ける清涼感がまたとなく快かった。
 後から来る辛みは強過ぎず、かと言って弱くもない。後に引かず、一瞬で溶けてなくなる加減は絶妙で、職人技としか評しようがなかった。
 美味い。
 これ以上の言葉はなく、これ以外の賞賛もない。
 手放しに褒め称えて、小夜左文字は次々注ぎたがる獅子王を手で制した。
「僕ばかりが呑んでは、悪い」
「ははっ。それもそうだな」
 この酒は、彼が命懸けで盗み出して来たものだ。自分ばかりが譲り受けるのは申し訳なくて、少年は盃を置き、瓶子を受け取った。
 彼の盃に濁りのない酒を注いで、小夜左文字は仄明るい夜空に顔を向けた。
 月は美しく輝いていた。
 雲が晴れて、紫紺の空にぽっかり穴が開いたようだった。
 前方に視線を転じれば、凪の池が見えた。空気は凛と冷えており、虫の声だけが五月蠅かった。
「いにしへの 人は汀に 影たえて 月のみすめる 広沢の池」
「どした? 急に」
 訥々と詠えば、獅子王が怪訝な顔をした。当初に比べれば幾分とろん、とした目をして、不思議そうに首を傾げられた。
 彼の主の歌なのに、覚えが悪いらしい。それとも酔っているから思い出せないだけかと思案して、小夜左文字は首を振った。
「気にするな」
 月の明るい夜に酒など飲むから、感傷的になるのだ。
 自嘲を込めて口角を持ち上げて、小夜左文字は空になっていた獅子王の盃に酒を注いでやった。
「うおっと。へへ、あんがとな」
 その手元は怪しく、覚束なかった。誤って傾け、滑らせようとしたのをどうにか防いで、青年は白い歯を見せた。
 それほど量を飲んだとは思えないのに、かなり酔いが回っている。
 もしや弱いのかと勘繰って、小夜左文字は自分の盃にも酒を足した。
 幾分軽くなった瓶子を置いて、即席の鏡に満月を閉じ込める。口を付けず胸元に掲げたまま、ゆらゆらと揺らめく光に思いを馳せる。
 こうやって誰かと月を眺め、酒を楽しむ夜が来るなど、考えた事もなかった。
 数奇な巡り合わせだ。
 吹く風は冷たいのに、心は温かかった。
「なき人の 面影そへて 月のかほ そぞろに寒き 秋の風かな」
 許されるなら、いつかの主とも、こうやって歌を詠み合い、酒を酌み交わしてみたかった。
 それが果たせぬ願いであるとは分かっていても、思わずにはいられなかった。
 与えられた名は心を縛るものだけれど、そればかりを譲られたのではないと思い出した。嫌な事は多かったけれど、そうでない時もあったと、束の間だけ過去を振り返って、小夜左文字は掲げた盃をひと思いに呷った。
 名付け親に神酒を捧げ、味の薄い水を飲み干す。寝間着の袖で口を拭って息を吐いて、少年は空になった杯の飲み口を擽った。
 水気を指で取り除き、傍らに置く。
 直後にずどん、と大きな音が響いて、尻に振動を感じた彼は目を見張った。
「獅子王」
 気が付けば隣に誰も居なかった。
 否、座っていた者が横倒しに寝転がっていた。
「ぐご、……ふ、んが、……むにゃ」
 挙句、鼾が聞こえた。鼻提灯は流石になかったけれど、だらしなく開いた口からは涎が足れていた。
 瞼は閉ざされ、勝気な眼は見えなかった。両腕を床に投げ出し、片方を枕の代わりにして、縁側で斜めになっていた。
 足は庭先にはみ出たままで、空の盃は脇腹でひっくり返っていた。あと少しで瓶子を吹き飛ばすところで、そうならなかったのは幸いだった。
 唖然としたまま瞬きを繰り返し、小夜左文字は真っ先に瓶子と盃を、安全な場所まで遠ざけた。
「弱すぎるだろう」
 試しに振った酒瓶は、まだちゃぷちゃぷ言っていた。
 釉薬を掛けて焼かれた陶器製のそれは、五合は楽に入る大きさだ。そのうち半分近くが残っており、飲んだ量は若干小夜左文字の方が多い。
 となれば、彼が飲んだのはたった一合少々の計算になる。
 それで酔い潰れられるとは、なんと効率が良いのか。
 まだまだ素面の短刀は肩を竦め、困った顔で嘆息した。
 下戸であるなら、止めておけばよかったのだ。慣れない酒を持ち出したりせず、茶でも啜りながら月を眺めるだけでも、充分だった筈なのに。
 もっともそれでは自身が救われなかったのだが、そこは考えない。小夜左文字はむにゃむにゃ言っている獅子王に嘆息を重ね、どうしようかと額を叩いた。
 縁側に放り出したままなのは、いくらなんでも可哀想だ。とは言っても彼の部屋に連れて行くのは、ここからだと遠すぎる。
 しかも短刀と太刀の体格差は、かなり絶望的だった。
 獅子王はまだ小柄な方だけれど、それでも小夜左文字より遥かに上背があった。骨格もしっかりしており、試しに片腕を取って持ち上げてみたら、意外に引き締まってずっしり重かった。
「ぐ」
 ちゃんと太く、鍛えられている上腕に嫉妬しそうになった。
 痩せて脆弱な己の腕を見比べて、少年は喉の奥で憎しみを噛み潰した。
「むにゃ……ふへ、じっちゃ……月、きれーだなあ……」
 寝こける男は呑気に呟き、光に誘われて庭に顔を向けた。もっとも瞼は閉ざされたままで、起きているわけではなさそうだった。
 実験と称して頬をぺちりと叩いてみたが、めぼしい反応は得られなかった。
 ぽりぽりと打たれた場所を掻いて、獅子王が鼾をかく。しかしよくよく目を凝らしてみれば、その目尻は濡れていた。
 翁に呼びかけ、語り掛け、笑う。
 彼は夢の中で、懐かしい人との邂逅を楽しんでいるようだった。
 それは嬉しいのに、哀しい夢だ。そして小夜左文字にとっては、少し羨ましいことだった。
 獅子王はきっと、悪夢を見ない。辛かったことや、切ない記憶を打ち消してしまえるくらいに、彼の中には穏やかで、幸せだった日々が沢山残されている。
 小夜左文字だって、平穏無事な時がなかったわけではない。けれどそうでなかった時期の記憶があまりに苛烈過ぎて、帳尻が合わないのだ。
 能天気な彼に、あやかりたくなった。
 生まれて初めて他人の涙を拭ってやって、過去に囚われた短刀は淡く微笑んだ。
 触れられたのがくすぐったかったのか、獅子王は目を閉じたままふにゃりと笑った。締まりのない顔をして口元を綻ばせ、寝返りを打って華奢な脚に擦り寄った。
「おい」
 他者の熱が心地よいのか、太腿に頬を押し当てられた。驚いた小夜左文字は反射的に立ち上がろうとして、縋る手に絆されて尻を下ろした。
 中腰を止めて座り直し、何気なく金の髪を撫でてやる。
「ふへ。くすぐってぇよ、……じっちゃ……」
 無造作に結ばれた金糸は意外に柔らかく、指に絡みついた。嫌がった獅子王は嘯いてうつ伏せになり、小夜左文字の腿に額を押し当て、腰に腕を絡みつかせた。
 しがみつかれ、離れない。押し退けようとしても抵抗されて、甘えて余計にくっつかれた。
 予想外に子供な反応に目をぱちくりさせて、短刀は困った顔で肩を竦めた。
「ここだと、……一番近いのは、山姥切国広か」
 こんな真似をされて許すなど、普段なら有り得ない。どうやら自分も酔っているようだと苦笑して、小夜左文字は周囲を見回した。
 屋敷の間取りを思い浮かべ、屋敷に住まう者たちの部屋割りを諳んじる。
 未だ空き部屋が多い本丸ではあるが、この一帯は既に何名かが占有していた。
 打刀たちに配分された区画が、ここからだと最も近い。だが訪ねて叩き起こし、協力を仰ぐのは悪いし、なによりこの男を引き剥がさなければいけなかった。
「起きろ、獅子王」
 肩を軽く叩いてみるが、反応は芳しくなかった。喉をゴロゴロ鳴らして上機嫌に笑う様は、大型の猫を連想させた。
 頭から水でも浴びせない限り、起きてくれそうにない。しかし神酒をぶちまけるのは勿体なくて、小夜左文字は途方に暮れて天を仰いだ。
 額を手で覆い、反対の手は重い獣の頭を撫でる。
「んーふ、ふふんふー」
 獅子王はしどけなく笑い、眠りながら鼻歌を奏でた。それが殊の外可愛らしくて、益々捨て置けなくなった少年は仕方なく、実際に重い腰を持ち上げた。
 短刀たちの団体部屋に連れて行くわけにはいかないし、獅子王の住まう太刀達の部屋は遠い。
 となれば、残る手段はひとつしかなかった。
「お……っも、い!」
 ここから少し行けば、通い慣れた部屋がある。主人は現在遠征で不在だが、布団は既に敷かれていた。
 ひとりで眠ろうとして出来なかったあの部屋に、連れて行くより他にない。
 歌仙兼定は怒るだろうか。
 それとも、呆れるだろうか。
「どう、して……こん、な、こと……にっ」
 奇妙な巡り合わせだった。
 月が明るくて、偶々日を跨いでの遠征が実施されて。
 美味な酒に誘われて。
 悪態をつくが、それほど悪い気分ではなかった。獅子王の腹の下に潜り込んで大きな身体を背負い、小柄な短刀は顔面を真っ赤にして、最初の一歩を踏み出した。
 担ぎ上げるのは無理だから、引きずって行くしかない。
 道中衝撃で目覚めてくれるのを少なからず期待して、小夜左文字は瓶子と盃も抱えあげた。
 獅子王の腕を肩の両側にぶら下げて、ずり、ずり、と少しずつ、されど着実に進んでいく。
 満月は煌々と照り、長い影を縁側に刻んだ。

「これは、……どうすればいいんだろうね」
 長い遠征を終え、ようやく帰り着いた本丸で。
 疲労感を訴える身体を引きずり、戦仕度を解くべく辿り着いた自室で。
 歌仙兼定が障子戸を開けて最初に見たものは、畳に敷かれたひと組の布団。そして丸くなって眠る、二匹の猫――もとい、刀剣男子だった。
 片方は小柄な短刀で、もう片方は年若く見える太刀で。
 いったいどういう組み合わせなのか分からず、細川の打刀は呆然と立ち尽くした。
 持っていた荷物が足元に落ちたのにも気付かず、よろめきながら敷居を跨ぐ。ふらふらとにじり寄って敷布団の端に進めば、到達した直後に膝が折れた。
 堪らずその場にへたり込んで、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 望月の夜に遠征を強いられ、ただでさえ傷心の身だったというのに。
 疲れ果てて帰ってみれば、待っていたのは人の寝床を占領する不届き者。しかも枕元には瓶子や盃が放置されており、昨晩彼らが何をしていたか、想像に難くなかった。
「僕のいないうちに、月見酒を楽しんで……しかも余所の男と同衾するとは、いい度胸をしているじゃないか」
 悔しさに、頭がどうにかなりそうだった。
 文句を言えば声は震えて、湧きあがる怒りは今にも爆発しそうだった。
 拳を作り、奥歯を噛み締める。
 自分が何に一番怒っているのかも分からぬまま、歌仙兼定は目を吊り上げて顔を真っ赤に染め上げた。
 いっそ殴ってやりたかった。
 気持ちよさそうに眠る小夜左文字と獅子王を交互に見比べて、雅も忘れて鼻息を荒くする。
 人の苦労を知りもせず、高鼾とはいい度胸だ。
 せめて一発くらい叩きこんでやらないと、こちらの気が済まなかった。
 一晩中歩き続けたお陰で、頭は回らなかった。一時の感情に支配されて憤りを募らせて、歌仙兼定は乱暴に床を殴った。
 膝立ちになり、身を乗り出す。
 衝撃は敷布団を飛び越えて、左側に眠っていた少年に覚醒を促した。
 己よりも遥かに大きい太刀を引きずって、苦心の末にここまで来た。そして力尽き、そのまま眠ってしまった短刀は、傍らから襲い来る強い気配に身じろいだ。
 瞼を痙攣させ、口をヘの字に曲げる。薄目を開けて、降りかかる影の正体をぼんやり眺める。
 目が合ったと知った歌仙兼定は振り上げた拳を凍り付かせ、殴りかかる姿勢のまま硬直した。
「さ、よ」
「かせん」
 たどたどしく名を呼べば、少年は舌足らずに応じた。夢うつつなのか双眸はとろんとしており、表情はあどけなかった。
 彼は胸元まで被っていた掛布団から腕を引き抜いて、小さな手を宙に彷徨わせた。
 居ないと分かっていながらも、探さずにはいられなかった。
 独り寝は寂しくて、冷たくて、恐ろしかった。
「かせん」
 やっと帰ってきた男の頬に触れて、小夜左文字は安堵に目元を綻ばせた。力の抜けた笑みを浮かべて、惚ける男の首に腕を絡めた。
 引き寄せる力は弱かった。
 けれど抗う術を持たず、歌仙兼定は膝立ちのまま、上半身を前方に投げ出した。
「小夜?」
「かせん」
 押し潰してしまいそうなのを堪え、腹筋に力を込める。訝しんで名を口ずさめば、少年は甘えるように頬を摺り寄せて来た。
 その吐息からは、微かながら酒の匂いがした。
 猫となって身体を丸め、歌仙兼定にしがみつく。
 素面の時では絶対に見られない姿に騒然となって、男は瞬きを繰り返した。
「……え?」
 これはいったい、どういう事なのだろう。
 事情が全く呑み込めなくて、歌仙兼定は瞳だけを右往左往させた。
 もしや彼は、酔っているのか。
 枕元に放置されている瓶子を一瞥して、男は中空を掻く両腕をもぞもぞさせた。
 この体勢は非常に苦しく、あまり長時間続けると腰が折れてしまいそうだった。かといって、保てなくなって突っ伏してしまうのは格好悪かった。
 となれば、小夜左文字を抱えあげ、己は背筋を伸ばして姿勢を正すしかなかった。
 訳が分からなくて、男は頭をぐるぐるさせた。
 あれこれ考え、悩んでいるうちに、肉体の方が先に限界を訴えた。不自然な体勢に背筋が悲鳴を上げて、残り時間の少なさに焦れた本能が先走り、もがいていた両腕を勢いよく交差させた。
 少年を抱きしめ返し、その胸に閉じ込める。
 仄かな熱は心地よく、軽い身体は己が一部かのようにすんなり馴染んだ。こうであるのが自然な事と感じられて、なにひとつ違和感を覚えなかった。
 怒りはどこかへ消え失せた。
 疲れも一瞬で吹き飛んだ。
 心地いい。
 尻から床に身を沈めて、歌仙兼定は甘える子猫に自らも頬を摺り寄せた。
 驚くほど呆気なかった。
 何故あそこで躊躇し、逡巡しなければならなかったのか。過去の自分を鼻で笑って、男は幸福感に胸を満たした。
「小夜。ただいま」
 口を開けば、言葉は自ずと零れ落ちた。目を細めて囁いて、歌仙兼定は骨張っている華奢な背中を撫でさすった。
 小夜左文字の指先がピクリと跳ねたのは、そんな時だった。
 男の手は細い腰を、背を、後頭部やうなじをひっきりなしに撫でて回った。頬を擦り合わせ、寝癖が酷い頭髪を梳き、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 その微熱に総毛立って、小夜左文字は真ん丸い目を零れ落ちんばかりに見開いた。
 何が起きているのか、まるで理解出来なかった。
 獅子王を布団に運んで、その後の記憶は残っていなかった。そのまま眠ってしまったのは辛うじて把握出来たが、今なぜ歌仙兼定に抱きしめられているのかだけは、どうやっても分からなかった。
 しかも愛おしげに頬を撫でられ、身体のあちこちを触られていた。苦しくない程度に力加減されて、膝に座らされていた。
 捲れあがった寝間着の裾から太腿が、かなり際どいところまで覗いていた。跨る脚は丸太のように太く、逞しい腕は獅子王のそれとはまた違っていた。
「小夜、遅くなってすまない」
 歌仙兼定は腕の中の存在が硬直しているとも知らず、夢見心地に囁いた――背骨の隆起を上から下へ辿って、後悔を滲ませながら、低い声で。
 その吐息が左耳を掠めた。一部が耳殻の隙間から潜り込み、直接小夜左文字の脳を擽った。
「――っ!」
 刹那、背を震わせた小夜左文字が右手を高く跳ね上げた。
 男のから己を引き剥がし、勢い良く、一直線に腕を振り下ろす。
「い……っ」
 バリッ、と良い音が響いた。立てた爪で思い切り皮膚を抉られて、あまりの痛みに歌仙兼定は畳の上で仰け反った。
 もんどりうって倒れ、綺麗に三本並んで走った赤い筋を両手で庇う。一方で束縛から抜け出した少年は跳ねて後退し、肩で息をして唇を噛み締めた。
 鼻を愚図つかせ、左耳を押さえこんで。
「く……首落ちて、死ね!」
 最近本丸にやって来た打刀の口癖を諳んじて、小夜左文字は一目散に部屋を飛び出して行った。
 ばたばたと足音を轟かせ、障子戸も開けっ放しにして逃げていく。
 痛みと台詞の衝撃に呆然として、歌仙兼定は隙間風に熱を溶かした。
「はい?」
 惚けたまま、目をパチパチさせる。
 甘えて来たかと思えば酷い仕打ちに愕然として、男は後ろからの物音に振り返った。
「ん、ん~~……?」
 見れば獅子王が仰向けから四つん這いになり、布団から抜け出そうとしていた。眠そうに目を擦って、大きな欠伸を右手で隠した。
「んぁ、あれ。どこだ、ここ」
 未だ完全に目覚めていないのか、不思議そうに辺りをきょろきょろ見回す。顎には涎の痕が残り、瞼は半分閉じていた。
 そもそもどうして、彼は此処に居るのか。
 何も分からない状況で、歌仙兼定は訳もなく泣きたくなった。
「獅子王。君は、小夜といったい、どういう関係なんだ」
「は?」
 不躾ながら直球過ぎる質問は、寝起きの青年には通じなかった。
 事情を知る小夜左文字は真っ赤になって逃げ出して、この場にはもう居ない。
 結局すべての疑問が解かれたのは、丸一日が経ってからだった。

2015/04/26 脱稿