烏の濡羽

 なかなか寝付けない夜だった。
 布団の中で身動ぎ、寝返りを繰り返す。目を瞑って眠気が訪れるのを静かに待つが、神経が高ぶっているのか、その時は一向に訪れなかった。
 壁時計が時を刻む音が五月蠅かった。
 いつもなら気にならないものが、今晩に限って意識に引っかかる。その原因は明白で、理由を探す必要はなかった。
「……はあ」
 照明を消した暗い室内で仰向けになり、孤爪研磨は溜息を吐いた。
 頭まで被っていた薄い掛布団を退け、瞼を開く。もっとも見える景色にそう大差はなく、天井は目を閉じている時と同じ闇色だった。
 けれど瞬きを繰り返しているうちに、次第に目が慣れて来た。光は皆無ではなく、ブルーレイレコーダーの時計や、ゲーム機の充電ランプは明るかった。
 それらのか細い光を集め、平面だった世界を立体に作り替えていく。平らに思われた天井にも凹凸はあって、薄い半円形の蛍光灯カバーが視界の中心に表れた。
 豆電球さえ消している空間に横たわり、孤爪は自分の呼吸を数えた。
「クロも、寝てないだろうなあ」
 灰色の景色に浮かび上がったのは、なにも部屋の造形だけではなかった。
 試合終了の笛が鳴った途端、膝を着いて泣き崩れる者がいた。
 人目を憚ることなく涙を流し、嗚咽を漏らして動けない者もいた。
 呆然と立ち尽くし、眩しい照明に瞼を下ろす者もいた。
 疎らな拍手は、対戦チームの雄叫びに掻き消された。ネットの向こう側では勝利に歓喜するメンバーが飛び回っており、まるで別世界のようだった。
 天国と、地獄。
 喩えるなら、まさにそんな雰囲気だった。
 勝者と敗者、賛辞を送られるのはどちらが多いか。そんな事、子供だって分かるに決まっていた。
 あれからまだ十時間ちょっとしか経っていない。皆で食べた遅めの昼食は、必要以上にしょっぱかった。
 ずどんと重い物が頭の上に落ちて来て、それがまだ取り除けていない感じだった。いつも以上に湯船に浸かって身体を休ませたはずなのに、四肢のだるさは抜けず、全身が鉛になったようだった。
 それなのに意識だけは冴えて、眠るのを拒んでいた。
「ちがう、か」
 自己判断を翻し、孤爪はぽつりと呟いた。
 眠れないのは、覚えていたいからだ。
 一晩眠って、今日の悔しさを忘れてしまうのを恐れているからだ。
 負けた。
 勝てなかった。
 競った試合だった。けれど最後に、流れを掴み損ねた。
 チーム全体の志気は高く、調子だって悪くなかった。それなのに練習なら簡単に決まるサーブが決まらず、連携に細かなミスが出た。
 押し寄せてくる大声援に圧倒されて、ボールの感覚が少しずつ狂わされていった。
 目に留まるような大きな失敗はなかった。それでも掠め取られた流れを呼び戻すのは難しく、勝負は後手に回った。
 第一セットを奪われ、焦っていたのかもしれない。
 脳が狂えば、他の歯車も総じて動きが悪くなった。自覚はなかったけれど、そうとしか言いようがなかった。
 大差はつかなかった。
 けれど、だからこそ、悔しい。
 あと少し、なにか出来ていたら結果は違っていた。そう思わずにはいられない敗戦だった。
「去年とは、違うな」
 一年前は、コートの外で見ているだけだった。
 勝敗にかかわらなかった分、悔し涙を飲む先輩たちを他人事のように眺めていた。何故あんなに人前で泣けるのかと、不思議に思いさえした。
 今なら彼らの気持ちが、ほんの少しではあるが、理解出来る気がした。
 身を捩り、孤爪は利き腕を布団から引き抜いた。
 手を拡げ、掌を見詰める。けれど掲げ続けるのは難しくて、指を折って緩く握ると、中指の関節を額に押し当てた。
 骨がぶつかり、コツリと音が響いた。
 軽い衝撃に目を瞑り、そのまま瞼を下ろし続ける。昼間の熱戦による疲れがやって来るような気がして、微かな期待に胸を高鳴らせた。
 しかし願いは虚しく、眠気は訪れなかった。
 遠くにあるレコーダーのデジタル時計は、午前零時過ぎを告げていた。いつもならもっと遅くまでゲームをしているのに、今日はそんな気分になれなかった。
 ボタンを押す指は動かず、画面に敵が現れても反応出来ない。アイテムを浪費するばかりで、少しも楽しめなかった。
 どう考えても、無駄な時間だった。
 早々に見切りをつけて寝床に潜り込んだが、これが正解だったかは分からない。息苦しさを覚えて寝返りを打ち、孤爪は枕を濡らしているだろうチームメイトを順に思い浮かべた。
 そうして最後に、音駒高校とは違うユニフォームを描き出した。
 オレンジに、黒のライン。背番号は十。
 バレーボール選手としては小柄な部類に入る孤爪よりも五センチ以上背が低いのに、任せられるポジションはミドルブロッカー。そんなちぐはぐさが目立つ華奢な少年も、数日前に眠れない夜を過ごしたひとりだった。
 特に連絡はなかった。けれど想像がつく。並々ならぬ情熱を持ち合わせている彼は、大粒の涙を流して歯を食い縛っていたに違いなかった。
「翔陽」
 彼はもう立ち直っただろうか。
 思いを巡らせて、孤爪は反対側に寝返りを打った。
 壁に向き合い、小さな染みを見つけて指を這わせる。特に意味のない、どうでも良い事で気を紛らせて、昼の余韻を引きずる心を落ち着かせようと試みる。
 深く息を吐いて瞼を閉ざし、もう一度睡魔を招くべく呼吸を鎮めようとして。
「……ン?」
 どこからか、何かが震え、蠢く気配が感じられた。
 夜の帳を巻き上げ、孤爪は音の出どころを探った。ヴヴヴ、ヴヴヴヴ、と繰り返される振動には覚えがあって、ハッとなった彼は急いで掛布団を蹴り飛ばした。
 被っていたものを取り除き、身軽になった身体を床へ降ろす。手は枕元を探り、天井照明のリモコンを引き寄せた。
 ひとつしかないスイッチを押せば、瞬時にライトが反応した。
 ぱっと灯った光に目を眇め、彼は眩しさに慣れてから視線を足元へ這わせた。
 薄い影が伸びていた。愛用のリュックサックが床に放り出されたまま、形を歪めて斜めに傾いていた。
「忘れてた」
 その奇妙な形状を見ているうちに、孤爪はとある事実を思い出した。顔を上げて机を見て、そこにあるべきものが無いと知って肩を竦めた。
 携帯電話の充電用スタンドが空っぽだった。
 先程の振動は、鞄に入れっ放しだったスマートフォンのものに間違いない。そういう基本的な事すら頭から抜け落ちていたと気付き、彼は意外にダメージが大きかった胸を撫でた。
「結構、キてるんだな」
 山本や犬岡のように、涙を流しはしなかった。
 海のようにあっさり結果を受け入れ、清廉としてもいられなかった。
 夜久のように声を殺して唇を噛み締める事も、黒尾のように天を仰いで息を整える真似もしなかった。
 ただ立ち尽くし、悔しがる彼らを眺める事しか出来なかった。
 負けた事実を受け入れるのに、数秒の時間が必要だった。試合終了の笛が鳴った後も、当たり前のようにサーブが来るものと、心のどこかで信じていた。
 リセットしてやり直しの利かないゲームは、存外に心に掛かる負荷が大きかった。
 ベッドに腰を下ろし、鞄を漁る。取り出したスマートフォンは右上のランプが明滅して、着信があったと教えてくれた。
 側面のボタンを押して電源を入れて、内容を確かめる。
「メール……」
 てっきり無料通話が可能な交流系のアプリで、眠れない誰かが愚痴のひとつでも送って来たと思った。しかし表示されたアイコンは、彼の予想していたものと違っていた。
 こんな時間に、誰だろう。
 迷惑メールの類だったら、呪いの言葉を返してやりたいところだ。人の安眠を邪魔する者には鉄槌を、と変なところで意気込んで、彼は複数並ぶアイコンのひとつを押した。
 そうして自動的に特定フォルダに振り分けられたメールを見て、孤爪は大きく目を見開いた。
「なんで」
 思わず壁の時計を確かめて、届いたばかりのメールに愕然となる。この時間、彼ならとっくに夢の中の筈で、真っ先に名を騙った別人の悪戯を疑った。
 だが、そんな手の込んだことをする馬鹿はいない。
 一瞬燃え盛った感情を即座に冷まし、孤爪は冷静になるよう自分に言い聞かせた。
 もしかしたら、なんらかの影響で、受信のタイミングが遅れただけかもしれないではないか。送信すれば即届くメールながら、稀にタイムラグが発生するのは、孤爪も承知していた。
 そういうレアなケースに巻き込まれたのだろう。言い訳がましく自分を納得させ、彼は恐る恐る新着を示すアイコン付きのフォルダを押した。
 指の動きを探知し、四角い機械はパッと画面を切り替えた。
 そのフォルダに収められているメールは、すべて差出人が同じだった。
 振り分けのルールに宛がっているのがひとりだけなのだから、当然の結果だ。画面にずらりと並ぶ同じ名前を黙って見下ろし、孤爪は息を整え、最上段の未読を表す太文字を押した。
 途端にまた画面が変わって、白い背景に短い文章が現れた。
 差出人、受信時間、件名しか表示されていなかったリストから一変し、画面は急に明るくなった。タイトルは特に指定されておらず、空白で、返信を表すアルファベットもなかった。
「翔陽、起きてるの?」
 フォルダのタイトルにもなっている名前を口ずさみ、孤爪は跳ねた心臓に唇を噛んだ。
 ドキリとして、もう一度時間を確認する。時計の針に大きな変動は見られず、神経に触っていたコチコチ言う音も、今は気にならなくなっていた。
 日付が変わった後に届いたメールには、たったひと言。
 電話をしていいか、とだけが記されていた。
 数バイトの文章を十度も読み返し、フォルダ画面にまで戻って、幻ではないのを確かめる。夢かと疑って頬を抓れば、ちゃんと痛かった。
 眩しい画面に見入って、彼は逡巡を経て返信と書かれたボタンを押した。
 唇を舐め、隙間から細く息を吐く。緊張で指が震え、文字を打つのは大変だった。
 もし、不具合で受信が遅れていただけなら、きっと返事は来ない。
 そうであればいいと願いつつ、彼が布団に包まって返信を待っていると期待して、孤爪は覚悟を決めて送信ボタンを押した。
 うん、と。
 たった二文字にあらゆる思いを込めて、送り出す。
 手慣れている事なのに、恐ろしく時間がかかった。こんなにも神経がすり減るメールは、生まれて初めてだった。
 送信完了を見届けて、孤爪はホッと胸を撫で下ろした。寝間着替わりのシャツの袖をたくし上げて、電池残量を気にして眉を顰める。
「充電しとこ」
 乾電池のマークは赤くなるところまで行っていないが、このまま置いておくのは気が引けた。
 今からコンセントに繋いでおけば、朝には満タンに戻っている。専用スタンドに挿し込むだけで済むので、作業自体は楽だった。
 ぼそりと言って、孤爪は立ち上がった。素足で短い距離を歩き、矢張り電波状況が可笑しかっただけと結論付けようとして。
「う、あ」
 縦に持っていたものを横にしようとして、彼は突如震え出したスマートフォンに慌てた。
 思わず落としそうになって、急いで反対の手を底に添えた。再び持ち方を変えて顔の前に掲げ、電話着信を伝えるメッセージに唖然となる。
 そこに表示されていたのは、覚えのない番号だった。
 電話帳に登録されていたら、名前が出てくるはずだ。東京とは大きく異なる市外局番に目を剥いて、孤爪は覚えた躊躇を蹴り飛ばした。
 親指を液晶画面に押し当て、上にスライドさせる。
「もっ、もしもし」
 気張り過ぎて第一声に詰まった彼の応対に、しかし返答は得られなかった。
 その代わり、吐息が聞こえた。緊張している雰囲気が電話口から伝わって来て孤爪は息を潜め、端末を耳に押し当てた。
 このタイミングで悪戯電話がかかってくる確率は、孤爪がバレーボールプレイヤーにならなかった確率よりも低い。見知らぬ番号が誰のものか、確信を深めて、彼はベッドに戻り、腰を下ろした。
「どうしたの、翔陽」
 静かに語り掛け、目を閉じる。意識を研ぎ澄ませて遠い北の大地に思いを飛ばせば、数秒の間を置いて、嗚咽にも似た呻き声が聞こえた。
『けん、むぁ……』
 たどたどしい口調で名前を呼ばれた。鼻を啜る音が後に続いて、笑いを堪えるのが大変だった。
 どうして彼が泣くのだろう。
 逆ではないかと考えて、孤爪は優しく微笑んだ。
「泣いてたら分かんないよ、翔陽」
『う、……ん。ごめっ、おれ、……ねぶれ、なぐで』
 鼻が詰まっているのか、発音が所々おかしい。目尻を擦る音も聞こえて来て、その涙を拭ってやれないのが少し悔しかった。
 代わりに自分の太腿を掻き、孤爪は肩を竦めた。
「翔陽が泣いてたら、おれは、泣けないね」
『ぶぇっ』
 ぽつりと零した言葉は、意地悪だっただろうか。カエルが潰れたような変な音が聞こえて来て、彼は目を眇めた。
 電話口の泣き虫は、どこで情報を聞き付けたのか。恐らくは親しいチームメイトから教えられたであろう試合結果に、こんな反応をされるとは夢にも思わなかった。
 彼には、涙を流す理由などないのに。
 冷めた想いは少なからず存在したけれど、彼の気遣いを嬉しく思う気持ちは、その十倍以上の大きさだった。
 シーツの海を撫でて、孤爪は見つけた皺に爪を立てた。
『ごめ、……音駒、が。月島が、負けたって、言うから』
 詰まりながらの説明は、大方予想通りだった。
 月島というのが誰かまでは分からないけれど、親切に試合結果を教えてくれたらしい。それに衝撃を受けて、今頃になって電話をかけて来た。
 ネットワークが発達した現代では、ちょっと調べるだけで色々な情報を知る事が出来る。たった今終わったばかりの試合のスコアも、あっという間にデーターの海に広まる時代だった。
 孤爪だって、烏野高校がインターハイ予選での敗退を、インターネットで知った。本人からメールで伝えられたのは夜になってからで、短すぎる文面が胸に刺さったのを思い出した。
 彼は結果だけを告げて、最後に謝罪した。
 約束を果たせなくてごめん、と。
 日向翔陽との出会いは、五月の初旬に遡る。道で迷っていたところで偶然顔を合わせ、その後練習試合会場で再会した。
 次は、全国大会で。
 そういう約束を交わして、孤爪は宮城の地を離れた。
 しかし願いは果たされなかった。
 再戦の夢は絶たれ、約束は反故となった。半分冗談の、耳に優しい社交辞令のようなものだったから、孤爪自身はさほど気にしていなかったのだけれど。
 電話口の相手は、本気で叶えるつもりでいた。
 山本の慟哭が蘇った。大勢の観客が見守る中、恥も外聞もなく鼻水を垂らしていた犬岡の顔が浮かんで来た。
 どこか他人事と感じていた。
 負けは負けと素直に認めて、もう上に行けないのだと諦めるしかないと思っていた。
 それなのに。
 全く関係ないはずの日向が、孤爪たちの敗戦を知って泣いていた。
 宮城県の予選は東京よりも早くて、代表校は既に決まっていた。その時点で約束は無しとなったのだから、彼が悔しがる必要はないはずだった。
 もし音駒高校が順当に勝ち上がっていったとしても、烏野高校とは対戦出来ない。ならば予選会の段階で敗退してくれた方が良いと、卑屈な人間ならば考えそうなものだ。
「泣かないで。翔陽」
 ところが彼は、喜ぶどころか悲しんでいた。受話器から漏れ聞こえる嗚咽は次第に胸に迫り、孤爪を圧倒した。
 真綿でゆっくり締め上げられている気分だった。
 試合に負けた事に、あれこれ言うつもりはない。単純に、実力が足りていなかっただけの話だ。
 相手チームだって、死に物狂いでボールに向かっていた。最後まであきらめず、たとえ壁に激突しようとも怯まなかった。
 勝利にしがみつき、離さない。その気持ちの差が、得点となって現れた。
 最終セット。相手側の連続得点で一気に流れを奪われて、どうやっても取り戻せなかった。
 体調は万全で、心は落ち着いていた。
 皆の調子も悪くなかった。
 チームの力量にそれほど差はなかった。ブロックが高くて厄介ではあったけれど、突き崩せない程大きな壁とは感じなかった。
 それでも、負けた。
 ジリ貧に陥って、最後の最後で集中力がぷつりと切れてしまった。
『おれ、っも。負けて、くや……って。ぜんぜ、夜、寝られ……っく、て』
「うん」
『だから、けんま、っも。起きて……と、おもっ、だ、がら』
「うん」
 監督の奢りで昼食を食べて、学校に帰ってミーティングをして。
 いつになく早い時間に帰宅して、長湯をして、ゲームもそこそこに寝床に入った。
 しかし眠れず、悶々としていた。
 目を閉じればチームメイトの顔が浮かんだ。
 そして最後に、彼が現れた。
 声を聴きたいと、どうして思ったのだろう。
 会いたいと願ってしまったのは、何故だろう。
「うん。全然、おれ、眠れないんだ」
 去年はこうではなかった。冷たい奴と蔑まれても意に介さず、淡々と状況を受け入れ、格別悔しいとも思わなかった。
 だのに日向の鼻声を聞いているうちに、目頭が熱を持ち、鼻の奥がツンとした。
 左手で額を押さえ、孤爪は前髪を掻き上げた。いつもは隠れている瞳を曝け出し、歪んで見える景色に奥歯を噛み締めた。
 今頃になって、どうかしていると思う。けれど押し寄せる悔しさの荒波に抗う術を、彼は持ち合わせていなかった。
 涙だけは流すまいと堪え、きつく目を閉じる。前髪を握り潰したまま息を殺し、右手に持ったスマートフォンを床に叩き付けたい衝動を耐える。
 心臓が痛かった。
 四肢が引き裂かれたようだった。
 胸の中で炎が荒れ狂い、内臓が焼け焦げそうなくらい熱かった。血液は沸騰直前で、脳は茹で上がり、耳鳴りが酷かった。
 試合の光景が嫌というほど蘇り、何十回と繰り返された。あの時こうしていれば、ああしていればと後悔が渦巻いて、押し潰されてしまいそうだった。
 勝利は目前だった。
 このまま押し切れると、試合中なのに錯覚した。
 第一セットを奪われ、第二セットで取り返した。第三セットの中盤で嫌な流れになって、食らいついて二度のデュースに持ち込んだ。
 慢心があった。
 信じたくないが、終わってみえばそうとしか考えられなかった。
 全国大会での再戦は、猫又監督が言い出した話だ。五月の遠征最終日に、思いつきで語った彼に全員が乗せられた格好だった。
 黒尾はこの話に拘っていた。
 烏野高校が負けたという報せを受けた後も、自分たちだけでも約束を果たし、全国へ行くと意気込んでいた。
 それが孤爪には理解不能だった。
 音駒高校が勝ち進んで、日向たちは嬉しいのか。逆に己らの力量を悟り、嫉妬の感情を抱きはしないだろうか。
 卑屈に考えすぎていた。
 日向の頭の中はもっとシンプルで、裏表がなかったのを思い出した。
「ごめんね、翔陽」
『けん、ま?』
「約束。守れなかった」
 言葉と言葉の間にひと呼吸置き、一気に吐き出す。根元が黒い頭髪をくしゃくしゃに掻き回して、ベッドに横向きに倒れ込む。
 衝撃は優しくなかった。埃が舞い上がって、視界は灰色に霞んだ。
 思い出したことがあった。
 烏野高校が惜敗したと知った日の夜、日向から届いたメールには続きがあった。
 負けた事実と、再戦の約束が果たせなかった贖罪の他に。
 音駒は頑張れ、と。
 エールが添えられていたのを、今になって思い出した。
 彼の期待を裏切った。一瞬の油断が判断ミスを誘発し、手痛い失点につながった。
 心の弱い部分が出てしまった。
 どうしてこんなに苦しい思いをしてまで、バレーボールをしなければならないのかと、ふとそんな考えが頭を過ぎった。
 頑張る理由なら、いくらでもあったのに。
 勝ちたい。負けたくない。
 強くなりたい。強くありたい。
 皆と喜びを分かち合いたい。悔しい思いをしたくない。
 期待に応えたい。
 応援してくれた人たちを笑顔にしたい。
 遣り切った先にある満足感を得たい。
 心を震わせる快感を、この手に掴みたい。
 勝ったその先に何があるのかを確かめたい。
 知りたい。
 頂から見下ろす光景を、この目に。
 孤爪のプレイが、敗戦の直接の原因ではない。けれどひとつのきっかけになったのは、疑う余地がなかった。
 誰もがミスをする。いつもならほかの選手がそれをカバー出来た。綺麗に噛み合った歯車は美しいが、どれだけ小さな亀裂だろうと、放置すれば致命的な欠陥に繋がった。
 自分の所為ではない。
 誰の所為でもない。
 けれど負けた原因はどこかにある。
 勝ちを焦り、逸ったのもそのひとつ。
 出来ることはもっと沢山あった筈で、実行に移さなかったのは怠慢としか言いようがない。
 全力を出し切れたかと問われたら、一瞬悩んで首を横に振るだろう。もうじき終わる、と終盤に思ってしまった時点で、勝敗は決していた。
「負けるって、……くやしいね」
『うん゛っ!』
 囁けば、全力で同意された。鼻を詰まらせながら首を縦に振る日向の絵が浮かんで、孤爪は一寸笑ってしまった。
 心がスッと軽くなったようだった。涙はいつの間にか引いて、奥深い場所にあった不快感も薄れていた。
 負けた理由は幾らでもあった。数え上げたらきりがなかった。
 もっと全力を出していたら。身体がバラバラになっても構わないと、勝利に食らいついていけたなら。
 それでも、負けていたかもしれないけれど。
 この悔しさは、もっと重くなっていたかもしれないけれど。
 いつだって全力の日向は、孤爪よりもずっと重くて苦い気持ちを味わったのだろう。
 彼のようには泣けない。
 皆のように悔しがれない。
 そんな自分を初めて恥じた。彼らのように負ければ涙を流し、勝てば心から笑いたかった。
 日向に次に会う時は、胸を張っていたかった。
「しょうよう」
 気遣いが嬉しかった。
 遠く離れた場所にいても、気にかけてくれる人がいるのが心強かった。
 幸せだった。
「ありがと」
『研磨?』
 小声でぽつりと言えば、聞こえなかった少年が怪訝に名前を呼んできた。
 流石に二度は言えない。照れ臭さに負けて、孤爪は笑ってごまかした。
『むー』
 なんでもない、と答えれば、不満そうに唸られた。涙はもう乾いたらしく、鼻声も若干解消されていた。
 泣き顔を見てみたかった。勿論、一番見たいのは満面の笑顔だけれど。
「もう、おれ、……負けないから」
『そっか。おれも、うん。負けない』
 あんな疎外感は二度と御免だった。泣き崩れるチームメイトに何も言えず、立ち尽くすしか出来ないのは嫌だった。
 決意を告げれば、同じ言葉を返された。続けてしどけなく笑いかけられて、孤爪は胸に生じた温かなものを握りしめた。
「……ありがとう」
『ふえ?』
「大丈夫だよ、おれは」
『そっか』
 一度は渋った言葉を、思い切って声に出す。今度はちゃんと聞こえたようで、日向は面食らい、そして安堵したように呟いた。
 彼に会えてよかった。
 彼と友達になれて良かった。
『がんばろーな』
「うん」
『負けないからな』
「こっちのセリフ」
『研磨』
「うん?」
『おやすみ』
「……うん。おやすみ、翔陽」
 腹いっぱい食べて、風呂でゆっくり身体を温めた直後のようだった。
 幸福が胸を満たした。ほこほこして、心は穏やかだった。
 声が聞けて嬉しかった。覚えていてくれたのが、嬉しかった。
 言葉にし得ない感情が溢れて、孤爪を包み込んだ。
 通話は静かに途切れた。すっかり暗くなっていた画面を軽く押せば、終話の文字が時の経過を教えてくれた。
「おやすみ、翔陽」
 聞く相手が居ない言葉をまた繰り返して、彼はスマートフォンを手放した。捲れていた掛布団を引き寄せて被り、猫のように丸くなった。
 目を瞑っても、昼間の試合は思い出さなかった。涙にくれるチームメイトの顔は過ぎったものの、後には残らなかった。
 ミーティングを終えて帰路に着く彼らの顔は、悔しさを滲ませながらも前を向き、力強さを取り戻していた。
「負けないよ」
 その言葉は誰に向けて放たれたものか。
 ぼそりと囁き、孤爪は静かに微笑んだ。

2015/1/14 脱稿