菊塵

 太陽は東の稜線に近く、まだ眠そうな顔をしていた。
 夜の気配は西へ追いやられ、空は徐々に白み始めていた。木陰は昼間の暑さが嘘のように涼しく、湿気も少なくて過ごし易かった。
 今の気温のまま、一日が終わればいいのに。
 無い物ねだりを呟いて、影山は小石を蹴り飛ばした。
 二度、三度と跳ねた後に失速した石礫に肩を落とし、ため息を吐いて視線を上げる。前方には大きな建物がどん、と居座り、人が集まってくるのを待っていた。
「今日は俺の負け、か」
 ぽつりと言って、彼は担いだ鞄を揺らした。
 白色のエナメルバッグを肩から外し、腕にぶら下げてゆっくり足を進める。先程の小石を無視して通り過ぎて、見上げたのは第二体育館の入り口だった。
 五段とない階段を越えた先に、頑丈な扉があった。長い間雨風に晒されて来た為か少し錆びついており、開けるのにはコツが必要だった。
 その扉は硬く閉ざされ、沈黙していた。
 腕に巻いた時計を一瞥して、影山は鞄を足元に落とした。一瞬だけ砂埃が巻き起こり、すぐに消えてなくなった。
 スニーカーに降り注がれた砂を払いもせず、彼は緩んでいた口元を引き結び、忌々しげに舌打ちした。
「今日の鍵当番、誰だよ」
 現在時刻は、午前六時半。早朝と言っても差し支えない頃合いで、学生の大半は未だ夢の中だろう。
 そんな時間帯から臨戦態勢を整えた青年は、半袖シャツにハーフパンツ姿だった。
 パンパンに膨らんだ鞄の中には、学校指定の制服が丸めて詰め込まれていた。他には昼食用の弁当と、間食用の握り飯が数個。勉強道具も一応入ってはいるものの、占める割合はかなり低めだった。
 何のために学校に来ているのか。
 訊かれたら、「部活」と即答できる。そういうあまり自慢できない信念を抱いて、彼は毎日校門を潜っていた。
 だというのに、その部活が始められない。
 施錠されているであろう出入り口を前に、影山は苛立ちに地団太を踏んだ。
 空を蹴り、両手は腰に当てて荒い息を吐く。来た道を振り返ってみるが、朝練の開始時間三十分前の為か、人の姿は見えなかった。
 体育館の鍵は、排球部員が交代で管理する事になっていた。担当になったら、他より早く学校に来て、中に入って練習の準備をしなければいけない。
 早起きが面倒で嫌がるメンバーもいるにはいるけれど、不公平にならないようにするための持ち回り制だから、拒否権はなかった。
 もっとも希望者が申し出れば、当番は交代出来た。
 だから最近は影山か、日向が率先してその役目を担うようになっていた。競い合うように本来の担当に手を挙げて、自分が替わると言って譲らなかった。
 すると当然のように部内の空気が、ふたりに任せっきりにすればいい、という方向に流れ始めた。
 これでは日向や影山にばかり負担がいって、他が楽をする事になる。本人は今のままでも文句はなく、構わなかったのだが、規則だからと主将が押し切った。
 結果、鍵の管理方法は元のシステムに戻されて、体育館が開かれる時間はまちまちになった。
 当番が寝坊でもしようものなら、目も当てられない。
 そんな事にならないよう祈りつつ、影山は一足先に到着していた人物に顔を向けた。
 朝の挨拶はなかった。それどころか、視線さえ交錯しなかった。
 いったい彼は、いつからそこに居るのだろう。
 待ち惚けを喰らって暇を持て余したのか、先客は入口前の階段に腰かけ、鞄を抱いて眠っていた。
 俯き、舟を漕いでいた。こっくり、こっくりと首は不安定に揺れて、だらしなく開いた口からは涎まで垂れていた。
「ボケ」
 見事なまでの熟睡ぶりに、呆れて言葉も出ない。そのうち転がり落ちるのではないかと懸念されたが、眠っている最中でも、絶妙なバランス感覚は健在だった。
 彼の運動神経は、影山ですら羨ましく思うくらいだ。だからこそ宝の持ち腐れぶりに腹が立って、その能力全てを操ってやろうと思った。
 眠っている顔は力みが失われ、だらしなかったが、コートの中に居る時の頼もしさは他の比ではない。彼と一緒なら、どんな強敵相手でも負ける気がしなかった。
「あと、二十八分」
 イビキさえ聞こえて来そうな寝姿に肩を竦め、影山は腕を振った。時計の針はなかなか進まず、鍵当番がやってくる気配もなかった。
 昨日の練習後、誰が施錠していたか。
 思い出そうとして頭を悩ませ、影山は黒髪を掻き上げた。
「どうすっかな」
 このまま此処で突っ立っていたところで始まらない。ボールを使った練習は出来ないけれど、屋外でも、ストレッチで身体を解すくらいは可能だった。
 スニーカーではあるが、体育館の外を走るのも悪くない。兎に角こうしてぼんやりしている時間が惜しかった。
 予選大会まで、あまり間がなかった。ゆっくりしている場合ではなく、一秒でも長く練習していたかった。
 気が急き、指先に力が籠った。無意識に拳を作って震わせて、影山はやって来ない鍵の持ち主に呪詛を吐いた。
 気合いが足りていない。
 そんな腑抜けた気持ちで試合に勝てると思っているのか。
 声を大にして叫びたいのを我慢し、行き場のない苛立ちを唾と一緒に飲みこむ。自力では消化出来ないと分かっていても、奥に押し込めるしかなかった。
 一方的な感情を他人に押し付けた所為で、彼は中学時代に孤立した。二の轍は踏みたくなかった。仲間と思っていた連中にそっぽを向かれ、トスを無視された痛みはまだ消えていない。
 癒えない傷を撫でて慰め、影山はゆるゆる首を振った。
 地面に置いた鞄を取り、彼は鈍い足取りで石段を登った。
「よ、と」
 最上段に尻を置き、足はその一段下に。鞄は更にその下に置いて、曲げた膝に両手を置く。
 普段とは違う視線の高さは新鮮で、不思議だった。
 いつも見ているものと同じ光景なのに、かなり違っていた。それが面白くて目を瞬いて、彼は肩に当たった衝撃に背筋を伸ばした。
「うお」
 トン、と軽くぶつかられて、ピクリと反応する。慌てて退こうとしたのをすんでで堪え、影山は自分に凭れ掛かる重みに息を呑んだ。
 先程まで不安定に揺れ動いていた日向が、すぅすぅと、穏やかな寝息を立てていた。
 瞼は硬く閉ざされ、窄められた唇から絶えず息が漏れていた。涎は乾いており、影山の腕に降りかかる事はなかった。
「びびった」
 油断していたから、心臓が跳ねた。驚いてドクドク言う鼓動を宥め、彼は右上腕に圧し掛かる重みに肩を突っぱねた。
 押し返そうとするけれど、動かない。丁度良いところに壁が出来たとでも思っているのか、彼の身体は影山に凭れる形でバランスを取っていた。
 今ここで左に逃げたら、日向は確実に床に激突する。足元の段差は高くはないけれど、低くもなくて、転がり落ちたら相当痛そうだった。
 衝撃を想像してごくりと唾を飲み、彼は深々とため息をついた。
「俺の腕枕は高けぇぞ」
 元々の意味とは異なる使い方をして、諦めて現状維持に入る。ぼやきが伝わったとは思えないが、寝入る日向が顔を綻ばせた。
 タイミング良く笑った彼に、もしや起きているのかと疑問が沸いた。しかし聞こえる寝息は安定しており、変な動きも感じられなかった。
 どうやら本当に、ぐっすり眠っているらしかった。
「いつ来たんだ、こいつ」
 ここまで熟睡出来るくらいだから、相当長い間待っていたのだろう。試しに起こさないよう手に触れてみれば、皮膚は冷たくなっていた。
 初夏の早朝だから、凍えるほど寒くはない。それでも時折強く風が吹き、体温を奪って行った。
 さらりとした手触りを指先に覚え、影山は口をもごもごさせている日向に見入った。
「昨日、俺が完勝したからか?」
 彼が誰も来ないような時間から、張り切って第二体育館に乗り出して来た理由。
 考えるが他に思いつかなくて、影山は首を傾げた。
 昨日は偶々、影山が鍵を管理する当番だった。
 勿論、横から掻っ攫ったわけではない。部員十二人で順番に回していたものが、偶然手元に滑り込んできただけだ。
 これ幸いと六時過ぎには学校に入り込み、皆が来るまで思い切りボールと戯れた。雑音がない中でのサーブ練習は快適で、集中出来て楽しかった。
 それを日向に見つかって、何故か怒られて、拗ねられて。
 それで今日はやり返そうと、鍵当番が来ないと入れないというのも忘れ、早めに学校にやって来たのか。
「あほらし」
 考えなしの行動は、却って時間の無駄だ。意気込みが空回りしている彼に呆れ、影山は呟いた。
「……むが」
「ンだよ。本当のことだろ」
「すー……」
 その独白に、日向が丁度良いタイミングで呻いた。思わず抗議に反論してしまって、後から気付いて彼は赤くなった。
 周りに人が居なくて良かった。
 眠っている人を相手に喋るなど、友達がいない寂しい奴だと思われても仕方がなかった。
「くっそ」
 恥ずかしさに身悶え、悪態をつく。前髪をくしゃくしゃにして首を振り、彼は元凶を睨みつけた。
 日向は相変わらずで、暢気に寝こけていた。
 人の気も知らないで、満面の笑みを浮かべていた。誰に断って肩に寄り掛かっているのかと、わざと身体を前後に揺すってみるが、反応は芳しくなかった。
 日向だって十分我儘なのに、影山より彼の方が、先輩たちから甘やかされている気がすした。
 彼の要望ばかり通って、こちらの意見は通り難い。なにか失敗しても、日向は笑って許された。
 世の理不尽さに口を尖らせ、頬を膨らませる。本当に退いてやろうかと考えつつ、影山は彼から視線を逸らした。
 左方向を眺めるが、依然誰もやって来なかった。
 無人の空間に嘆息し、腕時計を確かめる。
「まだ三十四分かよ」
 かなり時間が過ぎたように感じていたが、実際は二分と経っていなかった。
 がっくり来て、影山は肩を落とした。肩幅に広げた足の間に両手を垂らし、明るさを増していく空を仰ぐ。
 退屈だった。
 暇過ぎて、石になりそうだった。
「くっそ」
 こんなことなら、もっと遅く家を出てくれば良かった。それ以前に、ここに座らなければ良かった。
 日向に凭れ掛かられて、碌に身動きが取れないのも、苛立ちを増幅させていた。
「おら。起きろ」
 腹を立て、怒鳴る。掴みかかるのではなく、肩に寄り掛かる彼をただ揺さぶって、声だけで起こそうと試みる。
 しかし何度やっても無駄で、日向は一向に目を覚まさなかった。
 がくがく震えているのに、どうして覚醒しないのか。
 あまりの反応の悪さに、本当に眠っているだけなのか怖くなった。万が一を想像して背筋を寒くして、影山はカチリと奥歯を鳴らした。
「おい、日向」
 もう一度呼びかけ、寝顔をそっと覗きこむ。
 顎の先に風を感じた。すよすよと眠る寝息が、影山の肌を擽った。
 瞼は閉ざされたままだけれど、生きているなによりの証拠だった。
 ホッとして、影山は緊張を解いた。頬を緩め、安堵してから即座に口元を引き締めた。
「起きろよ」
 彼の生存は確認出来たが、状況に変化はない。再び起こそうと声を荒らげ、影山は小鼻を膨らませた。
 体育館の鍵は開かない。
 人の声も聞こえない。
 日向がすぐそばにいるのに、何も出来ない。
「つまんねーだろ」
 一緒に走る事も、競い合う事も。
 ボールを追いかけ、床に落ちる前にその身で受け止める事も。
 高く跳び上がった彼の為に、トスを繰り出す事も。
 汗を流し、息を弾ませ、共に喜び、興奮を共有する事も。
 なにひとつ、果たせない。
 退屈だった。
 面白くなかった。
 隣にいるのに、ひとりぼっちは寂しかった。
「さっさと起きろって」
 声が聞きたかった。いつもは喧し過ぎて耳障りに思えるあの声が、今はどうしようもなく恋しかった。
 締め付けられるような痛みを覚え、影山は胸を掻き毟った。シャツを握りしめ、爪を立てて皺を作った。
 その動きが良くなかったのかもしれない。
 今まで日向を支えていた壁が形を変えた。寄り掛かる先が一部失われて、バランスを崩した身体が斜めに傾いた。
 人間の頭部は重い。重力に捕まった途端、地面目掛けて落ちるのは当然だった。
「だわっ」
 幸運だったのは、日向が倒れた先にまだ影山が居た事だ。彼は突然ぐらりと揺らぎ、落ちてきた重みに驚いて悲鳴を上げた。
 ドシンと来て、太腿に衝撃が走った。一度だけ弾んで落ち着いた塊に目を瞬き、影山は先ほどにも増して心臓をバクバク言わせた。
 飛び出そうになった唾を飲み、急に軽くなった右肩に戸惑う。空っぽになった空間に目を遣って肩を上下させ、続けて己の膝元に視線を落として頬を引き攣らせる。
「マジかよ」
 これでどうして起きないのか、心底不思議だった。
 愕然としながら、影山は人の膝で眠る少年に苦笑を浮かべた。
 腰を九十度に曲げて、体勢はかなり苦しいものだった。左腕は足元に垂れているが、右肘は影山の膝に引っかかっており、それが窮屈さを助長していた。
 明らかに呼吸がし辛いだろうに、眉間に皺が寄った程度で、瞼は開かれなかった。ぴくぴくと痙攣して、顰め面になりはしたけれど、それ以上の変化は見られなかった。
 驚くべき睡魔だ。幼少期に人形劇で見たおとぎ話を思い出し、影山は力なく肩を落とした。
 肩枕から、膝枕になった。
 日向の行動にはなにかと驚かされて来たけれど、これはまた格別だ。どこまで寝汚いのかと嘆息し、影山は背中を丸めた。
 肩を貸してやっていた時と違って、彼の顔は随分と見え易かった。
 横目でちらちら窺うのも疲れていたので好都合だが、眠る人間の身体は存外に重かった。そのうち血流が滞り、足先が痺れてしまいそうだった。
「どんだけ早起きしたんだ、テメーは」
 呆れてものが言えないとは、まさにこのことだ。
 揺すっても、叩いても目覚めない日向に驚嘆の息を吐き、影山は何気なく彼の髪を抓んで引っ張った。
 痛くない程度の力を込め、オレンジ色の毛先を擽る。いつも四方八方に跳ねているので固いのかと思いきや、手触りは意外に柔らかかった。
 長毛種の猫や犬も、触ったらこんな感じなのだろうか。近づこうとしても毎回逃げられる獣を想像し、彼は指先を引き攣らせた。
 興味が湧いた。
 好奇心が擽られた。
 空中で指を震わせ、彼は慌ただしく左右を見回した。一向にやってこない先輩や同級生に腹を立てつつ、今しばらくは来ないでくれるよう身勝手に願った。
 そうしてゆっくり時間をかけて腕を下ろし、日向の栗色の髪を擽った。
「お、おぉ……」
 思った通り、触り心地は抜群だった。
 少しチクチクするけれど、空気をたっぷり含んで弾力があった。長く陽射しに当たっていたので温かくて、いくらでも撫でていられそうだった。
 長年の夢をこんな形で叶え、感動に打ち震えて頬を紅潮させる。興奮に鼻息を荒くして、影山は何度も、何度も日向の髪を梳いた。
「んむ、ぅ」
 絡まった毛が引っかかるのも構わず、とにかく気が済むまで指を動かす。こんな機会は滅多にないと、十年分くらいの思いを込めて、両手を使って包み込む。
 ひっきりなしに頭を掻き回されて、流石の日向も眉を顰めた。
 けれど突っ伏しているので、影山には彼の顔が見えていない。眉間の皺も、不満げに歪められた唇も、優しい触感に夢中の彼は気付かない。
「……どゆこと、これ」
 気が付いたらこうなっていた。
 状況がさっぱり読めなくて、日向は目を閉じたまま低く唸った。
 声は奥歯で噛み潰し、訳が分からないと頭を悩ませる。その間も影山の手は止まらず、好き放題髪を弄り回した。
 辛うじて見える範囲に、エナメルバッグがあった。黒いスニーカーにも見覚えがあり、日向が乗っている膝の持ち主は影山で間違いなかった。
 朝練への一番乗りを狙って学校に来て、体育館が開いていない事実に呆然となった。仕方なく鍵当番が来るまで待つことにして、入口の前に座ったところまでは覚えている。
 影山がいつ現れたかは、記憶になかった。
 暇を持て余して待ち惚けているうちに、眠ってしまったのだろう。そして彼が現れて、隣に座って。
 この体勢になったのは、偶然か、必然か。
 巨大トランポリンで遊んでいた夢を振り返り、日向は蚤取りする猿と化したチームメイトに半眼した。
 起きていると教えてやるべきだろうか。
 だが彼の性格的に、それは良策と思えなかった。
「どうするよ……」
 今が何時なのかも分からない。変に身じろげば勘付かれるので、時計を見る事すら出来なかった。
 窮屈な体勢でじっとしていることを強いられて、おまけにずっと髪を弄られて、背中の辺りがむずむずした。
 頭を撫でられるのには慣れていた。身長が丁度良いのか、スパイクを決めたりすると、先輩たちは撫でながら褒めてくれた。
 けれど、影山は別だ。彼は何をしたって仏頂面のままで、日向を貶しこそすれ、褒めることはなかった。
 だからこそ、余計に戸惑わされた。
 どうしてこうなったのか、誰か説明して欲しかった。
 まさか本人に訊くわけにもいかず、考えすぎて脳細胞がショートしそうだった。一刻も早くこの状況から抜け出せるよう願って、日向は半泣きでぎゅっと目を閉じた。
「なんか、すげえな。おもしれえ」
 そんな彼の心境を知らず、影山は楽しそうに呟き、寝癖が残る髪を撫でた。
 掌で押し潰し、捏ねて、勢い余った指が頬を掠めた。ぷに、と爪先が一瞬だけ突き刺さって、日向はうっかり声が出そうになった。
「ふぐ」
 慌てて口を閉じ、息を我慢する。影山も急いで手を引っ込めて、数秒停止したかと思えば、何のつもりか本格的に小突いて来た。
 つんつんと突っつかれて、痛くはないが、鬱陶しかった。
 払い除けてやりたい。いい加減にしろ、と怒鳴りたい。
 人の顔を玩具にする馬鹿を許すのも、そろそろ限界だった。
 沸々と湧き起こる怒りに肩を震わせ、怒鳴りつけるタイミングを探す。そうとも知らない影山は徐々に指を置く時間を長くして、ふにふにと日向の頬を捏ねた。
「餅で出来てんのか?」
 ぼそっと独白が聞こえて、それで彼が執着する理由が分かった。
 髪の毛と同じで、感触が面白いのだ。柔らかくて、よく伸びるのが新鮮なのだ。
 そう言えば彼は大抵ぶすっとしており、表情は硬かった。
 常にあんな顔をしていたら、頬の筋肉も固くなるに決まっている。だから自分との違いに驚いて、興味を示したに違いなかった。
 とはいえ、日向からすれば迷惑なだけだ。むにむにと揉まれ、鼻を抓まれ、耳朶を引っ張られるのは耐え難かった。
 口の前に指が来たら、噛んでやろうか。
 物騒なことを想像して内心ほくそ笑んで、驚く彼を想像して頬を緩める。
 それが不自然に見えたのだろうか。影山が首を前に伸ばして、日向の顔を覗き込んだ。
「日向?」
「くすー……ぴー……」
 影が落ちて、暗さが増した。瞼が痙攣するのを必死に押し留め、彼は眠っているフリを続行した。
 ワザとらしいかと思いつつ、口をもごもごさせて、身じろぐ。猫のように背を撓らせて、丁度気になっていた髪を頬から払い除けて、力を抜いて影山に身を任せる。
 ずっと放り出したままだった左腕も回収し、左右揃えて重ねあわせた日向に、影山は神妙な態度を崩さなかった。
 ずっと見つめられてる気配がした。耳を澄ませば他人の呼吸音が聞こえて、影山の存在を強く意識させられた。
 距離が近すぎて、心臓がバクバクした。狸寝入りがいつバレるかヒヤヒヤもので、一秒として落ち着かなかった。
 疑われているのは間違いなかった。
 彼に起きていたと気付かれ、知られたら、どうなる。
 烈火の如く怒り狂うチームメイトを想像したら、背筋が一気に寒くなった。
 ごくりと唾を飲み、窄めた口から息を吐く。緊張を混ぜ込んで外へ追い出そうとするものの、なかなか簡単にはいかなかった。
 荒れ狂う鼓動が、影山に伝わっていなければいい。
 切に願い、日向は意識して全身から力を抜いた。
 注意を余所に向けた途端、身体を預けている場所が思いの外心地良いのに気付かされた。
 固くてゴツゴツしているけれど、温かかった。日向が起きないよう気遣ってなのか、上半身はともかく、下半身はさっきからまるで動いていなかった。
 両手でベタベタ触ってくるくせに、寝床代わりになっている腰から下は微動だにしなかった。高さも丁度良くて、一度は去った眠気が戻って来そうだった。
 影山の指が、恐る恐る日向の耳に触れた。外殻をなぞるように撫でて、ふわふわした綿毛のような髪を擽った。
 最初の頃に比べると、手つきは優しくなった。無理に絡んでいる毛先を引っ張ったりせず、引っ掛かりを覚えたらそこで止まり、脇に逸れていった。
 ぽん、ぽん、と撫でてくるリズムは安定しており、悪くなかった。大きな手で包まれる安心感は、幼少期に母と並んで眠った日を思い出させた。
 これは好きかもしれない。
 影山の意外な一面を垣間見て、日向は安らいだ笑みを浮かべた。
「ふふ」
 鼻から吐息を零し、くすぐったさに首を竦める。
 早く鍵当番が来ないかと、そればかり考えていたけれど、今はこの時間をもう少し楽しんでいたかった。
 気持ち良かった。
 練習中も、試合中でも、これくらい優しく接してくれたら嬉しいのに。
 想像して頬を緩め、どんな顔をしているのか確かめたくなった。
 気取られないよう注意しつつ、そうっと瞼を押し開けようとした直後だった。
「ぴゃあっ」
「おわ」
 首筋が突如冷たさに襲われ、油断していた日向は跳び上がらん勢いで悲鳴を上げた。
 何処から出ているのか、と言われそうな甲高い声をひとつ上げ、一瞬で鳥肌立った身体をぶるぶる震わせ、温める。萎縮して丸くなった彼を見下ろし、影山も反省して右手を顔の高さに掲げた。
 彼が触れたのは、首の付け根。
 脳に繋がる大動脈が通っている、その真上だった。
「冷たかったか?」
 独白し、影山は手首を振った。掌を顔に向けて首を傾げ、試しに自分の頬に押し当てるが、よく分からない。
 日向的には気を抜いていたタイミングで、弱い場所を撫でられて驚いただけだが、勿論起き上がって抗議する訳にはいかなかった。
 今のでさえ、起床済みだと気付かれなかった。最早ただの馬鹿かと内心呆れつつ、巧くやり過ごせたとホッとしていた矢先だ。
 指先に息を吹きかけて温めた影山が、満を持して先程と同じ場所を撫で始めた。
 頭でなく。
 頬でもなく。
 首を。そこから繋がる肩や、うなじを。
 ただ表面を軽く擦るのではなく、しっかり肌と肌を貼り合わせ、包むように。
 揉むように。
「ん……」
 今までと雰囲気が違った。ねっとりと絡みつくような指先にぞわりと来て、日向は漏れ出そうになった呼気を奥歯で噛み潰した。
 それでも堪え切れず、溢れた吐息が悪寒を増幅させた。どこか媚を売っているかのような、濡れて甘い声色に、鳥肌が立った。
 影山の太い指が喉に添えられた。顎の形をなぞり、窪みに指の背を宛がって、脈を測り、熱を掬い取ろうと蠢いた。
 急所を押さえこまれ、一抹の恐怖に背筋がゾクゾクした。腹の中心がきゅう、と窄まり、不穏な気配に神経が尖った。萎縮した心臓が轟音を響かせ、影山の指が向かう先を想像して脂汗が流れた。
 無意識に拳を固くして、日向は乱れる呼吸を懸命に宥めた。
「……は、ぁ」
 数ミリだけ開けた唇から息を吐き、熱を追い払う。いい加減影山にバレていても可笑しくないのに、追及の声は聞こえて来ない。代わりに乾燥し、皮が割れかかっている指が降って来た。
 ちくりと刺さる感触が下唇に添えられた。ゆっくり、ゆっくり動いて、指の腹全体が柔らかな肉に張り付いた。
 隆起を辿り、丘を登って、滑るように下って。
 急峻な渓谷に潜り込まれて、日向は反射的に噛み締めそうになった。
 顎に力を込め、唇を引き結ぼうとした。指ごと咥えて、飲みこみそうになった。
「っ」
 寸前で耐えて、前に出そうになった首を逆向きに引っ張る。影山が押してくる力を利用して、彼が動かした体を装って顎を引いた。
「やらけえ」
 汗が止まらなかった。
 ぽつりと告げられた感想がどういう意図を孕んでいるのか、日向には分からなかった。
 影山は頬を捏ねていた時のように人の唇を弄り、初めて味わう感触に背筋を粟立てた。
 どこもかしこも柔らかくて、温かくて、肌に吸い付くようで、快かった。
 ずっと触れていたくなった。
 もっと触れてみたくなった。
 服で隠れている場所も暴いて、全部。
 全部――
「ひなた」
 眠っていると信じている相手に呼びかけ、影山は首を伸ばした。背中を丸めて前のめりになり、天地逆になった前髪を地表目掛けて垂らした。
 動物的な衝動に突き動かされた。理由も、意味も考えないまま、彼は前傾姿勢を強め、寝入る日向を視界に収めた。
 呼吸を数え、口角を歪めた。舌を出して唇を舐め、甘く色づいている場所を親指で右から左へとなぞる。
 長く押し当てていた所為か、吐息を浴びた肌は湿っていた。微熱を抱き、疼いていた。
 この熱が欲しかった。もっと浴びてみたかった。
 どうすれば良い。想像して、彼は日向に見入った。
 雄の匂いがした。
 汗の香りが鼻腔を掠めた。
 吐息が肌を撫でた。
 間近で、影山を感じた。
 怖くて目を開けられなかった。心臓が破れそうに痛み、駆け回る鼓動が外に飛び出しそうだった。
 何が起きているのか。
 何が起きようとしているのか。
 確かめる術がなかった。思考は麻痺して、全身は居竦んで硬直していた。
 指の一本も動かなかった。押し退け、突き飛ばし、逃げる事は叶わなかった。
「か、っぁ……」
 名前を呼びそうになった。慌てて息を堰き止めるが、一歩遅く、喘ぎ声が零れた。
 唇が戦慄いた。ヒクつき、まるで自分から求めているようだった。
 そんなわけがない。
 有り得ない。
 こんなのはウソに決まっている。
 必死に否定するのに、頭の中では影山と唇を重ねる自分の姿が楽に想像出来た。
「ひなた」
 これは錯覚だ。吊り橋効果という奴だ。
 緊張しすぎてドキドキしているのが、別のものだと勘違いしまう、あの類でしかない筈だ。
 だから違う。
 絶対に違う。
 名前を呼ぶ彼の声に胸が締め付けられるなど、一時の気の迷いでしかない。
 掠れる小声が耳朶を打った。囁きが風を誘い、痙攣する唇を優しく包み込んだ。
 力が抜けるようだった。
 この瞬間を、ずっと待ち侘びていたような気分になった。
 流される。
 飲みこまれる。
 喰われてしまう。
「日向」
 唇に、熱が絡む――
 寸前だった。
「おっはよーっす!」
「っ!!」
「ぎゃああっ」
 傍目には舟を漕いでいる風に見えた影山がガバッと身を起こし、膝を跳ね上げた。そこに横たわっていた日向はもれなく蹴り出され、重心を崩して階段から落ちそうになった。
 咄嗟に目を開ければ、段差の角が目前に迫っていた。大慌てで手前にあった白い鞄に抱きついて、それをクッション替わりに突き出した。
 衝撃を吸収させ、そのまま上半身を下にして階段を滑り落ちる。砂埃が巻き起こり、星が飛び散って暫く息も出来なかった。
「いでっ、って、てぇ……」
「お、おい。大丈夫か、日向」
「ひ、ひ……このボケェ!」
「なんでえ!」
 影山の荷物を下敷きにして、大怪我だけは避けられた。最後の一段を残して停止して、彼は駆け寄ってきた田中と、立ち上がった影山の怒号に泣きそうな顔を作った。
 心配してくれるどころか、怒られた。照れ隠しだとしてもあまりに理不尽で、容赦なかった。
「悪い。寝てたんだな」
「ああ、はぁ。まあ……」
「死ぬかと思った。死ぬかと思った!」
 駆け寄ってきた田中には、影山の膝に寝転んでいた日向が見えなかったのかもしれない。大声で呼びかけたのを反省して謝罪して、話に応じたのは影山だけだった。
 心臓がバクバクする原因がなんなのか、さっぱり訳が分からなかった。癇癪を起して喚き散らして、日向は抱えたままだった影山の鞄を思い切り殴った。
 もう二度と、あんな目に遭うのは御免だった。
「だから、悪かったって、日向。許せ」
「田中さんが、来るの、遅いから!」
「わーるかったって。マジで。後でアイス奢ってやるからよ」
「やったー!」
「現金な奴」
「うるさい。影山のハゲ!」
 全ては、鍵当番である田中の登校が遅かったために起きた事。
 そしてあれは、全て夢の中の出来事。
 現実には何も起こらなかった。影山は日向を撫で回しもしなかったし、日向は彼に触れられて心地良いと思わなかった。
 なにもかも、嘘。
 すべては幻。
 速い鼓動は階段から落ちた衝撃の余波。顔が赤いのも、怖い思いをした所為。
「……アホ」
「うっせえ。ボケ」
 ぼそりと言えば、つっけんどんに返された。
 日向は影山を見なかった。
 影山も日向を見ようとしなかった。
 赤く火照った顔を押さえ、ふたりはしばらく黙って背を向けあった。

2014/12/15 脱稿