裏葉柳

 いつから、と訊かれても、絶対に答えられそうになかった。
 少なくとも昨日、今日の出来事ではない。具体的な日付は出ない。もしかしたら最初からかもしれないし、もうちょっと後だったのかもしれない。
 分かるのは、既に手遅れだと言う事くらい。
 胸に芽生えた感情を否定するのは難しく、拒めば余計に勢いを強めた。見ないフリをすればするほど足元は泥沼と化し、大人しく認め、受け入れるよう急かしてきた。
 嵌ってしまった。
 もう抜け出せない。
 ずぷずぷと深みに沈んでいく自分自身を脳裏に描き、影山は深く、長い溜息をついた。
「くっそ」
 悪態をつき、両手で挟み持ったボールに額を叩き付ける。ゴムの感触と臭いが素肌を伝い、そこに汗臭さが紛れ込んだ。
 辺りからはボールが床を打つ音、ゴム製の靴底が滑る音、雄叫びに近い掛け声、など等がひっきりなしに響いていた。
 鼓膜は常に震えて、電気信号に変換された騒音が脳を刺激した。しかし影山は外部からもたらされる情報を全てシャットアウトすると、唇を噛み、抱いたボールを頭上高く放り投げた。
 それを追う形で顔を上げる。緩めた唇を再度引き結び、腹に力を込めて天井ごと球体を睨みつける。
 ゴム底の靴で床を蹴る。スキール音が足元で駆けた。
 もう一歩、大きく足を、前へ。
「はあぁぁぁぁぁ!」
 腹の奥から声を絞り出し、吠えて。
 彼は思い切り地を蹴って、高く跳びあがった。
「――っしゃあ!」
 そうして勢いつけて腕を振り抜き、全体重をボールへと叩き付ける。ずしりと掌から手首一帯に掛かった重圧を跳ね除け、胸に渦巻くもやもやとしたものを悉くそこへと叩き込む。
 空気がうねった。渦を巻き、凄まじい速度で歪んだボールが空を奔った。
 文字通り、弾丸のようだった。
「うひょおっ」
 直後、ネットの向こう側から悲鳴があがった。ボール拾いに精を出していた山口が両手を挙げて飛び跳ねて、折角集めた数個を床に散らしていた。
 コロコロと転がっていく複数の球体に紛れ、影山が放ったボールも壁にぶつかり、跳ね返って止まった。
 ドン、ゴン、ガンッ、と連続した音がひと段落して、一瞬だけ場が静まり返った。誰もが荒れていると分かる男を遠巻きに見つめて、声を掛けるべきかどうか悩み、その役目を押し付け合っていた。
「なんか今日の影山、一段と気合い入ってんな」
「ストレス溜まってんでしょ」
「あの影山が? なにに?」
「……さあ?」
 更にその向こうでは、人を宥める役に不向きな人間が集まり、ひそひそ声で言葉を交わしていた。
 田中の独白に合いの手を挟んだ月島が、西谷から突っ込まれて肩を竦めた。興味がないとでも言いたげな態度で視線を浮かせ、物珍しげな様子で後輩を見詰める二年生にはため息を零す。
 実際、今日の影山はいつにも増して鬼気迫るものがあった。
 見るからに機嫌が悪そうだと分かるから、皆、空気を読んで近付こうとしない。だがわざとなのか、本当に分かっていないのか、約一名だけはいつも通りの姿勢を崩さなかった。
「おー、影山。なんかお前、今日、すっげえな」
 目下、烏野高校男子排球部は、一日の練習の〆とも言えるサーブ練習の真っ最中だった。
 涼を求めて開け放たれた窓の外はまだ僅かに明るいが、それもあと三十分ほどの猶予だ。太陽は地平線にキスしており、照れて隠れてしまうまで幾ばくもなかった。
 西の空は鮮やかな朱色に染まり、明日の快晴を約束していた。風は弱く、流れる空気は湿って重かった。
 日本の夏特有の湿度の高さに、人いきれが混じって、館内は蒸し暑い。何もしなくても汗は流れて、半袖シャツからは饐えた臭いがした。
 一球打ち終えた後の乱れた息を整えて、影山は暢気に話しかけてきた相手を振り返った。
 最早顔を見なくても、声だけで誰だか分かってしまう。すっかり聞き慣れたボーイソプラノは、十六歳の男子高校生らしからぬハイトーンだった。
 本当に声変わり済みかと疑いたくなる高音に肩を上下させ、影山は鼻筋を滴り落ちた汗を振り払った。
 かぶりを振り、口に入ろうとした塩水を弾き飛ばす。つられて湿った黒髪も踊り、襟足が頸部に貼りついた。
「別に。普通だろ」
 暑さを払い除けようとしたのに、却って暑くなった。鬱陶しくて邪魔な髪の毛を掻き上げて、彼は素っ気なく吐き捨てた。
 口調同様、明るく元気に話しかけて来た日向はそんな返答にも挫けず、握り拳を作ると胸の前で振り回した。
「ンなことないって。なあ。おれにもさ、教えてくれよ。ジャンプサーブ」
「はあ?」
 考えながら喋っているのか、彼の言葉は文節が前後して少々分かり辛い。最後まで聞いてから並び順を入れ替えて、影山は本人的には高めの、素っ頓狂な声を上げた。
 同時に首を右に傾がせ、目を丸くする。高い位置から見下ろされても、日向は興奮冷めやらぬ表情を崩さなかった。
 わくわくしながら見つめられて、影山は三秒停止してから頭を垂れた。
「教えたって、出来るワケねーだろ」
「なっ。んなことないぞ」
「ある。大体、テメー、アンダーハンドでも半分くらいミスってんじゃねーか」
「うわ、ったあ」
 心底呆れ果てて呟き、反発されても聞き入れない。逆に練習中でも頻発するミスを指摘してデコピンをおまけしてやれば、日向は後ろ向きにたたらを踏み、両手で額を覆い隠した。
 赤くもなっていない場所を庇って、彼は頬を膨らませて口を尖らせた。
「影山のけちー」
「ケチってねえよ!」
 窄めた口から息を吐き、出し惜しみするチームメイトを正面から詰る。影山は即座に反応して、声を荒らげた。
 唾を散らして怒鳴り、右の拳を振り上げる。だが振り下ろされることはなかった。日向も殴られるとは思っておらず、呵々と笑って踵を返した。
 高らかな笑い声を残し、体育館の端へ駆けていく。中断していた練習を再開しようとカラフルなボールをひとつ持ち、第二体育館の中央に張られたネットへと向き直る。
 呼吸を整え、意識を集中させる。彼もまた外部の音を遮断して、孤独な戦いに踏み出そうとしていた。
 横顔は凛々しく、勇ましく、なにかやってくれそうな雰囲気が漂っていた。
 けれど。
「せぃや!」
 かわいらしい掛け声の後、打ち放たれたボールは敢え無くネットに掴まり、真下へと滑り落ちて行った。
「あー……」
 もし今のがネット上辺ぎりぎりだったなら、上手くいけばネットインで、相手チームの意表を突けていたかもしれない。しかし残念ながら、ボールが当たったのは横に長い網のほぼ真ん中だった。
 あれでは奇襲じみた攻撃も不可能だ。むしろ公式戦でやろうものなら、観客の失笑を買うレベルだった。
 本番中でなくて良かった。近くで見ていた澤村の表情は、まさしくそう語っていた。
 苦笑する主将と目が合って、日向は恥ずかしそうに首を竦めた。
「まあ、……ドンマイ」
 控えめに励まされ、しょんぼりしながら頷く。それを斜め後ろから眺め、影山はハッとして首を振った。
 まただ。自分に向かって舌打ちして、彼はついつい目で追ってしまう相手に臍を噛んだ。
 いつの間にかこの瞳は、自然と日向を探すようになっていた。
 出会い方は最悪で、第一印象はあまり良くなかった。ヘタクソな癖に生意気で、バカな奴だと鼻で笑い飛ばしていた。
 だのに、あの一打で見方が百八十度ひっくり返った。
 急造チームのにわかセッターが上げた、バックトス。明らかなトスミスだというのに、そのボールに追いついた日向。
 瞬き一回分にも満たない、まさに一瞬の出来事だった。
 この時初めて、影山は彼を見失った。以来存在を追い求め、探し回る日々の連続だった。
「くっそぉ……」
 こんなはずではなかった。
 まさかこんな泥沼に落ちるとは、予想だにしていなかった。
 最初は、落ち着きがなくてそそっかしい馬鹿だから、見張っていないと何をしでかすか分からない――と言い訳をした。
 けれどそのうち、違うと気付いてしまった。
 日向が何をしていても、誰と居ても、気になって仕方がなかった。特に自分以外の誰かと談笑しているとモヤっとして、胃の辺りがむかむかした。
 体調が悪いのを真っ先に疑ったけれど、日向がひとりになれば、それはすぐに収まった。また彼に話しかけられると調子が上がって、コート内でのミスは大幅に減った。
 好不調の波が、日向によって大きく左右させられていた。その事実を自覚した時は愕然として、他者の影響を受けてしまう自分に絶句した。
 そんなに弱い人間になったつもりはないと突っぱね、有り得ないと自分に言い聞かせた。しかしこの感情を拒絶すればする程、身体は彼を欲しがった。
 決定打は、悪夢とも言うべき夢を見た事だった。
「なんだって、あんな奴に」
 奥歯を噛み締め、愚痴を零す。鈍痛を訴えるこめかみを軽く叩き、影山は脳裏に蘇ろうとした夢を追い払った。
 しかし一度気を向けてしまうと、もうダメだった。
 すべては手遅れだ。気を取り直してサーブを打ち込もうとする日向の姿に、今朝方に夢で見た、淫らに乱れた姿が重なった。
 直後。
「うわあっ」
 ゴッ! という凄まじい音に驚き、東峰が悲鳴を上げて仰け反った。
 真っ青になり、小心者らしくカタカタ震えて小さくなる。そんな彼の左斜め後ろでは、影山が、何を思ったのか壁に頭突きをお見舞いしていた。
 かなり良い音がした。相当痛かったはずで、彼の額は真っ赤だった。
「なんだ、どうした?」
「影山、大丈夫か?」
 ボールが床に落ちて跳ね返る時の音とは、趣が全く違っていた。周囲にいた部員たちも一斉にざわめいて、突然の暴挙に出た一年生に眉を顰めた。
 自虐的な行動に、誰しも戸惑いを隠せない。不思議そうに見守られる中で、騒動の張本人は徐々に膝を折り、頭を抱えて丸くなった。
「いってぇ……」
 今頃になって己の行動を後悔している彼に、息を潜めていた大半が一斉に噴き出した。
「おいおい、どしたー?」
「しっかりしろよ」
 田中と西谷が揃って腹を抱えて笑い転げ、菅原も困った顔で苦笑した。澤村は最低でも一日一度、問題行動を起こす一年生に頭を掻き、東峰は未だ青い顔で天才セッターを心配そうに見下ろした。
「大丈夫か、影山。なにか嫌な事でもあったか?」
 お節介に質問を投げかけ、蹲ったまま動かない後輩の肩を叩く。だが影山は答えず、じんじん痛む額を撫でて唇を噛み締め続けた。
 こうでもしないと、瞼の裏に焼き付いた映像が消えてくれないのだ。
「へーき、っす」
「なにか悩みがあるなら、聞くぞ? あ、でも俺じゃ、なんの役にも立てないかもだけど……」
「おーい、旭。出来もしないこと言って後輩困らせるんじゃないよー」
「えええ、大地。そりゃないよ~」
 しつこく話しかけてくる東峰をどうにかしようと、大丈夫だと強がるが効果は薄い。ただチーム随一の気弱なエースは、その性格故に勝手に墓穴を掘り、友人に窘められて泣きそうな声を上げた。
 ちくりと突き刺さった嫌味に抗議するが、したたかな主将は笑ってやり過ごした。にこやかに手を振って誤魔化されて、東峰は意識の矛先を澤村に変更した。
 お蔭で深く追及されずに済んだ。内心ほっとして、影山は熱を持った箇所をそうっと撫でた。
 手加減する余裕すらなかったけれど、幸か不幸か、腫れてはいなかった。
 こんなところに瘤が出来ようものなら、目立って仕方がない。五分もすれば痛みも、赤みも消えると判断して、彼は冷たくて硬い壁にため息をついた。
 それもこれも、全部、日向の所為だ。
 いや、現実問題、彼には何の罪もない。ただ影山が、自身の心の奥底に抱いている感情を、上手く消化できずにいるだけで。
 今朝のような夢を見たのも、思春期の熱情を限界まで溜め込んだ結果だった。
 汚れた下着を朝一番に洗面所で洗う生活など、慣れたくなかった。
 誰にも言えず、相談も出来ないまま、鬱憤だけが蓄積されていく。そのうち爆発してしまいそうで、それがなんとも恐ろしかった。
 自分の性格は、自分が一番良く分かっている。積み上げられた不満や鬱屈した感情は、いつか勝手に堰を破り、外へ飛び出して行ってしまうものだ。
 中学時代の二の轍を踏みたくないのに、同じことを繰り返す未来しか見えない。だから余計に憂鬱で、気が滅入って仕方がなかった。
「マジでなんとかしねーと」
「なにを?」
「~~~~~~~っっっ!」
 心底困り果て、ひとり、呟く。
 刹那、ひょっこり横から覗き込まれ、影山は口から心臓を吐きだしそうになった。
 声にならない声で絶叫して、切れ長の目を大きく、丸く見開く。頬を引き攣らせて総毛立って、咄嗟に距離を取ろうとして肩から壁に激突する。
 ドスン、バタンと騒々しい彼に、練習を再開していた上級生は揃って苦笑した。
「今日の影山は、ちょっとおかしいな」
「いやいや、いつもあんな感じですよ」
「それもそっか。あんまり暴れんなよー」
 壁に背中を預けて尻餅をつく一年生に、菅原と月島が爽やかに感想を述べ合った。最後におまけとして一応注意だけして、男子排球部副部長は項垂れる影山にのっこり微笑んだ。
 白い歯を見せながら親指を立てられたが、どういう意味なのか、さっぱり分からない。ただ馬鹿にされたような気がして不貞腐れていたら、眉間に皺を寄せた彼の真正面に、ずい、と日向が割り込んできた。
「うっ」
 視界を埋め尽くすほどの近さに、影山は発作的に息を呑んだ。
 日向の身体が壁となり、光が遮られて辺りが暗くなった。額だけが赤かった顔はいつしか頬や首筋まで色を強め、引きかけていた熱が戻って全身を覆い尽くした。
 湯気さえ出そうな雰囲気に、日向はきょとんとしながら首を傾げた。
「お前、熱でもあんじゃね?」
 異様に赤らんだ顔と、緊張で強張った頬。脂汗が止まらず、首筋は湿って粘ついていた。
 そんなチームメイトを訝しんで、日向は確かめようと手を伸ばした。
「さっ、触んな」
 熱を測るべく触れようとした彼に、影山は慌てて叫んだ。
 同時に小さな手を払い除け、距離を稼ごうと壁に縋りつく。滑る靴底で何度も床を蹴り、叩かれて不満そうな日向に奥歯を噛み締める。
 折角忘れかけていたのに、間近で顔を見た途端、夢の中の彼が蘇ってしまった。
 それは口に出すのも憚られるような、男の願望が形になった、卑猥な光景だった。
 一糸纏わぬ姿でベッドに横たわり、とろんとした目で情欲に喘いでいた。絹のような肌はしっとり汗で湿り、触れればちゃんと温かかった。
 声は聞こえなかったが、口は動いていた。切なげに細められた眼や、何度も同じ形を刻む唇に、心が擽られた。
 全て妄想だ。
 夢の世界の出来事だ。
 しかし妙にリアルすぎて、目覚めた後もすぐに夢だと分からなかった。隣に日向が居ない事に真っ先に驚いて、それからようやく、全ては空想の産物だと理解した。
 下半身もしっかり反応していて、起床早々気が滅入って仕方がなかった。よりにもよって、と自分に呆れ、そうならざるを得ない心境にため息が止まらなかった。
 同時に良心の呵責も覚えて、日向を直視できなかった。
 だというのに目は自然と彼を探し、追いかけて止まない。話しかけられれば心が躍り、手と手が触れようものなら心臓が飛び出しそうになった。
 体温は急上昇して、汗が止まらなかった。火照った身体は甘く痺れ、高速で回転する鼓動はいつ弾け飛んでもおかしくなかった。
 熱を持ち過ぎた脳みそがオーバーヒートして、思考回路は完全に焼き切れていた。
「触らなかったら、熱があるか分かんないだろー」
「熱ならある。俺は平熱だ。気にすんな」
「いや、だから……も~~」
 手を跳ね除けられた日向が不満げに口を尖らせた。それに皮肉めいた台詞で応じれば、何かを言いかけた彼は途中で諦め、ぶすっと頬を膨らませた。
 脱力して床に直接腰を下ろし、日向は立てた膝に顎を置いて影山を睨みつけた。
 三角に折り畳んだ脚を両手で抱いて、背中は丸めて身体は小さく。元からコンパクトな体格を一層縮めて、物言いたげな眼差しで正面からチームメイトをねめつける。
 その愛くるしい態度に戦いて、影山はもう下がれないというのに、尚も後退しようとした。
 壁に背中を押しつけて足掻いている男を見上げ、日向はぶすっとしたまま両手を膝小僧の脇へ移動させた。
 顎の位置は変えず、両サイドから頬を支えるような形に作り替える。猫背は益々酷くなり、可愛らしさは激増した。
 分かっている。全ては贔屓目だ。
 実際、日向はそれほど可愛くない。華奢な体格ではあるが骨格はちゃんとした男子のものだし、贅肉がほぼゼロなので、触れてもさほど柔らかくなかった。
 それでも、惚れた弱みというものは確かに存在した。恋は盲目という言葉もある。たとえ日向がどんな変顔をしても、全て可愛いと思える自信すらあった。
 底なし沼に落ちていく自分を連想して、影山は右手で顔半分を覆い隠した。
「マジで、なんでもねーから」
「そうかあ?」
「しつけーぞ」
「だって、月島が」
 必死に隠しているけれど、理性の箍は今にも外れてしまいそうだった。
 なんとか追い払おうとして、到底信じてもらえそうにない台詞を呟く。当然日向は疑って、首を傾げながら視線を余所向けた。
「あ?」
 彼の口から零れ落ちた不快な音色に、影山は反射的に食いついた。
 今までの人生で一番低い声を出し、こめかみの血管をピクリとさせる。頬は強張り、全身を覆っていた熱は一瞬にして冷めた。氷水を浴びせられたかのように頭はクリアになって、数秒前の狼狽具合が嘘のように落ち着いていた。
 瞳はごく自然に右へ流れ、遠くで意味深に笑っている男を捕えた。
 部内で一番背が高いミドルブロッカー、月島蛍。彼はふたりの視線を敏感に察知し、口角を持ち上げて不敵な表情を作った。
 だが日向は気付かず、すぐに影山へ意識を戻した。
「月島の奴が、お前が、おれの所為でヨッキューフマンになってるから、なんとかしてやれって」
「はいぃ?」
 不遜な笑みに瞠目していた当人は反応が遅れ、話しかけられて我に返った。慌てて日向に向き直り、影山は素っ頓狂な声を体育館内に響かせた。
 練習に励んでいた面々が、突然の大声に一斉に振り返った。ただひとりの例外が月島で、彼は両手でボールを抱え、そこに額を押し当てて肩を震わせていた。
 噴き出したいのを必死で堪えている様子に、影山は再び真っ赤になって右往左往した。
 日向に変なことを教えた月島を怒鳴りたいが、そうすれば影山の感情が皆に知られてしまう。かと言って黙ったままでいたら、変人扱いが酷くなるだけだ。
 にっちもさっちもいかなくて喘いでいたら、日向が気難しい顔をして肩を落とした。
 虚空を掻き毟っていた手を休め、影山は様子が一変したチームメイトに眉を顰めた。
「日向?」
「おれ、……もっと、がんばるな」
「は?」
 神妙な態度で言って、彼は突然ガッツポーズを作った。腹に力を込めて気合いを入れ直し、固い決意を表明して鼻から荒く息を吐いた。
 いったいどこから、もっと頑張る、という結論に至ったのか。影山の欲求不満が日向の決心とどう関係するのか分からずにいたら、彼はニッ、と笑って白い歯を見せた。
 反則的な可愛さに、変な声が出そうになった。
「……っ!」
 反射的に右手で口を塞いだ影山を疑いもせず、日向はきらきらの笑顔で目尻を下げた。
「だーかーらー。おれ、影山がヨッキューフマンにならねーように、お前のトス、もっとちゃんと打てるようになるからさ」
 目下、日向のスパイクには二通りのパターンがあった。
 片方は目を瞑り、思い切り腕を振る日向に対し、影山がピンポイントでトスを合わせるスパイク。
 もう片方が、空中に放られたトスに対し、日向側が合わせるスパイク。
 前者については、影山の集中力が切れない限り、コンビネーションが狂う事はない。しかし後者だと、日向にも一定の力量が求められた。
 今現在の課題は、日向が空中でボールに対応出来るようになること。これが上手くいけば、彼の攻撃の幅は大きく広がるはず。
「な?」
 にこやかに同意を求められて、影山はぽかんとしたまま目を瞬いた。そのまま月島を探して首を左に振り、見つけられなくて一瞬で諦めて、日向に向き直る。
 要するに彼は、影山の欲求不満の原因を、トスワークが上手く行っていないところにあると解釈したのだ。
 自分が同じ失敗を繰り返すので影山が苛々しているのだと、月島の言葉をそんな風に読み解いたのだ。
「お、……おう」
「へへへ~」
 なんという前向きな勘違いだろう。しかしその馬鹿さ加減に、今日は大きく助けられた。
 苦心の末に相槌を打って、影山は赤ら顔で頷いた。日向は嬉しそうに頬を緩め、両手で膝を叩き、背筋を伸ばして立ち上がった。
 汚れてもいないズボンを払って埃を落とし、後方を振り返る姿は凛々しかった。
 彼を見上げる機会は滅多にない。こんな光景も偶には悪くないと思っていた矢先、腰の捻りを戻した日向がおもむろに手を伸ばしてきた。
「やろーぜ、練習。続き」
 早く立つよう促して、起き上がる手助けをしようと手を差し伸べる。
 その小さな掌と、彼の顔とを交互に見比べて、影山は抑えきれない感情を噛み締めた。
「ああ、そうだな」
 声を絞り出し、小さな手を取る。
 今ここで腕を強く引けば、軽い日向は呆気なく倒れ、影山の胸に身を沈めるだろう。その華奢で温かな体躯を、ごく自然に抱きしめられるはずだ。
 日向は怒るだろうが、ちょっとした悪戯と誤魔化すのは容易い。騙され易い彼は、素直に信じるに違いなかった。
 けれどそれをして、歯止めが利かなくなるのが怖かった。
「よーい、しょっ」
 かわいらしい掛け声をあげ、日向が両足で踏ん張った。影山も壁を押して、自分の力で身を起こした。
 出来ない。
 出来るわけがない。
 日向の笑顔を壊してまで、自分の思いを押し通せる筈がない。
「……くそっ」
 どうして彼を好きになったりしたのだろう。
 最早掻き消すなど不可能な感情に歯を食い縛り、影山はチームに合流すべく、大きく足を踏み出した。

2014/12/07 脱稿