榛色

 不幸というものは、どうやら群れを成して生活しているらしい。
 ひとつ不運なことが起きたと思えば、ツイていない事が次々と、立て続けに起きる。最初はなんの冗談かと思ったが、こうも頻発されると、誰かに呪われているのでは、と怖くなった。
 広げた弁当箱を前に途方に暮れて、影山は天を仰いだ。
 頭痛を覚えて額を覆い、ゆるゆる首を振って俯くが、見える景色は変わらない。本来そこにある筈のものは見つからず、行方不明なままだった。
 いや、行方は分かっている。
 探すまでもない。居場所は明確だ。
 問題なのは、それが簡単に取りに行けないところ、という一点だった。
「なんでだよ……」
 悔しさに拳を作り、思い切り自分の膝を殴る。弾みで腿の上に置いていた弁当箱が揺れて、傾いて落ちそうになった。
 それを慌てて堰き止めて、彼は再度、溜息を吐いた。
 陰鬱な気持ちが押し寄せて来て、食欲が湧かない。直前まであれだけ楽しみにしていた昼飯が、今は堪らなく不快だった。
 力なく肩を落として、影山は晴れ晴れとした空を憎らしげに睨んだ。
 太陽は植樹に隠され、この位置からは見えない。屋外ではあるが日蔭なので涼しく、寛ぐには快適な場所と言えた。
 しかし吹き付ける穏やかな風も、慰めにはならなかった。
 歯軋りして、鼻から吸った息を口から吐く。胸に渦巻く感情は黒一色に染まり、油断すると外に溢れ出しそうだった。
 子供が見たら泣き出しそうだ。野良猫も尻尾を巻いて逃げていくに違いない。
 凶悪な形相になっている自覚はあったが、影山自身、どうする事も出来なかった。
 顎が砕ける寸前まで力を込めて、最後にがっくり肩を落とし、またもやため息を。視線は足元を這い、無機質なコンクリートを映し出した。
 灰色に染まった世界を眺め、彼は解いたばかりの包み布を撫でた。
 大判のハンカチで包まれた昼食が収まった容器は、弁当箱というよりは、ただのタッパーだった。
 半透明の入れ物は本来惣菜や野菜を保存しておく為のもので、しかも容量は売られている中で最大サイズだった。そこに白米がぎっしり、隙間なく押し込められて、副菜の類はサイズ違いの別のタッパーに入れられていた。
 中学時代から愛用していた弁当箱では量が足りないと言ったら、翌日からこれになった。母親があちこち探し回ってみたものの、あれより大きなものがだったとかで、妥協の末の結論だった。
 影山としても、沢山食べられるのは嬉しい。朝早くから部活で汗を流し、放課後遅くまで居残って練習する高校生は、成長期もあって、胃袋がとにかく巨大だった。
 反面、タッパーは見た目があまり宜しくなかった。
 影山自身はあまり気にしていなかったが、クラスの女子がクスクス笑うのだ。食堂でも似たような経験をさせられて、本人よりも、一緒に箸を動かす相手が嫌がった。
 堂々と飯が食える場所を求め、方々を探し回った結果がここだ。食事を終えてすぐ動けるのも、ふたりにとっては利点だった。
 難点は雨が降ると使えない事か。
 あとは、風が強い日も無理だ。
 今日はその両方に見舞われなかった。それだけが救いだと肩を竦め、影山は背後に迫る第二体育館を振り返った。
 彼が腰かけているのは、体育館入口にある短い階段だった。
 すぐ左には水道があり、右には木製の下駄箱があった。今は誰も使っていないので、中は空っぽだった。
 それらを順に眺め、影山は憂鬱な表情で頬杖をついた。
「食堂行ってくっかなあ」
 ぼそりと独白し、その方角を向く。もっとも食堂は建物に遮られ、この位置からでは見えなかった。
 前を向けば部室棟があるが、そちらは静かなものだった。
 こんな時間まで、汗臭い部屋で過ごしたくないのだろう。備品なども置かれているので、そちらもモノによってはかなり臭うはずだ。
 その匂いが好き、という人も中にはいるけれど、数は少ない。影山はその少数派に分類されるが、あそこに居ると食後に眠ってしまう危険性が高かった。
 それで午後の授業を遅刻したことが、過去に数度、実際にあった。三度目で主将に知られてしまい、こっぴどく怒られた。
 以来、極力避けている。但し雨の日は別だ。
 人の気配が乏しい空間にぽつんと佇み、影山は口を尖らせたまま頭を揺らした。
 いつも昼休みを共に過ごす相手は、直前の授業が体育というのもあり、到着が遅れていた。
「日向の奴が来る前に、戻ってこれっかな」
 今頃大急ぎで階段を駆け下りているだろうチームメイトを思い浮かべ、もう一度食堂の方を見る。けれど度重なる今日の不運を考えると、動く気になれなかった。
 これ以上悪いことは続かないと信じたい。しかし保証はなくて、不安ばかりが足元に居座った。
「はー……」
 本日何度目か知れないため息で空気を掻き混ぜ、影山は頬杖を解いて腕を伸ばした。
 弁当を落とさないよう注意しつつ、背筋を伸ばして骨を鳴らす。もれなく肩の辺りに小気味の良い音が響き、凝り固まった筋肉が弛んだ気がした。
 そのまま座って出来るストレッチをいくつか終えて、最後に肩を回していたら、近付いてくる人影が見えた。
 間違いなく、日向だ。
 遠くからでも分かるオレンジ色の髪を確かめ、影山は重いタッパーを撫でた。
 今日は朝から色々あって、散々だった。
 起床後の習慣で、朝練の前のジョギングに行こうとしたら、結んだ靴紐が突然切れた。
 仕方なく替えの靴で外に出たら、心無い飼い主が放置した犬の糞を踏んだ。
 タイミングの悪さを呪いつつ、当初の目的通り近所を走っていたら、今度は電線にとまっていた鳩の糞が頭に落ちた。
 流石にこれにはキレた。とはいえ、相手は言葉の通じない動物だ。激昂する影山を余所に、粗相をした鳩は悪びれもせず、どこかへと飛んで行った。
 行き場のないやり場を堪え、家に帰った。風呂ではなく洗面台で頭を水洗いして乾かしていたら、着替える時間がなくなってしまった。
 慌てて家を飛び出して、なんとか朝練に間に合ったが、忘れ物が多かった。鞄の中身も昨日の時間割のままで、教科書が足りなかった。
 そしてトドメの、弁当だ。
 これは母の失態だが、苦情を言う気力も残っていない。彼女も毎日早くから起きて、息子の為に頑張ってくれているのだ。
 面と向かっては照れ臭くて言えない、感謝の言葉を小さく呟く。それから息せき切らして現れた、小柄な少年に視線を向けた。
「あれ?」
 肩を上下させて、日向はきょとんと目を丸くした。
 てっきりもう食べ始めていると思っていた。そう言いたげな表情を見せられて、影山はばつが悪い顔でそっぽを向いた。
 首筋に流れる汗を光らせて、日向が眉を顰める。けれど影山は応えず、面白くなさそうに弁当の包みを小突いた。
 注意して見るよう促され、彼は残る距離を詰めて身を屈めた。
 腰を曲げた日向から、ほんのり汗の匂いが漂った。
 直前までグラウンドで、思い切り動き回っていたからだろう。碌に身体を拭きもせずに出て来たらしく、臭気は強めだった。
 日向特有とも言える体臭に顔を赤らめ、影山は不思議そうにしている彼に向け、再度弁当箱を突いた。
 しかし少年は分からないようで、頻りに首を傾げては口を尖らせた。
「なんなんだよ」
 未開封のタッパーには、山盛りの惣菜が詰め込まれていた。梅干が三つ並ぶ白米も見える。相変わらずボリューム満点で、美味しそうだった。
 豪勢な料理を自慢したいのかと腹を立てるが、影山から聞こえてくるのは溜息ばかり。何を考えているのかさっぱり意味不明だと憤っていたら、彼は諦めたのか、両手を広げた。
 何かを持つ仕草をして、肩を竦める。
 一連の動作に思う所があって、日向は眉間の皺を深めた。
「あっ」
 直後。
 オコジョのイラストが描かれた弁当包みを揺らし、彼は手を叩き合わせた。
 雑誌などの巻末に掲載されている、間違いさがしのクイズを思い出した。同じ絵が並んでいるようで、どこかが微妙に違っている。それを全部見つけ出せ、というアレだ。
 この場合は、過去の影山と比較すればすぐに分かった。
 彼の荷物には、ひとつ、大事なものが欠けていた。
「バカだなー」
「うるせえ。俺が悪いんじゃねーぞ」
「そんで拗ねてたんだ?」
「……黙れよ」
 気付いた途端、笑えて来た。声を高くしてケタケタ言えば、影山は膨れ面で小鼻を膨らませた。
 体育館前の階段に腰かけて、背高の青年は機嫌悪そうに猫背になった。
 身長百八十センチでそんな真似をされても、少しも可愛くない。愛嬌が足りない天才セッターを前に苦笑して、日向は背伸びをして食堂の方角を見た。
「取りに行きゃいいのに」
「…………」
 直前まで影山が考えていたことを、彼も声に出した。
 足りていなかったのは、箸だ。弁当箱になら仕切り蓋などに詰めておける空間があるが、タッパーにはそれがない。だから箸箱が別に必要だった。
 ところが影山の手元には、その箸箱が見当たらなかった。
 入れ忘れだろう。日向も、母がたまにやってくれるので、彼の気持ちは分からないでもなかった。
 誰もが思いつくアイデアを述べた少年を一瞥して、影山は不満そうに爪先を揺らした。
 右足を宙に投げ出し、足首をぶらぶらさせる。ぴったりサイズの靴は踵が外れる事もなく、彼に寄り添い続けた。
 長さを自慢しているわけではなかろう。不貞腐れた態度を見下ろし、日向は肩を竦めた。
「大丈夫だって。朝から二回も食らったんだろ?」
「野良猫のが落ちてたらどうすんだ」
「逆にウンがついていいじゃんか」
「縁起でもない事言うな!」
 今朝、彼の身に起きた出来事は、朝練の時点で部内全体に知れ渡っていた。
 誰よりも早く登校してくる彼が、珍しく遅れて来たのだ。皆が理由を知りたがるのは当然だった。
 しかも影山は口下手で、人に説明をするのが苦手だ。隠し通すなど不可能で、言わなくて良いことまで口にして、洗いざらい全部白状させられた。
 みんなに大笑いされた恨みが、少なからず残っているのだろう。不満たらたらに怒鳴られて、日向は苦笑を禁じ得なかった。
 食堂へ割り箸をもらいに行けば、問題は解決だ。往復には五分とかからない。何だったら日向もあちらに出向き、片隅で食事をしても構わなかった。
 だというのに影山は立ち上がらず、動こうとしなかった。
 二度あることは三度ある、という言葉があるように、今朝と同じことがまた起きるのを危惧して、身動きが取れないのだ。
「ばっかでー」
「だったら、テメーが取って来いよ」
「やだよ。なんでおれが」
 臆病風に吹かれている影山を笑い飛ばし、日向は胸を張った。
 箸箱喪失事件は影山家の問題で、日向には関係がない。彼の為に食堂まで走って取って来てやる道理はなく、押し付けられる意味が分からなかった。
 即答で拒否した彼を睨み、影山は腹立たしげに段差の角を蹴った。
「手づかみで食えば?」
「出来るか!」
 犬食いを促されるが、承諾できるはずがない。大声で怒鳴り返された日向は渋面を作り、面倒臭そうに首を振った。
 膝を折って隣に座ると、体格差ははっきり表れた。
 肩の位置が揃わないのに顔を顰め、彼は不貞腐れているチームメイトのこめかみを指の背で叩いた。
「なんだよ」
 それを嫌そうに払い除け、影山が低い声を響かせる。凄味の利いた声色を呵々と笑い飛ばして、少年は飄々としながら弁当の包みを解いた。
 出てきたのは、二段重ねの弁当箱だった。
 縦長の長方形で、ゴムバンドでずれないよう固定されていた。それも外して手首に通して、日向は蓋と一緒に上段を持ち上げた。
「ったく。しょうがない影山君には、おれの箸を貸してあげよう」
 言って、中敷きに収まっていたプラスチック製の箸を取り出す。
 影山は驚き、目を丸くした。
「はあ?」
 自分が何を言っているのか、日向は本当に分かっているのだろうか。
 それがないと、日向だって弁当を食べられない。手持無沙汰で待つつもりかと唖然としていたら、赤い頬がぷっくり丸く膨らんだ。
「勘違いすんなよ。おれが食べ終わってからに決まってんだろ」
「あ、ああ……」
 叱られた。当たり前だろうと責められて、影山は返す言葉がなかった。
 思い上がっていたと反省し、彼は力なく肩を落とした。
 これで昼食を終わらせられる算段はついたが、待たされるのは苦痛だった。意識した途端に腹の虫が鳴いて、聞こえた日向も顔を顰めた。
 白色の箸をぺろりと舐めて、彼は落胆している隣人を盗み見た。
 広げた弁当箱は、影山のものと比べるとサイズは小さめながら、中身は彩に溢れていた。
 自宅で採れた野菜に、新鮮な卵で作った卵焼き。梅干は自家製で、色合いは薄めだった。
 贅沢な品々を前に涎を飲んで、日向はいただきます、と両手を合わせた。
 食事前の儀式を終えて、早速白米へと箸を向ける。
「あーん」
 ぎっしり詰め込まれた塊を解して抓み取り、大きく口を開いて。
 突き刺さる視線は、真横から放たれた。
「……んだよ。大人しく待ってろよ」
「うるせえ」
 一口頬張ってから文句を言えば、睨んでいた影山はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 今の彼は、お預けを言い渡された大型犬だった。
 しかも飼い主に反抗的な、生意気な性格に育った犬だ。見た目も中身も凶暴で、巨体に任せてすぐ人を押し倒そうとする。
 どうしてこんな風になってしまったのだろう。
 育て方を間違えたと悔やみかけて、日向はゆるゆる首を振った。
「あほくさ」
 出会ってまだ半年も経っていない相手について、あれこれ日向が思い悩む理由はない。
 第一箸を忘れて来たのは影山の確認不足であり、彼の責任だった。
 自分はなにも悪くない。寛容の心で使い終えた後の箸を貸してやろうとしているのだから、逆に褒め称えられるべきだ。
 胸に渦巻く罪悪感を追い払い、ふた口め、三口目と次々米と、副菜を頬張っていく。ただ食べる速度は、いつもより急ぎ気味だった。
 横からじっと見つめられる中での食事は、かなりやり辛かった。
「んもう。こっち見んな」
「俺の勝手だろうが」
「貸してやんねーぞ」
「ぐ……っ」
 十口目に届くかどうかというところで、痺れが切れた。辛抱堪らなくて癇癪を爆発させて、日向は口答えする影山を黙らせた。
 こちらには、箸という重要なアイテムがある。これを人質にしている限り、彼は日向に逆らえなかった。
 王様を難なくやりこめるなど、初めてかもしれない。悔しそうにしている彼を眺めるのは、なかなか気分が良かった。
 勝ち誇った笑みで鼻を高くして、日向はぐうの音も出ないでいるチームメイトに肩を揺らした。
「さーって、次は何食べよっかな~」
 調子に乗り、歌うように囁く。迷い箸で行儀悪く副菜を選んで、から揚げに標準を定める。
 食べる前から美味しそうだと涎を垂らし、日向は大きく口を開いた。
「あー……」
「くそがっ」
「んぎゃあ!」
 直後だった。
 持ち上げたから揚げを、腕ごと奪い取られた。
 我慢出来なくなった影山が、横から強奪していったのだ。箸を持つ日向の手を握りしめて、大きく身を乗り出したかと思えば、から揚げを丸ごと飲みこんでしまった。
 一瞬の出来事で、防ぐなど不可能だった。
 思ってもなかった展開に唖然とし、日向は吐き出された箸をカチカチ言わせた。抓んでいたものは綺麗さっぱり消え失せて、空気だけがそこに漂っていた。
 呆気に取られ、目が点になった。影山はといえば雑な咀嚼でから揚げを嚥下して、満足げに息を吐いた。
 ゲップが聞こえて我に返り、日向はしたり顔の男に騒然となった。
「ちょおおおぉぉぉぉぉ!」
「ケッ」
 抗議の声を上げるが、影山の態度は生意気だった。偉そうにふんぞり返っており、完全に開き直っていた。
「しっ、信じらんねえ。なにすんだよ。おれのから揚げ、返せ!」
 攫われていったのは、食べるのを楽しみにしていた一品だった。形が歪なのであまり量が詰められず、入っていても二個までの、貴重なおかずだった。
 それを横から持っていかれて、許せるわけがない。激昂して怒鳴り散らした日向だが、影山は何処吹く風と受け流した。
 まるで馬の耳に念仏を唱えているようだ。右から左に抜けていっているのを感じて、彼は力なく肩を落とした。
「なにすんだよ、もー」
「テメーがさっさと食い終わんねーのが悪い」
「はああ?」
 後がっくり項垂れていたら、偉そうに言い切られた。自分の罪を棚に上げて人の所為にする男が信じられなくて、日向は素っ頓狂な声を上げて仰け反った。
 限界まで目を見開き、惚けた顔で影山を見詰める。奇怪なものに向けるのと同じ視線を浴びせられて、彼は不満げに口を尖らせた。
 指は苛立たしげにタッパーの蓋を叩いていた。辛抱が利かないところは王様然としており、日向を呆れさせた。
「嫌なら、食堂行って来いよ」
 こちらはあくまで、善意の申し出だったのだ。それが嫌だと言うのなら、割り箸をもらいに行けばいい。
 誰も止めたりしない。行くも、行かないも、影山の自由だ。
 愛想を尽かし、突き放す。犬猫を追い払う仕草で手を振られて、彼は不満そうに顔を顰めた。
 だがそれでも、影山は腰を浮かせたりしなければ、弁当を片付けようともしなかった。
 梃子でもここを動かないつもりらしい。頑固で融通が利かない男にため息を重ね、日向は一瞬悩み、何も抓んでいない箸を口に咥えた。
「ふぉれ、かふぇ」
 食事を中断させられて、正直いい気分はしない。偏屈で意固地な男を隣に置いたまま、落ち着いて食べ続けるのも無理だ。
 どこまで面倒のかかる男だろう。ランドセルを背負って学校に通っている妹の方が、ずっと大人な気がした。
 ふたりを比較して、危うく噴き出しそうになった。我慢して首を竦めていたら、弁当を指差された青年が怪訝な顔をした。
 良く聞き取れなかったと表情が告げていた。仕方なく日向は箸を外し、掌を上にして左右揃えて差し出した。
「弁当、貸せって」
「はあ?」
「影山、何からいく?」
「なに言ってんだ、日向」
「あ、この出汁巻美味そう。一個もらうな」
「ちょっと待て。誰もお前にやるなんて」
「おれのから揚げ、食っただろ」
「うぐ……」
 それでも理解が追い付かないでいる影山に焦れて、強引にタッパーを奪い取る。副菜が詰められた小さい方だけ確保して、日向は早速蓋を剥がすと、彼が止める前に卵焼きを抓み取った。
 甘目の味付けがじわっと口の中に広がって、柔らかな食感が堪らなく美味しかった。
 反論を封じられて押し黙った影山は、代わりに弁当を取り返そうと手を動かした。しかし予測済みだった日向はさっと躱して、残り一個になった出汁巻を箸で挟んだ。
 柔らかいので、真ん中で切れてしまいそうだ。注意深く力を加減して持ち上げて、彼は虚を衝かれた男に「ほら」と差し出した。
 いきなり黄色い物体を突き出されて、影山は面食らって呆然となった。
 驚いて真ん丸に目を見開き、何度か瞬きをして近くから遠くへ焦点を入れ替える。厚く焼いた卵焼き越しに見つめられて、日向は呵々と笑って肩を揺らした。
 早く食べろと箸を揺らされ、影山はぐっと息を飲んだ。咥内では唾が溢れ、空腹の虫がきゅうきゅう泣き喚いた。
 男のプライドと、食べ物の誘惑が、天秤の上でポジション争いを繰り広げた。激しい鍔迫り合いが暫く続き、勝鬨を上げたのは人間の本能だった。
「あ、……あー」
「ほいっと」
 唇を噛んだ後、恐る恐る口を開く。日向はタイミングを計って箸を操り、卵焼きを押し込んだ。
 喉に引っかかることなく、出汁巻は口腔に落ちた。舌に重みを感じた途端に唇を閉じて、影山は奥歯で磨り潰した。
 細かく、小さく刻んで、ひと息で飲みこむ。馴染んだ味が胃袋に落ちていくのを実感して、ホッと息を吐く。
 唇を舐めていたら、見守っていた日向が声もなく笑った。
「うまい?」
「……ああ」
 嬉しそうにしているのを揶揄し、問いかけられた。影山は弛んでいた表情を引き締めて頷き、日向が持っているタッパーに目を向けた。
 続けて膝元を覗き込んで、びっしり米だけで覆われているタッパーの蓋を外した。
「次、それな」
「はいはい」
 影山はいつも主食である米と、副菜を交互に食べる。幼い頃からそう躾けられて来たのだろうが、日向が指摘するまで、彼はその事実に気付いていなかった。
 今日も変わらず、順番に食べるつもりなのだろう。どんな状況でも譲らない一面を見せられて、日向は手間のかかる男に苦笑した。
「ほれ。あーん」
「んぁ」
 大きな弟が出来たものだ。心の中で呟いて、要望通りに米を掬って差し出してやる。
 影山は照れることなく口を開き、落ちかけた米粒を助けるべく身を乗り出した。
 ぱくりと食べて、もぐもぐ咀嚼して、飲みこんで。
 その間に日向も自分の弁当に箸を寄せ、梅干と一緒にご飯を掬い取った。
「日向、次」
「ちょ、はえーよ。おれにも食わせろ」
 しかしそれを口に運ぶ間もなく、影山がせっついた。肘で小突いて急かされて、彼は仕方なく、我儘な王様に自分の弁当を分けてやった。
 彼の分は別にあるのに、なんだか悔しい。そう思って不満げにしていたら、咀嚼を終えた彼が思案気味に眉を寄せた。
「ん?」
 急に考え込んだ彼に首を傾げ、この隙にとマカロニサラダを貪り食う。リクエストが来る前に胃袋を満たそうとしていたら、うーんと唸った影山が腕組みまでして天を仰いだ。
 仰け反り気味に背筋を伸ばして。
「お前んちと、俺んちの米、味が違うぞ」
「あー、そりゃ、違うの使ってんだし。……そんな違う?」
「ああ。食ってみろよ」
 何を当たり前のことを、と笑い飛ばそうとしたけれど、少なからず心を擽られた。新発見だと目を輝かせる彼に首肯して、物は試しとばかりに、日向も影山のタッパーから米をよそった。
 ひと口頬張り、続けて自分の家の米も口に入れる。舌の感覚を研ぎ澄ませ、微妙な違いを探し出す。
「ホントだ。なんか、影山ん家のがちょっと甘い」
「お前ん家のは、噛み応えがあって美味い」
「それは炊き方じゃねーのかな。帰ったら聞いてみよ」
「俺も……って、おい。勝手に食ってんじゃねえ」
「うはは。バレた」
 米の食べ比べだけのはずが、日向はちゃっかり副菜にも手を出していた。見逃さなかった影山のひと言に、彼は舌を出して誤魔化した。
 全く反省している様子が見えないが、食べさせてもらっている手前、あまり強く文句は言えない。喉まで出かかった言葉を飲みこんで、彼は日向の方へ身を寄せた。
 今のままでは遠すぎて、食べ辛い。だからと肘がぶつかるくらいにぴったり張り付かれて、日向はビクリと身を震わせた。
 息を吸えば、微かに影山の匂いがした。
 汗か、柔軟剤か、シャンプーか。
 色々なものが混じり合って出来た独特の香りに仄かに赤くなり、日向は弁当箱の底を箸で何度も叩いた。
「おい。次、ブロッコリー」
「世話が焼けるなあ」
「ンだよ。悪いか」
「そこ、開き直るな」
 隣では待ちきれなかった影山が、雛鳥宜しく口を開けていた。急かされて日向は笑い、要望通りに緑色の野菜を運んでやった。
 一人分の箸でふたり分を取り分けるのだから、当然、食べる時間も二倍かかった。
 昼休みは半ばを過ぎた。それでも仲睦まじく一緒に食べている彼らの目撃譚は、数日間、学校の一部を賑やかした。
 

2014/11/13 脱稿