Smalt

 馴染みのゲームショップの袋を揺らし、孤爪は部屋に入った。
 背負っていたリュックサックを先に下ろしてベッドに転がし、その横に持っていた袋を落とす。衝撃でカサカサ音を立てるビニールを一瞥して、彼は赤色のジャージを脱ぎに掛かった。
「…………」
 しかしファスナーを中ほどまで下ろしたところで手が止まった。瞳は思案気味に宙を彷徨い、最終的にベッドの上に落ちた。
 朝起きた後、軽く整えた寝台。それでも綺麗とは言い難い空間に横たわるのは、部屋の主たる孤爪ではなかった。
 視線は濃紺色の袋に固定されていた。表面には白文字で、購入した店の名前がでかでかと印刷されていた。
 もっとも彼が注目しているのは、店名でなければ、派手な書体でもない。ほんの少しだけ膨らんだ袋に収められている、購入したばかりのゲームソフトだった。
 ゲーム雑誌でタイトルが発表された段階から期待して、発売日が決まった途端に予約しておいたものだ。美しいグラフィックと軽快な操作性が売りだとかで、派手なアクションが楽しめるらしく、前評判は上々だった。
 ネットワークに接続すればマルチプレイも可能で、対戦モードもあれば、協力し合って難敵に挑むステージも用意されているらしい。もっともそちらは、他人と一緒にゲームをする習慣のない孤爪だから、あまり興味がなかった。
 見ず知らずの相手を信頼して背中を預けるなど無理だし、成功報酬の分配も面倒臭い。複数人でやっと敵を倒しても、手に入るアイテムはひとつだけ、というのはよくある話だ。
 揉めるのが分かっているなら、手を出さない方が良い。もしどうしても欲しければ、ソロプレイを極め、ひとりで挑戦して勝つ道を選ぶ。
 そうやって独自に遊び方を見つけて来た孤爪は、未だ封がされたままの袋を見詰め、もぞもぞと身を捩った。
「ちょっと、だけ」
 我慢出来ない。
 誰に対しての言い訳なのか、呟き、彼は左右を見回してから遠慮がちにショップ袋へ手を伸ばした。
 着替えどころか手洗い、嗽さえ済ませていない状況で、購入したばかりのゲームに手を出そうとしている。もし黒尾がこの場に居ようものなら、呆れ果ててため息をついている事だろう。
 お節介が過ぎる年上の幼馴染みをすぐさま脳裏から追い出して、孤爪はいそいそと、袋に貼られたセロハンテープを剥がしに掛かった。
「よ、……あれ。よし」
 しかし簡単には行かなかった。
 粘着面全体がビニールに貼りついてしまっており、なかなか角が捲れない。仕方なく真ん中で切り裂く事にして、彼は素早く腕を動かした。
 こういうものは、手間取ると余計に切れなくなる。一瞬で勝負を終わらせて、孤爪は満足そうに頷いた。
 珍しく、一回で成功した。鋏を使わずに済んだ幸運に感謝して、続けて袋の底を掴み、潔くひっくり返す。
 もれなく中身が一斉に落ちて行った。支えを失い、専用のケースに収められたソフトがベッドのクッションに倒れ込んだ。
 袋には他にも、色々なゲームのチラシがまとめて押し込まれていた。
「こんなに、要らないのに」
 それらも当然のように袋から飛び出して、風の抵抗を受けてゆらゆら踊りながら床へ沈んでいった。
 一部はベッドから外れ、孤爪の足元に散らばった。放っておいても良い事はなにもなくて、彼は仕方なく膝を折ると、自分でばら撒いたものを集め始めた。
 ゴミ箱にまとめて捨てるつもりで、用済みとなったショップ袋も握り潰す。ぐしゃ、と拉げた音を立てたそれを左手に持ち、五、六枚はある紙切れを取って何気なく眺める。
 どうしてこれを孤爪に渡そうと思ったのか。中には女性向けゲームのチラシまであった。
「これは、……興味ないな」
 恋愛シミュレーションと音楽ゲームの両方の要素を取り入れた、人気作品の新作らしい。しかし食指は動かず、半分に折り畳んだそれは袋同様、くしゃくしゃに潰された。
 続けて出て来たのは、どこかの島を開拓するゲームだった。
 これも昔からよくある作品で、何度かリニューアルを繰り返しているものだ。根強い人気があるらしく、孤爪も昔、遊んだことがあった。
 だが、三ヶ月で飽きてしまった。
 遣り込み要素はあるのだけれど、同じ作業の繰り返しが多く、それが苦痛だった。ゲーム内の時間も実際の時間と連動しており、有利に進めるべくシステム側の時計を動かすとペナルティを受けるのも、人を苛立たせた。
 結局、この手のものには向いていないという結論で落ち着いた。
「そういえば、あれ、どこやっただろ」
 遊ばなくなってから、もうかなりの年数が経っている。ただソフト自体を売った記憶はなくて、探せば部屋のどこかにあるかもしれない。
 だからといって、家探しをしようとは思わないけれど。
 そのうち、出てくるだろう。
 壁際の棚に山積み状態のゲームや攻略本を眺め、孤爪はチラシを丸めてゴミ箱に捨てた。
 片付け第一陣を終えて、空になった両手を特に意味もなく叩く。汚れているわけでもないのに埃を払う仕草をして、ベッド上に残っているチラシも捨てようと腰を捻る。
 踵を返して寝台に歩み寄って、彼は訝しげに眉を寄せた。
 渋面を作った原因は、待望のゲームソフトに寄り添う一枚のカードだった。
「なんでこんなのが」
 邪魔なチラシを押し退け、新作ゲームよりもそちらを先に手に取る。顔の高さまで掲げて睨みつけるが、図柄が変化することはなかった。
 ホログラム加工までされてきらきら光るカードには、最近大流行中のゲームのキャラクターが描かれていた。
 しかし孤爪は、このゲームで遊んだことがない。内容が子供向けという点と、あまりにも爆発的にヒットし過ぎているので、却って興味が湧かなかったのだ。
 ゲームの存在自体、知ったのは人気に火が点いた後だった。完全にノーチェックだった為、今から手を出して、ミーハーだと思われたくない心理も働いていた。
 だからこのカードも、購入などしていない。店員が間違えて入れたのかと訝って、孤爪は口をヘの字に曲げた。
 頑丈な厚紙を裏返して、両目を糸のように細める。
「……ああ、そういえば」
 そして片隅に小さく、非売品の文字があるのを探し出して、彼は納得だと頷いた。
 ゲームソフトを買った店は、彼が中学時代から通う店だ。店員とはとっくに顔見知りで、家族や部のメンバー以外では数少ない、孤爪がちゃんと会話出来る相手だった。
 そんな店員は、贔屓にしてくれているからと、孤爪に色々サービスしてくれた。
 たとえばショップに貼り出す用の非売品ポスターであったり、宣伝用のポストカードであったり。
 もっともそれらをもらっても、孤爪は部屋に飾ったりしない。正直なところ、有難迷惑だったのだが、好意なのだからと言わずにいた。
 このカードも、その好意の賜物だった。
 レジで商品を受け取る際、店員が何かを言っていた。早く帰りたかったので碌に聞きもしなかったのだが、もしかしたらこのカードの事だったのかもしれない。
 綺麗だけれど、使いようがない。処分に困るものを押し付けられて、孤爪は溜息をついて肩を落とした。
「どうしよ」
 膝の力を抜いて崩れるようにベッドに腰かけ、荷物で満載の鞄を避けて寝転がる。右手の中ではトランプサイズのカードが、照明を浴びてキラキラ輝いていた。
 ただの厚紙だったら、ここまで悩まなかった。表面には特殊な印刷が施されており、レア度はそれなりに高そうだった。
 なにかの特典の余りだろうか。肘を立ててうつ伏せに姿勢を変えて、孤爪は可愛いようで不細工なキャラクターをじっと見つめた。
 かなりデフォルメされているけれど、一応、これは猫らしかった。
 ゲーム内でも一番人気のキャラだったはずだ。名前までは知らないが、同じイラストを使った文具や菓子を、コンビニエンスストアで見た覚えがある。
「リエーフにでもあげようか」
 部内で一番背が高い後輩を思い浮かべ、孤爪はぽつりと呟いた。
 男子バレーボール部に、ゲーマーはあまりいなかった。
 勿論全く遊ばない、という人間は少数派だが、孤爪ほどやり込んでいる部員はいなかった。名前が出た後輩も、ゲームは好きだが、さほど巧いわけではない。
 体育会系の部活なだけに、脳みそまで筋肉で出来ていそうな部員ならいた。モヒカン頭が目立つ山本を連想して、彼はカードをひらひら揺らした。
 オークションに出品したら、どれくらいの値がつくだろう。
 ふと邪な考えが頭を過ぎった。急ぎ起き上がって、孤爪はリュックサックからスマートフォンを取り出した。
「ネット、検索……オークション。ゲーム名、なんだっけ」
 しかしインターネットオークションサイトを呼び出したところで行き詰まり、右手の人差し指が宙を泳いだ。
 あれだけ各方面で話題になっているのに、肝心な時に限って思い出せない。自分の記憶力の頼りなさに歯軋りして、孤爪は諦めて画面を消した。
 役目を終えたスマートフォンを枕元に放り投げ、彼はもう一度、しげしげと眩しいカードに見入った。
 このまま捨てても構わない。惜しいとも思わない。
 けれどもしかしたら、欲しいと思う人がいるかもしれない。
 小学生くらいの子供に差し出せば、受け取ってくれるだろうか。しかし不審者扱いされるのは避けたいし、その年代の知り合いなどひとりも居ない。
「はあ」
 八方塞がりだ。
 力なく嘆息して、彼はカードを額に押し当てた。
 明日、学校に持って行って、試しにリエーフ辺りに聞いてみよう。
 彼でなくとも、弟、または妹がいる部員が手を挙げるかもしれない。それに賭けてみることにして、顔を上げた矢先だった。
「あ」
 二度、三度と瞬きを繰り返して、彼はストンと落ちてきた答えに息を呑んだ。
 いた。
 ひとり、これを譲り渡すのに最適な人物が。
 瞼の裏に鮮やかに蘇った姿に相好を崩し、孤爪は力強く頷いた。これほど最適な相手は居ないと勝手に確信を抱いて、彼は急ぎスマートフォンを拾い上げた。
「えーっと、メール、新規作成、添付ファイル……静止画、と」
 次々現れる画面を切り替える度、内容を声に出して確認していく。内蔵されたカメラを無事呼び出して、孤爪はカードを持つ左手を左右に揺らした。
 ホログラムが光を反射して、綺麗に写ってくれないのだ。
 あちこち移動させて、全体が収まった一枚の撮影に成功する。指が入ってしまったのはご愛嬌で、彼は早速、添付写真の内容をメール本文に書きこんだ。
 挨拶も忘れない。久しぶり、の定型句から入って近況を簡単に伝えて、それから本題に突入する。
 小学生の幼い妹がいる友人に宛てて、必要かどうかを問いかける。
「な、んか……押し付けてるみたい、かも」
 しかし送信ボタンを押す直前になって、迷いが生じた。
 躊躇した指がヒクリと震え、孤爪の頬も引き攣った。
 この行為は、あのショップ店員と同じかもしれない。そんな事を、この一瞬で考えてしまった。
 相手は迷惑に感じているとも知らず、喜んでくれていると思い込んで、常連を大事にする自分は素晴らしい、と驕っているのだ。申し出を断られたことがないので、どんどん調子に乗って、親切の押し売りをしているとも気付かない。
 心に隙間風が吹いた。
 要らないものを押し付けようとしている自分を恥じて、当初の予定通り、部に持って行こうと考えを改める。
 しかし。
「……ああっ!」
 気が抜けたからだろうか。
 手の中からスマートフォンが滑り落ちそうになって、慌てて掴み直した孤爪は二秒後、悲痛な叫び声を上げた。
 握った場所が悪かった。
 ケースの角が指の付け根に引っかかり、親指が液晶画面を滑った。
 画面は消えかかっていた。時間で自動的にスリープモードに入る設定にしてあったそれは、衝撃を感知し、即座にバックライトを光らせた。
 と同時に画面が切り替わった。
 メール作成画面が終了し、送信中を知らせる映像が流れたかと思えば、一瞬にして待ち受け画面へと戻ってしまった。
「うそ」
 呆然として、孤爪は目を点にした。
 どうしてさっさと消去してしまわなかったのか。
 送るつもりがなかったメールを送信してしまって、彼は惚けたまま、暫く動けなかった。
 両足の間にスマートフォンを落とし、液晶モニターが暗く濁っていくのをぼうっと見送る。やってしまったと落ち込んで、迂闊な自分を詰らずにはいられなかった。
 なんという凡ミスだろう。
 部活でこんな真似をしようものなら、即座に監督の怒号が飛んでくる筈だ。
 実際に怒鳴られた時を思い出してぶるりと震え、孤爪は沈黙する通信機器を小突いた。
 送ってしまったメールはもう取り戻せない。彼に残された手段は、弁解のメールを送る事くらいだ。
 着信即開封、となっていないのを期待して、先に送った方は間違いだからと、読まずに削除してくれるよう頼んでもいい。ただ文面は、先程よりずっと気を付けなければいけなかった。
 考える時間が欲しかった。だが早くしないと、送信相手がメールの着信に気付いてしまう率が高くなる。
 焦って頭が回らない。あれこれ言葉を捻り出すものの、しっくりくるものが見つからなかった。
「しょう、よう」
 困り果てて奥歯を噛み締め、孤爪は呻くようにその名前を呟いた。
 一行も書けていないメールを前に凍り付き、救いを求めて天を仰ぐ。もっともそこは部屋の中なので、見えるのは白い天井くらいだった。
 窓の外は濃い藍色に染まり、月の姿は見えなかった。
 新月が近いのかもしれない。カーテンの隙間から暗い夜空を一瞥して、彼はスマートフォンを手に途方に暮れた。
 コミュニケーション能力に長けた黒尾や、犬岡なら、もっと上手く立ち回れるだろうに。
 自身の不器用さが歯痒くて、口惜しかった。
「翔陽、まだ起きてるよね」
 時計を見て、針の位置を確認する。遠く宮城の空の下で暮らす友人を思い浮かべ、孤爪は項垂れて丸くなった。
 猫を真似て小さくなり、買って来たばかりのゲームソフトを覗き込むが、帰宅直後の興奮はすっかり萎んでいた。
 封を開けて遊ぼうという気になれない。あれほど楽しみにしていたのに、今は見るのも嫌だった。
 スマートフォンを覗き込むが、画面に変化はなかった。
 当惑を伝える返信が来るのは嫌だが、いつまでも反応がないのは寂しい。二律背反の感情を抱きかかえて、彼は浅く唇を噛んだ。
「……どうしよう」
 こんなものがあるから、心を乱されるのだ。
 掌中の小さなカードを仇のように睨みつけて、彼は床目掛けて放り投げるべく、激情のままに身体を起こした。
 腕を頭上高く掲げ、拉げてしまうのも構わないと、渾身の力を込めて振り下ろそうとして。
 乱暴な真似をする彼を咎めようとしてか。
 沈黙していたスマートフォンが、突然五月蠅く泣き喚いた。
「うわっ!」
 虚を衝かれて驚き、孤爪は目を剥いた。焦って緩んだ指の隙間からはカードが零れ落ちて、布団の柔らかいクッションに沈んだ。
 全身を竦ませて戦く彼を前に、大画面の携帯電話は知らない番号を通知していた。
 固定電話だ。市外局番は、孤爪が見たことのない番号だった。
 いたずら電話だろうか。一瞬詐欺的なものを想像して、彼はふるふる首を振った。
 一抹の不安と、期待を奥歯で噛み締めて、小型端末を掴み取る。音に合わせて震える精密機械を見詰め、孤爪は鳴り続ける電話の画面をスライドさせた。
 違っていても、自分ひとりが恥ずかしいだけだ。
 覚悟を決めて、彼は平たくて薄い機会を右耳に押し当てた。
「も……、もしもし」
 電話帳に登録されていない番号なので、緊張が否めなかった。
 予想が当たってくれることを祈りつつ、外れてしまった時のことを考えて恐怖に耐える。固く目を瞑っての問いかけは控えめで、声は若干上擦った。
 応答はなかった。
 心臓が止まりそうな緊張に支配されていた孤爪は、無音が続く状況に「おや?」と眉を顰め、スマートフォンごと首を傾げた。
 直後だった。
『うわ、あっ。ごめ。ごめん、研磨。もしもーし。えっと、あの。孤爪……さん、の、携帯電話ですか?』
 唐突に耳元で大声が響いて、咄嗟に返事ができなかった。
 反射的にスマートフォンを引き剥がし、呼吸を整えて画面に見入る。暫く反応らしい反応をせず、こちらまで沈黙で応じていたら、焦った声が聞こえて来た。
 自信が持てなくなったのか、トーンは尻窄みに小さくなっていった。
 遠慮がちに、余所余所しい姿勢を見せられて、孤爪は堪らず噴き出した。
「ぶふっ」
 口を閉じて我慢しようとしたが、無理だった。押し潰された空気が変な音を奏でて、高性能なマイクがそれを拾い上げた。
 余計なことをしてくれたものだ。二秒後、我に返った日向の怒鳴り声が鼓膜を震わせた。
『ちょ、お……もう! 研磨ってば、ひどい』
「ごめん。知らない番号だったし」
『あれ? あ、そっか。これ、うちの電話』
 真っ赤になっている姿を想像するだけで楽しかった。瞼を下ろして息遣いを探り当て、孤爪は小さく頷いた。
 そんな事だろうとは思っていた。
 固定電話の市外局番は、北から順に数字が割り振られている。たとえば北海道は「1」で、東京は「3」という具合に。
 そして孤爪が見た番号は、「02」で始まっていた。
 東京より北で、北海道より南。
 その範囲で暮らす友人は、ひとりしかいない。
 仮説は正しかった。自身の推理能力に自信を深め、孤爪は安堵の息を吐いた。
 この通話が終わったら、アドレス帳に追加登録しておこう。次は迷わず着信に出られるように、番号も頭に叩き込んでおこう。
 密かに誓いを立て、背筋を伸ばす。左手は膝元を這い、落ちたカードを手繰り寄せた。
「……翔陽」
 それを本人の代わりに握りしめて、囁く。呼びかけが聞こえたのか、電話口から弾む声が響いた。
『うん。あ、メールありがと。そんで、くっついてた写真の、だけど』
『もー、にいちゃん。まだあ?』
「ん?」
 しかもふたり分だ。ただでさえ高い日向の声の、更に上を行く甲高い叫びに、孤爪は目を点にした。
 台詞からして、今のが日向の妹だろう。一緒に衣擦れの音やら、足を踏み鳴らす音まで聞こえて来て、孤爪の眉間に皺が寄った。
 一定間隔で耳朶を掠めた吐息が聞こえなくなって、代わりに流れて来たのは、誰宛てか分からない日向の怒号だった。
『兄ちゃん、友達と大事な話してんの。夏、ちょっと静かにしてて』
『えー。きらきら、出てこないのー?』
『だから、今その話してんの。もー、邪魔すんなって。母さん、夏連れてってー』
 場所は、台所だろうか。リビングだろうか。妹に付きまとわれている友人は、なかなか想像し難かった。
 母親らしき人の声も遠く聞こえて、賑やかな情景だけが脳裏に浮かんだ。毎日が騒動で、きっと笑い声が絶えないに違いない。
 冷えた空気が漂う静かすぎるドアの向こうを一瞥して、孤爪は左胸に手を添えた。
 心を覆っていた深く重い霧が、緩やかに晴れていくのを感じた。
 魔法をかけられたようだ。道に迷い、立ち尽くしていたのが嘘のようだった。
 口元が自然と綻んだ。勝手に笑みが溢れて、孤爪は二色が混ざり合う髪ごと額を叩いた。
『ごめん、研磨。夏、……あ、妹に聞いたら、欲しいって。言うんだけど。なんか、勘違いしてて。ケータイからすぐ出てくるとか、ヘンなことばっか言うから』
 じゃれ付く妹の攻撃をどうにか防ぎ終えたらしい。息を切らした日向が早口に捲し立てて、ずっと待っていた孤爪は気の抜けた表情で苦笑した。
 彼女もまた、携帯電話に映し出された映像を、魔法かなにかと勘違いしたようだ。孤爪自身も初めてゲームに触れた時、画面からモンスターがいつ飛び出してくるか、ひやひやしたものだ。
 懐かしい感情を蘇らせて、彼は腹筋を引き攣らせた。
 隠し通せなかった笑い声は、宮城の空にも届いた事だろう。しかし日向は、今度は怒らなかった。
『でも、スゲーな。どうやったの? あれって、結構レアなんじゃないの?』
「どうなんだろ。ゲームショップの人がくれた奴だから」
『へー? あ、あれってアニメもやってんだろ。おれ、踊れるよ』
「え?」
 バレーボール馬鹿である彼も、キャラクターくらいは知っていたらしい。流石は全国規模で流行しているだけはある、と感心していたら、不思議なことを言われて面食らった。
 アニメとダンスの繋がりが見えなくて、ぽかんと目を丸くする。
 その表情が、電話の相手にも見えたらしい。呵々と笑い飛ばされて、孤爪は口を尖らせた。
 良く分からないが、好意は喜んで受け取って貰えたようだ。拗ねる気持ちより安堵の方が大きくて、彼はホッと胸を撫で下ろした。
『でも、ホントに貰っちゃっていいの?』
「いいよ。おれが持っててもしょうがないし。喜んでくれる人がいるなら、そっちに送った方が良いと思う」
『そっか。……ありがとな、研磨』
「どういたしまして」
『あ、そうだ。住所、知ってたっけ?』
「前に、暑中見舞いくれたよね。探せばあると思う」
『分かったー。あっ、切手代!』
「それくらい、いいよ。別に」
『でもでも。ダメだって、やっぱ』
「……じゃあ、次会ったら」
『肉まん奢るな?』
「え、それは……ちょっと」
『あれ? きらい?』
「そうじゃないけど」
『じゃー、決まりな!』
 間断なく、機関銃のように連続して声が飛んでくる。それを逐一拾い上げ、打ち返すのは容易ではなかった。
 けれど、嫌な感じはしなかった。むしろ楽しい。彼となら、いつまでも喋り続けられる気がした。
 こんなこと、今まで誰とも起こらなかったのに。
 不思議だった。
 面白かった。
 毎日一緒に居られない遠さが、恨めしかった。
 元気よく宣言されて、孤爪は肩を竦めた。肉まんと切手代とでは釣り合わない気がしたけれど、この場合、好意は素直に受け取るべきだろう。
 明るく活発な彼を真似てみるのも、たまには悪くなかった。
「うん。……はんぶんこ、ね」
『えー? なにー?』
「なんでもない。こっちのこと」
 密かな決意を追加して、聞き取れなかった日向の追及を躱す。あちらも長電話を母に注意されたらしく、深く突っ込んで来なかった。
 会話がひと段落ついた。
 ただ話をしていただけなのに息が切れそうで、孤爪は弾む鼓動を宥めて微笑んだ。
「それじゃあ、明日にでも、送るね」
『うん。待ってる。ありがと、研磨』
「おやすみ、翔陽」
『おやすみー』
 この電話で、何回お礼を言われただろう。その分だけ、胸は幸せで満ちていた。
 オマケで貰った不用品が、より一層輝いて見えた。放り投げなくて良かったと傷のない表面をなぞって、彼はベッドから降り立った。
「封筒、あったかな。切手は……多分、リビングにあったと思う。翔陽にもなにか、送れるものとか」
 考えるだけでわくわくして、気もそぞろに落ち着かなかった。
 彼に食べさせたいお菓子がある。一緒に遊べたら嬉しいゲームがある。見せてあげたい試合の映像がある。ふたりだけの秘密に出来る、ペアの何かが欲しい。
 最初は彼の妹への貢物だったのに、いつの間にかすり替わっていた。
 日向を喜ばせたい。嬉しそうに笑う顔が見たい。だけれど押し付けたくはない。負担を感じさせたいわけではない。
 バランスが難しい。どこまでが善意の範囲かが、ひとりでは判断出来ない。
「……クロに、相談、は」
 浮かんだのは、嫌味たらしく笑う幼馴染みだった。
 彼に頼るのは、正直癪だ。けれど交友関係が広いあの男なら、的確なアドバイスをくれるだろう。
 俯き、眉間に皺を寄せる。けれど四秒後には首を振って、真っ直ぐ前を向いた。
 その辺りは、明日考えよう。
 素早く頭を切り替えて、孤爪は机に向かい、壁に貼られた葉書に手を伸ばした。

2014/11/11 脱稿