部活帰りに食べるアイスは、かなりの確率で、先輩方の奢りだった。
ごく稀に、コーチである烏養が払ってくれる事がある。但しいずれの場合も、百円硬貨一枚で事足りるような、値段の安いものに限られた。
だとしても、この配慮は十分有難い。難点があるとすれば、一年後、二年後も、この慣習が続いていくことだ。
つまり自分たちが進級した後、後輩たちにこれと同じことをしなければいけなくなる。台所事情が厳しい中で果たして可能かと考えたら、今のうちに廃れて欲しい習わしでもあった。
なんとも悩ましい問題だ。眉間に浅く皺を寄せ、影山飛雄は冷たいアイスに噛り付いた。
しゃく、と小気味の良い音が響いた。ほんのり甘いソーダ味が口の中いっぱいに広がって、冷たさが舌に突き刺さった。
もれなく、練習で火照った身体が冷えていく。ようやく人心地つけたと安堵して、影山はもうふた口、急ぎ気味に追加した。
ザクザクと氷を削り、噛み砕きもせずに飲み込む。咥内に残った分は舌の熱で溶かして、唾液と一緒に胃へ押し流した。
右手に持つ木の棒の、反対側はまだ見えない。空色をしたアイスは角を二ヵ所も奪われて、すっかり丸くなっていた。
日中ならまだしも、とっくに日は暮れた後。昼間の熱が周囲に散見していたけれど、アイスをどろどろに溶かすところまではいかなかった。
それでも表面は汗を掻き、辛そうだ。早く楽にしてやるに越したことはなく、影山は大きく口を開けた。
「んー、んまっ」
直後に響いた声は、影山のものではなかった。まるで自分の行動を先読みし、アドリブで台詞を合わせた感じになったが、まず間違いなく偶然だろう。
アイスに噛み付くタイミングを逃して、彼は小さく肩を竦めた。
緩やかな坂道を並んで歩くのは、片手で自転車を操縦する少年だった。 サドルには跨っていない。必然的に、ペダルを踏んでもいない。ただハンドルを握って、二輪車が変な方へいかないよう制御していた。
左手に持つのは、影山が食べているものと同じアイスだ。但し味が違う。彼が握っている分は、表面が白かった。
細かな氷の粒が街灯を反射して、白さが余計に際立っていた。きらきら輝く冷たい菓子は、残り半分以下に減っていた。
食べる速さが段違いだ。同じ部の先輩に、ふたくちでアイスを食べ切る猛者がいるが、それに近いものがあった。
「美味いのか」
坂ノ下商店のアイスケースに入っていた、氷菓子。噂は耳にしていたが、初めて目にするそれを選び取るのに躊躇していたら、横から浚っていかれたのが五分ほど前の事だ。
別にそれを恨めしく思ってはないし、惜しいとも思わない。ただ次に巡り合った機会の為に、情報は集めておきたかった。
たかだか百円足らずの菓子で、気分を悪くするのも勿体なかった。怒るのにもエネルギーは必要で、残り少ない燃料を帰宅途中で使い果たすわけにはいかないのだ。
体力がガス欠寸前なのは、練習がハードだったからに他ならない。ほぼ休みなく動き続けていたので、喉はカラカラ、胃袋はスッカラカンだった。
だからこそ、アイスの差し入れは涙が出るほどありがたかった。
「美味いぜ。影山も、次あったら食ってみろよ」
その梨味最後の一本を奪い取っておきながら、日向翔陽はいけしゃあしゃあと言い放った。
好奇心旺盛な大きな眼と、オレンジ色の髪。良く動く手足に、強いのか弱いのかよく分からない心臓。
影山に劣らず負けず嫌いで勝気な少年は、喋りながら噛み砕いたアイスをひと息に飲みこんだ。
そうして首を竦めてぶるっと震えあがったのは、一気に食べて身体が冷えた所為だろう。萎縮して丸くなっている背中をぼんやり眺め、影山は表面が溶け始めているアイスを舐めた。
「そうする」
冷たい氷に熱を押し当て、柔らかくなったところで歯を立てる。山なりになっている天辺を齧れば、前歯が固い異物を掠めた。
その正体には、心当たりがある。気にせず無視して突き進み、影山はちょっとだけ頭を出した木の棒に肩を竦めた。
前方に目を向ければ、雑談に興じる上級生の背中が見えた。
街灯の明かりが夜道を照らし、足場は言うほど悪くない。アスファルトで覆われた地面は歩き易く、躓くほど大きな石も落ちていなかった。
どこかの家から笑い声が聞こえ、別の家からは犬の吠える声が響いた。驚いて仰け反ったのは東峰だろう。即座に西谷が腹を抱え、澤村が騒々しいのを叱る大声が轟いた。
静かにするように言うキャプテンの声が、実は一番五月蠅い。だのに誰も突っ込まない事に首を傾げ、影山は何気なく脇に視線を流した。
並んで歩く日向は相変わらず片手で自転車を支え、もう片手でアイスを堪能していた。
残りは僅かとなり、あとひと口で食べ終えてしまいそうな雰囲気だ。相変わらず食べるのが速いと肩を竦め、影山は開きつつある前方との距離に眉を顰めた。
彼らより遅れているのは、そこに日向が居る所為だ。両手でハンドルを握っているならまだしも、片手で操作するのはなにかと厄介だ。ちょっとした段差にすぐタイヤを取られて進路が変わり、傾いた体勢を戻すのにも手間取らされる。
そうやってもたもたしているうちに、置いていかれてしまう。ただ影山だけがペースを合わせて歩いているから、慌てて皆を追いかけようともしない。
どうせあと少しすれば三叉路に至り、手を振って別れるのだ。帰る家が違うのだから、最後まで一緒というのは有り得なかった。
月が沈み、太陽が昇って朝が来れば、また嫌でも顔を合わせる。携帯電話もある。声が聞きたくなったら、いつだって連絡が取れる。
離れるのは哀しくない。
ただほんの少し、寂しいだけ。
手放し難く感じる本能と、彼を休ませなければならないという理性がいがみ合い、喧嘩をしていた。そして大抵、後者が勝つ。みっともない独占欲を押し切って、物分りが良いフリをする。
簡単に剥がれてしまう薄い仮面を被って踊る様は、傍から見たら滑稽だろう。道化師の素質があったのだと自分を笑って、影山はのんびり道を下る日向をそっと盗み見た。
その時だった。
「うおっ」
くん、と後ろから何かに引っ張られた気がした。
思わず声が出てしまった。日向もすぐに気付き、どうしたのかと不思議そうに見上げて来た。
その視線を躱して、影山は後方ではなく、己の足元を見下ろした。
「ああ」
瞬間、何が起きたのかを理解し、彼は緩慢に頷いた。
スニーカーの、靴ひもが解けていた。
結び目が緩んで、垂れた端を踏んでしまったのだ。今や蝶々結びは完全に解け、十センチちょっとある紐がバツ印を作っていた。
蛇行しながら垂れ下がる姿を眺め、小さく肩を竦める。このままでは歩き辛いし、次に同じ事が起きれば、今度こそ転びかねなかった。
そんな格好悪いことは出来ないし、そもそもこうやって垂らしたままでいるのは十分ダサい。考えるまでもなく、影山は結び直そうと左足を退いた。
「あ」
膝を折って屈み、手早く済ませようと身体を動かす。だが寸前でとてつもなく邪魔なものがあると気付き、彼は中途半端な体勢で停止した。
「ん?」
ずっと見ていた日向も、異変を察して眉を顰めた。
彼はとっくにアイスを食べ終えており、最後に残った棒と一緒にハンドルを握っていた。両手を使って愛機を支え、妙に苦々しい表情のチームメイトに目を丸くする。
パチパチと瞬きを繰り返す彼をしばし睨みつけ、苦悩を押し殺した影山はスッと背筋を伸ばした。
しゃがもうとしていたのを諦めた彼に、日向の目が一層大きくなった。
「どした?」
「ちょっと持ってろ」
「あー」
不思議そうに尋ねられて、影山がぶっきらぼうに言い捨てる。低い声とともに差し出されたものを見て、状況が理解出来たのか、日向は成る程と頷いた。
預かるよう頼まれたのは、食べかけのアイスだった。
彼の分はまだ塊が大きく残り、長時間咥え続けるのは大変だ。唇が冷えて氷と皮膚が張り付けば痛いし、間違って噛み砕きでもしたら悲惨なことになる。
日向も幼いころ、その大惨事に見舞われた経験があった。
アイスを食べている時に限って、どうして両手が必要になるのだろう。支えるものをなくした氷菓は地面に落ちて、蟻の餌にするほかなかった。
哀しい出来事を振り返り、影山の意図を汲んで左手を差し伸べる。日向がしっかり棒を掴んだのを確認して、彼は静かに指を解いた。
「影山って食べるの遅い?」
「なわけあるか」
「だよなー。あ、さては好物は、最後にとっておくタイプだな」
「……かもな」
大事なアイスを受け取って、日向が何気なく呟く。左右の手が空になった影山は早速身を屈め、解けてしまった靴紐を結びにかかった。
愛想のない返答はいつものことで、日向は肩を竦めて苦笑した。
目を逸らしたまま呟いた影山が、今どんな顔をしているのかは見えない。代わりに空色のアイスをじっと見つめて、表面を伝う水滴に喉を鳴らした。
既に一本、食べ終えている。胃袋はまだ冷えたままだ。だが美味しそうな菓子を前にして、涎が止まらなかった。
「くそ。暗いとやりづれーな」
「かげやまあー」
「あ?」
練習後はいつも空腹で、自宅までの帰り道は苦行だった。ただでさえきつい坂道を登り、下るわけで、必要なカロリーもほかの部員と比べると段違いだ。
少しでも燃料を補給して、蓄えておきたい。道半ばでガス欠を起こそうものなら、一大事だ。
アイスの一本や二本でどうにかなる話でもないのだが、追い詰められた精神は、時に予想外の発想を導き出す。舌足らずに呼ばれた青年は怪訝に顔を上げ、物欲しげな顔のチームメイトを見つけて肩を落とした。
「ちょっとくらいなら、いいぞ」
一瞬目があっただけで、彼が何を言いたいのか理解出来た。他に思いつかないとため息をついて、影山は靴紐を握る手に力を込めた。
リング状になった紐を左右に引っ張って、簡単に解けないよう結び目をきつく引き締める。垂れ下がった部分も間違って踏まないように長さを調整し、見た目も綺麗に形を整える。
ついでに反対側の靴もチェックして、案の定緩みかけていたのを見つけた彼はやれやれと首を振った。
放っておけば、こちらもいつか解けてしまう。そしてそういうタイミングは、得てして急いでいる時に訪れる。
苛々させられる要素は、早いうちに潰しておきたい。だからとこちらも解いて、手早く結び直した。
脱げないように、けれど足が窮屈にならないように。適度な締め付けになるよう具合を確かめつつ作業していたら、予想外に時間がかかってしまった。
預けたアイスも、表面の氷がかなり溶けているだろう。思い出したら急に口寂しくなって、影山は背負った鞄の位置を整えつつ、素早く起き上がった。
「日向、サンキュ」
「ふが。……ん、ほぇ?」
そうして託した物を返してもらうべく、利き手を差し出したのだが。
返ってきたのは口をもごもごさせた日向の、意味を理解しかねる相槌だった。
大きな塊を噛み砕いている最中だったらしい。頬が横に大きく膨らんで、しかもモコモコ動いていた。閉じられた唇は水分を含んで濡れており、涎とは違う雫が端からちょっとだけ垂れていた。
右手にハンドル、左手に二本の棒。焼印はなく、どちらもハズレだった。
「ん?」
それがどういう事なのか、影山は一瞬理解出来なかった。
幅一センチほどの木の棒は薄く、片方だけ湿っていた。アナログ時計の針が十時を示す角度で握られており、やがてゆっくり動いて零時になった。
綺麗に重なり合った棒は、正面からだと一本に見えた。そこから徐々に視線を上げていけば、日向は明後日の方角を向いて口笛を吹いた。
下手な誤魔化しに、ぷちん、と何かが切れる音がした。
「テメーなあ!」
「ごごごご、ごめえん!」
二秒後、影山は雄叫びを上げて彼に掴みかかった。日向も一応は悪いと思っていたらしく、素っ頓狂な声を上げて両手を挙げた。
もれなく束縛を解かれた自転車が右に傾き、盛大な騒音を撒き散らして地面へと倒れ込んだ。
当然と言えば当然の結果だが、そこに頭が至らなかった。ドンガラガッシャーン、と尾を引く大音響に、不意を衝かれたふたりは揃って首を竦めた。
「お前ら、あんまり騒ぐなよー」
「近所迷惑だぞー」
「早く帰れよー」
それは距離が開いていた先行組の耳にも届いて、一斉に振り返った彼らは好き勝手言って笑った。月島と山口は口元を手で覆っており、声は聞こえなかったものの、笑いを堪えているのは窺えた。
みんなから囃し立てられて、恥ずかしさといったら、ない。瞬く間に顔は赤くなり、日向は誤魔化すように声を荒らげた。
「お、お前の所為だぞ」
大事な交通手段が、万が一壊れたらどうしてくれるのか。
自分の足代わりの自転車を急いで助け起こした彼に、詰られた方は憤然として口を尖らせた。
「なんでそーなるんだ。テメーが俺のアイス、食ったのが悪いんだろ」
「うぐぐ」
人差し指を突き付けて怒鳴れば、正論を突き付けられた方は途端に口籠った。
反論を封じられ、恨めし気に影山を睨む。コート上の王様も負けるものかと眼力を強め、睨み合いは十秒近く続いた。
記録が途絶えたのは、日向がふっと息を吐いた直後だった。
「……食べて良いって、言った」
劣勢を立て直すべく間を作り、ぽつりと言う。目は合わせない。俯いて頬を膨らませた彼の言い訳に、影山は僅かに怯んでから大きくかぶりを振った。
額に手を当てて、口を開く。言葉より先にため息が漏れて、一緒に怒りが抜け落ちていった。
「全部食って良いとは言ってねーぞ」
語気は、想像したほど荒くならなかった。
どちらかというと呆れ、そして諦めが大きい。現にアイスは日向が全部食べてしまった。坂ノ下商店ももう店じまいで、戻って買い直すのは難しかった。
やっとあり付けると思っていたものが、目の前でするりと逃げていったのだ。やり場のない空腹感と怒りは確かにある。だが意外にも、あまり腹は立たなかった。
こんなことで喧嘩をして、エネルギーを無駄に使いたくない。食い意地が張っている日向に預けたらこうなると分かっていたのに、安易にアイスを手放してしまった自分も悪い。
理性的な感情が苛立つ心を薙ぎ倒し、凹凸を均して平坦に作り変えていく。直ぐにカッと熱くなる性格は何処へいったのか、妙な感じだった。
自分自身ですら違和感を抱くくらいだから、当然、日向はもっと変に思ったようだ。
覇気に乏しい怒鳴り声に眉を顰め、首を捻る。怪訝に見つめられて、今度は影山が目を逸らす番だった。
微妙な空気に気まずさを覚え、呼ばれた気がして坂の終わりへ顔を向ける。丁度先輩方が手を振りあって、別れ道を行くところだった。
後ろを見ても誰もおらず、周囲から一気に人気が失せた。どこかから笑い声が聞こえてくるものの、現実味に乏しく、別世界の出来事のようだった。
居心地の悪さに身動ぎ、影山は掴むものの無い両手をズボンに擦りつけた。
「怒んねーの?」
「怒ってんだろ」
「どこがだよ」
それを盗み見て、日向が口を尖らせた。
短いやり取りの後に悪態をつかれ、ついでとばかりに脛を蹴られた。無論本気でなかったので痛くなかったが、衝撃は走り、影山は右足を引っ込めた。
結んだばかりの紐が弾み、リボンが踊った。解けはせず、すぐに勢いを失って大人しくなった。
二撃目を警戒していた影山だが、日向が追ってこないと知って緊張を解いた。怒らせていた肩を落として深呼吸すれば、不満げな顔で思い切り睨まれた。
勝手にアイスを食べた事を許してやろうとしているのに、何故ねめつけられなければいけないのか。通常は喜ぶところだろうと訝しんでいたら、彼は左のペダルを蹴り、面白くなさそうに息を吐いた。
「怒れよ」
妙なことを要求された。意味が分からず戸惑っていたら、またもやキッ、と睨まれた。
「チョーシ狂うだろ。いつもみたいに、怒れってば」
今度は地面を蹴り飛ばし、日向が吠えた。大声を張り上げ、唾まで飛ばして牙を剥く。
正面から罵声を浴びた影山は面食らい、目を丸くして絶句した。
「はあ?」
「もしかして熱でもあったりする? 具合悪い? どっかに頭ぶつけたりした?」
「よし。歯ぁ食いしばれ」
驚きすぎて、変なところから声が出た。それが余計に日向を動揺させて、微妙に失礼なことを言われて腹が立った。
握り拳を作って掲げれば、震えあがった彼が自転車にしがみついた。
「しょ、正気だった」
「ったりめーだ。ボケ」
声を上擦らせて呟かれて、またもや怒る気が失せた。
単純に、そういう気分でないだけだ。疲れているし、腹も減っている。日向の行動に逐一反応して、合いの手を返すのが面倒なだけだ。
だというのに、日向は納得しない。拗ねて頬を膨らませて、今度は力任せに蹴ってきた。
「なにしやがる」
「だって、つまんないじゃん」
突然の暴挙に声を荒らげれば、不条理も良いところの理屈を押し付けられた。
本来、優しくされるのは喜ばしい事だ。怒られなければホッとするし、傷つけられなかったと安堵するべきだ。
ところが日向は、それが気に入らないと言う。世の中の道理に逆らい、影山を怒らせようと躍起になる。
「なんなんだ、さっきから」
「お前がだろ。おかしいって、絶対」
「別にいいだろうが。俺が、どうしようと」
「良くない!」
機嫌を損ねるのも、臍を曲げるのも、すべて影山個人の裁量だ。時には面倒臭がって、何もかも投げやりになる日だってある。偶々それが今日だっただけだというのに、見過ごせない、と日向は突っかかってきた。
金切声で怒鳴られて、不意に周囲が静かになった。影山自身も息を呑み、やけに力んでいるチームメイトに眉を顰めた。
何故こんなにも絡んでくるのだろう。訳が分からないと唖然としていたら、ふいっと目を逸らした日向が踵を地面に擦りつけた。
「日向?」
「だってさ。お前が、優しいと……なんか、こう。この辺がむずむずすんだもん」
くしゃみが出そうで、出ないような。
手の届かない場所が痒くて、どうやっても掻き毟れないような。
喉の奥に小骨が刺さって、気になって仕方がない時のような。
とにかくそういう気分になって、胸の辺りが落ち着かない。心臓の真上に置いた手でシャツを握りしめ、日向は自分でも分からないといった風情で呟いた。
火照った頬は赤く染まり、恨みがましく睨んでくる眼は戸惑いに揺れていた。
顔は背けたまま、彼は瞳だけをこちらに向けていた。上目遣いに見つめられて、影山は危うく後ろに倒れるところだった。
「あ、……ああ、そう」
ふらつき、よろめき、肩幅以上に足を広げて持ち堪える。辛うじてそれだけを吐き出せば、日向は憤然とした面持ちで大きく頷いた。
「そう!」
力強く宣言された。握り拳まで作って訴えられて、影山は立ち眩みを堪えて頭を抱え込んだ。
日向は影山が正気かどうか疑ったが、そのままそっくり返したい。本気なのかと勘繰って、一瞥した少年は真顔だった。
彼の説明がどんな意味を持つのか、教えてやった方が良いだろうか。だが言えばきっと否定されるだろうし、下手をすれば拒絶されかねない。
こうやって並んで帰る事すら出来なくなるかと思うと、一歩を踏み出す勇気は出なかった。
「やべえ。……にやける」
それでも顔が緩むのを止められなくて、急いで口元を手で覆い隠す。日向は相変わらず鼻息を荒くして、影山が怒るのを待ち構えていた。
どうしようもなく馬鹿で、鈍感で。
だから、可愛い。
閉塞感に満ちていた世界が、急に明るく輝き始めた。未来が開け、希望の灯が点った。
胸に抱く感情が一気に膨らんで、溢れ出そうになった。
だが、急いてはことを仕損じる。今はまだ我慢と己に言い聞かせ、彼は深呼吸で鼓動を鎮めると、息巻いているチームメイトに手を伸ばした。
殴られるのを警戒して、日向が首を竦めた。その小動物じみた動きに相好を崩し、影山は彼の手からアイスの棒を引き抜いた。
きっちり二本分、奪い取られた少年は驚いて目を丸くした。
「あれ?」
「んじゃ、これ、明日はテメーの奢りな」
「えー。おれが食べたの、一本だけだろ」
「罰金だ。利子だ」
「お、横暴だー!」
「うっせえ。もとはといえば、テメーが勝手に食ったのが悪りぃんだろ」
ピースサインにも似た形で広げて揺らされて、日向は甲高く吠えた。それを正論で押し退けて、影山はすっかり乾いた棒で彼を小突いた。
額を叩かれ、小さなミドルブロッカーが不貞腐れて口を尖らせる。それもまた可愛いと内心呟いて、影山は甘い匂いの棒にくちづけた。
2014/8/28 脱稿