濃藍

 今日も一日、ハードだった。
 まだ午後九時を回ったばかりだけれど、瞼は既に重い。今なら布団に横になって、五秒と経たずに眠れる気がした。
「研磨、寝るなよ」
「えー……」
 それが分かったのか、隣から叱責する声が飛んだ。すかさず抗議の声を上げて、孤爪研磨は不満げに頬を膨らませた。
 もっとも音量は小さくて、周囲には殆ど響かなかった。
 果たして相手に無事聞こえたかどうか、それすらも分からない。もっとも、確かめる気は最初から無かったが。
 勝手に閉じていく瞼を持ち上げる気力も沸かなくて、孤爪はうつらうつらと舟を漕いだ。手に持つカードが前に倒れ、絵柄が向かいから見えそうになるのも構わない。
 苦笑したのは、彼の真正面に座っていた海だった。
「もう寝かせてあげた方が」
「まだ九時だぜ。どんな小学生だよ」
 心優しい副部長の提案に、先程孤爪を叱った山本が眉を顰めた。
 遠くからでも目立つモヒカン頭に責められても、孤爪の眠気は止まらない。次第に揺れが激しくなっていく彼に、居合わせたほぼ全員が肩を竦めた。
 夏の夜は長い。そして夏の強化合宿も、長い。
 一週間丸々自宅を離れ、合宿所に指定された学校で寝起きする生活は退屈だ。日中はバレーボールの練習に費やされ、疲れ果てて部屋に戻っても、テレビの一台すら存在しない。
 楽しみと言えば三度の食事に、卒業生や保護者が差し入れてくれる食べ物や、飲み物等だけ。合宿開始直後は無邪気にはしゃいでいた一年生も、二日と過ぎれば一気にトーンダウンした。
 夕食を終え、風呂に入り、本日の反省会も簡単に済ませた後はただ眠るだけ。だがそれで布団に入れるほど、男子高校生は健全ではない。
 もっとも音駒高校男子排球部の中で、色恋沙汰に花を咲かせられるメンバーは、ごく一部に限られていた。
 誰かの女性遍歴を聞くのも空しく、腹が立つだけなので、当然なし。恋愛相談は他校の生徒を巻き込んだ模様だが、上手くいった様子は皆目なかった。
 そういう苛立ちもあってか、山本だけが孤爪に厳しい。完全な八つ当たりに嘆息して、チームを取り仕切っている黒尾は順番が回って来たカードを引いた。
「お先に失礼」
「あー、ずるい!」
 そして手元に残っていたカードと合わせ、部員で作った輪の中心に放り投げる。見事に数字が被った二枚のトランプに、謂われない抗議の声を上げたのは灰葉だった。
 ロシア人とのハーフである彼は、背が高く、手足の長さも日本人離れしていた。
 羨ましくなる体格の良さに加え、運動神経の良さも並外れている。今は素人に毛が生えた程度ながら、二年後にはチームの主力に育つだろう。
 難点があるとすれば、上級生相手にも遠慮がないところか。
 部長がイカサマをしたとでも言いたいらしい。憤慨している灰葉の手元には、人より多めのカードが残されていた。
「ずるくねーよ」
 種も仕掛けもないと両手をひらひらさせて、黒尾は半分眠ったままの幼馴染に視線を投げた。
 このまま放っておけば、いずれ山本か、夜久の膝へ倒れ込む。そうなる前にゲームから引き抜き、布団へ移動させた方が良いだろう。
 暇を持て余した高校生が、寄って集ってババ抜きというのも些か切ない。せめてボードゲームだろう、と思うのだが、それはそれで持ってくるのが大変だ。
 家にある、埃をかぶった人生ゲームを思い出して目を細め、黒尾はゆっくり立ち上がった。
 ゲームは続いていたが、孤爪の脱落は目に見えていた。不戦敗として許しえもらう事にして、幼馴染の方へ向かうべく歩き出そうとした矢先。
 ふと見えた扉の向こうに、彼は眉を顰めた。
 梟谷グループの合宿は、毎回場所が変わる。一校だけに負担がいかないように、ローテーションを組んで、宿泊先を変更する決まりだった。
 今回は、森然高校。名前通り豊かな緑に囲まれて、お蔭で朝から蝉がうるさい。
 そんな埼玉の高校は、体育館が三つもあるくせに、学内に合宿施設が無かった。参加者は学校別に割り振られた教室に布団を敷いて、そこで寝起きしている。女子マネージャーだけは別棟で、一ヶ所に集まっていた。
 あそこだけは空気が違う。とても近づける雰囲気ではないのに、初日から訪ねて行った馬鹿がいるというから、驚きだ。
 その愚か者を一瞥して、黒尾はその隣に再度視線を向けた。
「研磨」
 相変わらず寝落ちる直前の幼馴染を呼び、反応がないのに目尻を下げる。どうしたのかと夜久が顔を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
「おや」
 その彼の斜め向かいにいた海が、誰より先に部長の意図を察して微笑んだ。朗らかな菩薩顔で戸口を見て、残り二枚になっていたカードは膝の前に伏して置く。
 不可思議な行動を執った彼に眉を顰め、犬岡も遅れて教室後方を振り返った。
 廊下の電気は消されていた。当然、暗い。だが開けっ放しのドアから光が漏れており、何も見えないわけではなかった。
 そのドアに隠れるような格好で、ひとり、誰かが立っていた。
「あっ!」
 誰何の声を上げるまでもなかった。突如鋭く叫んだ犬岡に、真剣な顔をしてカードを睨んでいた灰葉が驚き、飛び上がった。
 柴山も目を見張り、忙しく左右を見渡した。山本も同様で、孤爪だけが静かだった。
 ある意味肝が据わっていると失笑し、黒尾は今にも駆け出しそうな犬岡を制して今一度幼馴染を呼んだ。
「いいのか、研磨。チビちゃん来てんぞ」
「――っ!」
 瞬間だった。
 嫌味たらしい黒尾の発言に、寝入る直前だった孤爪はカッと目を開いた。
 一瞬で覚醒した彼に、山本が吃驚して背筋を粟立てた。異様なまでの孤爪の変貌に、夜久も絶句して言葉が出ないようだった。
 海と黒尾だけがしれっとした顔で笑い、我慢し切れなくなった犬岡がその場でぶんぶん手を振った。
「ショーヨー!」
「うひゃ」
 近所迷惑な大声で呼ばれて、廊下で困っていた少年は小さく悲鳴を上げた。入って良いものか迷っていたら先に気付かれて、首を竦めつつ、そろりと前に出て頭を下げる。
 恐縮している他校の一年生に、黒尾は何を企んでいるのか、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「しょ、しょう、よう? え?」
「よっ。どうした? うちになんか用?」
「あ、日向だ」
 今さっきまで眠っていた孤爪は、睡魔が吹き飛びこそすれ、完全な覚醒には至っていなかった。その隙を狙って黒尾が代表して質問し、後ろでは今頃気付いた灰葉が間抜け顔を晒した。
 中腰になっただけで動けずにいる幼馴染を残し、音駒高校排球部主将は戸口へ歩み寄った。迫る巨体に日向は臆したか、若干尻込みして、返答に窮してひとり右往左往していた。
 どうやら彼は、黒尾に苦手意識があるらしい。こんなにも心優しい男を捕まえて、それは酷いと思うのだが。
「ちーびちゃん?」
「うぇ、あ、いえ。あの。お、お邪魔なら……」
「なに、日向どうしたの。俺に会いに来た?」
「っと、おい。リエーフ、邪魔だ」
 なかなか返事がないのに焦れてせっついていたら、リエーフが背後から飛び出して来た。強引に話に割り込んで主導権を握ろうとして、押し返されても諦めない。
 ぞんざいに扱われている灰葉にきょとんとして、日向は間を置いて噴き出した。
「んーん。リエーフじゃなくて、えっと。研磨……じゃない。孤爪、くん。さん? いますか?」
 緊張していたのが、同い年の馬鹿の登場で少しは解れたらしい。おどおどしていたのもどこかに消えて、声にも元気が戻って来た。
 見事に振られた灰葉がしょんぼり落ち込むのを払い除け、黒尾は半歩下がって境界を区切るレールを跨いだ。
「居るぜ。今にも寝そうなのが」
「クロ!」
 日向と向き合ったまま後退し、中に入るよう手招いて口角を歪める。台詞は聞こえていたようで、珍しく孤爪の大きな声が轟いた。
 腹の底から絞り出した怒号に、音駒高校の面々も一部が目を丸くした。日向も一緒になって驚いていたが、吃驚するポイントは皆と少しずれていた。
「研磨、寝ちゃう?」
 促されて遠慮なく室内に入り、開口一番彼は言った。視線は真っ直ぐ孤爪に向かって、訊かれた方は気まずそうに唇を噛んだ。
 長い前髪の隙間から幼馴染を睨むが、黒尾は呵々と笑うだけだった。
 飄々とした男にダメージを与えるのは難しい。諦めて、孤爪は溜息ひとつで気持ちを切り替えた。
「寝ない。……まだ」
 意識を日向に向けて、ぼそぼそと小声で返す。若干聞き取り辛い音量だったが、きちんと拾い上げた彼は嬉しそうに破顔一笑した。
 良かった、と胸を撫で下ろし、烏野高校の雛鳥はその場でぴょん、と飛び跳ねた。薄手のシャツが空気を受けて膨らんで、華奢な腰回りが一瞬人前に晒された。
 あちらの学校も風呂を終え、寝支度に入っているらしい。見れば日向の髪はまだ乾ききっておらず、襟足は湿って肌に貼り付いていた。
 責任感が強く、しっかり者で頑固そうな烏野の部長が、彼の外出をよく許したものだ。食わせ者な一面を隠した男を思い出し、黒尾は孤爪に駆け寄る日向を追って踵を返した。
 開けたままだったドアをわざと五月蠅く閉めて、床に落ちていたトランプを拾う。灰葉がしまった、と青い顔をしたので、これらは彼の手持ち分だったようだ。
 ババ抜きの継続は最早不可能だ。山本が面白くなさそうにする中で、日向は上履きを脱ぎ、敷き詰められた布団にちょこん、と腰を下ろした。
 彼も彼で、かなり肝が据わっている。場合によってはライバルにもなりえる他校のチームに潜り込み、堂々と紛れようとしているのだから。
 もっとも黒尾も、似たような経験を過去に持ち合わせていた。
 梟谷高校のバカ主将とは高校一年からの付き合いだし、森然高校の連中だってそうだ。彼らの寝床に押しかけて、明るくなるまでバレーボール談義に花を咲かせた夜もある。
 但し小さなミドルブロッカーの用件は、そんな暑苦しいものとは無縁だったけれど。
「研磨、研磨。ね、あっち向いて」
「翔陽?」
 突然やって来た日向に、黒尾以外のメンバーも興味津々だった。ただ本人は全く気にしていない様子で、明るい声で言い放つと、年上相手に平然と指示を出した。
 呼び捨てを許したのは孤爪だと聞いているから、その点については誰も、何も言わない。むしろ人馴れしていない彼が積極的に他者と関わろうとしている事態に、一部の部員は感動で涙を流していた。
 大袈裟な夜久に呆れつつ、黒尾は拾ったカードを山本のモヒカンに突き刺した。
「あんまりだ!」
 手を離しても綺麗に刺さったままなのに、柴山が我慢出来ずに噴き出した。犬岡も指を指して笑っており、騒ぐ声に振り返った日向が首を傾げた。
 不思議そうにする彼に黒尾は愛想笑いを浮かべ、ひらひらと手を振った。反対側を向くよう言われた孤爪も気になるのか、ちらちら視線を送っては、誰かと目が合いそうになる度にサッと俯いて顔を隠した。
 動くたびに長く伸ばした髪が揺れて、彼の額から鼻筋一帯を覆った。
 後ろ髪も同じくらいの長さだが、なにも無精で伸ばしているのではない。孤爪は元から人付き合いが苦手で、他人の視線を気にする子供だった。
 常に俯き、時々周囲を窺い、手元を気にしているフリをして、近くも、遠くもよく観察している。視界が広すぎると落ち着かないとかで前髪を長くして、その所為で逆に目立っているとの指摘には、散髪でなく、金色で染めるという荒業で対応した。
 明らかに邪魔な髪の長さはわざとだが、地毛が出て来て頭部がプリンになっているのは紛れもなく手抜きだ。ただ本人はあまり気にしていなかった。
 その彼の髪に手を伸ばして、日向はまだらに染まったひと房を掬い取った。
「翔陽?」
 いきなり触られて、軽く引っ張られた孤爪が声を上擦らせた。
 振り返りたいけれど止めた方が良いか葛藤し、若干仰け反るという中途半端な対応に出る。懸命に瞳を後ろへ流す彼を見て、日向は屈託なく笑った。
 少し離れた場所で見守る体勢に入っていた黒尾は、日向のズボンのポケットが不自然に膨らんでいるのに気付いて眉目を顰めた。
「あの子って、烏野の子だよね」
「そうそう。研磨の、大事なお友達」
「クロ!」
 そこへ横から話しかけられ、首肯と共に答える。夜久とのやり取りはしっかり聞こえて来たようで、不満げな怒号がまた響いた。
 顔を赤くして怒鳴る孤爪など、一年に一度、見られるかどうかだ。日頃からあまり感情を表に出さない彼の変貌ぶりに、夜久はまたしてもほろりと涙を流した。
「あの研磨が、あんなに……」
「お前は研磨の母親か」
「お前が放任し過ぎなんだろ」
「俺は研磨の親父じゃねーしな」
「もー、研磨ってば。じっとしてて」
 三年生二人のやり取りに、孤爪が苛立っているのがこの距離でも分かる。無言で睨まれて、黒尾は愉快だと肩を揺らした。
 年下に怒られて大人しく従う孤爪は、借りてきた猫のようだった。
 もっともその中身は、キツネの皮を被った獅子なのかもしれないが。
 面白い事になった。そう言わんばかりの悪い顔でほくそ笑んでいる黒尾を一瞥して、当の孤爪は小さくため息を吐いた。
 訪ねてきた理由も告げず、日向は孤爪の髪を弄っていた。
 自前なのか、誰かから借りてきたのか、ポケットから出した小型の柄付きブラシで上から下に何度も梳く彼は、いやに上機嫌だ。曲名は分からないが鼻歌も聞こえて、リズムよく手を動かしている。
 仕草には慣れが垣間見えた。
 日頃からこうやって、誰かの髪をブラッシングしてやっているのが窺えた。ではいったい誰を、と想像して、真っ先に出て来たのは烏野高校の九番だった。
 黒髪の、目つきの悪いセッター。ボールコントロール力はずば抜けており、粗削りで強引なプレイも目立つが、チームの中核を担い、ゲームを作っているのは間違いなく彼だ。
 日向の特徴でもある高速スパイクも、彼がいなければ成り立たない。あんな風に針の穴を通すような正確なトスは、孤爪も、梟谷高校の赤葦でも無理だ。
 セッターとして負けているとは思わないけれど、足りない部分を指摘された気がして胸が焦げ付くように痛んだ。思わずそこに手を添えてシャツを握りしめていたら、首元をなぞるように動いていた日向の指が遠ざかった。
「はい、でーきた」
 ぼうっとしていた。明るい声にハッとして、孤爪はいやにスースーする首筋を撫でた。
「え……」
「ブッ」
 直後に絶句する。斜め後ろからは、黒尾の噴き出す声が響いた。
 いつもそこにある、あの斑色の長い髪がなくなっていた。
 何処へ消えてしまったか、考えるまでもない。そのまま指を後ろに走らせれば、案の定、後頭部の付け根、うなじの上に髪の毛が集められていた。
 長さが足りないのもあって、結ばれた先はピンと跳ねていた。まるで威嚇中の猫の尻尾のようで、一部は重力に逆らい、天を向いていた。
 結び目にどうやっても届かなかった髪の毛も、櫛を通したことで後ろに向かって流れていた。短すぎた襟足数本だけが、恥ずかしそうに下を向いている。毛根を引っ張られた頭髪は、初めて経験する痛みに戸惑っていた。
 何が起きたのか。
 分かるのに、分からなかった。
「え、ちょ」
 時間が経つに連れて、己の身に起きた変化に心が慌て出す。焦って声を上擦らせた彼を知らず、日向は呑気に微笑んだ。
「これで涼しくなるな」
 混乱している孤爪に向かって堂々と言い放ち、彼は満面の笑顔で白い歯を輝かせた。それがあまりに眩しいものだから、孤爪は咄嗟になにも言い返せなかった。
 日向は櫛だけでなく、髪を結ぶ為のゴムも持参していた。これは確実に、彼の所有物ではない。
 わざわざ人に頼み、借りて来たのだ。
 研磨の、長い髪を結ぶ為に。
「よかったなー、研磨。似合ってんぞ」
 傍で見ていた黒尾は苦しそうに腹を抱え、げらげらと下品な笑い声を響かせていた。隣に陣取る夜久も必死にこみあげるものを堪えており、副部長の海だけが穏やかに目を細めていた。
 そんなチームメイトを順に眺めた孤爪の視界は、心持ち、いつもよりすっきりしていた。
 それもその筈で、日向によって長さがある分は悉く後ろに集められていた。頸部を覆って壁になっていたものが取り除かれて、風通しは抜群だった。
「え……――っ!」
 綺麗に晴れた視界を意識した。瞬間、彼はボッと火がついたように真っ赤になった。
 こんなにもクリアな見え方は、数年来経験していない。邪魔なものが取り除かれた世界は明るく、目に痛かった。
「あー!」
 直後には後ろに手を回していた。日向が結んだゴムを掴み、引き千切る勢いで取り払う。
 ずぶ濡れの犬宜しく首を振った孤爪の真後ろで、日向は突然の事に驚き、甲高い悲鳴を上げた。
「なにしてんのさ、研磨」
「うっ」
 身を乗り出した日向に詰め寄られ、いつもの暗さを取り戻した孤爪は唸った。円に結ばれた細めのゴムを右手に遊ばせて、尻込みして無意識に後退を図る。
 だがあっさり追い付かれた。口を尖らせて睨んでくる友人に、彼は困った顔で目を泳がせた。
 瞳をどの位置に動かしても、全てに前髪が紛れ込んだ。視界は一部隠され、外界から孤爪を隔絶した。
 現実に壁などありはしないのに、そんな雰囲気を彼に抱かせた。守られているという安心感と、他人から表情が見えにくいという事実が、孤爪の精神を安定させていた。
「お、……おちつかない、から」
 人の視線は気になるのに、人から視線を向けられるのは恐い。
 注目を浴びたくない。じっと見つめられるのに慣れていない。
 開かれた視界は、緊張する。だから嫌だと手短に告げれば、日向は分かったのか、分からなかったのか、微妙な顔で頬を膨らませた。
「でも、昼間、暑くない?」
「それは、……我慢する」
「えー、そこは我慢しなくていいよー。だって昼間の研磨、おれ、見てるだけであっついもん」
「おー、おー。言われてんぞ、研磨」
「クロは黙ってて」
 ふたりの会話に、度々黒尾が割り込んでくる。横からの茶々は鬱陶しくて、孤爪は険しい声で吠えて奥歯を噛んだ。
 日向の指摘は、もっともな話だった。
 確かに、この髪は暑い。汗で顔や首に貼り付くのも鬱陶しく、逐一払うのが面倒臭かった。
 ひと言でいうなら、邪魔。それは見ている側も同様だった。
 足りない頭を捻り、知恵を絞って、今回の行動に移ったのだろう。日向の気遣いを無碍に扱った形となって、孤爪は気まずさに顔を顰めた。
 親指に通したゴムを人差し指で引っ張って、彼は返す言葉に迷い、躊躇しながら口を開いた。
 瞬間だった。
「研磨だって、こんなに長いと邪魔でしょー」
「!」
 伸ばされた手が孤爪の額を撫でた。
 掻き上げられようとしていると知り、彼は咄嗟に後ろへ仰け反り、倒れた。
「あ……」
 ひとりで勝手に転んだ孤爪に、まさかそこまで嫌がられると思っていなかった日向は目を丸くした。行き場を失った手を開閉させて、ショックを受けたのか、暗い顔で俯いてしまう。
 後ろ向きに倒れたのは孤爪としても予想外で、大袈裟に驚き過ぎたのは完全な失態だった。折角訪ねてきてくれた相手をもてなすどころか落ち込ませ、悲しませた。
 なにを、どう言って、どんな風に弁解すればいいのか。
 ただでさえコミュニケーション能力に乏しい孤爪だ。最早自力でどうこう出来る問題ではなくなっていた。
「ごめんなー、チビちゃん。うちの研磨が失礼して」
「うぎゅ」
 見るに見かねて助け舟を出したのは、黒尾だった。
 彼はいつの間にか場所を移動して、脚を広げて座る日向の後ろで腰を落とした。丁度良い高さにあるからとオレンジ色の頭に圧し掛かって座り、向き合う形になった幼馴染に不敵な表情を作る。
 にやにや笑う顔からは、滅多にない状況を楽しんでいる空気が駄々漏れだった。
「クロ……」
「こいつな、人と目ぇ合わすの、昔っから苦手なの」
 いったい何を言い出す気か。孤爪の胸に不安が渦を巻く中、黒尾は意外にも真面目に回答した。
 これもまた、予想外。この男は人をからかい、挑発するのが得意なだけに、平然と嘘を吐く日も多かった。
 驚いて目を丸くしていたら、ニヤリと笑われた。見透かされたようで気分が悪く、孤爪はふいっと顔を背けて小鼻を膨らませた。
 それでいながら日向の反応が気になって、聞き耳を立ててしまう。遠くでカードゲームを再開させた犬岡たちの声を排除して意識を集中させていたら、盗み見た視界の端に、不敵とも取れる嫌味のない笑みが映し出された。
「知ってるけど?」
 直後に放たれた台詞に、目を丸くしたのは孤爪だけではなかった。
 黒尾も想定していなかった返答にぽかんとし、続ける言葉を見失って沈黙した。妙な間が流れ、日向だけが不思議そうに首を傾げた。
 やがて、純朴な少年は。
「あっ。し、知ってます、けど!」
 年上に対して失礼な言葉遣いをしたと勝手に反省し、改めて言い直した。
 そうではないのだが、突っ込む気は起こらなかった。絶句していた黒尾は先に我に返り、素で言い切った少年の頭を意味もなくぽんぽん叩いた。
「トサ……クロさん、重いんですけど」
 何かを言いかけて訂正し、いつまでも乗っかられたままの日向が抗議した。上目遣いの怖くない睨みに相好を崩して、見事に出し抜かれた黒尾はひらひら手を振りながら後退した。
 そして彼の右隣に移り、脚を崩して座り直した。
「そうか。チビちゃんは知ってたか」
「でも、苦手だからって、ずっとそうやってるの良くないと思うし。あと、やっぱ暑いのヤだし」
 この子は馬鹿なようで、意外に人をちゃんと見ているのかもしれない。
 感心する黒尾を余所に、面と向かって正論を吐かれた孤爪は苦虫を噛み潰したような顔をした。痛いところを指摘されたと渋面を作り、まっすぐ人を射抜く眼差しをちらりと窺い見る。
 彼の鏃は鋭い。一度刺されば引き抜くのは不可能なほどに深くに根付き、周囲を侵食して汚染していく。
 染め変えられた世界は、眩しい。だから孤爪は、余計にカーテンを閉じる。前髪という薄い膜で視界を覆ってでしか、この強すぎる光を直視できない。
 嗚呼、けれど。
 言いかけた言葉を呑み、孤爪は黒いゴムの輪を丸めた。指に何重にも絡みつかせ、解き、長い逡巡の末に恐る恐る顔を上げる。
 傍に控える黒尾が不愉快だったが、追い払ったところでどうせ居座り続けるだろう。
 魂胆は見え見えで、いけ好かないが、たまには彼の策略に乗ってみるのも悪くなかった。
 なんとお節介で、面倒見が良くて、下世話な男なのだろう。そしてそんな幼馴染の企みを瞬時に看破出来る自分も大概だと肩を竦め、孤爪は言い渋っていた言葉を舌に転がした。
 預かったままだったゴムを差し出し、受け取るべく伸ばされた手を掴んで。
 日向を引き寄せ、自分からも前に出て。
「わっ」
 驚く彼の額に擦れ合う距離まで近づいて。
「ふたりだけ――の時、なら。いいよ」
 苦手な事に慣れるには、まず簡単なところから。
 きっとそんな風に解釈されるだろう台詞を囁き、孤爪は小さな手をぎゅっと握りしめた。
 少年は返されたゴムを何の疑いもなく握りしめ、二度続けて瞬きした。そして面映ゆげに微笑んで、しっかり深く頷いた。
「おう!」
 嬉しそうに返事をするその笑顔が、眩しくて。
 ふたりだけの方が余程ハードルが高いと、孤爪は少し、後悔した。

2014/08/24 脱稿