朱砂

 その報せを受けたのは、午後零時半を少し過ぎた辺り。昼休みが残り半分を切った頃だった。
「日向、ひなたー!」
 どたどたという足音と共に飛び込んできた大声に、教室に居た全員が一斉に振り返った。
 開けっ放しになっている後方の扉を見れば、声の主が肩を上下させて息を整えていた。ドアを塞ぐ形で仁王立ちしており、小柄な体格の割に実に男らしい佇まいだった。
 そんな失礼な感想を抱いて、呼ばれた少年は不思議そうに眉を顰めた。
 現れたのは、他クラスの生徒だった。
 谷地仁花。進学クラスに当たる五組に在籍する少女は息を切らし、そこに日向の姿を認めると、血相を変えて室内に飛び込んできた。
 顔色は赤いようで青く、眼は血走っていて少し怖い。興奮しているのか、鼻の穴がいつもより大きかった。足取りも荒くて、普段の内気さは皆無だった。
 控えめで大人しい性格は何処へ行ってしまったのか。こんな豪胆な人物だったかと認識を改めていたら、彼女は惚ける日向の前で立ち止まった。
 ぜいぜいと乱れた呼吸を整えて、谷地は思い切り、日向の机を叩いた。
「大変だよ!」
 同時に叫び、唾を散らす。怒鳴りつけられた方は唖然として、大粒の目をぱちぱちさせた。
 バンっ、とかなり良い音がした。突然の来客に一組の生徒も騒然となり、何事かと顔を見合わせた。
 クラスメイトの注目を一手に集め、日向は飲み干す直前だった牛乳を手に頬を引き攣らせた。
「え、え……と?」
「あのね。えっと、だから……大変なの」
「うん。なに、が?」
 前触れもなくやってきた彼女に大声で喚かれて、戸惑いが否めなかった。
 大変だと言われても、その内容が分からないので焦れない。彼女がこんなにも慌てるところは見たことがなくて、だから何が起きているのか、日向にはさっぱりだった。
 エスパーではないのだから、説明なしでいきなり理解するなど不可能だ。困った顔で小首を傾げれば、それでやっと我に返ったらしい。谷地ははっと息を呑んだ。
 両手で口元を覆ってから、恥ずかしそうに赤くなった。やっといつもの彼女が戻ってきて、日向はホッと胸を撫でおろした。
「谷地さん?」
「あ、あのね。あのっ」
「落ち着いて。ね?」
 気が動転していた所為で、我を忘れていた。今更羞恥心に襲われている彼女に苦笑して、彼は叩かれたばかりの机を手で覆い隠した。
 縁を握って身を乗り出し、少しだけ腰を浮かせる。下から覗き込んできた彼に首肯して、谷地は深呼吸を二度繰り返した。
 咥内の唾も一気に飲み干して、彼女はもじもじしながら目を逸らした。
「えっと、ちょっと……一緒にきて欲しいんだけど」
「うん?」
「ヒュー。日向、彼女か?」
「ばっ、ちげーよ!」
 よそを向きながら言われて、意外な発言に日向が驚く。その横で昼食を共にしていたクラスメイトが騒ぎ、彼は即座に立ち上がった。
 椅子を蹴飛ばして身を起こし、からかう男子を黙らせる。谷地も大慌てで否定して、おたおたしながら首を振った。
「え、あの。私、バレー部のマネージャーだから」
「そう。谷地さんはマネージャー。変なこと言うなっての」
 否定に走った谷地に乗っかり、日向も顔を赤くしつつ怒鳴った。妙な誤解をされたくなくて必死に捲し立て、残っていた温い牛乳を誤魔化しに一気飲みする。
 中身がなくなった紙パックを握り潰して、彼はまだ笑っているクラスメイトを思い切り睨みつけた。
「それで、谷地さん。行くってどこへ?」
「あ、あのね」
 からかわれた仕返しとゴミの処分を友人に任せ、話を少し前に巻き戻す。行き先を問われて、谷地は不安そうに目を泳がせた。
 握り拳を胸に押し当て、視線は足元へ。そこに何があるわけでもないのに、と不思議がっていたら、彼女は予想外の場所を口にした。
 谷地が俯いた理由がおぼろげに理解出来て、日向は呆気にとられて目を丸くした。
「マジで?」
「うん」
 にわかには信じられなくて、声が掠れた。絶句する彼に頷いて、何故か谷地が申し訳なさそうな顔をした。
 そういえば、思い当たる節があった。今朝からの出来事を大雑把に振り返って、直後。
「あ、おい」
「日向?」
 クラスメイトや谷地が慌てるのも聞かず、日向は猛然とダッシュを決め込んだ。
 今度は彼が血相を変えて、廊下へと飛び出した。階段を五段飛ばしで駆け下りて、一階に到着と同時に進路を右へ取る。
 場所は頭の中に入っていた。日頃なにかとお世話になる部屋なだけに、最短コースはばっちりだった。
「――影山!」
 息せき切らし、廊下を突き抜ける。途中で教頭とぶつかりかけたが構わず、日向は保健室の扉を勢いよく開けた。
 引き戸を右に滑らせれば、反対側の壁に激突して凄い音がした。反動で跳ね返ってきたそれに挟まれそうになって、彼は慌ててレールを跨いだ。
 額に汗を流し、瞠目したまま中を見回す。けれどベッドはカーテンで囲われており、入口からは見えなかった。
「こぉら、静かに」
 落ち着きなく身を乗り出した彼を、養護教師の女性が低い声で叱った。コマ付きの椅子を半回転させて振り返り、細く長い人差し指を唇へと押し当てる。
 年齢不詳の教諭に諭され、ここがどこかを思い出した少年は慌てて口を噤んだ。
 左手で顔の下半分を覆い隠し、右手は後ろに回してドアを閉める。遠く聞こえていた校舎内のざわめきが途絶え、保健室は急に静かになった。
 窓は閉まっていた。冷風を肌に感じるのは、この部屋だけ空調が働いているからだろう。
 瞳を浮かせて天井付近を眺め、日向は恐る恐る、もう一歩を踏み出した。
 消毒薬の匂いが鼻腔を擽った。あまり好きではない類の香りに眉目を顰め、首を竦めた少年は改めて部屋の奥を覗き込んだ。
 白いカーテンに覆われているのは、窓に近いひとつだけだ。それ以外はすべて一ヶ所に集められ、手持無沙汰に風に揺れていた。
 未使用のベッドにも、急患がいつ来ても良いように布団が敷かれていた。だが今のところ、こちらが使われる様子はなかった。
「日向君、だっけ?」
「ひゃいっ」
 どこからどう見ても健康体の一年生に、養護教師が頬を緩めた。
 名前を言い当てられて、日向は背筋をピンと伸ばした。返事は完全に裏返っており、緊張が丸見えだった。
 呂律が回りきらなかった彼を笑って、女性は握っていたボールペンを手放した。来訪者の用事を察して目を細め、空にしたばかりの手を部屋の奥へ差し向ける。
 示された方角に顔をやり、日向は緩慢に頷いた。
「バレーボール部は、今年も騒々しいね」
「うぐっ」
 意識を彼方へ飛ばしている横顔を眺め、女性がカラカラ笑った。それに胸をどきりとさせて、日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 練習でも人より動き回る彼だから、怪我も人より多かった。大体は打ち身に擦り傷程度だが、たまにざっくりやってしまうことがある。その場合は、保健室のお世話になった。
 お蔭で顔が知られていた。恥ずかしいやら照れ臭いやらで赤くなっていたら、女性教諭がゆっくり立ち上がった。
「さっき眠ったところだから、静かにな」
「あ、あのっ」
「うん?」
「影山、は……」
「ああ。心配ないよ」
 椅子を軋ませ、スッと背筋を伸ばす。途端に身長差が逆転して、見下ろされる形になった日向は目を泳がせた。
 しどろもどろの問いかけに優しく微笑んで、養護教諭は羽織っていた白衣の裾を叩いた。
 座っていた際に出来た皺を伸ばし、軽く肩を竦める。問題ないと告げても不安そうな男子高校生に目を細め、彼女は両手をポケットに押し込んだ。
「ただの寝不足。熱はないから、しばらく寝かせておけば元気になるよ」
「……へ?」
「遅くまで練習しすぎだよ、バレー部は。熱心なのも分かるけど、ちゃんと休憩も取るように。武田先生にも言っておくからね」
「あ、ハイ」
 喉の奥で笑みを押し殺しながら言われ、日向は面食らって唖然となった。
 御叱りを受けたが、正直、右から左へすり抜けて行った。目を点にした彼に嘆息を追加して、女性は緩やかに右足を繰り出した。
 戸口近くに佇む日向の横をすり抜け、日向が閉めたドアを左に走らせる。ガラッ、と音がして、彼は慌てて振り返った。
「保健室では、静かにな」
「え、えっ」
「コーヒー買ってくる。留守番よろしく」
「えー!」
 それを面白そうに眺め、女性が軽やかに手を振った。なんとも無責任な台詞をひとつ残して、抗議の悲鳴も無視してピシャリと扉を閉める。
 取り残された日向は絶句し、惚けたまま立ち尽くした。
 びっくりし過ぎて、顎が外れそうだった。
 都合よくやってきた生徒と思われたのだろうか。ここでもし急患が駆け込んで来たらどうするつもりなのか、彼女の腹の中は全く探りようがなかった。
「……いいのかな」
 けれど今から追いかけて、部屋に戻るよう言うのもどうかと思う。
 ここから自動販売機が並ぶ食堂まで、往復でも五分とかからない。それくらいなら大丈夫かと腹を括って、彼は肩の力を抜いて深く息を吐いた。
 乾いた唇をひと舐めして、顔を上げる。視線は自然と、カーテンに遮られたベッドに向かった。
 躊躇を踏みつけて、日向は恐る恐る窓辺に近づいた。
 静かにするよう注意されたので、極力足音は響かせない。慎重に、気配を殺しながら接近して、揺れもしないカーテンの切れ目にそっと手を差し入れる。
 暖簾をくぐるように左斜めに押し上げた彼の瞳に、白い布に包まれた男が映し出された。
 瞼は閉ざされていた。枕の高さが合っていないらしく、顎を上げる形で横になっている。唇は薄く開かれ、隙間から細い息が漏れていた。
 力なく垂れた黒髪が枕カバーに広がり、右腕だけが布団の上にはみ出ていた。少しだけ肘に角度を持たせて、掌は胸に添えられていた。
 最初に頭に浮かんだのは、意外に寝相がいい、という感想だった。
「なーんだ」
 顔色は若干悪いながら、寝顔は穏やかだった。魘されてもいない。呼吸は安定しており、汗をかいている様子もなかった。
 養護教諭の言っていた通り、本当にただの寝不足だったらしい。心配する必要などなかったと安堵して、日向は顔を綻ばせた。
 谷地が軽いパニックを起こしていたから、いったいどんな重病なのかと思ったが、肩透かしも良いところだ。三組の教室でいきなり倒れ、保健室へ運ばれたと聞いた時は、心臓が止まりそうだった。
 クラスの男子に抱えられて保健室へ向かうところを、谷地がたまたま目撃したのが騒動の発端だ。気が動転した彼女は保険医に症状を聞きもせず、勝手に勘違いして日向の元へ駆け込んだのだ。
 部長や顧問の武田ではなく、真っ先に日向に知らせにいったところが、谷地なりの気遣いだろう。教えておいた方が良いと思って、と口籠りながら言っていたのを振り返り、彼は苦笑した。
 彼女も心配しているだろうから、後で問題ないと伝えておかなければ。
 心優しいマネージャーに相好を崩して、日向はそっと、手を伸ばした。
「この、ハゲヤマめ」
 ぽつりと呟き、ピッ、と指を弾く。もっとも爪先は肌を掠めず、額にかかる黒髪を撥ねただけだった。
 叩いたら、折角寝入った彼を起こしてしまう。保険医も言っていたではないか。少し休めば元気になる、と。
 だから一応気遣って、日向は目尻を下げた。
 人を散々振り回しておいて、呑気に眠りこけている彼が若干腹立たしい。放課後前に先輩たちにもこのことを知らせて、練習時には代わりにからかってもらおう。
 真っ赤になって恥ずかしがる影山を想像して笑い、日向は改めて、穏やかな寝顔に見入った。
 悔しいくらいに整った顔立ちだった。
 喋らせれば残念な男だが、黙って立たせていると十分格好いい。女子がはしゃぐのも、当然といえば当然だった。
 背は高いし、引き締まった体格をしている。鋭い目つきは獣のそれで、低い声は迫力満点だった。
 反面、時々ふと優しい声色になって、それが蕩けるくらいに耳に心地よかった。
「……っ」
 記憶が蘇り、脳内で音声が再生された。まるで今、耳元で囁かれたみたいに感じられて、日向は咄嗟に頭を抱え込んだ。
 勝手に赤くなる頬をもう片手で隠し、急に跳ね上がった心拍数にもドギマギして唇を噛む。ベッドの横でひとり百面相をしていたら、気配に反応したのか、影山の睫毛がピクリと震えた。
 右の人差し指も痙攣を起こし、シーツの海に沈んでいった。ずり落ちた腕に驚いて目を丸くしていたら、長く閉ざされていた瞼もヒクヒク揺れ始めた。
「げえっ」
 気を付けていたつもりなのに、覚醒を促してしまった。目覚めようとしていると知り、日向は慌てて左右を見回した。
 逃げるべきか、隠れるべきか。起こしてしまった引け目と、なにより喧嘩別れしたままなのを懸念して焦っていたら、動く前に影山が薄ら目を開いてしまった。
「……ん、ぅ?」
 小さく呻き、寝台に横になった男が眉を顰めた。
「ど、どうしよ」
 瞳は宙をさまよい、枕元に立つ日向を捉えていない。立ち去るなら今のうちだが、出ていくにはカーテンを開く必要があった。
 音で反応されてしまうのは、あまり宜しいとは思えなかった。ならばどうする、と袋小路に追い詰められて焦っていたら、首をコテン、と倒した影山が怪訝そうに目を細めた。
 枕の上で身じろいで、彼は虚ろな眼差しを空に投げた。
「ひな、……た?」
「ドキッ」
 掠れる小声で名を呼ばれ、日向は口から飛び出そうになった心臓を飲み込んだ。
 両手で顔を覆い、別人を装うとするがすでに遅い。影山は寝起きの顔で数秒沈黙し、ぼんやりしたまま唇を動かした。
 意識はまだ完全に目覚めていないようだった。半分だけ水面から顔を出した状態で、夢うつつの境界線を漂っている雰囲気だった。
 怒鳴られるのを覚悟していただけに、この反応は意外だ。あれ、と思って指の隙間から目を覗かせれば、力なく横たわった男が静かに、優しく、微笑んだ。
「まってろ。すぐ、おまえに……トス……おれが、サイキョーの……」
 たどたどしく告げて、影山は瞼を下ろした。そのまま枕に顔を沈め、再びスースーと寝息を立て始める。
 一瞬の出来事だった。五秒とかからず眠ってしまったチームメイトに絶句して、日向は目をぱちぱちさせた。
「え、寝た?」
 呆気にとられ、しばらく動けない。変なポーズで凍り付いていたのを解除して、日向は恐々ベッドを覗き込んだ。
 顔を近づけても、影山は目を覚まさなかった。
 今のはいったい、なんだったのか。夢でも見ていた気分になるが、それはむしろ影山の方だろう。
 空耳を疑ったが、そんなはずはない。彼は確かに日向を見て、日向に向かって喋りかけていた。
 待っていろ、と。
 最強のトスを上げてやるから、と。
 一泊二日の東京遠征で、自分たちの実力不足を痛いくらいに思い知った。
 今のままでは勝てない。青葉城西高校に跳ね除けられた現状を維持したままでは、弱くもないけれど強くもない、中堅止まりのチームで終わってしまう。
 目標は全国大会、オレンジコート。そこに到達する為には、目を瞑っての速攻頼みでない、日向だけの武器が必要だった。
 追い付かれても壁を打ち砕けるだけの、空中を自在に駆ける翼が必要だった。
 烏養前監督の助言もあり、今はまだ朧げだけど、目指す形は少しずつ見え始めていた。ただ、そこに至るにはどうしても、影山の力が必要だった。
 彼もまた、もがいているのか。目を瞑るのをやめると言って以降、ろくすっぽ口を利いていないし、速攻を合わせてもいないけれど。
 信じて待っていても良いだろうか。
 ふたりなら最強だと、また胸を張って言ってくれる日が来るのなら。
「分かった」
 眠る彼に頷き、日向も目を閉じた。額が擦れる近さで囁き、早く元気になってくれるよう祈る。
 影山なら、絶対大丈夫。信じて待っていれば、きっと平気だ。
 だから自分も、彼を落胆させないように。目の前の、今できることを精一杯に。
 寝不足で倒れるくらい根を詰めるのはよくないけれど、努力の証拠だとしたら怒れない。先輩への告げ口は、今回は見逃してやることに決めて、日向はゆっくり背筋を伸ばした。
 正面を見れば、カーテン越しに太陽が見えた。柔らかく照る輝きに相好を崩して、彼は左足を引いた。
「おやすみ、影山。また後でな」
 くるりと反転し、視界を覆う布を払う。シャッ、とカーテンをレールに走らせ外に出たところで、丁度昼休み終了を告げる鐘が鳴った。
 高らかと響く音色に、影山の安眠が邪魔されないか不安になった。しかし振り返り見た彼は呑気に高いびきを継続中で、この程度で寝覚める様子は皆無だった。
 なんという図太さだろう。本当に、先ほど一瞬だけ目を開いたのがウソのようだ。
「チャイム鳴ったぞ。戻れよー」
「はーい」
 苦笑していたら、コーヒー缶を片手に保険医が帰ってきた。日向は間延びした声で返事をして、開けたまま放置されたドアへ駆け寄った。
 お辞儀をして、扉は閉めて廊下を走る。一年生の教室は四階にあるので、急がなければ本鈴に間に合わない。
 慌ただしく去って行った男子生徒に目を細め、保険医は買ってきたコーヒーを机に置いた。日向が半端に開けていった仕切りのカーテンに目を向けて、閉めてやろうとそちらへ向かう。
 覗き込んだベッドでは、大柄の生徒が変わらず寝息を立てていた。
 顔色はかなり良く、表情も和やかだ。運ばれてきた当初の、何かに苦悩する姿は欠片も残っていなかった。
「良い夢でも見てるのかね」
 悪夢の中で呼びかけていた相手に付き添われ、少しは楽になったのか。
 不治の病にも妙薬があったものだと苦笑して、彼女は素早くカーテンを閉めた。

2014/07/28 脱稿