薄明

 影山飛雄なる人物は、よく分からない男だ。
 性格は、良く言えば真面目。悪く言えば融通が利かない。人の話に耳を貸さず、独断専行で我が道を突き進むタイプ。言葉遣いは乱暴で、常に不機嫌そうにしている。笑うのが苦手というか、下手。学校の成績はイマイチ。
 反して運動神経はかなり良い。背が高く、骨太で、図体だけは一人前だ。手が大きく、指も太い。声も低めで、怒鳴り声には迫力がある。
 趣味はバレーボール。
 特技もバレーボール。
 好物はポークカレー。だから肉まんよりも、カレーまんを選びたがる。まだ身長が欲しいのか、毎日牛乳を飲んでいる。
 北川第一中学出身で、ポジションはセッター。王様というあだ名は、昔のチームメイトがつけたもの。
 度胸があるようで、意外に人見知り。いつも自信満々で偉そうだけれど、時々脆く壊れそうな顔をする。
 教室を覗くと、大抵机に突っ伏して眠っている。起きているのは飯時と、部活中だけ。クラスに友達がいないのか、常にひとり。
 女子からは人気がある、らしい。同じ部活だという理由だけで、彼のことをあれこれ聞かれる事も多い。嫌な奴だと本当のことを教えたら、何故か最低、とこちらが罵られた。
 確かに影山の見た目は悪くない。白目を剥いて居眠りしている姿は爆笑ものだが、コートの中の彼は水を得た魚の如く生き生きしていた。
 もうちょっと口ぶりが穏やかで、相手の気持ちを汲める奴だったらよかったのに。そんなことを考えて、日向は隣を窺った。
「なんだ?」
 すぐさま視線に気づき、影山が首を傾げた。もごもごと口を動かしながら呟いて、唇に付着したソースを拭い取る。
 そのまま親指をぺろりと舐めた彼にびくりとして、日向は慌ててかぶりを振った。
「いや、なんでもない。なんでも」
 言い訳がましく捲し立て、取り繕うように手にしたパンに噛り付く。咀嚼もせずに三口分を咥内に詰め込んで、塊が大きいまま飲み込もうとする。
「んぐっ」
 当然、詰まった。圧迫感に息が出来ず、ドンドンと胸を叩くが落ちて行かない。
 このままでは窒息死だ。焦って慌てふためく彼に深い溜息を零し、影山は膝元に手を伸ばした。
 コンクリート製の階段に置いていた紙パックを取り、傍らへと差し出す。何の躊躇もなかった天才セッターにコクコク頷いて、日向は渡された物に口をつけた。
 ストローを咥え、中身を一気に吸い込む。温くなった牛乳がみるみるパンに染み渡り、柔らかさを増して小さくなった。
「ぷひゃー」
 死ぬかと思った。
 喉に引っかかっていたものが食道を下っていくのを待って、日向は生き長らえた幸福に目を輝かせた。
 死因がパンを詰まらせての窒息など、恥ずかし過ぎる。無事に危険を回避出来たのを喜んで、彼はほっと胸をなでおろした。
 まだ少し引っかかっている気がするが、そのうち全て、胃に落ちるだろう。咽喉に残る違和感を指でなぞって慰めて、彼は右手に握りしめていたものにふと視線を投げた。
 瞬間、それが上から引き抜かれた。
「あ……」
「ボケが」
 掴んでいたものが消えて、緩く握った拳が残された。遠ざかるパック牛乳を目で追って、日向は仏頂面の男をそこに見出した。
 ぶっきらぼうな物言いとセットになった表情は呆れ気味だった。けれど一瞬笑っているように見えたのは、恐らく気のせいではない。
「……あんが、と」
 目の錯覚とは言い切れない光景が、瞼に焼き付いて離れない。肩を竦めて苦笑する影山を脳裏に蘇らせて、日向は居心地悪そうに身を捩った。
 それとなく左へ移動して彼から遠ざかり、距離を作る。五センチほど広がった空間を一瞥して、けれど影山は何も言わなかった。
 日向から取り返した牛乳パックを顔に寄せて、内部に白い液が残るストローを口に含む。円筒を前歯で軽く噛んだ彼を窺って、日向は即座に目を逸らした。
 肩幅に広げていた脚も閉じ、ひと口分残っていたパンを摘んで、口の中へ。今度は慎重に、ゆっくり時間をかけて噛み砕いて飲み込んだ彼は、やっと人心地ついたと空の袋を握り潰した。
 がさり、とビニールが音を立てた。本当はもうひとつ、握り飯があるのだけれど、とても食べる気になれなかった。
 満腹には程遠いのに、食欲が沸かない。身体と心のバランスが崩れている現状に眉を顰め、日向は深く長い溜息をついた。
「どうした?」
 それを聞いて、影山が呟いた。
 飲み終えたパックを脇へ置き、真剣な眼差しを向けてくる。突き刺さるその視線を苦々しげに受け止めて、日向はまたも、首を振った。
「なんでもない」
「そうか?」
「うん」
 力のない返答に、影山は眉間の皺を深くした。けれどため息の原因など、口が裂けても言えるわけがない。
 日向は黙って首肯して返し、風に飛ばされぬよう、空き袋の上に握り飯を転がした。
 重石替わりに使われた食べ物が、恨めし気に睨んできた。それを無視して顔を背け、日向は手持ちの、自分で用意した飲み物に手を伸ばした。
 残り半分を切っていた乳酸菌飲料を一息で飲み干せば、紙容器は真ん中で拉げて小さくなった。それを戻しもせずに放置して、彼は湿り気を強めた唇を、意味もなく開閉させた。
 ストローの感触を上書きで消そうと思ったのだが、なかなかうまくいかなかった。意識すればするほど思い出してしまって、日向は短い爪で唇を引っ掻いた。
 間接キスなど、今まで気にした事がなかった。
 回し飲みは日常茶飯事で、相手が女子であろうとも構わなかった。影山とだって過去に何度か、部活中にボトルを分け合ったことがある。
 だというのに、どうして。
 ここ最近の自分の変化に戸惑って、日向は爪を噛んだ。
「おい」
「っ!」
 小さな頃の癖を再発させて、顎に力を込める。それを見咎めてかどうかは分からないが、唐突に横から声が降ってきた。
 思わずびくついて、日向は大袈裟に肩を震わせた。
 振り向けば影山が、変な顔をして立っていた。
「やんねーの?」
 その手には焼きそばパンではなく、ボールが握られていた。
 表面はややくすんだ白色で、一部毛羽立っていた。年季が入ったボールの直径は二十センチ少々あり、日向はこれを片手で掴めない。
 それを易々と利き手一本で扱って、影山は短い段差を下って行った。
 ここは烏野高校、その敷地内にある体育館の前。男子バレーボール部が普段練習場としている第二体育館とは違って、見た目も立派で、まだ新しかった。
 本校舎から続く通路もピカピカで、正直羨ましい。だがこちらは広い分、複数の部が共同で使っているので、放課後はかなり騒々しかった。
 その点、第二体育館は男子バレーボール部専用だ。
 数年前に全国大会まで行った経歴が、今でも排球部を後ろから支えてくれている。広めの部室が使えるのだって、過去の栄光あってのことだ。
 その褪せかけた栄光を、自分たちの手で綺麗に塗り直してみせる。色落ちして朽ちかけている看板を新しくして、二度と不名誉な呼称で汚させない。
 飛べない烏などと、言わせてなるものか。その為にも日向はもっとサーブ、そしてレシーブの技術を向上させる必要があった。
 ボールだけしか追いつけない、神業的な速攻が武器の彼だけれど、それ以外は全くの素人同然。いくら得点力が高くとも、失点がそれを上回れば、試合には勝てない。
 皆の足を引っ張りたくない。その一心で、朝夕の練習だけでなく、昼間も、必死になってボールを追いかけている。
「や、やるよ。やるって」
 ただ、悔しいかな、バレーボールはひとりでは出来ないスポーツだった。
 試合をやろうと思えば、最小でも一チーム六人必要だ。壁打ちのように孤独に練習する方法もあるけれど、可能なら複数人で、実戦に近い形式で練習した方が上達は早い。
 四月の入学当初は三年生の菅原に頼んでいたが、最近の日向は、同学年の影山と朝も、昼も、夜も、一緒だった。
 親よりも長く、傍に居る気がする。中学三年生の初夏に一度邂逅して、親しくなったのは高校に入ってからだけれど、生まれてからずっと近くにいたような錯覚さえ抱かされた。
 そんな彼に、好きだと言われた。
 面と向かってではなく、すれ違いざまに。それも好きかも『しれない』と、微妙に曖昧な表現で濁された。
 あれ以来、自分はちょっと、可笑しい。
 彼がどういう意図であんなことを言ったのか、それ自体よく分からない。そもそも影山側からのリアクションはあれ一回きりで、妙な馴れ馴れしさもなければ、よそよそしくなることもなかった。
 言ってしまえば、何も変わっていない。いつも通り影山は日向をヘタクソと罵り、真剣な顔で練習に取り組んでいた。
 昼休みの自主練習にも、毎日ちゃんと付き合ってくれている。時々文句を言いながらも、辛抱強く面倒を見てくれた。
 だから余計に、戸惑わされた。
 何か言った方が良いのだろうか。
 あれはどういう意味なのかと聞くべきなのか。
 しかし自分から行動を起こして、要らぬスイッチを押してしまうのは避けたかった。墓穴は掘りたくない。折角出来た仲間を失って、孤独な世界に舞い戻るのは嫌だった。
 短い階段を下り、影山がボールを投げた。空中に弧を描いて落ちてくるそれをジャンプしながらキャッチして、日向は右足から地面に降りた。
 軽く膝を折って着地の衝撃を逃し、落ちそうになったボールを両手で挟みこむ。胸の前で受け止めた彼に肩を竦め、影山は数歩、ゆっくり後退した。
「ノルマ、三十本連続な」
「昨日より増えてる」
「出来ねーのなら、トス上げてやんねえぞ」
「やる!」
 そして指を三本立てて言い、ボールを投げ返すよう指示を出す。長袖を肘までたくし上げた彼に勇ましく返事して、日向は意気込んで唇を舐めた。
 分厚い黒の学生服は、教室に置いてきた。着ていても暑いし、邪魔なだけだ。
 本当は袖も折り返したかったのだけれど、間に合わない。身なりを取り繕っている時間も惜しくて、日向は影山目掛け、ボールを放り投げた。
 高く、空へ舞いあがらせる。続けて膝を曲げて身を沈め、レシーブの構えを作る。
 左右どちらにも動けるよう神経を張り巡らせて、振りかぶった影山の一挙手一投足に目を凝らす。
「――!」
 直後、痛烈な一撃が日向に襲い掛かった。
「ぐ……っ」
 布一枚の防御壁など、何の役にも立たなかった。
 びりびりと痺れる痛みを耐えて、折られないよう腹に力を込める。正面に飛ぶよう腕を固定して、身体全部を使って押し返す。
 不意に体が軽くなった。打ち返したボールがくるくると回転し、影山の方へ戻っていく。後ろに転びそうになったのも堪えて、日向は踵を地面に擦りつけた。
 あと二十九回。大好きなスパイクの餌に気合いを入れ直し、彼は口角歪めて笑う影山に意識を戻した。
 すかさず二発目が来た。今度は右だ。素早く正面に回り込んで受け止めて、日向は不遜に微笑んだ。
 どうだ、と言わんばかりの表情を鼻で笑い、影山は頭上を越しそうになったボールに腕を伸ばした。
 指先で触れ、そのまま足元へ叩き落す。不意を衝かれ、日向は目を剥いた。
「ぎゃっ」
 ツーアタックという単語が頭を過ぎった。トスを上げると見せかけて、セッターが敵陣にボールを叩き落す技だ。
 狡い戦法だが、強烈なスパイクを警戒している時には非常に有効な手だ。日向もご多分に漏れず騙されて、慌てて前に出るが一歩間に合わなかった。
 必死になって食らいつくが、伸ばした腕のほんの十センチ先にボールが落ちた。
 とんとん、と数回跳ねて転がり、やがて小石にでもぶつかったのか、くるりと回って停止する。一方の日向といえば、体勢を崩して地面に突っ伏し、砂埃を浴びて灰色になっていた。
 元気よく跳ねている髪の毛も、心持ち落ち込んでいる風に見える。足元に勢いよく突っ込んできた日向を避けて、影山は右足を高く掲げて肩を竦めた。
「死んだか」
「生きてるよ!」
 失礼なコメントに反発し、日向は叫んだ。両手をつっかえ棒にして身を起こし、卑怯極まりない男を睨みつける。
 だが影山は意に介さず、飄々と受け流してボールを拾いに行った。
「試合中にも有り得る事なんだから、気ぃ抜いてんじゃねーぞ」
「分かってるよ、もう」
 古びたバレーボールを片手で拾い、居丈高に言い放つ。正論過ぎてぐうの音も出ず、日向は頬を膨らませて制服を叩いた。
 体育館内ならまだしも、屋外でツーアタックは正直、いかがなものか。白いシャツにはあちこちに茶色い筋が走り、軽く払った程度では落ちそうになかった。
 午後の授業は、眠気の他に、土臭さとも戦わなければならない。うんざりしながら首を振って、日向は投げ返されたボールを低い位置で受け止めた。
「最初からな」
「ちぇ」
 三十回連続レシーブを達成しない限り、トスは上げてもらえない。そしてもし無事に成功したとしても、時間的に、スパイクを打てる回数はそう多くなかった。
 昼休みは長いようで、短い。鼻先に吊るされた餌も、近いようで、絶望的に遠かった。
 ため息を零し、日向はボールを回転させた。しゅるしゅると風を唸らせ、両手でしっかり挟み込んで気合いを入れ直す。
 いつまでもウジウジばかりしていられない。一度の失敗で落ち込んでいられるほど暇ではないと腹を括り、彼は高らかに吠えた。
「よーっし、やっるぞー」
「あの~?」
 しかし、いざボールを投げ放とうとした瞬間、後方から飛んできた声に邪魔された。
「うおっ」
 集中力が阻害され、木っ端微塵に砕け散った。タイミングを逸し、日向はボールを持ったままぴょん、と前に飛び跳ねた。
 掌の中で弾んだ球体を抱え直し、バランスを取り直してほっと息を吐く。影山に向けて投げ放すことが出来なかった彼は怪訝に首を傾げ、前に向き直った。
 影山に視線を戻せば、彼もまた胡乱げな表情をしていた。
 いつの間に現れたのか。そこに立っていたのは、制服姿の少女だった。
 背は、日向より少し小さいくらいだろう。髪は肩より長く、染めているのか、色は薄かった。
 顔立ちは整っており、華があった。本人も自分が平均以上だと思っているらしく、瞳には自信が溢れていた。
 遠くを見れば、応援団らしき女子が数人、物陰に隠れてこちらを窺っていた。
 なんともはや、分かり易い。この後何が起きるかを想像して、日向は首を竦めて後退した。
 どう考えても、自分目当てではなさそうだ。となれば残るのはひとりしかいない。ボールで口元を隠しながらそそくさと距離を作り、彼は何も言わずに場を去ろうとした。
 だというのに。
「おい、日向。どこ行く気だ」
 よりにもよって影山が、それを見咎めた。
「え、あー……いやあ……」
「ねえ、影山君。ちょっといいかな」
「ああ?」
 呼び止められて、日向は目を泳がせた。すかさず、女子が話に割り込んでくる。それが気に障ったらしく、影山は剣呑な目つきで女生徒を睨みつけた。
 彼の声はただでさえ低いので、機嫌が悪い時の迫力は凄まじい。射抜かれた少女は慣れていないのもあって当然ビクつき、怖気づいたのか身を仰け反らせた。
 ただ逃げるまでいかないので、肝は据わっている方だろう。密かに感心して、日向は冷や汗を流した。
 遠慮をしたつもりだったのに、この男は本当に空気を読まない。そんなだから中学時代、友人が出来ずに孤立したのだ。
 聞いた話でしかない彼の過去を蹴り飛ばし、日向はシクシク痛み出した腹を押さえた。
「なんか用か」
 ボールごと抱きしめて、少しでも邪魔にならぬようにとふたりに背を向ける。そんなチームメイトの気遣いなど知らず、影山は尊大に、女子に問いかけた。
 相手が年上だったらどうするつもりなのか。底抜けに偉そうな彼にひやりとするが、どうやら女生徒は、同じ一年生だったようだ。上から目線のタメ口にも臆さず、彼女は肩に掛かる髪を後ろへ払い除けた。
 きっとそれが、彼女にとって最も自分を魅力的に見せるポーズだったのだろう。古臭い少女漫画に出て来そうな仕草で胸を張って、茶髪の女子は嫣然と微笑んだ。
 口紅でも塗っているのか、唇は異様に赤かった。
「あのね、私、入学した時からずっと、影山君ってすごくいいなって思ってたんだ」
 両手を胸の前で結び合わせ、膝をもぞもぞさせて揺れながら囁く。その眼中に日向の姿がないのは、媚を売る声色や態度から一目瞭然だった。
 予想通り過ぎる展開に、苦笑を禁じ得なかった。
「やっぱり」
 内面的なものを除外すれば、影山はかなり、良い男だった。
 身長も、体格も、顔立ちも悪くない。おまけに一年でありながらバレーボール部のレギュラーで、セッターとしてチームの中核を担っている。
 喋らせたらとても残念な奴だが、その辺りのことを考慮に入れているとは思えない。彼女にとって男とは、ファッションとして傍に置いておきたいアイテムなのだろう。
 そして影山は、隣に置いて街中を歩くには最適の逸材だった。
 つまりこの女は、彼を本気で好きなのではない。単に周りに自慢出来るから、というのが告白の理由だろう。しかも男はちょっと持ち上げれば簡単に自分に媚びると、そんな風に考えている雰囲気だった。
 苦手なタイプだ。
 というよりも、嫌いかもしれない。人付き合いは広く、満遍なく。偏らせず、来るものは拒まない日向ではあるが、彼女とだけはお近づきになりたくなかった。
 無意識にまた後退を図っていた。ここに居たくない。女子が影山に告白するところなど見たくないし、その返事も聞きたくなかった。
 だというのに、足が動かなかった。
 膝が震えた。いつ折れても可笑しくないくらいにカクカク言っていた。なにもしていないのに全力疾走した後の気分で、息が切れ、喉はカラカラだった。
 食べたばかりのものが胃の中で暴れていた。吐き気がした。脂汗が止まらない。心臓がぎゅっと縮こまって、血流が滞り、指先が凍えた。
 苦しい。
 言葉にできない激痛に喘ぎ、日向は薄汚れたボールに額を叩きこんだ。
「バレーボールもすごく上手だし、やっぱりすっごいカッコいいし。ねえ。この前、大会あったでしょ。私ね、実はこっそり応援に行ってたの。それでね、あの、もしよかったらなんだけど」
 それでもきっと、世の中の男というものは、大半が彼女のような女が好きなのだろう。
 可愛いし、柔らかそうだし、きっといい匂いがする。
 汗臭かったり、泥臭かったりしない。骨張って、筋肉ばかりが発達して硬い身体になど、何の魅力も感じないに違いない。
 日向だってそうだ。抱きしめるなら、ふわふわして甘い匂いがする方が良い。
 だのに。
 嫌だった。
 影山があの子を抱きしめる光景を想像するだけで、発狂しそうだった。
 こんな顔、誰にも見せられない。歯を食いしばり、嫌悪感に耐える。目頭が熱い。鼻の奥がツンと来て、飲み込んだ唾は無性に苦かった。
 恋愛は、個人の自由だ。影山の色恋沙汰をあれこれ言う資格は、日向にはない。
 それなのに、嫌で、嫌でたまらなかった。
 彼に対してこんな気持ちでいる自分までもが、嫌で仕方がなかった。
 嗚咽を飲む。息を吐く。吸い込む。喉が熱い。眩暈がした。蹲ってしまいたかった。
 耳を塞ぎたかった。大声を張り上げて、二人の邪魔をしたかった。
 自分がいかに最低なことを考えているか、よく分かっている。黒々しい感情は渦を巻き、コールタールのように粘ついた触手となって全身に絡みついた。
 穢れていくのが分かる。こんな気色の悪い、不快な感情を自分が持っていること自体が、とてつもなく哀しかった。
 一歩も動けない。凍り付いている日向を余所に、女は最後の仕上げとばかりに身を乗り出した。
「影山君、あのね。私と、その……付き合ってくれませんか?」
「嫌だけど」
「そっかー。うれ……――え?」
 即答だった。
 お蔭で、女子も一瞬勘違いした。目をぱちくりさせて、彼女は呆気に取られてぽかんとなった。
 それは日向も同様だった。
「え?」
 女生徒と全く同じ反応をして、突っ立っている男を振り返る。影山は眉ひとつ動かさず、絶句している少女に畳み掛けた。
「俺、あんたに興味ねーし。つか、アンタ誰?」
 告白されておいて、その態度はいかがなものか。いけしゃあしゃあと言い放った彼に、日向は顎が外れそうだった。
 茶髪の女子の方も、よもやこんな返し方をされるとは思っていなかったようだ。直前までの自信満々な表情は跡形なく崩れ落ち、信じられない、と表情が告げていた。
 もっとも影山の性格を考えれば、この返答は十分あり得た。
 急に冷静になって、日向は頬を引き攣らせた。
 彼の趣味は、バレーボール。それ以外には一切目もくれない。流行の歌も、人気のアイドルや女優にも、まるで関心を示そうとしなかった。
 入学してから数か月経つが、クラスメイト全員の名前と顔が一致しているかも甚だ怪しい。それどころかクラス内に友人がいるかどうかさえ、かなり微妙だ。
 そういった面をリサーチすることなく、前もって存在をアピールせずに突撃してきたのは、完全に彼女の失態だ。心配は杞憂でしかなかったとひっそり胸を撫で下ろし、日向はボールをぎゅっと抱きしめた。
 他方、納得がいかないのがその女子だ。
「ちょっと。なにそれ、酷くない?」
 面と向かって罵倒されたようなものだから、気持ちの整理がつかないのだろう。
 テレビを賑わせるアイドルまではいかずとも、少なからず容貌には自信があったのだ。学内でもちょっとした人気者、と自負していただけに、プライドは大いに傷つけられた。
 甲高い声で怒鳴られて、それでも影山は迷惑そうにするだけだった。
「ンな事言われても、興味ねーもんはねーし、知らねえモンは知らねえし。大体、なんで俺が、アンタと付き合わなきゃなんないんだよ」
 思いを一方的に寄せられて、それではい分かりました、と頷けるわけがない。せいぜい友達から始めましょう、が定型句だが、影山はそれすら拒んだ形だ。
 ものの見事に、バッサリだった。
 他人事ながら、胸が空く思いだ。少女には同情を禁じ得ないが、相手が悪かったとしか言いようがない。
 影山の頭の中にあるのは、バレーボールのことだけだ。いかにしてトスを上げ、チームを勝利に導くか、それしか興味がない。
 こみあげる笑いを堪え、日向は肩を震わせた。ふたりに背を向けたまま、息も止めて噴き出しそうになるのを我慢する。
 影山に告白する、という無謀な挑戦に失敗した女子もまた、怒りに全身を戦かせた。
「もう、信じらんない!」
 腹の底から怒鳴り、地面を蹴り飛ばしてくるりと反転する。捨て台詞を残して去っていく彼女に、取り巻きたちも慌てて走って行った。
 乾いた風が吹いた。一気に静かになって、日向はずっと耐えていた息をようやく吐き出した。
「ぶはっ」
 さすがに失礼なので、笑いはしない。ただ横隔膜が痙攣して、腹筋が痛んだ。
 ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返し、噴き出た唾を袖で拭う。女子の姿はすっかり遠くなり、もう見えなかった。
 嵐のようだった。
 一瞬のうちに色々なことが起こり、終わった。暗雲は綺麗に晴れて、胸の中まで澄み渡る青空だった。
 深呼吸を三度も繰り返し、日向は相好を崩した。一方で少女に怒鳴りつけられた影山は釈然としないのか、憤然とした面持ちだった。
「お前、ひでーな」
「なんで怒るんだ?」
 本人的には、本当のことを正直に言っただけだ。それで癇癪をぶつけられるとは、夢にも思わなかったのだろう。
 ひとり首を傾げているチームメイトを見ていると、彼が何故王様などと呼ばれていたのか、その理由が分かる気がした。
 人の気持ちに寄り添うのが下手で、ずかずか土足で踏み込んでいくから嫌われるのだ。遠回しの表現が苦手で、遠慮を知らないのが、そこに拍車をかけている。
 飾らない性格は美徳だが、度を越すと害悪という典型だ。婉曲な表現が使えず、通用しない人間は、兎角扱いにくい。
 カラカラ笑う日向を振り返り、影山は口を尖らせた。
 つまらない事に時間を取られてしまった。舌打ちして後頭部を掻き回して、彼は苛立ちを飲み込んで肩を竦めた。
「別にいいけどよ」
「いいのかよ」
「なんか、めんどくせーし。ああいうの」
 異性と交際したいという気持ちは、今現在持ち合わせていない。それにあの手合いの女は、一緒に居ても鬱陶しいだけだ。
 自分の感情を最優先させて、男の都合など一切気にかけない。用事があると言って誘いを断れば、自分とどちらが大事なのかとすぐに天秤にかけたがる。
 中学時代、及川が良くそんな女に引っかかっていた。そして頻繁に、頬に手形を作っていた。
 お陰で、女に対する見方が変わった。
 人間性については尊敬できない男であるが、それ以外では色々と学ぶことが多かった。及川には、どれだけ感謝しても足りない。
 実例を挙げた影山に、日向は嗚呼、と緩慢に頷いた。
 親しくないので詳しくは分からないが、確かにそんな感じがする男だった。青葉城西高校の伊達男を思い浮かべ、彼はしどけなく笑った。
 そんな日向を、影山は、じっと見つめた。
「ん?」
 その眼差しは真っ直ぐで、穴が開きそうだった。こんなにも熱心に見られる理由が思いつかなくて、彼はきょとんとしながら首を右に倒した。
 あどけない姿を目の当たりにして、影山はスッと視線を外した。直後に小さく舌打ちして、大きな手を広げて差し出す。
「日向、ボール」
「おう」
 言われて思い出し、日向は両手に抱いたボールを頭上に掲げた。
 貴重な昼休みを無駄に使ってしまった。チャレンジを再開すべく気合いを入れ直し、彼は目を細めた。
 嬉しそうに笑う姿を瞼に焼き付け、影山は中途半端だった構えを解いた。背筋を伸ばして棒立ちになり、今まさにボールを投げようとしていた日向を戸惑わせる。
「影山?」
「なあ」
「ん?」
 呼びかけられて、日向は頭にボールを乗せた。落ちないよう支えながら首を竦め、チームメイトの次の言葉を待つ。
 影山は複雑な表情を浮かべて暫く黙り、やがて口元を右手で覆った。隙間から深く長い溜息を零して、ゆっくり、黒い瞳を正面に向ける。
 そして。
「俺は、うぬぼれていいのか?」
「――え?」
 言い難そうに訊ねられて、意味が分からなかった日向はきょとんとした後、凍り付いた。
 真っ先に思い浮かんだのは、女子から告白された事。異性から人気が高いと証明されて、内心喜んでいるという解釈だ。
 けれどそれは、彼的に有り得ない。
 分かる。
 知っている。
 だって彼は。
 彼が好きなのは。
 物言いたげな双眸が、日向だけを映し出す。寡黙な彼の雄弁な眼差しを真正面から浴びせられ、瞬間、日向は全身を真っ赤に染め上げた。
 体中の血液が沸騰し、心臓が激しく戦慄いた。胸がぎゅうぎゅうに締め上げられて、息ひとつ、まともに出来なかった。
 彼は日向に言った――お前が好きだと。
 先程その彼が女子から告白されている時、日向は耳を塞ぎたくて仕方がなかった。逃げ出したくて、けれど出来なくて、孤独に震えていた。
 彼が女生徒の身勝手さを一刀両断した時は、スカッとした。暗闇から抜け出して、清々しさが胸を満たした。
 嬉しかった。影山が他の誰かのものにならなくて、心からホッとした。
 それを、もし。
 影山が見抜いたのだとしたら。
「あ……」
 想いは、一方的に告げられたものだった。返事を要求されてもいない。毎日忙しくて、彼が抱く感情を忘れてしまう事も多かった。
 考えてこなかった。
 考えもしなかった。
 いや、違う。
 考えれば、気付いてしまう。だから目を逸らし、見ないフリをした。
 自分が影山を、どう思っているか。
 答えはとても簡単で、単純で。
 明確だった。
「……っ!」
 ドアを開ければ、中に詰め込まれていたものが一斉にあふれ出した。ずっと隠していたものが次々と零れ落ちて、あっという間に日向を飲み込み、底へと押し流した。
 溺れてしまう。息継ぎの仕方も忘れて硬直した彼の手から、ボールがぽろりと転がり落ちた。
 数回弾んで停まったそれを、影山は大事に両手で拾い上げた。
「俺、次、移動教室だからもう行く」
「え。え?」
「片付けとけよ」
 言いながら、彼はそれを日向へ投げ返した。
 反射的に受け取って、日向は目を白黒させた。急変した状況に驚き、早々に立ち去る準備に入った男に瞬きを繰り返す。
 影山は振り向かなかった。前と同じように好き勝手言い捨てて、逃げるように日向の前から去っていく。
 ぽつんと取り残されて、芽生えた感情の置き所が見つからない。
「ンだよそれ」
 彼は気づいただろうか。
 知られてしまっただろうか。
 それとも、伝わらなかったのか。気取られずに済んだのか。
 なにも分からない。分かりたくもない。
「どうすんだよ、これ~~~」
 自覚したての感情に絡め取られ、動けない。呻き、日向は今になって膝を折ってしゃがみ込んだ。
 ボールごと頭を抱え、唸り声をあげ、唇を噛む。哀しくもないのに涙が出そうになって、彼は鼻を啜り、空気を読まぬ男に悪態をついた。
「マジで、影山の奴。信じらんねえ」
 奇しくもあの少女と同じ台詞を呟いて、日向は熱い頬を思い切り叩いた。

2014/06/29 脱稿