全ては繋がっているのだと、その人は言った。
物事には流れがある。太陽が東から登って西に沈むように、一日二十四時間が滞りなく進んでいくように。
そういった関係の延長線上で、あらゆるものは繋がり、ひとつの大きな流れに乗っかっているのだそうだ。
けれど時々、天邪鬼が現れる。雄大な河の流れに逆らって泳ぎ、波飛沫を立ててようとする者が出る。
けれどそれも、結局は、別の流れに引き寄せられているだけなのだそうだ。
何本もの太い糸が絡み合い、時に解れ、広がって、また縒られて一本になって。そうやって連綿と繰り返されて来て出来上がったのが、歴史というものだ。
その時、その瞬間では気まぐれを働かせてみたつもりでも、後から振り返ってみたら、なにかに引き寄せられたかのように感じる事がある。導かれ、あらかじめ定められた道筋を辿っただけだったのではと、そうとしか思えない出来事は確実に存在する。
それこそが、運命。
たまたま通りかかった店の前で、大画面に映し出されたコートに舞う背中を見たのも。
必死になってチームを作ろうと奔走し、念願叶って初出場した大会の対戦相手が影山だったのも。
猛勉強の末に烏野高校に入学したら、よりによってその影山が同じ高校に進学していたのだって。
今となっては、運命だったとしか言いようがない。
もっともそんなことを口にしようものなら、目を吊り上げて否定されるに決まっている。自分だってあまり思いたくない。けれど矢張り、その二文字でしか説明がつかない出来事が多すぎた。。
神様の悪戯も、度が過ぎると恐ろしい。手の中でボールを回転させて、日向は一年前と何もかも違っている環境に苦笑した。
朝方五月蠅かった蝉の声は、今はあまり聞こえなかった。
そろそろ一日で一番気温が高くなる時間帯に差し掛かるからだろう。年単位で地中に潜っていた昆虫も、昨今の猛暑は辛いらしい。
代わりにむわっとした空気が地表から舞い上がり、足元から日向を責め立てた。
時折聞こえる風の声は涼しげだが、肌に触れる空気は湿気て重い。木々がざわめく音に騙されて外に出たが、これなら体育館の中にいるのと同じだった。
それでも気流があるだけ、まだマシなのかもしれない。喉元を撫でた微風にタイミングを合わせ、日向は深く吸い込んだ息をゆっくり吐き出した。
「おぁっ」
ただその瞬間、手元への注意が疎かになった。
掌でしゅるしゅると回っていたボールが指に当たり、弾かれて転がり落ちた。横回転しながら地面で跳ねたそれはあらぬ方向へと駆け出して、咄嗟に追い損ねた日向はぽかんとなった。
細長い渡り廊下で置き去りにされて、二秒後にハッと我に返って目を見開く。
「うわわ、やべっ」
大慌てで両手を振り回すが、そんなことをしてもボールは止まってくれない。それなりに勢いがついていた分、青と黄色が鮮やかな球体は元気よく地表を転がって、日向にサヨナラと手を振った。
コンクリート製の渡り廊下には、トタン屋根が掛けられていた。壁がないので風が吹けば雨に晒され、何の役にも立たないけれど、炎天下の日差しを遮る分には十分だった。
そんな日蔭から飛び出して、ボールは白に煙った大地を駆けた。
灼熱の太陽に照らされて、地面はカラカラに乾いていた。
大勢の学生が歳月をかけて踏み均したのだろう、凹凸の少ない地肌は灰色だった。そこに容赦なく陽光が注がれて、さながらピカピカに磨かれた鏡だ。
つまるところ反射光が眩しくて、直視に耐えない。ボールの行方を目で追った日向はうっ、と呻き、腕を掲げて顔を庇った。
少し行けば濃い緑が溢れる森が広がっているのだが、そこに至るまでが地獄だ。サハラ砂漠の真っただ中に放置された気分に陥って、日向は空になった両手を力なく握りしめた。
「うぇぇ~……」
日蔭の時点で嫌になるくらいに暑いのに、直射日光の下に出たら確実に焦げる。けれどボールは大事だ。見失ったまま、捨て置くわけにはいかなかった。
第一、あれは学校の備品だ。日向が個人的に所持しているボールは中学校時代に使っていたものだけで、高校生やそれ以上が試合で使うものより一回り小さかった。
借り物を紛失したとなれば、部長に叱られてしまう。影山には怒鳴られるだろうし、月島には馬鹿にされて笑われるに決まっていた。
想像しただけでムカッと来て、こめかみに青筋が立った。嫌味な性格のチームメイトに勝手に腹を立てて、日向は渋々、上履きのままそろりと地面に降り立った。
「うげぇ」
気温差は、凄まじかった。
あくまで体感レベルだが、一気に五、六度は上昇したかもしれない。それに加えて、陽射しがとにかく凄まじかった。
熱を蓄えた地面はさながらフライパンで、日向は空炒りされる豆に等しかった。
どうしてこんなタイミングで、ボールを落としてしまったのだろう。いや、それ以前に、何故手元でボールを回しながら体育館を出て来てしまったのか。
烏養元監督の指導だから止むを得なかったというのも忘れて、日向は目をぐるぐる回して眩暈を起こした。
「ひぇぇ、死ぬ……」
倒れそうになったのをどうにか堪えて、更にもう一歩。建物と建物の間の、さほど広くない空間で、彼は不格好なロボットダンス宜しく、蟹股で恐々進んでいった。
照り返しで足元は真っ白だった。天頂を仰ぐ気にはなれないが、きっと眩しいくらいの快晴が広がっているに違いない。肌にまとわりつく空気は重くべたべたしており、突き刺さる陽射しは鋭く尖っていた。
直射日光を痛いと思ったのは、これが初めてだ。
宮城の夏は、もうちょっと過ごし易い。確かに気温が高くなる日はあるけれど、ここまで湿度が高くなるのは稀だった。
「東京って、スゲー」
都会とは、かくも恐ろしいものだとは。
合宿所である森然高校が埼玉にあるというのも忘れ、日向はだらしなく舌を出して背中を丸めた。
犬か、と指を指して笑われそうだが、構っている余裕などなかった。苦心の末に五歩目を地面に叩きつけて、彼はどっと噴き出た汗でシャツを湿らせた。
毎日こんな暑さの中に居たら、頭が茹だってしまいそうだ。
そのうち耐性がついて慣れるのかもしれないが、そうなったとしてもあまり嬉しくない。両親や可愛い妹が待つ宮城に早く帰りたいと思いかけて、はたと我に返った日向は首を振った。
「ダメだ駄目だ!」
勇ましく吼え、思い切り頬を叩いて気合いを注入する。猫背になっていた姿勢もしゃっきり伸ばして、彼は後ろ向きになっていた自分を叱った。
折角一週間の長期合宿に恵まれたのだ。こんなところで気弱になり、チャンスを潰してなるものか。
握り拳を作り、決意を新たに鼻息を荒くする。だが折角膨らませた意気込みも、五秒と経たずに萎んで小さくなった。
「でもあづぅぅ~い……」
どれだけ心を強く保とうとも、自然の猛威の前に人は無力だ。さっさとボールを探し出して涼しいところに戻ろうと決めて、日向は鼻をぐずぐず言わせて歩き出した。
体育館の裏手はすぐ森になっており、芝に覆われた傾斜が敷地を区切っていた。
その坂道を全力でダッシュするのが、敗戦チームのペナルティだった。
烏野高校が参加しているこの強化合宿には、他にも東京近郊の強豪校が四校、満を持して参戦していた。
全国大会出場の猛者を含め、どの学校もレベルが高い。お陰で烏野高校は敗北の連続で、すっかりペナルティの常連だった。
夕方から、またここを走らされる。昼休憩中だというのに自主練習中らしきボールの跳ねる音を聞いて、日向はうんざりしながら木々を仰いだ。
早く勝ちたい。勝てるようになりたい。
ボールを打ちたい。
トスが欲しい。
けれどその前に、この茹だる暑さをどうにかしたい。
「えーっと、なんだっけ。なんとかすれば火も涼しい……うー。シンドウメッサツ……?」
少しでも涼しさを感じられるのなら、精神統一だってなんだってしてみせるのに。何かの折に聞きかじった言葉を思い出そうと首を捻り、日向は自信無さげに呟いた。
なにかのゲームの必殺技のようだ。声に出してから何か違うと眉を顰め、彼は見当たらないボールを探し、視線を左右に泳がせた。
そして。
「あれ」
物陰で動くものを見つけて、目を丸くした。
「心頭滅却すれば火もまた涼し、……だと思うけど」
黒い影がぬっと現れたかと思えば、掠れ気味の小声で告げられた。一緒に差し出されたのは日向が探していたボールに他ならず、両手で受け取った少年は突然の出来事にぽかんと口を開いた。
驚きすぎて間抜け顔を晒している日向に、孤爪研磨は訝しげに眉を顰めた。
「翔陽?」
「うひゃあ!」
目を眇め、スッと前に出る。物音も立てずに近づいて来た彼にびくりとして、日向は直後、甲高い悲鳴を上げた。
思わず放り出そうとしたボールをすんでのところで抱きしめて、居ると思わなかった相手に心臓をバクバク掻き鳴らす。盛大に仰け反って怯える相手をじっと見つめて、孤爪は困ったように頭を掻いた。
目も逸らし、何もない空間に視線を投げた彼に、十秒かけて鼓動を鎮めた日向が口をパクパクさせた。
「え、なん……研磨?」
「足はあるよ」
幽霊かなにかと勘違いされたのだとしたら、不本意だ。ほら、と自分の足を指さして二本あるのを確かめさせて、孤爪は声を上ずらせた友人に苦笑した。
勿論、日向も相手がお化けの類だとは思っていない。ただ単純に、こんなところで遭遇した偶然に戦いただけだ。
「なにしてんの、こんなとこで」
頭上にあった腕を下ろし、無事確保したボールを胸に抱えて問う。興奮が僅かに滲み出ている口調に肩を竦めて、孤爪は彼を手招き、数歩下がった。
建物の基礎部分から顔を出す雑草を避けて少し行ったところには、電池式の蚊取り線香が置かれていた。
誰が持ち込んだものかは、言わずもがな。携帯性が高いそれを跨いで越えて、孤爪はコンクリート製の壁に寄り掛かった。
「研磨」
「ここ、昼間でも結構涼しいから」
そのまま膝を折り、ずるずる沈んでいく。何が起きているかよくわかっていない日向に囁いて、彼はゆっくり目を閉じた。
言われてみれば確かに、肌に触れる気温は幾分下がっていた。
体育館の北側は日中でも日が当たらず、熱も溜まり難い。涼むには絶好の場所だった。
但し木々が多いので藪蚊が多く、自主練習の声が喧しいという欠点も存在するが。
「ほへー」
「翔陽こそ、なにしてたの」
「うん? おれは、……うん。涼しいところ、探してた」
まさか灼熱の地を越えた先に、こんな素晴らしい場所が隠されていようとは。オアシスを発見した気分で目尻を下げて、日向は遠慮なく孤爪の隣に腰を下ろした。
昼食後、自主練習しようと体育館に行ったのは良いものの、先に寄ったトイレで手間取った所為で若干出遅れてしまった。しかも中は蒸し風呂のような暑さで、じっとしているだけでも汗が止まらなかった。
ここに来るまでの時系列をざっと並べ立て、日向は飛んできた蚊を手で払いのけた。近づいて来たところを狙って叩き潰そうとも試みるが、あちらの方が僅かに早く、あっさり逃げられてしまった。
蚊取り線香があるとはいえ、万能ではない。孤爪も刺されたらしき腕を掻いて、彼の話に緩慢に頷いた。
「研磨はー……なんでここに?」
「涼しいから」
「じゃなくって」
そんな友人を横目で窺い、日向が座ったまま距離を詰めた。
近づきたかったのは蚊取り線香か、それとも自分にか。疑わしげに視線を投げて、孤爪は言葉を探して喘ぐ日向に淡く微笑んだ。
「クロがうるさいから」
「え?」
「ここだったら、おれを探してても聞こえるし」
涼しい場所なら、他にも探せば何カ所かある。だのにわざわざこんな、蚊に血を吸われる場所を選んだ理由を、彼は知りたがっているのだろう。
憶測から声を響かせれば、日向は分かったような、分からなかったような顔をして、瞳を上に流した。
寄り掛かった体育館の基礎はコンクリート製で、体温を吸い取ってくれて心地よかった。
少々硬くてゴツゴツしているけれど、贅沢は言えない。耳を澄ませばボールの跳ねる音、シューズが床を擦る音の他に、人の話し声も聞こえてきた。
昼食直後から姿が見えないプリン頭のセッターを探す声も、どこからともなく響いて来る。首を巡らせ壁を見て、日向は良いのか、と彼方を指さした。
「リエーフも、翔陽と同じだね」
「え?」
「おれは、夏は動きたくない……」
それを剣呑な目つきで跳ね除けて、孤爪はぼそりと言い、頬杖をついた。
三角に折った膝に肘を置き、気だるげに虚空を眺める。その腕には赤い跡が複数浮かび上がっていて、見るからに痒そうだった。
だというのに、彼はあまり関心を示そうとしない。耐性があるのか、それとも引っ掻くと余計に痒くなるから我慢しているのか。
どちらか分からぬまま小首を傾げ、日向は自分の右頬をぺちりと叩いた。
「ちぇ。逃げられた」
何かが触れた気がしたのだが、手のひらには何も残っていなかった。
こんな場所を刺されたら、午後の練習中も気になって集中できない。涼しいけれど問題ありだと肩を落として、彼は人ごみを避け、チームメイトにさえ距離を取ろうとする友人に視線を戻した。
日向と孤爪の出会いは、偶発的なものだった。
もしあの日、日向がロードワーク中に迷子にならなかったら。
もしあの朝、孤爪が集団からひとり離れて町中を彷徨っていなければ。
なにかひとつでも違っていたら、ふたりはすれ違いもしなかった。大きな流れからこっそり抜け出して、神様が気まぐれを働かせた先で彼らは出会った。
顧問である武田が、何かの折に話していた言葉が脳裏を過ぎる。
国語教師というだけあって詩的な表現を好む彼の弁は、理解し難いものが多々あった。けれど中には妙に心に響き、胸に残るものも存在した。
そういう数少ない詞を呼び覚まして、日向は物憂げな横顔に身を乗り出した。
「研磨、あのさ」
「うん?」
放っておいたら、彼はこのまま眠ってしまいそうだ。
実際、孤爪は既に舟を漕ぎ始めている。うつらうつらしていた彼を肘で小突いて呼びかけて、日向は瞬時の反応が得られたのに嬉しそうな顔をした。
あの時、武田はなんと言っていただろう。大筋は思い出せるのに、大事な部分がなかなか出て来なかった。
「あのね。えっと……運命は、糸なんだって」
「――は?」
例えるなら、人の一生は無数の糸で編まれた紐のようなもの。そしてその一生を構築する糸は、人との出会いや別れで増減していく。
確か、そんな趣旨の話だった。
武田は言った。もっと多くの出会いを重ね、太く頑丈な紐を作り上げてください、と。
君たちの出会いひとつひとつが運命であり、繋がりであり、大きな流れの一翼なのだと。
ただ日向の語学力では、顧問が言いたかった事を半分も説明出来なかった。唐突に突拍子もないことを言い出されて、孤爪は困惑し、細くなっていた目を真ん丸に見開いた。
「……どうしたの、急に」
「え? あ、あれ。違った。そうじゃなくて、えーっと……なんだっけ……」
前触れもなくいきなり言われ、意味が分からない。どこからそんな話が出てきたのかと怪訝にする孤爪に、日向も混乱しそうになった頭を整理して首をひねった。
背中を浮かせた孤爪が、体育館の壁に戻った。一応聞く体勢は維持して、ボールを膝に抱えている大切な友人に目を眇める。
今回の合宿も、五月に行われた宮城県への遠征も、本当はさほど乗り気ではなかった。
セッターはチームの要であり、攻撃の肝だ。そして孤爪は音駒高校の正セッターで、部長である黒尾曰く、心臓なのだそうだ。
その孤爪がいなくて、チームの強化はあり得ない。練習試合をしたところで意味はなく、わざわざ遠方まで足を延ばす必要などなかった。
孤爪が部に留まる理由は、まさにソレだった。
自分が居ないと、皆が困る。だから仕方なく、渋々、気は進まないけれど、東北への遠征合宿に参加した。
そこで未知なるものと遭遇した――とは大袈裟だが、今まさに隣にいる、ひとつ年下の日向と邂逅を果たした。
彼は孤爪と違い、バレーボールが純粋に好きで、プレイするのを心から楽しんでいた。
サーブもレシーブも初心者の域から出ないヘタクソだったけれど、想いだけは一人前だった。誰よりも必死で、誰よりも笑顔だった。
冷めきった心にヒビが入った気がした。そそり立つ高い壁をぶち壊して、こっちに来い、と叫んでいる声が聞こえた。
人の本質はそう簡単には変わらないし、変えられない。それでも四か月前の自分と、今の自分が違っているのがなんとなく分かった。
「運命、ね」
万が一そんなものがあるのだとしたら、あの日、朝早くに叩き起こされたのも運命だ。
ふらりと人の輪を離れ、物珍しさに誘われて知らない町に足を踏み出したのだって、きっと。
最初から惹かれていたとしか思えない。
今日、この時間にここで引き籠っていようと決めたのだってそうだ。誰にも聞こえないように呟いて、孤爪は緩慢に頷いた。
それから何気なく左手を広げ、あまり大きいとは言えない掌から伸びる小指に焦点を定める。
運命の糸といえば、これ以外思いつかない。けれど日向の口ぶりからは、そういった意味合いが込められる風には感じられなかった。
その日向はといえば、口元を手で覆って目を泳がせ、必死に何かを思い出そうとしていた。
「えーと、えーと、うー……」
残る手で空中にぐるぐる円を描いては、握ったり、広げたりと落ち着かない。勉強は嫌いだし苦手だ、とメールで愚痴を零されたのを思い出して、孤爪は相好を崩した。
なにも今、無理に思い出す必要はない。まだ合宿は始まったばかりなのだから、期間中であればいつだって会える。
五月の出会いからもう三ヶ月。物理的な距離が恨めしかったのは、遠い過去の話になっていた。
初めて友達になりたいと、自ら願った相手。
先程の突飛な話を聞いて、もし小指に結ばれているという糸が、彼に繋がっていればいいと、一瞬でも思ってしまった。
自主練習に付き合って欲しいと付きまとってくる後輩から逃げて、誰にも見つからないように人気のない場所に隠れていた。だというのに声が聞こえて、ボールも転がって来て、つい出て行ってしまった。
常に一歩半は後ろに下がって、運命の奔流ですら遠巻きに眺めるだけだった。
それなのに、自分から飛び込んでいった。そうせずにはいられなかった相手が、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
「翔陽」
「そーだ。運命の糸は、繋がってる、だ!」
実際に触れようと、手を伸ばす。けれど爪先が掠める直前、彼が不意に声を高くした。
両手を強く叩き合わせ、姦しい音を響かせる。おまけで体育館内での、ボールが跳ね返る音も重なって、孤爪は反射的に首を竦めた。
ビクついた指が鼻先を通り過ぎて、勇んで振り返った日向はきょとんと目を丸くした。
「研磨?」
「……なんでもない」
俯いて額を覆っている友人に眉を顰め、首を捻る。だが孤爪は気にしないで欲しいと手を振って、長めの前髪で表情を隠した。
頭でも痛いのかと勘繰るが、それも違うと否定された。何度問うてもまともな返事が得られなくて、日向は眉間の皺を深めると、拗ねて口を尖らせた。
「研磨ってばー」
ただでさえトーンが高い声をもっと高くして、構ってくれない友人の腕を取って揺さぶる。それで余計に気分が悪くなるとは、少しも考えていない様子だった。
我儘で唯我独尊な彼は、甘やかされて育った王子様に等しかった。他人の迷惑など顧みず、遠慮を知らず、世界は自分が中心になって回っていると信じている。
ならば自分は、彼が生み出す引力に引かれたのだろう。
「聞こえてる」
脳みそを揺さぶられ続けていたら、酔って吐きそうだ。いい加減止めて欲しくてかぶりを振り、孤爪は日向に向き直った。
途端に彼はぱあっと目を輝かせて、聞いて欲しそうに頬を紅潮させた。
「あのさ、研磨。おれの先生が言ってたんだけど」
「うん」
握り拳を上下に振り回し、小さな子供のように声を高く響かせる。その無邪気さが眩しくて、孤爪は頷くと同時に目を細めた。
控えめな笑顔に満足したのか、日向も顔を綻ばせた。嬉しそうに相好を崩して、虫刺されの痕が赤く際立つ白い腕を掴み取る。
ふたり分の熱が混ざり合い、溶けていく。触れられた瞬間びくりとした孤爪を無視して、彼は破顔一笑した。
「運命は糸みたいなもので、いろんな人と繋がってるんだって」
誰もが最初は、見知らぬ他人同士。
けれど人は出会い、言葉を交わし、思いを共有しあって、時を重ねていく。
すべては繋がっている――認める、認めざるにかかわらず。
物陰に隠れていた孤爪は、転がってきたボールを見た時点で逃げるのも可能だった。日向だって、まさかここに孤爪が居るとは思ってもいなかった。
ボールが地面に引っ張られるように、なにかがふたりを引き合わせている。
もっともそんな事、思っても口にはしないけれど。
夢見がちだと笑われるに決まっている。お節介で意外に生真面目な幼馴染を思い浮かべ、孤爪は否定の言葉を口にしようとした。
「しょ……」
「だからおれが、研磨とこうやって会えたのも、きっと運命なんだろうなって、思った」
それを制して、日向が笑った。
一分の隙もないくらいに信じきっている笑顔だった。
あっけらかんと、恥ずかしげもなく言われた。臆面もなく断言されて唖然として、孤爪は猫のように細い目を丸く見開いた。
運命は、糸。無数に伸びて、絡み合い、時に解け、強固に繋がり、色鮮やかな絵巻物を織り上げる。
日向が織りなす物語の中には、孤爪も当然のように含まれていた。
あの偶然の出会いを運命だったと、開けっ広げに言い放った少年に絶句して、彼はコクリと喉を鳴らして額を覆った。
きっと日向は、真っ白い、純粋な気持ちで言っている。裏などない。表すらないのかもしれない。
「はー……」
「ひどい、研磨。なんでため息!」
当然知りもせずに言っているに決まっている。その点は、確かめるまでもなかった。
だから自ずと吐息が漏れて、耳聡く聞きつけた日向が拗ねて怒った。
不貞腐れている友人は、日蔭にあっても眩しかった。
意図せずして人の劣情をこれでもか、と刺激して来る無邪気さは、ある意味凶器だ。このまま放置していたら、致命傷になりかねない。
だというのに突っかかられて、孤爪は無意識に唇を噛んだ。
「じゃあ翔陽は、おれと繋がってる糸は、何色だと思う?」
「ほえ?」
若干の苛立ちと、好奇心と。
少しの期待と、希望と。
大きな不安と。
すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、声になって姿を現した。
こんなにも自分には色々な感情があったのかと驚きながら、恐る恐る問いかける。
日向は突然の質問にきょとんとなって、半袖短パンの友人をじっと見つめた。
どんぐり眼を真ん丸にして、上から下へ視線を何往復もさせる。そうやってじろじろ見られるのに慣れていない孤爪は途端に顔を俯かせ、言うのではなかったと後悔を覚えて膝を寄せた。
身を小さくまとめて猫背になった彼に、日向は続けて目を眇め、口角を持ち上げて笑った。
「研磨だし、やっぱ、“赤”かな~?」
そして深く気に留めもせず、初対面時のイメージを引っ張り出して軽やかに告げる。
瞬間、孤爪は拳を作った。
「翔陽って、時々酷いよね……」
「え~~! なんで~~~!?」
苦しい気持ちを押し殺して呟けば、瞬時に不満を漏らされた。口を尖らせ拗ねる彼を見上げ、孤爪はふるふる首を振った。
指を解き、伸ばす。小さ目の彼の左手を取ってその小指に自らの小指を絡め、きゅっと力を込める。
「ゆびきり?」
「ううん。切らない。結んだだけ」
無邪気に酷いことを言う子には、お仕置きを。
そう囁いて、孤爪は日向の肩を押した。蚊取り線香を持って立ち上がり、遠くから響く呼び声に彼方を振り返る。
孤爪ではなく、日向を探す人がいた。時間的にも、もうじき午後の練習が始まる。
「研磨?」
今の行為にどんな意味があったのか分からず、日向が戸惑いながら後に続いた。
烏野高校排球部副部長の呼ぶ声を気にしつつ、蚊に刺された太腿をもぞもぞさせる。どんな時でも落ち着きがない彼に苦笑して、孤爪は微熱を残す左小指を撫でた。
「部の人に聞いたら、知ってると思うよ」
烏野高校九番の、あの黒髪のセッター以外なら、きっと誰でも知っている。
そう嘯いて、孤爪は先に歩き出した。気だるげに壁に寄り掛かっていた時のが嘘のように颯爽と、少しだけ上機嫌な足取りで。
取り残され、日向は伸ばしたままの小指を見た。
「うん?」
その日の午後。
烏野の十番の動きがいつにも増して悪かった原因は、当事者を除いて誰も知らない。
2014/6/11 脱稿