黒鳶

 今日は稀に見る、最低な一日だった。
 今年度の、いや、十七年間の人生でもワーストスリーに入るくらいに、酷い有様だった。
 思い出すだけでも頭が痛くなる。一気に憂鬱さが増して、研磨は重くて長いため気を吐いた。
「幸せが逃げるぞー」
「……もう逃げられた」
「それもそうか。災難だったな」
「明日はクロの番」
「そいつは遠慮する」
 それは、隣を歩いていた幼馴染にも聞こえたらしい。黒尾の飄々とした受け答えに小さくかぶりを振り、研磨はずっしり重いリュックサックを握りしめた。
 太陽は西の地平線に沈み、辺りはとっぷり暗かった。但し街灯の光が等間隔で道を照らし、立ち並ぶマンションの窓明かりが夜闇を薄めていた。
 ここは、夜なのに、夜らしくない。
 ふとそんな感想が頭を過ぎり、研磨は目を眇めた。
 少し前に遠征した町は、もっと暗かった気がする。背が高い建物も少なくて、星明りが綺麗だった。
 今目に映るのは、灰色に濁った空だけだ。雲が出ており、夜半には降り始めるという話だ。
 明日は雨、というだけでも気が滅入る。面白くないと頬を膨らませ、研磨は鬱屈した心を晴らそうと明るい話題を探した。
 けれど、出てこない。そもそも気持ちが明るくなるネタなど、最初から持ち合わせていなかった。
 手持ちのゲームはあらかた遊びつくしたし、期待している新作が出るのは当分先の話だ。ぽっかり空いた穴を埋める材料が見当たらなくて、研磨は苛立たしげに足元の小石を蹴り飛ばした。
「そういや、アイツら、元気にしてっかな」
「クロ?」
 そんな幼馴染を見下ろして、猫背になった黒尾がぽつりと呟いた。
 相槌を打った研磨がそちらを向くより早く、音駒高校男子排球部の主将はさっと視線を逸らした。曲げていた背筋を伸ばして遠くを見据え、具体例を示さぬまま口を噤んでしまう。
 自分から話を振っておきながらダンマリを決め込まれ、研磨は不機嫌に眉を顰めた。
「……知らない」
 小声でぼそぼそ答える中で、瞼に浮かんだのはひとりの少年だった。
 お日様のように笑う子だった。
 背中に翼でも生えているみたいに、自由自在にコートの中を飛び跳ねていた。小さいくせに誰よりも体力があって、ガッツがあり、ボールに餓えた獣だった。
 大きな瞳はキラキラしていた。表情はコロコロ入れ替わった。声が大きくて、どんな時も元気いっぱいだった。
 別れ際だけ、寂しそうだった。
 両手で手を振られた。また会おうと、約束した。
 離れ難いと、少なからず思った。
 何気なく右手を見て、研磨はきゅっと握りしめた。突き刺さる眼差しに顔を上げれば、幼馴染は何故かニヤニヤ笑っていた。
「なに」
「連絡してやれば?」
 心を見透かされたようで、思わずムッとなった。不遜に言い放った黒尾を無視して拳を解いて、研磨はジャージのポケットを弄った。
 取り出したスマートフォンは、電源ボタンに触れても画面は暗いままだった。
 放課後を待たずして、バッテリーが切れてしまったのだ。
 二時間目が自習になって、ついついゲームで遊んでしまった結果がこれだ。しかも今日に限って充電器を忘れて来たので、部活が始まる頃にはこれは、物言わぬ箱と化していた。
 それだけではない。他にもいろいろと、嫌なことが続出した。
 まず、寝坊した。黒尾が呼びに来たので遅刻は免れたが、大慌てで仕度をしたものだから、色々と忘れ物をしてしまった。
 充電用のバッテリーも、そのひとつだ。後はテキストを忘れてしまい、別のクラスまで借りに行く羽目に陥った。
 けれど一番最悪だったのは、財布を忘れたことだ。
 弁当は辛うじて鞄に入っていたけれど、財布がなければ飲み物が買えない。結局福永からテキストを借りる際、事情を話して百円玉を数枚、貸してもらった。
 そしてその貴重な一枚を、間違って自動販売機の下に落としてしまった。
 手を伸ばしても取れなくて、諦めざるを得なかった。蹲って覗き込んでいたら異様に目立ってしまい、注目を集めてしまったのは一生の不覚だ。
 まだある。授業中に当てられた時、予習したのに肝心のノートを忘れたので答えられなくて恥をかいた。体育の授業では、バスケットボールが顔面に当たった。バレー部なのに運動神経がないな、とクラスメイトには思い切り笑われた。
 放課後の練習も失敗だらけで、監督に気合いが足りないと怒られた。集中していないと責められて、久しぶりに多めに走らされた。
 疲れてクタクタだった。挙句、足取りが重い帰り道に幼馴染に絡まれて、考えないようにしていた事を思い出させられた。
 真っ黒い液晶画面を睨むように見つめて、研磨は瞼を閉じた。
「クロには関係ない」
「でもチビちゃんは、お前からの連絡、待ってるみたいだったぜ?」
「――!」
 刹那、信じ難いひと言に、反射的に振り返っていた。
 愚鈍で第一歩が遅いと有名な研磨の、驚くべき素早い反応に、黒尾も一瞬絶句した。目を丸くして頬を引き攣らせ、遅れて我に返った幼馴染の赤い顔にやれやれと肩を竦める。
「なん、で。クロが」
「あー……あっちの主将と交換したからな。メアド」
 絞り出された声に言い難そうに答え、黒尾は短い爪で首の後ろを掻いた。
 互いの状況が、遠まわしに相手側に伝わっていた。その事実に青くなり、研磨は恨めし気に幼馴染を睨んだ。
 けれど黒尾は慣れたもので、飄々と受け流して口角を持ち上げた。
「メールのひとつでも送ってやれば?」
「クロには、関係ない」
 宮城から戻って以降、研磨の様子が前と違っているのは、部のメンバーなら誰しも気付いている事だった。
 ただ本人は、それを頑なに認めようとしなかった。
 そうこうしている間に、インターハイ予選は開幕する。要であるセッターが調子を崩したままなのは、部長として、是が非でも避けたかった。
 先ほどと同じセリフを、掠れる小声で繰り返された。落ち着きなく目を泳がせている後輩に苦笑して、黒尾は根本が黒くなっている金髪を上から叩いた。
「明日は寝坊すんなよ」
 気が付けば自宅は目の前に迫っていた。闇夜を貫く高層マンションに首を竦め、研磨は不満げに口を尖らせた。
 エレベーターで地上に別れを告げ、見慣れてしまった扉を潜る。自動で鍵の閉まった扉に背を預け、彼はようやく人心地ついたと肩を落とした。
 もれなく滑り落ちそうになったリュックサックを背負い直して、脱いだ靴を揃え、廊下の電気を点す。
「ただいま」
 呼びかけても返事はなく、空気は全体的に冷えていた。
 まだ誰も帰っていないらしい。それは別段驚く事でもなくて、研磨は摺り足で通路を進み、まず自分の部屋に入った。
 体操服を詰め込んだ鞄を下ろし、続けてスマートフォンを充電器にセットする。もれなく赤色のランプが点灯して、胸のつっかえがひとつとれた気がした。
 ホッと息を吐いて、研磨は着替えに取り掛かった。
 汗臭いジャージを脱いで部屋着に袖を通し、汚れ物はまとめて洗面所の洗濯機へと放り込む。ついでに洗剤も投入して蓋を閉め、モードを選択してスイッチを押す。
 静かだった空間がにわかに騒々しくなって、手洗い嗽を済ませた彼は次にリビングへ向かった。
 家中の電気を点けて回り、カウンターを回り込んで冷蔵庫を開ける。冷気が頬を撫で、ラップに包まれた皿が彼に手を振った。
「……おいしくなさそう」
 母の前では絶対に言えそうにない愚痴を零し、研磨は冷え切ったプレートを電子レンジに押し込んだ。
 テレビの電源も入れて、適当にチャンネルを合わせる。ニュースは全て終わり、ドラマやバラエティの時間帯になっていた。内容はどれも面白くなさそうで、惹きつけられるものはなにもなかった。
「つまんないな」
 仕方なくスイッチを切って、研磨はぼそりと呟いた。
 今までもずっと、これが日常だった。
 両親は帰りが遅い。夕食は冷えているか、最初から用意されていないかのどちらかだ。誰かと食卓を囲む機会は殆ど無くて、人と喋るのが苦手なのは、きっとこの辺りに理由があるのだろう。
 まるで知らない人と同居しているみたいだ。
 チーン、と高らかと鳴った電子レンジに顔を上げ、研磨はゆるゆる首を振った。
 親が知れば泣かれそうな考えは頭の隅に追い遣り、冷えた牛乳をグラスに注ぐ。他に食べるものはないかと棚を漁って、レトルトのシチューを見つけて水を張った鍋を火にかける。
 キッチンの中で、自分が動く音だけがこだました。耳を澄ませれば洗濯機の稼働音が聞こえるが、室内は無駄に静かで、空虚だった。
「翔陽」
 もしここに、彼がいたらどうだろう。
 無意識に名前を呟いて、研磨は目を眇めた。
 幼馴染に言われたことが、耳にこびりついて離れない。連絡を待ってそわそわしている彼の姿を想像するのは、考えていたよりずっと簡単だった。
 目の覚めるようなオレンジ色の髪、好奇心旺盛な大きな双眸、小さい体躯からは想像がつかない身体能力。
 水を得た魚のように、縦横無尽にコートを飛び回っていた。誰よりも高く、誰よりも素早く、誰よりも貪欲で、誰よりもひたむきで。
 負けたことより、勝てないことを悔しがっていた。
 己の力不足を恨むのではなく、認め、その上で勝ち方を模索していた。必死に食らいついて、振り払われても放そうとしない。
 スッポンみたいだった。精力剤としても有名な亀を思い浮かべて、研磨はつい、噴き出した。
「ぶっ」
 慌てて口を塞ぐが、間に合わなかった。霧状になった唾がテーブルに飛び散って、彼は急ぎ布巾に手を伸ばした。
 温めたシチューを口にしたからだろうか。少しだけ、心が穏やかになった気がした。
「……元気かな」
 けれど続けて呟いた言葉に、気持ちは一気に沈んでしまった。
 確かめる術ならある。電話番号も、メールアドレスも聞いている。どちらもアドレス帳に登録済みで、ボタンひとつで呼び出せた。
 しかし送ったメールの数は、片手で余る程度だった。
 実のところ、その十倍のメールが、送信待ちフォルダに詰め込まれていた。送ろうとして最後のボタンがどうしても押せず、今度にしようと諦めたものだ。
 いずれ消そうと思いつつ、勿体ない気がしてどんどん積み上げられていく。そのうち容量オーバーになりそうで、ひとり空回っている現状が滑稽だった。
 分からないのだ。望んで友人を作ったことはなく、自分から求めて輪に入った例もない。これまでは幼馴染の後ろをついていくだけで、自分で道を選んだ事はなかった。
 だから余計に、自分に戸惑っている。両親とバレーボール部のメンバーくらいしか登録のないアドレス帳に、取り立てて必要ではない相手を追加したくなったのが、何故なのか。
 その理由が、未だにはっきりしなかった。
 頼まれて、押し切られたからではない。それははっきりしている。あの時研磨は、自分からスマートフォンを取り出して、教えて欲しいと言ったのだ。
 今日はいろいろあり過ぎて、疲れているのかもしれない。普段なら気にも留めない事が気になって、頭が上手く回らなかった。
 汚れた食器を流し台に移動させ、洗面所へと戻ると、洗濯機はいつの間にか止まっていた。
 鏡の中の顔は、酷い有様だった。
 生気の乏しい肌をなぞり、見たくなくて顔を伏す。蛇口から溢れ出た水を顔面に叩きつけても、気持ちは晴れなかった。
 あの日から、ぽっかり穴が開いたようだった。
 大切なものを、北の地に置いて来てしまった。忘れて来てしまった。取り戻しに行きたいのに、時間や資金の都合がつかなくて果たせない。
 違う。臆病風に吹かれて、足がすくんで動けないだけだ。
「翔陽」
 それは、今までにない出会いだった。
 突然話しかけられた。下手な受け答えに焦れて、大抵の人は面倒を避けて通り過ぎていくのに、彼だけは違っていた。
 バレーボールという共通点を介して、異様に食いつかれた。研磨があまり喋らない分、彼はその倍以上の、たくさんの言葉を口にした。
 擬音が多かった。顔芸もあった。ジェスチャーが大きくて、見ていて面白かった。
 久しぶりに笑った。いつもなら言わないひと言が、自然と零れ落ちた。
 またね、と。
 再会を先に約束したのは、自分だ。
 顎を伝い落ちる雫が気持ち悪くて、研磨は唇を噛んだ。濡れた前髪ごとタオルに押し当てて擦って、一目散に洗面所を飛び出す。
 駆け込んだ自分の部屋、大きなベッド。倒れ込んでも受け止めてくれるクッションに身を委ね、研磨は枕を抱きしめた。
 湿った前髪が頬に貼り付き、布に挟まれて変に捩じれた。引っ張られる感覚にも苛立ちを深めて、身を起こした彼は瓢箪型に潰れた枕を壁目掛けて放り投げた。
 埃が舞い上がり、軽く噎せた研磨は訳が分からないまましゃくりあげた。
 この生活に、なんら疑問を抱いた事はなかった。父も母も仕事が忙しく、子供に構おうとしないのは昔からだ。
 愛情の代わりにゲーム機を与えられ、小遣いも同年代に比べれば多い。友達が居ないのは時々不便だったが、格別不満はなかった。
 お節介な幼馴染に引っ張られ、バレーボールを始めたものの、最初から乗り気だったわけではない。高校に進学しても続けているのだって、セッターである自分が抜けたらチームに迷惑がかかるから、ただそれだけだ。
 辞める理由がないように、続ける理由も見つからない。ただ流されるままに、だらだらと現状維持を保っていた。
 真剣に取り組んでいるメンバーとの間には、常に壁を感じていた。自分はあんな風に熱心になれない。冷めた目で全容を眺める気分は、コントローラーを握ってゲームをしている感覚に似ていた。
 だからあの時、彼への返事は、『全然』になるはずだった。
 それなのに実際に口にしたのは、悩んだ末の『別に』だった。
 なんと中途半端な返答だろう。もっと他に良い言葉があったはずなのに、口下手さが災いして、上手く言い返せなかった。
 ただそれがあったから、彼の次の言葉に繋がったのだと思う。
 試合は、練習よりも疲れるから好きでなかった。負かした相手は大抵落ち込み、悔し涙を流し、勝ったチームを恨めしそうに睨んできた。時に賞賛の眼差しを贈られる事もあるけれど、五回に一回、あるかないかだ。
 再戦を望んだことはない。望まれた事もない。お蔭で恐ろしく新鮮だった。次は勝つと宣言されて、再会の約束が自然と交わされていた。
 以後、調子は狂う一方だった。
 会いたい、会えない。探しても見つからない。
 物理的な距離が憎らしい。許されるなら今すぐ駆け出して、最終便に飛び乗りたかった。
 ずっとひとりで平気だった。寂しさなど、まるで感じてこなかった。
 だのに、考えるようになってしまった。
 ここに彼が居たら、どうしただろう。
 ここに彼が居たら、なんと言っただろう。
 無人の隣を目で追って、答えの出ない問いを度々繰り返した。
 女々しいと笑われそうだ。幼馴染には見抜かれていた。臆病者の心臓は、いつ壊れてもおかしくなかった。
 手を伸ばす。掴んだのは、微熱を孕んだスマートフォンだ。
 充電器から外して、電源ボタンを押す。帰り道では何の反応も示さなかった機械は、エネルギーを得て、ゆっくり画面を明るくした。
 見慣れたアイコン配列にホッとして、研磨は中空に指を這わせた。
「しょう、よう」
 声が聞きたかった。
 じっとしていたら、忘れてしまいそうで怖かった。あの弾けるような笑顔も、くりくりして可愛い眼も、脳を揺さぶる甲高い声も。
 それなのに、いざアドレス帳を開いた途端、動けなくなった。
 いいのだろうか、かけても。
 迷惑がられないだろうか。たいした話題も持ち合わせていない自分が、天真爛漫を絵に描いたような彼を飽きさせない自信など、皆無に等しかった。
 結局のところは、そこだ。幼馴染が折角気を利かせてくれたのに、メールの一通も送れずにいるのは、この自信の無さが原因だった。
 これまでメールと言えば、部の連絡だったり、通販のやり取りだったりと、必要最低限の利用に留まっていた。ましてや電話など、自分から掛ける機会は滅多になかった。
 過去通話履歴画面の最下段には、昨年の日付が表示されている。最新の履歴だって、二か月近く前のものだ。
 携帯電話としての機能を持ち合わせているけれど、スマートフォンはほぼゲーム機だった。
 こんなにも胸が苦しいのに、なにも出来ない。楽になる方法は分かっているのに、一歩を踏み出す勇気が足りない。
 目の前がぐるぐるして、吐き気がした。食べたばかりの不味い夕飯が食道を逆流して、酸っぱい胃液が喉を焼いた。
「うっ……」
 堪らず呻いて、口を押える。トイレに駆け込むべきか躊躇して、研磨はベッドの上で身じろいだ。
 直後だった。
「う、わ、わあっ」
 突然、前触れもなしにスマートフォンが大きく震え出した。
 予想していなかった事に驚き、声が上擦った。みっともなくも悲鳴を上げて、研磨は握っていたものをぽーん、と空中に放り投げた。
 急角度の弧を描き、手のひらサイズの機械がベッドに沈んだ。その間も小型端末は軽快なメロディを刻み、ヴヴヴ、と不安定に揺れ続けた。
 天井を向いた画面はライトが灯り、中央では着信を告げるアイコンが、すっかり見慣れてしまった漢字四文字と共に躍っていた。
 早く取れと急かし、研磨を焦らせ、高らかと笑い声を響かせる。
「え、ちょ……待って」
 その名前に瞠目して、研磨は声を喉を引き攣らせた。
 スマートフォンを掴もうとして失敗し、落としては拾うを繰り返してやっと顔の前に持っていく。着信メロディは二週目に突入して、益々研磨を焦らせた。
 本当に、間違いないのだろうか。
 目に映る文字を真っ先に疑って、右往左往しながら左右を見回す。しかし助けを求めようにも、家の中にいるのは研磨ひとりだ。
 緊張と恐怖で頬が引き攣った。見る間に真っ青になって、彼はもぞもぞと身を捩ると、何を思ったのかベッドの上で正座した。
「ちょ、待って。まだ切れないで」
 そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎていく。決心がつく前にコール自体が切れてしまう恐怖に駆られ、研磨はもたつきながら画面に指を押し当てた。
 押すのではなく、スライドさせて、素早く右の耳へと押し当てる。
「も……」
『あー、やっと出たー!』
 そしてお決まりの応答文を口にしようとした瞬間、痺れを切らした大声に見舞われた。
「うっ」
 キーン、と右の耳から左の耳へと突き抜けた高音に、堪らず顔を顰める。反射的に仰け反ってスマートフォンを遠ざけて、研磨はこめかみに指を衝き立てた。
 一瞬の頭痛をやり過ごして、深呼吸をひとつ。一気に最高記録を更新した心拍数に首を振り、彼は左胸に手を移動させた。
 飛び出して来そうな勢いで鳴動している心臓を宥め、改めてスマートフォンを耳に添える。電話口から聞こえてきたのは、ぷりぷり煙を噴いて怒る可愛らしいボーイソプラノだった。
「しょう、よう……?」
『だよー? あれ、研磨だよね?』
 膨れ面が脳裏を過ぎった。拗ねている年下の友人に恐る恐る呼びかければ、その自信の無さが伝わったらしい、今頃になって確認された。
 このスマートフォンは研磨の個人所有物だから、番号も研磨だけのものだ。それなのにわざわざ質問してくるところが、いかにも彼らしかった。
 慣れていないのかもしれない。携帯電話も主にメールが中心で、通話やインターネットには制限がかけられている、と言っていた。
 使い過ぎて使用料が増えると、ブロックがかかるのだそうだ。一定額を越えないように、親が設定してしまったのだとか。
 本人はそれが不満そうだった。ただ部活で毎日忙しいから、蓋を開けてみたらそれほど使わなかったとも言っていた。
 あっけらかんと笑い飛ばしていたのを思い出し、研磨は徐々に落ち着きを取り戻していく胸を撫でた。
「うん。おれだよ。……どうしたの?」
 その、あまり多くない貴重な通話時間を、自分の為に裂いてくれた。それがまず嬉しくて、同時に申し訳なくなった。
 声のトーンは自然と低くなった。掠れるほどの小声を拾い、機械は遠く離れた地へと運んでいった。
『え? えーっと、うーん』
 電話口で唸っているのは、研磨の数少ない友人。
 初めて、友達になりたいと思った人。
 学年は、ひとつ下。生まれた場所も、育った環境もまったく違う、およそ研磨とは縁がない、元気いっぱいの少年だ。
 名前は、日向翔陽。真っ直ぐで、純真で、何事にも一生懸命で、明るくて、人気者で、嫌味がなくて、誰からも慕われる性格の持ち主でもある。
 そんな彼がわざわざ電話をかけてきた。理由を探って、研磨は声を潜めた。
「もしかして、クロに何か言われた?」
『クロ……?』
 帰り道、途中まで一緒だった幼馴染の不敵な笑顔が浮かんで、消えた。あの口ぶりから、裏で何か仕組んだと予想したのだが、意外にも電話相手からの反応は鈍かった。
 不思議そうに鸚鵡返しに言われて、彼は力なく天を仰いだ。
「おれの、チームの。部長の」
『あー、トサカ!』
「とさ……?」
『うぅん、なんでもない。えと、そのトサ……じゃなかった。ブチョーさんが、どうかしたの?』
「翔陽が知らないなら、違うと思う。ごめん、忘れて」
 黒尾が余計な気を利かせたと勘繰ったけれども、外れだった。絶妙なタイミングだったから疑ってしまったが、彼には明日、謝らねばなるまい。
 独り相撲に決着をつけ、研磨は姿勢を戻した。脚を崩して楽な体勢を作り、何気なく窓の外に目を向ける。
 カーテンの隙間から覗く空は暗く、墨で塗り潰されているようだった。
 ガラスに映る半透明の影が、じっとこちらを窺っていた。即席の鏡と化したそれを黙って見つめ返していたら、沈黙を嫌った日向が息を呑んだのが分かった。
『……メーワク、だった?』
「え?」
『なんかね。ごめんな、いきなり電話しちゃって』
「翔陽」
『研磨どうしてるかなー、って、気になったから。最近メールもなかったし。おれのこと、忘れちゃったかな、――なんちゃって』
「そんなこと!」
『……けんま?』
 声のトーンが、入れ替わっていた。
 自信無さげな日向と、大声を張り上げた研磨と。いつもと逆の展開には、当人らも驚きを隠せなかった。
 は、と短く息を吐いて、研磨は上手く出てこない言葉に奥歯を噛み締めた。
 忘れるわけがない。
 忘れられるはずがない。
 けれど伝えようにも、なかなか声が出てくれない。呼吸ひとつとってもままならなくて、彼は斑色の髪をくしゃくしゃに掻き毟った。
 衣擦れの音だけが電波に乗り、受話器からは苦笑混じりの吐息が聞こえてきた。
『元気にしてた?』
 カラカラと楽しげに笑って問われ、咄嗟に返事が出来ない。電話で喋っているというのも忘れてその場で頷いてしまい、後から気付いた研磨はひとり顔を赤くした。
 それさえも、向こうには伝わったのだろうか。
『そっかー。良かった』
 勝手に納得されて、研磨は渋い顔で口を尖らせた。
 元気だけれど、今日はちょっと落ち込み気味だった。嫌なこと、楽しくない事が頻発して、運気は最底辺を彷徨っている。
 それを知りもしないで笑い飛ばされるのは少し癪で、気に障った。
 研磨は口を窄めて息を吐き、唇を舐めた。決意を込めて壁に向き直り、スマートフォンをぎゅっと握りしめる。
「翔陽、……は」
『おれ? おれはねー、……今日は、いっぱい怒られちゃった』
「え?」
 話を振られたら、振り返す。会話の基本に忠実になった彼は、直後驚きに目を丸くした。
 緊張感に欠ける明るい声で、言葉とは真逆のことを言われた。
 舌を出し、首を竦めている姿が浮かんだ。光景を想像してでないと、声の調子と内容があまりにかけ離れ過ぎて、違和感しか出て来なかった。
 絶句する研磨を知ってか知らずか、彼は気にすることなく話を進めていった。
『あとね、自転車がパンクした。しかも帰り道! 商店街の手前だったからまだよかったけど、山道だったら、おれ、泣いてたかも。んでさー、自転車屋閉まっててさー。シャッター叩いてなんとか直してもらったんだけど、すっげー嫌な顔されちゃったし。練習でも、おればーっか怒るんだよな、影山の奴』
 立て板に水、とはこういう事を指すのだろう。次々と言葉を紡いでいく彼の声が、洪水のように研磨の耳に押し寄せた。
 それ以外でも、宿題を忘れて先生に叱られただとか、小テストで零点を取って補習を受けさせられただとか。掃除中にふざけていたら、箒が当たって痛かっただとか。
 騒々しい日常の中で起きた、事件とも言えない小さな出来事が、呆然とする研磨の前に次々積み上げられていった。
 トータルして、運のない一日だったと彼は言う。
 そんな日の最後に、どうして遠く離れた地に居る研磨に電話を掛けようと思ったのか。
 分からなくて黙りこんでいた研磨は、次の瞬間、耳を疑った。
『だからさー。研磨の声聞いたら、元気になれるかなって』
「翔陽」
『やっぱ迷惑、……だよね』
 不意に沈んだトーンから、彼の心が透けて見えるようだった。
 面と向かってだったら見過ごしてしまいそうな変化を気取り、研磨は首を振った。遅れて、これではダメだと気付いて歯を食いしばり、ベッドのシーツに爪を立てる。
 前のめりに意気込んで、研磨は鼻から息を吸い込んだ。
「そんなことない。そんな……おれも、ほんとは今日、ヤな事ばっかりあって」
 寝坊した。時間割を間違えた。財布を忘れた。練習中にミスを連発した。
 自分はダメ人間だと落ち込んで、生きるのはつまらなくて、やめてしまいたいとさえ、一瞬考えた。
 声を聴きたいと思った。
 顔を見たいと願った。
 贅沢な願望は、半分だけ、叶えられた。
 絞り出した声に、日向はすぐに返事をしなかった。何かを待たれている気がして、研磨は手元に沈んでいた視線を持ち上げた。
 改めて正面の壁に臨んで、彼は緩く首を振った。
「おれも、翔陽に、電話……したかった」
『してくれてよかったのに』
「でも、迷惑じゃ……」
『けーんま?』
「おれと話すの、つまんなくない?」
『なんでー? 嬉しいし、楽しいよ?』
 電話を前にして躊躇していたものが、こんなにもすいすい外に溢れていく。あんなに尻込みしていたのが嘘のように、臆病風に吹かれていた自分は遠くへ消え去ってしまった。
 見えない手に背中を押されての第一歩は、考えていた以上に簡単だった。
「ほんとに?」
 難しく考えすぎていたのかもしれない。あれこれ先走って、不要なものを沢山抱え込んで、自分で自分を雁字搦めにしていた。
 あの日、自然と出ていた『またね』の言葉のように、考えるより先に行動すればよかった。
『うん。あのね、研磨』
 それでもまだ少し疑っている研磨に、日向はちょっとだけ声を潜めた。
 内緒話をしようとしている。電話なんて全部秘密の話同然なのに、研磨は耳を欹て、息を殺した。
「翔陽?」
『あのね。ふふ。おれね、研磨の声、けっこー好き』
「っ!」
『また電話していい? あとさ、メールも』
「……う、うん」
『やった。じゃー、そろそろ切るね。お風呂入んなきゃ。おやすみ』
「うん。おやすみ」
 頭から湯気が出そうだった。実際、微熱を覚えて研磨は頭を抱えた。ふらりと身体が泳いで、呟くと同時にベッドに倒れ込む。
 問題なく受け答えしていたけれど、殆ど無意識だった。
 笑いながら言われた台詞が未だ頭の中で渦巻いて、何重にもエコーして響いていた。
 通話は、向こうから切られた。終話の文字が画面に表示されて、研磨はそれを茫然自失と見つめ続けた。
 と、その時。
「わっ」
 またもやスマートフォンが震えて、彼は慌てて飛び起きた。
 手の中で踊る機械を両手に抱き、先ほどとは違う画面に息をのむ。新着メール受信の文字を目の当たりにして、研磨は零れ落ちんばかりに目を丸くした。
 恐る恐る開いた画面に、高まった緊張は瞬く間に崩れていった。
「はは」
 堪らず笑い声をあげて、研磨は一生かけても敵いそうにないと目を細めた。
 
 【明日は良い事、あるといいね】

 返事は、何が良いだろう。
 少し考え、研磨は小さく頷いた。

2014/04/16 脱稿