切欠

 風の強い日だった。
 低気圧が接近中だとかで、海辺では荒波に気を付けるようにと天気予報士は言っていた。だがなんとなく眺めていたテレビの解説だけでは、どうして低気圧が来ると強風が吹くのか、さっぱり分からなかった。
 理科の授業で習ったような気がするものの、殆ど覚えていない。ただ良く耳にする単語ではあるので、とにかくそういうものなのだな、程度に思う事にしていた。
 もしこんな風に考えていると知れたら、家庭教師になんと言われるか分かったものではない。あの鬼のように怖い赤ん坊は本当に容赦がなくて、平気で実弾入りの拳銃を向けてくるから堪ったものではなかった。
 今もまたガタガタ言った窓枠に何気なく視線をやって、沢田綱吉は読み終えた漫画雑誌を閉じた。
「あー……退屈」
 そのまま後ろへ体重を移動させ、ベッドへと倒れ込む。呟きながら両腕を頭上に掲げれば、指先が壁にぶつかった。
 年季の入ったパイプベッドがギシギシ音を立て、膝から転げ落ちた雑誌は右足の甲にぶつかって床に転がった。雑に扱われたのを咎める攻撃に綱吉は顔を顰め、悔しさに負けて渋々身を起こした。
 再度ベッドを軋ませ、今度は前のめりになって床に手を伸ばす。買ったばかりの週刊誌は適当なページを広げ、うつ伏せに倒れ込んでいた。
「あちゃ。折れちゃってる」
 見た目によらずさほど重くない雑誌を拾い、裏返す。落ちた拍子に出来たであろう折り目に小さく舌打ちして、彼は薄い筋を二度なぞってからページを閉じた。
 また落ちないように今度はベッドの上に置いて、本文用紙に比べると艶々している表紙を撫でる。そこに描かれていたのは、前にもこの雑誌で連載していた漫画家の絵だった。
 新連載と銘打たれた作品の第一話は、正直微妙だった。
 そういえばこの人は、前の作品も人気が出なくて早々に打ち切られている。本人なりに頑張っているのだろうけれど、この調子では、今回もさほど連載が続くとは思えなかった。
「ダメな人は、ほんと、ダメだもんなあ」
 まるで自分のようだと苦笑して、綱吉は新連載の主人公の額を小突いた。
 とはいえ、国内最大手の雑誌に漫画が掲載されるだけでも凄いことだ。絵が描ける、話を創り出せるというのも、素晴らしい才能ではないか。
 綱吉は、そのどちらも出来ない。比較するのは相手に失礼だと思い至って、彼は自嘲混じりに苦笑した。
「あーあ」
 すっと腕を引き、改めてベッドへと倒れ込む。舞い上がった埃を吸わぬよう息を潜め、彼は静かに目を閉じた。
 耳を澄ましても、何も聞こえてこなかった。
 共にこの家に暮らしている人たちは、揃って外出中だった。
 極悪非道の家庭教師ことリボーンは、彼に絵ぞっこんのビアンキと今頃デートを楽しんでいる事だろう。母である奈々は夕飯の買い物に出ており、残る子供たちは公園へ遊びに行っている。
 綱吉も一緒にどうかと誘われたが、丁寧にお断りした。
 中学二年生にもなって公園の遊具と戯れるなど、恥ずかしくて無理だ。トラブルメイカーのランボが馬鹿をやらかさないか心配ではあるが、ベンチでひとりボーっとするのもつまらない。
 こういう時に限って獄寺は声を掛けてくれなかったし、山本は野球部の練習試合で忙しい。
 皆それぞれ、思い思いに時間を過ごしている。その中でひとり暇を持て余している自分が少し嫌で、癪だった。
 宿題は出ているが、机に向かって取り組もうという気分ではなかった。ならばゲームをするか、というとそんな雰囲気でもなくて、読み終えた雑誌に再度目を通すのも億劫だった。
 新連載がもっと面白かったなら、気持ちは違っていたかもしれない。それが残念でならなくて、綱吉は責任を他人に押し付けて深くため息を吐いた。
「どうしよっかな」
 昼ご飯を食べてからまだ二時間と経っていないので、腹は減っていない。おやつは奈々が用意していったが、子供たちが帰って来るまで当分お預けだ。
 ゴミが散らかり放題の部屋を片付けるのも面倒だし、予習、復習に取り組むなどもっての外。どこかへ出かけるにしたって、行きたい場所は思いつかなかった。
 ゲームセンターに行ったらどうせ不良に絡まれるだろうし、買い物をしようにも財布の中身は雀の涙。美味しいモノを食べるのだってお金が必要で、出来ることは限られていた。
 いっそフゥ太達と一緒に公園に行っていたら、良い時間潰しになっただろうに。面倒見の良いお兄ちゃん、という評価は案外悪くなくて、一時間前の自分の選択が悔やまれた。
「なんかやってないかな」
 このまま寝転がっていたら、眠ってしまいそうだった。
 気を取り直し、起き上がる。跳ね上げた両足を床に下ろして立ち、綱吉はテレビのリモコンを探して視線を彷徨わせた。
 この時期なら、サッカーか、野球か、中継のひとつくらいやっているだろう。正直ルールに明るくないし、応援している選手もいないけれど、退屈しのぎにはなるはずだ。
 決めて、散らかり放題の室内を見回す。ゴン、と音がしたが、風の悪戯だろうと彼は気にせず聞き流した。
「あれ、ないな」
 いったいどこに行ったのか、リモコンはなかなか見つからなかった。
 それは大体いつも、部屋の中央にある小振りのテーブルに置かれていた。もしくはゲーム機の本体の傍に、コントローラーもセットで収納してあった。
 だのにそのどちらにも、目当ての物は見当たらなかった。
 前にテレビを操作した後、どうしたのだったか。思い出そうと必死に記憶を手繰り寄せて、綱吉は眉間に皺を刻み付けた。
 その時、ゴン、ゴン、とまた音がした。
 集中を乱すノイズに、自然が相手とはいえ腹が立った。耐えきれず舌打ちして、彼は怒りの表情そのままに、騒がしい窓の外を睨みつけた。
 そして目に飛び込んできた光景に凍り付いた。
「え――?」
 絶句し、ぽかんと口を開く。間抜け顔を晒した彼の前方では、拳を窓に押し当てた青年が、膨れ面を作っていた。
 むすっとヘの字に曲げられた唇が、彼の機嫌がどの辺にあるのかを雄弁に語っていた。
 瞬間、綱吉は背筋を粟立てて竦み上がった。部屋の中で無駄に爪先立ちになり、行儀よく背筋を伸ばしてから右往左往して足踏みを開始する。
「あだっ」
 最中に固い何かを蹴り飛ばして、転びそうになった彼は前のめりのまま数回飛び跳ねた。
 フローリングを滑っていったのは、細長い機械だった。
 探していたテレビのリモコンが無事見つかったわけだが、喜んでいる暇などなかった。綱吉は片足立ちで痛む爪先を庇うと、腕を伸ばして勢いよく窓ガラスに体当たりした。
 冷たい衝撃が掌に襲い掛かり、ひんやりした感触が肘を抜けて駆けあがっていく。思わず肩を竦めて首を引っ込め、亀と化した少年は室外機置き場に佇む青年にぎこちない笑みを浮かべた。
 黒い学生服を羽織った男は憤然とした面持ちで、呼びかけを無視した存在を睨みつけた。
 人の出入りなど考慮に入れていないベランダには、当然梯子など用意されていない。室外機を置く為だけに作られたスペースへ辿り着くには、部屋の中から窓を潜るか、屋根を伝って来るかしか方法がなかった。
 その、間違いなく後者を実行に移した男は、引き攣り笑いで誤魔化そうとする少年を睥睨すると、何の合図かくいっと顎をしゃくった。
「は、はい。ただいま!」
 文字通り、開けろ、ということだ。仏頂面を崩さない相手に慌てて声を高くして、綱吉は大袈裟な身振りで万歳すると、ロックを外した鍵を下に倒した。
 瞬間、壊れそうな勢いで窓が左に駆け抜けた。
「ヒィッ!」
 そして速度を保ったまま反対側にぶつかり、レールの上で跳ね返った。
 反動で戻された窓が半分以上閉まって、まるでコントのようだった。しかし笑うことも出来ず、青くなった綱吉は急ぎ銀色のフレームを握り、左へと滑らせた。
 空間が広がり、突風が室内に紛れ込む。前髪が煽られ、両脇をすり抜けた風が室内に渦巻いた。
 床に落ちていた紙屑が舞い上がり、ベッドの上の雑誌がばさばさ音を立てた。机の上に放置していたプリントも端から浮き上がって、重石にしていた教科書に抗議の声を上げた。
「うわわ」
 それ以外にも色々なものが風に飛ばされ、宙を舞った。一変した光景に唖然として、綱吉は一層片付けが大変になった室内に震えあがった。
 あと数時間すれば、リボーンが帰って来る。この部屋は彼の寝室でもあるので、散らかしたままだと説教されるのは目に見えていた。
 いや、叱られるだけならまだいい。あの赤子は簡単に拳銃を構え、ちょっとしたことでも手痛い一撃をお見舞いしてくるのだから。
 想像するだけで身の毛がよだち、冷や汗が止まらなかった。
 青褪めた表情で居竦んで、それからはっと我に返って後ろを向く。その頃には春嵐と共に現れた男も少し落ち着いて、ベランダから移動を果たしていた。
 すとんと軽い動作で窓辺に降り立ったのは、綱吉が通う中学校の風紀委員長に他ならなかった。
 臙脂の腕章を袖に通し、怜悧な眼差しで人を威圧する。隠し武器のトンファーは見える所にはなく、一発食らう危険は今のところ低かった。
 彼は靴のまま床に着地して、ぴしゃりと窓を閉めた。
 行動から、先ほどの件をまだ引きずっているのが伝わってきた。空けた筈の窓が自動的に閉まったのだから、自業自得とはいえ、面白くないのだろう。
 外部と遮断されたので、風の流れも消えた。宙に浮いていたものはそれぞれ地に落ちて、部屋は一気に静かになった。
「…………」
 だがそれは、決して歓迎出来たものではない。密室状態にふたりきりにさせられて、綱吉は緊張でガチガチになって全身を震わせた。
 温くて不味い唾を飲み込み、軽く体を叩いている男を凝視する。汚れを払っているらしく、彼は羽織った学生服に手を伸ばすと、綱吉の視線に気づいたのか首から上だけをそちらに向けた。
「赤ん坊は?」
「は?」
 そうして藪から棒に訊かれて、綱吉は面食らった。
 一瞬何を言われたか分からなくて、三度瞬きしてからようやく誰の事かを理解する。瞬時に表情を入れ替えた彼に小首を傾げ、風紀委員長こと雲雀恭弥は汚らしい部屋を見渡した。
 泥棒が入った後か、と言いたくなる有様に肩を竦め、無人のハンモックに緩く首を振る。返事を待たずとも不在と理解して、雲雀は指を弄っている綱吉に苦笑した。
「いないんだ」
「リボーンだったら、ビアンキと、デートです」
「へえ。それで君は、相手して貰えなくて拗ねてるの」
「違います」
 ひとり部屋に閉じこもり、格別何をするでもなくぼうっとしていた。階下から物音がしないので家族も不在と判断した雲雀に、綱吉はムッと口を尖らせた。
 そんなつもりはない。だが言われてみればそうとも取れなくて、言い訳し難い状況に、彼は顔を赤らめた。
 休日なのに誰からも誘われず、特に何かしたい事もなく。
 ぼんやりしたまま、無為に時間が流れていくのをただ待つだけ。
 ある意味贅沢だが、勿体ない時間の使い方だ。そしてとてつもなく、虚しい。
 少し前までひとりで居るのが当たり前だった。
 あだ名は、何をやってもダメダメの、ダメツナ。学校に行けば苛められ、避けられて、楽しい事など何一つないと疑わなかった。
 それが少しずつ変わろうとしていた。世界は百八十度入れ替わり、毎日が充実していた。
 ところが今日は、昔に逆戻り。それが悔しくて、切なかった。
「別に、いいじゃないですか。なんだって。それより、ヒバリさんこそなんですか」
「だから、赤ん坊に」
「リボーンなら、夕方まで帰りません」
 そういう後ろ向きの感情を押し殺し、綱吉は声を高くした。喚くように叫び、雲雀の言葉を遮って鼻息を荒くする。
 台詞を途中で奪われて、風紀委員長は堪え切れず苦笑した。
 いつになく強気な態度に肩を揺らし、早く出て行けと訴える眼差しにため息をひとつ。随分とご機嫌斜めだと口元を緩め、青年は学生服の上から肩を撫でた。
「……っ」
 瞬間、ズキっと来る痛みが骨を貫いた。
 堪らず低く呻き、体を傾ける。左肩を庇うように身を屈めた彼を見て、綱吉も何かを気取って息を呑んだ。
「ヒバリさん?」
 相変わらずのハイトーンで名前を紡ぎ、半歩分、フローリングを前に滑る。近くなった気配に雲雀は顔を上げ、なんでもないと言いたげに首を振った。
 だが彼の左腕は力なく垂れ下がり、動きは明らかにおかしかった。
 窓を開け閉めしていたのは利き腕だったので、気づかなかった。学生服の下に着込んだ白いワイシャツは表向き綺麗なのだが、良く見れば袖の部分が少し汚れていた。
 黒一色の学生服にも、何かで擦ったような跡があった。
 灰色っぽい筋が斜めに走り、所々薄くなっていた。転んで出来た汚れとは到底思えなくて、だらんと垂れた腕にも目を遣った直後、綱吉はある事に気付いて「あっ」と声を上げた。
「ヒバリさん、それ。もしかして」
「たいしたことないよ」
 雲雀は、風紀委員だ。その取り締まり対象は幅広く、見回り範囲は学校内のみならず、並盛町全体に及んでいた。
 休日ともなれば、羽目を外す学生も多い。春だからか、ガラの悪い連中も増える。
 不良たちにとって、雲雀は天敵だった。
 彼の強さは並でないけれど、一度に複数から襲われたら危険だ。負けることはないとしても、一発くらい食らっていたとして、なんら不思議ではない。
 声を震わせた綱吉に、しかし雲雀はぞんざいに吐き捨てた。
 気付かれたのが面白くないようで、表情は不満げだった。
 拗ねているのはどちらか。先ほどの彼の台詞を心の中で嘲り笑って、綱吉は痛いのを我慢している男に肩を竦めた。
「本当に平気ですか?」
「そう言ってるじゃない」
 念のために問いかけるが、返答は案の定だった。ぶすっとしながら言い返されて、綱吉は頬を緩めて嘆息した。
 不意を衝かれたとはいえ、雑魚に後れを取ったのがよっぽど悔しいらしい。たった一発だとしても、攻撃を食らったのが許せないようだ。
 意地っ張りで頑固な性格だとは知っていたが、相当だ。そんなにも人に弱ったところを見られるのが嫌なら、寄り道などせずに、まっすぐ学校に帰れば良いものを。
 風紀委員長の執務室になっている中学校の応接室を思い浮かべ、綱吉は視線を宙に投げた。
 綱吉が暮らすこの家は、繁華街と中学校のほぼ中間に位置していた。
 ならば彼が口にした、リボーンに用事、というのは方便か。帰り道で襲撃を受けるのを避ける為、身を隠せる場所を探していたということか。
 雲雀がそんな後ろ向きな姿勢を見せるとは思えないけれど、可能性としては十分あり得る。強がっているだけで、本当は相当痛いのかもしれなかった。
「……大丈夫です?」
 傷の具合は、着衣に隠れて全く見えない。ただの打ち身で済めばいいが、骨にヒビが入っていたり、折れていたりしたら最悪だ。
 彼がどれだけ強かろうとも、所詮は人間。神話に伝わる英雄だって、サソリの一刺しで呆気なく命を落としてしまうくらいだ。
 軽く見て、腕を失う事になったら大変だ。最悪の展開を予想して震えあがり、綱吉はしつこく雲雀に確認した。
 だが彼は依然として強気を崩さず、顰め面で壁に寄り掛かった。
「夕方には戻るんだよね」
「はい? ああ、リボーンなら」
 顔を背けて視線を外し、雲雀が呟く。独白めいた問いかけに綱吉はぽかんとして、二秒してから首肯した。
 不在だから出直すのでなく、このままここで待つつもりらしい。その間に痛みが引いて、楽になるのを期待しての判断だろう。
 どこまで強情なのか。決して弱ったところを見せようとしない男に脱力し、綱吉は特に意味もなく右足を蹴り上げた。
 少し離れたところには、テレビのリモコンが落ちていた。
 流石にある程度重みがあるので、風に飛ばされる事はなかったようだ。上には机から落ちたと思しきプリントが被さっていて、放っておいたらまた行方を見失ってしまいそうだった。
 さっさと拾って、いつもの場所に移しておいた方が良さそうだ。予期せぬ来客もあったことだし、少しは散らばっているものを片付けるべきかもしれない。
 そんなことを考えて、綱吉は何気なく自分の爪先を見た。
 リモコンを蹴飛ばした時の痛みはとっくに薄れ、欠片も残っていなかった。
 当然だ、あの程度の痛みなど怪我のうちに入らない。雲雀が負ったダメージと比較しては、彼に失礼だ。
 それでも比べずにいられなくて、綱吉は一瞬息を詰まらせると、覚悟を決めて右足を蹴り上げた。
「――いって!」
 狙いを定め、一点を狙って振り抜く。
 刹那、親指の先端に電流が走った。衝撃は瞬く間に脳目掛けて駆け抜けて、堪らず彼は悲鳴を上げた。
 突然の絶叫に、雲雀も驚いて顔を上げた。流麗な眉を顰めて口を尖らせ、右足を抱えて飛び跳ねている少年を怪訝に見やる。
 彼の注意を引いた綱吉は内心ほくそ笑み、実際の数倍派手に痛がってみせた。
「あー、痛い。いったあ、痛いいたい。どうしよう、腫れて来ちゃうかも」
 わざとらしく呟いて、跳ねながら方向転換する。どすん、ばたんと家具や落ちているものにぶつかりながら少しずつ進んで、目指すのは部屋の出入り口だ。
 雲雀が入ってきた窓のほぼ真正面、片開きの扉を潜れば廊下に出る。一階に通じる階段は、そのすぐ傍だ。
 芝居がかったセリフ回しで喚く綱吉に、雲雀は理解が追い付かないのか呆然としていた。動く気配はなく、追いかけて来る様子もなかった。
 それにひとまず安堵して、綱吉はドアノブに手を掛けた。
 片足立ちで不安定だったバランスをこれで保ち、あくまでも独り言を装って。
「腫れちゃったら大変だしなー。よし、湿布を取ってこよう」
 大声で言い放ち、扉を開けて外に出る。
 バタンと閉めたドアによりかかり、綱吉はそっと、右足を床に下ろした。
 あれだけ騒いでおきながら、痛みはもう残っていなかった。
 腫れるなど、有り得ない。だがこれくらいの嘘なら許されても良いと嘯き、彼は駆け足で階段を下った。
 一方、部屋に取り残された雲雀は、けたたましく響いた足音に耳を澄ませてため息を吐いた。
 実にわざとらしい演技を見せられて、拍手を送る気にもなれなかった。あれで人を騙せたと本気で信じているのなら、彼の頭は相当なお花畑だと言わざるを得ない。
「もうちょっと頑張れなかったのかな」
 彼の芝居に比べると、並盛中学校の演劇部はさながらブロードウェイだ。
 流石は学内最低点を連続更新中の、期待の星なだけはある。壁に寄り掛かって自嘲気味に笑って、雲雀はズキズキと痛む腕に奥歯を噛み締めた。
 油断したわけではない。相手を見くびっていたつもりもない。
 ただ単純に、数が多かった。
 場所も悪かった。建物と建物の間、狭い通路を戦場に選んだのは失敗だった。
 勝ちはしたけれど、一撃を食らわされたのは屈辱の極みだ。思い出して反省点を並べ立て、彼は額に浮いた汗を拭った。
 戦闘中はアドレナリンが過剰に分泌されて、お蔭で痛みを感じなかったが、時間が過ぎるにつれて段々酷くなっていた。指が動くので骨に異常はないと信じたいけれど、詳しく調べてみなければその辺は分からない。
 赤ん坊にかこつけてこの家を訪ねたのは、ただの気まぐれだ。
 学校に戻る前に休憩できる場所を考えたら、ここしかなかった。本当に、単純に、ただそれだけだ。
 誰に対してか心の中で言い訳をして、雲雀は深く、長く、息を吐いた。
 体内に蔓延していた熱を放出し、後頭部を壁に寄せて体重を預ける。風が強く吹いているらしく、轟々という唸り声が時折聞こえてきた。
 そしてそれを上回る、ドスン、バタン、という盛大な騒音も、耳に飛び込んできた。
 家全体が揺れたのではないか、と危惧したくなる音量に、雲雀は僅かに眉を顰めた。もしや追手がやってきたのかと懸念するが、人の声は一人分しか確認出来なかった。
 声変わり前の少年特有の、甲高い悲鳴が耳の奥にこだまする。
 咄嗟に腰に手を伸ばして、雲雀はトンファーを取り出そうと身構えた。だがすぐに状況を悟り、肩の力を抜いて目を閉じた。
 意識を研ぎ澄まし、集中して音を拾い集める。再びドスドス言い始めたのは、階段を駆け上っているからだろう。
 案の定、十秒としないうちにドアが開かれた。
「お待たせしました!」
 言って、汗だくになった綱吉が入ってくる。無邪気な笑顔で告げられて、別に待っていたつもりはない雲雀は怪訝に首を傾げた。
 第一、綱吉は建前上、自分の為に湿布を探しに行ったのだ。そこは最後まで貫き通すべきではなかろうか。
「あ……」
 本人も言ってから思い出したらしく、戸口で赤くなって凍り付いた。
 耳の先まで朱色に染めて、紅色の口をパクパクさせる。艶やかな琥珀の瞳が当て所なく宙をさまよって、雲雀は堪らず口元を覆い隠した。
 くっ、と息を吐いて笑いを噛み潰し、背中を丸める。表情を隠して俯いた彼に、綱吉はアワアワしながら両手を振り回した。
「ちち、違った。そうじゃなくて、えっと、なんだっけ。えっと、えっと……あ!」
 右往左往しながら舌足らずに捲し立て、ようやく合点が行ったのか鋭い声を響かせる。その頭に突き刺さる高音に愁眉を開き、雲雀は駆け寄ってきた少年の前で足を伸ばした。
 壁に寄り掛かって寛ぐ体勢を取った彼に、綱吉は一階で発掘してきたらしい、赤い十字架マークが入った木箱を差し出した。
 だが雲雀は受け取らず、不思議そうに彼を見つめ返した。
「……あれ?」
「平気だって言わなかった?」
「えー」
 その反応に、綱吉も戸惑いを隠せなかった。
 ここまで来ておいて、まだ強がるのかと内心呆れさせられた。だがこの強情さこそが、雲雀恭弥が雲雀恭弥たる所以だろう。
 では、どうしたら使ってもらえるのか。
 足りない脳みそをフル活動させて唸り、数秒後、綱吉は救急箱を床に置いた。
「じゃあ、俺、下でお茶淹れて来ます。俺が居ない間は、好きに使ってくれて構いませんので」
 人前で弱みを見せたくないのであれば、人前でなくなれば良い。
 そう結論付けた彼の台詞に、雲雀は想定外だったのか、目を丸くした。
「君」
「じゃあ、ごゆっくり」
「待ちなよ」
 人の手を借りなくても、雲雀なら自分で治療出来る筈だ。
 そう判断して立ち上がろうとした綱吉に、彼は慌てた様子で叫んだ。
 引き留め、空を掴んだ利き手を膝に落とす。中腰になった綱吉はきょとんとして、可愛らしく首を傾げた。
 真っ直ぐ見つめてくる眼には、一点の穢れもなかった。その純真さが焦げ付きそうなくらいに眩しくて、雲雀はむず痒いものを覚えてコクリと喉を鳴らした。
 言わんとしていた内容が一瞬のうちに霧散して、頭の中は真っ白だった。
「ヒバリさん?」
 呼ばれたものの後が続いてこないのに首を捻り、綱吉は動きを止めた。それにまずホッとして、雲雀は口をヘの字に曲げた。
 なにを、どう言えばいいのだろう。引き留めた理由さえ良く分かっていない中で、彼は言葉を待つ少年を睨むように見た。
 続けて視線を戻し、正面から下へと滑らせる。
 見えたのは、やや黒ずんだ靴下だった。
「君こそ、……足、平気なの」
 そういえば彼は、部屋を出て行く理由として、リモコンを蹴り飛ばしていなかったか。
 思い出して、雲雀は恐る恐る問うた。
「へ?」
 もっとも当の本人がそのことをすっかり失念しており、話が繋がらない。無音の時間が数秒生まれて、言ってから後悔に苛まれた雲雀は居心地の悪さに顔を赤くした。
 気まずさに胸がもやもやして、穴があったら今すぐ飛び込んで、蓋をして閉じこもってしまいたかった。
 目を逸らした彼をじっと見つめ、綱吉はある瞬間にはっと息を吹き返した。大粒の眼を更に大きく見開いて、他よりちょっとだけ汚れが目立つ靴下を左足首に擦りつける。
「んー……どっちかというと、こっちの方が先かなあ」
 痛みは完全に消え去っていた。手当が必要な傷があるとしたら、棚から救急箱を取り出す際に擦った、右手の中指だろう。
 血は出ていないけれど、薄皮が裂けて逆向いていた。冷水に浸せば、きっと染みて痛いはず。
 ただそれとて、我慢できないほどではない。絆創膏も、消毒も無用の代物だ。
 けれど雲雀は笑い飛ばした綱吉をじっと見つめ、何を欲してか、利き腕を伸ばした。
「ヒバリさん?」
「見せてみなよ」
 本当に手当が不要かどうか、素人目で判断するのは危険だ。そうしれっと告げて、彼は不思議がる綱吉を促した。
 もっともそれで素直に応じる綱吉でもなくて、彼は当惑して眉目を顰め、右手を背中に隠した。
「平気ですって。こんなの、舐めとけば良いんです」
 それより早く、雲雀の怪我の手当をしなければ。
 自分が留まり続ける事で治療が先送りにされて、余計に悪化されたら困る。目を泳がせて早口に言った彼に、雲雀はムッとして、膝を起こした。
 立ち上がろうとしている。動くだけでも傷に響くだろうに、無茶をする彼に焦った綱吉は慌てて止めようと足を前に出した。
 両手も前に突き出して、万が一倒れて来たら受け止められるように構えを作る。それを、何を思ったか、雲雀は横から掻っ攫った。
「うわっ」
 手首を取られ、引っ張られた。堪らずつんのめり、綱吉はフローリング上でたたらを踏んだ。
 靴下が摩擦を弱め、ずるっと滑りそうになった。咄嗟に足を広げて踏ん張って、お蔭で上半身の注意が疎かになった。
 手首から指の付け根へ、雲雀の手が素早く移動を果たす。ぎゅっと力強く握られて、骨が軋む感覚に綱吉は唸り、顔を歪めた。
「いっ」
「……!」
 唇の隙間から、苦悶の息が漏れた。きつく目を瞑って痛みに耐える横顔を目の当たりにして、我に返った雲雀は急ぎ指を広げた。
 彼を開放し、少し赤くなっている小さな手を見つめる。雲雀に握られた時の形のまま震えるそれは、花咲く前に潰れてしまった蕾のようだった。
「…………」
 空になった己の掌を呆然と眺め、雲雀は肩を二度上下させ、深呼吸を繰り返した。
「あ、あー……びっくりした」
「ねえ、君」
「はい?」
 一方で綱吉はあまり深く受け止めず、弱まりつつある痛みに胸を撫で下ろして小首を傾げた。
 誰に呼びかけられたかを、返事してから思い出して、少年は真っ直ぐで強い眼差しに照れ臭そうにはにかんだ。
「え、と……?」
「舐めるくらいならしてあげるから。湿布、貼ってよ。……僕ひとりじゃ、届かない」
「――え?」
「なに、嫌なの?」
 どう対処して良いか分からなくて困っていた綱吉が、二秒後には目を丸くした。三度続けて瞬きをして、不機嫌そうな質問に大慌てで首を振る。
 ぶんぶんと、吹っ飛んでいきそうなその勢いに、雲雀は堪え切れず噴き出した。
「え、ええ?」
「早くしなよ。痛いんだから」
 少し前まで強情を張り、平気だと言って認めようとしなかった男が、いったいどういう心境の変化か。
 訳が分からなくてクエスチョンマークを生やす綱吉を急かし、雲雀は再度、力加減を忘れず、彼の手を取った。
 薄皮一枚擦り切れている傷口を探し出し、本人が言った通り、掬い上げて横向きにして。
 そっと唇に押し当てて、軽く食む。
「――!」
 瞬間、綱吉の顔が真っ赤に茹で上がり、鼓膜色の瞳がぐるりと一周して、頭からは白い煙が立ち上った。
 ぼふん、と凄まじい爆音が聞こえた。綱吉は膝から床に崩れ落ちて、目を回して天を仰いだ。
 その間もずっと、雲雀は彼の手を握っていた。
「ねえ、早くしてよ」
 それを軽く引き、囁く。
 意地悪な声は低く掠れ、甘く響いた。綱吉は熱を持つ額を覆い、豹変した男を直視できない現実に、働かない頭を抱え込んだ。

2014/04/03 脱稿