控えめなノックが二回、少しの間をおいてもう一回。
いつものリズムを耳にして、雲雀は顔を上げた。
「どうぞ」
筆を走らせていた手を休め、ペン先でコツンと机を叩いて答える。入室の許可を得て、ドアはゆっくり開かれた。
回転するドアノブから視線をずらし、出来上がった隙間へと目を凝らす。程なくして現れた甘そうな蜂蜜色に相好を崩し、雲雀恭弥は頬杖をついた。
「どうしたの?」
右手に持ったボールペンをぶらぶら揺らしつつ問うた彼に、琥珀色の瞳の少年は照れ臭そうにはにかんだ。
後ろ手にドアを閉め、背筋を伸ばして立つ。それでも身長は百六十センチに届かず、同年代の中ではかなり小柄だった。
背の低さもそうだが、体重もびっくりするほど軽い。線が細いので、遠目からだと女子と間違えてしまえるくらいだ。
スカートを履かせても違和感がない気がする。そんなことをふと思って、雲雀はすぐに打ち消した。
頭の中に沸き起こった妄想を振り払い、前方に意識を戻す。真っ直ぐな眼差しを受けて、少年は遠慮がちに口を開いた。
「えっと、……ちょっと、はい」
「?」
しかし台詞に中身がなくて、意味が分からなかった。首を竦めながら緊張気味に微笑んだ彼をじっと見つめ、雲雀は眉間に皺を寄せた。
怪訝にしているのが伝わったのだろう。彼ははっと息を呑んで両手を振り回した。
「いえ、あの。顔を見たかっただけっていうか、その」
「……ああ」
「うぐっ」
目の前の空気を掻き回した後、雲雀の相槌で己の失言に気付く。少年はみるみる顔を赤く染めて、恥ずかしそうに俯いた。
耳の先まで見事な朱色で、見ている方まで気恥ずかしくなってきた。赤面が伝染した雲雀は口元を覆い隠し、目を泳がせて天井を仰いだ。
空中に線を描くペンを机に転がして、指の隙間から息を吐く。生温い風を固い皮膚で受け止めて、彼は戸口で右往左往中の少年に肩を竦めた。
「いつまでそこにいるの?」
「うあ、ひゃい!」
内面の動揺をひた隠しにして尋ねれば、少年は裏返った声で叫んだ。
甲高い、とても十四歳の男子のものとは思えない悲鳴に肩を揺らし、雲雀は人差し指でソファを示した。
ここは並盛中学校、その応接室。
そして風紀委員長である雲雀の執務室だ。
横幅のある机には、未処理の書類と、処理済みの書類がそれぞれ山を作っていた。ほかにも比較のための資料やらなにやらが大量に積み上げられて、迂闊に触れる事も出来ない有様だった。
とてもではないが、たかだか学校の一委員会の委員長が任せられる仕事量ではない。だというのにこうなっているのには、ちゃんと理由があった。
雲雀恭弥の強権は学校内にとどまらず、並盛町全域に及んでいた。
彼は学内の、そして町内の風紀が乱れる事があろうものなら、率先してこれを排除しに向かった。他所の町から不良が攻め込んで来た時も、たったひとりですべて駆除してしまった。
隠し武器であるトンファーを手に、屍の山を築き上げる男。それが並盛中学校の支配者だ。
ただ今の彼は不良の屍ではなく、書類の山を前に格闘していた。
目を通すべき報告書が巨大なタワーと化し、部屋を圧迫していた。そのうち崩れそうな雰囲気に頬を引き攣らせ、沢田綱吉は熱を持つ額に手を押し当てた。
そのついでに前髪をくしゃりと握り、ボールペンを拾い上げた男をこっそり盗み見る。
「ン?」
「しっ、失礼します」
途端に気配を感じた雲雀が顔を上げて、綱吉は大慌てで頭を下げた。
大袈裟な身振りにと声に、苦笑を禁じ得ない。雲雀の失笑を買った彼は羞恥に喘ぎ、しばらく顔を上げられなかった。
「ゆっくりしていくと良い」
「うぅ……はい」
慰めるように言われて、辛うじて頷く。ゆっくり姿勢を戻し、綱吉はバクバク五月蠅い心臓を撫でた。
指先に感じる脈動は激しく、いつ飛び出して来てもおかしくなかった。それを封じようと制服の上から胸を押さえ、彼は乾いた唇を舐めた。
形式的なやり取りを終えてひと段落ついたからか、雲雀はペンを握り直し、仕事に戻ってしまった。
忙しそうな雰囲気は、部屋に入った直後から感じていた。
大きく育った書類の山を仰ぎ見て、ため息を一つ。これでは構ってもらえそうにないと肩を落とし、綱吉は逡巡して目を泳がせた。
邪魔になるなら、帰った方が良いに決まっている。だが勇気を出して訪ねて来た手前、あっさり身を引くのは悔しかった。
ここに来るまでの葛藤を簡単に振り返って、彼は荷物で満載の鞄を抱きしめた。
「お邪魔します」
頭をぐるぐる回して唸り、蚊の鳴くような声で呟く。もう一度小さく頭を下げて、綱吉は決意の下、そろりと右足を持ち上げた。
なるべく足音が響かぬよう、細心の注意を払って歩く姿に、雲雀は危うく噴き出しそうになった。
忍び足の配慮を自分で台無しにするところで、彼は咄嗟に口を噤んだ。右手の甲を唇に押し当てて蓋もして、鼻から息を吸って心を落ち着かせる。
そんな雲雀の努力を知らず、少年は辿り着いたソファを前にぱあっ、と顔を輝かせた。
やりきって嬉しそうにしている横顔を盗み見て、雲雀はボールペンの尻でこめかみを叩いた。
「急がないとね」
行動の一々が可愛い恋人に相好を崩し、ひとりごちる。独白はその場に留まり、彼の背中を押した。
雑な仕事をするわけにはいかないからと集中力を働かせ、雲雀はペンを走らせた。時々赤色に持ち替えて線を引いたり、ミス部分を修正したりと、忙しく頭を働かせる。
テキパキ進めていく彼を遠巻きに眺め、ソファに座った綱吉は感嘆の息を吐いた。
膝に乗せた手はいつの間にか斜面を滑り、太腿の脇に沈んでいた。無意識に動かした足で床に置いた鞄を蹴ってハッとして、だらしなく開いていた口を慌てて閉じる。
ぽかんと間抜けな表情だったのを引き締めるが、それも三分と持たない。すぐに緩む頬を爪っては揉んで、ひとりで百面相中の彼を一瞥し、雲雀は何をやっているのかと肩を竦めた。
時計に目を遣れば、既に午後四時を大幅に回っていた。
授業が終わってから、三十分以上が過ぎている計算だ。綱吉はホームルーム終了後すぐに訪ねて来たのではないので一概には言えないけれど、それくらい彼を待たせている計算になる。
茶の一杯でも供してやるべきだったか。
部下を呼ばなかったのを今頃後悔して、雲雀は退屈そうにしている綱吉を見つめた。
今は足元の鞄の位置が気になるのか、手を伸ばして弄っては、右の寄せたり、または膝の上に移動させたりと落ち着きがない。ただ動きにはこだわりがあって、ソファを汚したくないらしく、黒い革の上に転がそうとはしなかった。
あれこれ試しては見るものの、なかなか良い置き場所が見つからないようで、悩んでいるのが窺えた。
顰め面を興味深げに眺めて、雲雀は手づかずの書類にため息を零した。
「宿題はいいの?」
「――ふぇ、えっ!?」
合間に問いかけを流し込むと、完全に油断していた綱吉は大袈裟に身を竦ませた。
ソファの上で座ったまま飛び跳ねた彼に苦笑して、雲雀は新しい書類を引き寄せた。これはサインするだけで良いと瞬時に判断し、素早く記入して処理済みの箱へと放り投げる。
一連の動作を呆然と見送って、聞き取れなかった綱吉は首を右に倒した。
不思議そうに見つめてくる顔はあまりにも幼く、無防備極まりなかった。
「宿題。なかったの?」
この子は本当に中学二年生かと疑ってかかり、同じ質問を繰り返す。嘆息混じりの質問にややして背筋を伸ばし、少年は四方八方に跳ねている髪をくしゃくしゃに掻き回した。
「えっと。あるには、あるんですけど……」
「だったら、ここでやっていきなよ」
言い難そうに言葉を選び、はぐらかそうとしたのをピシャリと叩き落とす。優しい口調に反して厳しい語気に口を噤み、綱吉は不満げに頬を膨らませた。
タコのように唇を尖らせて拗ねる様は愛らしいが、それとこれとでは話が別だった。
「聞いてるよ。この前の小テスト、四点だったんだって?」
「ギクッ」
「五十点満点で、だろう。百点満点だったとしても八点しかないのは、恥ずかしくない?」
「それは……うぅぅ」
ため息をその場に積み重ね、雲雀は赤ペンを引き寄せた。黒インクから持ち替えてさらさらと紙面に文字を書き連ね、やり直しを命じる文言を足して隅へと追いやる。
手厳しい風紀委員長を恨めし気に見上げ、綱吉はテーブルの下に置いた鞄を蹴り飛ばした。
先だってのテストの結果が、どういった経緯で彼の元に伝わったのか。犯人はひとりしか思いつかなかった。
黄色いおしゃぶりを身に着けた赤ん坊を思い浮かべ、彼は深く肩を落とした。
「しょうがないじゃないですか。だって、聞いてなかったんですから」
小テストの予告はなかった。ある日突然、生徒を騙し討ちする形で始まった。
ただの授業だと思っていたら、大間違いだった。クラスの皆も大いに不満そうで、実際、テストの平均点は非常に低かった。
その中でも輪をかけて酷かったのが、そこにいる綱吉だ。
いくらなんでも、酷すぎる。突発的なテストだったとはいえ、内容は一度授業でやったものばかり。それで正解が取れないということは、講義を全く聞いていないか、聞いていても理解出来ていないかのどちらかだ。
正論過ぎる反論を受け、綱吉は頬を凹ませた。ぐうの音も出ないほどに打ち負かされて、しょんぼりしながら首を垂らす。
落ち込んでしまった横顔に苦笑して、雲雀は壁時計の下にあるカレンダーに顔を向けた。
「そんなんじゃ、進級出来ないよ」
中学校はまだ義務教育だけれど、あまりに成績が悪いと留年することだってある。滅多に起きない事例だが、綱吉ならば十分有り得そうだった。
このまま卒業してもきっと高校進学は無理だし、たとえお情けで入学出来たとしても、授業についていけるとは思えない。かといって専門学校を選んでも、生来の不器用さが原因で即放逐されてしまいそうだ。
運動もダメ、勉強もダメ。なにをやってもダメダメのダメツナが将来就けそうな職業といったら、いったい何があるだろう。
含みのある眼差しを浴びて、少年は嫌そうに顔を歪めた。
言葉はなかったが、何を思い浮かべたかは歴然だった。
マフィアのボスなど、なりたくてなれるものではない。だがその権利を有する少年は、争い事が大嫌いだった。
日頃の彼の口癖を思い返し、雲雀は目を眇めた。中断していた仕事を再開させて、次の書類を取り出そうと右手を持ち上げる。
動き出した彼を複雑な表情で見つめ、綱吉は口をもごもごさせた。
「べつに、それもいいかなって、思ってますけど」
「うん?」
「留年、してもいいかなって」
「小動物」
今度は雲雀が聞き取れない番だった。
後から言葉を補った綱吉は、呆気にとられている雲雀を横目で窺って、右足を蹴り上げた。
今度は鞄を避けて通り、背の低いテーブルの天板裏に爪先を擦りつける。行儀が悪いと思いつつ上履きでコツコツ音を立てた彼に、雲雀は深くて長い息を吐いた。
空にした右手を額に当てて表情を半分隠し、首を横に振った彼を見て、綱吉はようやく足を下ろした。
膝を揃えて、緩く握った両手をその上に。居住まいを正して畏まった少年を指の隙間から覗き、雲雀は浅く唇を噛んだ。
どう切り返すべきだろう。綱吉の表情は真剣で、冗談を言っているようには思えなかった。
聞きようによっては、自ら不勉強を反省している風にも受け取れた。しかし台詞の裏に一年かけて勉強をやり直したい、という決意があるとはとても思えなかった。
成績が奮わなかったので再度学び直す意志は感じられず、別に理由があると推察出来た。そしてその理由については、なんとなくだが見当がついた。
前に雲雀は、自分は自分の好きな学年だ、と言ったことがあった。卒業するように見せかけて卒業せず、またほかの生徒とは違って委員会優先で授業を受けていないところも、少なからず影響を与えたと思われた。
それを証拠に、綱吉は膝をもぞもぞさせて口を開いた。
「そしたら、……ヒバリさんと、ずっと一緒に居られるし」
腿に両手を挟んで身を捩り、恥ずかしそうに呟く。声量は控えめだったが、室内はそれにも増して静かだ。耳聡い雲雀が聞き逃すわけがなかった。
想像通りの台詞に首の後ろを赤くして、雲雀は苦々しい思いで奥歯を噛み締めた。
「ダメだよ」
振り絞るように紡いだ声は、思った以上に低く掠れていた。
綱吉がはっとした様子で顔を上げた。目が合って、雲雀は腕を下ろして首を振った。
「そんな事を言っちゃダメだよ、小動物」
繰り返し言い聞かせ、眼差しで諭す。優しげな瞳に彼は唇を噛み、ソファへ身を沈めた。
俯いて小刻みに肩を震わせて、五秒後に力ませていた肩を落とした。脱力してクッションに凭れかかり、綱吉は務めて明るい表情を浮かべた。
「あはは。ですよねー。俺ってば、何言っちゃってんだろ。はは」
左手で後頭部を掻き回しながら声を立てて笑うけれど、それが空元気なのは誰の目にも明らかだった。
雲雀とて、見抜けないわけがない。虚勢を張って強がっている姿に胸を痛め、彼は更に二度、首を横に振った。
「本当だよ。……本気にするだろう?」
愛想笑いで誤魔化そうとする綱吉に淡々と告げて、カツリと爪で机の角を叩く。思いの外よく響いた音にびくりとし、綱吉は目を見開いた。
琥珀色の宝石が、今にも零れ落ちてくるようだった。
呆気にとられ、口までぽかんと開いていた。そんな間抜け顔を瞼に焼き付けて、雲雀は意地悪く口角を歪めた。
彼がその気になれば、綱吉を留年させるなどなんでもないことだ。テストの得点を不正に操作する事だって、造作もないだろう。
並盛中学校の支配者が誰であるかを思い出し、綱吉は背筋を粟立てた。薄ら寒いものを覚えてぶるりと震えた後、ほっと息を吐いて胸を撫でる。
服の皺を押し潰した彼を見つめ、雲雀は不敵に微笑んだ。
「嘘だよ」
「俺は、別に構いません」
「ダメ」
「ヒバリさん」
さらりと言って、食い下がる綱吉を黙らせる。右手を前に伸ばして止まるよう指示し、これ以上は聞かないと態度で示す。
問答無用の風紀委員長を睨み、綱吉は悔しげに地団太を踏んだ。
雲雀はこの学校が好きで、この町が好きだ。卒業せずに留年し続ければ、彼とずっと一緒に居られるはずだった。
しかし無情にも断られた。あっさり却下されてしまった。取りつく島もなかった。
彼は耐えられるのだろうか。綱吉が卒業し、この学校から去っても。
この町から出て行ったとしても、平気な顔をしていられるのだろうか。
猜疑心が胸に沸き起こった。互いに好きあっているという大前提が揺らぎ、足元がぐらつくのを感じた。
不安と不満が一斉に顔に現れて、顔色を変えた彼に雲雀は苦笑した。
仕事をする気も起こらなくて、椅子の背凭れに身を委ねる。右を上に脚を組んで膝を持ち、彼は意味ありげに目を眇めた。
「僕の学校で留年者が出るなんて、許せないな」
「……結局それですか」
「他にある?」
抑揚をつけて言い切られ、綱吉は時間をかけて嘆息した。逆に聞き返されても、答える気力は沸かなかった。
雲雀は一にも二にもなく、並盛が大好きだった。
その度合いは、時として綱吉へのそれを上回る。恋人に配慮して並盛の歴史に傷をつけるつもりは、毛頭ないのだ。
学校に負けた。恐ろしく巨大な存在とは争うだけ不毛と肩を落とし、綱吉は悔し紛れに床を蹴った。
ゴム底の上履きが滑り、音は響かなかった。だが派手な身振りで伝わって、雲雀は憤懣やるかたなしの彼を呵々と笑い飛ばした。
「それに、赤ん坊が許さないだろう?」
「リボーンは関係ありません」
「彼が怒るよ?」
「ヒバリさんは、俺と、リボーンと。どっちが大事なんですか」
「勿論、両方だよ」
「どっちかに決めてください」
「なら、赤ん坊かな」
「――さようなら」
「最後まで聞いていかないのかい?」
早口に捲し立て、スッと立ち上がった綱吉を雲雀が制した。含みのある物言いにピクリと肩を震わせて、彼は鞄に伸ばした腕を空中に留めた。
向けられた視線は疑念に満ちており、怒りが迸っていた。いつ導火線が燃え尽きるか分からない爆弾に口端を持ち上げて、雲雀は鷹揚に頷いて両手の指を絡め合わせた。
緩く握った手で膝を包み込み、黒髪の青年は堂々と胸を張った。
「だって君は、僕が好きだろう?」
そしていけしゃあしゃあと言い放ち、綱吉を絶句させた。
綱吉はたとえ雲雀に突き放されても、這い蹲りながらでも追いかけてくる。彼が好きだからだ。
ではリボーンはどうかと言えば、むしろ好都合とばかりに雲雀から離れていくに違いなかった。
この場合、追う側は雲雀の方だ。振り向いてもらおうと躍起になるのも、見苦しく足掻くのも。
もっともそんな説明を偉そうにされても、綱吉はなにひとつ同意できなかった。
彼の言い分は雲雀に恋い焦がれる感情を馬鹿にして、玩んでいるのと同義だ。好かれている自負に胡坐をかいて左団扇気分でいる男を前に、反発しか生まれてこなかった。
どうしてこんな奴に惚れてしまったのかと後悔し、綱吉は拳を作った。小刻みに震わせて怒りを押し殺し、荷物も放置して帰ってやろうかと思い悩む。
そんな般若の顔になっている恋人をクスリと笑って、雲雀は最強のヒットマンに肩を竦めた。
「だからしっかり、彼を御しておかないとね」
「はい?」
「君を攫って行けるのは、赤ん坊しかいないから」
「……はいぃ?」
淡々と告げて、立ち上がる。椅子を軋ませた彼を目で追いかけて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
前後の脈絡がむちゃくちゃで、彼の発言の意味がさっぱり分からなかった。
目を真ん丸に見開いて驚いている綱吉に肩を揺らし、雲雀は口角を歪めて不敵に笑った。眇められた眼は獲物を狙う猛禽のそれに等しく、けれど標的と定められたのは綱吉ではなかった。
ここに居ない別の誰かに照準を合わせた彼にぞっとして、綱吉は鳥肌立った腕を撫でた。
「ヒバリさん?」
「だからつまり、そういうこと」
「全然分かりません」
「そのうち分かるよ」
訝しげに問うが、明確な回答は得られなかった。
はぐらかされて、面白くない。しかし待っていても教えてもらえそうになくて、綱吉は不満を露わに口を尖らせた。
フグを真似て頬を膨らませた彼を呵々と笑い飛ばし、雲雀はまだまだ大量に残っている書類と、時計とを見比べた。
最後に不貞腐れている少年を見れば、彼は帰るのを諦めたらしく、ソファに座り直していた。
豆腐並みのメンタルだった綱吉が強くなれたのには、鬼の家庭教師の存在が大きい。本人が自覚していないだけで、リボーンの影響力は凄まじかった。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という言葉がある。まだ幼い綱吉の手綱を握っているのは、実を言えばあの赤ん坊だ。
だから彼を怒らせ、不機嫌にさせようものなら、雲雀はたちまち綱吉との縁を切られてしまう。
それだけは、なんとしてでも避けなければならなかった。
人の気苦労も知らずにぷんすか煙を噴いて、綱吉はソファの上で身じろいだ。時折ちらちらと人の顔を窺ってはすぐに逸らして、相変わらず落ち着きがなかった。
仄かに朱を帯びた頬と、不機嫌さを隠しもしない双眸が妙に艶っぽかった。無言でなにかを強請られている気がして、雲雀は頬を緩めて苦笑した。
怒らせてしまった分、ご機嫌取りは必要だ。少しくらい構わないかと甘い自分に目を瞑り、彼はわざとらしく欠伸を零した。
右腕を頭上に伸ばし、左手は口元へ。そして眠そうに目尻を擦ってみれば、綱吉は惚けた顔をしていた。
緊張感がないと憤然とするわけでもなく、ぽかんと口を間抜けに開いていた。その表情に悪戯心を膨らませ、雲雀はもう一度、今度は小さく欠伸した。
「根を詰めるとダメだね。休憩するよ」
続けて肩に手を添えて首を回せば、実際に骨がポキポキ音を立てた。
午後に入ってからずっと事務仕事ばかりして、椅子に座りっぱなしだったのは本当だ。時折手を止めて休んではいたけれど、それも数分程度でしかない。
分かり易い誘導を受けて、綱吉の目が真ん丸になった。興奮に鼻息を荒くして、少年ははっとしてからあたふたと左右を見回した。
ソファの上で何度も居住まいを正し、体を上下に弾ませたかと思えば少しずつ右にずれていく。それまで三人掛けの真ん中に陣取っていた彼は、あっという間に肘掛けのある端へ移動した。
その上で膝をきちんと揃え、肉付きが悪い腿を掌で叩いた。
「小動物?」
いったい何をしているのか分からない。怪訝に小首を傾げていたら、立ち止まった雲雀を見上げ、綱吉が口を開いた。
深く息を吸い、止めて。
「あの。俺の、ここ。空いてますので!」
やや裏返った声で叫ぶ。
上擦ったボーソプラノに唖然として、雲雀は目を点にした。
肩を借りるつもりでいたのに避けられたと思っていた。どうやら違ったらしいと遅れて気づき、彼は緊張気味に返事を待っている恋人に堪らず、噴き出した。
「――クッ」
「ちょ、なんで笑うんですか!」
折角人が勇気を振り絞り、膝を提供すると言っているのに。
好意を無碍にされたと激昂して、綱吉は声を荒らげた。恥ずかしいのか耳まで赤くして騒ぐ彼に、雲雀は違うと慌てて手を振った。
しかしもう片腕で腹を抱えて丸くなったままでは、まるで説得力がない。笑い過ぎて苦しいと喘ぎ、並盛中学風紀委員長はのろのろ運転でソファへと近づいた。
今日は誤解させてばかりだ。次からもう少し言葉に気を配るよう決めて、雲雀は深呼吸して四肢の力を抜いた。
「わっ」
そのまま前に倒れれば、ベッド代わりのソファは目の前だった。
いきなり飛び込んできた雲雀に戦き、綱吉は両腕を高く掲げた。その隙に固い膝へと潜り込んで、青年は仰向けに寝転がった。
長い脚は反対側の肘掛けに預け、軽く身を捩って据わりが良い場所を探り当てる。ぐりぐりと後頭部を腿に押し付けられた方は赤面し、何もない空間に視線を彷徨わせた。
「言っておきますけど、タダじゃないですからね」
「お代は払うよ。なにがいい?」
「……じゃあ」
密着した分、匂いを強く感じた。少し疲れ気味の肌色も、低めの体温も、遠くにいた時には分からなかったものが一気に押し寄せて来た。
慣れない重みのむず痒さを堪え、この期に及んで強がってみせる。生意気を言ったのにあっさり承諾されて、綱吉は一呼吸挟み、背中を丸めた。
もっと雲雀の近くに顔を寄せて、黒髪から覗く耳にそっと息を吹きかける。
囁きに首を竦め、彼は何度か瞬きした。
「そんなのでいいの?」
「はい。それがいいです」
綱吉の願いは、分かっていたが金ではなかった。後日の約束や、形があるものでもなかった。
今すぐにでも叶えてやれる願いに相好を崩し、ならば、と彼は膝枕中の恋人を手招いた。
求めに応じ、綱吉は嬉しそうに笑った。しばらくそのまま見詰め合って、彼は厳かに唇を動かした。
「好きだよ」
2014/2/24 脱稿