Snow White

 吹く風は冷たく、まるで磨き抜かれた鋭い刃のようだった。
 ひゅぅ、と唸り声をあげて駆け抜けた突風に戦き、居合わせたほぼ全員が揃って首を竦めた。誰もが出来るだけ小さく、身を固くして、体温を奪われないように意気込み歯を食いしばる。
 影山もご多分に漏れず身を強張らせ、冷やされ過ぎてひりひり痛い頬を撫でた。
「さっぶ」
 きっと赤くなっているだろう肌は凍り付いたかのように硬く、手袋の柔らかい感触を悉く薙ぎ払った。それでもしつこく数回なぞって、最後は軽く抓って手を離す。
 別の痛みで寒さを誤魔化した彼の前方では、西谷が帽子から垂れ下がる紐を必死に握りしめていた。
 目深に被ったそれが風で飛ばされないよう、押さえているつもりらしい。カラフルな毛糸からはみ出した髪は四方八方に向いており、いつにも増して奇妙な髪型になっていた。
 メッシュの入った前髪も行方不明で、一瞬誰だか分からなくなる。寒そうに肩を震わせている小柄な上級生に苦笑して、影山は追いかけてこないチームメイトを探し、視線を泳がせた。
「冷えるなー」
「これ、雪降るんじゃねえ?」
「夜半から予報出てましたよ」
「げえ、マジで?」
 その一方で前を行く面々は口々に言い合い、淡々とした月島の一言に仰け反って天を仰いだ。
 空を見れば、確かに分厚い雲が広がっていた。
 低い位置に陣取る灰色の層の所為で、月も星も、見つけられなかった。道を行くには街灯の明かりだけが頼りで、男子高校生の声は夜の町に騒がしく響いた。
 冬のただ中であっても、学校はある。放課後は部活動に汗を流し、帰宅はとっぷり日が暮れた後だった。
 昨日と同じ時間帯に体育館を出たのに、空模様の所為でもっと夜遅いように感じられた。いつ雪が降り始めてもおかしくない光景に白い息を吐き、影山はペダルを漕ぐ音を探して耳を澄ませた。
「日向の奴、おせーな」
 後ろをちらちら気にしていたからだろう。気付いた田中が、何気なく呟いた。
 彼の頭もまた、毛糸の帽子ですぽり覆われていた。但し耳カバー付きの西谷とは違い、形状は非常にシンプルだった。
 余計な飾りがないので、頭の形がくっきり表に出ていた。まるでゆで卵だと心の中で笑って、影山は鷹揚に頷いた。
「ですね」
「迷子にでもなってるんじゃない」
「ははっ。ちがいねえ」
 同意し、なかなかやって来ない同級生を探して坂の上に目を凝らす。それを月島が茶化し、ツボに入ったのか西谷が盛大に笑った。
 腹を抱える彼を制して、縁下が肩を竦めた。顎で示された先にはシャッターを半分閉めた店があり、戸口の左右には自動販売機が並んでいた。
 あまり騒ぐと、坂ノ下商店から烏養コーチが飛び出してくる。部活中も散々怒られたのに、また叱られるのは願い下げだった。
 示された内容を瞬時に理解して、天才リベロはぺろりと舌を出した。両手を合わせてスマンと頭を下げて、改めて彼方を望んで背筋を伸ばす。
「あ、来た」
 真っ先に声を上げたのは山口だった。
 分厚いコートの上からマフラーをぐるぐる巻きにした彼が、一本だけ跳ねている髪をひょこ、と揺らした。身体ごと振り向いて左腕を高く掲げ、やっと駐輪場から出て来たチームメイトに向かって勢いよく合図を送る。
 向こうも、すぐに気づいたようだ。自転車に跨った少年はペースを上げて、猛スピードで坂を下った。
「さっみ~~」
 そして部のメンバーと合流するや否や、大声で叫んでかぶりを振った。
 明るいオレンジ色の髪は、耳の上から頭のてっぺんに向かって一直線に凹んでいた。
 毛足が長いイヤーマフラーがすっぽり耳殻を包み込み、これを繋ぐバンドが柔らかな髪に深く差し込まれていた。首元にはオレンジ色のマフラーが結ばれて、ジャージの上にはダウンジャケットを着込んでいた。
 元の体型がさっぱり分からない丸みを帯びたシルエットに、影山は苦笑を禁じ得なかった。
「遅かったんだな」
「んー、ちっとな」
 排球部員の中で、自転車通学は彼だけだ。学校の駐輪場は正門の外にあり、これを出してくる手間で、日向は毎回、皆より一歩遅かった。
 なんとか追い付けたと白い歯を見せて、彼は影山ににこりと微笑んだ。
 ただその表情の割に、歯切れが悪い。曖昧な返事で濁されて、影山は眉目を顰めた。
 なにかがおかしい気がするが、その何かが分からない。大事なパーツがひとつ欠けている気分で首を捻っていたら、焦れた日向が影山を置いて駆け出した。
 自転車に跨ったまま爪先で地面を蹴って、先頭を行く二年生を追いかける。白い息が煙のように列を成して、揺れながら空へ溶けて行った。
 瞬く間に消え失せた陽炎に首を振り、影山は騒がしい一団に視線を戻した。
「ンだろ」
 自問するが、答えは出ない。仕方なく、彼は歩幅を広げて距離を詰めた。
 もっと近くで調べなければ、違和感の正体は掴めそうになかった。チリチリする胸を押さえこんで、彼は手袋のまま拳を作った。
 外からの冷気を防ぎ、熱を閉じ込める防寒仕様の手袋は厚みがあり、少し重かった。内側はモコモコした素材を使用して、肌触りは抜群だ。
 表面はこげ茶色で、パーツを縫い合わせた糸は白い。わざと縫い目を見せるデザインは、方々を探し回って見つけたものだった。
 影山は身長が百八十センチ少々あり、まだ伸びている。当然手足も大きく、なかなかサイズに合うものが見つからなかった。
 これと思える物に出会えるまでの苦労があるから、この手袋はかなりお気に入りだ。出来れば長く使っていきたいと思っており、ましてや紛失するなど、あり得ない話だった。
 そんな大事な手袋で両手を覆い、足早に道を下る。にこやかに談笑する集団と合流するのに、さほど時間はかからなかった。
「おい、日向」
「あ、影山さー。明日なんだけど」
「ちょっと、君」
 狭い隙間を押し広げ、無理矢理輪の中に加わって声を荒らげる。だが日向は変わらず笑って、話題を振って声を高くした。
 押し退けられた月島が迷惑そうに顔を歪めたが、誰も構わなかった。息で眼鏡を曇らせた彼は不満をありありと顔に出し、宥めようとした山口に悪態をついた。
 どこまでもいつも通りの一年生に、縁下が苦笑した。仲がいいのか悪いのか、判断に困るやり取りを眺め、そして不意に下を見て目を丸くする。
 吃驚してぽかんと口を開いた彼の横で、成田が怪訝に首を捻った。
「どした?」
「いや、うん。……日向、手袋は?」
「へ?」
 訊かれ、彼は口籠ってから後輩に水を向けた。質問された少年は突然のことにきょとんとし、一秒後ハッと我に返って背筋を粟立てた。
 外気の寒さだけが原因でない震えを目の当たりにして、影山もようやく、違和感の正体に気が付いた。
 自転車のハンドルを握る日向は、手袋をしていなかった。
 耳当てと首巻き、分厚いジャケットに踝までを覆うシューズカバーと、彼の防寒対策は些か過剰なくらいだ。だといのに、真っ先に風に晒される両手は剥き出しだった。
 既に凍えかけている指先は白く染まり、まるで蝋のようだった。触れればきっと、氷並みに冷たかろう。
 想像し、影山は鳥肌を立てた。
 日向の状況はあっという間に周囲に伝わって、月島などは露骨に嫌そうな顔をした。
「どうしたんだよ、お前。今朝は持ってたよな?」
「そういやそうだな。落としたのか?」
 田中や西谷も他人事とは思えないらしく、身を乗り出して車上の後輩に迫った。
 四方から一斉に質問を繰り出され、どれから答えればいいか分からない。日向は予想外の騒ぎになったと目を白黒させ、頬を引き攣らせた。
「や、その。あの」
 彼が手袋をしていたのは、影山も見ていた。
 早朝練習で体育館へ向かう道すがら、良く競争になった。正門からダッシュしてどちらが先に着くかの勝負は、すっかり恒例行事になっていた。
 その時、彼はちゃんと両手を布で覆っていた。指先がふたつ、つまりは親指とそれ以外とに分かれているミトンタイプで、防寒面はともかく、機能面は一歩劣るタイプだった。
 男子高校生が使うものとしてか可愛すぎるデザインだったが、本人は気に入って使っている様子だった。今ではすっかり見慣れてしまい、彼が使う手袋はこの形状以外有り得ない、と思えるくらいだった。
 だというのに、縁下が言うまでまるで気づかなかった。
 寒そうに凍えている指先を庇い、ダウンジャケットの袖は手の甲をすっぽり覆っていた。だが全体を包み込むには長さが足りず、どうしても露出する部分が残った。
 あちこちから責められて、日向は言い難そうに口をもごもごさせた。
「たぶん、部室に……」
「忘れて来たのか」
「お前、バカだなあ」
 輪の中心で声を絞り出し、居心地悪そうに身を捩る。途端に西谷が肩を落とし、田中が呆れた顔で呟いた。
 日向本人もそう思っているのだろう。口を尖らせて項垂れて、恨めしそうに闇を睨んだ。
 不貞腐れた表情をちらりと盗み見て、影山は手袋のまま親指と人差し指を擦り合わせた。
「取りに行けばよかったのに」
「だって、鍵」
「あー、そうだった」
 傍らでは自転車を下りた日向を中心に、話が続いていた。
 山口が至極当たり前の提案をして、日向がもごもご言うのを聞いた田中が天を仰いだ。両手で頭を抱え込んで大袈裟なリアクションを見せて、短い言葉で多くの思いを込めた後輩に憐憫の涙を流す。
 部室の鍵の管理は持ち回り制で、本日の当番は、この場に唯一居ない人物だった。
「タイミング悪いなー」
 木下は今日、用があるから急ぐ、と言って一足先に帰って行ってしまっていた。
 のんびり雑談しながら歩いていた一団はあまりの間の悪さに苦笑して、落ち込む日向を口々に宥めた。
「しょーがねーって。諦めろ」
「でも大丈夫なの。自転車でしょ、君」
「これも修行だと思えば、なんとか」
「ならねーって。山の方はもう雪、降ってんじゃねーの? いけるのかよ」
 月島も一応、形だけは心配する素振りを見せた。気丈に振る舞おうとする日向だったが負け惜しみ感は半端なく、西谷も不安そうに曇り空を眺めた。
 この辺りはまだだが、雪ヶ丘町はどうだろう。その地名が示す通り、山を越えたあの地域は降雪量が多かった。
 そんな冷え切った大地を、手袋なしで突き進むなど有り得ない。しかしこの場の誰ひとり、己が身に着けているものを貸し出そう、と言い出さなかった。
 寒さに耐えているのは、なにも日向だけではない。誰だって、自分の身が一番可愛かった。
 中途半端な同情ばかりが集まる状況に、日向は赤い鼻をスン、と鳴らした。
 本人も我儘を言って、応じてもらえるとは思っていない様子だった。
 甘えるわけにはいかないと、本当に我慢するつもりでいる。まだ雪ヶ丘町方面へのバスは残っているので、自転車を置いて帰るのもひとつの手だというのに。
 いつもの図々しさは何処へ行ってしまったのか。聞き分けが良いフリをして笑顔を振りまいているチームメイトに嘆息し、影山は冷たい風に首を振った。
「チッ」
 薄情になりきれない自分になにより苛ついて、目立つ音量で舌打ちする。真横から飛んできた音に日向は驚き、威勢よく振り返った。
 急に首をぐりん、と回されて、影山はぎょっとして青くなった。
 ビクついて肩を震わせたところをしっかり目撃されて、嫌な顔をされるかと危惧する。けれど少年は瞬きもせずにじっと人を見つめ、やがて控えめに笑った。
「……へへ」
 自嘲を含んだ微笑に、影山は沸き立つ何かに震えあがった。
 腹の底から熱が湧き起こり、あっという間に全身を覆い尽くした。叫び出したい衝動は奥歯を噛み締めて堪えて、自虐的な表情を浮かべるチームメイトを睨みつける。
「手袋忘れるとか、マジでねーだろ」
「悪かったなあ。しょーがねーだろ、急いでたんだから」
 悪態をつき、荒々しい声で怒鳴る。日向も負けじと応戦して、ハンドルを握ったまま身を乗り出した。
 口論が始まったわけだが、周囲は誰ひとり止めようとしなかった。いずれも生温い笑みを浮かべ、またか、と言わんばかりに肩を竦めていた。
 彼らの喧嘩は、いつものことだった。
 最低でも一日一回、多ければ五回を越えた。内容は競技に対する意見の相違から、どちらが先に部室に入るかといったくだらないものまで、多岐に渡った。
 そんなつまらない事で、良くそこまで熱くなれるものだ。
 それが部員らの、共通する見解だった。
 要するに、放っておいても大丈夫。一見するといがみ合っているように見えるが、実際はその逆。とても仲がいい証拠だと、みんなしっかり理解していた。
「だからって、気づくだろ。なんでこうなる前に取りに戻らなかったんだよ、お前は」
「ほっとけよ。お前だって、いっつも部室になんか忘れてってるくせに」
 影山がああ言えば、日向はこう返す。終わりの見えないやり取りに誰もが苦笑して、呆れ顔で首を竦めた。
 仲裁はやるだけ無駄だと見切りをつけて、分かれ道に至った部員らはそれぞれの帰路に就いた。まだ後ろで喧嘩が続いているというのに、あっさり手を振って早足に去っていく。
 冷たいのかそうでないのか、判断に悩む先輩らに手を振られ、先に我に返った影山はバツが悪い顔をした。
「なんとか言えよ!」
 忘れ物から始まった口論は、いつの間にかどれだけ厚着をしているか、の話に入れ替わっていた。
 どちらがより寒がりかを競い合っていたのを、一方的に中断させられた。頭に血が上っていた日向は声を張り上げ、立ち尽くす影山目掛けて拳を振り下ろした。
 もっとも目標には届かず、指先は空を叩いただけに終わった。
 後先考えずに腕を上下させたので、手首まで完全に外に出ていた。結果、冷たい空気を握り潰した彼は辛抱堪らず、ジャケットの袖に手を押し込んだ。
 狭い空間に無理矢理身体をねじ込む姿は、怪獣じみた滑稽さがあった。
「そんなんで帰れんのか」
「おれを舐めんな」
「このボケ日向が」
 しかしその格好では、自転車に乗れない。山道を押して帰れるとも思えなくて、影山は吐き捨てるように言って頭を掻いた。
 ごわごわした手袋を頬に押し当てて摩擦を起こし、少し温まったところで思い切って指先を抓む。
 左手で右中指を引っ張れば、巨大なグローブはあっさり役目を放棄した。
 分厚い皮よりも一回り小さい、それでも日向よりは断然大きい手が露わになった。爪の先まで赤みを帯びていた肌は突然の冷気に驚き、戦き、主人の暴挙に抗議してか一気に白くなった。
 血の気が引いていく様をありありと眺め、彼はもう片方の手袋も外した。
「ん」
 そうして鼻から息を吐き、脱いだばかりの防寒具を日向へと差し出した。
 ぬっと横から現れた影に、少年は大粒の目を真ん丸に見開いた。
「は?」
「使え」
 いきなり何のつもりかと、ぽかんとなる。その頬を手袋で叩き、影山は短く言った。
 ぶっきらぼうに吐き捨てられた台詞が上手く咀嚼出来なくて、日向は唖然としたまま数回、瞬きを繰り返した。
「え、……え?」
「テメーにはでけぇだろうけど」
「今それ言うかぁ!?」
 近くにある手袋と、遠くにある影山の顔を交互に見比べていたら、仏頂面で付け足された。そのあまりに失礼な物言いに腹を立てて、日向はハンドルを殴り付けた。
 風を切って走った指先を冷気が包み、一時の感情に任せた行動を非難した。叩いた途端にきゅっと手を握って袖に隠した彼を見て、影山は腕を伸ばしたまま深くため息を吐いた。
「貸してやっから」
 呆れ混じりに言って、早く受け取るよう促す。再度頬をぺちぺちされて、その意外に柔らかい感触や、くすぐったさに、日向は悔しそうに首を竦ませた。
 上目遣いに睨まれても、ちっとも恐くない。不貞腐れた表情を見せられて、影山はクスリと笑みを漏らした。
「明日返せ」
「……お前は、いいのかよ」
「大丈夫だろ。チャリじゃねえし」
 左手をハンドルから外した彼に言い、手渡す。受け取った日向は不満げだったが、彼は持論を披露して押し切った。
 影山はコートのポケットに両手を突っ込んだままでいられるが、日向はそうはいかない。こちらは問題ないと穏やかに告げられたら、断るわけにもいかなかった。
 日向は影山が嵌めていた手袋を握りしめ、物言いたげな顔で唇を引き結んだ。
「なくしたら許さねーからな」
 そこに更に畳み掛け、影山は口角を歪めた。
 日向は自転車を停めるべく、スタンドを足で引き寄せた。道端の邪魔にならない場所で立ち止まって、借りたばかりの手袋を右側から嵌めていく。
 手首まですっぽり覆うそれは、影山の言った通り、かなり大きかった。
 なにせ指先が一センチ近く余った。抓んでみれば先端がスカスカで、掌の厚みも足りていないのでどうにも心許ない。何も持たずにぶらぶら揺らしていたら、勝手に脱げて落ちてしまうのではないか。そう思えるくらいだった。
 影山も傍から見て危険を感じたらしく、不安そうに顔を曇らせた。
「マジで小せえのな」
「うっせえ。悪かったな」
 高校進学から間もなく丸一年。影山は少しだが背が伸びたが、日向は入学当初からほとんど変化がなかった。
 身長差は開く一方だった。もろもろのパーツも、心配になるくらいに小さい。筋力アップにも励んで皆と同じ練習メニューをこなしているのに、彼だけあまり実りがなかった。
 全体的に鍛えられてはいるものの、生まれつきの体質までは変えようがない。それに下手に大きくなろうものなら、持ち味である俊敏さが失われてしまう。
 小さいからこそ出来る闘い方があると、影山は彼に出会って知った。
「悪くねーよ」
 バレーボール選手は大きくなければならないとの固定観念を、日向は自力でぶち破った。常にまっすぐで、前向きで、不利とも思える状況にも決して怯まず、臆さない。
 妥協しないその姿勢は傲慢だが、魅力的だった。
 悪態をつく彼に軽い調子で言い放ち、ニッと笑う。意地悪い表情をそこに見て、日向は息を呑んだ後、何故か赤くなった。
「……あんがと」
「ちゃんと返せよ」
「わかってるよー」
 サイズが合わない手袋ごと手をもぞもぞさせ、若干鼻声で叫ぶ。しつこい、と言外に怒る彼に肩を揺らし、影山は剥き出しの両手を広げた。
 そして。
「ふびゃあっ」
 しっくり来ないのか、指を開いたり握ったりしている少年の頬を左右から挟み込んだ。
 あまりの冷たさに戦慄し、日向は猫のような悲鳴を上げた。全身を毛羽立てて居竦む姿は滑稽で、可愛かった。
「ちょ、なにすんらよ」
「冷えてんだ。温めさせろ」
 引き剥がそうとする日向に手首を掴まれたが、手袋が大きすぎて指先まで上手く力が伝わらない。たいした抵抗にもならなくて、影山は余裕綽々と言って鼻息を荒くした。
 慌てふためくチームメイトを力で押さえつけ、周囲の暗がりに身を任せて前に出る。視界が一気に暗くなり、恐怖を覚えた日向は咄嗟に目を瞑った。
 触れた唇は柔らかく、温かかった。
 重なり合ったのは一瞬で、皮膚が掠った程度だった。それでも十分伝わって、日向はあっという間の出来事に騒然となった。
 それまで寒さで縮こまっていた血管が一斉に花開き、安全運転中だった心臓がアクセル全開で暴走を開始した。バクン、バクンと激しい脈動に頭がくらりと来て、よろけた身体が自転車にぶつかった。
 まとめて転びそうになったのを堪え、右手で顔を覆い隠す。
 その際唇に触れたのは、影山愛用の手袋だった。
「んな、ぬあぁっ」
 二重の衝撃に打ち震え、この寒さの中、背中に汗が滲んだ。体温も一度くらい軽く上昇して、頭から湯気が出そうだった。
 即座に離れた影山も同じなのか、薄明かりに映える肌は見事な朱色だった。
「貸し賃、だかんな」
 余所を向きながら言われて、思わず頷く。唐突のキスの理由を言い訳がましく教えられて、日向は三秒かけて息を整えた。
 ざわついた心が落ち着いた後、こみあげてきたのは照れ臭さ、そして嬉しさだった。
「あんがと」
「……返せよ」
「分かってるって」
 笑いを堪えて礼を述べれば、仏頂面のまま言われた。そんなに何度も釘を刺さずとも大丈夫なのに、同じセリフばかり繰り返す彼の不器用さが、なんとも言えないくらいにくすぐったかった。
 白い歯を見せて目を細め、自信満々に胸を張る。得意げに言ってのけた日向に苦笑して、影山は力を抜いて肩を竦めた。
 

 その翌日。
 放課後、練習を終えての帰り道。
「ボゲェ。日向、ボゲェ!」
「だーかーらー、ごめんってばー」
 坂を下りながらぎゃんぎゃん叫ぶふたりを眺め、田中はどうしたのかと月島に問うた。眼鏡の青年は面倒臭そうにため息をつき、山口と顔を見合わせてゆるゆる首を振った。
 喧嘩は校門を出た辺り、日向が駐輪場から引きずって来た直後から始まっていた。
 さわらぬ神に祟りなし、とはよく言ったものだ。巻き込まれるのを嫌がって誰も近付こうとしない中、聞こえてきたやり取りを端的にまとめると。
 影山から借りた手袋は、忘れずちゃんと持ってきた日向だけれど。
 肝心の自分の手袋を。
 またも部室に、置き忘れてしまったらしく。
「あー……ありゃ、今年の冬は影山、ずっと手袋なしだな」
「僕もそう思います」
 簡単だが分かり易い説明に脱力し、西谷が呟いた。月島も深く同意して、終わりそうにない痴話喧嘩に嘆息を重ねた。

2014/2/10 脱稿
2014/2/23 一部修正