山吹

 藍色の空が頭上を覆っていた。
 寝坊した太陽がようやく地平線から顔を出し、呑気に欠伸をしていた。西の空はまだ夜の気配を色濃く残し、迫りくる朝を追い返そうと躍起になっていた。
 そうは言っても自然の摂理で、時間の経過は避けられない。劣勢に追い込まれた夜闇は、そう遠くないうちに消し去られるだろう。
 見えないところで繰り広げられている壮絶な戦いを余所に伸びをして、影山飛雄は頭上高く持ち上げた腕を揺らした。
 背骨がぼきっ、と嫌な音を立てた。肩を回せばそちらもゴリゴリ言う。昨晩、録画しておいた試合を観戦中に眠ってしまった影響が、今になっても続いていた。
「う~……やべぇ」
 幸いにも一時間ほどですぐ目覚め、点けっ放しだったテレビや照明も消してベッドに入ったのだが、疲労は抜けきらなかった。風邪をひかなかっただけ儲けものだと考えを改めて、彼は凝りを解そうと首をぐるぐる回した。
 十二月も後半に入り、二学期の終業式は目前に迫っていた。これが終われば冬休みに突入し、世間はやれクリスマスだの、年越しだの、正月だのと一気に騒がしくなる。
 だがバレーボール馬鹿を自認する影山には、浮かれ調子に遊び惚けている暇などなかった。
 それはなにも、彼に限った話ではなかった。
 緩く巻いたマフラー目掛けて息を吐き、彼は坂の向こうに見え始めた建物に肩を竦めた。
「はよーっす、影山」
「おはようございます」
 そこへ後方から声がかかって、影山はゆっくり振り返って頭を下げた。
 声だけで相手を判断し、予想通りの人物を見つけてお辞儀をする。挨拶を返された青年は白い歯を見せて笑い、持ち上げていた耳当てを頭に戻した。
 防寒対策がばっちりすぎて、横に丸くモコモコしている。ただでさえ低い身長を自ら強調している西谷に苦笑して、影山は視線を前に戻した。
「さみーなあ」
「まあ、冬ですから」
「つまんねーな、お前」
「……すみません」
 駆け足でその隣に並び、手袋のまま手を擦り合わせた天才リベロが頬を膨らませた。面白みに欠ける切り返しを責められて、影山は遠くを見たまま愛想悪く謝罪した。
 そうは言われても、ほかにどう言いようがあったのだろう。何と返せば満足して貰えたのかも分からず当惑していたら、歩幅がまるで違うふたりの真横を、シャッ、と冷たい風が駆け抜けていった。
 空気の塊に後頭部を叩かれた。煽られた後ろ髪が一斉に逆立ちして、前のめりになった影山は目を丸くした。
 西谷もすぐに気づき、倍の太さになっている腕を元気よく振り回した。
「お先でーっす」
「おーっす、翔陽」
 トーンの高い声で笑われて、影山は総毛立った。
 リンゴよりも赤い頬の少年が、自転車に跨っていた。サドルから腰を浮かせて立ち漕ぎで、傾斜の緩い坂を惰性で登って行こうとしていた。
 よく知る顔があっさり遠ざかっていった。目で追いかけて、影山はぶるっ、と全身を震わせた。
「先行きます」
「お? おう」
 油断していたのもあるが、こうも簡単に追い抜かれたのが癪だった。
 宣告し、返事を待たずに坂道を走り出す。西谷は後に続かず、朝から元気な後輩たちに苦笑した。
 見送られ、影山は猛然とダッシュを決めて道を駆けた。
 荷物で満タンの鞄を上下に弾ませて、前を行く自転車を目標に、驚異的な脚力を発揮する。バレーボール部でなく陸上部に、と誘いが来そうな瞬発力を披露して、彼は穏やかにペダルを漕いでいた少年に肉薄した。
「うおぉぉぉぉぉ!」
 あっという間に距離を詰めた彼の雄叫びに、日向はびくっと四肢を震わせた。
 思わずブレーキを握ってしまい、二輪車が減速した。慌てて手を離すがタイミングが狂わされ、空回ったペダルが足の裏で無意味に回転した。
「うわっ」
 危うく右足を地面に擦りつけるところだった。焦って冷や汗を流し、日向は怒涛の追い上げを見せた影山に頬をヒクリと痙攣させた。
「負けるかぁあぁぁぁ!」
「ぎゃあああ」
 暴れ馬、という単語が頭を過ぎった。もしくは暴走列車かと言わんばかりのチームメイトに、彼は悲鳴を上げて仰け反った。
 体勢を崩した一瞬の隙を衝き、影山は日向の右を駆け抜けた。
 追い越された。あっという間の出来事に騒然となり、日向は土煙を上げて猛進する背中に絶句した。
「ちょ、タンマ。おれ、自転車!」
 最近はやらなくなった、先に部室に着いた方が勝ち、という競争だ。言われなくても分かる合図に金切声をあげ、日向は自分の不利さを訴えた。
 自転車のまま校内を走れば、当然逆転は可能だ。しかしそれは禁止されている。二輪車通学の生徒は学校の手前にある駐輪場を利用し、学校の敷地内では乗り回さないように言われていた。
 もし規約を破れば、自転車通学の許可が取り消されてしまう。そうなると日向はバス通学を余儀なくされ、早朝の練習参加や、放課後遅くの自主練習にも制約が掛かってしまう。
 だから今回の勝負は、日向が非常に不利だった。
 自転車を所定の場所に停め、鍵を掛け、前籠に押し込んだ荷物を引っ張り出して駐輪場から出る。それらを済ませる間に、影山はずっと先を行ってゴールしてしまうに決まっていた。
 だのにコート上の王様は耳を貸さず、スピードを緩めようともしなかった。仕方なく駐輪場の前でサドルから降りて、日向は不満げに頬を膨らませた。
 睨まれるのを覚悟で挑んだ勝負ではあったが、優越感はそれなりにあった。圧勝だと胸を張り、影山は息せき切らして部室棟に来た日向に不遜な笑みを浮かべた。
 ジャージの上から黒いジャンパーを羽織り、暑かったのか、首に巻いていたマフラーは外していた。手袋も取って素手を晒し、王様は偉そうにふんぞり返っていた。
「俺の勝ちだ」
 これで何戦何勝になったかは、本人も覚えていない。だがまだ自分が若干優勢だと鼻息荒くした彼に、日向は額の汗を拭って口を尖らせた。
「今日はそれで許してやる」
「ンだと」
「次はぜってー負けねえからな!」
「やれるモンならやってみろ」
 ぼそっと負け惜しみを言えば、突っかかられた。売り言葉に買い言葉で語気が荒くなったふたりに、途中で西谷と合流した縁下が肩を竦めた。
「喧嘩はダメだからね」
「ホント、元気だな、お前ら」
 年の瀬が迫る中、寒さも日増しに厳しさを増していた。だというのに薄着で頑張る彼らを笑い、西谷は先に階段を登り始めた。
 あっさり上級生に追い越されたが、影山は別段文句は言わなかった。
 白い息を吐き、外階段を進む姿を目で追いかける。ぼんやりしている横顔を見上げ、日向は肩からずり落ち気味だった鞄をぎゅっと抱きしめた。
「あだっ」
「いくぞ、もー」
 直後、脛を蹴られた影山が膝をカクリと折った。
 響き渡った悲鳴を切り裂き、日向は大きな背中を押した。冬装備の所為で少々柔らかい腰を後ろから支え、先ほど入れた蹴りは棚に上げて先を急かす。
 眠そうな顔の月島たちもやって来て、のろのろ運転だったふたりはあっという間に彼らにも置いて行かれた。
 直前の競争はなんだったのかと田中に笑われて、見られていたと知った日向は顔を赤くした。
 朝から大騒ぎのふたりに苦笑して、山口も早く部室へ向かうよう促した。すれ違いざまに言われて首肯して、日向はバツが悪そうな顔の影山の背をもう一度押した。
「分かってるっての」
 それを鬱陶しそうに払い除け、影山は左腕を振り回した。
 顎に当たりそうになった肘を避け、日向はいつもより重い鞄を担ぎ直した。
「ししし」
「ンだよ」
「べつに~」
 いつもの調子に戻った彼に相好を崩し、指摘されて誤魔化す。白い歯を見せて笑って、日向は一足飛びに階段を駆け上がった。
 錆色が目立つ手すりを掴んで強引に体の向きを変え、あっという間に二階へ行ってしまった。その元気が有り余った姿を見送って、影山は汗で冷えた身体をぶるりと震わせた。
 昨晩は事なきを得たが、このままでは風邪をひいてしまう。体調管理は大事だと自分に言い聞かせ、彼は昨日までと何も違わない朝の騒々しさに溜息をついた。
 胸に抱いていた期待を萎ませて、音を響かせながらゆっくり階段を登る。外したマフラーを右手にぶら下げて扉を潜った彼を待っていたのは、賑やかな笑い声だった。
「おは……――」
「ぶわっは。なんだこれ」
「すっげー。日向、天才だな」
 挨拶しようとした影山に被る形で大爆笑が起こり、タイミングを逃してしまった。誰も振り向こうとしないのにも戸惑って、彼は戸口で棒立ちになった。
 外開きのドアが慣性の法則で戻ってきて、踵を叩いた。目に見えない手に背中を押され、影山ははっとして扉をしっかり閉めた。
 部室内に集った烏野高校男子排球部のメンバーは、着込んだ防寒着を脱ぎもせず、皆、一様に腹を抱えていた。
 輪の中心にいたのは、他ならぬ日向だった。
 小さな巨人に憧れてバレーボールを始めた少年は、四人いる一年生の中で一番背が低いにもかかわらず、最も誕生日が早かった。六月生まれだという彼の横顔は朱に染まり、褒められて嬉しそうに緩んでいた。
 いったい何があったのか、遅れて来た影山にはさっぱり分からない。困惑していたら、黄色いボールを手にした月島が不機嫌そうに眉を顰めた。
「なんで僕の、眼鏡しか描いてないの」
「でもそっくりだよ、ツッキー」
 ぼそりと呟いた彼の手元を覗き込み、山口が上下を見比べて感想を述べた。
 それが余計に気に障ったらしく、月島は憤然とした面持ちでボールを握りしめた。柔らかいのか指が表面に食い込んで、仄かに、汗臭い部室からは縁遠い香りが流れた。
 どこからともなく漂う爽やかな芳香に、影山は愁眉を開いて視線を彷徨わせた。
 相変わらず入口で突っ立っていた彼に、見かねた縁下が早く準備するよう急かした。
「影山、入りなよ」
「ウス」
 出入り口を塞ぎ続けるのも宜しくなくて、靴を脱いで上がるよう促す。それではっと我に返り、影山は低い声で返事した。
 部室内はまだ清涼感のある匂いと、楽しげな笑い声に満たされていた。
「すごいね、日向。全部自分で描いたの?」
「ふふーん。よく出来てっだろ」
 大きなフード付きのダッフルコートを揺らし、日向は得意げに胸を張っていた。その彼の鞄は足元に沈んで、被せ蓋は裏返っていた。
 何かを取り出した形跡があった。それが、現在彼が手にしている白い袋だろう。
 スーパーで使われているような、乳白色のビニール袋だ。中に何か入っているらしく、底の方は丸く膨らんでいた。
 甘酸っぱい香りも、日向を中心に広がっていた。
 洗濯物の柔軟剤の匂いかと思ったが、違う。鼻がスッとする香りに小首を傾げていたら、状況を察した西谷がほら、と手にしたものを差し出した。
 月島が先ほど握り潰そうとして、途中で諦めたのと同じ球体が、彼の掌に転がっていた。
 それは、小さな果実だった。
 凹凸のある皮は、黄色い。
 柚子だ。
 しかもその表面には、黒マジックで絵が描かれていた。
「……ブッ」
 見た瞬間、影山は不意を突かれて噴き出した。
 慌てて両手で口を塞ぎ、間違ってマフラーを噛んでしまってその触感に眉を顰める。急いで吐き出して口を拭った彼を笑い、西谷は顔が描かれた柚子を肩の高さで揺らした。
 左右に並んだ大小ふたつの球体は、瓜二つだった。
 歯を見せて笑う西谷の、かなりデフォルメされたイラストが、柚子の表面に丁寧に書き込まれていた。
 しっかり特徴を捉えていて、上手い。彼を知っている人が見れば、即座に誰を模したか分かるレベルだった。
 逆さを向いた前髪と、強気な表情が非常に印象的だった。田中の柚子はといえば、天辺に黒ゴマかと言いたくなる黒い点が沢山ちりばめられていた。
 坊主頭の境界が細線で描かれ、三白眼がその下に。口は西谷のものとは違い、三角形の底辺がない形だった。
「似て、……っ」
「笑ってんじゃねーよ、影山!」
「いや、これは笑うだろ。すげえ芸術センスだぞ、翔陽」
「あざっす!」
 顰め面の田中が、とても的確に表現されていた。堪らず身体をくの字に折った影山に、馬鹿にされた当人は怒り、西谷が真剣な顔で茶々を入れた。
 月島の柚子には、先ほど彼が言った通り、眼鏡しか描かれていなかった。
「ねえ、日向。俺は?」
「あるぞー。ちょい待った」
 押し黙って複雑な顔をしているミドルブロッカーを押し退け、山口が前に出た。目を輝かせる彼に調子よく応じて、日向は手にした袋をごそごそ掻き回した。
 ビニール袋の中を覗き込み、最初に比べて数が減った柚子を選んで引き抜く。はい、と手渡されたそれを見つめ、山口は不思議そうに首を傾げた。
 彼の分だけ、枝がついていた。
「ねえ、日向。これ、なに?」
「え? だってお前、いっつも髪の毛立ってるし」
「ブフーッ!」
 緑の葉っぱを小突いた彼の質問に、日向がきょとんとしながら答える。横で聞いていた田中と西谷が一斉に噴き出して、月島も背中を丸めて小さくなった。
 山口はといえば、柚子を手にわなわな震えていた。皆がツボに嵌った理由が分からなくて、日向は頻りに首を捻った。
 眼鏡を押し上げて涙を拭い、月島が深く息を吐いた。
「よかったじゃない。本体、ちゃんと付いてて」
 言いながら、山口の一本跳ねた毛を弾く。眼鏡オンリーで片付けられた復讐をこんなところで果たして、彼は憤懣やるかたなしのチームメイトを呵々と笑った。
 周囲は似ていると評したが、自分にはそうは見えない。睨めっこをしている山口をよそに深呼吸を繰り返して、西谷は譲られた柚子を両手に遊ばせた。
「けど、なんだって柚子?」
「今日が冬至だからですよ」
 本来、先に解決しておく疑問を今更ながらに口にした彼に、月島が嘆息混じりに回答した。
 十二月二十二日に柚子となれば、ほかに考えられない。常識だと指摘されて、言われて思い出した天才リベロは頬を丸くした。
「わ、わーってるっての。わざとだ、わざと」
「はいはい」
「けど、良いのか? もらっちまって」
 みんなの知識を試したのだと嘯く彼を宥める月島の向こうで、田中が柚子の頭を撫でた。親指でマジックの線をなぞりつつ、軽くなった袋をぶら下げた一年生に問う。
 視線を向けられ、日向は笑った。
「親戚がいっぱい送ってくれたんで」
 家に帰れば、まだ沢山残っている。おすそ分けだとはにかんだ少年に、チームメイトは緩慢に頷いた。
「なら、遠慮なく」
「今日は柚子湯だな」
 たった一個ではあるが、あるとないとでは気分が違う。湯船に浮かべて温まる光景を想像し、成田は嬉しそうに目尻を下げた。
 一見するととても朗らかで長閑な光景に唇を舐めて、影山は三々五々、練習の準備に入った部員らを見回した。
「日向。俺のは」
「え?」
 手の中にあるのは、細長いマフラーのみ。手袋は鞄に詰め込まれ、指先だけがファスナーから覗いていた。
 口の中に残る繊維を唾と一緒に飲み込んで、彼は赤ら顔のチームメイトに尋ねた。
 訊かれた少年はきょとんとしながら振り返り、二度、三度と瞬きを連発させた。
 排球部部員はほぼ全員、似顔絵入りの柚子を受け取っていた。けれど肝心の影山は、まだ貰っていなかった。
 それどころか、用意されているかどうかも分からない。もしや一人だけ蚊帳の外かと青くなっていたら、月島が眼鏡を不穏に輝かせた。
「あ~れ~? 王様ってば、もしかして臣下に見放されちゃった?」
 右手で口元を隠し、嫌味を舌に転がして肩を震わせる。
 茶化されて、沸点が低い影山は途端に眉を吊り上げた。
「なンか言ったか、クソ眼鏡」
「やだな、王様。本当のこと言われたからって、僕に怒らないでよ」
「うっせえ!」
 喧嘩腰の彼を宥めるどころか煽り、月島がプッ、と噴いた。
 人を馬鹿にして見下す態度が気に入らなくて腹を立て、影山が声を荒らげる。早朝から響いた怒号に嘆息し、縁下が日向を振り返った。
 どうにかするよう目で訴えられた矢先、影山も怖い顔で彼を睨んだ。
「つぅか、日向」
「ごめん、忘れて来た」
「……――っ!」
「てのは冗談で」
 それが一瞬で真っ赤になり、真っ青になって、脱力して土気色になった。見事に掌で踊らされた影山はその場にへなへな崩れ落ち、部員の笑いを誘った。
 握り拳は行き場を失い、色抜けた畳の上で砕けた。唖然として惚けている彼に苦笑して、日向はほんのり赤い顔で照れ臭そうに笑った。
「ほら。お前の分」
 言って、手にしたビニール袋ごと押し付ける。落ちてきたそれを膝の上で受け止めて、影山は嗚呼、と気の抜けた顔で頷いた。
 怒っていいのか、喜んでいいのか、どうにも判断がつかなかった。
「よかったね、王様」
「みんな、そろそろ行くよ。時間ないんだから」
「はーい」
 呆然と座り込んでいたら、準備を終えた月島に慰められた。縁下が扉を開けて皆を急かして、山口が元気よく返事した。
 畳んだコートの上に枝付きの柚子を転がして、足音響かせて駆け出す。田中達もそれぞれ支度を済ませ、第二体育館へ向かうべく動き始めた。
 影山はしばらくの間、魂が抜けたかのような状態だった。
 はっと我に返った時にはもう、部室には日向しか残っていなかった。
「先行くなー」
 その彼もシューズを手に、身軽な格好になって言った。畳の縁を跨いで靴脱ぎ場へ向かい、スニーカーに爪先を突っ込んでしゃがみ込む。
 後ろ姿を横目で窺って、影山は手元に沈んだ袋に視線を移した。
 軽い袋をがさがさ言わせれば、予想通り、黄色も鮮やかな柚子が転がり出て来た。
「似てねえ」
「ウソだー。自信作なのに」
 その顰め面を睨みつけ、ぼそっと小声で呟く。耳聡く音を拾った日向は瞬時に立ち上がり、声を張り上げた。
 影山の手の中では、大きめの柚子が持ち主と同じ顔をしていた。
 口をヘの字に曲げて、眉間に皺を寄せていた。目つきは非常に悪く、子供が見れば泣くレベルだった。
 西谷や田中がここにいたら、笑い過ぎて悶絶していたことだろう。それくらいの力作を似ていないと断じられて、日向は不満を露わに口を尖らせた。
 そんな顔をされても、影山としては認めるわけにはいかなかった。
 ここまで無愛想なつもりはないし、凶悪な人相をしているとは思わない。日向にはこんな風に見えているのだとは、信じたくなかった。
 眼鏡の柚子を前に難しい顔をしていた月島や、葉っぱがついていた山口の気持ちが今ならよく分かる。笑ってすまなかったとひっそり反省して、影山は分身たる柚子を握りしめた。
 鼻先を、脱力を促す香りが掠めた。
「ほかの奴らと同じ、か」
 カリカリするなと宥められた気がして、彼は力を抜いた。誰にも聞こえない音量で独白して、肩を落としてかぶりを振る。
 元気がない姿を見下ろし、日向は口をもごもごさせた。
 言うべきか、言わざるべきか。どうしようもない愚鈍さを披露した彼を前にそわそわしていたら、影山が柚子をくるりと回転させ、入っていた袋に落とした。
 大きく開いた口の真ん中に置き、手を入れる穴部分を掴んで真上に引っ張り上げる。ガサッ、とひと際大きな音がして、大きな柚子が底に沈んでいった。
 そして何かにぶつかった。
「ン?」
 奇妙な手ごたえを感じ、影山が首を傾げた。目を眇め、一個しか入っていないはずの袋を確かめようと中を覗き込む。
 日向はそろり右足を浮かせ、後ろ歩きで扉に迫った。
 手探りでドアノブを探し当て、掴んで捻る。
 袋の中に手を入れた影山が、膝立ちから一気に起き上がった。
「日向、お前」
「早く来いよー!」
 言うが早いか、彼はドアを開けた。転げるように外に出て、雄叫びを残して走り去る。
 冷たい空気を頬に浴びて、影山は白い息を吐いた。
 袋の中にあった柚子は、ひとつではなかった。
 日向が閉め損ねた扉が当て所なく揺れていた。それからゆっくり目を逸らし、影山は取り出したもう片方の柚子に見入った。
 笑っていた。
 西谷にも負けない笑顔で、日向の分身が彼に笑いかけていた。
 やや小さめの、綺麗な形をした柚子だった。空に輝く太陽のような、眩しい笑顔の果実だった。
「クソそっくりじゃねーか」
 見ているだけで、これを描いた本人の顔が浮かんできた。つられて口元を緩めて、影山は皆よりちょっとだけ特別な自分にはにかんだ。
 

2013/12/13 脱稿