涼しい風が吹いていた。
西の空を見れば、鮮やかな朱色が一面を覆っていた。棚引く雲までもが夕焼けに染められて、下が明るく、上が暗いという不思議な彩がどこまでも続いていた。
そろそろ地元では、帰宅を促す音楽が流れている頃だろうか。足元に転がっていたボールを拾い上げ、日向は見事に色付いた地平線をぼんやり眺めた。
烏野高校の周辺は、日向の家がある雪ヶ丘町よりも開発が進み、大半が住宅地だった。
その為か、あの郷愁を誘うメロディーは聞こえてこない。山ひとつ越えただけで随分違うものだと感嘆の息を漏らして、彼は空気圧が下がり気味の球体を両手で挟みこんだ。
「うっし」
「なにやってんだ、日向」
気合いを入れ直した矢先、後方から声がかかった。
外に飛び出していったボールを追いかけ、日向は第二体育館から駆け出した。その戻りが遅いのを気にしてだろう、戸口に立っていたのはチームメイトの影山だった。
体育館の入り口は、五段に満たない階段の先にあった。だから身長差云々を省いても高いところから見下ろされることになって、日向は不満を覚えて頬を膨らませた。
「今いくしー」
「早くしろ」
丁度戻ろうとしていたところだったのに、出鼻を挫かれてしまった。
折角蓄えたやる気が、見る間に減退していった。口を尖らせ文句を言えば、影山は偉そうにふんぞり返り、顎をしゃくって館内を示した。
開けっ放しの扉からは、ひっきりなしにボールが弾む音、そして気迫の込もった掛け声が響いていた。
ドスの利いた雄叫びは、東峰のものだろう。ほかより少し高いのは、西谷か菅原のものか。
ともかく色々な声が混じりあい、烏野高校第二体育館は熱気に包まれていた。
日向も少し前までその中に加わっていたのだが、ボールを取りに外に出た所為か、昂ぶっていた熱の大半が風に攫われ、失われていた。
耳を澄ませばグラウンドで練習中らしきサッカー部、もしくは野球部の声も聞こえて来た。吹奏楽部の合奏が夕暮れの空に広がって、合唱部らしき歌声がそこに重なった。
雑多な賑わいは不協和音だらけだというのに、聞いていると不思議と心地よかった。
「日向?」
「分かってるよ」
気持ちを鎮めてクールダウンしていたら、待ちきれなかった影山が再度呼びかけて来た。
先に練習に戻ればいいのに、付き合いが良い男だ。見張っていないとサボるとでも思っているのか、天才セッターの眼光は鋭かった。
不機嫌そうな眼差しに肩を竦めて、日向は今度こそ体育館に戻ろうと右足を前に繰り出した。
使い込まれたボールを大事に抱きかかえ、ザッ、と砂を踏む。そこへ遠くから、不快極まりないメロディーが流れて来た。
「っ!」
反射的に息を呑んで、日向は素早く振り返った。
腰を捻った彼の動きに、見守っていた影山も怪訝に眉を顰めた。
「ん?」
急にどうしたのかと小首を傾げた彼の耳にも、人を不安にさせる音色が届けられた。
ともすれば体育館からの掛け声に掻き消されてしまいそうなそれは、学校の敷地外を走る車の発したサイレンだった。
救急車だ。
どこかで急病人か、怪我人が出たのだろう。音は次第に遠ざかり、三十秒としないうちに聞こえなくなった。
目的地は、学校の近辺ではなかったらしい。大きな病院から隣町へ行くのに通っただけ、と考えるのが妥当だ。
後に続く音がないのを確かめて、影山は動かなくなったチームメイトに渋面を作った。
「おい、日向」
「あ、うん」
ボールを抱えたまま身動ぎもしない彼に、何故か苛々した。ほかに気を取られている暇はないと言外に告げるが、日向は心此処に在らずの表情で緩慢に頷き、再度虚空に見入った。
いったい何がそんなに気になるのか。今の救急車のサイレンが、自分の身内に関わるものだとでも言うつもりなのか。
虫の報せなど、非科学的過ぎる。そういったものは信じない影山の不機嫌を察知してか、日向は気の抜けた笑みを浮かべ、ゆるゆる首を振った。
「ごめん」
謝られ、影山は益々顰め面になった。
般若か仁王を思わせる表情に苦笑して、日向は短い距離を駆け戻った。階段は二段飛ばしで進んで、間もなく心配性なチームメイトの隣に立つ。
「はい」
「おう」
その彼にボールを手渡され、影山は反射的に受け取った。
さほど重くもないものなのに、妙にずっしり来た。腕に増えた負担に眉目を顰めていたら、もう一度後方を顧みた日向が物憂げな顔で唇を浅く噛んだ。
「どうかしたのか」
少し前までの、元気が有り余っていた彼とは雰囲気が違い過ぎた。だからつい気になって、影山は問いかけずにいられなかった。
靴を履き替えていた日向は顔を上げ、一瞬きょとんとしてからしどけなく笑った。
「なんでもない」
「なくねーだろ」
「そう?」
「ああ」
サイレンが聞こえた瞬間、日向の身体が固くなった気がした。硬直して身構えるだけの原因があったとしか思えないが、それがなんであるか、影山には分からなかった。
はぐらかそうとした彼を問い詰めて、眼力を強める。凄まれた方は慌てて目を逸らし、照れくさそうに頬を掻いた。
「いや、なんてか。たいしたことじゃねーんだけど」
「そうは見えなかったぞ」
「違うって。なんつーか、その……あんまり好きじゃねえから。思い出しちゃって」
「救急車が?」
「そそ」
音の行く末を追いかけねばならないほどのトラウマが、彼にはあるのか。柳眉を寄せて難しい顔をした影山を仰ぎ、日向は困った風に肩を竦めた。
向こうの方で、コーチの烏養が険しい顔をしていた。このままではサボっていると叱られかねず、気付いた日向は肘で影山の脇腹を小突いた。
予測不可の攻撃を受けて、彼も嗚呼、と緩慢に頷いた。
日向から渡されたボールをボール入れに投げ込み、影山はレシーブ練習の列に加わった。前方では月島が、不愉快だと言わんばかりの顔でスパイクを受けていた。
長い腕に弾かれたボールが、明後日の方向に飛んでいく。痛そうな音が響いて、烏養の怒号が体育館内にこだました。
手厳しい叱責に日向も首を竦め、横から注がれる眼差しにも小さく舌を出した。
「いやさ、昔……ガキん頃。友達ん家に遊びに行って、今くらいの時間に家に帰ったんだけど」
言わなければ許してもらえそうにない。影山のしつこさは身を以て知っているので、避けて通るのは難しかった。
諦めの悪い男に苦笑いを浮かべ、遠い記憶を掘り返しながら呟く。視線は宙を彷徨い、天井に向かった。
あれは日向が、まだ小学生だった頃。
散々遊び回った後、役場が流す音楽に促されて渋々帰宅した時だ。見慣れた自宅の前に、見慣れない車が一台停まっていた。
白い車体の屋根には、赤いランプ。停車中なのでサイレンは止まっていたが、その代わり家の前が不自然なくらいに騒がしかった。
何が起きているのか、幼かった日向にはよく分からなかった。惚けて遠くから見守っていたら、家から出てきた母が気づき、大声で息子を呼んだ。
まだ小さかった妹を押し付けられた。母が救急車に乗り込み、程なくして車は走り出した――喧しくサイレンを掻き鳴らしながら。
一瞬だけ見えた車内には、祖父の姿があった。
どういうことなのか、問う時間はなかった。日向はぎゃんぎゃん泣き喚く妹を抱きかかえて、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「だからさ、あれ聞くと、ちょっとな」
「お前……」
「あ、ちなみに爺ちゃん、ただのぎっくり腰だったから。今は元気にしてるぞ」
話の展開からしんみりした空気になってしまって、日向はわざと明るく言った。顔の前で手を振って、影山が脳裏に浮かべた展開はなかったと断言する。
今となっては笑い話だった。
未だに年に数回、あの日の出来事が家族の話題に上る。その度に祖父は大袈裟だったと赤くなり、救急車を呼んだ母は祖父が大騒ぎしたから、と言い訳に終始した。
毎日のように見かける救急車だが、まさか自分の家族があれに乗る事になるなど、誰も考えてはいないだろう。けれど万が一の時に助けてくれる存在は、とても有難く、なくてはならないものだった。
日頃から意識することはなくても、たまには感謝が必要だ。サイレンが鳴るのは誰かが助けを求めている証拠であり、そこに駆けつけようとする人がいる証だった。
日向の祖父が大事なく、今も元気に過ごせているのだって、そうだ。
母が消防に連絡を入れていなかったら、もしかしたら悪い結果になっていたかもしれない。
ボールが壁に当たり、跳ね返った。襲い掛かってきたそれをさっと避けて、影山は上手くまとめきれなかったと笑うチームメイトを見つめた。
「お前ら、声出せよ、声」
「待ってる間もちゃんと見とけよー」
「はいっ」
ふたりでひそひそ話をしているのを見咎めて、西谷や澤村が大声で叫んだ。慌てて居住まいを正したふたりは威勢よく返事をして、練習に集中しようと意識を切り替えた。
けれど影山の中には、もやもやしたものが残された。茶色い旋毛を見下ろして、彼は整理がつかない感情を持て余し、無意識に腕を持ち上げた。
「うぎゃ」
そして目の前の頭を鷲掴みにして、柔らかな髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。
いきなり攻撃されて、何事かと日向は悲鳴を上げた。背中を丸めて小さくなって、大きな手から逃げて慌てて前を仰ぎ見る。
聳え立つ巨大な壁に、分かっていてもぎょっとせずにはいられなかった。
ふたりの間に走った不穏な空気に、周囲も眉を顰めた。仲良く喋っていたかと思えば一触即発な状況になって、展開の速さに誰もついていけなかった。
唖然としていたら、一瞬間を置いた影山がぽすん、と跳ね放題の頭を軽く叩いた。
その上で。
「お前、救急車みたいだな」
「はい?」
不意に言われて、日向は面食らった。
意味が分からなくて目を丸くして、撫でられた頭を両手で庇う。鷲掴みにされた時のダメージは完全に消えておらず、圧迫された頭蓋骨はじんじん疼くような痛みを発していた。
それを宥め、日向は無言で前に出た男を目で追いかけた。
順番が回ってきていた。何もなかったかのように平然と烏養のボールを受ける背中を眺め、彼はいったい何だったのかと首を傾げた。
救急車のようだと評された。けれどそれがどういった意味でなのかが、さっぱり見当つかなかった。
色合いから連想するには、かなり無理がある。白と赤の取り合わせなど、日向からは一番遠い色彩だ。日焼けした肌は浅黒いし、髪だって明るい茶髪だった。
では、あの喧しいサイレンか。普段から口数が多く、お喋り好きな日向をあの高音に照らし合わせたのだとしたら、確かに通じるものはあった。
けれど、どうにもしっくりこない。そういう意味ではないと直感で否定して、彼は渋い顔で眉間に皺を寄せた。
「日向、ぼさっとすんな!」
「ぴゃっ」
考え込んでいたら、影山の番が終わっていた。
鋭く飛んだコーチの叱責にびくっとなって、彼は現状を思い出した。思い悩んでいる暇などないと慌て、苦手なレシーブに意識を切り替える。
しかし頭の片隅にはずっと残っていて、気が付けば影山の方ばかり見ていた。
彼も日向が気にしていると、勘付いているに違いなかった。だのにあそこで話は終わったとでも言わんばかりの態度を貫き、自分から説明を加えようとはしなかった。
それがどうにも腹立たしくて、日向は練習が終わるまで、ずっと不機嫌だった。
チクチクした雰囲気は部員たちにも伝わって、腫物を触るような扱いしかしてこない。君子危うきに近寄らず、を地で行く彼らにも頬を膨らませ、日向は自転車を取りに駐輪場へ走った。
徒歩通学やバス利用者はすでに先を行き、姿は遠くなっていた。けれど自分の所為で練習中の雰囲気が悪くなった手前、今から追いかけて輪に加わる気にはなれなかった。
「ちぇ」
悪態をつき、こうなった元凶である男を探す。上背のある背中はすぐに見つかった。
影山は菅原と並んで歩き、なにやら熱心に話し込んでいた。
「……むぅ」
割って入れる隙がまるでなくて、面白くない。ハリセンボンを真似て丸くなり、日向は自転車のハンドルを握りしめた。
気にしなければ、それで済む話だった。ああ、そうなのかと聞き流してしまえたら、それで終わる話題だった。
だのに妙に引っかかって、しこりになっていた。あんな風に表現されたことがないから、余計かもしれなかった。
「なんなんだか」
明日には忘れていそうな出来事に固執して、自分でも馬鹿だと思う。ままならない心を持て余して不貞腐れていたら、前方を歩いていた三年生が不意に振り返った。
大きく手を振られ、日向は首を傾げた。
「日向も食うかー?」
彼らの前方には、見慣れた看板があった。ぎりぎり営業中だった坂ノ下商店を示しながら訊かれ、彼は嗚呼、と緩慢に頷いた。
肉まんの季節はとっくに終わっていた。今はアイスが持て囃される時期だった。
菅原の問いかけに分かるように頷き、自転車を押す速度を少しだけ上げる。緩やかなカーブを下っていけば、みんなと合流するのにさほど時間はかからなかった。
ブレーキを握って減速した日向が滑り込んできて、傍らの空気を削られた影山が顰め面を作った。
巻き起こった風に黒髪が煽られ、一部が目に入った。それを鬱陶しそうに払い除け、彼は薄闇が広がる中、不躾なチームメイトを睥睨した。
睨まれても意に介さず、それどころか逆に挑み返す勢いで日向も彼を見つめた。
鋭い眼差しが交錯したのは一瞬だった。
「日向は、なにがいい?」
「え? あ、い、いつもので」
不意を突き、菅原の声が割り込んできた。はっとした日向は挙動不審に目を泳がせ、しどろもどろに返事した。
「オッケー。ソーダで良いな?」
回答に鷹揚に頷き、三年生が扉を潜って店内に入って行く。そのタイミングは絶妙で、恐らくは狙ってやったものと思われた。
いがみ合いに水を差され、気力が一気に減退した。気持ちが萎えたと肩を落とし、日向は同様に渋い表情の男を仰いだ。
「なあ」
「ンあ?」
「救急車って、なに」
代金は後で請求されるのだろう。財布を出す用意をしようと自転車のスタンドを立て、その最中で日向は傍らに問うた。
手を絶えず動かしながら訊かれて、影山は眉間の皺を深めた。
「救急車つったら、あれだろ。ピーポーピーポーっつぅ」
「それくらい知ってるって」
幼稚園児の質問ではないのだから、あの車の役割や特徴くらい、分かっている。聞きたいのはその件ではないと頬を膨らませて言い返せば、意味が分からなかったらしい、影山は変な顔をした。
怪訝に首を傾げられて、日向はぶすっと口を尖らせた。
「……ああ」
それでやっと思い出したのか、コート上の王様は短く相槌を打ち、目を泳がせて遠くを見た。
西の空はもう暗く、昼の名残は肌にこびりつく蒸し暑さだけだった。
ジャージのポケットに両手を突っ込んで、影山は微かに光る星を数えた。
「影山?」
「なんだっていいだろ」
「よくないから聞いてる」
返事がないのを訝しんで、日向は彼の脛を蹴った。それを嫌がり後ろに逃げて、影山は諦めの悪いチームメイトに苦虫を噛み潰したような顔をした。
苦々しい表情だが、頬は仄かに朱を含んでいた。
「なー、教えろよ」
そこまで拘る必要がない事くらい、日向が一番よく分かっている。けれどどうしても聞いておきたくて、譲る気にはなれなかった。
スッポン並の根性を見せられて、影山は小さく舌打ちし、迫る体躯を手で牽制した。
「大した意味なんてねーよ」
「んじゃ言うなよ」
「思ったんだからしょうがねーだろ」
救急車は、急病人や怪我人などの、助けが必要な人の元へ駆けつける為の車だ。
サイレンを掻き鳴らす様は、大声で叫ぶ日向のようだ。暗がりで孤独に耐え、出口が見つからずにもがいていた影山に光を照らしたのも、彼だ。
今影山がこうして部に馴染み、毎日なんとか楽しくやっていられるのも、日向が扉を蹴破って押しかけて来た結果だ。狭い部屋から引っ張り出して、バレーボールの面白さを思い出させてくれたのは、他ならぬ日向だ。
だから、似ていると感じた。
そんな風に思ってしまった。
「テメーが俺をどん底から引っ張り上げたんだから、なんも間違ってねーだろうが!」
物分りが悪すぎるチームメイトに焦れて、逆ギレを起こして怒鳴りつける。唾を飛ばして叫んだ彼に、真正面で風を受けた日向は驚いて目を丸くした。
煽られて上を向いた前髪が、ゆっくり沈んでいった。ぜいぜいと肩で息をしている影山の顔は、ほとんど真っ赤と言っても過言ではなかった。
「え、あ……そ、そう?」
「うっせえ。もう黙れ」
影山自身、恥ずかしいことを言った自覚があるのだろう。口元を拭りながら叱られて、日向は緩慢に頷いた。
俯いて、顔を背ける。後から気恥ずかしさが募って、日向まで段々赤くなっていたら。
「仲直りした?」
「うひゃ」
「ゲッ」
またも絶妙のタイミングで菅原が割って入り、黙り込む双方に冷たいアイスを押し当てた。
首筋を狙われた日向は甲高い悲鳴を上げ、頬を冷やされた影山は慌てた様子で飛び跳ねた。
ここが坂ノ下商店の前だということを、すっかり忘れていた。
あの雄叫びも、間違いなく聞かれている。ふたりは困った顔で奥歯を噛み、にこにこ笑顔の菅原に小さく頷いた。
2013/11/27 脱稿