無防備に開け放たれた窓辺で、白いカーテンが楽しげに踊っていた。
「……」
裾がふわりと膨らんだかと思えば、直ぐに縮んで、また膨らんで。実に軽やかなステップを刻む布を押し退けて室内を覗き込み、雲雀は顰め面を深めて口を尖らせた。
険のある目つきでベランダから部屋を二度も見渡して、最後に身を乗り出して窓のすぐ下も覗き込む。だが勿論、そんなところに人が隠れているわけがなかった。
「いない」
不機嫌に呟いて、カーテンから手を離す。途端に風を受けた布が、それまでの無体を咎めるかのように彼の顔に襲いかかった。
慌てて退いて避けて、今一度押し退けて上半身を窓の内側に潜り込ませる。靴を脱ぎもせずに窓枠を越えてフローリングに爪先を下ろせば、否応無しに静まりかえった空間を体験させられた。
床に散らばった漫画雑誌や、衣服や、飲み終えたジュースのペットボトルなどが、この部屋の主が如何様な性格の持ち主なのかを的確に表現していた。危うく踏むところだった本を拾ってみれば、それはあろう事か、数学の教科書だった。
「まったく」
どうして整理整頓が出来ないのだろう。こんな調子だから、いつも朝起きた後にばたばたして、遅刻ギリギリの時間に校門を駆け抜ける羽目に陥るのだ。
騒々しい早朝の光景を想像してふっと笑みを浮かべ、雲雀は厚みのあるテキストを机に置いてやった。そちらもノートやらなにやらで、天板が見えない有様だった。
両手を腰に当てて嘆息し、今になってふと思い出して、彼は靴を脱いだ。傷も汚れもないぴかぴかのローファーを揃えて持ち、ちょっと迷ってからベランダに置かれた室外機の上に並べる。
短い庇の下は目映い陽光に溢れ、暖かかった。遠くに目をやれば路上を走る電線の上で、雀が二羽、仲良く羽根を休めていた。
思わずほのぼのしてしまう光景に僅かに頬を緩め、雲雀は静かにカーテンを閉めた。
「さて」
どうしたものかとしばし迷い、今一度しっかりと部屋の中を見回す。壁際に置かれたパイプベッドには、蹴り飛ばされたと分かる上掛け布団が端の方に追いやられていた。
斜めを向いている枕と、その隣に転がった目覚まし時計がなんとも哀れだ。寝相の悪さを物語る品々に苦笑してから、雲雀は閉ざされている扉に目を向けた。
人の気配は薄い。どうやらこの部屋は、長く無人だったようだ。
雲雀の来訪に勘付いて、寸前で逃げ出したわけではないらしい。
その点に幾らかホッとしている自分に気付き、彼は些か自嘲気味に肩を揺らした。
「窓が開いているという事は、誰か居るんだろうけれど」
たとえ二階であっても、窓に鍵を掛けぬまま外出するとは防犯面で考え難い。とすれば、一階に誰か居残っていると思って良いだろう。
そう判断し、雲雀はゴミが散見する床を見た。右の踵で軽く蹴って音を立てるが、階下まで響くわけでもなく、反応は無かった。
面白く無いと眉間に皺を寄せて、彼は肩からずり下がりそうになっていた制服を撫でた。
緋色の腕章がどこか心細げに、当て所なく揺れた。
風紀の二文字が刻まれたそれにちらりと目を遣って、もう一度床を叩く。それでもめぼしい反応が得られないのに焦れて、彼は数歩進み、ドアノブに手を伸ばそうとした。
が、金属製の取っ手に爪先が触れた瞬間、静電気にも似た痺れを覚え、雲雀は俯いて凍り付いた。
もしかしたらこの部屋の主は 沢田綱吉は、不在なのかもしれない。下にいるのは綱吉ではなく彼の母親か、同居人の誰かの可能性の方がずっと高かった。
居るかどうかの確認もせずに押しかけて来たのは雲雀の方だから、綱吉の留守を責める道理はない。今日は諦めて、別の日に出直すべきだと、頭の中に住むもうひとりの自分が声高に主張した。
それに、どうせ明日は月曜日だ。学校があるのだから、校門で待っていれば顔を合わせるくらい簡単だ。
「…………」
だというのに、どうにも立ち去り難い。拳を強く握り締め、雲雀は数秒の逡巡を経て、思い切ってドアを開けた。
廊下に出るが、家人と鉢合わせという事にはならなかった。
どうやら緊張していたらしいと、安堵を覚えている自分の胸に手を押し当て、彼は苦笑いを浮かべた。出て直ぐのところで立ち止まり、耳を澄ましてみるが、そう大きな物音や、子供の騒ぐ声は聞こえて来なかった。
それこそ、本当に誰も居ないのではないかと危惧するくらいの静けさだった。
思わず後ろを振り返ってしまった雲雀は、乾いた唇をひと舐めして階段に歩み寄った。手摺りから覗き込んで一階を窺うが、見返して来る目もなく、己以外の足音すら響いて来なかった。
「まさかね」
あんな通りに面した窓を開けたまま、家を留守にするなど、あってはならない事だ。現に雲雀が、こうして二階の窓から侵入している。
次会った時には、もっと防犯意識を高めるよう説教してやろう。心に誓い、彼は諦めて踵を返そうとした。
瞬間、ドンガラガッシャーン、と壮絶な物音が雲雀の後頭部を打った。
「っ!」
驚き、慌て、急いで階段から身を乗り出す。恐らくは何かが高い位置から落ちたのだろう、それも複数個。
耳を劈いた騒音に急激に心拍数が上がった。ドクドク言っているそれを押さえて宥め、雲雀は先ほどよりもずっと注意深く、他になにか聞こえないかと息を殺した。
人の喋り声、というよりは独り言に近い声が鼓膜を優しく撫でた。
ドキッとして、雲雀は数歩後ろによろめいた。肩から壁にぶつかって止まり、左右を確認してから十三段ある階段を一気に駆け下りる。
なるべく足音を立てぬよう注意を払ったつもりだったが、果たして巧く出来ただろうか。一抹の不安を覚えながら、彼は声の発生源を探し、台所に顔を出した。
大きめのテーブルを中心に、食器棚やコンロ、流し台が配置された空間に、薄茶色の毛玉が転がっていた。
否、間違ってもそれは毛玉などではない。正しくは床に蹲り、下を向いている少年の後ろ姿だった。
カチャカチャと硬いものが擦れ合う音が、断続的に耳朶を打つ。何をしているのか気になって、雲雀は敷居の手前で伸び上がった。
「ったく、もう……いってぇ」
「ねえ」
「なんだって、こんなところ、に……って、ええええ?」
自分が不法侵入者というのも忘れて呼び掛けた雲雀に、綱吉は最初、反応しなかった。ぶつぶつ独り言を口にして、はたと我に返って目を瞬く。
そうして膝をついて振り返った先に学生服を羽織った青年の姿を見て、素っ頓狂な声を上げた。
ほぼ悲鳴に等しい、迷惑なくらいの大声に眉を顰め、雲雀はムッと口をヘの字に曲げた。
「なにしてるの」
「って、え。え? ひ、ヒバリさん?」
質問を投げかけるが、明確な返答は得られない。普段より一オクターブは高い声を響かせて、綱吉は胸に抱えていたものを床に放り投げた。
ガシャンと大きな音を立て、蓋付きの鍋がコマのように回って、倒れた。
先ほどの騒音は、これが落ちた音らしい。上を見れば、確かに天井近くに設置された収納棚の扉が開いていた。
尻餅をついた綱吉は、目を白黒させて雲雀を見詰めていた。未だに彼が此処にいる事が信じられない様子で、あ、だとかう、だとか、意味が分からない言葉を呟き、唐突に顔を赤く染めた。
恥じ入っている琥珀色の瞳に幾らか気をよくして、雲雀は入り口傍の壁に寄り掛かり、不敵に笑った。
「なにしてるの?」
先ほどと同じ質問を、語尾を上げ気味に繰り返してやる。それでハッと我に返った綱吉は、落ちていた鍋の蓋を指で弾き、ふて腐れた顔をしてそっぽを向いた。
もっとも、台所にひとりでいたのだから、やっていた事は限られる。愛らしいオレンジ色のエプロンを身につけているところからして、雲雀の想像に間違いはなかろう。
とはいえ、彼が料理を趣味にしているという話は、今まで一度も聞いた事がない。
冷ややかにも見える微笑みに、綱吉は奥歯を噛み締めて目を吊り上げた。だが、ただでさえ童顔であり、母の奈々に瓜二つの女顔の彼だ。睨まれてもちっとも怖く無く、逆に可愛らしさが増すばかり。
目を細めた雲雀に悔しげにして、綱吉は鍋の蓋を掴んで雲雀目掛けて放り投げた。
しかし間にあったテーブルの脚が邪魔をして、攻撃は届かなかった。カシャン、と硬い音がひとつ響くだけに終わって、雲雀はやれやれと肩を竦めた。
そのテーブルには銀色のボウルや、小麦粉の袋、そしてパックに入った卵等が並べられていた。他にも計量スプーンに、計量カップと、調理に必要な道具は大体取り揃えられていた。
「小動物」
「なんでヒバリさんが、居るんですか」
「窓、開いてたよ」
「……普通、開いてたからって入りますか?」
一歩前に出てテーブルの角に手を置いた雲雀に、綱吉は苦々しげに言った。頬を栗鼠のように膨らませている少年に相好を崩し、雲雀はそれを返事の代わりにした。
うっとりとするような蠱惑的な微笑みに僅かに頬を朱に染めて、綱吉はようやく起き上がって拾った鍋を流し台に置いた。
捲れ上がっていたエプロンの裾を戻し、倒れたままの椅子も起こして棚の下へ持って行く。察するに、目当ての品は鍋ではなかったようだ。
「何が足りないの?」
「はかりが……って。別になんだって良いじゃないですか」
予想通りまた椅子に登ろうとしている背中に声を掛けると、うっかり返事をしかけた綱吉が声を荒げて怒鳴った。耳まで赤くして、立ち去ろうとしない雲雀に苦虫を噛み潰したような顔をする。
嫌な時に訪ねて来たと、そう思っているのが丸分かりだ。
かといって、雲雀だってなにもせずに帰るのは惜しい。折角来たのだから、なにかひとつくらい、面白い光景を目にして行きたいではないか。
意地悪く目を眇めた彼に臍を噛み、綱吉は咳払いひとつで気持ちを切り替えた。手を伸ばし、爪先立ちにならなければ届かない場所を覗き込む。
在処は最初に覗いた時に把握してあったのだが、手前にある鍋が引っかかって落ちてしまったのだ。つられてバランスを崩して、綱吉までもが床に転がった。
その時に打った後頭部がまだ少し痛い。雲雀が現れなければ、もう暫くは床に蹲ったままだったに違いない。
苦い唾を飲んで緩く首を振り、慎重にはかりへと手を伸ばす。ピンク色をしたキッチンスケールはアナログタイプで、手前に引っ張り出した途端、押し込められていた上部の皿がぽーん、と飛び跳ねた。
「うわっ」
目の前で起きた出来事に驚かされて、綱吉はみっともなく悲鳴をあげた。背伸びをしたままたたらを踏んで、取り出したばかりのものを頭上に戴く。
ぐらぐら言う椅子に驚き、雲雀はハッと目を見開いて床を蹴った。
「小動物!」
羽織っている学生服が後ろに吹っ飛んでいくのも構わず、テーブルを迂回して綱吉の元へと駆け寄る。刹那、ぐらりと一際大きく揺らいだ椅子の上で、堪えきれなかった華奢な体躯が飛び跳ねた。
斜めに傾いだ椅子から、綱吉の身体が滑り落ちる。それでもしっかりとはかりを握り、落とすまいと歯を食い縛って。
反対方向に倒れ行く椅子を発作的に蹴り飛ばして、雲雀は綱吉の落下地点に回り込んだ。両手を広げ、身体全部で落ちてくる少年を受け止めんとする。
「ぐ!」
「ひゃっ」
ところが、真っ先に落ちてきた彼の肘が、よりによって雲雀の額を直撃した。頭蓋骨を越えて脳が激しく揺れて、目の前に無数の星が飛び散った。
まさか其処に彼が居るなど、一秒前まで思ってもいなかった綱吉は目を剥き、逃げる事も出来ぬまま雲雀の胸に崩れ落ちた。
この上はかりで雲雀を殴らぬようにと、腕を限界まで伸ばす。ゴトン、と角が床に当たる音と、思い掛けず頬に触れた熱さに一気に心拍数があがって、綱吉は顔から火が噴きそうな勢いで飛び上がった。
はかりを手放し、急いで上から退けば、苦痛に顔を歪めた雲雀が額だけをいやに赤くして呻いていた。
「いっ、つぁ……」
「ひ、ヒバリさん。大丈夫ですか、ヒバリさん」
あろう事か助けようとしてくれた人に肘鉄を食らわせたのだから、綱吉の狼狽も激しい。裏返った声で何度も名前を呼んで、最後には五月蠅いと逆に怒られてしまった。
叱られてしょんぼり項垂れる少年に溜息を零し、雲雀は苦労の末に身を起こして床に座った。
「怪我は?」
口調がぶっきらぼうになってしまうのは、どうやっても直らない。素っ気ない問い掛けに、綱吉は恐る恐る顔を上げた。
この場合、怪我をするとしたら雲雀の方だ。彼はまだ赤みを残す額を黒い前髪越しに見詰め、申し訳なさそうに床に正座した。
居住まいを正した彼に肩を竦め、雲雀は平気だと主張して首を振った。後頭部を撫でた手で神妙な顔をしている少年を小突き、視線が浮いたところを狙ってデコピンを喰らわせる。
「あでっ」
「仕返し」
「ヒバリさん!」
首を後ろに倒して仰け反った綱吉に不遜に言い放ち、彼は立ち上がった。実のところ床でぶつけた背中や腰がまだ痛いのだが、顔に出せば綱吉が気にすると分かっているので、自制を利かせて耐えた。
表面上は平然としている雲雀にようやく安堵の息を吐き、綱吉は照れ臭そうに微笑んだ。
春の柔らかな日射しを思わせる朗らかな笑顔に、雲雀も心がすーっと軽くなる思いだった。
「なに、作るの?」
彼の代わりにはかりを取ってテーブルに置いて、訊ねる。最初のつっけんどんさが嘘のように消えた綱吉は、恥ずかしそうに鼻を掻き、小さく舌を出した。
「えっと。蒸しパンを、ちょっと」
「へえ?」
若干言い辛そうにしながらも教えてくれた彼に目を眇め、雲雀は改めてテーブル上の材料を眺めた。
それにしたって、どうして急におやつ作りを始めたりしたのだろう。壁の時計を見れば、一時半を少し過ぎた辺りだった。
奈々や、あの騒がしい子供達の姿はない。リボーンも不在にしているようで、雲雀は少しだけがっかりして肩を落とした。
表情の変化を見抜いてか、綱吉が一寸だけ寂しそうに笑った。
「みんな、買い物に出かけてます」
「そう?」
「はい」
努めて明るく振る舞って頷き、椅子を起こした綱吉は、手を洗って大振りのボウルを引き寄せた。下敷きになっていた用紙を取って、書かれている内容を確認すべく目を走らせる。
横から覗き込めば、それはレシピだった。手書きらしく、少女特有の丸い文字と、可愛らしいイラストが仲良く手を取り合っていた。
綱吉と親しくしている少女たちを思い浮かべ、雲雀は心持ちムッとした。
隣で気配を尖らせた青年に、綱吉が肩を揺らした。
「今日って、母の日でしょう?」
「……そうなの?」
「そうなんです」
「ふぅん」
さしたる興味も示さず、雲雀は相槌を打つ程度に留めた。
そういえば此処に来る前に商店街に寄ったが、花屋の店頭には沢山の赤い花が並べられ、道行く人の手にも同じ花が多く握られていた。
五月の第二日曜日がその日なのだと教えられて、緩慢に頷く。未だ綱吉のお菓子作りと、母の日とが結びついていない雲雀に相好を崩し、綱吉はレシピに従って真っ白い卵に手を伸ばした。
縁で叩いてヒビを入れ、殻が入らないよう注意しながらボウルに中身を落とす。まん丸い黄身が、白身の海を滑るように泳いだ。
砂糖を加えて、泡立て器で混ぜ合わせる。手つきはどこか覚束無く、手際が良いとは必ずしも言えなかった。
だが綱吉の顔は楽しげであり、途中からは鼻歌まで聞こえ始めた。
雲雀は暇を持て余し、学生服を拾って羽織ると其処にあった椅子を引いて座った。頬杖をつき、薄力粉の袋に手を伸ばして膨らみを小突く。
「邪魔するんだったら、それ、計ってくださいよ」
「どうして僕が」
「手伝わない人には、分けてあげませんよー、だ」
小麦粉の計量を頼んで断られて、綱吉はあっかんべーと舌を出した。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、目盛りの入ったカップに注いでボウルへと流し込む。
逐一レシピを確認する少年にむすっとした雲雀だったが、一分としないうちに表情は解れ、欠伸を零した。
背凭れに身を投げ出して腕を伸ばし、眠そうに目尻を擦る。綱吉はリラックスしている彼に一瞥を加え、怪訝に眉を顰めた。
いったい何をしに来たのだろう、彼は。余計な口を挟まず、手を出そうともしないのは楽で良いが、どうにも落ち着かない。
「ヒバリさん」
「ん?」
「寝るなら部屋に行ってくださいよ」
今なら綱吉のベッドは無人だから、昼寝するくらいは構わない。言外にそう告げたつもりだったのだが、雲雀は動かなかった。
もうひとつ欠伸をして、テーブルに寄り掛かった彼は、カップケーキ用の型を珍しそうに眺め、綱吉に奪い取られて眉間に皺を寄せた。
「……もう」
どうあっても此処から離れる気はないらしい。頑固な彼に肩を竦め、綱吉は取り戻した型に次々と、出来上がったばかりの蒸しパンのタネを流し込んでいった。
電子レンジの角皿に丸や四角、星形の容器を等間隔で並べる彼の顔は、とても楽しそうだった。
眠気を遠くへ追い払い、雲雀が身を乗り出す。
「母の日は、蒸しパンでお祝いするの?」
「違いますよ。まあ、なんていうか。……俺がカーネーションも買えないくらいに貧乏、ってだけの話です」
「ふぅん?」
矢張り良く分からない顔をして、雲雀は頬杖をついた。綱吉が電子レンジを前にして、どう設定すれば良いのか思案している姿を見るともなしに眺める。
どちらにせよ、綱吉は奈々の為に慣れないお菓子作りに精を出していたのだ。蒸しパンを選んだのは、家にある材料で出来る、作り方も簡単なもの、という理由だろう。
綱吉によく似た 正しくは綱吉が似ているわけだが 奈々の微笑みを思い浮かべて、雲雀はそれでも面白く無いと、胸に渦巻くもやもやとしたものを奥歯で噛み潰した。
親というものは大事だ。産み、育ててくれた人に対して深い愛情を抱き、大切に思うのは、誰だって同じだ。
だというのに、頭では分かっていても、心が追いつかない。
やり場のない怒りや憤りといった嫌な感情を懸命に押し殺していたら、コトン、と音がした。
見れば綱吉が、レンジの設定を終えたようで、雲雀の真向かいに座ろうとしていた。
「……いいの?」
「出来上がるまでは、する事ないんで」
のんびりしていて良いのか問えば、彼は照れ臭そうに笑って言った。その間に片付けをするなり、なんなりすれば良いのに、大人しく席に腰を落ち着けてしまった。
急に居心地の悪さを覚え、雲雀はむくれてそっぽを向いた。
「どうせ、僕の分はないのに」
「え?」
「なんでもないよ」
ふて腐れたまま言って、随分女々しい発言だったと後から気付いて声を荒げる。いきなり怒鳴られた綱吉は目をぱちくりさせて、数秒置いて唐突に噴き出した。
両手を口元に押し当てて、俯いて肩を小刻みに震わせる。必死に声を押し殺してはいるものの、垂れ下がった目尻や眉や、緩んだ頬を見れば、今の彼がどんな表情をしているのかは一目瞭然だった。
拗ねていると知られて、雲雀は怒りよりも恥ずかしさが勝り、堪えきれずに椅子を蹴って立ち上がった。
「小動物!」
「あ、はは。あはは、ははっ」
苦しそうに息を吐き、綱吉がテーブルをバンバン叩いて顔を上げた。留めきれなかった声を高く響かせて、涙で濡れてもないのに目尻を擦り、憤っている雲雀を見上げて肩の力を抜く。
愛らしく、そしてとても穏やかな笑みを投げかけられて、雲雀は行き場を失った利き手を胸に押し当て、右を向いた。
視線が重ならないのを少し寂しく思いながら、綱吉は黄色い、どろりとした液が僅かに残るボウルを撫でた。
「……帰る」
何を思っているのか、妙に艶めいた表情を見下ろして、雲雀が素っ気なく言った。
吐き捨ててくるりと踵を返し、台所を出て行こうとする。慌てたのは、綱吉だった。
「ヒバリさん!」
膝の裏で椅子を蹴り、急ぎ立ち上った彼を振り返り、雲雀は敷居の前で足踏みをした。
去り難いが、居続けるのも辛い。熱せられたオーブンの中でじっくり蒸し上げられようとしている菓子に罪は無いが、今の雲雀にはそれが、この先の命運を左右する附子にも感じられた。
甘い水飴、甘い菓子。大きく違うようで、まるで同じ。
絹を切り裂くような綱吉の悲鳴に指先までもが凍り付いてしまった雲雀の背中を見詰め、彼は肩で息を整え、ふにゃりと笑った。
「帰らないでくださいよ」
気の抜けた笑みと共に告げられて、雲雀は全身に電流を走らせた。ビリリと来て、爪先が一斉に反り返る。剥がれそうになった爪を、拳を作る事で守って、信じがたい眼を後方に向ける。
綱吉は屈託無く笑って、絶賛稼働中の電子レンジを指差した。
「味見、してくれなきゃ」
「……でも」
綱吉は先ほど、手伝わない人には分けてやらないと、そう言ったではないか。
躊躇と共に呟かれたひと言に、彼は琥珀色の瞳を細めた。両手を後ろに回し、粉を浴びて白く霞んだオレンジ色のエプロンを揺らして、悪戯っぽく舌を出す。
「完成したのはあげません。でも、ちゃんと美味しく出来たかどうかは、調べなきゃ」
中までしっかり火が通っているか。小麦粉は卵や牛乳に馴染み、ダマにならずに溶け合っているか。
その辺りについては、実際に食べてみないと分からない。年に一度の母の日に、黒こげの不味い失敗作を贈るわけにもいかないからと、綱吉は偉そうに胸を張って言い切った。
ふんぞり返られて、雲雀は返す言葉を失って立ち尽くした。
果たして、どう切り返してやるべきなのだろう。五秒ほど逡巡し、結局一度は開いた口を何も告げぬまま閉ざして、彼は黒髪を掻き上げて首を振ると、先ほどまで座っていた椅子に戻ってどっかり腰を下ろした。
両腕を組んで居丈高に座った彼にぽかんとして、次の瞬間、綱吉は嬉しそうに破顔した。
日溜まりに咲く一輪の花のような笑顔にぐっと息を呑み、雲雀は誤魔化すようにそっぽを向いた。
「不味かったら、許さないから」
「それは、……保証しかねます」
「不味かったら咬み殺す」
「いやだから、俺だって初めて作るわけで」
「言い訳は聞かない」
「聞いてくださいよ!」
最初に味見だと言っているのに、完成品の味わいを求められても困る。
思い切り叫んでテーブルを叩いた綱吉だが、雲雀は耳を貸そうとしなかった。頬杖をつき、意地悪く微笑んで、レンジを指差す。
同じものに目を遣って、綱吉は悔しそうに唇を噛んだ。
レンジの中の蒸しパンは、今にも破裂しそうなくらいにまん丸に膨らんでいた。
2011/05/01 脱稿