メールの着信に気付いたのは、練習を終えて家に帰り着いた後だった。
ずっしり重いリュックサックをベッドへ下ろし、何気なくジャージのポケットに手を入れる。薄っぺらな四角形はすぐに見つかって、まるで猫のように擦り寄ってきた。
曲げた指の端に寄り添うスマートフォンを握り、孤爪研磨はそれを引き抜いた。肩からずり下がっている上着も脱いで、明滅するオレンジのランプに眉を顰める。
「誰だろ……」
ぽつりと呟き、彼は小首を傾げた。
この色が光るということは、メールが届いているということだ。購入直後に自分で設定したので、よく覚えている。けれど送信者に心当たりがなくて、研磨は目を眇めて眉を顰めた。
もしや、という思いが脳裏を過ぎるが、次の試合までまだ間があった。応援メッセージは昨日貰ったばかりで、急ぎの用件などなにも考え付かなかった。
だから多分、これは違う。ものの一秒にも満たない時間で結論まで導き出して、彼は汗臭いシャツを脱ぎつつ、もう片手で端末をなぞった。
行儀が悪いと言われるが、今は口煩い幼馴染も傍に居ない。ふたつのことを同時に行いつつ、研磨は首から抜いたシャツを床に落とした。
ロックが解除された液晶画面には、案の定、未読メールの通知が出ていた。
「あれ」
平らな面を親指でなぞり、本文を呼び出そうと操作を続ける。その最中で予想と異なる展開を見て、彼は怪訝に首を傾げた。
メールの送信者は、先ほど違うと決め付けたばかりの人物だった。
「翔陽」
画面に現れた二文字を読み上げ、研磨は着替えを中断させた。
ズボンを脱ぐのは諦め、肌寒さを耐えるべく脱いだばかりの上着を拾う。半袖シャツの上から被せるよう羽織って、急ぎメールを開く。
ベッドに腰を下ろすと、反動で尻が軽く浮いた。
微細な浮遊感を黙って受け止めて、意識は携帯画面の中へ。急ぎ人差し指を走らせれば、瞬時に文章が現れた。
他から届くメールと混ざらぬよう、新たに作成したフォルダ。まだ中身が少ないそこに新たに追加されたのは、たった一言、短く記された手紙だった。
思わず身を乗り出して、研磨は目を瞬いた。
「数学……?」
挨拶もない素っ気無い文章に、なにも言葉が出てこなかった。
書かれていたのは、『研磨って数学、得意?』という、たったそれだけだった。
なにゆえに、数学なのか。意味がさっぱり分からなくて、研磨はスマートフォンを手に後ろへ倒れ込んだ。
整えられた布団が落ちてきた身体を優しく受け止め、支えてくれた。舞い上がった埃を吸わぬよう一瞬息を止め、彼は何度読んでも変わらない一文に眉を顰めた。
眇められた瞳が、やがて壁に吊るしたカレンダーへと向かう。イラストや写真もないシンプルな暦には、六月の文字が躍っていた。
雨が多くなり、気温も高くなっていく季節だ。また蒸し器のような体育館で過ごす時期が来るのかと考えると、憂鬱でならない。
去年を思い出すだけで汗が滲み出て、研磨は忘れようと首を振った。
「よっ」
左手を衝いて身を起こし、落ちてしまったジャージを、今度は膝に被せる。垂らした足を床の上で揺らし、もう一度カレンダーを見詰める。
「ああ」
それでようやく理解して、研磨は緩慢に頷いた。
来月になるとすぐ、期末試験が始まる。それに備えて猛勉強をしているのだと、そういえば数個前のメールに書かれていた。
「分かんない問題でもあったのかな」
ぼそっと独り言を呟き、改めて液晶画面に視線を落とす。ぼんやり眺めていたら、無愛想な画面の向こう側に、頭を抱える華奢な姿が現れた。
飴色の髪を両手で押し潰して、小さな身体を益々小さくさせている。顰め面が可愛くて、研磨はつい、頬を緩めた。
なんと返事をしよう。五秒ほど悩んで、彼は人差し指で顎を叩いた。
ここは正直に、本当のことを告げた方がよかろう。決断すれば行動は早く、返信ボタンを押し、研磨は今し方頭に浮かべた文章を素早く打ち込んでいった。
出来上がった文面を三度ばかり読み返して、送信を押す。自宅は無線LANの環境が整っているので、通信は一瞬で完了した。
愛想のない、面白みに欠けた返事になってしまった。全てが終わってから軽い後悔に襲われるが、今からデータを取り返しに行くのは不可能だ。
元から言葉足らずを自覚しており、他人とコミュニケーションを取るのも苦手だ。そのくせ人が自分をどう見ているかが気になって、そういう、他者の考えを読む術ばかりが長けてしまった。
とはいえ、それも顔を合わせた上での話だ。直接言葉を交わすのではない、文章だけの繋がりは、不意打ちのように本音が顔を覗かせることもあって、余計に不得手だった。
機嫌を損ねぬよう、愛想を尽かされぬように気を配っていたら、文章はどうしても簡単で、簡潔になりがちだった。
今のところ、あちらはあまり気にしていない様子だ。研磨がこんなにビクビクしながらキーボードを操作しているなど、思ってもいないに違いない。
節電モードが働いて、画面が暗くなった。役目を終えたスマートフォンを手放して、研磨は深く長い息を吐いた。
部活後に辛うじて残っていた精神力が、根こそぎ奪われた気がした。早く充電するに越したことはなくて、途中だった着替えを終わらせると、研磨は慌しく部屋を出た。
冷めてしまった夕食を温め直して食べ、こちらも冷えた風呂を沸かし直して肩まで湯に浸かる。湯船で丁寧に指先をマッサージして、逆上せる前に立ち上がる。
その頃には、メールの件もすっかり頭から消えていた。寝巻きに着替えて頭からタオルを被り、部屋に戻ってから思い出した。
ベッドに放置したままだった携帯電話が、またオレンジ色の光を灯していた。
「あ」
反射的に時計を見上げて、研磨は針の位置を確かめた。
帰宅してから、そろそろ一時間が経過しようとしていた。長湯だったとふやけた手を握り締めて、彼は雫を散らしながら寝台に駆け寄った。
クッションを膝で押し潰し、手を伸ばして掴み取る。画面を立ち上げる指先は、緊張で震えていた。
いったいいつから、ランプは明滅していたのだろう。入浴前にチェックすればよかったと後悔して、彼はメール画面を立ち上げた。
案の定、返事が届いていた。しかも写真が添付されている。なんだろう、と怪訝にしながらファイルを開くが、画質が悪くてはっきりと見えなかった。
一緒に送られてきたメールには、『これ、分かる?』と書かれていた。
「翔陽……」
どうやらそれは、数学のテキストの写真らしかった。
「おれ、あんまり得意じゃない、って返したのに」
ぼそっと苦情じみた台詞を呟けば、声には思った以上の不満が表れた。
もしや打ち間違えたかと疑うが、送信済みのメッセージを確かめても、内容は独白した通りだった。
数学は、苦手とまではいかないが、格別好きでもなかった。
赤点になることはないけれど、平均点以上を取ることも稀な教科だ。試験勉強の時間が足りないと、ガクンと点数が下がってしまうこともある。
だというのに、頼られた。どうやら彼は、研磨の返答がどうであろうとも、質問を投げかけてくるつもりでいたらしい。
ならば最初から、問題と一緒に訊いてくればいいのに。段階を経ないと進めない相手に溜息をついて、研磨は添付ファイルだけを読み込むべく画面を弄った。
指二本を使って、小さな写真を拡大させる。だがあちらのカメラが悪いのか、文字は不鮮明で、殆ど読めなかった。
そもそも写真に撮って送ろうという考え自体、間違っている。どうやっても無理だと早々に諦めて、研磨は髪から垂れる雫をタオルに押し付けた。
「どうしよう」
そのまま両手で頭を抱え込み、彼はベッドに寝転がった。
放り出した携帯電話は、暫くするとまた真っ暗になった。
きっとこうしている間も、翔陽はメールの返信を待っているに違いない。返事は早い方が良いに決まっていて、三秒ほど目を瞑り、研磨は勢い付けて起き上がった。
画面を呼び戻し、逆にこちらから質問を投げかける。
「写真、見えない。パソコン、持ってる?」
打ち込んだ文章を声に出して、彼は部屋の片隅に鎮座する大きなモニターを仰ぎ見た。
今は電源が落ちて真っ暗なその上部には、目玉のような球体が設置されていた。側面には、細身のヘッドセットも引っ掛けられている。これらと専用のソフトを用いれば、遠く離れた場所にいる相手とも、テレビ電話が可能だった。
音声だけでなく、映像も一緒に送れるから便利だ。但し研磨は、折角設備が整っているのに、これを碌に使ったことがなかった。
そもそも、喋る相手が居ない。人と目を合わせて会話するのが嫌いなのだから、カメラ越しでも当然同じだった。
遠方に住んでいる祖父母と連絡を取り合うため、親に頼まれて用意したけれど、それ以外で出番はなかった。
今回、初めて自分の意志で使うことになるかもしれない。淡い期待に胸が膨らんだが、素早い返信を見た瞬間、風船のように萎んでしまった。
『なんで?』と訊いてきた少年が、携帯電話を手に首を傾げている様子が想像出来た。
短文のやり取りに、段々じれったくなってきた。もういっそ、通話代が嵩んでも構わないから、電話をしてやりたい気になってきた。
その方が早いし、待つ間もやもやしなくて済む。けれどいざ実行に移そうとした途端、電池の残量に目が行った。
「っく……」
一日中使っていたので、バッテリーが底を尽きかけていた。タイミングの悪さに臍を噛み、研磨はベッドを降りて机に向かった。
充電器からケーブルを外し、直接スマートフォンへ差し込む。間もなく赤色のランプが点灯して、画面右上の乾電池マークも色を変えた。
この状態でも通話は出来るが、増減の比率を考えると、少し時間を置いてからの方が安心だ。となれば、今しばらくはメールの往復を続けるしかない。肩を竦めて嘆息し、研磨は湿って重い髪を掻き回した。
「ええと。パソコンで、電話も……出来る」
右人差し指は画面を操作して、たどたどしい説明文を作り上げていく。これで伝わるかと眉を顰め、どきどきしながら送信ボタンを押した彼は、続けて写真付のメールを再度呼び出した。
こちらは自前のパソコン用メールに転送して、そのパソコンの電源を入れる。起動画面が終了するのと、返事が来たのはほぼ同時だった。
「……ダメ、か」
文面を読んで、研磨は寂しげに呟いた。
ある程度覚悟はしておいたので、ショックは少ない。しかしこれで選択肢が減ったと、落胆は否めなかった。
「というか、翔陽。そのパソコン、もうじき公式サポート終わっちゃうよ」
相手が此処に居ないのを承知で言い、研磨は画面の文字を撫でた。
文章は、先ほどまでに比べると格段に長くなっていた。どうやら彼の家にはパソコンが一台しかなく、家族で共有しているらしかった。
しかも購入したのはかなり前で、OSも古い。当然研磨が期待したマイクやカメラも、備え付けられていなかった。
「ういんどーず、って……」
親に教えてもらった内容を、そっくりそのまま文章にしたのだろう。一瞬考えさせられる単語も混じっており、それだけで彼の知識の低さが伝わってきた。
パソコンを介してやり取りする案は、諦めた方がよさそうだ。巨大モニターで開いた写真も、スマートフォンで見た時と大差ないピントのボケ具合だった。
完全にお手上げだ。折角頼ってくれた手前、なんとか力になりたかったけれど、この様子だと難しそうだ。
もっと鮮明な画像を送ってもらうか、或いはメールに打ち替えて貰うしかない。だが数学には記号が多く、ひとつでも入力を誤れば悲惨だ。
手詰まりだと肩を落とし、研磨は正直に伝えるべくメール画面を立ち上げた。
そして、中途半端な体勢で凍りついた。
「あ、……そうだ」
不意に思いついたアイデアに、電流が走った。呆気に取られて目を丸くして、彼は大仰に四肢を戦慄かせた。
ぶるっと身震いして、急ぎ文章を書き換える。入力済みだった分を一気に削除して、とある問いかけをしようとして、それも途中で全消しにする。
焦って上手く字が打てない。カタカタ震える端末を握り締めて、研磨は三度目の正直でメールを送信した。
所持を確認する手間が惜しかった。通信が完了したのを確認して、彼は立ち上げたばかりのパソコンを切った。充電コードを引き抜いて、タオルを投げ捨てて部屋を飛び出す。
家族は既に寝入った後か、寝室のドアは閉まっていた。
廊下の電気も消えて、足元に影すら落ちない。だが慣れた自宅だ、多少暗くても歩き回る分に問題はなかった。
高鳴る鼓動を数え、研磨はひとり、夕食を済ませたダイニングに向かった。
壁を探って照明を灯す。入浴中に母が片づけを済ませたらしく、キッチンは綺麗だった。
低い振動は、食器洗浄器からだ。時折大きく唸るそれから顔を背け、研磨は湿った髪もそのままに、先に進んだ。
素足で踏むフローリングはひやりとして、初夏だというのに冷たかった。風呂で温めたばかりの身体を苛め、彼はリビングの片隅に置かれた平たい機械の前に立った。
左側半分が液晶画面で、右側にプッシュボタンその他が配置されている。横長の本体には受話器が附属しており、螺旋状のコードが両者を繋いでいた。
純白の本体の後部には、まるでプリンターのようなトレーがあった。
「大丈夫、っぽい」
そこには数枚、無地の用紙がセットされていた。それに触って全体の厚みを確認して、研磨はホッとした顔で頷いた。
一枚や二枚しかなかったら不安だが、これなら簡単になくなりそうにない。安堵に胸を撫で下ろしているうちに、着信があったのか、突然暗かった画面が明るくなった。
「あっ」
思わず身構えて、研磨はどうすれば良いか分からず目を点にした。
自分で言い出したはいいものの、ファックスなど滅多に使わない。新しく買い換えたのは数年前だが、両親でさえ、これを多用しているとは言い難かった。
どうすれば印刷されて出て来るのか悩んでいるうちに、赤色のボタンが光り始めた。
そのボタンの傍には、ファックス、の文字があった。他にもあれこれ書かれているが、詳しいことは何も分からない。取扱説明書も近くにはなくて、迷った末、研磨は思い切ってそのボタンを押した。
祈るような気持ちで奥歯を噛み、ちゃんと動いてくれるのを期待する。願いが届いたのか、機械は間もなく動き出した。
スマートフォンや携帯型ゲーム機には詳しいのに、こういう家電製品には本当に疎い。ちゃんと目当てのものが印刷されて出て来るかも、実は半信半疑だった。
白い機体に吸いこまれた紙が、腰ほどの高さがある電話台から滑り落ちた。木の葉のように揺れながら沈んでいくそれに慌てて手を伸ばし、研磨は意外にくっきり、はっきり写っている文字に目を瞬いた。
それと同時に手にしたスマートフォンが鳴り出して、メールの着信とは異なる反応にビクッとなった。
「ヒッ」
引き攣った顔で悲鳴を上げて、研磨は小型端末を宙に投げた。
汗で滑った電話をお手玉して、三度目の正直でようやく捕まえる。その間も喧しく鳴るメロディーに肝を冷やし、彼は急いで通話のアイコンをスライドさせた。
「もしもし」
電話の相手を確かめもせず、左の耳に押し当てる。息は乱れ、咥内は唾液でいっぱいだった。
音立てて飲み込んだ彼を待って、受話器からくぐもった吐息が響いた。
『もしもし、研磨? 届いた?』
不安そうな声が、頭蓋を駆け抜けていった。
脳天を貫くその音色は、薄れ掛けていた記憶をあっさり引き戻した。朝方、親しげに話しかけてきた彼の屈託ない笑顔が、まるで昨日のことのように思い出された。
息が詰まって返事が出来ず、研磨は暫くリビングに立ち尽くした。
早く答えなければと思うのに、舌が痺れて動かない。無理に喋ろうとしたら噎せて、口の中を噛んでしまった。
ガリっと来た痛みで我に返って、研磨は咄嗟に後ろを振り返った。
開けっ放しの扉の奥は静かで、動くものの気配はなかった。それにまずホッとして、彼はスマートフォンを握り締めた。
『研磨? 研磨、聞こえてる? あれ、けんまー?』
「聞こえてるよ、翔陽。ファックス、あったんだ」
『あ、けんまー。よかった。うん、ファックスあった。これで分かる?』
「ちょっと待って」
心配そうに呼びかける彼に応じて、視線を持ち上げる。少し熱を持っている紙をその先に掲げて、彼は頬を緩めた。
ハンディスキャナを使ったのだろう、一部の文字が縦長に伸びていた。しかし等倍で印刷されているお陰で、メールの添付画像よりははるかに読み易かった。
教科書を広げ、そこにスキャナを押し当てている光景が浮かんだ。
こんなことに必死の形相で取り組む暇があるのなら、自力で問題を解く努力をすればいいのに。そんな嫌味が思い浮かんだが、声に出す前に噛み砕いて押し流した。
学校に行けば勉強が得意な同級生も、先輩もいるのに。明日まで待てないからかもしれないが、真っ先に自分を頼ってくれたのが嬉しかった。
彼の中で自分の順位が上の方にあるのが分かって、見られていないのを良いことに、研磨ははにかんだ。
「これ、解けば良いの?」
『うん、そう。どーしても、分かんなくて。月島に一回聞いたんだけど、なに言ってんのかさっぱりだった。研磨、わかる?』
「一応、おれ、翔陽より年上だから」
『えっ。あ、そうだった!』
無人のテーブルに寄りかかり、昔見た覚えがある問題に頷く。これならなんとかなりそうだと嘯いて、彼は受話器から響いた声に苦笑した。
初めて会った時も、こんな感じだった。
彼は研磨を、あまり年上として認識していなかった。もっとも研磨本人も、年齢が上だから、下だから、という理由だけで態度を変えられるのが嫌いだった。
だから翔陽と話していると、ほっとした。年齢が違っても、学校が別でも。たとえ遠く離れていても、友人関係は築けると証明できたようで、嬉しかった。
「ちょっと待ってね。解いたら、ファックスで送り返す」
『分かった。待ってる!』
「勉強しなよ?」
『うぐ。……勉強、しながら待ってる』
「そうして。出来たらメールするから」
呵々と笑い、時計を見ながら告げる。日付が変わるまで、あと一時間半を切っていた。
幸い、問題を見る限り、それほど難しくはなさそうだ。だが、単純に答えだけを出せば良いわけではない。彼が途中経過を理解出来るよう、解説を加えてやらなければならないので、そこにどれだけ時間を使うかは想像がつかなかった。
本当は研磨も試験勉強をしなければならないのだが、今日は諦めるしかない。
「じゃあ、ね。翔陽」
名残惜しいが、いつまでも電話で喋っていたら時間がなくなる。だらだらしていたくなくて自分から切り出すが、応じる声は聞こえなかった。
返事がないといぶかしんでいたら、遠く、知らない声がした。母親だろうか、翔陽を呼んでいた。
眉を顰めて静かに待てば、やがて受話器に彼が戻ってきた。ごめん、と前置きがあって、その後一呼吸を挟み。
『研磨、ありがとな』
屈託なく笑って言われて、研磨は瞠目した。
『待ってる。またなっ』
呆然としている間に、通話は終わった。ツーツーと無機質な音を断ち切って、沈黙したスマートフォンを見る。
熱を持った機体は、今にも息絶えてしまいそうな勢いだった。
よくぞ持ちこたえてくれたと褒め称え、改めて手元に残された薄い紙に目を通す。そしてふと、とあることに気がついた。
「……まあ、いいや」
返信先のファックス番号は、問題を解きながらメールで聞こう。大事な事を忘れていたと肩を竦め、研磨は足音を忍ばせて歩き出した。
リビングの電気を消し、自室へと急ぐ。
宮城と東京は、とても遠いと思っていた。けれど実際は、吃驚するくらいに近いのかもしれない。
「数学も、がんばろう」
また頼られた時に、困らないように。バレーボールだけでなく、勉強の方も翔陽の手を引けるように。
そのためにも、まずはこの問題を解かなければ。
ドアを開け、研磨は決意を込めて呟いた。
2013/9/16 脱稿