桜雲

 窓から覗き見たグラウンドは、野球部の独壇場だった。
 春休みに入っても尚、彼らは血気盛んに活動していた。四月になれば新入生がやってくる。彼らのお手本になるような選手を目指し、ひたむきに努力している様子が窺えた。
 耳を澄ませば、それ以外にも勇ましい掛け声が聞こえてきた。
 恐らくは剣道部だろう。体育館で振るわれる、その切っ先鋭い竹刀の音色を脳裏に浮かべ、雲雀は直射日光を避けて壁に身を寄せた。
 視線を上に転じれば、白い綿雲が青空を暢気に泳いでいた。校庭の上には無粋な電線も走っておらず、澄み渡る大空を独占出来た。
「風も温んで来たね」
 囁き、彼は組んでいた腕を解いた。レールの端に寄せていたカーテンを摘んでサッと左に走らせ、中断中だった作業を再開しようと身体を反転させる。
 最中に見えたカレンダーも、早く次に進みたいと落ち着かない顔をしていた。
 あと数日すれば、月が替わる。四月になれば新入生が沢山押し寄せてきて、学校はまた賑やかになるだろう。
 風紀の乱れも多く発生するはずだ。取り締まりの強化は急務であり、風紀委員にも気合いを入れるよう近く通達を出す予定でいた。
「さて、と」
 椅子を引き、腰を下ろす。肘掛を掴んで身体を安定させたところで机に向き直ろうとして、彼は耳朶を掠めた微かな音色に眉を顰めた。
 足音だ。ひとり分、それもかなり駆け足。
 音の具合からして、体重は軽い。音の間隔から歩幅は予測可能で、そこから身長も弾き出せた。
 人並み外れた聴覚を駆使して頭を働かせ、雲雀は二秒後に響くだろうノックを待って居住まいを正した。
 そしてきっちり二秒後。
「ヒバリさん」
 頬杖をついていた雲雀の耳に、可愛らしいボーイソプラノが注ぎ込まれた。
「どうぞ」
 鍵はかけていない。暗に告げて入室を許可すれば、遠慮は不要とドアノブが回された。
 キィ、と蝶番が軋んだ。出来上がった隙間から、真っ先に上履きの先が飛び出してくる。続けて蜂蜜色の髪が見えて、色の白い少年が首を竦めた状態で小さく会釈した。
「失礼します」
「どうしたの?」
 背中も丸めて縮こまった状態で挨拶されて、雲雀は一寸意外そうに目を丸くした。声も幾ばくか高くして問いかければ、入ってきた少年は丁寧にドアを閉めて照れ臭そうに笑った。
 寝癖が爆発した頭を掻き回し、舌を出して苦笑する。その素振りから、あまり言いたくなさそうな雰囲気が感じられた。
「ちょっと、……まあ、はい」
「また逃げてきたの?」
「ぎく」
 上下共に並盛中学校指定の制服を着てはいるが、上着は羽織らず、白いワイシャツに紺色のベストを着用していた。ネクタイは結ばれてない。
 本当は必須なのだが、今はまだ春休み期間中だ。今回は大目に見てやることにして、雲雀は大仰に顔を強張らせた少年に深いため息をついた。
 ネオ・ボンゴレ一世、もといボンゴレ十代目を継承しろと言われ続けて早数年。未だそんなものにはならないと言い張るこの少年は、諦めて認めろ、と迫る極悪家庭教師から逃げ回る日々を送っていた。
 毎日のように繰り広げられていた怒涛の戦闘は、ある日を境に収束を見た。互いにいがみ合い、憎しみあっていた者達は手を取り合う選択肢を与えられ、それぞれの日常に戻っていった。
 至門中学校の生徒は、今しばらく並盛中学校に通うのが決まっている。隣町にある黒曜中学校との抗争は、勝敗付かずのこう着状態が続いていた。
「だって、リボーンの奴が。受験勉強なんかしなくていいから、中学卒業したらイタリアに行くぞ、って」
「行けば?」
「ヒバリさんまでそんなこと言う……」
 淡く微笑むだけで何も言わない雲雀に、あと数日で中学三年生になる少年は頬を膨らませた。つい二十分ほど前の出来事を思い返して口を尖らせ、返された言葉にも不満そうに文句を垂れる。
 愛くるしい拗ね顔に相好を崩し、雲雀は突っ立っている彼に座るよう促した。
 ソファを掌で示され、世界に名だたるマフィア、ボンゴレの次期継承者に当たる少年は面白くなさそうに床を踏みしめた。
「ああ、待った。小動物」
「はい?」
 歩き出そうとして、不意に呼び止められた。思わず返事をしてしまい、振り返ってから彼はしまった、と言わんばかりに渋い顔をした。
 うっかり反応してしまった。これでは自分で、自分が「小動物」と認めたようなものではないか。
「名前、ちゃんと呼んでくださいよ」
「どうして?」
 確かに付き合いのある同年代から見れば、背は低い方かもしれない。体重だって、数字だけ言えば女子かと間違えられるレベルだ。
 だからといって愛玩動物と同じ扱いをされるのは不本意であり、嬉しくない。それなのに雲雀にはまるで伝わらなくて、不思議そうに問い返されてしまった。
 これまで何十回繰り返したかも分からないやり取りに唇を噛み、彼はむすっとしたまま雲雀の方へ足を踏み出した。
 方向転換した彼を待ち受ける青年も、椅子を引いて立ち上がった。身を乗り出し、左手は机へと添えて支柱代わりにする。右腕は真っ直ぐ前方に伸ばして、少年へと差し向ける。
「ヒバリさん」
「小動物、背中をこっちに」
「だから」
「沢田綱吉?」
 指示され、従いながらも反論を試みる。そんな不機嫌な彼をあざ笑うかのように告げられたひと言に、綱吉は転びそうになった。
「……覚えてるんじゃないですか」
「知らないとでも思ってたの? はい、取れた」
 後ろ髪を引っ張られ、すかさず振り向いて声を低くする。雲雀は呵々と笑い、今し方摘み取ったばかりのものを宙に放った。
 視界の真ん中を踊ったそれは、薄紅色の花びらだった。
「桜だ」
 たった一枚だけだったが、それが何の樹に咲くものかは直ぐに分かった。思わず両手を広げて受け止めて、綱吉は思いがけない贈り物に目を見張った。
「どこで拾ってきたの」
「えー、どこだろう。通学路も満開だったしなあ」
 呆れ混じりに訊いた雲雀に、彼は小首を傾げて呟いた。
 小さな花びらを摘み、顔の前に翳して光に透かす。天井の蛍光灯ではなく、カーテンに遮られた太陽を求めた綱吉に、雲雀は肩を竦めた。
 仕方なく、先ほど引いたばかりの布を左へと走らせる。シャッ、と軽やかな音色が駆け抜け、一瞬にして室内は陽光に包まれた。
 あまりの眩しさに目を瞑り、綱吉はガラス越しに広がる大空に顔を綻ばせた。
「綺麗でしたよ」
「だろうね」
 中学校の校庭にも、桜は植えられていた。
 並盛町には他にも、桜の名所は沢山あった。大きな公園では毎日のように宴会が開かれており、羽目を外した花見客を取り締まる風紀委員の姿も頻繁に見受けられた。
 いつぞやの出来事を振り返り、綱吉は桜を前にしてもなんともない雲雀に安堵の息を吐いた。
「花見はしたの?」
「明日、みんなと。ヒバリさんは……来ないですよね」
「行くよ?」
「え?」
「群れている奴らを噛み殺しにね」
「またそういうことを……」
 四月から高校生になるはずなのに、未だ中学校の応接室に陣取る男が平然と言い放つ。懲りる気配のない彼に頭痛を覚え、綱吉はやれやれと首を振った。
 雲のボンゴレリングの継承者にして、最強の守護者。そして並盛中学校風紀委員会委員長でもある雲雀恭弥は、弱いくせに群れたがる輩が大嫌いだった。
 お陰で綱吉も、過去に散々彼に殴られている。最初は怖くてならず、苦手な相手だった彼との関係が変わったのは、六道骸が黒曜中学校を乗っ取った頃だった。
 以来、ただ恐ろしいだけだった相手は頼りになる強い人になった。彼が居なければ乗り越えられなかった試練は多く、彼がいたからこそ綱吉は今日まで勝ち残れた。
 そして現在、彼の傍はリボーンやその他の喧嘩っ早い人たちから逃れられる絶好のポイントと化していた。
 リボーンは昔から雲雀を気に入っていて、逆もまた然り。特に雲雀は、なにかと理由をつけて彼と闘いたがった。また、六道骸とは犬猿の仲であり、顔をあわせれば即座に戦闘に発展した。
 獄寺も彼を毛嫌いしており、雲雀を怖がらないのは先日無事卒業した笹川了平と、山本武くらいだ。
 降りかかる火の粉をどうにかしたい綱吉と、難敵との闘いを切望する雲雀。両者の利害が一致した結果、並盛中学校の応接室はまたとない綱吉の避難場所と成り果てた。
「いけない?」
「そりゃまあ、酔っ払って京子ちゃんやハルに絡んでくる人がいたら困るし。平気でゴミを捨てていく人をどうにかして欲しい、とは思いますけど」
「なら良いじゃない。せいぜい楽しんできなよ」
 花見会場が阿鼻叫喚の渦に飲み込まれる光景を想像し、綱吉はぶるりと震えて口を窄めた。なるべく風紀委員が良い事をしている風に解釈して呟くが、果たしてこの結論でよかったのかは判断が付かなかった。
 上機嫌に言った雲雀を上目遣いに見詰めて、綱吉は萎びて汚れてきた花びらを握り締めた。
「ヒバリさんって、桜、好きです?」
「どうして?」
「だって、去年は」
 シャマルの蚊から変な病気を貰い、一時期桜がダメになっていた彼だが、トラブルの発端は満開の桜の下で行う花見だった。
 大勢で騒ぐのを嫌う彼が、この行事だけは積極的に参加しようとしていた。だから好きなのかと何気なく訊いた綱吉は、花吹雪の中に佇む彼を連想してはっ、と息を呑んだ。
 艶やかな黒髪を風に靡かせ、散る花びらに包まれて消えていく。ざああ、と波が押し寄せるような音を聞いて、彼は大粒の瞳を真ん丸に見開いた。
「小動物?」
「あっ」
 怪訝に名を呼ばれ、綱吉は瞬きひとつで幻聴と幻視を振り払った。
 様子が可笑しい彼に首を捻り、雲雀は窓辺から踵を返した。机に戻るかと思いきや、ゆったりした足取りで部屋の中心へと歩を進める。
 カツリと鳴った足音に何故かビクついた綱吉を笑い、彼は気まぐれに手を伸ばして柔い頬を撫でた。
「そうだね、好きだよ」
「っ」
「桜が、ね」
 朗々と告げられた台詞に、綱吉は思わず顔を赤くした。そこに意地悪いひと言が付け足されて、彼は一瞬勘違いしそうになった自分に小鼻をヒクつかせた。
 音が聞こえるくらい強く奥歯を噛み締めた少年に目を細め、雲雀は色白でふっくらした肌をなぞって腕を引っ込めた。
 彼に擽られた場所が変に疼き、静電気なのかちりちりと痛んだ。
 からかわれたのだろう。この男にとって人間とは、倒すべき相手か、そうでないかのどちらかしか存在しないのだから。
 だというのに胸がもやもやして、どうにもすっきりしない。訳が分からないと心の中で首を傾げて右頬を押さえ込んだ綱吉に肩を竦め、雲雀は書類で満載の机に浅く腰掛けた。
「良く言うだろう、桜の樹の下には死体が埋まっている、って」
「坂口安吾ですか?」
「へえ、知ってるの。でも残念、はずれだよ」
 桜の根元には死体があり、桜はその死体から養分を得て美しい花を咲かせている。その妖しく不気味でありながらも風雅な説は、勿論綱吉も聞いたことがあった。
 咄嗟に頭に浮かんだ人名を口にすれば、雲雀は意外そうに目を丸くして口角を歪めた。
 死体の話を知っていたのに驚いているのか、それとも坂口安吾の名前が出てきたことが予想外だったのか。どちらか分からない表情に眉間の皺を深めていたら、雲雀は左足を引き寄せてそこに肘を立てた。
 頬杖を付き、意地悪く目を細める。なにかを企んでいるようにも見える彩に、綱吉は警戒して唇を引き結んだ。
「坂口安吾はね、『桜の森の満開の下』だよ。人殺しの山賊が、桜の下で気狂いになる話」
 その硬い顔つきを知ってか知らずか、雲雀は滔々と言葉を紡ぎ上げた。
 抑揚に乏しい平坦な口調に、綱吉は一瞬何のことだか分からなくてぽかんとなった。間抜け顔を晒した彼を喉の奥で笑って、雲雀は混同されがちな話を真ん中で切り分けた。
「死体の話は、梶井基次郎。タイトルは『桜の樹の下には』だから、間違え易いのはある意味仕方がないかもね」
 ストーリーはまるで違うが、どちらも満開の桜を扱っているのは同じだ。混同して覚えてしまうのも無理ないことだと彼は苦笑した。
 間違いをやんわりと訂正された綱吉は緩慢に頷き、今聞いた話を覚えておこうと五秒ばかり目を閉じた。
 その集中を邪魔して、雲雀は足を伸ばして机から飛び降りた。
 物音に反応し、綱吉が瞼を開く。琥珀色の瞳を覗き込むようにして立ち、彼は蜂蜜色の髪に手を伸ばした。
 跳ね放題の毛先を擽り、手櫛ですっと梳く。頭皮を引っ張られた少年は、その仕草でそこにまだ桜の花びらが紛れていたと気が付いた。
「でも僕は、坂口より、梶井より、西行の方が好みかな」
「さい……?」
「歴史も勉強しなよ、受験生」
「いてっ」
 聞き覚えがあるようで思い出せない単語に眉を顰めていたら、額を指で弾かれた。痛烈なデコピンに首を後ろに倒し、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔で口を尖らせた。
 リボーンは高校に行く必要はないと言うが、マフィアになる気など皆目ない綱吉は進学しか頭になかった。
 しかし今の学力では、とてもではないが最低ランクの学校ですら合格できるかどうか。ましてや山本や獄寺、京子といった馴染みのメンバーが受験する高校など、とてもではないが手が届かなかった。
 直前になって焦っていては、死ぬ気で勉強しても間に合わない。だから今から頑張るしかなくて、坂口安吾の名前もその成果のひとつだった。
 比較的得意な分野から手を付けているとバレてしまい、言い返せなかった彼は打たれた場所を庇って口をヘの字に曲げた。
 面白い表情だと笑い飛ばし、雲雀は癖のある髪を気まぐれに掻き回した。
「西行はね、平安末期から鎌倉初期の遊行僧。歌の名手としても知られていて、桜にまつわる歌を沢山残している」
「あぁ……」
 そういえば数年前の大河ドラマで、そんな登場人物が居た気がする。勉強になるからとリボーンに言われて我慢して見ていたが、主役級の人物にあまりにも似た名前が多すぎて頭が混乱し、訳が分からなかったのを覚えている。
 雲雀の告げた名前の主は、その中で特に異彩を放つ存在だった。
 言われて思い出した彼に頬を緩め、雲雀は天高く輝く太陽を仰いだ。
「願わくは」
 そうして朗々と謳い出した彼に、綱吉は目を丸くした。

   願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ
 
 淀みなく詠われた詞に唖然とし、ふっ、と笑った雲雀を見詰める。突き刺さる視線に肩を竦め、彼は指に残る桜に息を吹きかけた。
 ひらりと舞った花弁を目で追って、綱吉は脳裏を過ぎった映像に奥歯を噛み締めた。
 桜が咲いていた。夜だ。月が昇り、闇を照らしていた。
 凛と冷えた空気が、まるで刃物のようだった。あまりの鋭さに息をするのも忘れ、彼は見事に咲き誇る桜の樹下に目を凝らした。
 人が倒れていた。それは、美しい死体だった。
 眠るように横たわるその身からは、とめどなく血が流れ出ている。桜はその鮮血を吸い、白い花弁を紅色に染め替えていた。
「小動物?」
「っ!」
 唖然とし、立ち竦む。白昼夢の只中に居た彼を現実に引き戻したのは、雲雀の怪訝そうな声だった。
 呼びかけられて、彼は長く忘れていた呼吸を再開させた。足りていない酸素を掻き集めて唾を飲み、噴き出た汗を拭って瞬きを繰り返す。
 血色の良い顔をそこに確かめて、彼はふらり、手を伸ばした。
「なに」
 気が付けば雲雀の学生服を握り締めていた。
 袖を引っ張られ、彼は不思議そうに小首をかしげた。嫌な幻覚を見たと喉まで出かかった言葉を飲み込み、綱吉は首を振って視線を伏した。
「如月って、二月じゃないですか」
「旧暦だからね。西行の命日は、太陽暦なら今頃だよ」
 半年前までなら知らなかった知識を総動員し、呟く。雲雀は飄々とした態度を崩さず、瞬時に切り返して笑った。
 残り僅かな三月を振り返り、俯いたままの少年に眉目を顰める。もう一度独自の愛称で呼びかければ、細い肩がピクリと跳ねた。
「俺は、安吾がいいです」
「人殺しの話が?」
「はい」
 下を向いたまま告げた彼に、雲雀は意外だと声を高くした。
 問い返され、綱吉は間髪入れずに頷いた。
 山賊は、旅人の娘を攫って妻とした。その山賊は最後、満開の桜の下で鬼女と錯覚した妻をくびり殺してしまう。そして我に返り、彼女と共に桜の花びらとなって消え去った。
 桜には、死の影が付きまとう。ぱっと咲いてぱっと散るから、その儚さが遠い昔から人の心を惹き付けて止まなかった。
 桜の下に死体があるとした梶井基次郎よりも、桜の下で死にたいと願った西行よりも。
 綱吉は、桜と化して女と共に消えた男が羨ましかった。
「変な子」
「ヒバリさんに言われたくないです」
 言い返し、綱吉は鼻を啜った。何故だか分からないけれど溢れてくる涙を堪え、嗚咽を呑んで無理に笑う。
 雲雀は何も言わず、抱きついてきた子の背をそっと撫でた。

2013/03/24 脱稿