常磐

 白線の手前に立つ選手の手から、ボールが勢い良く放たれる。放物線を描いたそれはネットを挟んだ先のコートへと落ち、急角度で跳ね上がった。
 天を突き刺す勢いで宙を舞ったそれも、空中で失速してやがて床へと戻る。重力から逃れられなかった球体はころころと転がって、壁に向かって流れていった。
「ナイッサー!」
 一方で誰かが声高に叫び、呼応するようにあちこちから威勢の良い声が響き渡った。ボールの弾む打音と共に体育館内にこだまするそれは、玉拾いに精を出す部員たちの声だった。
 二班に別れてのサーブ練習を壁際から見詰め、烏養は渋い顔で頭を掻いた。
「日向。お前、さっきから全然入ってねーぞ!」
「スミマセン!」
 三連続オーバーランを決めた一年生に怒鳴り、返事だけは一人前の部員に肩を落とす。叱られた彼を笑った数人にも睨みを利かせてため息を零し、烏野高校男子排球部の新米コーチはなかなか減らないミスに肩を落とした。
 サーブミスはもれなく一点献上であり、悪い流れを作る原因のひとつにも数えられた。
 何もしなくても点が入るのだから、相手チームとしたら万々歳だろう。調子よく進んでいた展開に水を差すにも等しいから、自陣のサーブミスを回避したいのはどこも同じだ。
 これが上手く決まらなければ、試合そのものが始まらない。だが他にも重点的に取り組まなければならない項目は多く、考えるだけで頭が痛くなった。
「時間が足りねぇなあ」
 朝早くから夜遅くまで、部員たちは本当に良くやっている。だがそれでも、勝ち慣れたチームを相手にするにはまだまだ不十分だった。
 もっと経験を積ませてやりたかった。練習ではなく、実践でしか得られないものが沢山あるからだ。
 願わくは週末ごとに練習試合が組めるのが一番良いのだが、それはなかなか難しかった。長く衰退の道を歩んでいた学校は、申し込んだところで門前払いされることが多い。東京の音駒高校が遠征してきたのだって、顧問が何回も根気良く依頼の電話をかけ、しつこく頭を下げたお陰だった。
 インターハイの予選まで、あと二週間とない。それまでに仕上がるかどうかは、正直言って微妙だった。
 各選手はそれぞれに特徴があり、得意、不得意の範囲がはっきり分かれていた。
 烏野高校は昔から攻撃主体のチームであり、速攻を多用して点を稼いで突き放すスタイルが伝統として受け継がれていた。故に、守備への不安が常に付きまとう。音駒高校のように防御主体のチームとは特に相性が悪く、スパイクが決まらない悪循環に陥ると目も当てられなかった。
 点が入らなければ、試合には勝てない。
 点が入るには、ボールの繋がりを断ち切る必要があった。
 得意の攻撃が通用しなければ、覇気は下がる。勝ちパターンに乗れずにジリ貧に陥り、ずるずる点差が広がって、セットポイントに持ち込まれて終わり。
 そうならない為の突破口を見つけ出すのは、口で言うほど簡単ではない。過去に幾度となく経験しているだけに、前向きに頑張れと落ち込む選手らを鼓舞するのも容易ではなかった。
 試合をするからには勝ちたいと願うのは、プレイヤーなら誰しも胸に抱く共通の想いだ。だのに目の前に広がるのは、敗北という名の広大無辺な砂の海。
 雑草一本生えない茫漠とした世界に佇む心境は、果たしていかばかりか。
 勝ちたい。勝たせてやりたい。その為に自分が出来る事はなにか。選手にさせるべきことはなにか。
 過去、ここまで頭を働かせた例があっただろうか。高校の期末試験でさえ一夜漬けの一発勝負で挑んでいたくせに、大人になってからこんなに勉強させられるとは思いもしなかった。
 攻撃パターンは多いに越したことはない。欠点を急場凌ぎで補おうとするよりも、長所を伸ばして自信をつけさせる方が彼らもモチベーションが保てよう。
 叱るより、褒める。上から押さえつけるのではなく、下から押し上げてやるくらいの気持ちで。
 だが頭では分かっていても、いざ実践するとなるとこれが相当難しい。そもそも烏養は感情の起伏が激しく、性格も短気だった。
「爺さん、よくこんな仕事やってたな」
 自らも教えを受けた祖父の偉大さが今になって理解できて、彼は呻くように呟いて顎を撫でた。
 じっとしていても汗が滲み、喉が渇く。烏野高校第二体育館は熱気が篭り、五月の末でありながら夏の気配を感じさせた。
「眉間、寄ってますよ」
「うおっ」
 現在時間を確認し、そこから今日練習に使える残り時間を算出する。どうすれば効率よく選手らを動かせるか考えていたら、斜め下を向いていた視界にひょっこり黒が紛れ込んだ。
 同時に囁かれた言葉に目を見開き、烏養は驚き仰け反った。
「皺、出来てます」
 だが彼の驚きを他所に、マイペースな女子マネージャーは眼鏡の上から眉間を叩いて言った。
 二年生がこぞって隣を争いあう清水の言葉に、彼は一瞬間を置いてから嗚呼、と首を縦に振った。口元のホクロが色っぽい美人もつられる形で首肯し、ついでに会釈をして去っていく。
 動き回る部員らに水分補給を促す背中を唖然と眺め、烏養は顎を伝う汗を拭った。
 無意識に険しい顔をしていたらしい。指摘された場所を撫でて浅い溝をなぞり、彼は今一度腕に巻いた時計を見た。
「そういや」
 そろそろ交代させるべきかと視線を浮かせ、ふと気になって振り返る。気付いた部長の澤村に手を挙げて合図を送り、覗き込んだのは外へ通じる扉だった。
 換気の為に開けっ放しの戸の向こう側は、まだ日が残ってほんのり明るかった。半年前の同じ時間帯ならもう既に辺りは真っ暗だった筈で、気温の高さといい、季節の移ろいが肌で感じられた。
「交代!」
 烏養の指示を受けた澤村の言葉が館内に轟き、彼の注意もコートに戻された。だが無人の左側がどうにも気になって、慌しく動き回る選手らに檄を飛ばすのも、ついつい忘れがちになった。
「先生、今日は遅いんだな」
 ぽつりと呟けば、長く意識してこなかった存在が妙に大きく感じられた。
 烏養は教員免許こそ取得しているが、教師ではない。母方の実家の商いを手伝い、農作業に従事するただの一般人だ。
 だから烏野高校男子排球部のコーチは務められても、監督にはなれない。その役目を果たしているのは、この学校で国語を教えている三十路手前の男性教師だった。
 ぼさぼさの頭に円い眼鏡、お人よしそうな顔をして意外に熱心で、それなりに頑固。
 スーツはいつも皺だらけのよれよれで、楽だからと靴ではなく爪先が出ているサンダルを愛用している。春先によく羽織っていたジャージは、高校時代から着続けているものという話だ。
 バレーボールのルールさえ殆ど知らないくせに、排球部の顧問を押し付けられて今に至る。だが持ち前の、やれと言われたからにはやり抜くという精神で、地に落ちた烏をなんとか再び羽ばたかせようと方々に手を尽くす姿は、教師の鏡としか言いようがなかった。
 その武田が、今日はまだ体育館に顔を出していなかった。
 いつもにこにこ笑っており、一寸したことでも大袈裟に感動して感情を昂ぶらせる姿は見ていて実に面白かった。反面、困るところもあった。
 彼は臆面もなく人を褒める。無条件に拍手喝さいを送ってくる。照れもせず、真剣な表情で人の長所を並べ立てるものだから、話をしていると時に言葉に詰まらされた。
 アルコールが回るとその傾向は顕著になり、管を巻いて絡まれることもしばしばだ。だが、一緒に居て不快ではない。彼の声は通りが良くて、耳に心地良かった。
「マネージャー」
 部員から汗を拭いたタオルを回収していた清水を呼び、手招く。名残惜しそうな西谷を無視して走って来た少女は、烏養を見上げて不思議そうに小首を傾げた。
 テレビで騒がれているアイドルよりよっぽど整った顔立ちに、知れず顔が赤くなる。学生の頃からバレーボール一辺倒で、当時は女子マネージャーなど居なかったものだから、たとえ年下であろうとも異性を前にすると緊張した。
「いや、あ……っと。センセイ、今日は会議かなんかか?」
「職員会議です」
「あ、そう」
 頬を掻き、しどろもどろに訊ねる。聞かれた方は淡々と答え、用は済んだかと目で問い返してきた。
 清水は喧しい男子とは違い、独特の雰囲気があった。非常にマイペースで口数も少なく、何を考えているのか分からないことも多かった。
 それでも真面目に活動に参加し、暴走しがちな部員らを上手くコントロールしている。彼女の助力なくしては、烏養のコーチ業もここまでスムーズにはいかなかっただろう。
 細やかな気配りは非常に有り難く、面と向かって言ったことはないが感謝している。もっともその辺の礼は、武田が聞き飽きるくらい言っているに違いないが。
 簡潔なやり取りの後、清水はぺこりと頭を下げた。踵を返し、早々と自分の仕事に戻る。その細身の背中を見送って、彼は脱色している髪をがしがしと掻き回した。
「会議、ねえ」
 それが具体的にどういったものなのか、会社勤めの経験がない烏養には分からなかった。
 部のミーティング程度なら、学生時代に腐るほどやった。喧々囂々意見を出し合い、時に取っ組み合いの喧嘩までやって、互いの理解を深めて協力関係を構築していった。だが話を聞く限り、会議とはそういったものとは根本的に異なっているらしい。
 酒の席でちょろっと愚痴を聞かされたが、くだらない議題ひとつにも無駄に時間が割かれて効率が悪いそうだ。議事録を作る身にもなれ、と零していた酔っ払いを思い出し、烏養は腕を下ろした。
 部のサポートに授業の準備、試験期間ともなれば問題作成に採点と、休む暇もない。だのに疲れをおくびにも出さない武田は、十分尊敬に値する人物だった。
 仕事が立て込んでいるのなら、今日は顔を出さないかもしれない。ほぼ毎日のように会っていただけに、たった一日とはいえ姿を見られないのは少し寂しかった。
「……ン?」
 胸の間をすり抜けていった隙間風に、二秒ほど経ってから烏養ははて、と首を傾げた。
 別段会わなければならない理由はないし、必要もない。だのに残念に感じている意味が分からなくて一頻り首を捻り、彼はどうにも調子が悪いと額に手を押し当てた。
 爪の先で浅く皮膚を抉り、しばし瞑目して気持ちを切り替える。目下、最優先にすべきは部員の指導であり、此処に居ない男に思いを馳せることではなかった。
「おーら、お前ら。ちんたらやってねーで、もっと気合い入れろ」
「はい!」
 腕を下ろし、視界を広げる。偶々見えたサーブミスを叱って声を張り上げ、烏養は腕を横薙ぎに払った。
 長い沈黙を破って指示を飛ばし始めた彼に、部員たちは吃驚して顔を見合わせた。だがぼんやりしていたら直ぐに見付かって怒鳴られて、慌てて赤と緑が入り乱れるボールに意識を集中させる。
 遊び半分で取り組む奴は要らないと鼻から息を吐き、烏養は偉そうにふんぞり返って腕を組んだ。
 その、やや虚勢を張っているようにも見える横顔を盗み見て、清水が何か言いたげな顔をした。だが結局何も口に出さず、転がってきたボールを拾って菅原へと投げ返した。
「サンキュ。……なに?」
「男って、みんな鈍感」
「え?」
 受け取った副部長の三年生が、普段と少し雰囲気が違うマネージャーに首を傾げる。途端藪から棒に言われて、意味が分からなかった菅原は素っ頓狂な声を上げた。
 誰に対しての非難か分からないまま慌てふためく同級生を無視し、彼女は時折外を気にして視線を動かしているコーチに肩を竦めた。そうしてふと顔を上げ、眼鏡のフレームに引っかかりそうな位置に立つ人影に気付いて柳眉を寄せる。
「コーチ」
 それが誰なにかを理解した瞬間愁眉を開き、彼女は左腕を真っ直ぐ伸ばした。
 体育館の入り口を指差したマネージャーに、烏養は怪訝に顔を顰めた。しかしじっと見詰めてくる眼差しは真摯に何かを訴えており、振り向かないわけにはいかなかった。
「なんだ?」
 外に、いったい何があるのか。怪訝にしながら首を反対側に回した彼は、段数も少ない階段の影に隠れて佇む人影を気取って口を尖らせた。
 口喧しくて鬱陶しい教頭でも現れたのかと真っ先に疑い、即座に違うと知って目を細める。
「なにやってんだ、アンタ」
「あはは」
 猫背気味だった背筋を伸ばし、烏養は大きく一歩を踏み出した。部員らには練習を続行するよう言い含め、ひとりだけ出入り口へと近づく。戸に片手を添えて身を乗り出した彼に、低い場所に立っていた男は首の後ろを引っ掻いた。
 控えめに笑い、照れ臭そうに身を捩る。ワイシャツの袖を肘まで捲りあげたその人物は、首が痛くなる位置にいる烏養を仰いで目尻を下げた。
 だが足は地面に張り付いたままで、一向に動かない。今更何を遠慮するところがあるのかといぶかしんで、烏養は部員らの靴でごった返す踊り場に踏み出した。
「さっさと入ればいいだろ」
「いえ、僕は」
「センセーがいねえと、締まらねえだろうが」
「違います、すみません。会議は終わったんですが、まだ仕事が残ってまして」
 手を伸ばし、勢い良く振る。空気を掻き回した彼に慌てて右手だけを揺らし、武田は早口に捲し立てた。
 僅かにトーンが高い返答に虚を衝かれ、烏養の目が点になる。武田は若干困った様子で苦笑し、ずっと背中に隠していた左手を前に出した。
 現れた底の浅いタッパーに、烏養のあまり大きくない目がますます小さくなった。
「あ、……そう」
「ですので、ええっと。これだけ」
 呆然としたまま呟いた彼に駆け寄り、武田は両手で持ち直した容器を差し出した。軽く上下に揺らし、人好きのする笑顔を浮かべて目尻を下げる。
 受け取ってくれと頼まれて、烏養は何故こうもがっかりしているのか分からないまま両手を腹の前に並べた。
 押し付けられたタッパーは、さほど重くなかった。
「なんだ、これ」
 握り締め、左右に振る。思わず縦にしそうになって、斜めに傾いた底を見た武田に慌てて止められた。
「あああ、ダメです。烏養君」
「レモン……?」
 声高に叫んだ彼を無視し、半透明の側面から覗き込んだ中身に首を捻る。覚えのある色と形に漠然と呟けば、音を拾った武田がまた一段と気恥ずかしげに頬を赤らめた。
 縦横十センチ、高さは四センチといったところの入れ物はまだ真新しく、最近購入されたばかりと推測が可能だった。蓋は薄緑色で、傷ひとつない。
 特徴のありすぎる断面が、重みに潰されて容器の底に張り付いている。黄色い皮が浅い海を泳いでいるのを見て、烏養は胡乱げに武田を見詰めた。
「え、えへへへ」
 言うより先に中身を知られてしまい、彼は誤魔化しに笑って黒髪を掻き回した。
「なんだって、こんなモン」
「もうじき大会も始まるし、作れるようになっておいて損はないかなあ、と」
「そうかもしれねーけど、それはアンタの仕事じゃねえだろ」
 レモンの、はちみつ漬け。それは運動部などで現在も休憩中や、試合前に水分補給と疲労回復を目的として食べられている、オーソドックスな一品だった。
 薄く切ったレモンを適量の蜂蜜に一晩浸したもので、作り手の好みによって味が変わったりもする。簡単なようで匙加減が微妙に難しかったりするのは、烏養も承知していた。
 正直なところ、作ってもらえるだけでも有り難かった。だが今言ったように、武田がそこまでする必要はないとも思う。
 それなのに彼は声を潜め、自信なさげに呟いた。
「ですけど、僕はあんまり、……お役に立ててませんから」
「アンタ、卑屈にも程があるぞ」
 胸の前で左右の指を小突き合わせた彼に吐き捨て、烏養はレモン一個分のはちみつ漬けを揺らした。
 武田は既に、十分働いている。それこそ寝る間を惜しんで、部員たちの為に心砕き、力を尽くしていた。
 だというのに、当人はまだ足りていないと言い張る。他にもできることはあると目を皿にし、血眼になって探し回っていた。
 そのうち倒れてしまうのではないかと、偶に不安になった。週末の一日くらい休んでくれても構わないのに、顧問である自分が出ないとダメだと言ってちっとも聞いてくれない。
「そうですか?」
「ああ。碌でもねー、馬鹿だと思うぜ」
 素っ気無く言われて戸惑い、武田が首を右に倒す。烏養は鷹揚に頷いて、薄緑色の蓋を引き剥がした。
 冷蔵庫にでも入れていたのか、容器はちょっとだけ冷たかった。
「馬鹿、ですか」
「味見したのか?」
「え? ええと、いいえ。上手く出来ていたら、大会の時にも作って持っていこうかと」
「じゃ、俺が一番目か」
 嘲り笑われた武田が、落ち込んで下を向く。けれど直ぐに話を変えられて、視線は一瞬で元に戻った。
 返答を満足げに受け取って、烏養は口角を歪めた。意地悪く笑って目を細め、折り重なるレモンの輪切りを一枚、慎重に引き剥がして持ち上げる。
 ぽたりと雫が落ちて、ほんのり酸っぱい香りが鼻腔を擽った。
 思わず唾を飲み、武田は頬を紅潮させて唇を引き結んだ。
 緊張しているのが丸分かりの表情に破顔一笑し、烏養は大きく口を開けた。風に揺らぐレモンスライスを舌で受け止め、即座に唇を閉ざして狭い空間に閉じ込める。
「ン」
 鼻から抜ける息を吐いた彼に、武田は無意識に拳を作った。
 烏養はタッパーに素早く蓋を戻し、濡れた指はジャージに押し付けた。奥歯で噛み締めれば、程よい酸味と甘みが口の中いっぱいに広がった。
 後を追いかける形で苦味が紛れ込み、咥内が唾液で溢れた。それらもまとめて飲み込んで、彼は真剣な眼差しの武田に相好を崩した。
「ど、どうですか」
「なあ。もしかして先生、砂糖も入れたか?」
「えっ。ダメでしたか」
「いや、ダメじゃねーけど……」
 レモン特有の酸っぱさより、ほんの少し甘さが強い。蜂蜜だけではこうはならないと頭を捻った彼の言葉に、武田は裏返った声を上げてしおしおと小さくなった。
 インターネットを調べれば、レシピはいくらでも出てくる。その中で気になったものを選び、試してみたのだろう。
 そういえば彼は饅頭などの甘味が好きだったな、と懐かしい味に舌鼓を打って、烏養は二枚目に手を伸ばした。
 個人的にはもう少し酸っぱい方が好きなのだが、これはこれで悪くない。調子に乗って三枚目に至ったところで武田が気付き、タッパーを奪い返そうとして手を伸ばしてきた。
「うわああ、いいですから。無理に食べなくてもいいですから」
 半泣きになって叫ばれて、声は体育館にも紛れ込んだ。中にいた部員は何事かと振り返り、騒ぐ顧問の姿に怪訝な顔をした。
 取り戻そうと躍起になっている武田に驚き、烏養は蓋を被せただけのタッパーを慌てて頭上に掲げた。背伸びをしても届かないところまで避難させて、癖になる甘さのレモンを奥歯で磨り潰す。
 まさかこの程度でべそをかかれるとは思わなかった。折角作ったのだから食べないで捨てるのは勿体無いし、そもそも不味いとはひと言も言っていない。だのに武田は耳を貸さず、返せの一点張りで譲らなかった。
「ンだよ、いいじゃねーか。責任もって処理してやっから」
 それを跳ね除け、烏養は彼に背中を向けた。迫る手を肩で押しのけ素早く蓋を外し、四枚目を摘んでぱっと口へ放り込む。
 見事な早業に、攻撃を防がれた武田は両手を振り上げ煙を吐いた。
 一方で体育館の中からも、烏養が振り返ったお陰で何が起きているのか把握した者が現れた。
「あー! コーチ、ずっりー!」
 真っ先に気付いたのは西谷で、小さな体から良く響く大きな声を張り上げる。戸口を指差した彼につられて他のメンバーも一斉にそちらを見て、若緑色のタッパーに十人以上の視線が集中した。
 見付かって、烏養もぎくっと肩を跳ね上げた。
「なになに、コーチ。それ、なんですかー」
「烏養君、返してください」
「レモンのはちみつ漬けじゃん。なに、武ちゃんが作ったの?」
「へええ。どんな味ですか?」
「ちょっ、テメーら練習しろ!」
 誰も中断して良いとは言っていないのに、部員たちはこぞって出入り口に集まって捲し立てた。武田もタッパーの奪還を諦めておらず、四方八方から手を伸ばされて彼は慌てた。
 急ぎ蓋を締めて取られないよう胸に抱え込めば、手を撥ね退けられた田中が面白くなさそうに口を尖らせた。
「ダメだ。これは、俺ひとりが味見を任されたんだ」
「誰もそんなことは言ってませんよ、烏養君。いいから、返してください」
「そーだそーだ。独り占め、はんたーい」
「おれも、おれも食べたい!」
「だああ、うっせー!」
 あちこちから怒号が飛び、最早誰と誰が喋っているのかも良く分からない。
 賑やか過ぎる光景に苦笑を漏らし、澤村は高校生と同レベルで騒ぎ立てているコーチに肩を竦めた。
「楽しそうだな、清水」
「そう?」
 そしてふと隣に立った女子マネージャーに言えば、彼女は押し殺し切れない笑みを浮かべて可愛らしく小首を傾げた。

2013/3/15 脱稿