Cherry Pop

 足音五月蝿く台所に駆け込んだ彼に、彼女は吃驚して目を真ん丸に見開いた。
「かーちゃん、地図。地図!」
「なんだい、いきなり。何に使うのさ」
 家計簿から顔を上げた母に向かい、つい先日中学校を卒業したばかりの少年は早口に捲し立てた。じっとしていられないのかその場で足踏みし、喧しいことこの上ない。
 誰に似たのかまるで落ち着きがなく、両手も握り締めて上下に振り回している。どたどたと騒々しい愛し子に深いため息を零し、彼女はいかにも億劫そうに椅子を引いて立ち上がった。
 息子が入ってきたとは違う扉に向い、引き戸を横に滑らせる。木枠にはめ込まれた曇りガラスにシルエットだけを描き出し、彼女は素早く隣の部屋へ足を踏み入れた。
「ある?」
 大きな食器棚の前を通り過ぎ、後に続いた少年が気忙しく問いかけた。急いてくる息子に辟易した様子で首を振り、エプロン姿の女性は座敷の照明のスイッチを入れた。
 途端に部屋が明るくなり、畳敷きの和室が目の前に現れた。あまりの眩しさに少年は顔を背け、両手を高く掲げて大袈裟に身構えた。
 仰々しいポーズをとった息子を放置し、この家の影の支配者たる女性はゆっくりと膝を折り、畳に直接置かれた本棚に手を伸ばした。
「大きい奴かい?」
「そう。烏野までの道順が載ってるの」
 折り畳まれた大判の紙を引き抜こうとして、思い留まって視線を傍らへ流す。斜め後ろに立っていた少年は質問に深く頷き、目的地を告げて頬を紅潮させた。
 興奮しているのか、鼻息が荒い。浴びせられた女性は思わず苦笑して、きちんと製本されている地図を選び取った。
「これは、ちょっと大き過ぎるかな」
「どれ?」
 言いながら表紙を捲った母の手元を覗き込み、少年が身を乗り出した。その顔には未だ幼さが残り、あと半月足らずで高校生になるとはとても思えなかった。
 一寸前まで夜鳴きの酷い乳飲み子だったのに、いつの間にかこんなにも大きくなった。地図に興味津々の横顔を眺め、彼女はそんな感慨に浸って閉じた本を差し出した。
「県道も裏道も、全部載ってると思うよ。ちょっと古いかもしれないけど、うちじゃこれが一番新しいから」
 彼が知りたがっているのは山一つ越えた先の隣町にある、とある高校までの道順だった。
 この辺りで一番大きい県道にさえ出れば、烏野町へは一本道だ。しかしその道を真っ直ぐ突き進んでも、目指す学校には到達できない。
「見方、分かるね」
「だいっじょーぶ!」
 数日前に卒業式が終わり、中学生生活を無事終えた彼は一足先に春休みに突入していた。
 困難を乗り越えて受験戦争にも勝ち抜き、四月からは晴れて高校生。偏差値的に難しいと言われていた志望校に合格した時は、家族総出で万歳三唱の嵐だった。
 願書の提出も、試験を受ける時も、移動はバスを利用した。しかし彼は、授業が始まってからは自転車で通学すると言って聞かなかった。
 中学校も山越えが必要で、ヘルメットを被りながら毎日頑張ってペダルを漕いでいた。高校までの距離はそれよりも更に長く、坂道が増えるけれども問題ないと主張して、その分の交通費を月々の小遣いに回してくれるよう直訴したのが昨日のこと。高校では部活動に専念し、その分出費が増えるからと涙ながらに訴えられては、親としても受け入れざるを得なかった。
「夕飯までには帰るんだよ」
「分かってるー」
 地図を受け取り、彼は背筋を伸ばして頷いた。満面の笑顔を浮かべて踵を返し、座敷から直接廊下に出て玄関目指して駆けて行く。その後ろを追いかけて、母は上がり框の手前で肩を竦めた。
 履き慣れた靴に爪先を押し込んだ息子は、本当に地図ひとつで家を飛び出そうとしていた。
「車に気をつけるんだよ、翔陽」
「わーってるって。行ってきます」
 立派な玄関の戸を右に滑らせ、彼は心配性な母に手を振った。日向、と彫られた表札の下を潜り抜け、一足飛びに庭へと飛び出す。
 この春に新調したばかりの自転車を引っ張り出して振り返れば、実母はまだそこに立っていた。
「晩飯、ハンバーグ!」
「残念。今夜はカレイの煮付け」
「えー……ちぇっ」
「暗くなる前に帰っといで」
 心持ち不安そうな表情を取り払いたくて声を張り上げれば、即座に目尻を下げた彼女が首を振った。予想外に冷静な返答に舌打ちして、日向翔陽は抱えていた地図を前籠に放り投げた。
 見送られ、ハンドルを強く握り締める。家の前の細い道を一瞬で走り抜けて、彼は商店街の方向に進路を取った。
 県道までの道順は、もうずっと前から頭に叩き込まれていた。
 幼い頃は危ないから近づかないよう言われていたが、隣町に行くにはどうしてもそこを通らざるを得ない。これまで自転車で走った経験のない道は新鮮で、胸はどきどきして止まらなかった。
「おやまあ、翔ちゃん。お出かけ?」
「うん。ちょっと烏野までー」
 人通りが少し寂しい商店街では、一寸だけ速度を緩める。通行人を避けながら進む彼に気付き、八百屋の店先に居た女性が高い声で話しかけてきた。
 ブレーキは掛けない。慣性の法則で前を通り過ぎるタイミングで返事をして、彼は左手をひらりと揺らした。
 小さい頃から付き合いのあるその女性は、日向がこの春から烏野高校に通うのを知っている。だからその地名ひとつで何処へ行こうとしているのか察し、成る程と笑顔を浮かべた。
「気をつけてねー。車には注意するんだよ」
「分かってるってばー」
 母と同じ事を声高に叫ばれて、距離が遠くなった分、日向も声を張り上げた。
 どうしてみんな、あんな事を言うのだろう。そんなに信用ないのかと首を捻っていた矢先、日向は歩道と車道を遮る段差にタイヤを取られてひっくり返りそうになった。
「うわあっ、と、ととと」
 慌ててハンドルを左右に揺らし、バランスを取ってふらつく車体を安定させる。サドルから腰を浮かせた状態で冷や汗を流し、彼はちらりと後方を確かめて胸を撫で下ろした。
 こんなところでひっくり返っていたら、それ見たことかと腹を抱えて笑われるに決まっている。だが八百屋の女将は接客に夢中で、日向の失態は目撃していないようだった。
 ひっそり安堵の息を吐き、彼は改めて県道目指してペダルを踏み込んだ。
「いっくぞー」
 最終目的地は、烏野高校。小学五年生の時にテレビで目にした、あのオレンジと黒のユニフォームの学校だ。
 その背番号十番に憧れた。コートの中を縦横無尽に飛び回る背中に、強く心惹かれた。
 ずっと行きたかった。あの試合で初めてバレーボールを知って、中学に入ったら絶対に部に入るのだと決めた。
 だのに雪ヶ丘中学校には、男子バレーボール部がなかった。
 三年間、ひたすら耐えた。助っ人を呼んで出場した大会では惨敗したけれど、バレーボールに賭ける想いは以前にも増して強くなった。
 今度こそ、排球部に入る。レギュラーになって、エースになって、あの十番のように活躍してみせる。
 その為に必要なのは、なによりも体力。自慢の脚力を遺憾なく発揮する為にも、山越え付きの自転車通学はきっと良いトレーニングになるはずだ。
 長く待ち望んだ未来がようやく手に入る。それだけで興奮に心が沸き立ち、希望に胸を膨らませた日向はぺろりと唇を舐めた。
 程なくして、前方に太い幹線道路が出現した。高い位置に掲げられた標識にも、矢印と一緒に烏野の二文字が記されていた。
 これまで何十回、何百回と目にしてきた地名であるに拘らず、それを見た瞬間、心臓はどくりと大きく跳ねた。
 目を見張り、脳裏に焼き付ける。気持ちを昂ぶらせて荒い息を吐き、彼は車の列が切れるのを見計らって車道に合流した。
 バスに乗ってなら、何度か通ったことがあった。母の運転する車でも、数回利用した経験がある。だが自分の足で、自転車を漕いでの移動はこれが始めてだった。
 季節はまだ三月、桜の開花はまだ暫く先だ。注文した学生服が届くのも、もう少し経ってからになる。
「くはっ、あっちー」
 最初こそ調子よく漕ぎ出した坂道は、予想していたよりずっとハードだった。
 標高が上がれば気温は下がる。だというのに上に向かうにつれて身体はどんどん火照り、額や腋には大粒の汗が滲んだ。
 冷えるかと思って着て来たジャンバーが早速邪魔になって、久しく運動していなかった影響か太腿も張って痒い。受験勉強で机に齧りつく日が多かった分、運動不足で鈍っていた体細胞が次々と目を覚ましていくのが肌で感じられた。
 温い汗を散らし、日向は大きくかぶりを振った。
「あぁぁとぉ、ちょっ、とぉぉぉ」
 歯を食いしばり、厳しい傾斜を踏ん張って走り抜ける。腰を浮かせて上半身は沈め、ハンドルに食らいつく体勢で必死にペダルを踏みしめる。なだらかなカーブを曲がって吹いてきた風に身を晒せば、ひんやりした空気に体温が攫われ、あまりの心地良さに魂までも持って行かれてしまいそうだった。
 クラクションが聞こえて左に寄れば、空いたスペースを黒色のワゴン車が走り過ぎていった。
 邪魔だと言われたに等しいが、何故だか頑張れよ、と応援された気分になった。非常に前向きな解釈に頬を緩め、日向は遠くに見え始めた景色に目を見張った。
「あれが、烏野……」
 路線バスの窓から見た事があった。
 自家用車のフロントガラス越しに見詰めた記憶だってある。
 だのに今この瞬間、瞳に映った世界はこれまで目にしてきたどの光景よりも色鮮やかで、輝いているように感じられた。
 こめかみを汗が伝う。上り坂で息は荒いのに、心は晴れ晴れとして苦しいとは少しも思わなかった。
「あと、ちょっと」
 ついでに後ろを振り返って、日向は高い位置にある太陽に微笑んだ。
 ポケットに捻じ込んできた携帯電話を見れば、家を出てから大体二十分といったところだった。
 自宅から学校まで、どれくらいの時間で到着出来るか調べるのも、今日の目的のひとつだった。
 目標は、三十分。その為にはあと十分で下り坂を駆け抜け、学校まで行かねばならない。正直微妙だがやる前から諦めていてはお話にもならないと意気込み、彼は気合いを入れ直して両頬を叩いた。
 ばちんという乾いた音の後に、ひりひりした痛みが追いかけてきた。鼻から吸った息を口から吐きだして、日向は烏野へ続く長い下り坂に顔を綻ばせた。
「いっけーぇ!」
 地面を蹴り、身体を前に倒す。雄叫びを上げ、彼はブレーキを握ることなく斜面を滑り始めた。
 風が唸り、短い髪が煽られてばたばた言う。分厚い空気の壁をぶち抜いて、真新しい自転車は一気に県道を駆け下りていった。
 登るときの半分、否、三分の一にも満たない時間で坂が終わった。心臓はバクバク言って喧しいが、全身を覆う火照りは山の上に置き去りにされたのか、汗もすっかり引いていた。
 興奮だけが残されて、日向は雪ヶ丘とは少し違う空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「おっと。地図、地図」
 流石に道路標識も、高校の場所までは案内してくれない。電信柱に括りつけられた地名が変わったのを確かめて、速度を緩めた彼は大急ぎで前籠に手を伸ばした。
 荒っぽい運転で何度か吹っ飛びそうになった地図を取り出し、表紙を捲る。開き癖が付いているページを真っ先に広げれば、馴染みのある地名が現れた。
 欄外に表示された雪ヶ丘の字をなぞっていたら、目は自然と自分の家を探していた。そこから指で辿って県道を進めば、ページの端に辿り着いた。
「次か」
 通行の邪魔にならないよう道の端に寄り、電柱の影に入ってページを一枚進める。すると電信柱に見たものと同じ文字が、紙面を飾っているのに気がついた。
 烏野町。声に出して読み上げるだけでトクンと胸が弾む字に相好を崩し、日向は現在地を調べようと紺色のプレートを仰ぎ見た。
「えーっと、県道がこれだから。んで、今居るのが六丁目の、うーん、多分こことして。学校は……あった」
 二次元の地図と、実際の景色とを何度も見比べるが、なにぶん初めての土地なので確証を持つところまでは至れない。だが進んでいくうちに分かるはずと自分に言い聞かせ、彼は太陽に目を細めた。
 相変わらずの眩しさに苦笑し、膝の上で地図を回転させる。その上で学校のマークに指を置き、進むべき方角を定めて深く頷く。
「よっし」
 己を鼓舞するように腹から声を出し、日向は元気良く地図を閉じた。
 前籠の底に寝かせて落ちないよう上から押さえつけ、ペダルを勢いつけて蹴り上げる。ハンドルを握って構えを作れば、一秒としないうちに胸のどきどきが戻ってきた。
 あと少し。学校までも、学校が始まるまでも。
 ひとりきりのバレーボール部は、正直心が折れそうだった。三年生になった時に初めて後輩が出来て、下がる一方だったモチベーションが僅かながら持ち直したのが幸いだった。
 運が良かった。大差で負けた試合も、環境が悪いと言い訳していた己に発破をかける役目を過分に果たしてくれた。
 自分は跳べる。誰よりも高く、素早く動ける。
 背が低いからといって諦められる程度の夢なら、孤独に耐えながら三年間も抱き続けたりしない。今度こそ、叶えてみせる。高校に入って、ちゃんとバレーボールをするのだ。
 息巻き、日向は脳裏に叩き込んだ地図を頼りに道を進んだ。迷わないよう出来るだけ大きい通りを選び、高台にある高校を求めて自転車を漕ぐ。
 やがてアスファルトの道はコンクリートの橋と交錯し、川面に冷やされた空気が彼の頬を叩いた。
「……っと」
 低い段差で滑りそうになり、日向は咄嗟に下を向いて窄めた口から息を吐いた。
 人が居た。
 橋の下を潜り抜け、河川敷を走っていく。背中しか見えないが、背はかなり高かった。
 こんな昼間からジョギングをするなど、余程暇を持て余しているとしか思えない。自分を棚に上げて小首を傾げた日向は、汗を吸って重くなっている黒髪に眉を顰めた。
 段々小さくなっていく後姿から、何故だか目が離せなかった。
 烏野町内に知り合いはいない。学区が違うので、こちらから雪ヶ丘中学校に通う生徒はひとりも居なかったはずだ。
 だからあの背中も、当然見知らぬ相手だ。それなのに強く心惹かれて、完全に見えなくなるまで動けなかった。
「あの人も、頑張ってるのかな」
 黙々と足を前に運び、一心不乱に走っていた。我武者羅にボールに食らい付いていく自分自身と重なって見えて、日向はふるり、身震いした。
「っと。いけね」
 時間の経過を思い出し、舌を出して額を叩く。橋の欄干を蹴って自転車を動かし、遠くにそれらしき建物が見えたのを活力にしてペダルに足の裏を押し付ける。
 高校も、卒業式はとっくに終わっているという話だ。だから校舎の中には一年生と二年生しかいない。その在校生が、もうじき日向の先輩になるのだ。
 どんな人たちだろう。あまり怖くなければいいと、先輩と呼べる存在が居なかった彼は期待に目を輝かせた。
 烏野高校は、坂を上った先にある。敷地面積は中学校の倍以上で、受験時に簡単に見ただけだが体育館はふたつあった。
 自転車通学をするなら、駐輪場の許可申請もしなければならない。合格発表の時に貰った案内に記されていた内容を振り返り、彼は残る距離を懸命に漕いだ。
 息を切らし、汗を流す。奥歯を噛み締め、丹田に力を込める。
 疲労を訴える足を鞭打ち、叱咤激励して戦意を高める。この坂を越えれば夢にまで見た大舞台だと鼓舞し、瞼の裏に目映く輝く体育館を描き出す。
 打ち鳴らされるメガホン、飛び交う歓声。ボールの弾む音、床と靴底が擦れあうスキール音。そして鼻をむずむずさせる、充満するエアーサロンパスの匂い。
「つ……いっ、たー!」
 あそこへ行く。必ずいく。
 その為の第一歩を、誰よりも早く刻み込む。
 宮城県立烏野高校、その門の前で、日向は前にも増して強くなった夢を高く掲げ上げた。
 汗だくのまま叫び、両手を頭上に伸ばして天を仰ぐ。達成感が胸を満たし、心は高揚して空も翔べそうだった。
「やだ、なにあの子。小学生?」
「えー、どうだろ。何してるのかな」
「うぐ……」
 そこに紛れ込んだひそひそ声に、途端彼は顔を青褪めさせて身を震わせた。
 まるで鋭い槍で心臓を貫かれた気分だった。
 紫色の唇を戦慄かせて振り向けば、丈の短いスカート姿の女子が立っていた。怪訝な顔をして日向を窺い、聞こえているとも知らずに勝手な想像を巡らせて、最後は声を響かせ笑い始めた。
「じゃあねー、ボク。早く帰って宿題しなよー」
「ぼっ……!」
 ひらひらと手を振って、ポニーテールの高校生は校舎の中に入っていった。休憩時間を利用して、外の店に買い物に出ていたのだろう。それを証拠に、続けて去っていった女子の手には開封前の菓子が握られていた。
 こんな時間に自転車で走り回っている子供、ということで、小学生と間違えられてしまったようだ。
 確かに背丈はバレーボールをするには致命的な高さしかないが、これでも一応、百六十センチは越えているのだ。馬鹿にされたのが悔しくて頬を膨らませて、彼は心外だと空を蹴り飛ばした。
 そして。
「うひゃ」
 サドルに跨ったまま利き足を伸ばしたものだから、勢いに引っ張られてバランスが崩れた。慌てて左足で地面を踏みしめて、日向は噴き出た汗を拭って息を吐いた。
 チャイムが鳴った。鐘の音は高い空に吸い込まれ、静かに消えていった。
「中学校と、ちょっと、違う」
 メロディーも、音階も、似ているようで異なっている。大昔にどこかで聞いた事がある気がするし、初めて耳にするリズムのような気もした。
 雪ヶ丘中学校ではないのだから当たり前なのに、不思議に思えてならない。背を伸ばして高い校舎を仰ぎ、彼は数回瞬きを繰り返した。
 本当は、こっそり中に忍び込めないかと考えていた。体育館に潜り込み、排球部の練習風景を覗いていこうと画策していた。
「でっかいなー……」
 だがこうしてここに立ってみると、お前はまだ相応しくないと言われているようだった。
 早く四月になれば良い。そうすれば堂々と胸を張り、本当の一歩を踏み出せる。
 萎縮しかけた心を奮い立たせ、日向は拳を作った。
 大きすぎる期待に、不安など感じている暇はなかった。絶対に楽しんでみせる。この場所で、この学校で、長年抱き続けてきた夢を実現してみせる。
「うっし。じゃあ、近道さーがそっ」
 学校に潜入するのは諦めて、彼はハンドルを掴んだ。車体をくるりとユーターンさせて、時計をチェックしてから坂の先に広がる景色に目を細める。
 下から駆け上ってくる風に、ふわりと前髪が巻き上げられた。
「いいな、ここ」
 その名前を知ったのは、小学生の頃。
 眼が釘付けになった背中には、大きな羽根が生えているようだった。
 あんな風に跳びたい。あんな風に翔んでみたい。
 瞳に焼きついた景色を鮮やかに蘇らせて、日向は微笑んだ。元気良く腰を捻って校舎に向き直り、今は沈黙している建物に小さく頭を下げてはにかむ。
「四月から、よろしく」
 あの頃から大好きだった。
 そしてきっと、絶対、間違いなく、確実に。
 今よりもっと、この学校が好きになる。
 予感がした。
 確信があった。
 日向翔陽の高校生活は、誰にも負けないくらいに目映く輝いたものになる。
「よーっし、いっくぞー!」
 高らかに吠えて、彼はブレーキを解放した。スピードを上げて坂道を駆け下り、サドルから腰を浮かせてペダルを踏み込む。
 騒ぐ声に、とある商店から店番の男が飛び出してきた。だが注意しようと口を開いた時にはもう、日向の姿は遥か遠くになっていた。
 はたきを手にがっくりしている男を他所に、緩くカーブした坂道を黒髪の若者が駆け上っていった。大粒の汗を流し、肩で息をしながら聳え立つ校舎を仰ぎ見てきつく唇を引き結ぶ。
 決意の込められた二種類の眼差しを受け止めて、烏野高校は雛鳥を擁くべく大きく翼を広げた。

2013/03/11 脱稿