阿蘭陀撫子

 楽しかった連休は、あっという間に終わってしまった。
 気がつけばカレンダーの赤い数字は通り過ぎ、黒文字に切り替わっていた。少しすれば土曜日だから、と自分を奮い立たせてはみたものの、ついてしまった寝坊癖はなかなか消えず、朝起きる苦労は半端なかった。
「ふぁ、あぁ……」
 今週、学校に行ったのはたったの二日だったに関わらず、予想以上に疲れてしまった。やっと迎えた週末はお陰で昼前までぐっすり熟睡で、その日最初の食事が昼食、なんていう状況だった。
 起きてからも眠気は完全に消えず、油断すれば欠伸が出る。大きく伸びをした彼の間抜け顔に、食器の片付けをしていた奈々が肩を竦めた。
「ツナ、ちょっと買い物に行って来てくれない?」
「えー?」
 エプロンをした母の言葉に、頭上に遣っていた腕を下ろした息子が途端に頬を膨らませた。不満の声を食堂に響かせるものの、彼に同情する目はひとつもない。
 突き刺さる冷たい視線に背中を丸め、綱吉は口を尖らせてリボーンを睨み返した。
「なんで」
「いいでしょ、それくらい。どうせ暇なんでしょう?」
「忙しい」
「お小遣いあげるから」
 咄嗟に言い返すが、用事が無いのは本当だ。家にいてもゴロゴロするだけで、宿題も当然一切手をつけていない。
 後から焦るのは目に見えているのに、行動を起こすのが億劫でならない。机に向かって座り、鞄から教科書を取り出す、その作業ひとつにとっても面倒臭さが先についた。
 だから買い物など、本来は頼まれてもしたくない。
「むう」
 リボーンから母に視線を戻し、綱吉は鼻を膨らませて唸った。
 尤も小遣いという響きは、非常に魅力的だった。ゴールデンウィークに散財した余波で、まだ今月の半分も終わっていないに関わらず、彼は既に金欠状態だった。
 百円、二百円など端金でしかないが、積み上げればそれなりの額になる。心が揺れた。
「……ちぇ。しょうがないな。なに?」
「うふふ。ありがとう」
 結局渋々承諾して、買って来るものを訊く。奈々は勝利の微笑を浮かべ、目を細めた。
 巧く口車に乗せられた感じがするが、気分転換にはなるだろう。この季節は天候も良く、暖かい。外出するにはもってこいだ。行き先がスーパーというのだけが、少々哀しいが。
 千円札一枚と、買って来るものを記したメモ用紙を受け取り、綱吉は家を出た。どこそこの店が特売だからと言われて、地図を思い浮かべながら道を進む。春の陽気に誘われた鳥が頭上を行き交い、楽しげに囀っていた。公園には子供達が集い、甲高い笑い声が高い空に吸い込まれていった。
「んー」
 買い物の手伝いは嫌だが、出歩くのは心地よい。自分の選択は間違っていなかったはずだと言い聞かせ、綱吉は買い物客でごった返す店で無事に用事を済ませ、帰路に着くべく横断歩道を渡った。
 ズボンのポケットに押し込んだ財布が少し重い。道路に引かれたゼブラを越えて歩道に戻った彼は、直後に点滅を始めた信号を振り返り、眩い陽射しに手を掲げた。
 陽射しを遮って目元に影を落とし、肩で息を整え、左手に握った荷物を膝で軽く蹴り飛ばす。
 箱型ティッシュ、五個入り。そして半透明の袋に入ったトイレットペーパーが、一ダース。確かに特売と言って過言ではない価格が設定され、挙げ句店のとても目立つ位置に積み上げられていたので、すこぶる探し易かった。
 ついでに言えば、争奪戦も凄かった。ぼんやりしていたら買いそびれてしまいそうで、慌てて必要個数抱えてレジに並んだが、あそこはさながら戦場だった。
 奈々はいつもあんなところで買い物をしているのかと思うと、尊敬の念が強まる。とてもではないが、真似できそうにない。
 おおよそ力仕事に向いているとは思えない体格なのに、彼女はあれで意外に力持ちだ。子供達の汚れた服を、毎日大量に洗濯しているし、買って来る食料品だって半端な量ではない。
 炊事、洗濯、掃除と、毎日やるとなれば大変だ。それなのに奈々は愚痴ひとつ零さず、子供達の為に頑張ってくれている。
「母さんって、凄いんだな」
 改めて考えて、しみじみと呟く。ぼんやりしていたら通行人に邪魔者扱いされてしまって、綱吉は自分の居場所を思い出して慌てて信号よりに避けた。
 後続に道を譲り、自分もゆっくりと歩き出す。日曜日の午後とあって、家族連れの姿がそこかしこに散見していた。
「なんか、やけに赤色が多いな」
 商店街は賑わい、所々で騒々しい。けれど決して不快な五月蝿さではなくて、心擽られるなにかがあった。
 穏やかでのんびりした光景を見るともなしに眺めていた綱吉は、普段目にする町並みとどこか違っている感じがして、小首を傾げた。
 視線を巡らせ、道の両側に軒を連ねる店舗を覗き込む。立ち寄ったスーパーでも、赤色を多用したディスプレイが沢山展示されていた気がする。
「今日って、なんかあったっけ」
 カレンダーには何も書かれていなかった。今日は数字が赤色に塗られただけの、ただの五月の第二日曜日。
 胸の奥底でチリチリするものがあるのに、肝心の正体が掴めない。トイレットペーパーを右手に持ち替えた綱吉は、渋い顔をして唇を噛み締めた。
 どうにもすっきりしなくて、悶々とする。口をヘの字に曲げた彼は、そう広くない歩道を右寄りに進んで、ふと目に留まった赤色に息を飲んだ。
「あ」
 思い出した。
 ついつい声に出てしまって、横を追い抜こうとしていた人に変な顔をされた。が、綱吉は気付きもせず、視界に入った鮮やかな赤色と、それに添えられた文字に見入った。
 母の日、だ。
「あー……」
 そこは花屋で、店頭にはこれを商機として逃す手はないと、鉢植えのカーネーションが大量に並べられていた。
 分かってしまえば簡単で、綱吉は肩を落として持っていた荷物で地面を擦った。
 五月の、二番目の日曜日。そういえばそんな記念日があったと、今の今まで完全に忘れていた事実に、彼は苦笑した。
 まさか奈々は、これを狙って綱吉に外出を強いたのか。幾らなんでも考えすぎかと、ちょっと惚けた性格をしている母の顔を思い浮かべ、綱吉は花屋に歩み寄った。
 大判のガラス窓の内側には、薔薇や百合といった花も飾られていた。既に花束になっているものもあれば、好きなように選べるようにと、花ごとに分けて並べられている。
 花屋など滅多に訪れる機会もなくて、綱吉は興味津々に中を覗きこんだ。
「うわ、たっか」
 そうして展示されていた深紅の薔薇の値段を見て、反射的に叫んでいた。
 花など、その辺に生えているものだと漠然と考えていた。タダ同然の感覚でいたので、予想の数倍する価格に顎が外れそうになった。
「ひぃえぇぇ……」
 大ぶりの百合の花も、結構なお値段がついている。ドラマや漫画で、愛の告白時に大量の薔薇の花束を差し出すシーンがあるが、実際にあれをやろうとしたら、簡単に万単位で飛んで行ってしまいそうだ。
 恐ろしい。腹が膨れるわけでもなしに、こんな高い花を気軽に買う人の気が知れない。
 頬を引き攣らせ、綱吉は小さく溜息をついた。一瞬、奈々の為に花束のひとつでも買って帰ってやろうかと思ったのだが、忘れることにする。とてもではないが、手が出ない。
 贈るならば見栄えするものが良いのに、イメージするものを作ってもらったら、所持金がどれだけあっても足りない。財布の残高を思い返し、彼は上唇を舐めた。
「ぬ、むぅ」
 だが気付いてしまった以上、何も買わずに帰るのも気が引けた。
 頼まれた用事はもう済んだ、あとは帰って荷物を彼女に引き渡すのみ。それだけでも彼女は、充分喜んでくれるはずだ。
「どうしよう」
 けれど、もし綱吉が花束ひとつでも追加して帰ったなら、彼女はもっと喜ぶかもしれない。
 問題は、資金面だ。財布の中には小銭が複数枚収まっているけれども、そのうちの半分以上が先ほどの買い物で得た釣銭だ。うち、何枚かは綱吉の懐に入る予定であるものの、だからといって此処で使って良いものではない。
 となれば、自分の本来の所持金範囲内で済ませなければいけない、という事だ。
「いくら、あったっけ」
 両手にぶら下げていた荷物を本格的に地面に下ろし、綱吉は空になった右手を腰に回した。財布を引き抜き、ファスナーを引いて軽く揺らす。硬い音を響かせた硬貨を薄明かりの中で数え、彼は落胆に肩を落とした。
 一円玉や五円玉を全部足しても、五百円にすら届かない。あまり沢山持ち歩いたら使ってしまうからと、持ち運ぶ金額を下げたばかりだったのを、今頃思い出した。
 これで買えるものは、あるだろうか。ファスナーを閉めて財布を握り締めた綱吉は、店の前に並べられた鉢植えを手前から順に眺め、溜息をついた。
「なんでこんなに高いのさ」
 折角人が買ってやろうとしているのに、なんという有様だろう。もうちょっと消費者に優しい価格設定をしてもらいたいと、彼は営業妨害甚だしく、店の前で地団太を踏んだ。
 買い物客が迷惑そうにしながら通り過ぎていく。衆目に晒されているのも忘れ、彼は白い煙を吐いて息巻いた。
「うぐぐぐぐ」
「君」
 店の入り口に立ち塞がっている彼には、店員も気付いていた。エプロンをした女性が困った顔をしているのは、綱吉の目にも入っている。
 もうちょっとまけてくれるよう頼もうか、どうするか。呻きながら悩む彼の肩を、後ろからトントン、と叩く人がいた。
 鉢植えの前で仁王立ちしていた綱吉が、背後から伸びた手をぞんざいに振り払った。が、男の手は懲りずにまた伸びて、綱吉の肩を掴んだ。
 これも払い除けようとしたけれど、強く握られてしまって果たせない。人が真剣に迷っているところを邪魔されて、綱吉は憤慨して目を吊り上げた。
「なんなんですか、もう!」
 怒鳴り声を上げて振り向き、存外に近い場所にあった相手の頭部にまず驚く。もうちょっとでぶつかるところで、慌てて首を竦めて避けた綱吉は、見えた容貌に二度吃驚した。
 ぽかん、と間抜けに開いた口が何の音も発せぬまま閉ざされる。険のある目つきで睨まれて、彼は背筋を戦慄かせた。
「ひっ……」
「営業妨害で通報があったけど、君の事?」
「へ? え、えぇえ?」
 吸い込んだ息が喉の引っかかり、巧く声が出せない。頬を痙攣させた綱吉を見下ろし、黒髪の青年は静かな顔で問うた。
 予想外の質問に頭の螺子が吹き飛んで、綱吉は視線を右往左往させた。知らぬ間に周囲には人垣が出来ていて、知らない顔が大勢、綱吉たちを遠巻きに眺めて    いるわけがなかった。
 人通りはいつもとなんら変わることなく、順調に流れていた。通りすがりにちらちら様子を窺っていく人はいたけれど、敢えて立ち止まっていく人は皆無だった。
 からかわれたのだと気付くのに三十秒近く掛かって、肩で息をした綱吉は、声を殺して笑っている青年を思い切り睨みつけた。
「ヒバリさん!」
 顔を真っ赤にして怒鳴るが、余計に笑われただけだった。腹を抱えている青年を前に歯軋りし、綱吉は大粒の瞳を歪めて首を振った。
 置いていたティッシュペーパーを蹴り飛ばしてしまって、鉢植えの方に倒れそうになった。寸前で気付いて慌てて両手を伸ばし、事故を未然に防いでホッと胸を撫で下ろす。
 恨めしげな目を隣に向けると、やっと笑い止んだ雲雀が目尻を擦って肩を上下させていた。
 襟と袖に白いラインが走った黒のポロシャツに、珍しくジーンズをあわせている。足元も、いつものローファーではなくて紐靴だった。きちんと手入れされているようで、爪先は殆ど汚れていない。
 制服姿を見慣れている所為で、変な感じがする。無意識に後退を図った綱吉は、今度はトイレットペーパーを蹴ってしまいそうになって、浮かせた踵を急ぎ下ろした。
 両方を一箇所に集めて改めて顔を上げると、雲雀は色とりどりの花が並ぶ店を眺めていた。
「ヒバリさん?」
「また買い物?」
「……です」
 一週間ほど前にも、町中で雲雀と遭遇した。その時も綱吉は、奈々に頼まれた買い物の帰り道だった。
 あの時ほど荷物は重くは無いが、サイズが大きいので嵩張る。箱ティッシュの角を押し、綱吉は頷いた。
「へえ」
「変ですか?」
「どうして?」
 感嘆の声が雲雀から洩れて、反射的に聞き返してしまう。上目遣いに見詰めていると、雲雀に質問で返された。
 そういう切り返しはずるい。答えに詰まって口を尖らせていると、彼はまた呵々と笑って喉を鳴らした。
 楽しそうにしている彼をねめつけて、綱吉は胸元を掻き回した。オレンジ色のシャツを皺だらけにして、悔し紛れに痛くない程度に彼の足を爪先で蹴る。衝撃に雲雀は目を瞬き、気の抜けた笑みを浮かべた。
「褒めてるのに」
 掠れるような声で呟いて、綱吉に手を伸ばす。今日も元気に跳ねている髪を乱雑に掻き回されて、綱吉は上からの圧力に負けて首を引っ込めた。
 そうは言われても、素直に額面通りに受け取れない。馬鹿にされているだけの気がしてならないのだが、言えば雲雀は手を引っ込めてしまうだろうから、綱吉は心の中で愚痴るだけに済ませた。
 雲雀に触られるのは好きだ。彼のさほど高くない体温が心地よいと知ったのは、此処最近の事だ。
「何を見てたの?」
 ぽんぽん、と二度軽く叩いて、雲雀が手を離す。行かせまいとしてか薄茶の髪が何本か彼の指に絡みつき、引っ張られた頭皮が痛みを覚えた。
 遠ざかる指先を見送って、綱吉は視線を右に流した。軒先に飾られた赤い花々に、彼の表情は自然と和らいでいった。
 朗らかな陽射しを思わせる微笑に、雲雀は続けようとしていた言葉を見失い、空になった手を握り締めた。
「今日って、母の日なんですよね」
 感慨深く呟かれた言葉を耳にして、ハッと我に返る。相槌を打つタイミングを逸してしまって沈黙が流れたが、綱吉は深く気にする様子もなく、肩を竦めて目を細めた。
 足元に隙間なく並べられた、沢山のカーネーション。八重の花びらは鮮やかな赤色もあれば、儚いピンク色のものまで多種多様だった。
 鉢植えは蕾が多く、咲いているのは疎らだった。対して切り売りのものは、どれも見事に咲き誇っていた。
 緩慢に頷いて場を濁し、雲雀は綱吉の横顔を盗み見た。店先にしゃがみ込んで多数の鉢植えを観察し、どれが良いかを物色している。買うのか、と訊けば、妙な間があった。
「……へへ」
 明確な返答は得られない。花に向けられる眼差しが真剣な分、気になった。
 難しい顔をしている雲雀を見上げ、彼は肩を竦めた。汚れてもいない膝を叩いて埃を払い、ゆっくりと起き上がる。
「買いたいんですけど、ほら、俺って」
「ああ、お金ないんだ?」
「ぐ」
 万年金欠なのを早々に見抜かれて指摘され、綱吉は両手で胸を押さえ込んだ。
 本当のことなのに、グサッと来た。心臓に氷の刃を突きつけられた気分で、軽く落ち込んだ。
 陰鬱な表情で俯いてしまった綱吉に苦笑し、雲雀は顎をなぞるように撫でた。忙しそうにしている店員をガラス越しに見てから、鉢植えの向こう側にある小さなバケツに目を留める。
 最初はブーケかと思ったが、そうではない。
「あれなら、君にも買えるんじゃない?」
 鉢植えよりもゼロがひとつ少ない値札がその横に添えられていて、雲雀は項垂れている綱吉を肘で小突いた。
 踊るような声に促され、綱吉は目を凝らした。零れ落ちそうな琥珀色が彼の指し示す先に向けられて、直後、きらきらとした輝きを取り戻した。
 バケツの中にあったもの、それは一輪ずつ透明なフィルムに包まれた、カーネーションの花束だった。
 鉢植えの間に設けられた通路を進み、近付く。軒下に入って陽射しが限られて薄暗さが増したが、綱吉の目にはバケツに詰め込まれたそれらがとても眩しく見えた。
 一輪ずつ丁寧に梱包されている。根元にはリボンが結び付けられて、彩りを添えていた。
「う、うぅん。どうしよう」
 試しに一本引き抜いて、顔の高さで掲げ持つ。茎の先端から水滴が垂れて、綱吉のスニーカーに落ちた。
 迷ったのは、どれにするか、ではない。バケツの中に大量に押し込まれているところを見るのと、一本だけを見るのとでは、印象が大きく違ったからだ。
 正直な感想、ややみすぼらしい。
 鉢植えの豪勢なカーネーションを長く見ていたからか、一輪ぽっきりというのは随分寂しい印象を受けた。
「予算は?」
「えと、……あんまり」
 傷つけぬよう、慎重に花をバケツに戻して言葉を返す。気落ちしている綱吉の項を見下ろし、雲雀は色とりどりのカーネーションに嘆息した。
 贅沢を言えばキリがない、綱吉もそれは分かっている。が、どうせ贈るのであれば見栄え良くしたいではないか。
 下唇を突き出して拗ねるが、そうしたところで物事が好転するわけではない。結局此処に落ち着くしかないのかと、綱吉は赤やピンク、白と織り交ぜられたバケツを見詰めた。
「鉢植えが欲しいって言われたの?」
「いえ」
 自分の心に折り合いをつけようとしている彼の集中を邪魔して、雲雀が口を挟む。綱吉は瞬きひとつで視線を動かし、傍らに佇む黒ずくめの青年を仰いだ。
 緩く首を振り、花を包んでいるフィルムの縁を指で弾く。店先に置きっ放しのティッシュが無事かを確かめ、直ぐに焦点を手元に戻し、頬を緩めた。
「俺が、贈りたいだけ」
 奈々には何も言われていない、これは本当だ。
 そもそも、彼女はあまり欲しがらない。いつも子供達に与えるばかりで。
 毎日彼女から多くのものを貰っているのに、綱吉はそれを当たり前だと勝手に思い込んでいた。彼女がいなければ、日常生活は途端に立ち行かなくなってしまう。それにも拘らず、感謝の言葉ひとつかけた例が無いと気付いて、彼は愕然とした。
 ぽつりと呟いた彼の言葉に一瞬だけ瞠目し、雲雀は直ぐに表情を和らげた。
「じゃあ、いいんじゃない?」
 直ぐに俯きたがる蜂蜜色の頭を撫で、クシャリと掻き回す。遠慮の無い彼の仕草に、綱吉は頬を膨らませた。
「いいのかな」
 たった一輪しかない花束を贈って、本当に彼女は喜んでくれるのだろうか。もっと倹約生活を送ればよかったと後悔しても遅くて、彼は雲雀に寄りかかるように立ち、蚊の泣くような声で言った。
 宙を彷徨った視線が赤いカーネーションに辿り着く。これを持って微笑んでいる奈々の姿は、なかなか浮かんでこなかった。
「いいと思うよ、僕は」
「ヒバリさん」
「そうやって迷って、悩んでいる時間だけ、自分の事を考えてくれたんだって思えるから。値段は気にしない」
 大切なのはそこに込められた想いで、見た目の派手さや豪華さではない。言外にそう教えられて、綱吉は目を見開いた後、頬を赤く染めて顔を逸らした。
 母の日の話をしているのに、過ぎたばかりの誰かの誕生日の話をされている気になった。恥ずかしくて照れ臭くて、この瞬間だけは、雲雀の顔をまともに見返せなかった。
「そういうものですか?」
「うん」
 恐る恐る問えば、間髪入れずに返事があった。至極明快な答えに泣きそうになって、綱吉は熱を持った目頭を押さえた。
 そっぽ向いてしまった彼に苦笑し、雲雀は赤が中心のカーネーションの群生に顔を向けた。ピンクや斑模様もある中で、真っ白い花びらのそれは際立って目立っていた。
 つい手を伸ばしそうになって、寸前で踏み止まる。衣擦れの音を聞いた綱吉が振り返り、どこか呆然としている雲雀をぼんやり見上げた。
「ヒバリさん?」
「どれにするの?」
 中途半端なところで停止していた手を結局前に伸ばし、咲き方が綺麗なものを選んで引っ張り上げる。重なり合う花弁を向けられて、綱吉は思案気味に眉根を寄せた。
 上唇を舐め、真一文字に引き結ぶ。真剣に考え始めた彼に場所を譲り、雲雀はカーネーションから手を放した。
 後退して店先に戻り、綱吉が置き去りにしていた荷物を確保する。そう高価でも、貴重なものでもないが、盗みを働こうとする不届き物はどこにでもいるものだ。
 彼の無言の気遣いが嬉しくて、綱吉は胸がこそばゆくなった。頬を緩めてだらしなく微笑み、蜜を求める蝶の如く、花の上に手を泳がせる。
「赤、か……ピンク」
 財布の残高を頭の片隅に置いて、念入りに選定する。だがどれも同じに見えて、彼は結局、一番色が鮮やかで大振りのものに決めてバケツから引っこ抜いた。そしてもう一本、こちらは最初から決めていた色を取り出した。
 店の中に入って会計を済ませ、外で待っていてくれた雲雀の元へ舞い戻る。両手を後ろに回した綱吉に相好を崩し、雲雀は足元に置いていた荷物を持ち上げた。
 渡そうとする彼に待ってくれるよう合図を送り、綱吉は背中に隠していた右手を前に伸ばした。
 ピンク色のリボンが結ばれたそれは、白いカーネーションだった。
「……沢田?」
「ヒバリさんの、お母さんに」
 綱吉が奈々に花を贈る話は出たけれど、雲雀の話は一切出てこなかった。彼のことだから、どうせ一輪とて贈らずに終わらせるに違いない。
 折角の母の日なのだから、彼も日頃の感謝を込めて贈ればいいのに。無邪気な綱吉の言葉に慄然として、雲雀は息を飲んだ。
「君は、……知ってたの?」
「はい?」
 声が震えるのを止められず、トーンが低くなる。温い汗をこめかみに流した彼の動揺を知らず、綱吉はきょとんと目を丸くした。
 その表情が演技でないのならば、綱吉は何も知らないまま、この色を選んだのだ。恐らくは雲雀が、普段からモノトーンカラーばかり身につけているから。
 赤い花を持ち歩くよりは、白い花の方が似合う。きっと、その程度の理由に違いない。
 四肢の強張りを解き、雲雀は静かに深呼吸した。胸を撫で、咥内に溢れた唾を飲み込み、心を鎮める。
「金欠なんじゃないの?」
「ですよ。でも、これは無駄遣いじゃないから」
 だから良いのだと、綱吉はあっけらかんと言った。
 手持ちの額でぎりぎり二輪買えたのは幸運だった。実は消費税分が心配だったのだと告白して、彼は小さく舌を出した。
 ふたりの間で白い花が揺れている。雲雀は非常にゆっくりとした動きで手を伸ばし、細い茎を折らぬよう慎重に、根元に近い部分を掴んだ。
 一瞬だけ肌と肌が触れ合って、交錯した熱に痺れが生じた。静電気が走ったような衝撃にふたりして驚き、綱吉はパッと手を放して飛びずさった。
 鉢植えを蹴倒しかけて、ビクついて凍りつく。ドドド、と怒涛のように駆け出した心臓に背筋が粟立ち、綱吉は危うく奈々に贈るカーネーションを握り潰してしまうところだった。
 瞬時に真っ赤になった彼に惚けた顔を向け、ややしてから雲雀は目を細めた。
「喜ぶと思うよ」
「ホントに?」
「うん」
 リボンが結ばれた白いカーネーションに淡く微笑み、瞼を閉ざす。おぼろげな輪郭を脳裏に描き出し、彼は琥珀を輝かせている綱吉の姿をそこに重ね合わせた。
 返答を聞いて嬉しそうにしている本物の彼を視界の真ん中に据えて、雲雀は空を仰いだ。
「いつか、会わせてくださいね」
 雲雀の両親がどんな人なのか、さっぱり想像がつかない。悪戯っぽく言った綱吉に焦点を戻して頷き、雲雀は可憐に咲き誇る花を揺らした。
「そうだね。いつか」
 その時が来たら。
 頷いて、彼は笑った。
「連れて行ってあげる」

2010/5/5 脱稿