巫山戯

 道を歩く時、或いは学校で時間を潰す時。それまで全く気にかけてもこなかった鳥の囀りに意識を向けるようになったのは、いつからだろう。
 知らない間に増えていた癖のひとつに照れ笑いを浮かべ、綱吉はだらしなく緩んだ頬を軽く叩いた。
 町中でこんな顔をして笑っていたら、周囲から変な目で見られてしまう。改めて表情を引き締めた彼は、気忙しく道を行き交う人波を眺め、右手にぶら下げた布袋を揺らした。
 空色と黄緑色を多用したエコバッグは、見る人に爽やかな印象を与えるのに役立っていた。長方形の口からは青ネギが一束首を伸ばし、興味津々に目の前の景色を観察していた。
 中身はずっしりと重く、片腕だけで持つのは辛い。かといって肩に担げるほど持ち手は長くなくて、彼は仕方なく時折左右交互に荷物を持ち替え、騙しだましに道を急いだ。
 連休の真っ只中とあって、昼間でも交通量は多い。車もさることながら、小学生が自転車を乗り回す姿が各所で目に付いた。
 スーパーも賑わっていた。ランボくらいの小さな子が、あろう事か隠れん坊をしてあちこち走り回っており、油断していたらタックルを食らって、もう少しでスッ転ぶところだった。
 幸いにも大事に至らなかったが、親は注意するなりして欲しい。もっとも、綱吉もあの暴れ牛ならぬランボを制御しきれていないから、あまり大きな声で文句が言えないのが辛いところだ。
「おも、った」
 また捕まってしまった赤信号を見上げ、彼は呻くように呟き、肩を落とした。
 エコバッグを身体の前で、両手でぶら下げて肩への負担を均等にする。自宅までの距離を想像して、気が遠くなった。
「言うんじゃなかったかなぁ」
 排気ガスを撒き散らして走っていく車の列を眺め、ボソッと呟く。声は騒音に掻き消され、周囲の人々の耳には届かなかった。
 五月に入り、既に二日が過ぎた。
 今日は三日目で、連休が終わるのは明後日。その最終日たる五月五日のこどもの日までに目標額を上回れなければ、綱吉の密やかな計画は計画段階で頓挫してしまう。今から贈り物の選定をやり直している暇は無い。
 絶対にあれを手に入れ、贈るのだ。その為にと、普段はやらない奈々の手伝いを買って出たところまではいい。予想外だったのは、彼女から依頼された買い物の量だ。
 珍しくやる気を出した彼を褒め称えた奈々は、この好機を逃すものかと言わんばかりに次々と品数を増やし、結果こんなことになってしまった。手元のエコバッグを見下ろして溜息を零し、綱吉はようやく切り替わった信号に下唇を噛んだ。
 待ちかねていた人たちに背中を押され、ゆっくりと横断歩道を渡る。歩く度に買い物袋が揺れて、中に押し込んだものがギシギシと不協和音を奏でた。
 食器用洗剤に、洗濯糊に、シャンプー、リンス、ハンドソープ詰め替え用、等など。そこに食品が何点か加わり、袋は今や未曾有の質量と化していた。
 リュックサックだったならもっと楽だっただろうに。どうしてこんなにも持ち運びし辛いエコバッグを選んだのかと、小一時間前の自分の判断を悔やみながら、彼は車道を渡り終え、歩道に舞い戻った。
 駅前の交差点を右に曲がり、商店街の中を突き抜けて出口を目指す。その途中で文房具屋に立ち寄って、頼まれていた最後の買い物を済ませる。
 真新しいクレヨンのケースを落ちないように袋に押し込み、綱吉は疲れた顔をして、ズボンのポケットから折り畳んだ紙切れを引き抜いた。
 右手で広げ、顔の前に翳す。書かれている単語を上から順番に読み取り、左手にぶら下げた若緑色の手提げ鞄にも逐一目を向け、彼は最後に盛大な溜息を零した。
「終わったぁ……」
 これで依頼品は全部のはずだ。
 何度も開閉した影響で皺だらけのメモ用紙を握り潰し、がっくり肩を落として背中を丸める。本当なら両手を挙げて喜びを表現したいところだが、荷物が重すぎて出来なかった。
 双肩にずっしり来る大量の荷物を恨めしげに睨み、涙を堪えて鼻を啜る。奥歯を噛み締めて腹に力を込めた彼は、気持ちを切り替えて足元に置いた袋を抱え上げた。
「よいしょ、っと」
 曲げた膝を伸ばす瞬間に右にふらつき、倒れそうになったけれど、どうにか踏み止まる。ここで転びでもしたら大惨事だと、彼は顔の前を往復する青ネギを見詰め、頭がはみ出ているクレヨンのケースに苦笑を漏らした。
 予定の無い休日は昼前まで布団に引き篭もり、起きた後もグダグダと部屋でひとり過ごすのが、これまでの綱吉の日常だった。
 ところが今回ばかりはそうも言っていられない事情があった。見返りを要求しての手伝いだから、素直に褒められたものではないけれど、少なくともここ数日の彼は積極的に奈々の手伝いに駆け回っていた。
 対価として幾ばくかの賃金を求めての、お手伝い。だからこその、この量なのだろう。ずっしりと重い荷物に何度目か知れない嘆息を零し、綱吉は穏やかに照る日差しに目を向けた。
 足元に伸びる影を追いかけ、段々と人通りが疎らになっていく商店街をゆっくりと、されど着実に進む。あと三ヶ月もすればアスファルトは焦げ付くような熱を持つようになる筈で、想像しただけで首の後ろに汗が滲んだ。
「でもその前に、明後日だ、明後日」
 夏の計画に思いを馳せるより、目の前に迫った記念日を無事に乗り越えるのが先だ。商店街の出口を意味する大きなゲートを見上げ、綱吉は鞄を抱えたまま右手を強く握り締めた。
 拳を作って己を奮い立たせ、鼻息荒く決意を述べる。視線はちらりと左に逸れて、小ぢんまりとした雑貨屋の看板を射た。
 明後日の五月五日までに、彼はどうしてもあと何千円かを手に入れなければいけなかった。
 無駄遣いをしないと先月の頭から心に誓っていたのに、結局月末に残った額は微々たるものだった。つい先日、今月分の小遣いを新規で手に入れたけれど、これを全部使っても、残念ながら希望総額に届かない。
 足りない分を補う目的で手伝いを申し出たが、果たしてこの短期間でどれだけ挽回できるだろう。
 どうして自分は、もっと計画的に物事を運べないのか。この浪費癖をどうにかしないと、クリスマス前にも大慌てすることになりそうだ。
「でも、やるっきゃないか」
 自分でこうすると決めたのだから、撤回は絶対にしない。力強く頷いて気合いを入れ直し、彼は道を区切っている商店街のゲートを潜り抜けた。
 自宅までの経路は何通りかあるけれど、その中でも最短で辿り着ける順路を選択して、爪先を向ける。道の左右には一戸建て住宅が軒を連ね、陽気に誘われた小鳥が電線の上で寛いでいる姿が見られた。
 真ん丸とした体躯に、茶色の羽。雀だ。
「へへ」
 二羽が仲良く並んで毛繕いしている。楽しそうに囀る声に胸がほこほこして、綱吉は首を竦めて笑みを零した。
 少し前までは雀などに興味はなくて、視界に入ってもさほど気に掛けることはなかった。それなのに今は、たったひとつの理由から、その愛らしい姿をわざわざ探してしまうくらいになった。
 この鳥の名前を苗字の中に持つ人を思い浮かべ、綱吉は胸に抱えた荷物を軽く揺すった。
 中身が落ちないように注意しながら体勢を整え、足を止めて真上の光景に見入る。あの二羽はつがいだろうか。それとも、親子だろうか。
 澄み渡る青空にぽっかりと白い雲が浮かび、悠々自適に青いキャンパスを流れて行く。仲良さそうにしている雀と一緒くたに見詰め、彼は目尻を下げた。
「くも、すずめ」
 声に出して呟き、荷物を抱き締める。
「ヒバリさん」
 このふたつから連想される、この世でたったひとりの人。呟いた瞬間訳もなく恥ずかしくなって、綱吉は抱えた荷物に顔を押し付けた。
 挙動不審な彼の姿を目撃した人が少なかったのは、幸いだったと言わざるを得まい。往来のど真ん中に突っ立った彼に警告を発し、徐行中の車がクラクションを鳴らした。
「うわ、と」
 慌てて飛び退き、道の端に寄って避ける。もう少しで遠い世界に旅立ってしまうところだったと、綱吉は駐車場の開けた入り口で冷や汗を流した。
 そう思った矢先、今度は後ろから警笛を鳴らされた。間近から響いた高音に心臓が飛び出そうになって、彼は蟹歩きで右に逃げ、巨大な鉄の塊に道を譲った。
 轟音をあげて去っていく乗用車を見送り、ホッと胸を撫で下ろす。もう後ろの駐車場から何も出てこないのを確かめて汗を拭い、綱吉は力を入れすぎて歪んでしまった買い物袋の表面を撫でた。
 卵のような割れ易いものは入っていない。ジャガイモの凹凸が布越しに感じられて、今夜の夕食を想像したら涎が出た。
「マッシュポテトか、コロッケかな。うーん、なんだろ」
 なんであれ、奈々が作ったものはどれも美味しい。食べ盛りの成長期真っ直中の彼は咥内に溢れた唾を飲み、もうちょっとでぶつかるところに聳えていた赤い箱体に目を向けた。
 昼間から煌々と灯るライトが眩しいそれは、飲料の自動販売機だ。
 斜め上に視線を転じれば、電線にいた雀の姿はもうなかった。クラクションに驚いて逃げてしまったのだと想像して、綱吉は落胆に肩を落とし、首を振った。
 改めて自動販売機を振り返り、展示されている商品を右から順に眺める。コーヒー、コーラに清涼飲料水まで、並べられた種類は多岐に渡った。
 そして値段が、通常の自動販売機より若干だけれど、安かった。
「喉渇いたな」
 見ているうちにふとそんな事を考えて、ほぼ同時に声に出ていた。実際はさほど渇いていなかったものの、他所で買うよりも僅かながら得だと言われたら、途端に欲しくなった。
 こういう考え方をしているから貯蓄できないのだと思うのだが、本能を刺激する欲求はどうしても抑え切れない。
「うぐ……」
 財布の残額には余裕がある。ただその大半は、母から預かって来た買い物の代金だ。釣銭の一部が綱吉の懐に入る約束で、此処で使ってしまったら手元に残る額が目減りしてしまう。
 空を泳いだ指がシャツを擦る感触にドキリとして、寸前で思い留まる。渋い顔をして呻き、綱吉は恨めしげに自動販売機を睨んだ。
 どうしてこんなところにあるのだろう。目に入らない場所に置いてくれていたなら、こんな風に迷うこともなかったのに。
 責任を全部他人に押し付けて、悔し紛れに蹴り飛ばす。もっともそれしきの力で倒れるわけがなくて、逆に綱吉の足が痛んだだけだった。
「む、ぬぅ」
 歯軋りして唸り、鼻を膨らませても、相手は無機物だ。綱吉が怒ろうが、拗ねようが、一切関知しない。澄まし顔でそっぽを向き続ける自動販売機相手に何をやっているのかと思うが、腹立たしくてならず、綱吉は地団太を踏んだ。
 ひとり憤慨して暴れている彼を、多くの人は遠巻きに眺め、係わり合いにならぬよう何も言わずに去っていく。左方面から近付いて来た団体も、大半が道端の綱吉に気を向けず、ぞろぞろと通り過ぎていこうとした。
 ただ、たったひとり、先頭を歩いていた青年だけが彼の存在を知り、歩みを止めた。
 急に前を塞がれて、後続の人間がぶつかりそうになって慌てて左右に避けた。見るからに鬱陶しい黒ずくめの塊が道に広がって、何も起きていないのに関わらず、通行人が何故か悲鳴を上げた。
 白昼に響き渡った甲高い声にはっとして、綱吉も目を見開いた。住宅地の一本道を占領している集団に背筋を粟立て、顔を引き攣らせる。
「委員長」
「行って」
 頬を強張らせた彼を他所に、顎が二つに割れたリーゼントの男が声を張り上げた。
 良く響く低音が奏でた呼びかけに、一旦停止していた綱吉の思考もが動き出した。瞬きを連発させて、黒の中に咲く凛とした立ち姿を探り当てる。
 全身が慄き、鳥肌が立った。
「うぁ」
 咄嗟に口から出た変な声に吃驚して、慌てて唇を噛み締める。雲雀の短い命令に首肯し、長ランの集団はまたぞろ歩き出した。
 副委員長の草壁を先頭に、同じ服装をした並盛中学校風紀委員の面々が駅方面に向かって歩いて行く。繁華街の見回りの時間なのだろうが、その行軍に遭遇したのは初めてだった。
 いきなり過ぎて心臓に悪い。滲み出た脂汗を拭い、綱吉は奥歯をカチリと噛み鳴らした。
 黒一色の嵐はあっという間に過ぎ去って、後にはたったひとりだけが残された。委員の殆どが強面顔のリーゼントヘアである中、唯一黒髪を額に垂らし、学生服を肩に羽織った青年が。
 中身のない袖が当て所なく揺れて、緋色が視界の片隅をちらつく。腕章に記された二文字を読むまでもなく、綱吉は彼が誰であるかを熟知していた。
「ヒバリさん」
 掠れる声で名を紡ぎ、息を飲む。こんな偶然があって良いものかどうか、判断に困った。
「散歩?」
「え? え、あ、ぃえっと」
 距離を置いたまま問われ、綱吉は返答に窮して声を上擦らせた。自然と頬が赤くなるのを止められず、瞳を泳がせて腕の中のものを抱き締める。
 圧力に負けた一部が袋の口から顔を出し、苦しそうに前後に揺れた。クレヨンの箱がぴょこん、と半分近く飛び出して、色とりどりのイラストが彼の視界を邪魔した。
 慌てて拘束を緩めて鞄を下ろし、零れ落ちそうになっていたものを中に押し戻す。忙しい綱吉の動きを見守り、雲雀は口をヘの字に曲げて小首を傾げた。
「沢田?」
 問う声を無視して持っていたものを地面に置き、倒れないよう左手で支えながら、右手で中身の整理を。青ネギが草臥れて真ん中で折れてしまっており、先ほどまではあんなに元気だったのが、今はがっくり肩を落として項垂れていた。
 こんな事では奈々に怒られる。ジャガイモが無事かどうかを手早く調べた綱吉は、歩み寄る雲雀の存在も一時期忘れ、上唇を舐めた。
「良かった」
「なに、それ」
 ネギ以外の食料品に異常が無いのを確認し、胸を撫で下ろす。額の汗を拭って一息ついた彼に影を落とし、雲雀が上から鞄を覗き込んで言った。
 至近距離から響いた声にドキッとして、咄嗟に悲鳴をあげそうになったのを堪え、綱吉は仰け反った。
「わわっ」
 膝を軽く曲げたままたたらを踏み、倒れそうになったところで振り回した手を雲雀に引っ張られた。それでどうにかバランスを取り戻せて、みっともなく駐車場に倒れこむのだけは回避できた。
 軽く引き寄せられて、額が雲雀の右肩に当たる。跳ね返ったところで首を上向けて、陽射しを横から浴びる彼の姿に胸が高鳴った。
 緊張をありありと表に出して、唇を戦慄かせる。赤い顔をして人を凝視してくる綱吉に相好を崩し、雲雀は握っていた手を離して無防備な小鼻を小突いた。
「変な顔」
「あいた」
 茶化して笑い、距離を取る。綱吉は打たれた箇所を左手で庇い、右足に寄りかかって傾いていたエコバッグを起こした。
 片手で持ち上げればずっしり重く、膝の高さまでもいかない。急に重みが増した気がして両手で持ち直すと、下向いた雲雀がクレヨンの箱に気付いて肩を竦めた。
 散歩ではなかったようだと自分で結論付けて、自由になった両手をスラックスのポケットへ押し込む。
「買い物?」
「えっと、……はい」
「家の?」
「です」
 折れ曲がってしまったネギや、袋の口から見え隠れする品々から、綱吉個人の買い物ではないのはすぐに予想がついた。改めて訊かれて綱吉は立て続けに頷き、決まりが悪い顔をして頬を掻いた。
「そう。手伝い?」
「……の、つもりです」
 重ねて聞かれ、自信なさげに頷いて返す。その曖昧な返答を怪訝がり、雲雀は切れ長の目を細めた。
 眉間に浅く刻まれた皺を見て、綱吉は誤魔化しに小さく舌を出した。
 確かに家の手伝いであるのには違いないが、無給ではない。対価を要求していると知れたら、彼に軽蔑されそうで怖かった。それに、何故こうまでして臨時収入を追い求めているのか、理由を悟られたくなかった。
「ふぅん」
 明快な回答を得られそうにないと察し、雲雀は緩慢に相槌を打った。ポケットから両手を引き抜き、もじもじしている少年を見下ろす。薄茶色の髪の毛を綿毛の如く揺らし、綱吉は居心地悪そうに身を捩った。
 上目遣いにちらちらと人の顔を盗み見ては、落ち着きなく腰をくねらせている。顔は林檎のように赤く色付き、琥珀に艶めく瞳は甘い蜂蜜を思わせた。
 時と場所も弁えずに齧り付きたい欲望に駆られ、雲雀は生唾を飲んで口元の笑みを手で覆い隠した。
「ヒバリさんは、ええっと」
「うん。巡回」
「良かったんですか?」
「構わないよ。どうせ、すぐ追いつける」
 もう影も形も残っていない風紀委員の姿を追い、雲雀は道の続く先に顔を向けた。素っ気無い物言いから、彼がいずれこの場を去ってしまう雰囲気が感じられて、綱吉は無性に哀しく、切なくなった。
 連休の只中でこうやって逢えただけでも幸運だというのに、それ以上を強請るのは我が儘すぎる。分かっていながら思うのは止められず、彼は俯き、爪先でアスファルトの大地を蹴った。
 休みが終われば、学校で幾らでも会える。それに明後日も、予定通りに事が運びさえすれば、彼の傍に行ける。
 だから此処はぐっと我慢して、自分も早く家に帰ろう。のろのろしていたら、折角の小遣い稼ぎのチャンスを逸してしまいかねない。
 懸命に考え、言い聞かせるのに、黒色の大地に靴底が張り付いて剥がれない。肩を丸めて小さくなった少年を見詰め、雲雀は傍らに鎮座する物言わぬ機械を仰いだ。
 下向いている綱吉は、彼の表情の変化に気付かない。思案気味に眉を寄せた雲雀は小さく二度頷き、右中指の爪を浅く噛んだ。
 買い物帰りの道中、綱吉が此処で何をしていたか。駐車場には用が無いはずなので、この自動販売機が目的だったのだろう。ただ、綱吉の荷物の中に飲料は見当たらなかった。
 彼がものぐさで、怠け者なのは雲雀も承知していた。綱吉が家の買い物を手伝うなど、余程の事情がなければありえない。
 ところが、現実はどうだろう。彼は大量の荷物を抱え、家路を急いでいた。
「風紀委員、忙しい、ですか?」
 恐る恐る声を上げた綱吉に視線を戻し、雲雀は肩の力を抜いた。
「そうだね。連休中だからと気が緩んで、風紀を乱す輩が増えてる」
 どこか呆れ混じりに呟いた彼に苦笑を浮かべ、綱吉は袋の表面をなぞった。こんなところでモタモタしている暇はないのだけれど、どうにも離れ難い。雲雀から切り出して来るまでは構わなかろうと自分に言い訳して、綱吉は目を細めた。
 艶めいた琥珀の柔らかな眼差しを受け止め、雲雀は肩を引き、羽織った学生服を揺らした。
「君は?」
「え?」
「連休、どうだった?」
 話を振られ、綱吉は素っ頓狂な声をあげた。後から言葉を付け足されてやっと質問を理解し、嗚呼と頷いてから渋い顔をする。
 獄寺達と遊びに行った以外は、ずっと家にいた。窓拭きの手伝いで小銭を稼いだ後は、子供達の遊び相手で時間を潰して一日が終わった。他には、リボーンに言われて宿題を片付けて、部屋を掃除して。
 有意義に過ごしたとは言い難い。さして面白い内容でもないので、事細かに伝えるのも憚られた。
 第一、何故こうも家の用事に躍起になっているのか。雲雀にだけは気付かれたくなくて、綱吉は口を噤んだ。
 疲れを訴える腕を叱咤して荷物を抱え、爪先でアスファルトを擦る。これが地面だったなら、とっくに穴が開いていただろう。
「まだ終わってない、し」
 ゴールデンウィークはあと二日残っている。総括するにはまだ早いと言い訳して、綱吉は答えを濁した。
 楽しい連休だったと言えるかどうかは、明後日の結果如何にかかっている。目標額に到達できれば間違いなく良い休日だったと言えるが、そうならなかった場合は、悲惨だ。
 想像してゾッとして、綱吉は無意識に唇を噛み締めた。
 ちくりと刺さる痛みを堪え、雲雀の胸元ばかりを見詰めて膝をぶつけ合わせる。穏やかな日差しも浴び続ければ暑くて、背中に滲む汗の不快感を嫌い、彼は首を振った。
 稲穂の如く揺れる蜂蜜色の毛先を眺め、雲雀は笑みを噛み殺した。
 面倒臭がりの彼が、どういう理由で家の仕事を手伝っているのか。本人がどれだけ必死に隠そうとしたところで、想像するのは容易い。明後日の為の資金集めに違いなく、金額は別にして、彼が自分の為に何かを用意立てようとしてくれているのが、単純に嬉しかった。
 胸の裡から溢れ出る淡い感情を押し留め、雲雀は深呼吸を二度繰り返した。
 気を緩めると勝手に顔が綻んでしまって、彼は意識して表情を引き締め、喉仏を撫でた。
 その手を返し、真っ直ぐ伸ばす。迫り来る細長い影に綱吉は小首を傾げた。
「わふっ」
「偉い、えらい」
「んもう、子ども扱いしないでください」
 淡々と、棒読みで褒めてやりながら頭を掻き回す。跳ねている髪の毛を押し潰すように力を加えると、膝を曲げてクッションにした綱吉が嫌がって身を捩った。
 そう歳も違わない相手に言われても、ちっとも嬉しくない。逆に馬鹿にされているようで、すこぶる気分が悪かった。
 乱暴な手から逃げ、綱吉は駐車場側に入って身構えた。そんな彼を笑い飛ばし、雲雀は空っぽになった手を後ろポケットに伸ばした。
 中から薄手の財布を引き抜き、小銭を一枚取り出して右手で握りしめる。銀色の光を放つそれに警戒しつつも興味を抱き、綱吉は彼の動向を注意深く見守った。
 雲雀は突き刺さる視線を感じながら自動販売機の前に移動し、利き手に持った硬貨を機械へと滑らせた。
 一斉にランプが点り、どれでも好きなものを選べと居丈高に命令を下す。生意気なマシン相手に怒っても楽しくなくて、雲雀は素直に指を伸ばし、右から三番目のボタンを押した。
 直後にガコン、と音がして、綱吉は背筋を伸ばした。
「ヒバリさん?」
「頑張ってる君に、ご褒美」
 腰を屈めた彼が自動販売機から取り出したのは、スポーツドリンクだった。
 青と白をメインカラーにした缶を顔の前で揺らされて、綱吉が目を瞬く。無意識に唇が開閉して、長らく忘れていた渇きが思い出された。
 唾を飲み、瞳で缶の行方を追いかける。両手が塞がっているので自由が利かない綱吉の為を思ってだろう、雲雀は意味深に微笑むと、右手でプルタブを押し上げた。
 期待の眼差しを浴びせられ、雲雀は緩慢に笑んだ。微かに水の匂いを漂わせる細長い缶を揺らし、見せびらかすように高い位置に掲げ持つ。
「ヒバリさん」
 急かす声で呼び、綱吉は一歩前に出た。
 どうして喉が渇いているとバレたのかは分からないが、ここで彼が飲み物を与えてくれるのであれば、まさに濡れ手で粟だ。興奮に頬を染め、綱吉はキラキラと瞳を輝かせて雲雀を見詰めた。
 胸に抱えた鞄を少しずつ下ろし、片手を自由にする準備を着々と整え行く彼に苦笑して、雲雀はやおら、手にした缶を傾けた  己の口元へと。
「え?」
 目の前で起きた出来事がにわかに信じられず、綱吉は真ん丸い目を点にして惚けた顔を作った。
「ン」
 雲雀は構いもせずに冷たい飲料を咥内に流し込み、美味しそうに喉を鳴らした。
 上下に動く喉仏を呆然と見送った綱吉は、抱えた荷物を落としそうになって慌てて腕に力を込めた。肩を強張らせ、全身の毛を逆立てて奥歯を噛み締める。
「ヒバリさん!」
「はい」
 からかわれたのが悔しくて怒鳴ると、急に眼前に缶を突きつけられた。量は減っているものの、まだ残っている。中で津波が起きているのだろう、ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
 視界が空模様に染まって、綱吉は面食らった。口を真一文字に引き結んで睨みつけると、雲雀は呵々と笑って肩を揺らし、綱吉の空いた手に清涼飲料水を握らせた。
「あげる」
 言って、人差し指を伸ばす。
 視線を手元から浮かせた綱吉は、直後にちょん、と唇を小突かれて息を飲んだ。
 もう少しで噛んでしまうところで、気まずさに目を平らにして口を尖らせる。拗ねた彼に相好を崩し、雲雀は手を振った。
「じゃあ、僕は仕事があるから。またね」
 別れの挨拶を素っ気無く告げて、駐車場を離れていく。颯爽と去っていく後姿に舌を出し、綱吉は重い鞄と軽い缶を交互に見下ろした。
 これを持って歩くのは邪魔だし、荷物が増えるだけだ。此処で飲み干して、空き缶はゴミ箱に捨てていくのが得策だろう。
「何がしたかったんだろ、ヒバリさん」
 意味が分からないと呟き、他者の体温を僅かに残す缶を口元に持っていく。
 そうしてひとくち飲もうとして、寸前、はたとある事実に気付き、彼は凍りついた。
 缶の飲み口は一箇所だけだ。そしてそこに直前まで口をつけていたのは、いったい誰だっただろう。
 今になってやっと雲雀の意図が読み取れて、刹那、綱吉は真っ赤になった。
「う、あ。あ、あぁぁぁ!」
 冷たい飲み物は、飲みたい。けれど、これでは飲めない。
 飲めるわけがない。
「ヒバリさんの、……ヒバリさんの、バカー!」
 公衆の面前で雄叫びを上げ、彼は頭を抱え、蹲った。

2010/4/29