角逐

 窓の向こうは無人だった。
「いない?」
 カーテンはレールの片側に集められ、手持ち無沙汰な顔をして雲雀を見下ろしていた。ガラスはうっすら汚れていたが、磨りガラスとは違って全く見えないわけではない。部屋の照明は消され、物音ひとつ響いて来なかった。
 いや、実際のところはそれなりに騒々しい。但し笑い声が喧しく轟いているのは彼の足の下、即ち一階だった。
 現在雲雀が佇んでいるのは並盛町内のとある一軒家の二階、そのベランダだった。
 元々室外機を置くためだけに設置されたそれは、かなり狭い。出入りする扉もなく、勿論階段やハシゴの類も近くには無い。ならばどうやってそこに至ったのかといえば、単純に壁をよじ登り、屋根を伝ったからに他ならない。
 おおよそ文明人とは思えぬ手段で、さながら猫のようにどこにも出入り口がない場所に到達した彼は、しかし待ち望んでいた人影がそこに見えないと知って残念そうに肩を落とした。
 もとより訪問を約束していたわけではない。いきなり行って驚かせるつもりでいたので、こうなる事だってあると頭では分かっていたつもりだった。
 しかし実際そうなってみると、想像以上にがっくり来た。折角来てやったのに、と上から目線で部屋の主に悪態をつき、彼は拭き掃除の跡が残るガラスを小突いた。
 アルミサッシの出っ張りを抓み、試しに右向きに力を込めてみる。鍵が開いていたら、中に忍び込んで帰りを待ってみようか。そんな事を漠然と考えながら腕を動かせば、なんたることか、本当に窓はすんなり開かれた。
「ちょっと……」
 なんという不用心さだろう。またもや予想外の展開に愕然とし、自分を棚に上げて雲雀は唸った。
 これではいつ泥棒に入られるか、分かったものではない。もっともこの家には世界一優秀な家庭教師、もとい最強のヒットマンが居候中なので、たとえ不埒者が潜り込んだとしても即座に放逐してしまうだろうが。
 自分だけは別格だと高を括り、雲雀は道を譲った窓ガラスに苦笑した。左右逆転している半透明の自分に向かって肩を竦め、中に入るべくいそいそと右足を高く掲げやる。
 黒光りする靴を履いたまま随分高い位置にある敷居を跨げば、外とは異なる独特の匂いが鼻を掠めた。
 生活臭とでも言うのか、ここを基盤としている人間の息遣いが色濃く残っている感じがした。少なくとも雲雀の部屋や、中学校の応接室には無い空気だった。
 フローリングの床に降り立ち、後ろ手に窓を閉める。鍵は掛けない。カーテンを引いて外から差し込む光を遮れば、照明の点らない室内は一気に暗くなった。
 とはいえ足下が覚束ない程でもなく、動き回る分には問題ない。目を凝らせば室内は十分見渡せて、相変わらずの散らかり具合には苦笑を禁じ得なかった。
「まったく。よくこれで生活出来てるよね」
 床の上には漫画雑誌に表裏が逆になった靴下、洗濯済みかどうかも分からないトレーナーやシャツが散らばり、ベッドにはベージュ色のジャケットがずり落ちそうな角度で引っかかっていた。
 並盛中学校指定のスラックスがその下に紛れ、皺の寄ったネクタイが蛇のようにうねって絡みついている。鞄はファスナーを開けた状態で勉強机の上に放置され、中を覗けばどうやら弁当箱だけ引き抜いたらしい、筆記用具や教科書は中に残されたままだった。
 学校から帰って来て、急いで着替えて部屋を飛び出していく。そんな光景がまざまざと思い浮かび、雲雀は肩を竦めて嘆息した。
 壁の時計を見上げれば、午後四時を少し過ぎた辺りに針があった。
「おやつ、かな」
 この家には小さな子供が多い。頻繁に話題に出て来る名前を順に思い浮かべながら、雲雀は窓辺を離れようとして響いた足音にはっとなった。
 出した足を引っ込め、爪先で軽く床を叩く。靴を履いたままうろうろしているところを見つかったら、また怒られてしまう。つい忘れてしまうのだという言い訳は、部屋の主がいるところでないと面白くなかった。
 分かってやっているのは、向こうもとっくに承知している筈だ。ただあの騒々しいやりとりをしたいが為に、雲雀は毎回のように靴のまま屋内に上がり込んでいた。
 彼が雲雀に対して強気で出られる機会は、そう多くない。最近でこそ怯え、びくびくしながら顔色を窺ってくる回数は減ったが、それでも理不尽だと罵声を上げたり、目尻を吊り上げて怒号をあげる事は滅多になかった。
 本音を包み隠さず声に出してくれるまで、あとどれくらい待てば良いだろう。早く慣れてくれなければ、雲雀ばかりが彼の心を読み取る術に長けていく。
 少し遅いおやつに舌鼓を打っているのであれば、三十分もしないうちに部屋に戻って来る。そう予測を立て、雲雀は待つことに決めて右足から靴を脱いだ。
 置き場所に困って辺りを見回し、近くに転がっていた漫画雑誌を裏返してそこに行儀良く並べる。窓際の邪魔にならない場所に避難させてから、彼は簡素なパイプベッドへと足を運んだ。
 寝具は朝、飛び起きた時の状態で放置されていた。枕は縦になり、蹴飛ばされた上掛け布団はダンゴムシのように丸まって壁にへばりついていた。
 赤い目覚まし時計がシーツに突っ伏している。それを拾い上げて定位置に戻してやり、雲雀はついでとばかりに脱ぎ捨てられた制服を手に取った。
 ベージュ色の上着は、このままだと皺になってしまう。多少乱暴に扱われても問題ないよう頑丈に作られているとはいえ、形が崩れてくしゃくしゃなのはみっともない。
「僕の学校にはふさわしくないからね」
 並盛中学生は品行方正であり、身だしなみもきちんとしていなければいけない。ちょっとの気の緩みから綻びは全体に広がっていくのだと戒め、彼はハンガーを求めて視線を彷徨わせた。
 勝手知ったる他人の部屋で、探し物は簡単に見つかった。
 色つきの針金製ではなく、木製のしっかりしたものを発掘し、手際よく形を整えてぶら下げる。三角形の底辺部分には半分に畳んだスラックスとネクタイを引っかけ、クローゼットの出っ張りに落ちないよう安定させれば、ベッドの上は急に綺麗になった。
 そうして出来上がった空間に腰を下ろし、雲雀は一仕事追えた満足感に目を細めた。
「まだかな」
 あまり遅くなると、風紀委員の仕事に差し支える。見回りしてくると言って学校を出て来た手前、商店街くらいには顔を出したかった。
 日が暮れる前に町内を一周し、その後学校に戻って書類仕事。急ぎの案件がいくつかあった筈で、優先順位をつけてどこから片付けて行くかを考えながら、雲雀は右を上に足を組んだ。
 目を閉じて耳を澄ませば、階下での騒ぎ声が途切れ途切れに聞こえて来た。
 その多くはもじゃもじゃ頭の、角を生やした子供の声だ。その次に耳につくのは、甲高い少女の、日本語ではない怒鳴り声。そこにふたりを宥める落ち着いた少年の声が続き、最後に耳をつんざく銃声がこだました。
 相変わらず、この家には落ち着きが足りない。だが賑やかな環境が逆に心を穏やかにさせる事もあって、人間とは実に不可解な生き物だと、他人事のように考えながら雲雀は頬杖をついた。
 右の爪先で宙に円を描き、当て所なく揺らしながら整理が行き届いていない室内に肩を落とす。一見しただけではどこに何があるかさっぱりだが、本人に言わせればこれくらいがちょうど良いのだそうだ。
 あまりにも綺麗な場所にいると、逆に緊張してリラックス出来ないというのがその理由らしい。だから物が少ない応接室も、最初はかなり居心地が悪かったと聞いている。
 今はどうかと問えば、この頃は慣れたと笑っていた。その照れ臭そうにはにかむ姿が愛らしくて、心の中で身悶えていたのは秘密だ。
「……ん?」
 それにしても、戻って来ない。場所も考えずに発砲した家庭教師に小言を言っているのか、腰に手を当て説教している姿を想像して肩を落とし、雲雀は居住まいを正そうとして目に入った品に眉を顰めた。
 部屋の中央には小さなテーブルが置かれ、上には空の菓子箱やペットボトルが無造作に並べられていた。
 気になったのはそういったゴミではない。ポテトチップスの空き袋で隠された、緑色の盤面だ。
 黒い線が等間隔に引かれ、直角に交わって格子状の模様を作り上げている。そこに表が白く、裏が黒い丸い石が無造作に積み上げられていた。
 磁石が入っているのか、低い塔は歪な形状ながら崩れる気配が無い。ぴったり寄り添い合い、不格好であるものの凛と背筋を伸ばしている。
「リバーシ?」
 盤面は真ん中で折れ曲がり、半分に畳めるものだった。裏側に石を収納するスペースがあり、片付けがし易いよう工夫されていた。
 この盤と石を使うゲーム、リバーシのルールは単純だ。プレイヤーは白と黒の二手に分かれ、石の色の数を奪い合う。
 ゲーム開始時、盤上には白黒ふたつずつの石が置かれる。そして先行である黒のプレイヤーは、予め設置されていた黒い石と手持ちの石で白の石を挟む。そうすれば間に置かれた白い石は、黒に裏返る。
 盤面が石で満たされた時、表を向いている色の石が多い方が勝ち。もしくは裏返せる石がなくなった時点で負けだ。
 簡単なように思えて、なかなか意外に奥が深い。内容がシンプルな分、勝つにはそれなりに策略が必要だった。
 過去に数回遊んだ事があるが、最近はとんとご無沙汰のゲームを目の当たりにして、雲雀は興味深そうに頷いた。
 石の積み上げ方からして、居候の子供と綱吉が遊んでいたのだろう。塔に入り損ねた石が一個、テーブルの下に転がっており、放っておいたらゴミに紛れて失われてしまう可能性が高かった。
「まったく」
 だから部屋の掃除はこまめにして、整理整頓を心がけるようしつこく言っているのに。
 まるで改善される傾向が見られない部屋を静かに見回して、雲雀は座ったばかりのベッドから腰を浮かせた。
 足音を忍ばせつつ小さなテーブルへと歩み寄り、膝を折って床に転がっていた親指大の石を拾い上げる。そうしてそれを、黒を上にして、最も背高の塔へ重ねようとした瞬間だった。
「もー。お前ら、喧嘩すんなら外でやれよな!」
 どたどたと喧しく足音と共に、非常に不満げな声が響き渡った。
 階段を駆け上がり、廊下を突き進んで一直線に目的地を目指す。階下への小言を続けながらドアノブを掴み、綱吉は力任せにドアを開け放った。
「やあ」
「!」
 直後、彼は信じられないものを見る目をして咄嗟に開けたばかりの扉を閉めた。
 部屋の真ん中に、黒い人影が見えた。それは黒い髪を持ち、黒い学生服を羽織り、黒のスラックスを履き、黒い瞳をして綱吉を振り返った。
 肩の位置に手を掲げて挨拶されたが、その後どうなったかは戸で視界が遮られているので分からない。背中に冷たい汗がドッと吹きだして、心臓は破裂寸前まで膨らんで内側から彼を責め立てた。
「え? ……え?」
 今、そこに誰かいなかったか。
 夢か幻であればいい。思わず頬を抓り、綱吉は爪が食い込む痛みに悲鳴をあげた。
 窓の鍵は、そういえば外したままだったように思う。そして知り合いの中には、家人に断り無く勝手に部屋に上がり込む、困った人物が複数人存在した。
 そのうちの筆頭株を脳裏に思い描き、綱吉は冷たいドアに寄りかかって深いため息をついた。
「なにしてるの、入りなよ」
「ぐがっ」
 そこへ声と共に扉が開かれて、押しのけられた綱吉は弾みで顎を打って仰け反った。
 片足立ちで後ろ向きに飛び跳ねて、廊下と階段を区切っている壁に背中からぶつかっていく。出っ張りに腰骨を激突させ、彼はもんどり打って床に崩れ落ちた。
 膝で上半身を支え、じんじん痛い顎を両手で庇う。目尻に涙を浮かせて顔を上げれば、ドアノブを手に男が怪訝そうに立っていた。
「危ないよ」
「……もう遅いです」
 蹲る綱吉を不思議そうに見下ろし、雲雀がのんびりと呟いた。いったい誰の所為でこんな目に遭っているのか、怒鳴りたいのを懸命に堪え、彼はがっくり項垂れ肩を落とした。
 そもそも雲雀が、誰も居ない部屋に勝手に入り込みさえしなければ、綱吉は痛い思いをせずに済んだのだ。だのに当の本人はその事実に気づかず、もしくは気づいていても敢えて無視を決め込んでいた。
 綱吉が強気に出られない性格をしていると知って、遊んでいるのだ。なんと性根のひん曲がった男なのかと腹が立つが、沸騰寸前まで煮えたぎった怒りも、すっと伸ばされた手ひとつで呆気なく昇華されてしまった。
「ほら」
「う、ぐぬ」
 早く立つよう促し、雲雀が差し出した手を揺らす。長くしなやかな指を鼻先に突きつけられて、彼は悔しそうに唸った。
 小鼻を膨らませるものの、反抗的な態度を取れたのはそこまでだった。
「リボーンだったら、下にいますけど」
 渋々手を握り返し、引っ張り上げて貰って爪先で床を蹴る。ふらついた身体は強引にバランスを取って維持し、雲雀に寄りかかるのだけはぎりぎりで回避する。
 その上で小生意気に言い放てば、彼は一瞬目を丸くしてからぷっ、と噴きだした。
 肩を小刻みに震わせ、左手の甲を口に押し当てて首を振る。黒髪が左右に泳ぐのを上に見て、綱吉は鼻から荒っぽく息を吐いた。
「そこ、退いてください」
 あの極悪家庭教師に用事があったわけではないらしい。読みは外れ、綱吉は膨れ面を隠そうともせず低い声で凄んだ。
 入り口を塞がれたままでは、部屋の中に入れない。照れを誤魔化そうと躍起になっている彼に目を眇め、雲雀は首肯して右足を引いた。
 道を譲り、部屋の中央へと戻っていく。そしてベッドではなく背の低いテーブルへ向かう背中に、綱吉は首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「ゲーム、するの?」
「しますよ、そりゃ。……って、なんだそっちか」
 不意に振り返って問いかけられて、彼は首肯しようとしてすぐに思い違いに気づき、相好を崩した。
 驚きはしても、雲雀が無断で部屋に入り込んだのを咎めようとは思わない。これまでにも幾度となく繰り返されて来た事であり、今更言ったところで通じないのもとっくに承知の上だ。彼のこういった行動は、最早諦めるよりほかに術がなかった。
 声を荒らげるのには体力が必要で、一通り叫んだ後はとても疲れる。しかもいくら言い聞かせたとしても暖簾に腕押しとなれば、脱力感も半端無かった。
 だから綱吉は諦めた。雲雀恭弥とはこういう人物なのだと納得し、己に根付く常識から除外した。
「ヒバリさんもやるんですか?」
 ゲームというから、てっきりテレビの横に置いてあるテレビゲームの事だと思った。テーブルにフゥ太が忘れていった物をすっかり失念していた綱吉は、雲雀の視線に感づいて緩慢に頷いた。
 これで遊んで欲しいとせがまれたのは、昨日のことだ。夕飯までの暇潰しにちょうど良いと付き合ったが、勝率はほぼ五分と五分。年下相手になんとも情けない結果に終わってしまった。
 もっとも隣にリボーンが居たことや、ランボやイーピンがベッドの上で飛び回って騒いでいた事により、集中出来なかったので負けた、という言い訳も一応成立する。最後の一ゲームに勝ってどうにか年長者の面目は保ったものの、珍しく頭をフル回転させた時間だった。
「昔、ちょっとだけね」
「へえ。ヒバリさんも、こういうので遊んだりするんだ」
「遊ぶっていうよりは、知能テストみたいなものだったけどね」
「ああ、……はあ」
 子供が無邪気に石を取り合っている様を想像したら、現実はかなり違っていた。とてつもなく高度な教育を受けていたらしい雲雀に曖昧に返事をして、綱吉は緑の盤面に建つ三つの塔を上から押さえ込んだ。
 人差し指を乗せてぐらぐら揺らし、向かいに座った雲雀に笑いかける。
「やります?」
「いいよ」
 訊ねれば、彼は二つ返事で頬杖を崩した。
 思えば彼と、こんな風にゲームで遊んだ事がない。応接室に訪ねていっても雲雀は大抵仕事で忙しく、書類と睨めっこをしているか、部下である草壁になにやら指示を出しているかのどちらかだ。
 風紀委員の巡回で部屋を留守にしている機会も多く、一度も顔を合わせない日だってそれなりに頻繁だ。共通の話題にも乏しく、会話が長続きしないのが目下の悩みどころだった。
 平凡な人生を送ってきた綱吉と、特殊な環境下で育った雲雀と。なにかと喧嘩っ早く、世の中の道理を押しのけて我が道を行く彼についていくのは大変だ。だからこういう小さなゲーム盤で共有出来る世界があったのが、綱吉には嬉しかった。
「君が先行でいいよ」
「え、あー……でも、黒っていったらヒバリさんっぽいから。どうぞ」
 リバーシは黒のプレイヤーが先行と決まっている。それを譲ろうとした雲雀に、綱吉は小さく舌を出した。
 黒髪、黒い双眸、黒の学生服。愛用するトンファーこそ銀色だが、雲雀という男にはなにかと黒がつきまとった。
 イメージ的にも、彼が白石を持つのは似合わない。譲り返されて、雲雀は肩に羽織った学生服を揺らした。
「そう。なら、遠慮無く」
 断る理由は無いと告げ、彼は中央に並べられた四つの石のうち、白色の隣に手持ちの石を置いた。
 黒を上にして緑に重ね、挟んだ石をひっくり返す。途端に盤面は黒が優勢になり、綱吉の陣地は残りひとつになった。
「俺は、じゃあ、ここに」
 圧倒的不利に思われても、リバーシの出だしは大体こんなものだ。綱吉は緊張感のない声で呟き、ぱち、と白石を空いたスペースに置いた。
 黒を裏返し、白に置き換える。瞬く間に形勢が逆転した。中央に食い込んだ純白に二度瞬きを繰り返し、雲雀はしばらく考え込んでから次の一手を放った。
 ふたりして手元に集中し、言葉は少ない。たまに悩んだ綱吉がうんうん唸っては上半身を揺らすのが、雲雀には面白くてならなかった。
 じっとしていられないのが、彼の特徴のひとつだ。しかも本人にその自覚はなく、指摘してやった時には不思議そうに見返されてしまった。
 眺めていて退屈しない。どこにでも居そうな子供の癖に、誰にも負けない心の強さを持ち合わせている。
 お節介で、面倒見が良くて、損ばかりしている。それでいながら挫けない。めげない、諦めない。本人は周囲に流されがちだと思っているようだが、それは違う。周囲が、彼の影響に押し流されているのだ。
 皆が沢田綱吉を中心に同じ方向に歩いていくから、彼の目にそう映るだけだ。
「そこでいいの?」
「ギブアップするなら今のうちですよ~」
 獄寺隼人も、山本武も、笹川了平も、六道骸でさえ、沢田綱吉の絶大な影響力に抗えない。彼の言葉に耳を傾け、頷かずにいられない。
 だけれど自分だけは、その波に飲み込まれてやらない。遠い昔に誓った覚悟を呼び起こし、雲雀は綱吉が裏返した石に嘆息した。
 ゲームは終盤に入り、ぱっと見ただけでは白色優勢に進んでいるように思われた。
 得意満面に胸を張った彼を盗み見て、雲雀は手元に残った石の数を数えた。これまで両者共にパスは使っていない。拳を作れば、握った石がしゃり、と冷たい音を放った。
「僕は忠告したからね」
「負け惜しみですか?」
「まさか。はい、次。君の番」
 うち一枚を引き抜き、残り僅かとなった空白に石を置く。黙々と黒に裏返して掌を上に振れば、初めて雲雀に勝てるかもしれないと意気込んでいた綱吉の表情が見る間に凍り付いた。
 ぴしっ、と空気がひび割れる音までした。親指と人差し指で石を挟み持ったまま、彼は置き場所を探して血眼になって盤面を睨み付けた。
 だがどこを探しても、見当たらない。あと五つとなった空きスペースは、全て白石で囲まれていた。
 これでは、綱吉は石を置けない。
「え、……うそ」
「パスだね。はい、これで……また君の番だけど。どうする?」
「う、うぐ、ぬ。ぬぬぬぅぅぅぅぅ」
「パスで良いんだね」
 ようやく罠にはめられたと気づくが、時既に遅い。呆然と呟かれた声を無視して雲雀は続けざまに黒石で隙間を埋め、綱吉の陣地を塗り替えていった。
 二度目のパスの後も、状況は変わらなかった。
「はい、おしまい」
「のぉぉぉぉぉー!」
 雲雀が最後の一枚を音立てて捲り、裏返した。これにより白石は全滅し、盤上は黒一色に染め変えられた。
 一度に沢山ひっくり返せる場所を狙っていったつもりが、それも全て雲雀の作戦だった。上手く誘導され、結果稀に見る惨敗となった。
 ランボ相手でも、こんな大差で勝った事はない。圧倒的な力の差を見せつけられて、綱吉は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
 額を角にぶつけた衝撃で、盤が僅かに浮き上がった。綺麗に並んでいた石が少しずれて、雲雀は外にはみ出た一枚を指で押し戻した。
「もう一回やる?」
「ヒバリさん、じゃんけんしましょう」
 端から順に拾い上げ、縦に積み上げていく。自由が利く残り時間を考えながら問いかけた彼に、綱吉は何を思ったか急に声を高くした。
 打ち付けた額が赤くなっているが、全く気にしていない。妙に切羽詰まった表情に眉を顰め、雲雀は口を尖らせた。
「どうして?」
「どうしてもです」
 念の為理由を訊くが、押し切られてしまった。鼻息荒く力んでいるところからして、リバーシで勝てなかったのがどうやらよほど悔しいらしい。
 勉強でも、喧嘩でも、口でも、そしてゲームでも負けっ放し。だからせめてひとつくらい、雲雀から勝利をもぎ取りたいのだろう。
 そして考え抜いた結果、運に大きく左右されるじゃんけんなら、或いは白星を飾れるという結論に達したのだ。
 なんとも分かり易い単純な思考回路に苦笑して、雲雀は四等分した石を盤の左隅に集めて置いた。目尻を下げて返事の代わりにし、あぐらを崩して右膝を立てる。
 背筋を伸ばした彼が身構えるのを受け、綱吉も気合いを入れるべく居住まいを正した。
「一回勝負?」
「です」
 絨毯の上で正座し、右肘を引いて軽く拳を作る。首を縦に振って唇を舐め、彼は雲雀の一挙手一投足に注意を払った。
 初代ボンゴレの血を引き継ぐ正当な後継者たる綱吉には、超直感という能力が備わっていた。
 直感が優れているというだけであり、日常生活で格別有利に働くわけではないのだが、対人戦においてのみ、その力は絶大な効果を発揮した。
 相手の筋肉の収縮具合や視線の流れなどから、次の行動を先読みする。一手先を予測出来れば、危機回避も可能だ。
 それを応用出来れば、じゃんけんで勝つなど造作もない。
 先祖代々受け継がれて来た才能を、こんなちんけな勝負に用いるのは正直気が引けた。しかしここで勝てなければ、一生雲雀に敵わない。
 人生の大一番に挑む気持ちで意気込み、彼は深呼吸を二度繰り返した。
 そして。
「じゃーんけーん……ほいっ!」
「はい」
 出来るだけゆっくり、しかし気持ちを込めて拳を繰り出した。
 雲雀が声に応じ、指を何本か折りたたむ。リバーシの石を崩さぬよう出された手に、綱吉は瞠目し、瞬時に顔をほころばせた。
「か……っ!」
 テーブルから二十センチ弱上空で交差する、二本の腕。片方は全ての指を握り締めて石と化し、もう片方はハサミを模した形状を作って空を裂いていた。
 じゃんけんのルールもリバーシ同様簡単で、グーはチョキに、チョキはパーに強く、パーはグーに強い法則の上に成り立っていた。
 今回チョキを出した雲雀に対し、綱吉はグーを提示した。雲雀の指の動きを読み取った故の選択に、初めての奇跡がもたらされた。
 だが。
「今の、ナシだよ」
「えっ」
「後出しで勝って嬉しい?」
「えっ?」
 正面から抑揚のない声で問いかけられて、綱吉は目をぱちくりさせた。
 歓喜に染まっていた琥珀色の眼が大きく見開かれ、今にも零れ落ちてしまいそうだった。そのまん丸いどんぐり眼をじっと見詰め、雲雀は肩を竦めて嘆息した。
 興奮が萎んでいくのが分かる。愕然とする彼は信じられないと首を振り、テーブルに身を乗り出した。
「う、うそ……ですよね?」
「そう思いたいなら、そういう事にしておいてあげるけど」
 雲雀がチョキを出す寸前まで凝視した上で、綱吉はグーを出した。同じタイミングで出し合ったのではなく、綱吉の方が僅かではあるが遅かった。
 とはいえ雲雀の言い分を証明する術はない。目撃者がいたわけでもなく、綱吉に後出しの自覚がないのなら尚更だ。
 呆れ半分に言い捨て、雲雀は首を回した。骨を鳴らし、ついでに壁時計を確かめて立てていた膝に右手を置く。
 起き上がろうとしていると知り、綱吉は拳を作ったままの利き手と彼を見比べた。
「え、あ、あの。じゃあ、も……もう一回!」
 よくよく思い返してみれば、確かに雲雀の言う通りかもしれない。先ほどの勝利は超直感が発動したのでなく、雲雀の手が出るのを待ってから勝てる手を選んだだけだった。
 彼が綱吉の不正を証明出来ないように、綱吉も不正をしていないと立証出来ない。それなのに自分の都合の良いように、一方的に決めつけて彼を落胆させた。失望させた。
 このままでは彼に見切りをつけられ、嫌われてしまう。
 窓から出て行こうとしている雲雀を追いかけ、綱吉は叫んだ。必死の形相で訴え、振り返った彼にぐっ、と息を呑む。
 鼻を愚図る音が聞こえて、雲雀は肩の力を抜いて微笑んだ。
「仕方がないね」
 ずるをしてまで勝ちに行く綱吉には興味が持てない。じゃんけんに負けた事よりもそちらの方がショックだっただけに、不義を認めて再戦を申し込んできた彼に雲雀は安堵した。
 壁に背を預けて向き直り、緩く握った拳を肩の位置まで持ち上げる。綱吉は緊張気味に顔を強張らせ、同じように拳を作った。
 先ほどの教訓を胸に、合図を送って口を開く。
「最初はグー。じゃんけん……ほいっ」
「はい」
 互いに初めの一手を見せ合ってから、本当の勝負に挑む。
 結果は、想像していた通りだった。
「ぐおぉぉぉぉ……」
「僕の勝ち。なんだったらもう一回やる?」
「やります!」
 綱吉がパーに対し、雲雀はまたもチョキ。今度は敢えなく敗北を喫した綱吉は、目が笑っている雲雀の質問に即座に頷いた。
 力み、大声を張り上げて再々戦を申し出て挑み掛かるが、またもや結果は同じ。ここで引き下がるのは男が廃るともう一度果敢に挑戦してみたものの、勝負は既に決していた。
 そもそも綱吉は、不幸を絵に描いたような星の下に生まれ育った。最近でこそ上昇傾向にあるものの、何をやってもダメダメのダメツナぶりは依然健在だ。
「まだやる?」
「ぐぬ、う……もう一回!」
「でもダメ。時間切れ。また明日、応接室で遊んであげる」
 十戦、十勝。最早運だけでは説明出来ない圧倒的強さを見せつけられて、それでも足掻く綱吉の頭を雲雀がわしゃわしゃと掻き回した。
 負ける度に地団駄を踏んで騒ぐ彼が面白くて、つい時間を使いすぎてしまった。ポケットの中ではマナーモードにした携帯電話が、さっきからずっと震えっ放しだった。
 草壁がやきもきしている姿が思い浮かんで、雲雀は不満そうな顔に目尻を下げた。額を軽く小突いて距離を取り、カーテンを開いて窓を横に滑らせる。
「次は負けませんからね!」
「楽しみにしてるよ」
 絶対に勝利してみせると息巻く綱吉に不遜な笑みを返し、靴を拾って窓枠を跨ぐ。動きは猫のように俊敏で、迷いがなかった。
 慣れた足取りで屋根へと飛び移り、隣家との敷地を区切る塀へ飛び乗って振り返れば、窓から身を乗り出す綱吉の姿が少しだけ見えた。
 何故あそこまで勝ち負けにこだわるのか、理由は分からないけれど。
「君を独り占めしたいって思ってる段階で、僕は君に負けてるんだけどね」
 苦笑の末に呟いて、雲雀はひょいっと地面に飛び降りた。

2013/01/20 脱稿