涼しい風が勢いよく吹き抜けていく。沢田綱吉は風に煽られて膨らみ、飛ばされそうになる大判のスケッチブックを両手で抱えるように押さえ込むと、三角に曲げた膝にそれを押し付けた。
周囲でも似たように画用紙を押さえ、または一歩間に合わずに風に飛ばされた紙を追いかけて走る生徒の姿が見られた。砂埃が舞い散り、目に入りそうになるのを瞼閉ざして堪え、耳の奥にまで響いてくる風の唸り声が完全に去るまで、綱吉は奥歯を噛んで身体を小さく丸めていた。
やがて一瞬の静寂が空間を包み込み、穏やかな秋の日差しが戻ってくる。息を吐きながら背筋を伸ばし、斜め前方の空を見上げた綱吉は、少しばかり速度を上げて流れていく雲をいくつか見送った。凹凸の多い羊雲は、白と灰色を交互に織り交ぜながら西から東へと急き立てられながら遠ざかっていく。
「凄い風だったな」
後ろから声をかけられ、座り込んだまま綱吉は首から上だけを回転させた。陽射しを斜めから受けて喉の辺りに濃い影を落としている山本武が、綱吉の膝にあるスケッチブックと同じものを小脇に抱え建っていた。
「そだね」
「ツナが飛ばされるんじゃないかって、冷や冷やしたよ」
「そこまで軽くないってば」
大きく口を開けて笑う山本に苦笑した綱吉だが、心配してわざわざ様子を見に来てくれた親友の心遣いを嬉しく思う。幾らなんでも今の突風程度では空の彼方に飛ばされることはないが、幼少時に台風の最中傘を差していたら数メートル引きずられた経験があるだけに、実際のところ、あまり笑える話ではない。
綱吉は腰の辺りに落とした色鉛筆を拾い上げ、ケースへと戻す。長さがまばらになってしまっている複数の鉛筆は、小学校の頃から愛用している品だ。
今日は学年全体で、半日かけて校外スケッチ。一日中机の前に座り、内容が半分も理解できない授業を聞かされるよりは良いと常々思うのだけれど、綱吉は美術もまた苦手のため、正直な感想、苦痛でしかない一日だ。
山本も身体を動かすのは得意だけれど、こういう手先の細かい作業は苦手のようで、面倒くさいよな、と綱吉に話を振ってくる。実際同じように感じている生徒は多いようで、クラス単位で行き先が異なる中、近所の河川敷が選ばれた綱吉の同級生も、半分くらいは画用紙に筆を伸ばそうとせず、思い思いに散らばって雑談に花を咲かせていた。
「絵が描けなくったって、どうってことないよなー」
「……だね」
楽しそうに表情を綻ばせて笑う山本に、一瞬の間をおいて同調して、綱吉は曲げた膝を抱えなおした。胸との間に挟まれたスケッチブックが、少々居心地悪そうに揺れている。何気なく足元に伸びる緑の草を毟り取り、綱吉はそれを風に流した。
数本がその場に落ち、数本が楕円を描きながら離れた場所に落ちた。他の草に紛れてしまうと、すぐに見分けがつかなくなってしまう。しかし綱吉の手はしつこく地面を這い回っている。どこか手持ち無沙汰に、どこか遠くを見ているような綱吉の様子に、山本は片手を腰に当てて肩を竦めた。
「おーい、山本―!」
河川敷の坂の、下の方から級友が手を振って山本を呼ぶ。何か面白いものでも見つけたのか、傍にいる別の生徒は俯いて、草むらに半分顔を突っ込んでいる状態だった。
呼ばれた山本はちらりとそちらに目を向けた後、再度綱吉に視線を向ける。問うような瞳に綱吉は微かに笑みを浮かべ、自分は気にしなくて良いとの思いをこめて首を縦に振った。彼は、それでもまだ何か言いたそうに佇んでいたけれど、急かすような呼び声がもう一度響き渡り、最初は気にしていなかった周囲も山本に視線を向けるようになった為、彼は「悪いな」と呟いて歩き出した。
「なんだー?」
「見てくれよ、これー」
まだ距離がある友人に大声で返し、更に大声が響いて少しだけ河川敷が賑わいを取り戻す。男子の動きを興味本位で見守っていた女子も、時間が経つに連れて各々の作業に戻っていって辺りはまた、風の音ばかりが大きく聞こえるようになった。
綱吉は跳ね上がった髪の毛が草花と同じように煽られるのを受け止めたまま、そっと膝の角度を広げて足を伸ばした。広げたスケッチブック、数枚捲られて今一番上に来ている紙面には、中途半端に描きかけの風景画。色鉛筆を使い、細かな線が幾つも入り乱れて新しい色合いを作り出しているものの、風景を写し取ったものとはどこか言い難い、いびつな筆遣い。
曲がった線を修正しようともせず、その上に誤魔化そうと新しい線を足して、足して、結局本来の形から大きく逸脱してしまっている。
自分の絵を眺め、綱吉は諦めた感じのする溜息をついた。
身体を動かすのも苦手、勉強も苦手、その上絵を描くこともてんでダメ。良いところなんて自分にはひとつも無いのだな、と改めて思い知らされ、陰鬱な気持ちになる。
色鉛筆が長持ちなのも、滅多に使わないし使っても同じ色ばかりだからだ。想像力がちょっと足りないわね、なんて先生の評価を直接聞かされた時はそりゃぁ、落ち込んだものだ。下手なりに一所懸命に書いているのだから、そこは認めて欲しかったのに、あっさりと一言で片付けられたのが悔しくて、その絵は帰り道に破いて捨ててしまった。
今覚えば、あれは自分なりに頑張って上手く描けたものだったのだから、残しておけばよかった。しかし後悔先に立たず、今更な出来事の記憶は多少美化されて、綱吉の胸を擽る。
それと同時に、この課題をどう高得点でクリアしようかと思い悩み、益々綱吉の溜息は重く沈んだものになった。
適当にやればいい、とは思う。ほかに遊び呆けている男子生徒だっているのだし、今からちょっと頑張ったところで、上手に描けるわけではないのだから。しかし一切の努力をしないままに、なすべき事をなす前に放棄してしまうのもいやで、綱吉は両天秤で揺れる気持ちを持て余しながら流れ行く雲に視線を向けた。
気分を変えよう、不意に思い立ち綱吉は手早く散らばった色鉛筆を片付けて伸ばしていた脚を曲げ、起き上がった。スケッチブックを閉じぬまま、ただ書きかけの絵の面を内側にして脇に挟み持ち、作業道具一式を反対の手に持ってぐるりと周囲を見回す。
思い思いの場所に散らばったクラスメイトは、幾つかのグループを形成してバラバラに展開していた。あまり遠くへは行かないように、という担任教師の注意を脳裏に反芻し、綱吉はゆっくりと歩き出す。人の間を避けるようにして、河川敷ではなくその上の一般道を川上に向かって、少し。
どこからか煙草の煙が流れている、と嗅ぎ慣れた臭いに鼻が敏感に反応し、そこで綱吉は足を止めた。
振り返れば最初に自分が居た場所から、結構な距離になっている。眼下に広がる緑の絨毯の上にぽつぽつと人影が散らばっている光景も遠く、走り去る乗用車の起こす風がどことなく生温い。
綱吉は自分が歩いてきた道をぼんやりと眺めてから、首を左下に向けて捻った。案の定そこには、学校から持ってきた荷物を放り出し、草の上に寝転がる獄寺隼人の姿があった。
「獄寺君」
眠っているのだろうか、彼は目を閉じている。綱吉が頭上にいるのに反応もしないが、火のついた煙草を咥えたままでいるので、恐らくは起きている筈。呼びかけると彼は、だるそうな反応で瞼を持ち上げ、閉ざしていた視界に急に入って来た光に驚いたのか、数回瞬きを繰り返した。
彼はまだ声をかけたのが綱吉だと気付いていない。頭の下に敷いた両手を外し、肘を重そうに伸ばして腕を地面につき、上半身を起こしてやっと、綱吉の立つ側を振り返る。
彼の口から、まだ赤い火が燻っている煙草が落ちた。
「あぁぁあぁ獄寺君たばこ煙草! 火!」
反射的に綱吉は叫び、その声に驚いた獄寺が飛びずさる。しかし二秒後に我に返って気付き、大慌てで足を伸ばし靴の裏で踏み潰した。幸い水気を含む植物には燃え移らなかったようで、上からもみくちゃにされた煙草の吸殻を見つけた綱吉はホッと肩の力を抜いた。
獄寺もまた、冷や汗を拭いつつ息を吐く。
「もー、吃驚させないでよね」
「それは、こちらの台詞です、十代目」
ぺたん、とその場に足を広げる格好で座り込んだ綱吉が、手にしていた荷物を落としながら呟く。獄寺は靴跡の残る煙草を拾い上げ、ポケットから出した携帯灰皿に捻りこんで笑った。綱吉も、向き合って舌を出す。
確かにいきなり話しかけたのは悪かったが、だが、言ってしまえば呼びかける時はいつだって突然だ。獄寺が単に大袈裟に驚いただけで、綱吉に非は無い。それでも、ここで言い合いをするのは不毛な時間の浪費でしかなく、改めて座りなおした綱吉は草の上に荷物をまとめ、両足を伸ばし、胸を反らした。
吸い込んだ空気は水と、草と、僅かに煙草の匂いがする。斜め下にいる獄寺は新しい煙草を取り出したものの、火をつけるまでにはいかず、咥えたままぼんやりしている。彼の手元に転がっているスケッチブックは真っ白で、手がつけられた様子はない。
「絵、いいの?」
一応これは課外活動の一環であり、今日描いた絵には提出の義務が付与されている。無駄話に花を咲かせて時間を使うのは自由だが、後で苦労するのは本人だ。それが分かっているからこそ、綱吉は下手なりに画用紙を色で埋めようと試みた。結局は投げ出してしまった状態にあるけれど。
表紙をめくっただけのスケッチブックに視線を投げつけ、綱吉が問う。獄寺は再び、綱吉の腰の辺りに頭が来るように寝転がり、首を傾けた。微妙に絡まない互いの視線、綱吉が彼を見るより先に、獄寺は空を向いて静かに瞼を下ろした。
前歯で軽く噛んだ煙草を唇で前後に揺らし、近い場所から漂う青臭い匂いに僅かに眉根を寄せる。
煙草の所為で喋られないだけなのだが、反応が無い彼に不満そうな綱吉は、散らばっている獄寺の荷物を勝手に拾い集め、自分のものもその隣に並べた。行儀良く鎮座するふたつの鞄には、生活感の強さが比例して現れていた。
あまり使い込まれていない、綺麗な鞄は獄寺のもの。手垢がついていそうなくらいに汚れ、それでも愛着持って使い続けられているのは、綱吉の鞄。どこか獄寺は生きていること自体への執着が希薄に感じられて、それが時々、綱吉を不安にさせた。
「サボりは良くないよ」
自分だって時々授業を抜け出したり、おおっぴらに遅刻してみせたりする癖に、我ながらいい子ぶった台詞だと辟易しながら綱吉が呟く。声は下から上へと流れていく空気に乗って、獄寺には強く響かない。
「十代目こそ」
腕を片方持ち上げた獄寺が、口から先端を湿らせた煙草を抜き、声を発する。僅かに低い、自分を取り囲む全てが鬱陶しく感じている時の声だ。綱吉は彼を振り返らず、ただ光を浴びて輝く川面をなんとなしに眺めていた。
下流側からはクラスメイトの、誰かが何かをしでかしたらしい、楽しげに笑う声が流れてくる。
「描き終わったのですか?」
「……途中」
ジッとしているのも苦痛なら、ひとつのことに熱中するのもどちらかと言えば苦手。飽きっぽいところがあるのは認めるし、集中力が続かないのも本当。気晴らしに場所を変えてみようと歩いていた先で獄寺を見つけて、声をかけて今こうして座っている。それが悪いことなのかと聞けば、獄寺は小さく笑って黙り込んだ。
「見せてもらっても良いですか」
しかし思いもがけずそんな事を言われ、一瞬面食らった綱吉は反応が鈍る。その間に獄寺は軽いテンポで身体を起こし、地面に置かれていたスケッチブックに手を伸ばした。上に乗せられていた荷物を、スケッチブックを傾けて退かし、引き寄せる。
裏返した瞬間彼は、声を失ったというか、声が出ないというか、非常に微妙で表現がし辛い表情を浮かべた。
ダメ、といおうとした綱吉が、吐き出そうとした息を飲み込んで獄寺から顔を逸らす。あらぬ方向を向いて、赤い顔を隠す。
「……なんというか」
獄寺の声が笑っている。
「非常に、前衛的……です、ね」
「ありがとう」
あまり褒められた気分になれないのは、何故だろう。
横目で見た獄寺は、ややはにかんだ笑みを浮かべていて、綱吉を安心させる。やっといつもの彼に戻ってくれた気がした。
目が合うと、益々彼は嬉しそうな、優しい笑顔を浮かべるので、綱吉もつられるように表情を緩ませる。赤いままの頬に笑窪が出来て、獄寺の指がそこを擽った。綱吉は首を竦め、小さく声を漏らしながら更に笑う。
「絵は、嫌い?」
獄寺がピアノを弾くのは知っている。不釣合いに見えるけれど、扱いが難しい火薬を難なく使いこなし、ダイナマイトの改造も自分でしてしまえる彼は、案外指先が器用だ。その時の集中力は凄まじいものがあり、綱吉が声をかけても彼は一切反応しない。
ちょっとでも気を緩めればその場で爆発、の危険性が伴うものなだけに、当たり前の事なのだろうが、真剣に手元を睨みつけている彼の背中は、時々綱吉にとても遠い世界を思い起こさせる。自分と、彼との間にある溝が、一層深く広くなった気がして、邪魔をしてはいけないと分かっているのに、彼の意識が自分に向かないかと願ってしまう。
幼い子供の独占欲。
綱吉の足元で、名も知らぬ白い小さな花が揺れている。ひとつの茎に幾つもの葉と花を茂らせて、日光を両手いっぱいに広げて浴びて眩しいくらいに咲き誇っている。
「嫌いというか……理解が、出来ません」
指で煙草を回し、弄びながら獄寺は慎重に言葉を選んでいる。綱吉はその場に座りなおし、両手に膝を抱えて背中を丸めた。
近く感じた獄寺が、また遠くなる。
「絵は、確かに眺めている分には良いものだと思います、屋敷にも沢山飾ってありましたし。けれど、自分で描こうとは思わないですね。俺の絵が高値になるっていうなら別ですけれど、感性を磨くなんていうのなら、ほかの事でも事足りますし」
彼に言わせれば、授業中にノートの片隅にする落書きでさえ、無駄なことに分類されてしまうのだろうか。確かに彼のノートは、無駄の無いくらいに綺麗にまとまっていて、教科書を眺めているのかと見紛うばかり。後から見返したり、テスト前に見せてもらったりする分にはとても助かるのだけれど、なんと表現すべきだろう、どことなく人間味が足りないと感じてしまう。
同じ時間、同じ場所で、同じものを見聞きしているのに、獄寺と綱吉とでは見えるものも、感じるものも、まるで違っている。それをまざまざと見せ付けられた感じがして、哀しくなる。
「それに、俺、画才ないですし」
黙りこんだ綱吉を気遣っているのか、彼は照れ笑いを浮かべて頭を掻きながら言った。しかしそれは綱吉だって同じであり、だから彼が描かない理由にはならない。
「そんなの、関係ないよ」
漸く搾り出した声は震えていて、綱吉は引きずられるままに泣きたい気持ちをぐっと堪えて腹に力をこめた。見詰めた先にいる獄寺が、不意に視線を逸らす。風が白波立ててふたりの間を通り過ぎていく。
「俺は、獄寺君の描いてるところを見たいし、君が描いた絵も見てみたい。苦手とか、授業だからとか、そういうの関係なしに、君を見たいよ」
見ていたいよ。
ことばに乗せない思いを胸に、綱吉は彼の横顔を射抜く。獄寺は手の中でもうくしゃくしゃになってしまっている煙草を回し、茶色のフィルター部分を親指で押さえつけた。両手で挟み、その手を膝の間に下ろす。
「そう仰られても……」
心底困った風に表情を崩し、獄寺は持ち上げた手で口元を隠した。唇の隙間に戻された煙草、カチリと微かな音を響かせるジッポーの石。漂う煙は綱吉の鼻腔に僅かな苦味を残す。
「じゃあ、獄寺君は、単位足りなくて留年して、俺と違うクラスになっても良いんだ」
「はぁ?」
綱吉が唐突に声を高くして荒立てながら叫ぶ。しかも内容があまりに突飛な発想を含んでいて、火のついた煙草を噴出しそうになった獄寺は、こちらも負けないくらいに素っ頓狂な声を出して綱吉を振り返る。怒り心頭、憤然とした様子の彼を見て、堪えきれずに今度こそ噴出す。但し煙草は、指の間に避難させられていた。
喉を震わせ、肩を震わせ、彼は参ったな、と目尻に涙まで浮かべて笑っている。何がいったい、そんなにおかしいのか、至って真剣に、本気で言い放ったつもりの綱吉は納得がいかず、膝立ちになって両手を地面に下ろし、四つんばい状態で彼へと近づいた。
瞬間、煙草の匂いが強くなる。目を少し大きく見開いた綱吉の目の前に、柔らかな笑顔の獄寺が日の光を背負って佇んでいた。
「そうですね、それはとても、困りますね」
呟いた獄寺の顔は、太陽よりもずっと、眩しく見えた。
何かを遺すのが怖かった。
自分が居なくなった後、自分が遺したものを見て、誰かが悲しむのが嫌だった。
だから、何も遺さないようにしていた。形あるものはいつか崩れ落ちるだろう、しかし崩れ消え去るまでの時間はまちまちであり、少なくとも、自分の死を悼む人が生きている間は、何かしら破壊行動を取られない限り、恐らくは残ってしまう。
自分は壊す側の人間であり、創る側の人間ではない。そう言い聞かせて生きてきた。
血生臭い世界に身を置く立場として、自分は、そうやって生きるのだと決心していたのに、この国と、人と、空気は、揺ぎ無いはずの決意の足元を大きく揺らす。ともすれば馴染んでしまいそうな環境に気付くたびに首を振り、否定して、そうじゃないだろう、と過去の自分を思い出そうと試みても、一度緩んだ地盤はなかなかもとの固さに戻らない。
何かを遺していくのが怖かった。誰も哀しませないように、寂しい思いをさせないように、するつもりだった。孤独に戦って、孤独に死んで、それで構わないと幼心にそれが正しいのだと胸に刻み込んできた。
それが、たったひとり、貴方の笑っている姿ひとつで揺らぐほどに、自分の決意は弱かったのだろうか。
それとも。
貴方の微笑む姿が、自分には。
「じゃあ、十代目。そこに座っててください」
「ん?」
獄寺が姿勢を正し、真っ白な自分のスケッチブックを引き寄せて綱吉に指示を出す。きょとんとした顔を返す綱吉に返事をせぬまま、彼は筆入れから鉛筆を一本取り出した。芯が柔らかく濃い目の色をしたそれを構え、彼は膝を片方だけ曲げて立てると、それをイーゼル代わりにしてスケッチブックを構えた。
「え、なに?」
突然活動を開始した獄寺に面食らったままの綱吉が、困惑気味に声をあげる。しかし獄寺は構う事無く片目を閉じ、腕を伸ばし真っ直ぐに握った鉛筆を標準として綱吉を視線の中心に据えた。そして綱吉が居住まいを正す前に、勢いをつけて幾つもの黒い線をカンバスに刻み付けていく。
綱吉は、動きたいけれど、動けない。
「ええええー」
非難の声を上げても一切無視されて、相手にもしてもらえず、困惑から別の意味で泣きたくなった。
遺しても良いですか。
貴方の中に、俺という存在を遺しても良いですか。
俺を忘れないでいてくれますか。俺と言う人間が居たことを、貴方は覚えていてくれますか。
「十代目、動かないでくださいね」
「無理、絶対無理! てか、なんで俺なのさ!」
「描けと仰ったのは十代目でしょう」
「それはそうだけどー」
「なら、最後まで責任持ってつきあってください」
「えーーー」
覚えていても良いですか。
俺の中に、貴方という存在を焼き付けても良いですか。
貴方を忘れなくても良いですか。貴方という人が居たことを、手放さなくても良いですか。
綱吉は手持ち無沙汰に指を弄った後、膝元に咲く花を根に近い部分で摘み取った。薄いピンクを添えた白い花は、瑞々しく咲き誇り綱吉の顔の前で首を下げて挨拶をする。
彼はそれを潰さぬように軽く握り、獄寺が手放した自分のスケッチブックを引き寄せて膝に置いた。長さもバラバラの色鉛筆を草むらにひっくり返し、必要な色だけを抜き取って残りをケースへと戻す。
何もしないでいるのが辛いなら、途中で投げ出していた自分の絵を完成させよう。自分だって課題の提出があるのだから、これくらいは獄寺も見逃してくれるに違いない。ちらりと盗み見ると彼は手元に視線を落としていて、熱心に鉛筆を動かしている。
時には首を捻って考え込みながら、消しゴムは使わずにどんどんと書き足していくのは綱吉と似たり寄ったり。
綱吉は新しいページを開き、膝に斜めに立てかけてから上辺の針金に先程の花を引っ掛けた。そして左手に使わない複数本の色鉛筆、右手にこれから足そうとする色の鉛筆を握り締め、目の前の獄寺と、そして穏やかな川面を描き出した。
物思いに耽る表情の綱吉に、獄寺はそっと視線を投げかける。
「十代目」
「んー?」
貴方を。
「いえ、なんでもありません」
「そう? 変なの」
顔を上げた綱吉が笑う。獄寺も笑い返して、先に俯いた綱吉をじっと、ずっと、見ていた。
貴方を。
好きでいても良いですか?