夕暮れ時のような空だった。
実際には時計の針は午前十一時台を指し示し、教卓の前では国語教師が熱心に教科書を読み上げていた。明治時代の文豪が記したという文章は非常に堅苦しく、文字を目で追うだけでも眠気が呼び起こされた。
「ふぁ……」
出そうになった欠伸を噛み殺し、沢田綱吉は眼鏡の教師に見つからないよう顔を伏した。目尻に浮かんだ涙を指で拭い取り、始業時に広げて以降一切手をつけていない真っ白いノートを見つめる。そうすると視界が不意にぐにゃりと歪んで、真っ黒い闇がとぐろを巻いて押し寄せてきた。
「っ!」
中心部から黒々しい触手が伸び、綱吉を絡め取ろうとうと不気味に蠢く。頬を撫でた温い微風にぞっとして、彼は慌てて背筋を伸ばした。
途端に膝の裏が固い物にぶつかり、座っていた椅子がガタンと大きな音を響かせた。
「どうした、沢田」
「……あ、いえ。すみません」
立ち上がらずとも、皆が俯いている中でひとり伸び上がれば目立つ。気付いた教師が音読を中断して問いかけてきたのにハッとして、彼はばつが悪い顔で首を振った。
もれなく教室のあちこちからくすくすと忍び笑いが漏れて、静まり返っていた空間がにわかに騒がしくなった。斜め前に座っている京子までもが心配そうな顔をして振り返って、目が合った綱吉は照れ隠しに目を細めて微笑んだ。
ぼうっとしていただけだというポーズを作り、どうにか場を誤魔化す。京子は疑うことなく信じたようで、優しく微笑むと姿勢を正して黒板に向き直った。
「はいはい、集中」
教師が丸めた教科書で手を叩きながら言って、緊張を緩めていたクラスメイトも次々と居住まいを正した。注目が一気に離れていくのを実感し、綱吉は胸に手を当ててほっと息を吐いた。
ここ二年ほどですっかり度胸がつき、心臓も強くなった気がしたが、油断すると一寸したことでもドキッとしてしまう。弾んでいると分かる鼓動を指でなぞり、彼は制服ごと手を握り締めた。
巻き添えをくらった紺のカーディガンが、指の数だけ大きな襞を作った。それらも集めて拳を作り、綱吉は顔を伏すと同時に苦悶の表情を浮かべた。
誰にも知られないよう暗い場所に沈んでいく心を隠し、浅い呼吸を繰り返す。直前に盗み見た空は灰色の雲に覆われており、そのうち雨が降り出しそうな雰囲気だった。
太陽は見えず、空は薄暗い。だが彼が落ち込んでいるのは、降水確率六十パーセントなのに傘を持ってくるのを忘れただとか、そういう理由ではなかった。
確かに傘も、母に言われていたのに家に置いてきてしまったが、濡れて帰るなど今までにも何度となくあった。冬の走りの雨は冷たく、風邪を引く原因となりかねないものの、それも割とどうでも良かった。
むしろ体調を崩せば、学校を休めて万々歳だ。もっともこの半年ほどの間に怒涛の如く押し寄せてきた様々なトラブルにより、出席日数が非常に不味いことになっているのだけれど。
残る二学期と、三学期を毎日欠かさず出席するか、先生たちを唸らせるくらいに成績を上げるか。留年しない為にはそのどちらかを達成する必要があるのだが、後者については最早望むべくもなかった。
一定のページ数を読み進めた教師が、今度は内容の解説に取り掛かった。チョークを構えて黒板に向かい、生徒に背中を向ける。カツカツと削られる白墨の音にゆっくり顔をあげ、綱吉は視界に紛れ込んだ前髪を指に巻きつけた。
軽く引っ張って、その痛みで全身を包み込んでいる倦怠感を追い払おうと試みる。しかしそんな事でどうにかなる問題でないのも、とっくに承知していた。
「……はあ」
気が付けば出ていたため息に肩を落とし、すっきりとしない空模様に目をやる。薄汚れている窓越しだと、余計に上空は曇って見えた。
あと少しで昼休みになるというのに、腹もまるで減っていない。朝食は美味しかったはずなのに、何を食べたのか、献立が全く思い出せなかった。
元々ぼんやりしている方だったが、ここ数日は殊更酷かった。もっとしっかりしなければと思うのに、気が付けば足元不如意で地面に転がっていたりする。
集中力が切れて魂が抜けたようになっている原因も、綱吉自身、ちゃんと分かっていた。なにも言ってこないけれど、恐らくは獄寺や山本、それに炎真たちも気付いているはずだ。
彼らに余計な心配をかけたくないのに、上手く立ち回れない。こちらから切り出さない以上、黙って聞かずにいてくれている友人らには感謝以外なかった。
時計の針が黙々と進んでいくのを待ちながら、綱吉はノートの上にシャープペンシルを転がした。ぺらりと一枚捲ってみれば、意外なことに前のページは黒い文字でいっぱいだった。
真面目に授業を受けたのは、いつが最後だっただろう。沢山のことが連続して起こり、挙句十年後の世界まで垣間見てきた所為で、ついこの間のことが酷く懐かしく思えてならなかった。
ようやく戻ってきた平穏無事な生活を満喫し、学生らしく毎日学校に、足しげく通って数日。念願の平凡な暮らしに戻れたとほっとして良いはずなのに、綱吉はそんな日々に微妙な物足りなさを覚え、同じことの繰り返しに味気なさを感じていた。
学校は、楽しい。友達が増えてからは、行くのが苦痛でなくなった。
だのにこの頃は時間が過ぎるのが遅い。今日が一瞬で終わってしまったと思う回数が減り、秒針が三百六十度回転するだけでも異様に長く感じるようになった。
充実しているはずなのに、心の中に大きな穴が開いたようだ。待ち望んでいたはずなのに、こんな風だったかと首を捻らずにいられない。
試験の結果が悪くても怒られず、宿題をしなくても説教されず、夜遅くまでゲームをしていても電源ケーブルを引っこ抜かれることはない。耳元で怒鳴られず、不条理な理由で蹴り飛ばされず、無茶な注文で振り回されもしない。これこそ真に手に入れたかった日常ではなかったのか。
それなのに、部屋の静かさに戸惑っている。台所に空席の椅子があるのを不自然に感じる。無人のハンモックを見上げては、誰かの顔を思い出さずにいられない。
大嫌いだった。苦手だった。早く居なくなれ、と切に願っていた。鬱陶しく感じていた。目の前から消えてくれて、清々した。
一方的に押しかけてきて、一方的に去っていった。我が儘な奴だと憤慨した。勝手にしろ、と背中を向けた。
追いはしなかった。探しもしなかった。気にしないようにしていた。考えないように心掛けた。
話題には出さないようにしていた。だのにふとした瞬間、彼に同意を求めようとしている自分に気が付いた。話を振ろうとして、そこに誰もいないのを思い出して虚しくなった。
染み付いてしまっている。情けないと笑いたいのに笑えない。そんな心情を汲み取ってか、獄寺たちも巧妙に彼の話題を避けて通ってくれた。
「ちぇ」
頭の中がぐるぐるして、落ち着かない。その一方で悶々としたものが腹の奥深い場所に沈殿し、煮凝りのように固まりつつあった。
これは一生取り除けないのだろうと、臍の辺りを撫でながら考える。
何故あの時、彼の問いかけにイエスと頷かなかったのか。ボンゴレ十代目を継承すると言ってさえいれば、こんな煩わしい感情に振り回されずに済んだものを。
しかし一度定まってしまった運命は、決して変えられない。それこそ科学では説明できない理論で固められている、アルコバレーノのような存在が介入しない限りは。
短く舌打ちし、綱吉は机に両手を押し当ててぐーっと背筋を後ろに逸らした。肺に沈殿していた二酸化炭素を吐き出して、すぐさま身体を丸めて首を振る。
何ページ目の文章かも分からない黒板の文字を何とはなしに眺めていたら、誰もが待ち望んでいた四時間目終了のチャイムが鳴り響いた。
お決まりのメロディーがスピーカーを彩り、顔を上げた国語教師が悔しそうに小鼻を膨らませた。居並ぶ机に陣取っていたクラスメイトは諸手を上げて歓迎を表明し、学級委員の号令が喧騒を抑えつけた。
綱吉も椅子を引いて立ち上がり、一礼の末にノートを閉じた。一度も広げなかった教科書と一緒に引き出しに押し込み、シャープペンシルは布製の筆箱に戻す。ファスナーを閉めていたら、後方から声がかかった。
「十代目、メシにしましょう」
振り返らずとも話しかけてきた相手が分かって、綱吉は片付けの手を止めて肩を竦めた。
「ちょっと待ってて。俺、先にトイレ」
「あ、了解っす」
決して広くはない机を綺麗にし、そこに通学鞄をどん、と置く。中に入っている弁当を取り出しながら言った彼に、獄寺は軽やかに頷いた。
仰々しく敬礼した彼に苦笑して、綱吉は風呂敷に包まれた弁当を嵐の守護者でもあるクラスメイトに差し出した。
今日は山本も一緒に、ディーノも交えて視聴覚教室で食べることになっていた。
代理戦争が終わったというのに、跳ね馬ことキャバッローネファミリーの若きボスは未だ並盛町に留まっていた。というのも一応は教師として中学校に赴任してきた手前、二学期の終了も待たずに日本を去るのはおかしい、とリボーンが主張した為だ。
一度やると決めたことは、途中で投げ出さずに最後まで遣り通せ。拳銃をちらつかせながらそう元教え子に説教をしていた現場には、綱吉も運悪く居合わせていた。
そのお陰で、金髪の伊達男は依然英語教師として日々真面目に働いていた。女子からの人気も依然高く、獄寺や山本のファンだった子も何人かはディーノに矛先を変えていた。
そんな外見だけは非常に整っている彼だけれど、致命的な欠点がひとつあった。綱吉に負けず劣らずダメダメだった少年が立派なボスへと成長する原動力となった、頼ってくれる部下の存在だ。
彼らがいなければ、ディーノは基本的に何も出来ない。食事一つまともにとれない。だが学校は、関係者以外の立ち入りが厳しく制限されている。
昼食をぼろぼろ落としてみっともない姿を、女生徒や他の教員の前には晒せない。だから綱吉たちは、ロマーリオからディーノをサポートしてやって欲しいと頼まれていた。
綱吉達が一緒だと、血気盛んな女子も迂闊には近づいてこない。獄寺や山本といった学内の人気者が揃うことによって、近寄り難さがパワーアップするからだ。
その影で何故ダメツナこと沢田が混じっているのかと囁かれたりもしているのだが、それはもう気にしないことにしていた。
弁当を受け取った獄寺に場所を再確認して、綱吉はもうひとりのクラスメイトを探して視線を彷徨わせた。
「山本は?」
「ディーノのヤローを迎えに行きました」
上背のある山本は、遠目からでも目立つ。だがその姿がどこにも見当たらないのに眉を顰めて問えば、獄寺は吐き捨てるように新米偽英語教師の名前を口にした。
どう好意的に解釈しようとしても、悪意があるとしか言い表しようがない口調には苦笑を禁じえない。相変わらずの彼に、綱吉は困った顔をして頬を掻いた。
獄寺はその昔、自分より年上は全部が敵だと言い放った。その対象はディーノのほかに、姉であるビアンキも当然のように含まれている。町を歩いているだけでも誰彼構わず喧嘩を売りつけるため、獄寺との外出はなかなかにスリリングだ。
そんな彼が牙を剥く人間は、学内にもいる。もとより性格が合わないのだろう、風紀委員長などはその代表格だ。
黒の学生服を肩に羽織り、緋色の腕章をぶら下げて悠然と歩く青年。隠し武器のトンファーを手に嬉々として戦場を渡り歩く姿を見ていると、彼こそマフィアのボスになるべきだと思わされる。
並盛中学校の実質的な支配者でもあり、綱吉の雲の守護者。名前は、雲雀恭弥。
「じゃあ、先に行ってますね」
「うん。俺もすぐ行く」
トイレで所用を済ませたら、急いで追い掛ける。そう約束をして手を振り、綱吉は獄寺と教室を出たところで別れた。
足早に去っていく背中を見送り、時間帯の所為もあって混雑しているトイレの扉を開く。手を洗いに来ただけの男子を避けて奥に進んで、綱吉はふと気になって窓を見た。
しかしトイレのそれは教室とは違い、外が見えない磨りガラスだった。
三十分ほどしか経っていないのだから、どうせ教室から眺めたものと色合いもさほど変わっていなかろう。分かっているのに澄み渡る青空を探してしまうのは、雲が晴れれば自分の心もすっきりするのではないかと、根拠のない期待を抱いているからだ。
「俺って結構女々しかったんだな」
ぽつり呟いて、綱吉は振り切るように首を振った。気持ちを切り替えて此処に来た本来の目的を終わらせて、手を洗って扉を潜る。
湿ったハンカチをポケットに押し込んで歩き出した廊下は、進むにつれて人影が減っていった。当然だろう、これから彼が向かおうとしているのは特別教室棟だからだ。
理科実験室や調理実習室がある棟は、先ほどまで綱吉たちが授業を受けていた一般教室棟と渡り廊下で結ばれていた。使用頻度は低く、用事がない生徒は滅多に足を踏み入れない。部活動が行われる放課後ともなれば人の出入りは若干増えるが、それでも特定の階を避けて通る生徒は多い。
というのも、特別教室棟の二階にある応接室は現在風紀委員が独断で占有しているからだ。
獄寺と犬猿の仲である雲雀は、そこの住人だ。授業を受けず、ひとり優雅に応接室で時を過ごしている。勿論風紀委員の仕事はしているが、彼が特権階級に属しているのは明白だった。
群れを嫌い、弱い連中を嫌い、そういった集まりを見つけると問答無用で咬み殺す。そんな不条理と暴力の塊ともいえる青年は、似たような性質を持ち合わせているからか、リボーンとはウマが合った。
ふたりにタッグを組まれると、どうやっても太刀打ちできない。散々いいように振り回された過去を懐かしんで、綱吉は渡り廊下を駆け抜けた。
冷たい風が吹き付ける中、急いで重い扉を潜る。灰色の雲は幾分厚みを増し、雨の予報を確実なものにしていた。
「さっむ」
もう一枚着込んでくればよかった。肌寒さを覚えて後悔するが、今から取りに帰るのも出来ない。大きめのカーディガンの上から腕を撫でさすり、綱吉は垂れそうになった鼻を啜り上げた。
ずび、という音は周りが静かなのもあり、思った以上に大きく響いた。
賑わう一般教室棟から十メートルと離れていないのに、あちらの騒ぎ声は殆ど聞こえてこない。近いのに遠いという距離感に一抹の寂しさを覚え、綱吉は床を踵で蹴り飛ばした。
「いそご」
二年生の教室は三階にあり、応接室を避けて迂回する必要はない。視聴覚教室は四階なので、この先にある階段を登るだけで済む。
極悪非道を形にしたような男と遭遇する危険性は低く、綱吉は暖を取るべく足踏みしていた身体をゆっくり前に傾けた。
万が一見つかった時の為に、走らない。競歩の選手になった気分で少々埃っぽい廊下を進めば、目当ての階段まですぐだった。
そして。
「あがっ」
丁度上の階から降りてこようとしている人の姿に、変な声をあげてしまった。
出しかけた足を咄嗟に引っ込めて後ろに飛びずさった綱吉に、踊り場を回り込もうとしていた青年は露骨に顔を顰めた。
辺りは廊下に比べると薄暗かったが、ここ半年近くでなんとも説明しづらい濃い関係を築いた相手の感情くらいは、どうにか読み取れるようになっていた。むすっと口を尖らせて眉間に皺を寄せた雲雀は、頬を引き攣らせて笑って誤魔化そうとしている綱吉に険のある表情を向け、ゆっくり一段ずつ階段を下っていった。
「なに、その顔」
「あ、いや。その」
感情が相手に筒抜けなのは、綱吉も同じだった。
低い声で囁くように問いかけられて、返す言葉に迷って目が泳ぐ。視線が絡まないことで後ろ暗いものを読み取って、方々に名が知れ渡っている風紀委員長は不遜な笑みを浮かべた。
並盛中学校の支配者にして、並盛町を裏から仕切る存在。中学生には見えない風貌と知能を持ち、大の大人さえ顎でこき使う、いわば狂犬。
闘いを何よりの喜びとし、強い者を見かけたら挑みかからずにはいられない。言ってしまえば、平和な日常を切望する綱吉とは対極のところに立つ人物だ。
だからこそ、リボーンは彼を気に入ったのだろう。危険が多いマフィアという世界で一番輝けるのは、雲雀のようなタイプだから。
ならばいっそ、彼が雲ではなく大空のリングを継承すればよかったのだ。血筋という致命的な一点さえ除けば、彼ほどマフィアのボスに相応しい人間はいない。
横柄にして凶暴、そのくせ人望には厚くカリスマ性も高い。一本芯が通っており、信念はたとえ間違っていたとしても曲げない。浮き草の如く周りに流されて、一箇所に根付く為の根を持たない綱吉とは正反対もいいところだ。
いや、綱吉とて決して変わらない確固たるものは持っている。絶対にマフィアになどならない。リボーンが押しかけてきた時から、それだけは一貫して抱き続けてきた思いだ。
しかしそれ故に、あの一方的で押し付けがましい家庭教師は去っていった。物騒な日常は遠い過去となり、平々凡々とした以前と同じ生活が戻ってきた。
続ける言葉が見当たらず、かといって背中を向けて逃げるわけにもいかなくて戸惑っている間に、雲雀が最後の一段を降り終えた。じりじり後退していた綱吉は反対側の窓際へと追い詰められて、アルミフレームの角に背骨を打ち付けてビクッと肩を跳ね上げた。
痛みと衝撃に驚き、顔が引き攣る。ヒクリと頬を震わせていたら、長い腕がぬっと伸びてきた。
「変な顔」
「ふがっ」
と思った矢先に鼻を摘まれ、斜め上へと釣り上げられた。
鼻腔が塞がれ息が出来ず、益々彼の言う変な顔にならざるを得なくなって綱吉は唇を噛み締めた。左手を持ち上げて振り払おうとすれば、見越していた雲雀は瞬時に手を離し、あっさり引き上げていった。
つねられた場所が仄かに熱を持ち、爪で抉られた場所が微かに痛い。撫でてみると半月型の窪みの形がはっきり分かって、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして目の前の男を睨んだ。
相変わらず黒い学生服を肩に羽織り、中には白の長袖シャツが一枚だけ。襟元は広げられて鎖骨が覗いており、見るからに寒そうだった。
ただ本人はそう感じていないようで、平気な顔をして綱吉を見下ろしている。口元は僅かに緩み、機嫌はさほど悪くない様子だ。
「なにするんですか」
「腑抜けた顔してたから、発破をかけてあげようかと思ってね」
「だからって、酷いですよ」
これが一年前だったら、こんな風には喋れなかった。恐ろしい進化だと内心舌を巻きつつ、綱吉はわざとらしく鼻を何度も撫でさすって口を尖らせた。
雲雀は、弱い連中が群れているのを見るのさえ嫌う。見かければトンファーを取り出し、容赦なく咬み殺してしまう。
夏が終わる前までは、綱吉も彼に殴り飛ばされる側だった。それがいつしか、共に拳を振り上げる側になっていた。
奇妙なものだ。炎真たちと敵対していた時などは、それこそ彼に発破をかけられなかったらどうなっていたか分からない。
数奇な運命に巻き込まれた青年は、しかしこの環境を楽しんでいる趣が感じられた。誰かに指図されるなど絶対にご免だと言って憚らないくせに、綱吉が窮地に立たされると必ずといって良いほど絶妙なタイミングで姿を現す。
本人は是が非でも認めようとしないけれど、彼はきっと、皆が思う以上に綱吉の守護者として働いてくれている。
もう痛みは掻き消えたというのに、綱吉はなかなか手を下ろすことが出来なかった。いつまでも顔の中心を覆い隠し、顔も伏して雲雀の視線から逃げ回る。
「小動物」
「そんなに、変な顔してましたか」
「……してたよ。寂しいって、此処に書いてあった」
「ぎゃ」
焦れた彼が名前の代わりに妙な愛称を口ずさみ、それで綱吉は口を開いた。前髪の隙間から前方を窺い、返事と一緒に差し向けられた指で額を弾かれて後ろへ仰け反る。
ゴンッと後頭部を窓にぶつけた少年に、雲雀が呵々と笑った。
並盛中学校に通う生徒のうち、彼の笑顔を見た経験がある者は果たして何人いるだろう。それくらい貴重な笑顔を前にして渋い顔を崩さず、綱吉は打ちつけた部位を右手で抱え込んだ。
「寂しいって、俺は別に」
「赤ん坊、いなくなったんだろ?」
「!」
顔に出ていたかと危惧しつつ反論を試みるが、言葉は途中で遮られた。図星を指摘されて息を呑み、大仰に反応した所為で雲雀に確信を与えてしまう。
不遜な微笑みにぎりぎり奥歯を噛み締めて、綱吉は肩幅に足を広げて肩を落とした。
「それは、まあ、そうなんですけど」
今更隠したところで、雲雀に嘘は通用しない。並盛町のことなら何だって知っている彼が、交友のあった人間の不在に気付かないわけがなかった。
むしろ今までよくぞ確かめに来なかったと、逆に驚くくらいだ。彼はリボーンに過分に興味を持ち、執着していた。イタリアに帰ったと聞けば、真実かどうかを調べに、いの一番に押しかけてきてもおかしくなかった。
そういえば雲雀と会うのも久しぶりな気がした。見舞いに行った病院で乱闘騒ぎに巻き込まれて以来かと考えて、傷跡ひとつ残っていない顔をぼんやり見つめる。
彼は小さく肩を竦めると、熱心な眼差しを送る少年の額をまたも小突いた。
「赤ん坊がいなくなって、気が抜けた?」
獄寺も山本も、ディーノや奈々ですら触れてこなかった話題。それを臆しもせずに口に出した青年に、綱吉は何故か不思議と深い安堵を覚えた。
訊かれてほっとするというのも変な話だが、実際そうだったのだから仕方がない。暫くぽかんと口を開いていた彼はややして緩く首を振り、雲雀に弾かれた額に掌を押し当てた。
「そう、……ですね。変なんですよ、俺」
「それは前からだろう」
「なっ! って、てか。まあ、そうかもしれませんけど」
ずっと誰にも言えなくて、胸に押し込めていた感情の扉を開く。だがぽつりぽつりと語り始めた矢先、茶々を入れられて綱吉は声を荒らげた。
雲雀に言われたくはなかったが、話が横道に逸れて戻ってこなくなる気がして言わずにおく。憤慨して膨らませた頬もへこませて髪をくしゃりとかき回せば、その上に雲雀の手が降って来た。
ぽんぽんと叩かれる。小さな子供扱いされて不満なのに、心の片隅ではそれがどうしようもなく嬉しかった。
「ずっと、……嫌だったんです。リボーンのこと。五月蝿いし、怖いし、おっかないし、乱暴だし。説教ばっかりだし、すぐ殴るし。都合が悪くなったら赤ん坊のフリして逃げて、俺ばっか怒られて」
「へえ?」
それで調子が戻ったか、綱吉は幾ばくか声を高くした。饒舌に捲し立て、長く誰にも言えずにいた思いをここぞとばかりに吐き出していく。
視線は足元に、少しだけ左寄りに。俯いて顔を上げずに喋る彼を見下ろし、雲雀は緩慢な相槌をひとつだけ打った。
ちゃんと聞いているとの合図に気をよくして、綱吉は両手を握り締めた。興奮気味に上下に振り回しては鼻息を荒くし、頬をぷっくり膨らませて積み上げてきた不満を一気に吐露する。
「大体、俺はずーっと言ってたんですよ。マフィアになんかならない、って。だのにアイツはちっとも聞こうとしなくて。俺は、喧嘩は嫌いです。痛いのは、いやです。誰かと争ったりするなんて、俺には無理です。俺は、出来るならみんなと仲良くしたい。だから、清々しました。いなくなってほっとしました。もう殴られなくて済むし、小テストが赤点でもびくびくしなくていい」
ゲームだって好きなだけ出来る。マンガ本を読んでいても取り上げられない。日曜に遅くまで寝ていても、ベッドから蹴りだされることだってない。
静かで、穏やかで、和やかな毎日を送れるようになった。幸せだ。万々歳だ。
それなのに。
「でも、寂しい?」
「……」
心にぽっかり空いた穴は、自堕落な生活では埋められない。何をするにしても物足りなく感じて、すべてが味気なく思えて仕方がない。
世界が灰色に濁って見える。前まではあんなにきらきらと輝いていたものが、今やすっかり色褪せてしまっていた。
本当は皆と思い出話を語りたかった。だけれど口に出してしまうと、彼がいなくなった現実を認めなければならなくなる。けれど認めなければ前に進めなくて、迷い込んだ袋小路で出口が見つからない。
仲間がリボーンの話題に触れないように配慮してくれるのはありがたいが、反面煩わしくもあった。気を遣ってくれていると分かるからこそ、綱吉からも切り出し難くてずるずる時間ばかりが過ぎていった。
その点、雲雀はいつだって我が道を行く。相手の心情を慮ったりしない。ずけずけと土足で踏み込んできては、好き勝手荒らしまわって去っていく。
「寂しい、とはちょっと違うんですけど」
「ちがう?」
「なんて言えば良いのか良く分かんないけど、つまんないっていうか、なんで俺だけ此処にいるんだろう、って」
リボーンが死んでしまうかもしれないと知って恐怖を抱き、なんとかして彼を生かそうと考えて、考え抜いて、決断を下した。必死だった。懸命だった。
その甲斐あって、アルコバレーノは目出度く厄介な呪いから開放された。元の姿には戻れなかったものの、彼らを縛っていた鎖は粉々に砕け散った。
綱吉がリボーンの為に命を賭しての大博打に出たというのに、あの男はいともあっさり姿を消してしまった。その恨みも多少はある置いていかれるなど、夢にも思わなかった。
そんな本音が垣間見えたのか、雲雀が意地悪く告げた。
「じゃあ、行けば良かったじゃない。彼と一緒に」
「そんな!」
至極簡単に言われて、綱吉は悲鳴をあげた。
リボーンと共に行くとは、つまりはボンゴレを継ぐことだ。ようやく手に入れた平和な日々を失うということだ。
ちゃんと話を聞いていたのかと疑って目を剥いた綱吉に、雲雀がくっ、と喉を鳴らした。小刻みに肩を震わせて、長い前髪を優雅に掻き上げる。
シャツの袖が肘に引っかかって引っ張られ、細い手首が露わになった。巻きつけられた銀のブレスレットが鈍く輝き、存在を主張して鋭利な棘を震わせた。
元々はちっぽけな指輪だったものを見せ付けられて、綱吉はぐっと息を詰まらせて右手を左手で覆い隠した。
中指と小指を繋ぐチェーンが撓み、ぶつかり合って微かな音を響かせる。慌てて止めようとして握り締めれば、金属の冷たさが肌に突き刺さった。
「なら、どうして外さないの?」
人を小馬鹿にする口調で囁いた雲雀に、咄嗟に何も言い返せない。口を噤んで唇を噛むしかない綱吉を睥睨し、彼は自身の右手首を飾る物騒な腕輪を撫でた。
何かの拍子にぶつけたら、とても痛そうだ。背中に棘を持つハリネズミを思い浮かべ、綱吉は指輪を彩る雄々しい獅子をなぞった。
ボンゴレの継承者たる証、大空のボンゴレリング。その進化した姿であるボンゴレギアを今も肌身離さずにいる理由を問われても、答えは出てこなかった。
習慣、或いは癖。これを奪おうとする輩が今もどこかに隠れているかもしれないので、手放すのが不安で、心配。
言い訳としか聞こえない回答をすべて握り潰し、首を振る。喉の奥で唸った彼にそうっと嘆息し、雲雀は右手を腰に据えた。
「いいじゃない、なれば。何がそんなに嫌なの」
「俺は、誰かと争うとか、そんなの」
「別に毎日が戦場ってわけじゃないでしょ。それに、どうなの。運動音痴で全教科赤点の君が、他になれる職業なんてあるの?」
「う、うぐ、ぐ」
ザンザスはおっかないし、以前襲ってきた敵対ファミリーは脅威だ。日々襲撃に怯えながら過ごすなど絶対にご免被りたいし、ましてや親しい友人や家族が代わりに狙われるなど言語道断。
けれど雲雀の言う通り、他に綱吉が出来そうな仕事もないに等しい。サッカーをすれば顔面でボールを受け、テストで点は稼げない。中学校を卒業することすら出来るかどうかという瀬戸際では、描ける将来像など無職の引き篭もりしか残らない。
痛いところを衝かれて唸り、顔を赤くする。歯を食いしばって鼻の穴を膨らませている彼を笑って、雲雀は不意に彼方を見つめた。
窓の外、遠くを。何かあるのかとつられて振り向いた綱吉にまた喉を鳴らし、彼は軽やかに呟いた。
「まあ、君なら別に、いつまでも並中にいても構わないよ」
「――はい?」
実に楽しそうに告げられて、耳を疑った綱吉は素っ頓狂な声を上げた。目をまん丸にして姿勢を戻し、意味深に微笑んでいる男を呆然と見上げる。
そういえば彼は、いつでも自分の好きな学年だと言っていた。明らかに中学生でない外見の風紀委員も実在する。彼の権限があれば、幾らでも中学生でいられる。
卒業して進路に迷うこともない。一瞬ばら色の人生のように思えてしまって、綱吉はうっかり頷きそうになった。
「っていうか。それじゃあ俺、ずっとヒバリさんと一緒ってことですか?」
「不満?」
「いやいやいや、そういうワケじゃないですけど」
だが寸前で思い直し、最大の懸念に声を潜める。右の眉を持ち上げた雲雀に大慌てで否定して、彼はトクトクと弾んでいる心臓に小首を傾げた。
雲雀と一生一緒など、ボンゴレのボスになるのと同じくらい危険だ。いや、彼は自ら敵陣に踏み込んで蹴散らしていくタイプだから、むしろこちらの方がよっぽど死にそうな目に遭いそうだ。
それなのに、どきどきしている。面白そうだと思ってしまった。
興奮した。長らくご無沙汰だった、わくわくした感情を胸に抱かされた。
平穏無事を願っていたはずなのに、その逆を選ぼうとしてしまった。魅力的な誘いだと、手を取りかけた。
「どう?」
低い声で誘われて、綱吉の顔からさあっと血の気が引いた。青紫に染まった唇を戦慄かせ、冷や汗で濡れた両手をぎゅっと握り締める。
リボーンの不在で空いた穴が縮んだのが分かった。同時に、この空洞の本当の正体にも気付いてしまった。
魅了されていたのか、危険に。闘いに。命と命のぶつかり合いに。
火遊びのような一瞬の輝きに。
「か、……考えておきますっ」
この男の傍にいれば、心臓に悪い出来事にも度々遭遇出来よう。困ったことに、それを楽しそうだと一秒でも思ってしまった。
だが到底了承できなくて、蟲惑的な囁きを振り払うべく、綱吉は甲高い声で叫んだ。背筋を伸ばして深く一礼し、雲雀が次の言葉を吐く前に床を蹴って駆け出す。
階段を二段飛ばしに駆け上がっても、彼はなにも言わなかった。きゅうっと縮まった心臓を抱えたまま、綱吉は視聴覚教室のドアを勢い良く横に滑らせた。
到着を待ち詫びていた仲間たちの顔にほっと安堵して、額の汗を拭う。駆け寄ってくる獄寺に遅れたのを謝罪して、輪の中に入ろうと歩き出す。
この場所では絶対に埋められないだろう胸の穴を抱えての足取りは、非常に重く、鈍かった。
2012/11/18 脱稿