仲秋

「ああ、リボーン殿。良いところに」
 荘厳で、重厚な佇まいを今に残すボンゴレの本拠地。長い年月をかけて積み上げられ、増築を繰り返したことにより内部が迷路のようになってしまっている城の一角を歩いていたリボーンは、背後から息せき切らしてくる男に呼び止められた。
 硬質な音を響かせ脚を下ろしたリボーンが振り返る。彼が立ち止まったことで漸く走るのを中断できたと、膝に両手を置いて肩を激しく上下させたバジルは、長い髪を掻き揚げて唾を飲み、まずは呼吸を整えるところから始めた。いったいどこから全力疾走してきたのか、毛先が細く長い髪を乱暴に後ろへ梳き流し、彼は巨大な柱が乱立するホールに自分の呼吸音を響かせながらリボーンを見る。
 いったい何事か、と怪訝気味に眉根を寄せたリボーンへ、
「十代目を、知りませんか」
 顔を上げた彼は、額に浮かぶ汗もそのままにそう質問した。
「ツナを?」
「はい」
 思わず聞き返してしまったリボーンへ、彼らしい非常に生真面目な顔をしたバジルは深く頷く。その頃にはどうにか呼吸もひと段落ついていて、深呼吸を繰り返した後やっと顎に伝った汗を手首で拭い取った。
 リボーンは益々顔を顰めさせ、目の前の青年を見詰め返す。帽子の上でレオンが落ち着きなく這い回り、それを持ち上げた右手で押さえ込んだ彼は首を横に振った。知らない、とだけ返す。青年が、明らかに落胆の表情を浮かべた。
「そうですか……」
 溜息に紛れさせて呟く彼を前に、そういえば今日は午後から何か大きな会議が入っていたような気がする、と僅かに記憶にある綱吉の予定を頭に思い描く。今のバジルは綱吉の補佐役に回っており、指輪の守護者ほどではないにせよ、綱吉を影から支えているメンバーのひとりだ。
 既に彼らも成人し、リボーンもまたボンゴレの束縛から解放されている。本来はこの城に滞在する理由もないのだけれど、ボンゴレ十代目である綱吉の好意と、秘めた胸の内にある離れ難いという思いから、未だこの地に留まり続けている。周囲も、リボーンがこの場所にあり続ける、それが当たり前だと受け止めている節があった。
「どうかしたのか?」
「いえ、まぁ……はい」
 大体予測はつくが、それでも敢えて問い返すとバジルは視線を浮かせ、若干言いづらそうに言葉を濁した。だが相手がリボーンである事と、外部に不用意に情報を漏らさないだろうという信頼から、彼は最終的に諦めて肩を落とし、いなくなってしまったのだと簡潔に告げた。今日の会議は綱吉も重々承知しているだろうに、昼前から姿が見えなくなり、ずっと探しているのだという。その最中、偶然にもこの無駄に広い城でリボーンの背中を見つけ、何か知らないかと追いかけて来たのが事の顛末らいし。
 なるほど、と小さく頷いたリボーンだが、矢張り知らない、としか答えようが無い。綱吉とは昨日の夕飯時に顔を合わせたのが最後で、日付が変わってからは影すらも見かけていない。彼の行きそうな場所は探したのかと問えば、バジルは予想がつく場所は全部回ったと返す。
「他の連中は?」
「獄寺殿が今朝方早くに外出されていましたが、昼前には戻ってこられていたので一緒にどこかへ、ではないと思います。山本殿は、知らないと」
 昼食の準備が整ったからと呼びに行けば、綱吉の部屋は蛻の空。誰かが侵入した形跡も無く、部屋は綺麗に片付いていた。ただ主だけが不在で。
 彼の行動圏内はごく限られた範囲でしかなく、そこからはみ出てしまうと、例え綱吉であっても容易に城の内部で迷子になってしまえる。幼い頃から出入りしているリボーンでさえ、道が分かるのは全体の半分にも満たないのだ。複雑に入り組み、一度足を踏み入れてしまうと二度と戻ることが叶わない魔の宮殿とも称されるマフィアの本拠地は、守るのも容易いが時として味方さえ食らいかねない諸刃の剣。
 だからバジルが一番恐れているのは、綱吉がバジルも把握していないような秘密の通路に迷い込んでしまっているのではないか、とかそういう事。いくら行動が時として破綻して墓穴を掘る習性のある綱吉でも、この城の危険性は耳にタコが出来るくらいに聞かされているから、不用意なことはしないと信じたい。
 だが、好奇心に勝る危険性が無いのも事実。
「時間までどれくらいだ?」
「あと一時間ほどでしょうか。既に気の早いご老人が何名か到着していて、広間でお待ち頂いている状態です」
 高尚な御託を並べるのが得意な狡猾な老人達は、年若い綱吉の力量を未だに測りきれておらず、なんやかんやとちょっかいをかけ、都合をつけては様子を見に来る。中には彼と語り合うのを純粋に楽しんでいる人物もいるが、全員がそうだと考えるのはあまりに楽天的だ。
 いつ寝首をかかれてもおかしくないのが現状。一秒でも遅刻すれば、十年はそのことを揶揄され続けるだろう。常に奴らには隙を見せるなと注意して止まないのだけれど、成人式を迎えて既に数年という青年は未だ、中学生気分が抜けないところがある。 
「分かった、俺も気をつけてみよう」
 帽子を目深に被り直し、リボーンが呟く。バジルはホッと胸を撫で下ろすと、お願いしますと告げて踵を返しまた駆け出した。
 その背中を見えなくなる寸前まで見送り、自分が進もうとしていた方向に身体を反転させてから彼はふむ、と顎を撫でて頷く。綱吉が行きそうだと思いつく場所は、恐らく既にバジルが確認しているだろう。ひとりになりたい時に彼が好んで出向く場所も、大体周囲は把握している。そこいらを除き、残る綱吉がいそうな場所は、果たして。
「…………」
 瞑目して考えるが、こういう時に限って何も思い浮かばないのが世の常か。吐息を零し、此処に留まっていても仕方が無い、とリボーンは歩き出した。
 数百年前に増築されたというこの区画は、分厚い石の壁が積み上げられて等間隔で壁に燭台が並んでいる。隙間を縫うように設けられた窓は小さく、採光は最低限に留まる。だが完全に日が沈まぬ限りはどの時間帯であっても廊下は明るく照らし出されるように設計されており、ただ歩く分には申し分ない。いかめしい彫刻が表面に施された柱は太く、奥に行くに従って左右の幅は狭くなる。視覚効果を用いて奥行きが実際よりも深いように見せる技法だとかで、こんな手の込んだことをするから、迷いやすくなるのだとリボーンは無意識に舌打ちしていた。
 歩く度に足音が空間に響き渡る。反響する音がどこまでも続いて眩暈がしそうだ。綱吉は何処へ行ったのだろう、探さなければならないと分かっていながら気持ちはなかなか動かず、リボーンは本来の自分の目的さえも見失った状態で横幅のある廊下から居住区へ続く角を曲がった。
 どこかから、音がする。
「うわ、熱っ!」
 なんだろう、と足元を見ていた視線を持ち上げた瞬間、目の前の扉から飛び出してきた大声。ギョッとなって反射的に足を止め、身構えてしまう。右手には見事な中庭が面した回廊の、人ふたりが並んで通り過ぎるのがやっとの幅しかない通路に飛び出してきた黒い影に彼は目を見開き、唖然としたまま吐き出した息を吸う。
「あっちー……」
 いったい何が、どうなっているのか。リボーンの目の前に舞い込んできた黒い影は、己の右手首を左手で掴み持ち、痛みを堪えてその場で蹲っている。明らかに通行の邪魔、道を塞ぐ形になっている明るい茶色の髪の青年は、どこから入手したのか薄緑色の可愛らしいエプロンをしていた。着ているシャツの袖は肘の上まで捲りあげ、バンドで固定している。
 彼はすぐ間近に佇むリボーンの存在にも気付かず、奥歯を噛み締めて痛みを懸命に堪えていた。廊下にまで飛び出すくらいだから、余程の衝撃と痛さだったのだろう。しかし、「熱い」と言っているのは何故にか。リボーンは怪訝な表情のまま、彼が出て来た部屋を、その場所から見える範囲で確かめる。
 ――キッチン……
 城に無数にある居住区は細かく区切られていて、それぞれに生活に必要な設備が整えられている。綱吉たちが暮らす主客のある区画には一番立派なキッチンが用意され、専属のシェフが日々腕を揮っている。だからここは、本来はメインとして使用されることがない。大勢の来客があった場合などに利用される他はほぼ用無しで、規模もどちらかと言えば控えめ。無論、日本の建売住宅に備え付けられた台所などよりは、はるかに広く立派ではあるが。
 このような場所に、いったいどういう理由で。
「ツナ」
 名前を呼ぶ。動揺が口に出て、若干いつも呼ぶときよりも声が上ずってしまっている。それが分かったかどうかは定かではないが、自分自身の痛みを堪えていた綱吉が弾かれたように、涙目のまま顔を上げた。
 目が合う。瞬間、ばつが悪そうに視線を逸らされてしまう。
「なにをしている」
 立て続けに問いかけるが、返事は無い。しまった、という感情が表にありありと表れている綱吉が唇を尖らせ、右手を下にして立ち上がった。エプロンの裾が揺れ、林檎の刺繍が露になる。誰の趣味なのだろう。
「ツナ、ここで」
「あー、しまった噴き零れてる!」
 何をしているんだ。そう問いかけようとしたリボーンを遮り、台所内部を覗き見た綱吉がいきなり悲鳴を上げた。飛び跳ねるように室内に駆け込み、なにやらガチャガチャと不愉快な音を軽快に掻き鳴らす。爆発音までは轟かなかったが、綱吉は必死の形相で何かと格闘した後、またしても「熱い!」と口走って蹲った。
 本当に、何をやっているのだろう。
 この場所を選んだという事は、誰かに見付かりたくなかったからだとは想像できる。しかし放っておくわけにもいかず、リボーンはそんな彼の気持ちをあっさりと無視し、騒がしかったのが急激に静まり返った室内に足を踏み入れた。
 部屋の中央、作業台にも使えるテーブルには紙袋がいくつかと、白い大皿が置かれている。その横には透明なボウルがふたつ、片方は使用済みらしく表面に白いものがこびりついていた。もう片方には水が張られ、なにやら小さな白いものがいくつか沈んでいる。更にテーブルにも白い粉が飛び散って、粉雪が降った後のようだ。袋の中身を覗き込むと、日本語で書かれた食料品が目に飛び込んでくる。袋の口を全開にした上新粉と白玉粉の袋がふたつ並び、いずれも中身は半分ほどに減っていた。更に砂糖。
「うぅ……」
 呆れて言葉も出ないリボーンを下から睨み、綱吉が唸る。余程熱した鍋に触れた右手が痛いのか、涙目は相変わらずだ。迫力に欠ける。
「ツナ、何を」
「だって、もう十月だし!」
 怒鳴らなくても聞こえるのだが。彼は見られたのが恥かしいのか顔を真っ赤にし、渋々と立ち上がるとぎこちない動きでお玉を取り、左手一本で吹き零れてしまっていた鍋の底をかき回した。水気を切り、お玉に残る白い物体を持って振り返る。
 丁度リボーンが彼の進みたい方向の邪魔になっていたようで、睨みつけて右手で追い払う仕草をし、退かせた後、水を張ったボウルにお玉を浸ける。水の中を、直径二センチほどだろうか、白いボールが転がっていく。
「十月……?」
 それとこれと何の関係があるのだろう。分からないまま首を傾げたリボーンを更に睨み、綱吉はお玉を置いた手でボウルに沈んだ物体を小突く。踊るように水中を跳ねたそれは、僅かな抵抗を綱吉に返しただけで沈んでいった。
「うう、やっぱり固い」
 リボーンの独白を無視し、綱吉はボウルの前でがっくりと肩を落とした。見れば髪の毛の先にも白い粉が散っていて、手を伸ばし取り払ってやろうとしたら、気配を察した綱吉が先に腕を持ち上げ、拒否を示された。仕方なく姿勢を戻し、リボーンは白い泡の跡が残る鍋へと視線を移し変える。
 鍋の傍には皿と、そこにいくつか残る今ボウルに沈んでいるのと同じ色形をした物体。先程見た上新粉を使ったものだとは想像できるが、食べ物かどうかまでは判断がつかなかった。
「なんでだろう、上手くいかないや」
 肩越しに綱吉の元気が無い声が聞こえる。溜息がそれに続き、とぼとぼと鍋の前に戻って更に溜息。見ていて痛々しいほどだ。
 だが無常なまでに、こうしている間も刻々と時間は過ぎていく。バジルはまだ綱吉を探して城中を走り回っているだろうし、この地に根深く存在する老獪どもは今か今かと大広間で綱吉の登場を待ち構えている。
「ツナ、苦戦しているところ悪いが、もう時間がないぞ」
 袖を捲くり、腕時計の文字盤を読み取る。バジルが示したタイムリミットまであと四十分と僅か、というところか。
「ええ?」
 その声に大仰な反応を示し、綱吉は頭を振ってからリボーンを見る。漸く視線が真っ直ぐ重なり合った気がした。
「時間って?」
「お前なぁ……」
 どうやら当の本人は、今日行われる予定の大事な会議をすっかり忘れ去っていたらしい。大きな目を丸くして聞き返され、即座に教えてやる気にもなれずリボーンは肩を竦めて心底呆れ果てた。懸命に綱吉を探し回っているバジルがいっそ哀れに思えてならない。
 帽子を手に、レオンを退かしながら被り直したリボーンの動きを目で追い、腕組みをして考え込む姿勢を取る綱吉。五秒ほど間があって、唐突に「あ!」という矢のように鋭い声が天井に突き刺さった。
「え、うそ、やばい? 時間、今何時」
 おろおろと口の前に手をやって右往左往する様は滑稽であるが、それを笑っていられる余裕も最早残されていない。作業中だった為か腕時計をしていない綱吉は、壁を端から端まで見上げたものの、そこに固定の時計は用意されておらず、最終的にはリボーンの腕にしがみついて文字盤を覗き込んだ。
 直後にくらっと眩暈が起きたらしく、後ろ向きに身体が逸れる。倒れるかと思って腕を差し伸べ、抱きとめるとそのまま彼はリボーンに体重を預けて青ざめた顔を胸元に隠した。
「どうしよう、間に合わなかったぁー!」
 その場で地団太を踏んで叫ぶものの、リボーンにはさっぱり、何がなんだか分からない。ともかく落ち着けと彼の両肩に手を置くと、今にも死にそうな顔をいきなり上げてこられ、ガラにも無く驚いて言葉に詰まる。
「リボーン、お願い、助けて!」
「だから、さっきからお前は……」
「お月見するって今日約束したのに、月見団子が間に合わないの!」
「はぁ?」
 思わず、間の抜けた声で聞き返してしまう。だが綱吉はとても真剣な表情をして、涙ぐみながら必死の目を向けてくる。
 月見、月見団子。十月、中秋の名月。ここまでヒントが揃ってようやく、リボーンにも日本に伝わる風習が頭に思い浮かんだ。月にウサギがいるとかいう、あれである。テーブルにあった粉の種類、鍋に沈んでいる白いボール、なるほど言われてみれば確かに団子といえば団子だ。
「月見って、誰と」
「だから、みんなと……って、山本から聞いてない?」
 至極真面目に問いかけたリボーンに、当たり前のように言い返しかけた綱吉が途中で気付き、言葉を途切れさせて逆に聞き返してきた。それを眉間に皺寄せて受け止めた彼の表情を見て、綱吉は「ええー」とまた声を上げる。
「だって、みんなで一緒にって、獄寺君に頼んで材料買ってきてもらったのに」
 だからそう言われても、聞いていないものは知らない。そもそもリボーンは今朝から一度として山本とも顔をあわせていないのだ。バジルが言っていた、午前中の獄寺の外出は団子の材料を買うというので説明できるが、バジルは、山本も知らない、と言っていたと。
 知らない……それはつまり、綱吉の居場所は知らないが、何をしているのかは知っている。但しそこまで聞かれなかったから答えなかったか、山本が言い切る前にバジルが早合点してしまったか、のどちらか。恐らくは、後者だ。
 タイミングが悪いというか、気が急き過ぎているというか。
 巡り会わせが悪すぎる。
 思わず額に手を当てて天を仰ぐ。だが言ってもいられない。
「ともかく、団子は良いから、早く戻って準備をしろ。バジルには俺から連絡を入れておく」
「分かった……じゃなくて、ああ、お団子。どうしよう、間に合わないよ」
 じたばたと足を踏み鳴らす綱吉は、時間が逼迫しているのも理解しつつ目の前の月見団子も気になって仕方が無いようだ。このままだとどんどん時間は過ぎていくし、かといって会議に出席させたとしても団子のことが気になって気もそぞろになるに違いない。
 月見団子が気になって会談を失敗に終わらせるマフィアのボスなんて、前代未聞だ。リボーンは再び天を仰ぐ。
「あー……もう、分かったから。俺が代わりに作っておいてやる。だからお前は行け、もう」
 両天秤にかけた結果が、これだ。他に妙案も思い浮かばない。だから言いながら綱吉の背中に手を回し、軽く押す。ついでにエプロンの紐を解いて、頭から引っこ抜いた。
「リボーン?」
「良いから。レシピはあるか」
「あ、うん。そこに」
 それでもまだ戸惑っている綱吉にしつこいくらい言い聞かせ、問う。彼は遠慮がちに机の、袋を角に置いて重石にしていた紙を指差した。インターネットで調べて印刷したものらしい、写真つきのレシピが白い粉に表面を汚されていた。
 サッと目を通しただけではあるが、内容は大体理解できる。粉を混ぜてぬるま湯で溶き、練って丸めて湯に通し、水で冷やす。それだけ。これをどうやれば失敗したり、ここまで時間がかかったりするのかが逆に分からない。綱吉を見詰め返し、リボーンは溜息をついた。不器用にも程がある。
「リボーン……?」
「団子の、固さは」
「ええっと、ほら、耳朶くらいの」
 紙を引っ張り出して目の前に持ち、改めて書かれている内容を読み取りながらふと、リボーンが聞く。綱吉は横から覗き込んで、それから自分の耳朶を抓んで軽く引っ張った。
 固すぎず、また柔らかすぎずという意味で、よく例に使われるものだ。
 が。
「耳朶?」
「そう。耳た……」
 綱吉は真横で、人が吐く息の生暖かさを感じ取った。と同時に顔の真横にある器官に触れるねっとりとして柔らかい感触と、浅く肌に食い込む固いものに息を呑む。
 電撃が背中を駆け抜け、身を竦ませた彼は咄嗟に後ろへ飛び退いた。左の耳が引き千切られそうな痛みを一瞬放つ。左手で庇って触れた綱吉のそこは、濡れていた。目の前の男が、不遜な表情と態度を崩さずに赤い舌で親指と唇を舐めている。
「なるほど、これくらい、か」
「俺の耳で確かめるな!」
 確かに耳朶くらいの固さとは言ったが、それは自分の耳を自分で触れてみれば事足りること。しかしリボーンはあっけらかんと、自分の耳朶は噛めないだろうと言い返し、綱吉から言い返す気力をまんまと奪ってしまった。
 噛まれた耳を手で抑えたまま、膝を折ってがっくりと力が抜けてしまった綱吉だが、ハッと現実を思い出し、立ち上がると恨めしげにリボーンを見上げる。
「本当に、頼んだからな!」
 出来てなかったらお前の分の団子は無しだ。そんな子供みたいなことを言い放ち、立てた人差し指をリボーンに向かって突きつけて彼は台所を出て行った。石組みの壁に阻まれ、甲高い足音を響かせていた彼の後姿は呆気ないほどすぐに見えなくなる。
「やれやれ……」
 完全に足音が聞こえなくなってから溜息を零し、リボーンは両肩を竦めた。帽子の上でレオンがぎょろりとした大きな目を左右に動かし、反対側の鍔へと移動する。
 果たして綱吉は間に合うのか。恐らくはぎりぎりだろう。シャツの裾がズボンからはみ出していたりしないだろうか、そんな事を危惧しながらリボーンは着ていた上着を脱ぐと机の端に折り畳んで載せた。代わりに綱吉から引き剥がしたエプロンをつけようと考えて、あまりに自分に不釣合いな絵柄に暫く沈黙を。
 数秒間迷い、悩み、彼はそれも簡単に折り畳んで自分の上着に重ねる。白い粉が散って、黒いジャケットに斑模様が浮かび上がった。
 中秋の名月、月見団子。満月、夜、皆と肩を並べて縁側に座って。
「――まぁ、いいか」
 ふと脳裏を過ぎった懐かしい記憶に苦笑し、彼はカフスを外して袖を捲り上げた。忘れていた帽子もレオンごと机に置いて、レシピとまだ使っていない材料とを比較し、ケトルで湯を沸かしに取り掛かる。
 幼い日、奈々と一緒に狭い台所で騒がしくも賑やかに作った思い出を振り返りながら、粉まみれのボウルに新しく粉を注ぎ足し、ぬるま湯を注ぎ足して小さく丸めていく。これくらいか、と指で押した弾力はなかなか想像通りにはいかなかったけれど。
「俺らしくもない、な」
 粉まみれになって、笑いながら土いじりみたいに団子を作って。
 けれど日本で過ごした数年間、奈々と一緒になって団子を作り、ススキを飾って月を見上げた時間は振り返れば昨日のようだ。あの頃の綱吉もさっきまでの彼のように、不器用ながら懸命に団子を丸めていた。お互いの形の歪さをけなしあいながら、見上げた月はいつもと少し違って明るく輝いて見えたものだ。
 当時見た月と、今見上げる月。居場所は違えども、根源は何ひとつ変わっていない。
「なあ、ツナ」
 お前は俺が丸めたこの団子を、あの日みたいに上手く出来たと褒めてくれるだろうか?
 
 
2006/09/28 脱稿
2008/05/31 一部修正