涅色

 電球が切れかかっているのだろう、街灯がちかちかと眩しく明滅を繰り返していた。
 高い位置から降り注がれる光が、忙しなく足元を照らしていた。濃くなったかと思えばすぐに薄くなる影を踏みしめて道を進み、ようやく見えた自転車にほっと安堵の息を吐く。
 そうして影山は、楕円形の車止めが設置された公園の入り口を潜り抜けた。
 日はとっくの昔に沈み、空は藍色の闇に染められていた。月は雲に隠れて見えず、星明りは言わずもがな。近隣の住宅の窓からはオレンジ色の光が漏れて、賑やかな笑い声がどこかの家から響き渡った。
 台所の換気扇から美味しそうな匂いが漂い、油断していると腹の虫が鳴いた。きゅるるるる、とみっともない悲鳴を上げる己の腹部を軽く撫でて、彼は人気が乏しい公園内部を見渡した。
「日向」
 辺りはひっそりとしており、虫の声がそこかしこからこだましていた。動くものの気配はなく、呼びかけに対する返答も得られない。
 眠そうに欠伸を繰り返していたのを思い返して、影山はやれやれと首を振った。
「どこ行った?」
 呟き、目を凝らすが暗い所為でよく分からない。右手に握った缶コーヒーを掌で遊ばせて、彼は敷地の中心に設置されている照明を仰いだ。
 昼間は子供の声で溢れ返る場所も、さすがにこの時間帯はもの寂しい。日中なら順番待ちの行列が発生するブランコも、敷地の片隅でつまらなそうに佇んでいた。
 もっとも午後八時が近いとあって、こんな遅くまで小さい子が遊び惚けている方が異常だ。散歩中の老人もおらず、目当ての人物もとっくに帰ってしまった後と錯覚しそうになった。
 しかし振り返れば、入り口脇に自転車は停まったままだ。
「ひーなたー」
 夜間というのもあって、あまり大きな声は出せない。だから近所迷惑にならない程度に音量を絞り、左手を口元に添えてもう一度呼んでみるが、応答はなかった。
「……ったく」
 二度目も空振りに終わってしまい、影山は舌打ちすると背の低い缶をぎゅっと握り締めた。
 自動販売機から取り出した時にはひんやり冷えていたのだが、ずっと右手で掴んでいた所為か、今はほんのり温くなっていた。
 移動中にかなり振り回したので、これが炭酸飲料だったなら、封を切る時に酷いことになるはずだ。そちらの方が良かったかと一瞬考えて、彼は闇に紛れてしまいそうなカラーリングのデザインを見つめた。
 黒色をメインに使っているところからも分かるように、味はブラック。砂糖もミルクも入っておらず、相当に苦いはずだ。
「もしかして、寝てんのか?」
 もっとも影山は、普段からコーヒーなど飲まない。好んで摂取する飲料は牛乳か、ヨーグルトといった乳製品ばかりだ。
 これ以上でかくなってどうする、と見上げながら言われたのをふと思い出して笑いを堪え、彼は肩から襷掛けにぶら下げた鞄を揺らした。
 筆記用具や教科書の他に、色々と詰め込まれている所為でかなり膨らんでいる。中でも最もスペースをとっているのが、学校指定の黒い学生服だ。
 なにも考えずに丸めて押し込んでいるので、ズボンなどは皺だらけだ。しかし影山当人はまったく気にしておらず、小言が多かった母も諦めたのか、最近は何も言わなくなっていた。
 そんな大きな鞄を担ぎ、影山は一瞬悩んでから公園の奥を目指して歩き出した。
 住宅地の中に作られた公園は、小さい子向けの遊具がそこかしこに設置されていた。その為、少々見通しが悪い。昼間の、空が明るいうちはあまり気にならない程度であるが、日が暮れた後だと配置の悪さが殊の外気になった。
 影山の自宅はここから三区画分くらい先に行ったところにあるので、この公園とはあまり縁がない。どこに何があるのかもまったく把握しておらず、そう広くもないというのに少し迷わされた。
 ブランコは無人、柵に囲まれた砂場も同様だ。ジャングルジムは不気味な陰影を刻み、滑り台が寂しそうに天を見つめていた。
 どこにも見当たらない姿に幾ばくかの不安を覚え始めた頃、ようやく、探していたベンチが見つかった。
 そして。
「……やっぱりか」
 一緒に学校の門を潜った少年も、そこに居た。
 山ひとつ越えて烏野町に通っている彼にとって、自転車は生命線だ。バスの本数が限られているので、これがないと下手をしたら家にも帰れなくなってしまう。
 だからあの二輪車が入り口に残されている限り、彼が公園の外に出ている筈がなかった。
 それでも不安は付きまとう。もし不埒な輩に攫われていたら――とほんの一寸だけ可能性を考えていただけに、やっと巡り合えた無事な姿に、影山はほっと息を吐いて頬を緩めた。
 もっとも、たとえ誘拐などされていなくとも、屋外で無防備に寝顔を晒すのはどうかと思う。
「おい、こら。起きろ」
 この辺りの治安はそう悪くなく、新聞に掲載されるような物騒な事件は起きたためしがない。だが手癖の悪い人間は、どこを探してもいるものだ。
 警戒心皆無の顔をしてベンチに座っている日向に眉を顰め、影山は試しに長い足を繰り出した。
 むき出しの脛を蹴ってみるが、これまた反応は芳しくなかった。
 部活を終えて力尽きて、空腹よりも眠気が勝った結果だ。練習後の片付けと掃除の最中から既に舟を漕いでおり、このまま自転車で山越えさせるのはあまりにも危険だった。
 だから眠気覚ましにコーヒーを買ってきてやったのだが、どうやら一歩遅かったらしい。
「こら、ボケ日向、さっさと起きろ」
 いつもは坂ノ下商店で買い食いをしたりするのだけれど、棚卸しだとかで、今日に限って夕方の早い時間にシャッターを閉めてしまっていた。それで余計にがっくり来てしまったのかもしれない。この辺りで他に食料品を扱っているのは嶋田マートくらいなのだが、帰り道のルートから大きく外れているので足を伸ばす気にはなれなかった。
 自動販売機も、坂ノ下の前を過ぎてしまうと途端に数が減った。公園で待っているよう日向に言い聞かせてあちこち走り回ってみたが、一台発見するだけでも大変な苦労をさせられた。
 もっとも昼間の、太陽が燦々と輝く時間帯でなかっただけ幾らかマシだ。そう自分を慰めて、彼は手にした缶を胸の前で揺らした。
 多少温くなってはいるものの、まだ十分冷たいと言って良い。これを日向の頬か首にでも張り付かせたら、彼はどうするだろう。
 人が方々を駆けずり回っている間も、暢気にベンチで寝こけていたのだ。これくらいの仕返しは、許されて然るべきではなかろうか。
「起きないテメーが悪いんだからな」
 あまりの冷たさに、いくらなんでも飛び起きるはずだ。想像したら面白くてならず、影山はこみ上げてくる笑いを堪えて口角を歪めた。
 ただでさえ悪いと言われている目つきをもっと悪くして、ベンチにじり、と一歩近づく。肩幅よりも広く拡げられている足の間に潜り込もうとしたら、つま先が何かを蹴り飛ばした。
「ン?」
 見れば、日向の鞄がそこに納まっていた。
 影山と同じく肩から斜めに提げるタイプだが、デザインは違う。日向のものは広い口を蓋で覆い隠してボタンで固定するものだが、影山のそれはファスナーで開閉する仕組みだった。
 彼の鞄も制服でぱんぱんに膨れ上がっていた。お陰でボタンがひとつ留まらず、中身がちょっとはみ出していた。
 一瞬誰かが手を突っ込んで財布を探って行ったのかと勘ぐるが、学校を出た時からこの状態だったのを思い出して影山は肩を落とした。額にかかる前髪を掻き上げて嘆息し、目を眇めて眼下を見る。
 ベンチに浅く腰掛けて、背中を丸めて背凭れに寄りかかっている。首は後ろに倒し、若干左に傾いていた。瞼は閉ざされ、だらしなく開いた口からは涎が垂れていた。
「……ガキかよ」
 幼稚園児かなにかかと言いたくなる寝顔だった。幸せな夢でも見ているのか、微笑んでいるようにも映る。と思っていたら急に小刻みに震えだして、影山は反射的に身構えた。
 缶コーヒーを盾代わりにした彼の前で、日向はふにゃりと、気の抜けた顔で笑った。
「かげ……まぁ、とすぅ……」
 舌足らずに紡がれた言葉に、聞き間違いを疑って影山は目を丸くした。呆気に取られて数秒硬直し、解凍後は脱力して左手で頭を抱え込む。
 たった一言で夢の内容が大雑把に理解できて、彼はがっくり肩を落として黒髪を掻き毟った。
 夢の中でまでバレーボールを楽しんでいるらしい。しかも察するに、自分も一緒だ。
「夢ん中の俺も、お前に良いトス上げてやってるか?」
 手に当たった、と嬉しそうにはしゃいでいた日が懐かしい。瞼を下ろせば今でも鮮明に思い出せる記憶を振り返りながら苦笑して、影山は持っていた缶コーヒーをベンチの、開いている空間に置いた。
 冷たい缶で無理矢理起こすつもりでいたが、やる気が削げてしまった。いっそこのまま寝かせておいてやりたいとも思うが、そういうわけにも行かないとすぐに考え直して渋面を作る。
「ひなた」
 呼びかけるが依然返事は得られない。夢の中の自分がなにか気に入らないことでもしたのか、彼は口を噤んでふるふる首を振った。
 起こされそうと気取って、拗ねている風にも見える。寝入っている時まで表情豊かな彼に目尻を下げて、影山は飛んできた羽虫を手で追い払った。
 灯りがもっと沢山あったなら、彼の顔をもっとよく観察できたのに。しかしこの程よい暗さだからこそ、日向は心地よく眠っていられるのだろう。
「風邪ひくぞ。ヤだろ、熱出して部活休むの」
「うぅ~~」
 ただ此処は屋外で、日が落ちてからは気温も下がる一方だ。夜間の肌寒さは未だに身に凍みるほどであり、一晩中公園にいたら身体を冷やしてしまう。
 元気印が取り得のような日向だが、彼とて人間だ。熱を出すこともあれば、鼻水を垂らす日だってあって当然だ。
 折角念願叶って烏野高校男子排球部に入部出来たのに、体調不良で休まなければならなくなるなど、本人だって不本意に違いない。
 あれこれ考えながら肩を掴んで揺さぶってみるが、日向は一向に目を開けようとしなかった。逆にきつく瞼を閉ざし、顔を顰めて嫌そうに唸り声をあげた。
 どうやらこちらの呼びかけは、脳に届いているらしい。さっきまであんなに嬉しそうにしていたのに、一瞬で泣きそうなところまで口元が歪んだ。
 会話は成立していないけれど、寝ている人間と意思疎通出来るとは知らなかった。意外な発見に驚いて目を丸くして、影山は一旦手を離して上唇を舐めた。
 顎に手をやり、夢の世界に埋没している少年をじっくり観察する。
 黒のジャージにハーフパンツは、影山が身に付けているものと同じだ。サイズこそ違えど、背中にバレーボール部のロゴが入っているのも一緒だった。
 但し下に着込んでいるシャツは、それぞれ違う。影山は長袖を着用しているが、日向は半袖だった。
 前のファスナーを全開にして白地の布をさらけ出している。大股に拡げた脚は小鹿のように細く、適度に絞られて無駄な肉はついていなかった。
 青痣が残る膝小僧が丸見えだ。最初は深く腰を下ろし、寝入った際に前に少しだけ滑ったのだろう。その為にハーフパンツの裾がほんの僅かに捲れ上がり、引き締まった太腿がちらりと顔を覗かせていた。
 無防備という以外に的確な表現が見当たらない。公園のベンチという現在地も忘れて深い眠りに就いている彼に改めてため息を零し、影山は眉間に指を置いて皺を揉んだ。
 誰も来ない時間帯でよかった。心底そう思いながら、彼は無邪気に笑った少年に肩を竦めた。
「写真に撮っといてやろうか」
 それもまた、良い嫌がらせになるだろう。こんな姿を他人に見られたと知ったら、自分だったら恥ずかしくて町もろくに歩けない。
 けれど生憎と、カメラは持ち合わせていない。携帯電話ならあるが、残念なことに充電を忘れて電池切れを起こしていた。
 なんと間の悪い。昨晩の自分を振り返って嘆き悲しみ、彼は仕方なく目を凝らし、薄明かりの下で寝入る少年を瞳にしっかり焼き付けた。
 顔を近づけると、呼気がくすぐったかったのだろう、むにゃむにゃ言っていた日向がふいっと左に首を倒した。
 紅色の頬を向けられて、思わずかぶりつきたくなった。動物的な衝動に息を呑んで首を振り、影山は深呼吸を二度繰り返して背筋を伸ばした。
「日向、起きろ」
 時計を見ていないのではっきりとは分からないが、もう午後八時を回っているはずだ。影山はここから十五分ほどで帰りつけるが、日向はその倍の時間を、自転車を漕いでいかなければならない。
 眠いのは分かるが、本格的に帰られなくなってしまう。それで困るのは、日向本人だ。
 だから心を鬼にして起こしにかかったものの、眠りは深く、両肩を掴んで揺さぶっても彼は首をがくがく振り回すだけだった。
 もういっそ、自分の家に連れて帰ってしまおうか。
「お袋は、まあ……怒りはしねーだろうけど」
 前もって連絡も入れていないから、吃驚させるのは間違いなかろう。あと考えられる可能性としては、泣く、かもしれない。
 中学時代には殆ど友人らしい友人がいなかったので、家に誰か連れて行った例はひとつもなかった。ずばり聞かれた事はないものの、チームメイトと仲良くやっているのかという質問は、今年に入ってからも何度か受けたことがある。
 彼女なりに気を遣い、心配してくれているのだと思う。なかなかに感情の起伏が、息子と違って激しいところがあるので、日向を見た瞬間に泣き出す確率は五十パーセントを越えていた。
 それはそれで鬱陶しくて、実行に移すのを躊躇せざるを得ない。それに日向本人や、その家族からの了解も取らなければならないので、結局彼を起こすという結論自体には変わりなかった。
「おーい、起きろ。お、き、ろ。襲うぞ、コラ」
 先ほどよりも強めに揺さぶり、声も大きくして捲くし立てる。さりげなく余計な一言を混ぜ込んで囁けば、聞こえたのだろうか、日向の顔がくしゃっと歪んだ。
 口を尖らせ、小鼻を膨らませる。非常に嫌そうな顔をされて、影山は少なからず傷ついた。
 眠っている時まで心を誤魔化したりは出来ないはずで、ならばこれが日向の本音なのか。ちくりと刺さった鋭い棘に鮮やかな血を流し、彼はずきずき痛む箇所を抱えて下唇を噛んだ。
 出会った当初は衝突ばかりを繰り返したが、今ではかけがえのないパートナーになれたと思っていた。しかしどうやらそう感じていたのは、自分ひとりだけだったらしい。
 一方的に好意を押し付けられて、さぞや迷惑だったことだろう。申し訳ないと思う以上に悔しくてならず、影山は彼の為に一生懸命やっていた自分の滑稽さに泣きたくなった。
 黒々しい感情がにわかに膨らんで、あっという間に彼を包み込む。本気でここに放置していってやろうかと思い始めた矢先、涼しい風が襟足を撫でた。
 ひやっとした感触に、昂ぶっていた感情が一気に波を引いて去っていった。冷や水を浴びせられた気分でハッと息を呑み、二度ほど瞬きを繰り返した先で、相変わらず就寝中の少年が顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
 喜怒哀楽が激しい彼の表情は、これまでひと通り目にしてきたと思っていた。けれど今影山の目に映るのは、そのどれとも違う幸せそうな笑顔だった。
「……ひなた」
「うにゃ……む、ぅ~」
 呆然としながら名を呼べば、ベンチの上で猫のように伸び上がって口元を緩める。気負いのない微笑みを間近で見せられて絶句して、影山ははっとして右手で顔の下半分を覆った。
 つられて自分までだらしなく笑おうとしていたのに気付き、見る人など誰も居ないというのにカーッと赤くなる。ひとり羞恥を堪え、どうにもむずむずする胸を掻き毟っては落ち着きなく踵の上げ下げを繰り返す。
 変な汗が出て、上昇した体温は涼しい夜の風に瞬く間に攫われていった。
「……ったく」
 先ほどのむずがるような変な顔は、いったいなんだったのか。
 笑う前の準備運動かなにかかとひと通り考えるが、悩んだところで分かるわけがないと諦める。ため息ひとつ零して気持ちを切り替えて、彼は含み笑いを堪えているように見える少年に肩を落とした。
 地面に置かれた邪魔な鞄を蹴ってベンチ下へ押し込んで、入れ替わりに自分が前に出る。距離を詰めれば自身の影が日向に落ちて、辺りがほんの少し暗さを増した。
 これでは顔が良く見えない。けれど闇にだいぶ目が慣れたのもあって、さほど苦には思わなかった。
 すぅすぅと寝息を立てている同級生であり、チームメイトであり、恋人である可愛らしい笑顔をじっと見つめて、影山はベンチの背凭れを両手で掴んだ。
 日向を挟む形で腕を配し、右膝を軽く曲げて座面に乗せる。真上から覆いかぶさる体勢を取った彼に、ベンチの上の少年がピクリと肩を震わせた。
 だが瞼は開かない。それを至近距離から確かめて、影山はふっと鼻から息を吐いて笑った。
 見ようによっては微笑んでいる日向へ息を殺して顔を寄せ、薄茶色の髪で隠れがちの額へ軽く、触れるだけのキスを落とす。
 ちゅ、と可愛らしい音が響いた瞬間、眠っているはずの日向の唇が痙攣を起こしたかのように震えた。
 それでもまだ開かない瞳に苦笑を漏らし、影山は今し方くちづけたばかりの場所に額を押し当てた。こつんと骨をぶつけてぐりぐり押して、化かしあいもそろそろ終わりだと眉を吊り上げる。
「いい加減その狸寝入りやめねーと、本気で襲うぞ」
「うぎゃっ」
 凄みを利かせて怒鳴りつければ、耐え切れなくなったのだろう、目の前の華奢な体躯が大仰に跳ね上がった。
 逃げ出そうと足掻く身体を制し、両肩を掴んで真下に向かって押し出す。ベンチに縫い付けられた日向はくりくり眼を歪め、圧し掛かってくる影山を懸命に押し返した。
「ちょ、も……いだっ、いだだ、痛いってば影山」
「うっせー。大人しく、襲われ、と……け!」
 ジャージの上から骨に食い込む指が痛くて、近所迷惑も顧みずに大声を張り上げる。それに舌打ちして、彼は頭ごなしに罵声を張り上げた。
 鼻先に唾混じりの呼気を浴びせられ、眠気など微塵も残っていない目が零れ落ちそうなくらいまん丸に見開かれた。
 先に瞼を閉ざした影山が、首を僅かに右に倒した。
 あ、と思う暇もない。口を噤むのも、息を止めるのも間に合わなかった。
「ん――ムぐ」
 覆い被さられ、後頭部がベンチの背凭れに激突した。齧り付くようなキスをされて、吐き損ねた空気が変なところから飛び出していった。
 瞬きを忘れた瞳に、暗がりの中で祈るように目を閉じている男の顔が映し出された。
 長い睫が瞼を縁取っているのに意識が向いて、状況を遅れて理解した途端、日向の全身は茹蛸よりも赤く染まった。
「んぅ、む、っふ、んん~~」
 息が出来ない。鼻から吐いて吸えばいいのに、そのやり方が思い出せない。
 酸欠に陥った脳がみるみる機能を停止させて行って、なんとか引っぺがそうと足掻いていた腕からは次第に力が抜けていった。
 胸倉を掴んでいた指先が緩むのを確認して、影山も両手を開いた。簡単に折れてしまいそうなくらいに細い肩を軽く撫でて宥めて、目をぐるぐる回している恋人に心の中で舌を出す。
 ついでに本当に伸ばした舌でぺろりと唇を舐めれば、甘く色付いた場所が瞬時に大きく開かれた。
「……はっ」
 ようやく解放された日向が急ぎ酸素をかき集め、全力疾走した直後の顔をして胸を上下させた。飲み込むのを忘れていた唾液を何度かに分けて嚥下して、仄かに濡れている場所を左手で覆い隠す。
 薄明かりの中でもはっきり分かるくらいの紅色に相好を崩し、仕返し成功だと影山は満足そうに口角を持ち上げた。
「おま、……ちょ、サイテー」
「最初に騙くらかそうとしたのはどっちだよ」
 湿っている唇を拭いながら言われて、彼は即座に眉を吊り上げた。乱暴な口調で言い返し、頬とは違う理由で赤くなっている額を人差し指で小突く。
 まだ骨が痺れている感じがして、日向は咄嗟に首を竦めて口を尖らせた。
 そうやって可愛らしい仕草ばかり取るのがいけないのだと、思いはしても口には出さないようにして、影山はベンチに預けていた膝を下ろした。
 肩を竦めてひとり嘆息し、忘れていた缶コーヒーを持ち上げる。
 しかし途中で思い直し、彼はそれを、未だ開かれたままの日向の脚の間に移動させた。コトンと角で板を叩いて音を響かせ、ビクッとなった彼を試すような眼差しを投げる。
 至近距離から覗き込んできた影山に、彼はなんとも言えない微妙な表情を浮かべて下唇を噛んだ。
 露出している内腿に、温くなっているとはいえ体温よりは低い缶を押し当てられて、ふるりと震えた後に縋る目を前方へ投げ返す。
 口よりもよっぽど雄弁な視線に目を眇め、影山はコーヒー缶と右手を入れ替えた。五本の指を添えて、柔い肉をゆっくりと揉みしだく。
「……っ」
「俺ん家でいいな?」
「ほんと、お前って――」
 迫り上って来る熱を吐き出し、日向は首を振った。
 最後の抵抗の悪態は、暗闇の影に飲まれて響かなかった。

2012/10/13 脱稿