頂戴

 年末から急激に冷え込んだ日本の空は、数日間分厚い雲に覆われる事となり、天候は非常に不安定極まりなかった。
 都会ではすっかり珍しくなりつつある雪までもが、足跡が残るくらいに降り積もった。お陰で日本海側や東北地方での大雪のニュースは、連日のようにテレビを賑わせた。
 あんなには降らなくて良かったと思いつつ、並盛でもあれくらい積もれば楽しかったかもしれないと考えるのは、現地の人にとっては甚だ心外な感想であろう。しかし滅多にない降雪に心が躍るのは、一般的な中学生としては致し方のない思考と言えた。
 ランボ達と共に作った雪だるまは、今も庭先に鎮座している。表面が若干溶けて不格好であるものの、大小二つのボールを積み重ねた形状はまだまだ健在だ。
 道路を白く染めていた雪は、人や車が走るのに邪魔だからと端に寄せられ、いつの間にかすっかり消えてなくなってしまった。花壇を埋め尽くしていた分も、一日中日射しが差し込まない場所以外はもう残っていない。
 それを少し残念に思いながら、綱吉は炬燵の中に冷えた足を突っ込み、背中を丸めて身震いした。
 羽織っているちゃんちゃんこは、奈々のお手製だ。古着屋で売っていた着物をリメイクしたもので、色はオレンジ。健全な男子中学生としては色合いが可愛すぎるので、外出時に着る勇気はなかった。
 こうやって家の中で、廊下やトイレの寒さを堪える程度に愛用している。ちなみに、リボーンのは黄色で、ランボはグリーン、イーピンは赤だ。
「あー、寒っ」
 ぶるりと沸き起こった身震いをやり過ごし、心の中のみならず声にも出して呟く。膝を寄せて爪先を炬燵内部の熱源真下に置き、柔らかな布団を抱き締めた彼は、たかだかトイレに立っただけで大袈裟だ、と笑う声を聞いた気がして薄目を開けた。
 しかし実際にはそれは空耳で、彼の前には誰も居ない。炬燵を囲む人の影は無く、リビングはがらんどうとして静まりかえっていた。
「はー……」
 やがて深い溜息を吐き、綱吉はもそもそと動いて脚を伸ばした。
 いつもなら誰かの足にぶつかってしまうのに、今はそれも無い。テレビは先程自分で消したので、真っ暗なままだ。
 クリスマス、正月と季節のイベント関係なしに騒がしい子供達の雄叫びも、リボーンのニヒルな笑い声も聞こえない。奈々が台所で慌ただしく調理をする物音や、ビアンキが雑誌を捲る微かな紙の音さえも。
 今、この広い家には彼ひとりだけだった。
「俺も行きたかったなー、デパート」
 顎を硬い天板の上に置き、ぼんやりと目の前を眺めながら呟く。
 なんでも、今日は並盛駅前のデパートの屋上で、ヒーロー物のショーが行われるらしい。これはランボやフゥ太も大好きな番組で、チラシを見たふたりは揃って奈々の袖を引っ張り、連れていってくれるように喧しく強請っていた。
 奈々も、丁度デパートで買いたいものがあったようだし、皆が出かけるならイーピンも行かないわけがない。リボーンとビアンキは最初こそ渋ったが、買い物自体には興味があったようで、最終的に同行を決めた。
 残ったのは綱吉だが、冬休みの宿題を片付けられないまま冬期休暇を終えてしまった彼に、外出が許されるわけがなかった。
 始業式翌日に授業がある分だけは根性でやり遂げたが、残りは殆ど手付かずと言っても過言ではない。それらをこの三連休の間に、是が非でも完了させなければ、綱吉に明るい三学期はやってこない。
「でもなー、面倒臭いんだよなー」
 自分に言い訳をして身動ぎ、彼は冷たい天板に頬を押し当てた。
 自堕落に過ごしてきた天罰だと言われても、勉強が楽しくない手前、どうしてもやる気が出ない。皆が帰って来る前に、ある程度済ませておかないと駄目だと分かっていても、気力は午前中に尽きてしまって、もう欠片も残っていなかった。
 それに、連休はまだ二日目だ。明日死ぬ気でやればきっとなんとかなる、そんな発想も確かにあった。
「あー……、暇」
 こうやってゆっくりしている場合ではないのだが、炬燵があまりにも快適すぎて出られない。
 右手を引き抜いてテレビのリモコンを掴み、スイッチを入れる。即座に反応した画面に光が灯り、さっきまで見ていたお笑い番組の続きが一面に映し出された。
「ははっ」
 男性二人組のボケとツッコミ満載の会話に笑いながら、空にした手を膝の内側に押し込んで温める。外気に触れる場所を出来るだけ減らそうと姿勢を悪くして、綱吉は暫くぼんやりと、音と映像を聞き流して行った。
 冬休み中は何かと都合をつけて、みんなで集まってわいわい賑やかに過ごした。その反動もあるのだろう、予定の無い休日がとても寂しくてならない。
 いや、やらねばならない事はちゃんとあるのだ。しかし気乗りしない。それも、あっという間に終わってしまった冬休みに対する脱力感が原因の一部になっているのは間違いなかった。
 十分ほどテレビを見詰め、コマーシャルに入ったところでチャンネルを切り替える。だがドラマの再放送ばかりにぶち当たって、面白そうな番組には出会えなかった。
「ちぇ」
 つまらない。がっかりしながらリモコンを置き、綱吉は額を天板の、まだ冷えている場所に押し当てた。
「なんか、ないかなぁ」
 電話が鳴る、程度の事でもいい。宅配便が届くのでも構わない。この際温かい環境から出なければならないとしても、我慢する。退屈で死ぬよりはずっと良い。
 だのに願っても、祈っても、事は思い通りには進まない。ちゃんちゃんこに入れた携帯電話も終始無言で、取り出してディスプレイを睨み付けるが、結果は変わらなかった。
「むぅ、ぬぬぬ……」
 手を翳して妙な念を送ってみるが、状況は動かない。液晶ディスプレイはやがて自動で真っ暗になり、省エネモードに突入してしまった。
 テレビ番組も、気付かぬうちに別のお笑い芸人の出番に変わっていた。あまり好きではないコンビの登場に、気持ちもすっかり萎えてしまった。
 無言で電源を落とし、腰を浮かせて身体を反転させる。敷き布団にうつ伏せに寝転がった彼は、熱を持った足の位置をずらして安定出来る姿勢を作り出し、腕を枕に顔を伏した。
 目を閉じれば窓の外で繰り広げられる、様々な音が聞こえて来た。多くは風に揺れる窓や枝が揺れるばかりだが、たまに家の前を走る車のエンジン音も響いた。
 夢うつつに耳を傾け、ふと聞こえてきた地鳴りを伴う重低音に、目を閉じたまま眉根を寄せる。
「バイク……?」
 覚えのある排気音が、とても近い場所からした。
 心惹かれるものがあって、綱吉は畳んでいた腕を伸ばして支え棒にし、炬燵布団から下半身を引き抜いた。首を右に傾け、カーテン越しに見える景色に目を向ける。
 ブロック塀に囲まれた、猫の額ほどの広さしかない庭。物干し竿は今は空っぽで、春先は色とりどりの花が溢れる花壇も、寂しげに佇むばかりだ。
 その塀の向こうに、誰かがいる。綱吉の身長でも中を覗き込める高さしかないので、首から上は丸見えだった。
「っ!」
 琥珀色の瞳にその姿が映った刹那、彼は大慌てでリビングを飛び出した。
 勢い余って廊下でつんのめり、転びそうになっておっとっと、と片足立ちで横にジャンプを繰り返す。そのまま玄関に向かった綱吉は、端の方にぽつんと取り残されていた自分の運動靴に爪先を押し込むと、手を縺れさせながら鍵を外し、大きなドアを全力で押した。
「ひぁあ!」
 出来上がった隙間から一気に冷たい風が吹き込み、薄茶色の髪の毛を嬲って駆け抜けていく。咄嗟に身を竦ませた彼の奇妙な悲鳴は、庭と道路を仕切る門の手前に立っていた相手にもしっかり届いていた。
 黒のライダースジャケットを羽織った雲雀が、呼び鈴を鳴らす前に飛び出して来た綱吉に目を見開き、直後にぷっ、と噴き出した。
 丸めた右手を口元に押し当て、肩を小刻みに震わせる。パンツに、ブーツまで見事に黒一色の青年に、綱吉は寝癖の残る髪の毛を両手で押し潰し、悔しそうに鼻を啜った。
「やあ」
「どうも……」
 まだ笑っている雲雀に軽やかな挨拶を送られて、気まずげに口籠もる。入って良いかとの質問に頷くと、彼は遠慮無く門扉を押し開けて庭に入ってきた。
 バイクは路上に残されたままだ。しかしこの並盛町で、彼の所有物に手を出そうというような愚か者は、ひとりとして存在しない。
「赤ん坊は?」
「リボーンなら、買い物に出てます。みんなと」
「そう。君は、行かなかったの?」
 短い石畳の道を進み、玄関前のポーチまでやってきた雲雀の問いかけに、綱吉はぐっと息を呑んで答えに躊躇した。
 胸元に添えられた握り拳が震えているのを見て、黒一色の雲雀が不思議そうに小首を傾がせる。
 彼はやがて視線を浮かせ、瞬きひとつで下に転換させた。
「ああ、置いていかれた?」
「違います!」
 あっけらかんと言われて、反射的に綱吉は、悲鳴のような叫び声をあげていた。
 真っ赤になって反論する、そのムキになった態度こそが肯定を証明している。ハッと我に返った彼の前で、雲雀は不敵な笑みを浮かべて目尻を下げた。
「へえ?」
「む、う……。べ、別に、宿題が終わってないからだとか、そんなのじゃ」
「そうなんだ?」
「ふがっ」
 肩を支え棒代わりにしていた扉から後退して隠れ、しどろもどろに言い訳を口にする。途端に雲雀は愉しそうに目を見開いて、まんまと口車に乗せられたと知った綱吉は慌ててドアの奥に姿を消し、戸を閉めようと力を込めた。
 が、寸前に雲雀の長い足が隙間に潜り込み、ガッ、という衝撃を受けた両名がそれぞれに痛そうな顔をして首を竦めた。
 鉄板入りのブーツなので、挟まれた雲雀もさほど痛くはない。が、瞬時に泣きそうに顔を歪めた綱吉を見ていると、つい悪戯心が刺激されてしまう。
「いった……。折れたかも」
「え。ええぇえ!」
「嘘」
「ふぎゃ!」
 俯いて呻くように言えば、慌ててドアを全開にした綱吉が身を乗り出して来る。掴みかかってくる勢いの彼の焦り具合に、心の中でほくそ笑んでさらりと言えば、綱吉は予想通りの反応を見せてくれた。
 あまりに純真で、素直すぎる彼を嬉しく、そして少しだけ不安に感じながら、雲雀は手を伸ばし、流れ落ちそうでそうならない真珠の涙を拭ってやった。
「ほ、ほんと……に?」
「うん」
 涼しい顔をして頷く雲雀を疑り、綱吉は下ばかり気にしてオレンジ色のちゃんちゃんこを揺らした。
 新年になっても相変わらず跳ね放題の髪の毛を撫でてやり、雲雀は白い息を吐いて頷いた。靴でドアの縁を蹴り、硬い音を響かせて、ちょっとやそっとでは砕けないと教えてやる。それでやっと安心したらしい綱吉は、途端にふにゃりと力の抜けた笑顔を浮かべた。
 早春の爽やかな涼風を思わせる微笑みに、雲雀までもが一足早い初夏がやってきたような気分になった。
「あがっても?」
「あ、はい。今、誰も居ないんですけど」
 言って、綱吉は閉じかけのドアを開いて雲雀を招き入れた。
 忘れないうちに施錠を施し、ブーツを脱ぐのに悪戦苦闘している雲雀を余所に先にリビングに上がり込む。暖房のリモコンを操作した彼は、設定温度を四度ほど上昇させた。
 今は綱吉ひとりなので、大掃除もままならなかった自室よりもリビングの方が良い、との判断だった。
 群れを嫌う雲雀は、いつもの賑やかな沢田家をも敬遠しがちだ。けれど今は、子供達は揃って外出している。
「お邪魔するよ」
 一応断りを入れた雲雀が半端に開いていたドアを潜ると、手薬煉して待っていた温い風が、冷え切った頬を撫でて通り過ぎていった。
 予想していたよりも高い室温に、いそいそと散らばっているものを片付けている綱吉に目をやる。スウェットの上下に綿入りのちゃんちゃんと、見るからに厚着をしている彼なのに、暑くないのかと心配になった。
「ヒバリさん、何か飲みますか?」
 じっと眺めていると、視線に気付いた綱吉が膝を折ったまま背筋を伸ばして振り返る。急に話しかけられて、雲雀は袖の弛みを直す途中で動きを止め、少し考え込んで肩を竦めた。
「冷たい物、ある?」
 バイクを飛ばして来たとはいえ、そう長い距離ではなかった。凍えていた四肢も、元から温められていたリビングの暖気を吸って、強張りは徐々に溶けて来ている。
 思ってもみなかった返答を受けて、綱吉は新聞紙や雑誌の束を抱き抱えたまま上半身を右に倒した。
 不思議そうにされて、雲雀が小さく噴き出す。
「無いなら、なんでもいいよ」
「いえ、ありますけど……オレンジジュースとかなら」
「じゃあ、コーヒー。ホットで」
 胃袋は甘い物を欲していない。促されるままに炬燵の前に腰を下ろした彼の返答に、綱吉は露骨なまでに安堵の表情を浮かべた。
 綱吉の中にある雲雀恭弥という人物像がなんとなく想像出来て、雲雀は右肘を立てて頬杖をつくと、胡座をかいたその膝だけに布団を被せた。
 ずっとスイッチが入ったままだったのだろう、厚手の炬燵布団までもが充分過ぎるくらいに温かかった。
「待っててくださいね」
 まとめた雑誌類を部屋の片隅に置き、綱吉は短く言って元気よくリビングを出ていった。ぱたぱたと軽やかな足音を響かせて遠ざかっていった背中を見送り、雲雀は改めて、初めて入った室内を見回した。
 いつも綱吉の部屋の窓から入り、彼の部屋だけで完結させてしまっているので、トイレや風呂以外で一階に下りる事さえ稀ならば、玄関を潜るのも今日が初体験かもしれなかった。
 リビングの中央には大きな炬燵、窓際の角にテレビ、反対側にソファ。カーテン越しに庭が見渡せて、呼び鈴を鳴らすより先に、何故綱吉が玄関先に現れたのか、その理由を知って雲雀は微笑んだ。
 茶色の天板の上にはテレビのリモコンと、底の浅い編み籠が。中に盛られている蜜柑は、誰かが退屈しのぎにやったのだろう、綺麗なピラミッド型になっていた。
 これを作った人物の姿を思い浮かべ、雲雀は頬杖を崩し、頂点に鎮座している他よりも少し小ぶりの蜜柑を小突いた。
 程なくして丸盆にカップをふたつ載せた綱吉が戻ってきて、彼は雲雀の左斜めに居場所を定めた。
 馨しい香りが鼻腔を擽り、無意識に喉が鳴る。恐る恐る差し出された白い陶器からはか細い湯気が輪になって立ち上り、飲まずとも良質の豆が使用されているのが分かった。
 口を付けて少し含ませると、ほろ苦い中に微かな甘みを感じた。
「どう……です?」
「うん? 美味しいよ」
「良かった~~」
 気に入って二口目をつけたところで横からじっと見詰めてくる琥珀に気付き、小首を傾げる。率直な感想を述べると、綱吉は心底安堵した様子で肩の力を抜き、自分用のカップを両手で包み込んだ。
 ミルクが入っているのだろう、そちらは彼の髪色にも似た薄茶色だった。
「年末に、ディーノさんが送ってくれたんです」
「……へえ」
 年末、ということはクリスマスプレゼントだったのだろう。脳裏に浮かんだ気障な金髪の青年の笑顔に隠しきれない反発心を抱き、雲雀は一気に不味くなったコーヒーを我慢して飲み込んだ。
 綱吉は斜め前の青年が不機嫌そうに黙り込んだのに気付く事もなく、美味しそうにカフェオレを啜った。
 終始ニコニコしているが、それがカフェオレの旨さからなのか、もっと別の理由があるのかは分からない。雲雀はカップの底に残った滓を揺らし、左肘を立てて頬杖を作った。
 物音に綱吉が顔を上げ、数秒置いてから丁寧にカップを置いた。
「そういえば、ヒバリさん。今日って、なにか」
「用がないと来ちゃ駄目?」
「そうは言ってないです、けど」
 機嫌の悪さを残した返答に、綱吉は口籠もって視線を落とした。
 訪ねてくるという予定は聞いていなかった。予め連絡を貰っていたなら、他にも色々と準備も出来たし、服装だってもっとマシなものに袖を通していたのに。
 オレンジ色の、男としては愛らしすぎるちゃんちゃんこを撫で、綱吉は黙りこくっている青年をこっそりと盗み見た。
 雲雀は玄関先で、真っ先にリボーンの所在を気にした。ならば彼の目的は、あの赤ん坊と思って良かろう。
 一瞬でも自分に会いに来てくれたのでは、と考えて浮かれた。その馬鹿さ加減が嫌になって、綱吉は背中を丸めると曲げていた膝を伸ばし、炬燵の真ん中を横断させた。
 何もぶつからなかった。
 蹴ってやろうと思っていたのにそうはならず、残念でならない。ひとりふて腐れて、綱吉はもそもそと右手を動かして編み籠に積んだ蜜柑をひとつ手に取った。
 動き出した彼の手元を見やり、雲雀は首を振った。胡座を崩し、右足を前に出す。炬燵布団をかいくぐった長い脚は、綱吉の爪先の少し先をすり抜けていった。
 オレンジ色の表皮に親指を立てて、そこを起点に皮を剥いた綱吉は、横から突き刺さる視線を気にしながら、円形状に配置された房を真ん中で二つに割った。
 内皮の表面に蔓延る白い筋が、一緒になって引き千切られる。聞こえない音を脳内で聞き、雲雀は半分にしたものを更に半分にする綱吉の、ぷくぷくした指先に見入った。
 浴びせられる注目に若干のやりづらさを感じながら、綱吉は筋が無数に残る蜜柑の房を小分けにし、ひとつを口に含ませた。
「ん、甘い」
 前歯で噛んで、奥歯で磨り潰す。拉げて破れた薄皮から溢れ出した果汁が咥内いっぱいに広がり、彼は予想以上の甘酸っぱさにきゅっ、と首を竦めた。
 脇を締めて肘で横っ腹を叩き、続けてふた房、口に放り込む。咀嚼と嚥下を繰り返す顔は、次第に綻び、緩んでいった。
 嬉しげに目尻を下げ、あっという間に一個を食べきってしまった。手元にはヒトデのような形に広げられた蜜柑の皮だけが残され、それは間を置かずに二匹に増えた。
「……よく食べるね」
「だって、冬っていったら、やっぱり蜜柑じゃないですか」
 ざっくり皮を剥いた蜜柑を右手に構え、綱吉は目立つ太め筋を何本か爪で削ぎ落とした。
 淡々とした、どを浮かべて頬張る彼に嘆息し、雲雀は折り畳んだままだった左足の位置をずらした。
 腰に掛けこか呆れ口調の雲雀に言い返し、今度は三等分にして更に小分けにしていく。満面の笑みている炬燵布団を撫でて形を整え、後ろに置きっ放しだったジャケットを拾って付着していた埃を取り除く。襟を抓んで高く掲げ、綺麗に折り畳んで傍らに戻す頃には、綱吉の手の中の蜜柑は四分の一以下にまで減っていた。
 食べるのが早い。
 綱吉はどちらかといえば食事時ももたもたして、嫌いなものがあれば箸を付けずに残し、最後に苦渋の選択を強いられるタイプだ。それなのにこの果物だけは、妙にすいすいと口に吸い込まれていく。
「好きなの?」
 ふたつ目も完食した綱吉に問えば、彼はちょっと吃驚した様子で目を丸くし、顎に指をやって小首を傾げた。
「いいえ? 特に、大好きってわけじゃないですけど」
「ふぅん」
「でも、美味しいですよね、蜜柑。たまに沢山食べたくなるっていうか」
 言いながら、右手は既に三つ目に伸びている。籠の中のピラミッドは崩壊し、丸みを帯びた凹凸がバランス悪く並んでいた。
 雲雀が見ている前で、蜜柑の尻に爪を突き立てた綱吉が器用に、するすると皮と果肉を分離させていく。
 にこにこと屈託無い横顔を眺め、雲雀は両肘を立てて左右の指を絡ませた。
「蜜柑を、沢山……ね」
 ぽつりと呟かれた台詞に、綱吉は房を口に咥えたまま目をぱちくりさせた。
 雲雀は別の場所を見ていて、視線は絡まない。空耳だったかと自分の聴覚を真っ先に疑って、甘噛みしていた蜜柑を咥内に招き入れる。
 舌で包んで奥歯に添え、彼は慣れた調子で薄皮を磨り潰した。
 じんわり広がる甘酸っぱさに目を細め、うっとりしながら次の房も口に入れる。雲雀は彼の手の中からみるみる減っていく蜜柑に目をやり、筋が付着した指先を追いかけて瞳を動かした。
 休むことなくもぐもぐ動く、淡く色付いた唇に舌なめずりをして、肩を揺らして少しだけ炬燵から身を乗り出す。
 黒髪が波立つのを視界の右に見て手を止めた綱吉は、食べようとしていた蜜柑を、剥いた皮の上に置き、首を右に倒した。
「ヒバリさん?」
 雲雀はさっきからろくに喋りもせず、殊更動きもしない。そもそも彼が何の為に訪ねて来たのか、答えも教えて貰えないままだ。
 自分ばかりが食べていると思い出して、気恥ずかしさを覚えて綱吉は身動いだ。
「あ、えっと。……コーヒー、お代わりします?」
「ううん」
 見れば雲雀の前のカップは空っぽな上、冷え切っていた。居心地悪さを誤魔化すべく腰を浮かせ、立ち上がろうとした綱吉を制し、彼は首を横に振った。
 左肘を引いて、右腕一本で頬杖をつく。身の置き場に困っている綱吉にしっとりと微笑み、雲雀は座るよう促して上下に振った左手を、徐に綱吉の頬に押し当てた。
 指の背、続けて手の甲で触れられて、しなやかで強靱な感触に背筋が震えた。
「ヒバリ、さん?」
「沢山食べると良いよ。そうだね、妊娠すると酸っぱいものが食べたくなるって聞くし」
「……はい?」
 含み笑いを零した彼の発言が即座に理解出来ず、綱吉は目を見開き、素っ頓狂な声を上げた。
 肩を揺らした雲雀が、左手を更に下に滑らせた。ちゃんちゃんこの上からあまり締まっているとは言い難い腹筋を、円を描くようになぞられる。
 最後に臍の辺りに掌を押し当てられて、彼が言いたい事を漸く把握した綱吉は、全身の毛をぶわっ、と一斉に逆立てた。
「ばっ、なっ、……ち、違います!」
 何を言い出すのか、この男は。
 狼狽して叫び、力任せに雲雀の手を叩き落とす。痛がりもせずに肘を引いた青年は、真っ赤になって頭の先から湯気を噴いている少年に口を尖らせた。
「違うの?」
「違います。あ、あた……当たり前、です。大体、俺は、その……おとこ、です」
「知ってるよ」
 言い難そうに語尾を濁し、音量を落とした綱吉を前に、雲雀は何故か憤然とした面持ちで叩かれた手を撫でた。
 分かっていながら言っているのだとしたら、よっぽどだ。浮かせていた腰を沈め、足を横に広げた綱吉は、次に続ける言葉に迷って膝をぶつけ合わせ、太股に両手を挟み込んだ。
 横目で黒髪の青年を盗み見れば、彼はまだ不機嫌に口をヘの字に曲げて、綱吉を睨んでいた。
「あのですね、俺は、だからその、……産めません」
「そうなの?」
「そうです!」
「君なら、死ぬ気でなんとか出来るかと思ったんだけど」
「…………」
 至って平然と、さらりと言われてしまって綱吉は絶句した。
 急に頭が痛くなって、額に手をやって温い汗を拭う。室温が高すぎて吐き気までしてきて、彼は肩を落として立ち上がった。
 壁際に設置されたリモコンを操作して設定温度を五度下げて、ちゃんちゃんこの下に着込んだトレーナーの襟を抓んで前後に揺らす。反対の手で顔を扇いで風を呼び込んでいると、腰を捻った雲雀の突き刺さる視線を感じた。
 いくら死ぬ気になればなんだって出来るとはいえ、生物学的に男である綱吉が妊娠、出産するのは不可能だ。それくらい分からない雲雀ではなかろうに、どこまで真剣なのか判別つかなくて、綱吉は汗ばんだ肌を擦りながら指を鼻に近づけた。
 沢山食べたからだろう、爪の先から微かに柑橘類の匂いがした。
「兎も角、俺はそんなんじゃありません」
「なーんだ」
「……本気で言ってます?」
 きっぱりと断言すると、みるからに残念そうに嘆息されて、複雑な気分になる。雲雀は質問には答えず、意味深な笑みを口元にうっすら浮かべるだけに留めた。
 年明け早々彼に振り回されている。今年もきっとこの調子なのだろう、そんな事を考えながら綱吉は炬燵に戻ろうとして、自分がさっきまでいた場所の膨らみを足で踏んだ。
 炬燵布団を凹ませて、食べかけの蜜柑を持って右に左に忙しく首を巡らせている雲雀の横に移動する。
「寄ってください」
「綱吉」
「はー、あったかい」
 足で腰を蹴られた雲雀が、仕方なく真ん中から右にずれた。すかさず綱吉が出来上がった隙間に潜り込み、足を真っ直ぐ伸ばして自分の陣地を宣言する。
 持ってきた蜜柑を皮ごと天板に広げ、残っていた房をひとつ、口に入れた。
「ん、美味しい」
「……綱吉」
「ヒバリさんも食べますか?」
 離れて行くかと思いきや、近付いて来る。呆れていたと思ったら、急に積極的になる。
 コロコロ変わる表情と行動に雲雀は逆に戸惑わされて、返答に窮して言葉を喉に詰まらせた。
 なにも言わずにいると、綱吉は差し出した蜜柑の房を大きな目で見詰め、表面に貼り付いている白い筋を丁寧に剥ぎ取っていった。最後にふっ、と息を吹きかけて細かな繊維も彼方に飛ばし、どうぞ、と改めて突き出して来る。
 どうやら筋も全部取り除かないと食べたく無いタイプだと、勝手に決めつけられてしまったらしい。
「食べないんですか?」
「君こそ、やっぱり出来たんじゃないの?」
 何時までも動き出そうとしない雲雀に焦れて、綱吉が炬燵の中で足をぶつけて来る。太股を擦りつけられて雲雀は端に逃げ、覗き込んできた琥珀を真顔で見詰め返した。
 きょとんと目を丸くし、繰り返される話題に辟易した様子で肩を落とした綱吉が、溜息を吐いた唇に蜜柑をねじ込んだ。
「……欲しいんですか?」
「欲しいって言ったら産んでくれる?」
「無理です」
「じゃあどうして、さっきから蜜柑ばっかり?」
 真剣な表情だからこそ滑稽な会話に苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉は手元に残る蜜柑の房の数を数えた。
 籠にもまだ四個か、五個ばかり残っていた。
 もとはといえば雲雀があまりにも喋らないから、間を持たせる為に食べ始めたに過ぎない。ここまで固執されてしまうとは夢にも思っておらず、どう言い返せば良いか分からなくて、綱吉は甘い唇を舐めた。
「それは、だから。美味しいからです。ヒバリさんだって、食べたら分かります」
 いつになく諄い彼に閉口し、呆れ半分に呟く。ほら、とまたも丁寧に筋を取り除いた蜜柑を差し向けると、雲雀は初めて淡く微笑んだ。
 不意打ちに胸がドキリとして、綱吉の指の力が緩む。
「あっ」
「そこまで言うなら、貰うよ」
 人差し指と親指の間から、小さな房がするりと滑り落ちそうになった。それを雲雀が、綱吉の手ごと浚って口元に持っていき、パクリと食べてしまった。
 綱吉の、指ごと。
「っ……」
 温かで、それでいてねっとりとした舌に絡めとられる感覚に背筋が粟立ち、目を開けていられない。息を止めた綱吉は同時に硬く瞼を閉ざし、爪の間に潜り込んでいる蜜柑の果汁さえ舐め取ろうとする雲雀の悪戯に身を震わせた。
 炬燵布団の下で膝をぶつけ合わせ、肩を強張らせてひたすら耐える。そんな健気な彼に目を細め、雲雀はちゅ、とわざと音に響かせて濡れた爪の先にキスを贈り、離れた。
「うん」
 ひとり平然としながら満足そうに頷く彼を睨み、綱吉は無自覚に浮いた涙を堪えて奥歯を噛み締めた。
 上気した頬が赤みを強め、潤んだ琥珀の艶が増す。これといって運動をしたわけでもないのに肩で息をしている彼の額にも手をやり、薄茶色の前髪を掻き上げた雲雀は、下に隠れていた素肌にも、戯れにキスを落とした。
「甘い」
 掠れる小声で囁き、間近で呼気を浴びせられた綱吉がヒクリ、と喉を鳴らす。一瞬跳ね上がった華奢な体躯は、果たして何を想像したのだろう。
 黒濡れた瞳を眇め、雲雀は赤く熟れた舌の先を覗かせて婀娜な笑みを浮かべた。
「おれ、は……美味しくない、です」
「そう? どこもかしこも甘いけど」
 甘いのは蜜柑であって、綱吉ではない。そう言いたいのに言葉が出て来ず、呂律の回りきらないしどろもどろの返答に、雲雀は自分の言葉を立証すべく、左に身を乗り出した。
 肩を抱かれ、反対の手を腰に回されて、逃げられない。
「ぅ……」
 だけれど覚悟していたくちづけは降りてこず、その代わりに小ぶりの鼻に浅く牙を立てられた。
 仰け反り気味に目を閉じて待ち構えていたのに、予想と違う結果に思わず不満が顔に出てしまう。正直すぎる綱吉に堪えきれず噴き出して、雲雀は拗ねた恋人の機嫌が早く直るよう、祈りを込めて跳ね放題の頭を叩いた。
 蜂蜜色の髪が絡まぬようにゆっくりと梳いて、僅かに濡れている瞳を間近から覗き込む。
「じゃあ、どこが一番甘い?」
「それ、は」
 耳朶を弄った手が頬に回り、ふっくらした肌を包みこむ。至近距離からの囁きに、答えに窮して綱吉は口をもごもごさせた。
 何度も唇を開閉させて息を吸っては吐き出し、微動だにせず黙って待っている雲雀を上目遣いに睨み付ける。
 彼の事だから、どうせ分かって聞いているのだ。年が変わっても、相変わらず意地が悪い。
「う、ぅ……」
 だけれど、これでこそ雲雀恭弥だと思ってしまう自分が確かに存在していて、綱吉は弱り切った表情を浮かべて懇願の眼差しを彼に投げた。
 これで気付いて貰えなければ、彼でない。鼻を膨らませて無心に訴えかけてくる綱吉の思いの襞を丁寧に解きほぐし、雲雀は肩を揺らして笑った。
「ここ?」
 綱吉の太股に足を乗り上げて前に出て、左頬の際の部分に唇を寄せる。ちっ、と鳥の囀りにも似た音で耳朶を擽られて、綱吉は嫌々と子供のように首を振った。
「じゃあ、こっち?」
 今度はこめかみに、続けて瞼の上に。眉間、先程噛まれた鼻、頬、それから顎にも。
 順繰りにキスを落としていく雲雀に逐一首を振って返し、綱吉は息を乱して右頬に添えられたままだった手に手を重ねた。
 軽く爪を立てて握り、破裂寸前まで高められた心臓を宥めて上唇を噛み締める。
「だから、俺はそんな、甘くなんか……」
「ああ、良い匂いがする」
 半泣きになりながら上擦った声で必死に言い聞かせようとするのに、雲雀は耳を貸さずに吐き出された呼気を吸って、うっとりと目を細めた。
 蠱惑的な視線を浴びせられて、口に出しかけた言葉が途中で止まった。
「ここかな?」
「ヒ……」
 スッ、と音もなく忍び寄られて、ぶつかりそうな距離から見詰められる。魂を震わせた綱吉に優しく微笑みかけた彼は、緊張に震えて濡れる唇を下から掬い取り、ゆっくりと己の唇に重ね合わせた。
 柔らかな感触に温かな熱が、乾ききった綱吉の心にじんわりと広がり、蕩かしていく。
「んぅ、んっ……」
 最初は触れるだけ。一旦離れて、綱吉が息を吸うのを待って、もう一度。
 頬を撫でていた手が首を滑り、肩を包んで下に沈んでいく。炬燵布団を握っていた手を取られて、綱吉はその瞬間だけピクン、と肩を強張らせた。
 歯列を割って潜り込んできた熱が、喉の奥に逃げ込んでいた舌をからかって咥内を舐め回す。頭の内側から濡れた音がいやらしく響いて、背筋が粟立ち、臑が腓返りを起こして足先が引きつった。
「っあ、ん、……や、ぁ……ぁふ、ンっ」
「うん、やっぱり……甘い」
 反対の手で雲雀の袖を掴み、がむしゃらに引っ張る。それを苦ともせずに受け流し、彼は透明な雫を滴らせる舌を蛇のように揺らめかせ、低い声で囁いた。
 熟した果実よりも赤い淫靡な唇に魅入られ、綱吉は夢心地に彼に擦り寄って膝を立てた。
「綱吉」
「んっ、……やだ。ヒバリさんだって」
 甘く響く声が腰に響いて、負けてなるものかと声高に叫ぶがあまり効果がない。涙目で睨み付けても迫力は無いに等しく、逆に欲情を誘うだけだ。
 年が変わってもまるで分かっていない綱吉に心の中で苦笑し、雲雀は華奢な肩を引き寄せて、腕の中に閉じこめた。
「君の方が」
 恥ずかしさから赤く染まっている耳朶にもキスを落とし、戯れに牙を立てて咬みついて、耳殻に直接息を吹きかけて囁く。短い悲鳴をあげて身を竦ませた綱吉の腰を抱き、邪魔な炬燵布団を押し退けて仰向けに寝かせる。
 気付けば真上に居た雲雀に目を瞬かせ、綱吉は時間を気にして時計を探して首を左に倒した。
「部屋に行く?」
「う……」
 此処はリビングで、奈々や子供達もいつ帰って来るか分からない。表に雲雀のバイクがあるので、リボーンは察してくれるかもしれないが。
 ともあれこんな場所で事に及ぶのは危険極まりなく、低音の提案に綱吉は弱り切った顔で頷いた。
 涙を湛えた琥珀に破顔し、雲雀が小ぶりな鼻にそっとくちづける。
「……結局、ヒバリさんって、なにしに来たんですか」
「そんなの、決まってるだろう?」
 横向きに抱き抱えられ、炬燵布団から足を引き抜かれる。爪先にひやっとした空気が刺さり、オレンジ色のちゃんちゃんこを弛ませながら、綱吉はまだ聞いていなかった彼の来訪の目的を問うた。
 落とさないよう姿勢を安定させ、何度か身を揺すった雲雀が、目配せして意地悪く微笑む。
「君を食べに、だよ」

2010/1/4 脱稿