白い校舎、広いグラウンド。体育館、プール、テニスコート云々、そういった設備がひと通り揃った並盛中学校の一画で、
「ぎゃははははは!」
おおよそ中学生らしからぬ子供の笑い声が響き渡った。
なにがそんなに楽しいのかと、追いかける側の人間には耳障りでしかない声の主は、まだたったの五歳だ。当然ながら中学校の生徒ではなくて、昼の休憩時間に勝手に潜り込んで方々を走り回り、暴れ回っているだけに過ぎない。
飼い主、もとい彼を自宅に居候させている手前、放っておくわけにもいかず、沢田綱吉は耳慣れた声を聞いた瞬間飛びあがり、昼食もそこそこに教室を飛び出した。そうしてかれこれ十分近く、五歳と十四歳の追いかけっこが学校内で展開されていた。
大半の生徒には既に見慣れた光景と化しており、また二年の沢田か、という呆れた視線があちこちから彼の背中に突き刺さる。もっとも綱吉本人は他人の目などどうでも良くて、形振り構わず全力疾走を繰り返した。
一秒でも早くランボを捕獲して、学校の外に追い出さないと、午後の授業に差し支える。なにより中学校全体に目を光らせている風紀委員が恐ろしかった。
息も絶え絶えになりながら中庭に出た綱吉は、やっとのことで建物の角に幼子を追い込み、両手を高く掲げた。
「さあ、もう逃げ場はないぞ。大人しく観念しろ」
「やーだもんね!」
今すぐにでも捕まえることはできるが、自分から降参するように促す。しかしランボは綱吉の与えた温情を無視し、あっかんべーと舌を出した。
それにむっとした綱吉が、唇をへの字に曲げて右足を前に繰り出した。躙り寄る彼の影で視界が僅かに暗くなったランボは、少しだけ臆したらしく後退を図り、此処より先に道が無いのを思い出して唇を噛んだ。
迫り来る綱吉を渾身の思いで睨みつけ、突破口を探して姿勢を低くする。毛むくじゃらの頭が前に出て、中に紛れ込んでいる爆発物が綱吉の目に留まった。
なんて危険なものを、こんなにも無防備に持ち歩いているのだろうか、この子は。
誰かに当たったら怪我だけでは済まないし、学校で爆発したら建物が損壊して被害は大きくなる。風紀委員長も、怒る。
想像してサーっと青褪めた綱吉は、即座にブンブンと首を振り、トンファーを構えて酷薄な笑みを浮かべる青年の図を脳内から追い出した。今すぐにランボを確保出来ればいいだけの話だと自分に言い聞かせ、更に一歩前に出て距離を詰める。
パタパタという軽やかな羽音がすぐ後ろを登っていったのにも、集中していた彼は気付かなかった。
だがランボには、見えた。
「あ、鳥!」
「え?」
「とりー!」
小さな子は動くものに反応する。なんにでも、すぐに興味を示す。
御多分に洩れずランボもそのひとりで、彼は綱吉の後ろを、風を切って登っていった黄色い鳥を指差し、叫んだ。
何のことだか分からず、戸惑いに綱吉の瞳が揺れた。振り返ってランボが言う鳥を探すものの、とうに視界から消えた後。そして姿勢を戻した先では、さっきまで確かにそこにいた五歳児までもが、忽然と姿を消していた。
一瞬の早業で、呆れを通り越して尊敬さえ抱いてしまいたくなる。
「こら、ランボ!」
「鳥、みーっけ! 待てー」
再度振り向けば、小さな角が横揺れを起こして走っていく。慌てて声を荒げたが、それで止まるような子なら最初から苦労などしない。
制止を振り切ってランボは校舎内に駆け込んだ。壁に遮られて行方が追えなくなり、綱吉は地団太を踏むと、悔しさを噛み殺して屋内に舞い戻った。
時計が無いので正確な時間は分からないが、休憩時間はもう残り少ないはずだ。授業が始まったら、強制的に教室に戻らなければいけない。いつだったか、そこにランボが乱入して授業をむちゃくちゃにした事もあった。
悪いのはランボなのに、怒られるのはいつだって綱吉だ。先生の雷はもうこりごりで、彼は懸命に足を前に運び、素早い子供を追いかけて階段を駆け上った。
「どこまで行く気だ?」
手摺りに捕まって踊り場でターンした綱吉は、周囲に悲鳴を巻き起こしながら休み無しで走り回るランボの背中に目を眇めた。
彼は中庭から一番近かった階段を使い、真っ直ぐ上を目指していた。途中で力尽きてくれやしないかという期待は、抱くだけ無駄だろう。自分が先に脱落しそうだと、空腹を訴える胃袋を制服の上から撫で、綱吉はトホホ、と肩を落とした。
少しだけ食べた昼食は全部消化、吸収されてしまったらしい。急激な運動で吐き気を覚えるよりはいいが、この調子では無事にランボを捕まえたところで、弁当箱との再会は五時間目終了後になりそうだ。
獄寺や山本の助力を仰げばよかった。簡単に捕まえられると高を括った十五分前の自分を殴りたい。
「ったく、ランボの奴、帰ったら、オヤツ抜き、だから、な」
問題行動ばかり起こすとはいえ、五歳児相手になにを真剣になっているのかと、人が聞けば笑うだろうか。しかし至って真面目な顔をして綱吉は喘ぎ、唇を舐めて愚痴を吐いた。
やっとのことで最上階に辿り着き、屋上に通じる階段を半分登って、膝に両手をやって息を整えながら上を見る。狭い踊り場のドアの前で、ランボはしっかり閉まったドアを前にぴょんぴょん飛び跳ねていた。
彼は小さいから、背伸びをしてもドアノブに手が届かないのだ。しめた、と綱吉はにわかに元気を取り戻し、バクバク言う心臓を宥めて背筋を伸ばした。
外に通じる扉は、台風などの暴風にも耐えられるよう頑丈に出来ている。鉄製で、つまりは重い。
非力なランボでは絶対にドアを開けられない。悪戦苦闘している姿は見ていて可哀想であるが、綱吉も自分の身の安全と心の安寧が掛かっているのだ。
言い聞かせ、非情に徹し、綱吉はゆっくりランボに迫って両手を広げた。
「うあぁぁぁ~~ん!」
「捕まえた」
彼がジャンプし、無防備になった瞬間を狙って綱吉は腕を伸ばした。しっかり捕まえて、胸に引き寄せて抱き締める。
当然ランボは嫌がり、両手両足を振り回して暴れた。小さな拳で顎を殴られ、すきっ腹に蹴りを入れられ、温厚な綱吉もいい加減腹が立ってくる。
そもそも誰の所為でこんな大変な目に遭わねばならないのか。
「大人しくしろ。学校に潜り込むお前が悪いんだ」
「い~や~! ツナのばかちん!」
「なっ、誰が馬鹿だよ」
放せ、と暴れまわる幼子を懸命に押さえ込み、綱吉が怒鳴った。それで余計にランボは泣き声を大きくし、鼻水を垂らして、身体を前後に激しく揺さぶった。
中庭で見たあの、パイナップルにも似た形状のものがひとつ、彼の動きに耐え切れずにもじゃもじゃ頭から顔を出す。
にょっきり生えた金属製の南国果実に驚き、綱吉はぎょっとなって全身を硬直させた。
恐らくランボは無意識だったのだろう。リボーンに泣かされた時と殆ど同じ反応で、髪の毛に埋もれていたそれを鷲掴み、ピンを引き抜く。銀色の針金が薄暗い空間でもいやに明るく見えて、背筋が凍り、綱吉は咄嗟にランボを投げ捨てた。
階段を二段飛ばしに駆け下り、踊り場に出たところで耳を塞いでしゃがみ込む。
刹那、凄まじい爆音が暴風を伴って頭の上を駆け抜けて行った。
小さな明り取りの窓ガラスが、割れないまでも衝撃を受けてビリビリと震え、濛々と立ち込める煙に視界は一気に灰色に染まった。煙を吸って咳き込み、腕で鼻と口を押さえた綱吉は中腰で立ち上がって、見捨ててしまったランボを探し、顔の前の煙を払い除けた。
鳴き声は聞こえるが、聴覚が麻痺したのかとても遠い。
「ランボ? けほっ、ランボー」
どこか怪我でもしたのだろうか、まるで風呂場にいるみたいに頭の中で声が反響しており、距離感が掴めない。
綱吉は這いずるように両手両足を使い、駆け下りたばかりの階段を登った。手榴弾の爆発によって、吹き飛びはしなかったがぱっくり口を開けた扉から差し込む光に目を細める。
入ってくる風で煙が下に追い遣られ、濁っていた視界は直ぐに輪郭を取り戻した。火薬の臭いが嗅覚を刺激して、咳き込むたびに喉が痛い。
あまり目立たない喉仏をなぞり、最上段を踏み越えた綱吉は、下半分が黒焦げになっている鉄製のドアに手を添え、押して隙間を広げた。
外に出ると、屋上はまるで何も無かったかのように静まり返っていた。それが却って不気味に感じられて、鳥肌を覚えて身を縮めこませた綱吉は、階段には居なかったランボを探し、視線を泳がせた。
右手で耳を押さえ、水中にいるような不安定な聞こえ方に眉根を寄せる。風が強く吹いていると思っていたがそれは間違いで、実際は肌をそっと撫でる程度でしかなかった。
ただ音が、轟々と耳の直ぐ傍を通り抜けていくだけで。
変なことになった、ともう片手も持ち上げて頭を抱え、彼は長く息を吐いて肩を竦めた。チャイムの音だけは聞き逃さないようにしようと決めて、一向に姿が見えないランボの名前を叫ぶ。
自分の声すら遠い。風の音だけが五月蝿い。
跳ねた薄茶色の髪を躍らせながら、綱吉はゆっくり前に進み出て後ろを振り返った。
「見つけたもんね!」
瞬間、それまではっきり聞こえなかった耳に、ランボの声が急に大きく響いた。
「っ!」
「こっちに寄越すんだもんね!」
咄嗟に耳を塞いで頭痛を堪え、声の主を探して上を見る。屋上の出口があるコンクリートの建物のその上、ほぼ正方形の平らな屋根の片隅に、長い脚をぶらぶらさせて座る青年が居た。
綱吉たちが着ている制服とは違う、色の濃いスラックス。白いシャツに紺色のネクタイ、肩に羽織るのは黒い学生服。その腕の通らない袖には、臙脂色の腕章が。
眠そうな、そしてとても不機嫌な顔をして、彼は銀色のトンファーを横薙ぎに振るった。
「ぷぎゃっ」
「ランボ!」
彼の傍には、黄色い丸々とした小鳥が一羽。ぱさぱさと翼を広げ、折角よじ登った壁から敢え無く落下したランボを見下ろし、それは高らかに並盛中学校校歌を口ずさんだ。
甲高い悲鳴ひとつを残し、殴り飛ばされたランボはくるくると回転しながら屋上のコンクリートの床に激突した。受身など取れるわけがなく、勢いも殺しきれなかった所為で後頭部を擦りながら一メートルばかり滑り、パタッと倒れて停止する。
そのまま数秒動かないものだから、今度こそダメかと思いきや、綱吉が駆け寄ろうとする手前でむっくり起き上がって、大きな目にいっぱい涙を浮かべ、元気一杯泣き出した。
「うぎゃー、びー!」
「五月蝿いね」
「ちょっ、ひ、ヒバリさん。待って、止めてください」
これが人間の発する泣き声か、と思うような絶叫ぶりに、雲雀が眉間に皺を寄せてトンファーを握り直した。飛び降りるべく立ち上がり、立方体の角に爪先を乗せて眼下を見下ろす。学生服の裾をはためかせている彼の不穏な気配に、綱吉は即座に間に割り込み、両手を広げた。
目をごしごし擦って鼻をぐずらせている幼子は、確かに悪戯が過ぎるし、人に迷惑ばかりかけているけれど、それでもまだ小さい、分別のつかない子供なのだ。それなのに容赦なく殴り飛ばした雲雀に、少なからず反感を抱いて綱吉は眦を裂いた。
唇を真一文字に引き結び、臆するものかと腹に力を入れている彼を睥睨し、雲雀は不遜に笑った。
「へえ? じゃあ君が代わりに咬み殺されてくれるの」
「あ、いや。違います。決して、そういうわけじゃ……」
一分の隙無くトンファーを構え持った雲雀から立ち上る不穏な気配に背筋を粟立て、綱吉は大慌てで首を振った。
だが雲雀は聞いてくれない。綱吉の主張など何処吹く風と受け流し、黄色い鳥を遠くへ追い遣ると、右肩を掴んで高い場所からひらり、舞い降りた。
膝を折って着地の衝撃を吸収させ、すかさず立ち上がる。全く乱れない学生服は相変わらず見事だが、今のこの状況で呑気に感心している暇は無かった。
サーっと血の気が引いていく。頼むから近付いて来てくれるなと祈り、元々の騒動の原因となったランボを人身御供に差し出そうと振り向く。
だがまたしても、あの子は忽然と姿を消していた。
「俺は、その。って、ランボ」
「うわーん、ツナのばーっか。だいっきらい!」
何処へ、と足元に視線を走らせていたら、もっと遠い場所から罵声が響いた。
顔中を涙と鼻水でぐしょぐしょにした五歳児が、閉じることが出来なくなってしまった扉に向かって一直線に突っ走り、校舎内部に消える直前、捨て台詞を吐いた。
大嫌いとまで言われ、ショックに呆然として直ぐに追いかけようという考えが浮かばない。立ち尽くした綱吉は出し掛けた手を中途半端な位置で泳がせ、ひやりと冷たい風を起こしている青年をぎこちなく振り返った。
一見邪気の無い爽やかな笑顔が、尚更恐ろしい。
「ひぃぃ!」
背筋が震え上がり、綱吉は仰け反って振り翳されたトンファーを避けた。
削られたコンクリートの破片が散り、顔目掛けて飛んでくる。咄嗟に両手を交差して防ぎ、バックステップで後退して距離を取った彼は、目を爛々と輝かせている雲雀に肝を冷やした。
「どうして避けるの」
「どうして俺が殴られなきゃいけないんですか!」
理不尽な物言いについ大声で怒鳴り返し、二秒してから綱吉はハッとした。
ついついツッコミを入れてしまった自分の浅はかさを呪いながら、彼は焦げ色がくっきり出来ている扉に目を向けた。ランボの声はもう聞こえない、大人しく家に帰ってくれていればよいのだが。
いや、今はあの子を気にしている場合ではない。思い直し、雲雀に向き直る。
直後に校舎外側に設置されたスピーカーから、昼休みの終了と午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。
ハッとして、視線を上向かせる。
「うわ、終わっちゃった」
「待ちなよ。何処へ行く気?」
綱吉がちらちらと出入り口を気にしているのは、雲雀とて気付いている。左右に一本ずつ、凶悪な武器を手にした彼の問いかけに、チャイムでの脊髄反射で教室に戻ろうとしていた綱吉は、出し掛けた足を引っ込め、苦虫を噛み潰したような顔をした。
中学生はまだ義務教育期間であり、学生の本分は勉強だ。
「教室に。だって、授業」
「僕の眠りを妨げておいて逃げようだなんて、そうはいかないよ」
「ヒバリさんを起こしたのは俺じゃないのにぃ!」
そもそもの原因は、ランボが黄色い鳥を見かけて、捕まえようと追いかけたことにある。ならば雲雀が、この鳥を放し飼いにしていたのが一番悪いのではないのか。
自分は巻き込まれただけで、本来は全くの無関係。むしろ貴重な昼休みの大半を潰すことになった、被害者というべき立場だ。
雲雀に責められるいわれは無い。だけれど、彼は聞く耳を持たない。
「知らないね。第一、あの子は君の家の子だろう」
監督責任不十分。ぴしゃりと言い切られて、反論出来ず綱吉は唇を噛んだ。一度はランボを庇って割って入ったのもあるので、五歳児ひとりに罪を着せるなんて事は、今更出来そうになかった。
かといって、大人しくトンファーの餌食になるのだって嫌だ。
「けど、ですけど! 俺、このままじゃ遅刻です。授業遅れちゃう」
「関係ないよ」
「大有りですってば!」
どうにか説得できないかと、綱吉は何も巻いていない左手首を指差して捲くし立てた。すげなくあしらおうとする雲雀に強気に訴え、距離を狭めてくる彼を睨んだまま後ろに足を引く。
息を潜めて注意深く動向をうかがいながら、少しでも逃げ出す隙を見つけ出そうと綱吉は躍起になった。凄まじい集中をみせる彼に、雲雀が楽しげに口角を歪める。
「いいね、君。もっと僕を楽しませてよ」
「お断りします!」
彼の喜悦に浸る表情に怯え、綱吉は目一杯の大声で拒否を表明した。すかさずトンファーが真上から降ってきて、一瞬の間に三歩分の距離を詰めた雲雀の影に慄く。
琥珀の目を限界まで見開き、綱吉は咄嗟に左に避けた。
ガッ、と硬い音がしてトンファーがコンクリートを叩く。衝撃に雲雀の手も痺れているだろうに、彼は物ともせず、今度は横薙ぎにトンファーを繰り出した。
着地の態勢のままだった綱吉が、迫り来る銀の閃光に顔を引き攣らせて身を仰け反らせた。ブリッジした瞬間、それまで頭があった場所を鈍器が駆け抜けていく。直撃していたら顎を粉砕されていたに違いなく、遠慮の無い攻撃にゾッとした。
「こ、のっ」
「ワオ、やるね」
体勢を崩したままでは、逃げられない。喧嘩など嫌いなのだが身を守るにはとやかく言っていられず、心の中で謝罪しながら綱吉は右足を蹴り上げ、再度接近を試みる雲雀を牽制した。
上履きは空振りし、雲雀のシャツを揺らす風にもならない。だがお陰で仰向けからうつ伏せにはなれた。結果オーライだと自分を慰め、綱吉は素早く開けっ放しのドアを目指し駆け出した。
「うあ!」
だがその踏み込んだ足を横から攫っていかれた。
雲雀とてみすみす目の前の獲物を逃すわけが無い。それなのに無防備に背中を向けたのが、綱吉の敗因だ。
「捕まえた」
後ろから弁慶の泣き所に蹴りを入れられ、払われる。左足は次の着地点目指して宙を浮いており、綱吉の体重を支えるものは消え失せた。
バランスを崩され、上半身が左に、下半身が右に傾ぐ。まるで時計の針がぐるん、と半周するように、綱吉の身体は綺麗にひっくり返った。
肩から落ち、骨から内臓全域に響いた衝撃に息が詰まった。目の前が真っ白になって星が散り、激痛に喘いで仰向けに寝転がる。抵抗する気力は最早残っておらず、冷酷な宣告にも反応できなかった。
首に冷たいトンファーを突きつけられて、ちょっとで動けば喉を潰すと態度で告げられる。生唾を飲んで全身を痙攣させ、綱吉は一瞬力んだ全身を床に投げ出した。
押さえ込まれた以上、最早どうにもならない。大人しく観念した彼に若干失望した顔をして、雲雀は背筋を伸ばした。
膝立ちの彼は綱吉の身体を間に挟み、身を捩って逃げるのさえ不可能にしていた。顔にかかっていた影が引いて、陽光が戻って来る。眩しさに眩暈がして、綱吉は黒いシルエットを浮かび上がらせている青年に目を眇めた。
トンファーはまだそこにある。ただ先程までのぎらぎらと、真夏の太陽の如く輝いていた彼の表情と殺気は、幾らかは薄らいでいた。
これで助かったと思うのは早計だが、少なくとも手酷い一撃を脳天に見舞うことはなくなったと思ってよかろう。安堵が綱吉の表情にはっきりと現れて、雲雀は唇を尖らせた。
本鈴が高らかに鳴り響き、応酬の間は逃げていた黄色い鳥が翼を畳んで彼の肩に舞い降りた。
この鳥が中庭から不用意に飛び立ちさえしなければ、こんなことにはならなかった。恨みがましい目で綱吉が睨んでいると、サッと視界に影が走った。
「え」
「僕の安眠を邪魔した罰だよ」
大粒の琥珀の瞳に、雲雀の黒が大きく映し出される。いったいなにを、と訳が分からないまま呆然としていると、ほんのりと暖かく柔らかいものが唇を掠めた。
目を見開いたままの綱吉を覗き込み、雲雀がムスッと拗ねた顔をする。
「目くらい、閉じたら?」
「へ? え、あ、ああっ!」
今なにをされたのか、今頃になって理解した綱吉が口を手で覆い隠して顔を真っ赤に叫んだ。
五月蝿い、と手加減されていただろうがトンファーで頭を殴られて涙が出る。口にやっていた手をタンコブに移し変えて痛みを堪えていると、またひとつ、今度はさっきよりも長く、キスが落ちてきた。
人の目を閉じさせる為だけに殴るのは、出来れば次からは止めて欲しい。心の中で愚痴を零すが、そんな不満も、鳥の啄みに似たキスひとつに溶けていった。
2009/9/1 脱稿