世界はひとつきりしかない。
ただ、個々を区切る境界線が非常に曖昧で、自分をいかに自分として保とうと試みても、ひとつきりの世界ではどうやっても他人と肩がぶつかり合ってしまう。
小さな箱に押し詰められている気分で息苦しく、圧迫感を覚える。だから周囲を蹴散らして自分の周りの空間を広げれば、少しはこの苦しさが紛れるのではないかとずっと思っていた。
世界には自分ひとりだけで十分で、それ以外は自分の視界に入らない場所で柵に囲まれていればいい。明確に線引きされた世界は住み良く、心地いい。
外敵は排除されなければならない。自分の安住の地を守るのは自分の役目であり、使命。たとえ爪先半分、髪の毛一本であろうとも、無断に立ち入る相手に遠慮は必要ない。そして自分には力がある。相手を屈服させ、二度と近づかぬように警告を与えるだけの力が、ある。
それだというのに。
――雨が、降っていた。
この季節の雨は冷たい。足元に散らばる無数の血痕を洗い流し、清めて地中へと染み込んでいく水をぼんやりと眺め、指先で湿った土を僅かに掻いた。その拳も、皮膚が裂けて薄く肉が覗いている。乾いていたはずの血は、降り出した雨によって新たに傷を抉られて再び鮮血を滲ませていた。
開いてしまった傷口では、外へ出て行こうとする血液と逆流し、傷を深めようとする雨とが凌ぎを削っている。ちりちりとした痛みはどれも鈍く、どこか他人事のように思えてならなかった。
多勢に無勢とはよくある事で、一対複数というのも日常茶飯事。それでも負ける気は毛頭無く、真正面から挑んでくる相手にはそれなりの礼儀を払ってきた。実力が伴わない虚妄に満ちた連中は悪寒が走る。力でしか応酬できない自分もまた同等かとは思うが、それでも実力に裏打ちされた現実は確かに足元にあって。
指でなぞった土の表面が、水気を含んでゆっくりと沈んでいく。明確な形を失ったそれは最早目を凝らさなければ探し出せず、降りしきる雨のカーテンが邪魔をしている。前から三人、後ろからふたり、同時に攻められた瞬間に掠った後頭部が鈍痛を放っていた。爪の間に潜り込んだ土の粒、指の腹を互いに擦り合わせても落ちなくて、そのまま自分の鼻の下を真横に掻いた。
そういえば、そこも不意をつかれて殴られたのだったか。鼻骨は無事だが、内側の粘膜が裂けて血が滴っていた。それまた乾いていたのだけれど、雨に湿気たのと指でなぞったことから、遠ざかっていた鉄の匂いが吸い込んだ息に乗って胸の中にまで潜り込んできた。
吐く息もが白く濁っている。
倒れはしなかったが、ダメージは大きい。複数同時に相手をするのは毎度のことなので慣れているが、流石に今回は少しばかり分が悪かった。人垣で向こう側が見えない状況、突破するのは優しいが二度と同じ愚を行わないためにも、身をもって思い知らせておく必要がある。だから徹底的に、打ちのめした。
冷たい雨が額を打つ。地面に直接座り込んでいる自分を、人が遠巻きに眺めて去っていく。
ふと自嘲気味の笑みが口元に浮かんだ。そうだ、これでいいのだ。
自分は孤高の塔の最上階に構える王者であればいい。助けも、情けも、必要ない。
雨が降る。雨が、降る。
この身体に染み付いた血の匂いも、他人の臭いも、何もかも洗い流してくれればいい。他は要らない、自分の世界は自分だけのものであればいい。
それだというのに。
降りしきる雨の行方を追いかけ、顎を仰け反らせ天を仰ぐ。一気に雨を受ける面積が広がり、額を、頬を、冷たい水が打ち付けていく。体温が奪われ、益々感覚が遠のき、次第に意識も混濁して今が現実か、虚構かの区別が曖昧になっていく。
夢うつつの狭間に落ちていく、言葉にすればそんな感覚が近い。ゆらりと力を失った首が右に傾く。倒れまいと上半身を左に揺らし、瞼を閉ざして闇の中に自分自身を置いた。
酷く静かで、ただ雨の音だけが耳に届く。遮るものはなにもなく、煙る大地に生き物の声は遠い。誰も自分に近づかない、それは自分が望んだこと。だからこの状況は最も自分が好ましいと思える環境に違いないのに、どれだけ力を揮って敵意を向ける相手を屈服させ、打ち負かしても、物足りないと感じているのは何故か。
何かが足りないようで、酷く自分はそれを求めて止まないのに、その「何か」が自分には「何で」あるのかが分からない。もどかしく、じれったく、焦燥感が募るのに、答えがいつまで経っても見出せない。
そうしている間に、何が欲しかったのかも分からなくなっていく。雨に打たれ、過ぎていく時間を意識の片隅で追いかけながら、冷えていく身体を動かすこともせず、ぼんやりと闇に意識を委ねる。
いっそこのまま次の目覚めを迎えずに過ごそうか。
そんな気持ちがゆるりと鎌首もたげ、赤い瞳をちらつかせる。凶暴な牙が喉元を狙っている。それも悪くない、なんて考えながらまた体を右に揺らす。
不愉快な、雨に溶け込むような不協和音が。
ざり、という濡れた土を踏みしめる音に、耳を欹てても意識はどこか遠い彼方を漂っていて気が向かない。一歩ずつ近づいて来る気配はやがて、片膝を立ててそれに寄りかかっている自分の手前で止まった。
「なに、やってるんですか」
他人をあざ笑うような、けれど蔑みを含まない、どちらかと言えば同情にも近い感情を思い起こさせる声。耳障りで、けれど心地よく身体にしみこんでくる、聞きなれてしまった声。
重い瞼を持ち上げて、飛び込んできた雨に驚き肩が揺れる。即座に閉ざした世界は相変わらず闇に落ちていて、何もかもが手探りだ。
「そんなに濡れて……」
貴方らしくない、とそう言いたげな口調。
逸らし気味だった背中を前に丸め、空を見上げるのをやめる。首筋を伝う雨の量が増え、水分を含んで重くなった前髪が額に張り付いた。薄く持ち上げた瞼の先、一対の靴がある。それはこちらが視線を上げるより先に膝を折り、ゆっくりとしゃがみ込んできた。
完全に座り込んでいるこちらとは視線の高さまで揃わない。しかし極力距離を縮めようという努力が感じられる相手は、そっと息を吐くと手にしている傘を僅かに傾けさせた。
肌に感じていた雨の勢いが途端に弱まる。
何故、彼がここにいるのだろう。
ぼんやりと見上げた先には、湿度の所為かいつもより勢いの弱まった明るい茶色の髪と、大きく丸い、琥珀色の瞳。同級生よりも一回り小柄な身体、華奢な肩に鞄を吊るし、しゃがんでいるのでその底部が今にもぬかるんだ土に落ちそうになっていた。
「……」
名前を呼んだつもりでいた。しかし声は音にならず、喉の隙間を通って雨に溶けて地面へと沈む。僅かに開いた唇から吸い込んだ空気が胸を内側から刺して、妙に大きく心臓が跳ねた。
痛い。久しぶりによみがえった人間らしい感覚に、めまいがする。
自分はまだ夢を見ているのだろうか。それともこれは、雨が見せる幻なのか。
「傷、痛みますか」
小さく、吐く息を白く濁らせて紡がれる言葉。
誰も近づいては来なかった。誰も近づく事を望まなかった。見えない壁は当たり前のように目の前に展開されて、依然他者を拒んでいる。それなのに、君は。
彼は。
いともあっけなく人が強固にくみ上げた城壁をすり抜け、ひとつのヒビも残さずに内側へと入り込む。そこに足跡のひとつも残さず、ただ余韻と微かな体温だけを感じさせて、いつも手を伸ばしたならばその指先を潜り抜けて行ってしまう。
身勝手で、自由極まりなく、人の気持ちを簡単に踏みにじり、しかしいとも容易く懐に入り込み、純粋でまっすぐな瞳を向けて。
だから、君は。
君が。
「ヒバリさん?」
問う声が雨に溶けていく。
返事がない事に多少の不安を感じたのだろう、傘を持つ手をゆるゆると手持ちぶさたに震わせて君は視線を泳がせる。未だ定まらない瞳の行方は、これが現実なのかそれとも、自分自身が望む何かを形取ったものなのか、判別がつかないまま無碍に時は過ぎていく。
雨が膝に、つま先に、指先に落ちて形を失いこぼれていく。
世界が、水に沈む。
蜃気楼に消えていく。
待って、と呟いた声は果たして音になって君に届いたろうか。一瞬表情を凍らせた君の心が見えない。
「ヒバリさん……?」
窺うような慎重な声が遠く、彼方から聞こえてくる。やはり今この場所にいる君は、僕が見る夢のなかの幻なのか。皮肉にゆがんだ唇を真横に引き結ぶと、君は少し困った風に眉根を寄せた。
傘の角度が変わる。自分が濡れるのも構わずに、座り込む僕に傘の面積を譲る君の髪の毛が濡れている。
変だな、僕にこんなに優しくする相手など、未だかつてひとりとしていない。君だって、本当は僕が怖いだろうに。いつだって、子犬のように震えて誰かの陰に隠れているのが似つかわしいのに。
どうして、こうも人が弱っている時に限って、君は僕の前に現れるのだろう。
僕の領域を、簡単に踏み越えてくるのだろう。
「――――」
なんと呟いたのか、自分でも分からない。名前を呼んだのかもしれないし、向こうへ行けと突っぱねたのかもしれない。けれど君は黙って、ほんの少し怒った表情で見つめてくる。
美術館に飾られている大理石の女神よりも、暖かく、冷たく、神々しく、惨めで、卑小なくせに傲慢なまでに尊大な。
君に。
「ヒバリさん」
その呼ぶ声は心地よく眠りを誘う。いや違う、自分はすでに眠っているのだ。何故ならば君はこんな場所に居るはずがなくて、もっと君に相応しい場所がちゃんと用意されているはずで。
けれど、ああ、もし、夢であるならば。
君を。
「……ヒバリさん」
君を。
「……て」
この手は誰かを傷つけ、打ちのめし、屈服させるために存在している。どれだけ冷たい雨に洗われようとも、しみこんだ血のにおいは消えたりはしない。薄汚れた僕の城は、きっと君でさえ一歩を踏み出すのに躊躇する。
それでも、ああ、もし許されるなら。
「…………い?」
誰も越えられなかった垣根を、それが茨だとも知らずに突き抜けて目の前にたたずむ君を、出来るならば抱きしめたい。君は僕を怖がっているのは知っているし、この手は君を捕まえるに合い相応しくないのも知っている。
それでも、もし、君が。
逃げないで居てくれるのなら。
「ヒバリさん」
この手が君に触れた瞬間に、僕の夢は覚めて君はかき消えてしまうだろうけれど。それでも、僕は。
君が。
君が。
君が。
持ち上げた手、したたり落ちる雨と血が混じり合った薄赤の液体。指先をこぼれ落ちる言葉、心。溶けていく感情、冷えていく身体。
沈む夢。
例え幻の君であっても構わない。声を、聞かせて。
此処にいて。
「ヒバリさん」
手首を伝い落ちていく滴を見つめる。その先に居る君を見つめる。淡く微笑んだその素顔が、薄汚い僕の血で汚れてしまう。それでも、君は。
僕は。
君を。
「ヒバリさん」
太陽のように笑う君の後ろで、雲の隙間から差し込む光が見えた。