仁慈

 沢田綱吉はよく授業をサボる生徒だ。
 寝坊をすれば一時間目を休んでくるのも当たり前のような生徒であり、本人はそれなりに頑張っているつもりでも周囲の理解は彼の頭上遥か高くを通り過ぎていく。彼の視線に立ち、目を合わせて会話をすることさえ、彼を取り囲む環境に居る大人は実践しようとしてこなかった。
 例外は無論両親であるけれど、彼は小学校高学年と言う多感な時期に既に父親の影を失っていた。見上げ、追いかける背中を持たなかった彼は女親に心情を吐露する機会も少なく、鬱積する感情を受け止める相手もまた持ち得なかった。
 必然的に彼は内に篭り、自分の力量の矮小さを卑下し、道化となることで自らの心を守る他無かった。周囲の笑い声が常に自分に向けられているのではないかと怯えながら、しかし表面上それは露出することなく、自らの失敗を笑いの種にして更に心の傷を抉りぬく。
 それは彼が中学に入学し、不本意ながら母親が雇い入れた住み込みの家庭教師のお陰で多少の改善が見られるようになったのだけれど、根っこの深い部分では彼の、自分は結局ダメなのだ、というレッテルは未だ貼られたままだ。友人も増え、他者と会話する機会も同時に増えれば、己の悪い部分ばかりを省みる時間は減る。大丈夫、心配するな、なんてことないさ。そう言葉をかけてくれる友人は、彼の何よりの宝だった。
 ただ、彼らも、所詮は彼と同列に並ぶ、同年代の子供でしかない。
 人間を大きく二分するのには、いくつかのパターンが存在する。例えば善と悪、例えば大人と子供。
 人が大人か子供かを分別するのは難しいが、大雑把に庇護する側、庇護される側という分け方もあるだろう。そういう意味では、彼らは紛れも無く、庇護される側の存在だ。
 多少大人びてみても、現実に子供の領域から脱却出来るのは当分先のこと。自らを犠牲にして盾となり、また矛となって牙をむく相手と激戦を繰り広げたところで、彼らがいきなり大人になれたりはしない。言い換えるなら大人は、彼ら子供がそうやって傷ついた時に、逃げ場所、隠れ場所を提供する存在となる。時に厳しい言葉を投げかけ、現実を見せながら視野を広げる役割を果たしつつも、最後に安らげる場所を用意しておく存在。
 子供同士が傷を舐めあい、庇いあうのではなく、守られているのだと安心して眠れる居場所を用意している存在が、大人なのだとしたら。
 ならば、沢田綱吉にとってのその存在は、何処にもありやしない。
 少なくとも、少し前までは。
 
 
「シャマル、いる?」
 カラカラと扉を横に開く音に続き、やや控えめに様子を窺う声。椅子を引いて振り返り確かめる必要も無い声の主にひっそりと溜息をつき、シャマルはぼさぼさの頭を軽くかき混ぜた。
「いるぞー」
 ぶっきらぼうに返事をし、軋みを立てる椅子をぐるりと回す。半回転した視線の先には、自分ひとりが通れるだけの幅を作り、片手をドアに添えてやや中腰体勢の沢田綱吉が立っていた。付き添いの人間の気配はなく、授業中である筈だと時計を見上げれば間違いなくその通り。シャマルの呆れた表情を読み取り、綱吉は照れ隠しには中途半端な笑みを浮かべた。
 保険医の了解を得る前に体全部を保険室内に滑り込ませ、背中に回した両手で器用に扉を閉じる。流れていた空気が遮断されて彼の足元に沈んでいくようで、シャマルは目を細め背筋を伸ばし立っている男子生徒を改めて見詰めなおした。
 明るい茶色の髪は、空に向かい重力に逆らって爆発している。生真面目に身に着けた制服は白の開襟シャツに黒い紐ネクタイ、裾はしっかりとズボンに入れられていて、そのズボンには折り目正しくアイロンが当てられていた。傍目には問題児として映らない格好ではあるけれど、授業中に平然と教室を抜け出して来ている辺り、非常に図々しいといえる。
「またか?」
「うん、借りていい?」
 一日の最初の授業開始からまだ二十分と経過していない。もしかしたら最初から教室に出向かずにこちらに来たのだろうか、勘繰る目を向けると、彼はシャマルの視線から逃げるように慣れた足取りで奥のベッドへと向かって歩き出す。涼しい風が吹いて、診察室とベッドとを区切る境界線を果たしているカーテンが大きく膨らんだ。
 夏も終わり、秋が近い。日が暮れるのも段々と早くなり、日中が短くなっているのがありありと知れるようになってきた。昼間の気温はまだ高いが、早朝や夕方は大分肌寒さを覚える。長袖のシャツを着込んでいる彼も、風に肌の体温を奪われたのか、右手で左腕を庇うようにさすった。
 その身体に鞄を身に着けていないから、教室に寄ったのは間違いなさそうだ。しかし教師になんと言い訳をして来たのだろう、全く悪びれる様子も無く綱吉は左側一番奥、ほぼ彼の定位置となっているベッド脇で靴を脱ぐと、上半身から真っ白なシーツに倒れこんだ。
「ちゃんと被れよ」
「うんー」
 そのまま蓑虫のように身体を揺らしながら布団を引き上げ、肩どころか頭の上まですっぽりと上掛け布団を被り、綱吉は途端に黙り込む。まるで電池で動くおもちゃのスイッチが切れたように、ものの数秒で彼は静かな寝息を立て始めた。
 あまりにも見事な寝入り方に、シャマルも毎度ながら呆れつつも感心し、背凭れに深く身体を預けて天井を仰ぎ見た。
 本来ベッドを誰かが使用している場合、プライベート保護の意味も兼ねて間仕切りのカーテンは引いておかなければならない。だがそうすると綱吉が酷く不安がるので、シャマルは立ち上がることなく床に置いた足に力を入れて椅子を机に向けた。そして中断させていた仕事に取り掛かるが、三分も経たないうちに今度は彼が職務を放棄してしまった。
 握っていたボールペンを転がし、積み上げた専門書の角にぶつかって止まるのを眺め、欠伸をかみ殺す。
 開け放った窓の外は快晴で、恨めしいくらいの陽気が地上に降り注がれている。体育の授業は残念ながら男子ばかりで、見ていても面白くない。彼は目尻を交互に指で擦り、片腕を後頭部に回して背凭れを揺らした。
 鉄パイプを固定する金具が小さな悲鳴をあげている。彼はよれよれの白衣のポケットから煙草の箱を取り出すと、一本だけ抜き取って口に咥えつつ視線を右手に流した。
 居並ぶベッドのうちひとつだけ、折り畳んだ布団を崩して広げられている。僅かな膨らみは微動だにせず、そこで眠っている人物が本当に眠っているだけなのか、あまりにも静か過ぎて時々不安に駆られてしまう。
 実際過去数回、シャマルはわざわざ席を立って様子を見に行ったことがある。鼻の前に手を差し伸べ、彼の眠りを妨げぬよう気配を殺して呼吸の有無を確認し、安堵する。死んだように眠るという表現があるが、それにぴったりと当てはまる彼の眠り方は時々、恐ろしい想像を彼の脳裏に呼び起こさせた。
 大体、彼は自宅でちゃんと夜眠っている筈なのに、何故こうも慣習的に保健室を訪れベッドを占領するのだろうか。過去の保健室の来訪履歴を記したノートを眺めてみても、彼がここまで頻繁に授業を抜け出して保健室へくるようになったのはごく最近のことで、以前はそれほどでもなかったらしい。ならば何故、何がきっかけで。
 ――六道骸か……
 思い出すだけで苦々しい気持ちになる相手の名前を心で呟き、シャマルは僅かな動きで煙草に火を灯す。書籍に埋もれかけていた灰皿を引っ張り出すと、不器用に積まれていた本の一画が雪崩を起こした。彼は苦笑しながら灰に角を突っ込ませているファイルを抜き取って新しい山に預け、左の肘を引いて背凭れに引っ掛ける。右足は椅子の根元近く、左足は伸ばして机の脚に押し当てて身体を揺らす。椅子の軋みが激しくなる。
 思い返せば確かに、黒曜中に在籍していた六道骸の襲撃があり、それを迎え撃った綱吉とそれに順ずるメンバーが、傷をそれぞれに負いながらも事件を収束させた辺りから、彼が此処に足を向ける機会が増えた気がする。彼奴らは既に、それなりの処分を下されて恐らくは二度と綱吉たちの前に現れぬはずであるが、不安があるのだろうか。
 あるのだとしたら、いったい何処に向けての不安か。
 同じような事件がまた起こるかもしれないという危惧か。
 再び仲間を、友を、関係ない人々まで巻き込むかもしれないという恐怖か。
 自分が立ち上がって戦わなければならないという、死ぬかもしれないという悪夢か。
 それとも。
「ちゃおっす」
 殆ど味を楽しむ事無く灰ばかりが増えていく煙草を手に、ぼんやりと考えていたシャマルの思考を中断させる声が窓から飛び込んできた。それはあまりに唐突であり、トライデント・シャマルの異名を持つ彼を少なからず動揺させた。手の中で揺れた煙草から灰が、灰皿ではなく折角まとめつつある資料に落ちてしまって、彼は小さく悲鳴をあげた。
 窓枠に腰を下ろしていた黒服の赤ん坊が、呆れた声でシャマルの名前を呼ぶ。珍しい男の動揺ぶりを楽しげに眺めた後、煙草を灰皿に押し込んで火がもみ消されるのを待って、彼、リボーンは机を経て床に降り立った。
 靴跡を資料の一番上に残されて苦々しい思いを噛み締めたシャマルを無視し、手近に空いていた椅子に土足のまま登った彼は、遠目にベッドの膨らみと、上掛け布団からはみ出している隠しようの無い綱吉の髪の毛を認め、それと知られぬよう肩を竦めた。帽子の上のカメレオンが興味なさげに天井付近を見上げている。シャマルは両手を机に押し当てて立ち上がると振り返り、つま先で空になった椅子を転がしながら今度は机本体に腰を落とした。
 灰皿を手繰り寄せ、新しい煙草を取り出す。火をつける前に同じくベッドが並ぶ区画を見た彼は、リボーンの視線の行方に、カーテンは閉めておくべきだったかと何故か後悔する。
「ツナはよく来るのか」
 感情が篭らない抑揚の乏しい声。本来ならばまだ母親の両手に抱かれているのが相応しい年齢でしかないはずの、しかしシャマルさえ容易に凌駕してしまえそうな迫力をたたえた調子に、無精髭の顎を撫でたシャマルは短く肯定を意味する相槌だけを口にした。
 煙草に火が灯る。一瞬赤くなった先端は黒く濁り、フィルターが燻られる。
「そうか」
 綱吉の家庭教師を自認する彼がわざわざ中学校にまで足を向ける現実。何かあるのだろうか、と視線を投げかけると素早く逸らしたリボーンは椅子に座り直し、行儀良く伸ばした膝に両手を添えた。カフェオレ、と聞こえたのは気のせいだろうか。
「ここは喫茶店じゃねーぞ」
 頭垢が飛びそうなくらいに乱暴に髪の毛を掻いてシャマルは文句を口にしつつ、ポットの電源を入れに反対側の壁へと向かった。水を注ぎ足し、逆さまにして棚に片付けてあった陶器のマグカップを取り出す。ついでとばかりに自分のコーヒーの準備もして、冷蔵庫から冷えた牛乳を用意。賞味期限ぎりぎりだった。
 多分大丈夫だろう、と今度は手鍋を引っ張り出して電気コンロに置く。窓からは音楽室のピアノの音と、体育の授業での掛け声が入り乱れて穏やかながら騒々しい空気が漂っている。揺れるカーテンをなんとなしに眺め、煙草を燻らせたシャマルは水が温み、沸騰するまでの時間を無駄にぼんやりと過ごした。
 リボーンは何も言わない。綱吉の様子を見に来たのは間違いないはずだが、ならば傍に行けば良いものを椅子の上でジッとして近づこうともしない。
 何があるのやら。彼の疑問に答える声はなく、無為に流れた時間はポットが不機嫌に鳴り響く音で中断された。
 綱吉が眼を覚まさないか一瞬ひやりとしたものの、物音にも全く動じない彼は布団の端さえも動かさない。余程眠りが深いのか、生きている気配さえ希薄な眠り方は少々異常でもある。
 ――まさか、な。
 嫌な想像は出来るだけしないに越した事はないが、力を失い崩れ落ちる腕を何度も見てきているだけに、シャマルの心は優れない。カフェオレの準備に心を向けてなんとか平常心を取り戻そうと試みるが、いつに無く中身をかき混ぜるスプーンが壁に当たって嫌な音を響かせていた。
 リボーンがそんなシャマルの、草臥れた背中を見上げている。やがて準備が整った湯気の立つカップを手渡されると、数回息を吹きかけて中身を口に含ませた。熱い、と呟いた赤子は両手で大きすぎるカップを大事に持ち、白に包まれた綱吉に視線を投げた。
 同じくコーヒーを啜ったシャマルも、窓に背中を向けて机に凭れ、ベッド側に目を向ける。
「よく眠っている」
 人間がこんなにも騒々しく近くを動き回っているのに、目覚めるどころか寝返りひとつも打ちやしない。完全に肉体の機能を停止させ休眠状態に入っている綱吉に呆れた、というよりもある意味感動した声で呟いた彼。ちらりと視線を下向けて盗み見るものの、シャマルには表情の乏しい赤子の感情を何一つ正しく読み取れなかった。
 仕方なしにコーヒーを胃に流し込み、ひとつ息を吐く。リボーンもカフェオレを飲み、ほうっと肩から力を抜いた。
「家じゃ、全然寝てないみたいだったからな」
「…………」
 危惧していた通り、という事だろうか。夜眠れないから昼間に眠くなる。教室で寝るわけにいかないから、保健室へ来てベッドに転がり込む。当然の帰結ではあるが、問題は夜に眠れない理由だろう。
 中身が半分に減ったカップを机に置き、シャマルは煙草を灰皿に置いた。もう吸うところが残っていない短さになっているそれの先端を押し潰し、次の一本を取り出す気にもなれず手持ち無沙汰に指を弄る。親指で擦った人差し指の腹は細かい傷が今も無数に残り、お世辞にも綺麗だとはいえない。
 実際、大勢の人間の生き血を啜ってきた指だ。綺麗なはずも無い。
「魘されて、飛び起きて。お陰でこっちも睡眠不足だ」
 リボーンが人間臭い台詞を吐いて欠伸をする。小さな口をめいいっぱい広げ、小さな目を擦る。憎まれ口を叩いているものの、本音ではあまり怒っている様子もなく、シャマルは相槌を返すと話題の中心である人物へとまた視線を向けた。本人は静かにぐっすりと眠り込んでいて、話題にされているのさえ気付かない。
 家で眠れずに、保健室では泥のように眠る。言われてみれば確かに此処に来る綱吉の表情は冴えなく元気もなく、目の下に隈があったように思う。ただ彼は自分から何も言わず、シャマルにベッドを貸して欲しいとだけ頼み込むのみ。シャマル自身、面倒ごとに首を突っ込むのを嫌って深く問質したりしなかったのだが、状況は悪化しているという事なのか。
 既に六道骸との闘いが終わってから二週間は経過している。尤も身体の傷は癒えても、心に負った傷が癒えるにはまだまだ時間が掛かる。ただ表面上は元気を装っているから、他人には知れ渡りにくい。
 シャマルは舌打ちした。
「で?」
 けれど紡ぐ言葉が見当たらず、愛想の無い相槌で先を促すほか無い。リボーンは首を持ち上げてそんな彼を一瞥した後、少し温くなったカフェオレを飲み干して間を作った。シャマルは苦いばかりのコーヒーに感情を委ねられず、コップの縁を指でなぞる。
「それだけだ」
 だがリボーンが続けた言葉はあまりにも簡素過ぎて、シャマルは拍子抜けたとばかりに表情を崩し、思わず「はぁ?」と聞き返してしまった。だが確かに、リボーンがわざわざ中学校へ様子を見に来たという事は、つまり綱吉自身が、夜中に目を覚ます理由をリボーンにも説明していないという事に繋がる。もしかしたら本人ですら分っていないのかもしれない。言い表しようの無い不安が彼の心を圧迫し、ストレスとなって蓄積されている。外からそれを取り除いてやるのは非常に難しい。
 リボーンは、それが出来なかったのか。
「よく眠っている」
 不意に呟かれたリボーンの言葉を、シャマルはカップを持ち上げてコーヒーを飲むことで聞かなかったことにした。どこか悔しげで、寂しげな、複雑に感情の入り乱れた声は彼にとって邪魔なものでしかない。
「確かに、ちょっとやそっとじゃ起きないな」
 いつも、と口にしてからシャマルはとある事に思い当たり、口を噤んで顎を撫でた。同じことを考えたらしいリボーンも視線を上げ、彼を下から見据える。
「年齢的に、父親を感じてるだけかもな」
「冗談でもやめてくれ」
 眠りを妨げられる事無く、安心出来るという事。それが綱吉にとって、住み慣れた自宅の自分のベッドではなく、この保健室である事実。リボーンの嫌味に本気で反論したシャマルは、最後の一滴を舌で受け止めて唇を指で拭った。
「別に俺じゃなくてもいいだろうに」
「さあ、な」
「……」
「お前が、大人だったからだろう」
 綱吉がリボーンでもなく、獄寺や山本でもなく、敬愛しているディーノでもなく、シャマルの傍を選んだ理由。至極単純明快な結論を口にしたリボーンもまた、本当はそれだけでは説明がつかないと分っている。
 だが敢えて自分の口から語るのは若干癪に障る。シャマルも、綱吉本人も気付いていないのであれば尚のこと。
 開け放った窓から一時間目の終了を告げるチャイムが流れ込んでくる。綱吉が目覚めるかと思いきや予想は呆気なく裏切られ、相変わらず静かなベッドに安堵するやら、苦笑するやら。取り出した煙草の箱を手に遊ばせて表情を崩しているシャマルをそっと見上げ、リボーンもまた両手で抱きこんだマグカップを左右に揺する。
 どやどやと廊下を駆け抜けて行く生徒の声がどこか別世界の出来事のようであり、吹き込んでくる温い風は触れる者に睡魔を呼び起こそうとしている。
 傷む前に牛乳を飲み干して、新しいのを買ってこなければ。そんな事を考えていたシャマルは、抜き出した煙草を矢張り指で転がして遊びながら何も無い天井、そして床を交互に見詰めた。
 キィ、と椅子が鳴る。振り向けばそこにはマグカップだけが残されており、視線を巡らせたシャマルは窓辺に移動したリボーンの小さな身体をそこで見つけた。既に片足が部屋の外に出ている。
「起きるまで待たないのか」
 帰る、帰らない、の中途半端な体勢のリボーンに問いかける。シャマルは結局、指で抓んでいた所為で少し皺の寄った煙草を箱に戻した。彼はそんなシャマルの動きを目線だけで追いかけ、肩を竦める。
「いつ起きるか分からないだろう」
 時間の無駄だと言いたげな口調に、シャマルは僅かに眉根を寄せた。わざわざここに出向いてまで確認する程に綱吉を気にかけておきながら、随分と冷たい。しかし確かに、ぐっすりと熟睡している綱吉を起こすのも可哀想で、逆を返せば熟睡しているからこそ当分目覚めることも無いと判断できる。
 そしてここは学校であり、リボーンが綱吉の起床までの時間を潰せる場所でもない。中学生ばかりの中で彼は否応がなしに目立ってしまう。
 窓から差し込む光が眩しい。シャマルは目を細め、残る片足も窓枠に乗せたリボーンを見送る他無い。
「何か伝えておくことはあるか?」
「いや。……言わなくて良い」
 リボーンは首に角度をつけて室内の角を見るが、その位置からではベッドの端が見えても綱吉が眠っているその膨らみまでは視界に納めるのも難しいだろう。吸った息を吐いた彼は帽子を目深に被り直し、くるりと背を向ける。レオンだけがぎょろりとした目を回転させ、後ろ向きに保健室のカーテンを追いかけていた。
 校庭に向けられたスピーカーから、二時間目の始業を告げるチャイムが厳かに響き渡る。
「ああ、そうそう」
 シャマルが再び煙草に手を伸ばし、唇で挟み持つまさにそのタイミングで、不意にリボーンが振り返って声を発した。前歯で軽く先端を噛んでいたシャマルが目線を持ち上げて、なにやら悪巧みをしている赤ん坊を見る。
 彼はある意味挑発的な笑みを口元に浮かべていた。
「惚れるなよ?」
 ぶほっ、とシャマルが煙草を噴出した。手にしたライターがカチッと小さく音を立てた直後で、危うく前髪が焦げるところだった。
「ちょっ、待て!」
 誰が誰に、という肝心な部分を全て省略した上での忠告。リボーンの意図する内容は大まかに察しがついたけれども、それはありえないだろうと大声で反論しかけた彼ではあったが。
 眼前の火に驚き一瞬目を丸くしていた間に、件の赤ん坊は颯爽と姿を消していた。彼が居たという痕跡は空になったマグカップ、机の上に散る足跡に残されているものの、その気配はあっという間に掻き消されてしまった。相変わらず手際が良いと褒めるべきか。
 それにしても。
「どういう意味だ……」
 唾にまみれた煙草をつまみ、ゴミ箱へ。お役御免になった箱とライターを机に置き、彼は髪の毛をかき乱しながらリボーンの去り際の台詞を思い返す。
 そもそもシャマルは女が大好きで、男は大嫌い。綱吉や彼の友人に構うのは無論リボーンの頼みもあるし、獄寺に関して言えばかつて彼の実家の主治医を兼任していた過去があるからだ。では、今あそこのベッドで眠っている子供は、どうだろう。
 同情はあった。むしろ憐憫に近い。中学校に入学するまでろくに女子と会話をしたことがないというところもであるが、何よりも唐突にマフィアの後継者にされてしまい、本人の意思に関わりなく幾多の騒乱に巻き込まれてしまったことへの。
 また、ボンゴレという名前はそれだけでも強大であるから、十代目となるだろう彼に恩を売っておくのも悪くないという考えも、僅かながら存在している。深入りせず、適度に距離を測って近くで見守る程度で事を済ませる算段ではあったが。
 どこかで、サイコロの目が違ってしまったのだろうか。
「ない、ない」
 自分が男に惚れるなんて事は、地球がひっくり返ったとしてもありえない。リボーンの言葉から推察される可能性を苦笑いと共に否定し、シャマルはカップをふたつ手に水道までの短い距離を大股に進んだ。そしていつも以上に大雑把な動きでカップを洗い、棚に片付けてタオルで両手を包み込む。
 白衣の裾が揺れる。膝を曲げて踵で脛の辺りを掻き、何か忘れている気がすると彼は視線を浮かせてから、何気なく後ろを振り返った。無論、リボーンの姿はそこにない。
「ああ、牛乳か」 
 ぽつりと呟いてまだ濡れている手で頭を掻く。そして一度机へと戻り、火をつけないままに煙草を咥え、彼は居並ぶベッドの隙間を通り抜けて奥へと歩を進めた。
 近づけば、居心地よさそうに眠っている子供の吐息が聞こえてくる。室内ではなく壁に向いて眠っている綱吉は、さっきまでと変わらぬ調子でそこに横たわっていた。枕元には薄く、完全に端まで引ききれていなかったカーテンの隙間から漏れた光が差し込んでいる。あと数時間もして太陽の位置が変われば、今綱吉の頭のある地点に日光が降りかかるだろう。
 シャマルは足音を小さく響かせ更に進み、窓辺に立つ。右腕を伸ばしてカーテンの端を取り、爪先立ちになるのも構わずに角に向けてカーテンを押した。しかしなかなか上手くいかず、反対に露出する窓の範囲が広まってしまう。
「ちっ」
 舌打ちがつい漏れて躍起になっている間に、間近で動き回る気配をいい加減感じ取ったのだろう。綱吉が小さく呻いて肩を揺らした。反動で被さっていた布団が少しだけ動く。
 明かりの下に晒された肌は、血色が悪く青白い。目の下の隈が、嫌になるくらいにシャマルの目に映る。乾燥した唇が痛々しく、その隙間から漏れ出る呼気は長さが不揃いで安定しない。
 いっそ哀れなほどに、この子は傷ついている。表にはおくびにも出さずに平然を装いながら、眠っている間だけは眺める側の心を抉るほどに無防備にありのままを曝け出している。
 カーテンから手を離し、綱吉に近づける。より濃くなった他者の気配を悟ったのか、綱吉の頬が一瞬緊張して表情を崩した。あと数センチで指先が触れるところだったシャマルは寸でのところで腕を止めた。そして一瞬険しく口元を歪めるが、再び眠りに落ちた彼に安堵の息を漏らすと肩から力を抜いた。
 今度は慎重に、頬に触れる。張りが乏しい肌もまた乾燥気味で、ざらついている。撫でるように人差し指だけで表層に触れていると、くすぐったいのか綱吉が小さく声を漏らした。首を揺り動かし、側面を上にしていたのが仰向けに転がる。
 手首に柔らかい彼の髪の毛が掠めた。シャマルが今度はそちらへ掌を向け、全体を使い彼の髪の毛を額から後頭部に向かってなで上げる。綱吉の表情が再び歪み、うーんという呻きが聞こえたかと思うと、長らく閉ざされていた彼の瞼が薄くではあるが、持ち上げられた。
 未だまどろみの中にある彼は、焦点が定まっていないのか天上ばかりを見ている。
「起こしたか?」
 だから敢えて自分に注意が向くように語り掛けると、彷徨っていた彼の瞳が右側へと揃って流された。琥珀の瞳に己の姿が映し出され、シャマルは小さく肩を竦める。
「……はよう……」
「もうじき昼だけどな」
 まだ夢と現実の境界線に佇んでいるのだろう。やや呂律の回らない口で呟かれた朝の挨拶に苦笑し、シャマルは咥えていた煙草を抜き取った。綱吉の目がそれを追いかける。そして白と茶色のフィルターで覆われた小さな物体がベッドの下に隠れてしまうと、再びゆっくりとした動きですぐ傍らに立つ男を見上げなおす。
「シャマル……?」
「ああ。どうする、起きるか」
 まだ眠っていても良いぞ、と告げると、彼は喉元に置いていた右手で布団の端を握り、僅かに持ち上げる。隠れた口元と細められた目が、はにかんだような笑みを形作っていた。恐らくはまだ完全に覚醒仕切れて居ないだろう彼は、どこか夢見心地にシャマルを見詰めている。
 幼い、年齢よりもずっと小さな子供の表情。
「シャマル、おしごと……」
「あー、ちょいと休憩、な」
 ほら、と一度は下に下ろした煙草を彼の目の前まで持っていくと、綱吉は安心したように表情を緩める。つられてシャマルもがだらしなく頬の筋肉を弛緩させた。
「悪いの」
「お前こそ人のこと言えないだろ」
 茶化すように指を指されたので、言い返しつつシャマルは彼の額を小突いた。そのまま広げた手で彼の髪の毛を乱暴に撫で擦る。けらけらと声を立てて笑う彼は、それでも心配になるほどに覇気が感じられない。眠りから醒めた直後であるとしても、だ。
 だから腰を屈め、顔を近づけて視診しようとすると、彼はサッと布団を持ち上げて顔の下半分を隠してしまった。思わずムッとした表情を作ると、布団の下で綱吉が身体を揺らしながら笑っている。
「こーらー」
 わざとらしく怒った素振りで布団を取り払おうとするが、乾いた笑い声を立てて綱吉は左右に寝返りを繰り返して逃げ回る。最終的にシャマルが腕を伸ばし、壁と綱吉との間に手を置いて上から囲い込む格好になってやっと、彼は仰向けの状態に戻りジッとシャマルの顔を見詰めあげた。
 柔らかな色合いの双眸が、瞬間細められる。
「たばこ」
 あどけない幼子の笑みで彼は鼻をヒクつかせる。間近に降りたシャマルの白衣から漂う匂いを感じ取っているのだろう。
「ああ、嫌か?」
「ううん」
 煙草を吸わない人間にとっては、この匂いは嫌悪の対象に入る。綱吉はごく身近に、獄寺という喫煙者を置いているからさほど気にならない傾向にあると思われていたが、やはり苦手なのだろうか。離れるべきか悩んだシャマルが自分の手元に視線を移す。
 その先に、綱吉の白い手が伸びる。
「ううん、すき」
 白衣の裾を握った手が、シャマルの視界の中心に綺麗に納まる。
「え?」
 舌っ足らずに囁かれた短い言葉に、いい年をして動揺してしまったシャマルの声が上ずる。見返した先の子供はへへ、と楽しそうに笑うだけでそれ以外の表情も感情も読み取れない。
 シャマルは身体を引いた。ベッドに置いていた手で己の口元から顔下半分を覆い隠す。違うだろう、綱吉が言っているのは単に煙草の匂いの事だろう、と理性では理解していても、無駄だといわんばかりの動悸が治まらない。
 リボーンの言葉が無かったなら、きっと深く考えなかったに違いない。だが、状況はそれをシャマルに許さなかった。顎の不精髭を撫でる指が僅かに震えている。
 綱吉は、シャマルの身体が離れていったのは、彼が仕事に戻ってしまうのだと受け止めたらしい。握り締めた白衣を緩い力で引き、宙に浮いていたシャマルの意識を自分へと差し向ける。絡み合った視線、それはどこか戸惑いを思わせる目で、彼は力ない声を紡いだ。
「いそがしい……?」
 ハッと我に返ったシャマルが、大慌てで首を振る。確かに仕事はまだ残っているし、全くと言って良いほど片付いていないのだけれど、何故か首肯することが出来なかった。
 大袈裟なまでのシャマルの動きに、綱吉は気が抜けたのか少し驚いてから、心底嬉しそうな顔をする。だから、これでよかったのだとシャマルは自分を無理やりに納得させて唾を飲み込んだ。心臓はまだ若干動きが速い。落ち着かせようと吐いた息を吸った綱吉が、背中を丸めて布団の下で動いた。
 目つきが、起きているのか怪しい状態におちていくのが分かる。
「まだ眠いか?」
 夜中に殆ど眠っていないのであれば、たった一時間にも満たない睡眠では到底対処しきれない。瞼に掛かる髪を梳きあげて問うと、瞼を擦った綱吉は小さく頷いた。それでも彼は、シャマルの白衣を離そうとしない。
「いいぞ、寝てろ」
「シャマル」
「なんだ」
「……居て」
 ぎゅっと白衣を握る手に更に力をこめて。囁かれた言葉はシャマルの耳を通り抜け、内側へと染み込んでいく。
「ああ」
 その瞬間、浮かべた表情は歓喜か。嫌悪か。
 ――そんな事に、なりはしないさ。
 窓辺で捨て台詞を残して去った赤ん坊に向けて、心の中で嘲笑して。
 子供特有の甘えを全開で向けてくる綱吉の頬を撫で、彼へ布団をかけなおす。大人しく枕に頭を埋めた彼は、程なくして静かな眠りに落ちていった。
 白衣を握る手も、次第に力を失って自然と布は表面を滑り落ちる。光が彼の袂に差し込む。風は温く吹いている。
 背後でカーテンが揺らいだ。彼の中の世界も、また、淡い白に包まれる。
 シャマルは息を吐く。嘗て彼が母親に、寝入り際にそうしてもらっていたように、顔を寄せて綱吉の頬に、額に、触れるだけのキスを落としていく。
 ――これはそんな感情じゃない。
 同情、憐憫、そんなものではない。しかし思慕とも異なるこの感情に、名前は果たして必要なのか。互いの吐息が触れ合う距離で綱吉を見下ろす。どんな夢を見ているのか、彼は無邪気に安らいだ笑顔を浮かべていた。
「……そんなわけ、ないだろう」
 低く呟き、シャマルは綱吉から距離を取った。そして酷く緩慢な動作で煙草に火を灯し、煙を一筋吐き出した。