夕凪

 海へ、行こう。
 約束をしたから。

 修行の合間、少しだけ時間をリボーンに許してもらい、道を急ぐ。ひとりで大丈夫かと心配するバジルの手を振りきり、平気だと言い残して駆け下りた急峻な坂道。転がるように岩を飛び越え薮を抜け、アスファルトで舗装された道に出くわした時は心底ホッとした。
 バス通りでもあるその道を街の方角へと進み、見つけたバス停で一休み。時間を気にしながら空を見上げ、太陽の高さからまだ余裕があると祈りつつ、排気ガスを撒き散らしてやってきたバスに乗り込む。乗客は自分以外にお年寄りが数人と、赤ん坊を抱いた女性がひとり。サラリーマンらしき草臥れたスーツの男性がふたり。
 降車位置に近い、空いている席に陣取り、ゆっくりとした振動が足の裏を通して伝わるのを感じながら、窓に向けて頬杖をつく。走り出したバス、ここ数日ですっかり見慣れた景色が後ろへと流れていく。約束の時間に、間に合うだろうか。
 また、みんなで遊びに行こう。笑いあいながら、下らない話をして、時に喧嘩もしつつ、騒がしくも楽しい日常を取り戻したい。もうそんな日々に戻れないことは無意識に分かっているけれど、懐かしく輝いている過去は思い出すだけでもとても甘く、切ない気持ちを呼び起こす。
 バスは順番に停留所を回り、やがて住宅地を抜けて海岸線へと。その終着点が、綱吉の目的地でもあった。彼はもうそこに着いているだろうか、待ちくたびれてはいないだろうか。不安が胸を過ぎり、緩やかにカーブする道にあわせ揺れたバスの中で綱吉は首を振った。
 彼を信じることにしたではないか。だから、今日もきっと大丈夫。
 傷だらけの姿が目を閉じれば浮かんでは消える。何度と無く頭の中で繰り返し流れる、あの夜の出来事。君は死なない、君は生きる。一緒に、自分達と。だから大丈夫、大丈夫。そう心の中で呪文のように呟き続けた。
 そして君は生き残った。勝負よりも大切なものを自分にくれた。有難うとそう呟いた気持ちに嘘はない、あの時はそれ以外のことばは何ひとつ思い浮かばなかった。
 そんな彼が、少し時間をくれと頼み込んで来た。待ち合わせの場所は、海。バス停の終点、並盛町から一番近い海岸線。海水浴には不向きの、数年前までは不法投棄のゴミで溢れ、今でも心無い人によって汚されているものの、その現実を憂う人たちによって少しずつ整備されつつある海岸。まだ遊泳はかなわないものの、砂浜を散歩する人は徐々に戻りつつあるらしい。
 そんな、季節外れの海辺に、彼は居た。
「獄寺君」
 最後の乗客であった綱吉を降ろし、バスは騒音を残して走り去る。吹き抜ける潮風は少し冷たく、水平線を眺める綱吉の顔にぶつかっては砕け、後ろへと流れて行った。
 待ち合わせを申し出てきた相手はすぐに見付かり、綱吉は遠慮なく彼の名前を呼ぶ。少し間をおいて振り返った獄寺は、若干疲れた様子ではあったが綱吉の姿を認めると、腰を下ろしていたコンクリートの防波堤から立ち上がって彼を迎え入れてくれた。
「待たせちゃった?」
「いえ、ひとつ前のバスでしたので」
 小走りに駆け寄って距離を詰める。見上げた先の獄寺は、先日の死闘で負った傷がまだ目立ち、あちこちから包帯やら絆創膏やらが見え隠れしている。いつもの無鉄砲なやんちゃっぷりは影を潜め、何処と無く知らない人のように綱吉には感じられた。
 ざわざわとした不安が、胸の中で暗い色の触手を伸ばしている。
「十代目?」
 そんな気配を察したのか、綱吉が唇を噛み締めるより早く彼が綱吉の手を握る。いきなりの他者の体温に驚き、綱吉はハッと息を呑んで自分の考えを即座に否定、打ち消した。
 大丈夫、彼は、獄寺は。
 ちゃんと目の前にいるではないか。
「ごめん、なんでもない」
 ゆるゆると首を振って獄寺に謝り、離して貰った手で綱吉は身体を抱きしめた。骸との闘いに感じた死の予感はどちらかと言えば綱吉自身へのものであり、死ぬかもしれないという恐怖感は、だから自分だけが耐えれば済む問題だった。
 しかし今度の闘いでは不条理にも他者が巻き込まれている。綱吉の目の前で、綱吉の為の血みどろの争いが展開されている。大切な仲間が、友達が、自分の為に傷ついて倒れていく。綱吉はその度に、目を逸らすことも許されず、全てを受け入れて受け止めなければならない。
 たとえそこで誰かが死んだとしても、だ。
 自分が間に割って入ることの出来ない闘いでは、綱吉は自らがどれだけ強くなろうと限りなく無力だ。声援を送り、仲間を勇気付けることは出来たとしても、直接力を貸し与えられるわけではない。ただ拳を握り、祈るだけの時間はとても長く感じられて綱吉の心を傷つける。
「少し歩きましょうか」
 謝罪を口にしたきり黙りこんでしまった綱吉を見下ろし、獄寺は控えめに微笑んでそう提案した。綱吉は俯いたまま頷き、腕を降ろす。獄寺が先に歩き出し、防波堤の切れ目に設けられた幅の狭い階段を慎重に下りていった。
 最後の二段は一気に飛び降り、砂を撒き散らして着地する。彼の着ているジーンズ生地のジャケットが大きく膨らんだ直後に萎んだ。少し長めの彼の銀髪が波風に煽られてゆらゆらと揺れている。潮風に当たり続けていたからだろうか、少しだけ毛先が曲がって癖になっていた。
 綱吉も続けて階段を下りる。端の方に砂が溜まり、強靭な生命力で緑がそこに張り付いていた。どれほどに小さな、僅かな空間でさえ自分の領域としてしまえる草花を、時に綱吉は羨ましく思う。そして自分が、植物であれたらよかったのに、そう思ってしまう。
 誰の目にも留まらず、誰かに踏まれても、太陽を求め両腕を広げる行為を諦めない。ただ唇を噛み締め、嘆かず、強く、争わず、競わず、傷つけず、ひたすらまっすぐに、空を追いかけて。
 靴の裏で砂を踏みしめる。僅かに踵が沈んだけれど、密度の濃い砂地は綱吉を地中へ飲み込む力を持たない。既に先を進んでいる獄寺の背中を見詰め、彼の気分を害してしまっただろう自分の浅はかさを呪った。
 彼の怪我は、本人が思っている以上に酷い。本当はベッドの上で安静にしている方が良いだろうに、彼は綱吉が気に病むのを知っているから、歩くのも辛い状態を隠して綱吉の前で気丈に振舞っている。そんな風にされても嬉しくないのにな、と小さく笑って彼を追いかける。
 でも、やはり、自分は彼が元気を装っているのだとしても、自分の為の時間を作ってくれたのが嬉しいのだ。
「獄寺君、速いよ」
 慣れない海岸、砂浜で時々足を取られながら綱吉はゆっくりと進む。すらりと細く長い脚を交互に動かす獄寺とは歩幅からして違いすぎて、開いてしまった距離はなかなか埋まらなかった。
「ゆっくりで良いですよ」
 肩越しに振り返った獄寺が、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ状態で笑って言い返してくる。その余裕っぷりが悔しくて、綱吉は唇を尖らせて大股に一歩を踏み出した。
 途端、カクンと膝が折れる。
「あれ?」
 自分でも不思議に思うほどに、見事に視界が反転して気がつけば空を向いていた。
 右膝に力が入らず、しかし前へ行こうとする左足が完全に伸び切ってしまって身体を上手く支えられない。崩れたバランスが、そのまま重力の導きのままに綱吉を傾ける。頭から落ちなかったのは幸いだが、尻餅をつく格好で完全に身体が沈みこんだ。細かな砂礫が巻き上がる。
 右の腰を打った。さしたる痛みではないが、膝が立たないお陰で堪えが利かない。左足を前方に投げ出し、右足が膝のところで折れ曲がって外側を向いている。見れば脹脛の周辺が細かな痙攣を起こしていた。原因はこれか。無理をして坂道を駆け下りた反動が、今頃、こんなところに。
 戦う前からこんな状態では先が思いやられる。真っ先に思い浮かんだリボーンの小言に首を竦め、綱吉は痺れて痛みを発している己の右足を見下ろした。肉離れでなければいいのだが、そう心の中で呟いて掌を押し当てる。熱を持った箇所から四方に痛みが走りぬけた。
「……っ!」
 触るべきでなかった。思わず前のめりに身体を縮めこませた綱吉は、奥歯を噛み締めて必死に痛みを堪えた。跳ね上がっている髪の毛が砂に触れる。自分の腹部と下半身に埋もれた暗い視界に、獄寺の姿は見当たらない。
 額に脂汗が浮き、背中にも嫌な汗が伝い落ちる。吐き出した息は一気に熱を帯び、砂地に浅い穴を作った。辛うじて顔を上げ、綱吉はともすれば霞みそうになる視界で懸命に彼の背中を捜した。遠く、前だけを見て歩く後姿が。
 ジーンズのポケットに両手を入れて、ジャケットの裾を揺らし、一定のリズムを崩す事無く歩いている背中。穏やかな平地、右手に広がる水平線、押し寄せる波の音だけが響き渡る。変化の乏しい砂浜という地形からだろうか、実際はさほど距離は無いはずなのに獄寺がとても遠くに感じられた。
 離れていく背中、縮まらない距離。
 気付いて。
 立ち止まって。
 振り返って。
 行かないで。
 置いてかないで。
 

 死なないで。

「っ~~~~~~~~~!」
 声にならない嗚咽に綱吉は唇を噛んだ。腹の底から競り上がってくる吐き気を、強引に飲み込んだ空気で押し戻す。砂に落ちた汗が跡形も残さずに吸い込まれて消えた。
 押し寄せては引く波の音だけが綱吉を包み込む。
 緩く吹いていた風が、凪いだ。
「十代目?」
 それは、はっきりと、生温い潮の匂いを切り裂いて綱吉の前に確かに降り注がれた。
 砂を踏む靴音。目の前に落ちる影がより濃さを増し、綱吉は右の脹脛を抱きこむという身体を捻った体勢のまま、辛うじて声に反応を示し、首を上向けた。
 西に傾きつつある太陽を背負い、色素の薄い髪が静かに揺れている。逆光になってしまっている為に表情まで細かく読み取れないものの、膝を折って、蹲っている綱吉の前に彼は肩膝をついた。服や手足が汚れるのも構わず、細かな砂に掌を置いて綱吉の顔を正面から覗き込む。
 彼の吐く息が鼻先を掠めた。
「大丈夫ですか」
 紛う事なき、獄寺隼人の声。自分だって怪我人であるくせに、綱吉のことを第一に考えて、綱吉のことばかり気にかけている、綱吉の。
 大好きな人。
「大丈夫……じゃないけど、平気」
「それは、大丈夫とは言わないでしょう」
「そうだけど」
 強気を崩さない綱吉に呆れ顔を向けた獄寺に、僅かにはにかむ。
 痛みは最初に感じたときよりも弱くなってきている。肉離れではなく、こむら返りだったのだろう。痛みを押して爪先を伸ばし、脹脛周辺を伸ばして、長い時間をかけて息を吐き出す。前髪を湿らせる汗が瞼に流れてきて、片目を閉じていると気付いた獄寺の指がそれを弾き飛ばした。
 彼の手はそのまま光を浴びて薄茶色になっている綱吉の髪を撫で、ついていた砂を払い落としてくれた。額を拭い、頬を撫でて顎を辿り、肩を伝って腕を這い、最後は綱吉が押さえ込んでいる彼の脹脛へ。彼が痛まないように、力を加えずにそっと労わるようにして綱吉の手の甲をさすり、去っていく。
 請うような目線を送ると、獄寺ははにかんだ風に目を細め、顔を近づけてくる。綱吉もまた瞼を閉ざし、彼の吐息を受け止めた。小鳥が戯れるように触れ合うだけのキスをして、互いの額を額で小突いて小さく笑う。
「歩けそうですか?」
「うーん、まだ分かんない」
 痛みは弱まったとはいえ、まだ残っている。暫くはこの状態が続きそうで、綱吉は会話に困った末に波打ち際へ何気なく目を向けた。白い泡を飛ばしている段々の波を見詰める。水平線に近づきつつある太陽の光を受け、飛沫はキラキラと眩しいまでに輝いていた。
 風は無い。ただ、波の音だけが静かに。
「置いていかれるかと思ったのに」
 ぽつりと呟かれたのは、無意識の言葉だった。
「十代目?」
「あのまま、獄寺君は振り返らずに行っちゃうって、思ったのに」
 どうして君は、気付いてくれたのだろう。
 同じく海を見ていた獄寺の横顔に視線を投げる。すぐに気付いた彼は眼を細めて、夕日を受けて赤くなった頬を指先で数回引っ掻いた。説明が難しい、と言葉を選んでいるのか時間を置き、やがてその手を綱吉の膝元に下ろす。
 今は動かせない足を優しく撫でて彼は言った。
「呼ばれた気がしたので」
 実際は、綱吉は声を発していない。確かに心の中では懸命に獄寺に訴えかけていたものの、肉体的な痛みが勝って空気は喉を無常に通り過ぎていくだけだった。口から漏れるのは苦痛に対しての呻きだけであり、それが獄寺に届いたとは考えにくい。
 だとすれば。
 綱吉はジッと彼を見詰め、次の言葉を待つ。その獄寺は、綱吉の視線に益々照れた風に頬を緩ませ、少しだけ身体を前方に傾けた。背筋を伸ばしている綱吉の胸元に、額を押し当てる。
 表情を隠して。
「俺は、貴方を置いて先にいったりはしません」
 高鳴る心臓に、落ち着きを失いつつある心に向けて、誓いを。
「俺は……死にません」
 あの闘いまでは、例え命を失ったとしても、勝つ事が綱吉にとって最良の道だと思っていた。けれど違った、死んでしまっては意味が無い。彼の右腕だと、右腕になって彼を支えるのだと言い張っておきながら、至極単純なことを見逃していた。
 生きていてこそ、本当の意味で彼を支えられるのだと。
「貴方をおいていったりしません」
 繰り返す、誓いの言葉。頭上で綱吉が息を飲む音がする。細波と、彼の心音とが重なり合って呼吸が鎮まって行く。
 季節はずれの海は空気も冷たいのに、とても暖かく感じられた。
「……本当に?」
「はい」
 零れ落ちる綱吉の問いかけに迷いもなく頷いて、獄寺は目を閉じる。
 彼の心を、自分が傷つけてしまった部分を、一生かけてでも償い、癒したい。無鉄砲に我武者羅に、ただ目の前の敵を駆逐するだけが強さだと思っていた。けれど、そうじゃない。本当の強さは、彼のような、皆が帰る場所を常に守り続けている人のことを言うのだ。
 自分の居場所を与えてくれた綱吉を、永遠に、生涯守りぬく。生きて、共に歩いて、一緒に。
「だから俺と、歩いてください」
 また傷つけるかもしれない。その手を振り解かねばならない時が来るかもしれない。闇に飲まれて身動きが取れなくなることだってあるだろう。一歩先の未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。この誓いが破られる日が来る可能性だって。
 ただ、それでも。
 今は沈み行く夕日が明日また空に輝くように、何度だって自分は蘇る。貴方の隣で、貴方の傍で、貴方の右側で。
 貴方と一緒に、いきたい。
「……なんか」
 くすっ、と小さく笑みを零し綱吉が呟く。
「プロポーズみたいだ」
「え゛!?」
 瞬間、顔を上げた獄寺の顔が林檎のように真っ赤に染まる。そんなつもりは毛頭無かったのだが、言われてみれば確かに、そんな風に受け止められる台詞を、彼は素面で告げたのだ。
 ドドド、と心臓が高鳴って血圧が一気に上昇する。今頃になって恥かしくなってきて、獄寺は今この砂地に穴を掘って潜り込んでしまいたい気持ちに駆られた。それが無理なら、綱吉に背中を向けて小さく丸くなっていたい。
 動揺を隠せない獄寺を眺め、口元に手をやっていた綱吉が、たおやかに微笑む。
「でも、嬉しい」
「じゅうだ……」
「ね、少し歩こう」
 やり取りをしている間に、脹脛の痛みは大分落ち着いた。もう立ち上がっても平気だろうと、綱吉は服についた砂を払い落としながら起き上がった。無意識に右足を庇ってしまい、完全に両足で地面に立つのには少しばかり勇気が必要だったけれど、先に海に向かって背筋を伸ばしていた獄寺が助け舟で手を差し出し、それに捕まって事なきを得る。
 頭の高さが変わっただけなのに、潮の匂いが濃くなった気がした。
「そろそろ日が暮れますね。次のバス停まで、歩きますか?」
「ううん」
「なら、どこまで?」
 獄寺は帰りのことを気にかけてそう聞いたのだろう。緩く首を振って拒否を示した綱吉は、一度離れてしまった彼の手を気にして、自分から左手で彼の右手を取った。指を絡め、想いを託す。
 止んでいた風が戻ってきた。陸から海に向けて、穏やかな大気の流れがふたりを包み込む。
「分かりました」
 やがて獄寺がそれだけを呟き、綱吉の手を引いてゆっくりと歩き出す。一歩ずつ砂を踏みしめ、綱吉に道を作りながら。
 ふたり、一緒に。

 君となら、どこまでも歩いていける気がするんだ。