春眠

 ガタゴトと足元からせり上がってくる震動は、幼き頃に眠った揺りかごの動きにどことなく似ていた。
 背中を預ける背凭れは少し硬い。不安定に揺れる頭部に注ぐ光は穏やかで、温かかった。
 だらしなく開け放たれた口からは、涎が垂れ下がっている。人が見れば失笑ものの顔なのだが、幸いにもこの場には、彼の居眠りを咎める存在は誰一人として存在していなかった。
 カーブに差し掛かったバスが、僅かに右に大きな車体を傾がせる。その際に、路上にあった石か何かに乗り上げたのだろう。ガコン、と後部タイヤがほんの少しだけ浮き上がった。
 しかし車体に伝わった衝撃はその数倍に膨れ上がり、すっかり眠りこけていた彼の身体を激しく揺さぶった。仰け反るように後頭部をシートに押し当てていた彼は、弾かれた頭部を真横の窓枠にぶつけて瞬時に目を見開いた。
「いっ」
 遅れてやってきた痛みに呻き、慌しく瞬きを繰り返して咥内に残っていた唾を飲み込む。濡れている顎に気付いてサッと頬に朱を走らせて、彼は座席から滑り落ちようとしている自分自身に二度、驚愕した。
 慌てて丸みを帯びたシートの縁を握って姿勢を安定させ、挙動不審に左右を見る。ゴトゴトと絶えず揺れ動く足元を最後に見て、彼は恐々窓の外を流れる景色に目を向けた。
 灰色のガードレールが、紺色のアスファルトの縁をどこまでも飾っていた。その向こうは少しだけ空間があって、直後に青々と茂る樹木が所狭しと顔を出している。そのもっと向こう側に広がるのは、新緑眩い山の姿だ。
 反対の窓に目をやれば、濃い灰色のブロックが斜面一帯を覆い尽していた。土砂が流れて崖が崩れないようにと、地盤を支えているのだ。随所にむき出しの巨岩が顔を覗かせて、隙間から伸びる緑の草が植物の生命力の強さをさりげなく教えてくれた。
 バスに乗っているのは、僅かにふたり。綱吉と、制服を着込んだ運転手だけだった。
「……え?」
 状況が理解出来ず、綱吉は目を丸くして絶句した。
 山の絶景はまだ続いている。途切れる気配は、今のところ感じられない。
「あれ。なんで、俺」
 服に垂れた涎の跡を擦り、綱吉は焦りを噛み潰して右手で頭を掻き毟った。何故自分がバスに乗っているのかが直ぐに思い出せず、頭皮を引っ掻きながら懸命に眠りこける前の記憶を掘り返す。
 親指の爪を噛み、彼は額に滲む汗が睫に伝うのを見て慌てて首を振った。
「そうだ。母さんに頼まれて」
 奈々に頼まれて、隣の市に住む彼女の知り合いへ荷物を届けに行ったのだ。其処へ行くには徒歩では遠すぎて、自転車でも時間がかかる。電車を使うにしても駅から距離がある為、バスを乗り継いで行くのが最も楽だという結論に達した。
 経路を調べると、直行便がないので途中のターミナルで一度乗り換える必要があった。
 往路は特に問題は起こらなかった。初めて使う路線だったので、緊張していたというのもある。ところが、だ。
 頼まれた用事を無事済ませ、何十分に一本しかないバスの到着を待って岐路に着いた直後から、綱吉の記憶が途切れてしまっていた。
 元々人の乗り降りも少ない便で、座席の確保に困窮することもない。のんびりゆったり、帰り道の景色を楽しもうと外を暫く眺めていたのだが、一定のリズムを刻む震動と、降り注ぐ柔らかな日差し。風もなく温かい車内と、色々な要素が交じり合って、いつの間にか居眠りを開始してしまっていたようだ。
 どれくらい眠っていたのかは、さっぱり想像がつかない。もう濡れていない口元に無意識に手をやり、唇に爪を押し当てて彼は携帯電話を鞄から取り出した。
 電池残量があと一本分しかない。行きのバスの中で、何度も経路と所要時間を確認した所為だ。
「うっそお」
 当然の如く下車予定時刻を大幅に過ぎた数字が、液晶画面の右上に表示されていた。何度見返しても、デジタル表示に変化は見られない。逆に一分経過で数字が増えて、彼はまたも不審者並みに視線を右往左往させた。
 今どの辺をバスが走っているのかさえ、分からない。
「うそだろ」
 中腰に浮かせた尻をクッションの硬い座席に戻し、何か目印になるものがないかと目を凝らすが、窓の向こうには、依然豊かな山並みが広がるばかり。並盛町とは明らかに違う。完全に別の町だ。
 谷間に集落や田畑が見えるが、目立つ大きな建物は皆無に等しい。郊外に出れば並盛町にも多少は自然が残っているが、ここまでではない。どうやら爆睡しているうちに、かなり遠くまで来てしまったようだ。そういえば調べた路線図には、隣県まで行くバスもあった。
 途中で降り損ねないように気をつけなければと、自戒を込めていたというのに。なんたる失態だろう。
「うあぁぁ、どうしよう」
 頭を抱えて困惑するが、バスに乗っている限り自宅は遠ざかるばかりだ。のんびりしていると日が暮れてしまう、電池残量僅かの携帯電話は、程なく午後三時を示そうとしていた。
 考えている暇はない。綱吉は背筋を伸ばすと、窓横のボタンを力強く押した。車内に無数に設置された赤いランプが一斉に灯り、次降ります、の文字がこれ見よがしに輝いた。
 ハンドルを右に切った運転手が、ちらりと振り返ったのが分かった。思わず唾を飲んだ綱吉は、ややしてから静かに減速するバスに居住まいを正し、左右の踵をぶつけ合わせた。
「あああ、降ります!」
 ブレーキが踏まれ、ガクン、と身体が前後に揺らぐ。酔いそうになったのを堪えて立ち上がり、綱吉はポケットから整理券を取り出して降り口のある前方へ駆け出した。
 財布を広げつつ、天井近くに設置されたパネルを見詰める。運賃は本来の倍近い額に登り、彼の為だけに開かれたドアを抜けて、綱吉は噎び泣きつつ外に出た。
 山間の道端に彼を残し、バスは走り去って行った。綱吉は停留所の標識以外何もない周囲を見回し、反対側の道に同じものを見つけて急ぎ駆け寄った。
「次のバスは」
 風雨に晒されて錆び付き、掠れてしまっている運行表を覗き込んで綱吉は目を瞬いた。急ぎ携帯電話を広げて現在時刻を確かめ、背筋を伸ばしカーブの先に続く道を見詰める。反対側を向いても景色にそう変化は無い。集落に続くだろう脇道が、ガードレールの切れ目から斜面を伝って続いていた。
 再び標識に目を向け、接近する車が無いか耳を澄ますが、聞こえるのは風の音くらいだった。
「マジで?」
 記されている次のバス到着時刻まで、あと一時間近く。とてもではないが、ひとり大人しく待てるものではなかった。
 信じ難いが、事実だ。どうやら最高の外れ籤を引いてしまったらしい。綱吉は呆然と雲間に照る太陽を見上げ、がっくり肩を落とした。前髪を掻き上げ、途方に暮れる。
「どうするんだよぉ」
 電話を鳴らしたところで、綱吉の知り合いに車を持っている人は居ない。タクシーを飛ばして迎えに来てくれるような甲斐性の持ち主も、残念ながら。
 ならば取る道はふたつにひとつ。歩いて街まで戻るか、諦めてバスを待つか。
 乗り過ごしたのは自分のミスで、誰も責められない。しかし落胆は否めず、綱吉は深く溜息をついて脱力すると、鞄を背負い直して交通量の少ない車道を睨み付けた。
「……行ってみよう」
 ここでジッとしているよりは、歩いている方が幾分気も紛れる。それに次の停留所に着く頃には、バスと合流できるかもしれない。そんな淡い期待を抱き、綱吉は渋々、他に通る人も無い道を進み出した。
 しかし、舗装された下り道とはいえ、徒歩は辛い。十分とせぬうちに全身から汗が噴き出て、彼は犬のように舌を出して荒い呼吸を繰り返した。
 基本的に体力が無いに等しいので、今はどうにか足を交互に前へ送り出しているが、いつ膝が折れても可笑しくなかった。
「く、そ……おっ」
 車の一台でも通りがかれば、人生初のヒッチハイクを実践してやるのに。こういう時に限って道は閑散として、風は冷たかった。
 耳を澄ませ、山を駆け抜ける大気の音を聞く。ふと鼓膜の震えに人工的なものを感じて、綱吉は視線を持ち上げた。
「ん?」
 何かが接近してくる。琥珀の瞳を限界まで見開いた彼は、轟音を響かせて山道を行く二輪車の影を遠くに見いだし、ハッと息を呑んだ。
 大慌てで両手を振り回し、その場で跳び上がる。気付いて停まってはくれないかと切に祈り、あらん限りの声で彼は叫んだ。
「おーい!」
 山を越えて町にさえ出れば、電車が走っているかもしれない。微かな希望に胸を高鳴らせ、綱吉は次第に大きくなるエンジン音に心臓を竦ませた。
 すぐ真横を、疾風が駆け抜ける。
「っ!」
 跳ね飛ばされる恐怖に竦み、綱吉は肩を丸めた。全身を強張らせ、鼓膜を引き裂いた爆音に背筋を震わせる。
 一瞬の出来事だったがその数倍長く感じられて、彼は暫く呼吸さえ忘れた。
 ブレーキ音が甲高く鳴り響く。両耳を塞いだ手を下ろして苦心の末に息を吐き、首を伸ばして通り過ぎたバイクを追って視線を右に流す。
 大型の二輪車が、二十メートルばかり先で停車していた。エンジンは止まっていない、低い唸り声が依然綱吉の耳を打つ。
 乗っているのは若い男だ。黒い服を着て、白のヘルメットを被っている。どこかで見た覚えのある気がして、綱吉は首を捻った。
 二輪乗りの知り合いも、居ない筈だ。けれど見れば見るほど、運転手の姿は誰かを彷彿とさせて、綱吉は爪先立ちで数歩近づき、相手がヘルメットのベルトを外して頭部から引き抜くのを待った。
 湿気の少ない乾いた風が地表を撫でる。一旦上向いた彼の黒髪は、直ぐに重力に従って下を向いてサラサラと流れた。
「ひ……っ」
「なにしてるの、君」
「ヒバリさん?」
 アイドリング状態でハンドルから手を離し、ヘルメットを抱え持った雲雀が不思議そうに綱吉を見下ろす。ただ呆気に取られているのは綱吉も同じで、ぽかんと口を間抜けに開き、奇異な偶然に心底驚きを表明した。
 そういえば確かに、雲雀は中学生でありながら大型二輪を所有していた。我が物顔で乗り回し、並盛を縦横無尽に駆け回っていた。
 しかし此処は、彼の地盤である並盛ではない。
 綱吉は急ぎ駆け寄り、改めてバイクに跨る彼を見上げた。ジャケットに見えたのは、学生服だ。いつも羽織っているものに袖を通し、前ボタンも全て留めている。臙脂色の腕章も、そのままだった。
「ヒバリさん、なんで」
「君こそ、こんな場所で。ひとり?」
「俺は、その……バスに」
 居眠りをして降り損ねて此処まで運ばれたと、正直に告白するのは流石に憚られた。しかし赤い顔をして恥ずかしそうに言い淀んだ姿から、察する所はあったらしい。雲雀は緩慢に相槌を打ち、右手に持ったヘルメットで綱吉の頭を軽く叩いた。
 手加減されているとはいえ、痛い。顔を顰めて押し返し、綱吉はトトト、と唸るエンジン音に合わせて爪先でリズムを取った。
「ヒバリさんは」
「天気が良かったから。仕事も一段落ついたしね」
 間違っても誰かのように、ぼんやりしていて道を行き過ぎたわけではない。揶揄されて、綱吉は頬を膨らませた。
「で?」
「え?」
「呼び止めたのは君だろう」
 唐突に話を向けられ、きょとんとした綱吉の額をまたも雲雀が小突く。今度はヘルメットではなく、人差し指だった。
 叩かれた箇所を撫で、ついでに髪の毛を梳き上げた彼は、一瞬考え込んだ後に先程の自分の行動を思い返して嗚呼、と頷いた。ヒッチハイクで町まで連れて行って貰おうとしていたのを、すっかり忘れていた。
 柏手を打った彼の、急に輝きだした琥珀の瞳に、雲雀は眉間に皺を寄せた。
「ヒバリさん、俺を並盛まで、連れて帰ってください!」
 綱吉が元気いっぱいに叫び、まさに神頼み状態で大仰に頭を下げる。拝んで来た彼に顔を顰め、雲雀は左右に視線を走らせた。
 車が何台か通り過ぎて行ったが、都心部に比べれば数は雲泥の差だ。バスも、こんな辺鄙な路線ではそう本数も走っていないだろう。だからこそ綱吉は、とぼとぼと歩く事を選んだのだが、乗り物が利用出来るならばそれを使うに越したことはない。
「嫌だ」
「ええー!?」
 雲雀が通りかかったのはまさに天の助けだと決め込んでいた綱吉は、素っ気ない返答に声を裏返し、叫んだ。両手を伸ばし、雲雀の腕を取る。即座に振り払われてたたらを踏み、彼は固いアスファルトを蹴り飛ばした。
「なんでですか、良いじゃないですか!」
 道にはぐれて遭難して、並盛中から行方不明者を出しても良いのか。それは風紀の乱れには繋がらないのか。
 無茶苦茶な理論を振りかざし、綱吉は尚も彼に縋った。喧しく喚き散らされて、流石の雲雀も呆れ顔を作る。五月蠅い、と耳に小指を差し入れて、彼は深く溜息をついた。
「大体ね、僕は今から並盛を離れようとしてたんだけど。それに、もし後ろに乗りたいって言うのなら、当然支払えるだけの対価はあるんだろうね」
 ヘルメットの側面を拳で叩き、雲雀は後部座席を顎で示した。
 首を巡らせた綱吉が、精悍な顔立ちの青年を改めて見詰めて唇を歪めた。
「俺、お金はあんまり……」
 ただでさえ余分に交通費を支払わされた後だ。ガソリン代を出せと言われても、財布の中身は非常に心細い。
 念のために鞄から出して確かめると、覗き込んだ雲雀が鼻で笑ってくれた。
「足りないね」
「うぐ」
 断言され、綱吉は唸った。
 ならばどうすれば良いのか。勝ち誇った表情を崩さない彼を悔しげに睨み、綱吉は地団駄を踏んだ。
「ケチ!」
「だったら、身体で払う?」
 全く知らぬ関係では無いのだから、少しはおまけをしてくれても良かろうに。融通の利かない彼を責めようと声を荒立てた綱吉の鼻先に顔を寄せ、雲雀は低い声で告げた。
 笑みを含んだ口調に、綱吉は目を丸くする。意味深な視線を投げかけられ、裏に込められた内容を理解した瞬間、彼は全身の毛を逆立てて顔を真っ赤に染め上げた。
「ひひひ、ひっ、ひばりさっっ!」
「嫌ならいいよ」
「ちょっと待って!」
 上擦った声で名前を叫べば、ムッとした雲雀がそっぽを向いた。ヘルメットを被ろうと両腕を高く掲げる様を見て慌てて止めて、綱吉は跳び上がった。
 バイクのフレームに膝をぶつけ、斜め上からじっと人の顔を見下ろす青年を上目遣いに窺う。
「あ、えっと……後払い、とかは」
「ダメ」
「うええええーー」
 即答されて、綱吉は今度こそ悲鳴をあげた。
 小型のトラックが粉塵まき散らして山道を登っていく。路肩に停車するバイクを避けて、四輪駆動車がセンターラインを大きく乗り越えて通り過ぎていった。
 バスはまだ来ない。太陽は着実に西に傾いている。
 背に腹は代えられない。
「う、う……」
「どうするの?」
 太々しい態度で雲雀が笑う。綱吉は恨みがましく彼を睨み、学生服の袖を引っ張った。
 雲雀が身を屈めて首を前に倒せば、観念した様子で綱吉は琥珀の瞳を瞼に隠した。深呼吸を繰り返し、背伸びをして自分からも雲雀に顔を寄せる。
 一瞬だけ触れあった唇に、吐息が絡んだ。
「それだけ?」
「む、う」
 離れ行こうとする綱吉を制し、雲雀が囁く。瞳だけを残して俯いた彼は、じゃあ、と握った雲雀の手を自分の胸に押し当てた。
 バイクを倒れない程度に傾かせ、雲雀が靴底で固い地面を踏みしめる。
「だったら、降りてください」
 彼の手ごと自分の心臓を握り締め、綱吉は意地の悪い雲雀を睨み付けて凄んだ。
「そこ、遠いんです」
 二輪車に跨られたままでは、爪先立ちをしてもろくすっぽ届かない。声高に主張した綱吉に、雲雀は一寸驚いたようで目を丸くし、直ぐに相好を崩した。
 肩を震わせて笑いを堪え、真っ赤になっている綱吉の頬を優しく撫でる。
「そう。なら……おいで」
 下向こうとする彼を宥めて囁けば、綱吉は身を乗り出した雲雀に半歩近づいた。
「馬鹿」
 悔し紛れに呟いて、袖を引いて爪先立ちになる。笑う彼をねめつけて、綱吉は眩しすぎる西日を避けて目を閉じた。