揺籃

 カタカタと机に置いたアルミの筆箱が小刻みに揺れたのが、最初の異変だった。
「?」
 なんだろう、と首を傾げる。異変に気付いたのは綱吉だけではなかったようで、授業中で静まり返っていた教室内部にも、ちょっとしたざわめきの伝染が始まっていた。筆箱のすぐ横に転がしていたシャープペンシルがひとりでに動き出し、尻の部分が綱吉の小指に当たる。黒板から机上へ視線を移した直後、ズン、と足元から突き上げる衝撃が彼に襲い掛かった。
「キャッ!」
 女子の甲高い悲鳴を合図に、あちこちから立て続けに悲鳴があがる。椅子や机を弾みで蹴り倒してしまった生徒もいたようだ。更には机、椅子自体も下から競りあがってくる衝動に揺さぶられ、定位置を忘れて席の主人を床に放り出す。
「落ち着け、落ち着くんだ!」
 教卓を両手で上から押さえ込むようにして、天板に腹這いになった三十台後半の先生が取り乱した声で叫ぶが返事をする余裕は誰にも無い。まさに教室中がパニック。逃げろ、隠れろ、どこに、怒鳴り声の押し問答が飛び交って、女生徒の泣き出す声がそこに割り込む。
 筆記用具が床に散乱し、数秒間続いた揺れの間に机の下へ避難出来ていた生徒は殆どいない。耳に揺れる机が床と擦り合う音の余韻が残る中、やがてゆっくりと揺れは収まり、静寂が訪れる。誰かのすすり泣く声、安堵の息。呆然と椅子にしがみついて天井を見上げている誰かが「終わった?」と聞くものの、その通りだと肯定出来る人間はこの場に居なかった。
 綱吉は半ば腰を抜かした状態で、椅子から落ちた時に打った肘の痛みを堪えていた。身体を丸くして膝を折り、痺れている左肘を右腕で抱きこんで唇を噛み締める。四つん這い状態で近づいてきた獄寺にその肩を揺らされて、やっと綱吉は顔を上げた。
「……大丈夫ですか?」
 心配そうに顔を覗き込まれ、綱吉は脂汗を隠しひとつ頷いて返す。倒れてぐちゃぐちゃになっている机を起こしつつ、道を作って山本も近づいて来ているのが見えた。腰を抜かしている生徒に手を貸してやりながらなので、時間がかかっている。教師は教卓にへばりつき、半ば放心状態だ。
 足元に転がっていた自分の消しゴムを拾い、斜めに傾いている机を戻しながら綱吉は椅子に腰掛けた。左を見ると窓ガラスの枠に近い部分にヒビが入ってしまっている。触れると割れそうで、怖い。
「みんな、無事かー?」
 隣のクラスの担任である数学教師が後ろの入り口から顔を覗かせた。その向こう側では、ぞろぞろと制服姿の生徒が落ち着き無い表情で行列を作っていた。
「一旦、グラウンドへ避難だ」
 余震があるかもしれない、という言葉にまた教室内を悲鳴が駆け抜けた。視線を巡らせると、京子も不安そうな顔をして黒川と手を繋ぎあっている。ふと自分の手元に目を落とした綱吉は、自身の左手が小刻みに震えているのを見つけ、ぎゅっと力を入れて握り締めた。
「俺らも行くか」
 やっとのことで綱吉のところまで辿りついた山本が、喧騒甚だしい廊下を眺めて呟く。
「どこか怪我したのか?」
 俯いて返事をしない綱吉に、山本が腰を屈めて問いかけたが、緩く首を横に振って否定し、拳を解かぬまま綱吉は両腕を支えにして立ち上がった。他の生徒も、泣いている女の子を支えてやりながら廊下へ出て行く。
 と、そこへ。
「退いて、退いてくれ!」
 声を荒立てて人を掻き分け進む団体が居た。先頭を行く男子生徒が一際大きな声をあげ、後ろに続く生徒がそれよりも少し遅いくらいの速度で進んでいる。背中には、ぐったりとした女子生徒が。
 周囲はギョッとして大人しく道を彼らに譲る。女子生徒は顔色も悪く、硬く目を閉じて生気が感じられない。苦しそうに息を吐いて、彼らが去った後には点々と赤いものが廊下に散っていた。
「……急ぎましょう」
 極寺が控えめに声を出し、綱吉の背中を軽く押して促す。
 先ほどの光景を見てまた泣き出す生徒もいた。気分が悪そうにしながら足取りも重く進む生徒と、一秒でも早く建物から逃げ出したいと思う生徒でごった返す階段を一段ずつ降りて行く。一番怖いのは集団パニックであり、綱吉は獄寺と山本に両側を固められたまま、先程の女生徒は大丈夫だろうか、と吐き気を堪え口元に手を押し当てた。
 長かった階段がやっと終わり、校庭へ続く角を曲がる。しかしさっきから消えない血の赤に、綱吉は汗を拭って遠くを見た。
 グラウンドとは反対側の廊下を進む人が何人か目に入る。頭や、肩や、腕を抱え、足を引きずっている人も何人か。肩を支えられてなんとか立っている生徒もいる。
「保健室……」
 綱吉のクラスでは幸い怪我人は出なかったが、他の教室では窓ガラスが割れたり、理科の実験中ではビーカーが割れたりしたらしい。慌てて逃げようとして転んだりする生徒も何人かいた。
「ツナ?」
 きっと今頃、保健室はてんやわんやになっているに違いない。保険医はシャマルで、男子生徒は診ないとしても有名だ。この状況でそんな事を言っていられるはずはないのだけれど、あの偏屈な男ならば本当に男子生徒は後回しにしかねない。酷い怪我をしている人に、男女は関係ないのに。
 足を止めてしまって後続の生徒にぶつかられ、身体をふらつかせた綱吉を後ろから山本が両手で支える。覗き込まれた顔色はまだ若干悪いものの、一度気になってしまったことがなかなか脳裏から抜け落ちず、綱吉は首を振って彼から離れた。
 怪我人と同じ、グラウンドとは反対方向へ進みだす。
「十代目?」
 獄寺がその背中に声をかける。綱吉は一寸だけ足を止め、肩越しに振り返ると戸惑いを隠せずにいる友人ふたりに微笑みかけた。大丈夫、と呟いて。
「保健室、大変なことになってるだろうから、手伝ってくる」
「なら、俺も」
「大勢で押しかけるのも迷惑になるから、いいよ」
 一緒に、と前に足を踏み出した獄寺に首を振り、少しだけ調子を取り戻した綱吉は休めた足を再び動かし、人ごみを逆走した。階段の手前を抜けると一気に通行量は減り、歩くのも楽になる。振り返るとふたりがついて来ている様子もなく、何故か胸を撫で下ろすと綱吉は構わずに保健室を目指した。
 想像通りそこは、嘗てこの中学校でも例を見ないほどの大盛況。
 行列が出来ている。外に並ばされているのは案の定男子生徒が多く、立っているのも億劫な生徒は壁によりかかって座り込んでいた。どこかから救急車のサイレンが聞こえる。
「シャマル?」
 綱吉は彼らの血の気の引いた顔に少しだけ臆し、しかし此処まで来たのだからと唾を飲んで解放されたままのドアから内部を覗き込んだ。返事はすぐにはなく、順番を抜こうとしていると勘違いした生徒が強い視線で綱吉を睨みつけている。
 それでちょっと立ち入るのには勇気が必要だったが、保健室奥のベッドがある一角から顔を出した男の姿に、ひとまず安堵する。元気そうだ。シャマルは皺だらけの白衣の姿で顎の不精髭を撫で、ベッドに寝転がって痛みに呻いている生徒になにやら語りかけている。そしてやおら大股に進み、行列を成している生徒の前まで戻ってきた。綱吉には一切目も向けない。
「せんせ~、痛いって」
「わーった、わーってるから騒ぐな」
 まだ順番が当分回って来なさそうな生徒が、情けない声を出して早くしてくれとシャマルを急かす。彼は乱暴に自分の髪を掻き毟ると、椅子に座って待っている生徒の傷をまず診始めた。
 確かに男子生徒への扱いは不当なほどに乱暴だったり、いい加減だったりするけれど、ちょっと出血しているだけで大騒ぎしている生徒も存外に多くて、その辺りの見分けはさすがプロとしか言い様がない。
 どうしたものか、と綱吉は困ってしまって視線を無駄に巡らせる。他の教員も手一杯のようで誰も保健室の様子を見に来る気配がない。廊下から再び室内に目を戻した時、シャマルと一瞬目が合ったような気がした。彼の左手が胸の前で数回前後に揺れる。最初は何か分からなかったが、手招きされているのだと勝手に判断して綱吉は遠慮がちに保健室に足を踏み込んだ。ジャリ、と靴の裏が何かを踏みつける。
 見下ろすとそれは細かく砕け散った硝子の欠片だった。
「気をつけろよ、そこ」
「あ、うん」
 視線を上げないシャマルがぶっきらぼうに言い、腕を切ったらしい生徒の消毒を手早く終わらせた。次の生徒が前に出て、椅子に座り込む。女の子で、半泣き状態だ。興奮しているのか、症状を上手く説明できないで居る。そんな彼女をシャマルは優しい言葉で落ち着かせ、会話の断片から何処が痛いのかを割り出し、的確に処置を施していく。その動きは正確で素早く、無駄が無い。
 野戦病院ってこんな感じなのかな、とあまりにも手馴れた動きをしているシャマルを見て考える。またぼんやりしていると、彼が女生徒の足に包帯を巻きつけながら顎で綱吉にベッド側の区画を指し示す。引きずられて目を向けると、いつもは誰も使っていないベッドが六床全部埋まっていた。
 救急車のサイレンが近い。
「冷凍庫に氷嚢があるから、タオルにくるんで三番目右側の奴の足を冷やしてやってくれ。押されて倒れた時に左を捻ったらしい」
「分かった」
 ひとつ頷き、綱吉は言われた通りに動く。暫くすると白衣にヘルメット、という格好の人たちが押し寄せてきた。シャマルは作業の手を休めず、ベッドで寝かされている数人の生徒の状態を手短に説明していく。その中には綱吉が教室を出てすぐに見かけた女生徒も混じっていた。
 救急隊員が持ち込んだ担架に乗せ替えられた生徒が運び出される。今頃になって駆け込んできた教師に、シャマルは生徒の名前をメモにまとめた紙を渡し、家族に連絡するよう依頼する。呆然と見送る綱吉にまた彼の声が飛んできて、いつの間にか看護師扱いで綱吉はこき使われていた。
 やがて、校内放送で一斉帰宅を促す校長の声が鳴り響く。グラウンドに出ていた生徒も順番に教室へ戻され、怪我をした生徒もこの頃には大分数が減っていた。皆、かすり傷で大袈裟に騒いでいただけなのだ。
 ベッドを埋めていた生徒も、友人や連絡を受けた家族が引き取って行き、皺だらけのシーツだけが残される。最後のひとりの治療を終えたシャマルは、やっと解放されたとばかりに大きく両腕を持ち上げて伸びをした。
「お疲れ様」
 それが本当に疲れているように見え、綱吉は珍しく仕事を積極的にこなしていた彼に笑いかける。
「あー、ったく……いい迷惑だ」
「真面目に仕事してただけじゃんか」
「ヤローの手当てまでさせられるしよ」
「保険医なんだから、それも当たり前」
 差別はよくない、と不平不満を今頃撒き散らすシャマルを更に笑って、綱吉は使い終えたタオルを一箇所にまとめて袋に放り込む。動き回っていたからだろうか、気分が悪かったのもすっかり消えうせていた。
「手厳しいなー」
「シャマルが不真面目すぎるだけだろ」
 袋の口を勢いに任せてぎゅっと締め、出入り口近くの壁際に置く。それから一度廊下に出て、灰色のロッカーから箒と塵取りを持って保健室へと戻る。シャマルが新しいゴミ袋を広げ、二枚に重ねているところだった。
 改めて眺めてみると、保健室の中は散々な状態だった。
 棚に並ぶ薬品の一部が地震の影響で床に落ち、中には瓶が割れてしまって中身が零れてしまっているものがあった。更にそこへ、片付ける間もなく生徒が駆け込んで来た。踏み潰された瓶の破片が散り、粉末は泥にまみれ、別の液体の薬品と混ざり合いもう使い物にならない。滑らないように雑巾を敷いておいたのだが、それも蹴り飛ばされて部屋の隅に散らばっている。
「すまんな」
 不真面目と指摘されたことへの謝罪か、黙って片付けにまで手を伸ばそうとしていることへの謝礼か。シャマルは塵取りを置いて箒を動かす綱吉の頭をくしゃっと撫で、窓から見える集団下校の様子を遠巻きに見詰めた。
「お前はいいのか」
「ん?」
「帰らなくて」
「……帰るよ、これが終わったら」
 なんだか追い出そうとしている風に聞こえて、綱吉は少し寂しくなる。シャマルは黙々と動く綱吉に振り返らず、矢張りそれきり黙って煙草に火をつけた。
 薬品の匂いが充満している室内に、煙の臭いが混じる。
 地震は、テレビなどでの速報を実際に見たわけではないので詳細不明だけれど、震度四程度だったらしい。場所によっては震度五も記録されたそうだ。怪我をした生徒の多くは割れた窓ガラスで切ったり、移動中の混乱で転んだりしたものが多く、救急車で運ばれていった生徒は極度の緊張で気分が悪くなったのが原因らしい。もしくは元から心臓が弱く、今回の地震で強いショックを受けた所為だろう、との事。
「日本は地震が多いな」
「イタリアは地震ないの?」
「いや、あるにはあるが、ここまで頻繁じゃないか」
 息を吐くシャマルの口から煙が細く伸びていく。天井に上りきる前に薄れて消えていく白い糸に、綱吉は芥川龍之介の小説を思い出した。蜘蛛の糸であったか。
「もっと大きな地震が起こる、って言われてるね」
「そいつは、大変だな」
「他人事みたいに」
「他人事だからな」
 もし、本当に大地震が起きたとしても。
 シャマルがその時、日本にいるかどうかなんて、分からない。
「余震が来るかもしれないんだから、早く帰れよ」
 ゴミ袋を抑え、綱吉が塵取りから汚れた土を流し込むのを手伝って彼が呟く。
「分かってるよ」
 短く言い返し、塵取りの持ち手を叩いて中身を完全に袋の中へ。そんなにまでして自分を追い出したいのかと、シャマルを睨みつける。彼は視線を逸らしている。煙草を指で挟み持ち、遠くを――否、どこかを見据えて。
 カタン、と綱吉の肘が戸棚にぶつかる。
「あれ?」
 視界が揺らいだ。肘だけでなく腰も棚に当たった。シャマルが大慌てで煙草を落とし、足で火をもみ消した。保健室で喫煙どころか、ポイ捨てするなんて、なんて奴。ゆっくりと目の前を流れる光景に瞬きを繰り返し、綱吉は両手を後ろ向きにして棚に、しがみつく。
 揺れているのは自分ではない。
 保健室が、学校が、大地が、地球が、揺れている。
 肩が棚に繰り返しぶつかる。後ろの棚、どうなっていた? いつもは施錠されているガラス戸、確かさっきまで中に入れているものを使っていたから開いている筈。中には、プラスチックの容器が多いけれど、濃度を薄めないと危ない消毒薬も確か、ラベルで見かけた気がする。
 戸は、開いたまま。消毒薬は茶色のガラス瓶に入れられて、いつもなら一番奥に。でも、さっきの地震で配置は大きく入れ替わっていて、曖昧に残る記憶では、引き戸のすぐ手前に、あった。
 あぶない、かも。
 でも、どうしよう。
 動けない。
 足が、手が震えて、激しく揺れ動く地面に酔って、さっきまで消えていた吐き気が戻って来て、頭の中がひっくり返る。白いものが、目の前を。
 綱吉の中で崩れていく世界を、覆い隠す。
「っ――!」
 引き攣った声があがった。息を吸い込んで吐き出せない。膝に力が入らずにカクリと折れて、ずるずると背中が棚に擦れながら崩れていく。顔を覆う影が少しだけ薄くなり、折れ曲がった膝が床に伸びる。脛が、何かにぶつかる。
 床に落ちて割れる瓶の音。飛び散る水滴と硝子の破片は、綱吉の前に立つ男が壁となって届かない。
 激震は、恐らく一分も無かっただろう。けれどこの世の終わりかと思える程に長く、生きた心地を与えない。泣きそうになっている自分に気付き、綱吉は上半身だけが戸棚に預けられている格好のまま数回しゃくりをあげた。
「いってー……」
 声が落ちてくる。
「シャマ……っ」
「あー、いい。大丈夫だ」
 上手く発音できないまま、泣く一歩手前の顔で相手を見上げる。苦痛に一瞬だけ顔を歪めていた彼は、しかし綱吉の表情に気付いた途端に平静を装って仮面を被り、なんでもないという風に取り繕う。消毒薬の瓶でぶつけたらしい肩から首筋にかけて気にしてはいるものの、表立ってそれを綱吉に伝えようとしない。
「平気か?」
 彼の声はどこまでも優しい。大人の、子供に弱みを見せようとしない顔をして。打ったのとは違う腕を差し出して。
 平気でいられるはずが、ない。
「どこかぶつけたか?」
 俯いて首を振る。気を遣わせているのが心苦しくてならない。彼が早く帰れと繰り返すのだって、今みたいに、余震の危険性があるからだというのはちゃんと分かっている。
 でも、不安だから一緒にいたくて、だから自分が聞き分けの無い子供だという環境を利用している。彼が自分にはとても甘いのを知っているから、それに甘えている。自分はずるい。
 こんな自分が嫌いで、でも彼が自分を第一に考えて守ってくれたのが嬉しくて。感情がごちゃ混ぜになって上手く整理できない。
 シャマルの手が下りてくる。片膝をついた彼が目線の高さをあわせ、困った風にはにかんでいる。頬に添えられた指が綱吉の目尻をなぞった、ほんの少しの湿り気が彼の爪の間に挟まる。
「泣くほど怖かったのか?」
 人をからかう笑みを浮かべ、潤んだままの目で睨み返すと、彼は急に表情を変えた。
 仕事をしている時と同じ、真剣な顔。
 胸が跳ねる。不謹慎だと分かっているのに、その瞳が自分にだけ向けられているのだと分かるこの瞬間が嬉しくてたまらない。
「震えてるな」
 反対の手が綱吉の、床に彷徨っていた左手を掬い上げる。硬く握られ、小刻みに震えている拳に目を細める。
「大丈夫、平気……」
 吸った息を吐くのがこんなに大変な作業だとは思わなかった。強気を貫こうとするが、言葉以上に素直な体の状態を、医者であるシャマルが見逃してくれるはずが無い。嘘をつくな、とぴしゃりと言い切られ、消え入りたい気持ちで綱吉はまた俯いた。
 指先に、暖かな息が吹きかけられる。
「シャマル?」
「お子様は黙ってな」
 横を向いたままで、視線だけを彼に戻す。あからさまに年下を見下した物言いに、不思議と怒る気持ちが起こらない。ただ唇を尖らせて拗ねた表情だけは露にしていると、硬く握りすぎて血流が悪くなっている指先に、彼の唇が静かに押し当てられる。
 指を広げ、伸ばしていたならば、それは女王に誓いを立てる騎士の図になったかもしれない。男同士で、キスを受ける方が腰を抜かして棚に凭れかかっている状態では、かなり格好がつかないけれど。
「……っ」
 別に舐められるとか、そんな妖しいことをされたわけではない。けれど心がチリリと痛みを発する。同時に、強張っていた全身の筋肉が端から解けていく感覚が沸き起こる。呼吸の苦しさも、実は拳だけではなかった震えも、少しずつ薄れ、やがて止まった。
 緊張が緩みすぎて、目尻を涙が伝っていく。
 魔法のようだ。薬を飲んだわけでも、針を刺されたわけでも、特別なことをされたわけではないのに、気持ちが静まって楽になる。
「落ち着いたか?」
「……うん」
 大人しく頷く。そうか、と呟いたシャマルが笑う。彼の右手が綱吉の左手ごと床に縫い付けられる。少しだけ煙草臭い息に顔を上げる。目尻に残っていた涙を、彼の舌先が拾いあげて去っていった。
 皮膚が引っ張られる感覚に、目を閉じる。一瞬離れたぬくもりはまたすぐに瞼へと落とされ、埃を被った前髪を梳き上げてから額に、眉間に、鼻筋に、頬へ、そして顎を舐められる。
 降りかかる息が、熱い。
「いいか?」
 問いかける声が甘く耳に響く。身体の心がぼうっとして、胸の中の蝋燭に小さな火が灯ったようだ。恥かしくて答えたことなんてないのだから、逐一聞かないで欲しい。綱吉は目を開けられず、却って強く目を閉じて辛うじて頷いて返すのが精一杯。
 シャマルの笑う気配がする。こんなところで経験の差を見せ付けられた気分になるなんて、悔しい。
「怒るなよ」
 耳元で囁かれ、耳朶を柔らかく食まれる。
「やっ」
 いつまで経ってもそこに触れられるのだけは慣れなくて、ついあげてしまった声、開いた唇。割り込んでくる熱。
 逃げようとして、けれど背後は棚で塞がれている。相手だってそれは熟知しているだろうに、ワザとらしく肩を捕まえて自分の方へと引き寄せ、繋がりを深めて強引に、乱暴にその咥内を荒らしていく。
 頭の中にまで響く水音、求められているのだという歓喜。背徳を犯しているという後ろめたさ、それでも焦がれる思い。
「んぅ……」
 きつく舌を吸われ自然と顔が上向く。無防備に晒された喉元に、離れていったシャマルが食いついて薄い皮膚に赤い傷跡を残した。シャツの隙間、ぎりぎり見えるか見えないかの位置に、赤い虫刺されにも似た痣。
 こういう事を繰り返すようになってから、時折色が薄れる頃に彼がつけるようになった傷。理由を問うた時に、彼は笑いながら「虫除け」だと言った。その意味を、綱吉はまだ正しく理解していない。
 ちゅ、と軽い音を立てて唇を吸われる。表面をなぞった舌先が離れて行くが、そこにばかり気が向いて目が逸らせない。シャマルとのキスは、いつだって煙草の味がする。
 獄寺とは違う、もっと濃い、表現しづらい、染みついているとでも言うのだろうか。それ自体が最早シャマルの匂いと同一化してしまっている、その匂いに包まれていると安堵を覚える。
「怪我はしてないな」
「うん」
「お前に何かあると、他の連中がうるさいからなー」
 手を取られて引き上げられる。まだ二本足で立つには身体がふらついて、倒れそうになったのをシャマルに抱き留められる。薬の匂いが鼻についた。
「みんながうるさいから、俺に構うの……?」
「何か言ったか?」
 綱吉を椅子に預け、床の上で砕けている消毒薬の瓶に気を向けていたシャマルには、綱吉の呟きは届かない。聞こえないように言ったのだから当然なのだけれど、気持ちが納得出来なかった。
 ボンゴレ十代目、未来のマフィアのボス。そんな肩書きを持つからこそ、彼に庇われて、守られているのだとだけは、思いたくない。それは自分勝手な独り善がりなのだろうか。じっと背中を見つめても、答えは返って来ない。
 ばたばたと片付けに忙しそうなシャマルの白衣が揺れ動く。ゆらゆら、ゆらゆら。目で追い続けると時に酔いそうなまでの動き方に、ふわりと空気を含んで大きく膨らむ瞬間が混じる。反射的に伸ばした腕がその膨らみを掴んでいた。裾を引っ張られた格好になり、シャマルが出した足をそのままに振り返る。
「どうした?」
「え?」
 聞かれて初めて綱吉は、自分の手が無意識に白衣を捕まえていたのに気付く。慌てて手放すが、顔は真っ赤だ。
「……ごめん」
「先生、まだ残っていらしたんですか? まだ大きな余震が続く可能性があるんで、片付けも良いですけれどなるべく早く……」
 消え入りそうな綱吉の声を掻き消すように、開け放ったままだったドアから身を乗り出して来た女性教師の声が響き渡る。眼鏡を掛け、黒髪を後ろでひとまとめにしたまだ若い教師は、最後まで言い終わらないうちに口を噤んだ。椅子に座っている、もう全員帰宅させた筈の生徒が、即ち綱吉が、まだ居残っていたからだ。
「あー、こいつは俺が責任持って家まで送っていきますんで」
「そうですか? なら、良いですが」
 女教師の視線を受け、その先に何があるのかを瞬時に悟ったシャマルは、頭を掻きむしりつつ弁解する。そしてさりげなく動いて綱吉の前方に立ち、彼女の厳しい視線から彼を隠した。教育熱心なのは良いが、狭量さ故にあまり生徒に好かれていない彼女は、綱吉も苦手としていた。
 全てに模範的であれ、常識からはみ出すな。そんな考えに固執しているから、保護者受けしても生徒には受け入れられずに教職員からも苦手意識を抱かれてしまっている。
 だからか。女性になら誰にでも満遍なく優しく接するシャマルを、彼女は少なからず好意に思っているようだった。
 そう、シャマルは誰でも良いのだ。自分でなくとも。
「シャマル」
 でも、こんな風に彼に守られたり、庇われたりしていたら。
「あのお嬢ちゃんにも、困ったもんだな」
 一緒に帰る口実になると様子をのぞきに来たであろう彼女をあっさりと追い返し、顎髭を撫でてシャマルが振り返る。
「キスして」
「は?」
 さっきしたばかりだというのに、何を言い出すのだろうこの子は。そんな顔をして見下ろされ、綱吉は自分が今言い放った台詞に俯いた。
 単純にシャマルと一緒に居たいだけなのに、自分が子供で、彼が嫌いな男である事がこんなにも恨めしく感じられたのは、久しぶりだ。それでも彼の中では自分は特別だと思いたくて、リボーンに頼まれているからだとかそういう理由ではなくて、彼も自分と同じ思いでいてくれたらいいと、そればかりを願っている。
 あの女教師が修羅のような目で睨み付けて来た時、本気で逃げ出したかった。お前の所為で、そう責められている気がした。
 そして、シャマルが自分を優先させてくれたのが嬉しくて、少しだけ彼女を見下した。
 汚い。自分は、卑怯だ。でも、そんな自分でも良いのだと思わせて欲しかった。
「シャマル、俺の事嫌い?」
「手間のかかるお子様は、好きじゃないかもな」
 近くで揺れる白衣を握る。縋る目を向けると、困った顔をしたシャマルが小さく笑って、それでも綱吉が欲しがったものを、優しいキスを頬にくれる。それじゃ足りないと、折り曲げた膝の片方を伸ばして彼を蹴り飛ばし、両手で白衣を握り直す。
 痛いな、と呟いて。
「おいで」
 彼が背中に腕を回し、綱吉の小さな体を抱き上げて引き寄せる。
 例えこれが、綱吉のわがままにつきあってくれている彼の親切でしかなかったとしても。
 今、この瞬間だけは、彼は自分だけのものだ。降りてきた彼の唇に全てを預けて綱吉は瞼を閉ざす。
 彼を好きだと言った事は一度もない。彼に好きだと言われた事もない。この感情が単純にそんな二文字で表されるものだとも思わない。思えないし、思いたくもない。
 でも、もしこの世界が明日壊れるのだとしたら。漫然と綱吉は考える。
 きっと自分は、彼の隣にいる事を選ぶだろう、と。