唐紅

 咳込んだ後に吸った空気は、血なまぐさかった。
 けほ、ともうひとつ息を吐いて立ち上がる。ずるり、と右足の上に圧し掛かっていたものが崩れ、落ちていく感触が気持ち悪い。
 綱吉は胸元を襲う吐き気を堪え、息を吸うことでどうにか気持ちを誤魔化し足元から視線を逸らす。細かな粉塵が飛び交う世界は薄暗く、時折真っ暗な煙が視界を覆い尽くす。左手を壁に添えて肩を預け、荒く呼吸を繰り返しどうにか心臓の動きを平常値までに戻すのに成功して、綱吉は自分の右腕に殆ど感覚が残っていないのに気がついた。
 視線を落とすと、だらりと肩からぶら下がった腕が力なく揺れている。手を握ろうと脳から信号を送ってみるものの、ヒクヒクと痙攣を起こすばかりで上手くいかない。痛みは全身から発せられているお陰であまり感じないが、恐らくはどこかで折れている。
 ただ、まだ身体と繋がってくれているのは幸いだ。
 折れた骨はそのうちに治る。きちんと手当てが出来れば、だけれど。しかし一度千切れてしまっては元には戻らない、今の技術ならばそう時間が経過していなければ再び繋ぐのも可能らしいが、この有様ではそう上手くいかないだろう。
 最悪だ、綱吉は頭を壁に擦りつけ呻く。
「どこから……」
 ずっと頭を巡っている疑問が口をついて飛び出て、直後、ひゅんっ、と風を切る音を残し何かが超高速で綱吉の耳元を掠めて行った。背後で、何かと何かがぶつかり合い弾け飛ぶ。
 一瞬時間が止まる。綱吉は唾を飲み、奥歯を噛むと動かない右腕を庇って姿勢を低くした。そのまま肩が壁に擦れるのも構わずに駆け出す。ひゅっ、とまたひとつ彼がさっきまで立っていた場所を狙って風切り音がした。
 もうひとつ、またひとつ。
 綱吉へ正確に狙いをつけ、誰かが狙撃しているのだ。硝煙が鼻を突く、涙で視界が滲むが立ち止まっては的にされてしまうだけだと、痛みを押し殺し彼は走った。
 兎に角どこか、身を隠す場所を。そして出来るなら狙撃を行っている人間の位置を特定したい。
 遠くで複数のサイレンが響いている、誰かの悲鳴がそれにかき消される。ただの通行人、一般市民にも被害が出ているはずだ。街中で襲われるとは想定していなかった、いや、想定していたがこのルートを狙い撃ちされるとは考えていなかった。
 どこから漏れた、誰が漏らした。
 オルメタを侵してまでこの身を狙うのは誰。失敗し、特定された時の報復がどのようなものであるかは知っているはずだ。むごたらしい報復の様を綱吉とて知らないわけではない、マフィアの法は絶対であり決して逃れられないのも、また。
 それでも綱吉の命を欲し、ボンゴレを敵に回しても厭わない理由が分からない。闇から追われる運命を背負おうとも、それを上回る報酬を提示されたのか。愚かな。毒づき、綱吉は赤い唾を地面に吐いた。
 息が上がる。全身が熱を持って綱吉の思考から冷静さを奪っていく。
 運転席に座っていた男の重みを思い出す、あの傷ではきっともう助からない。隣に座っていた男もまた、綱吉を身を挺して庇ってくれたが、温かかったのは彼の体から流れ出た真っ赤な血だけだった。
 瞼を閉じるとその光景が蘇り、涙が溢れてくる。泣くな、泣いてはいけない。泣くと力が抜ける、考えが鈍る、動きが止まる。逃げろと全身が訴えている、腕の痛みが今頃になって戻ってきたけれど、立ち止まっている暇はない。
 襲撃は一度止んだけれど、少しでも歩を緩めるとまた綱吉を狙って、そしてわざと遊んでいる風に彼の立ち位置をぎりぎり外れる地点に鉛の弾を撃ち込んでくる。手馴れた、実に正確で隙の無い狙撃手。
 そんな技を持ち合わせている人間を綱吉は何人か知っているが、今スコープから綱吉を窺っている人物がそのどれでもない事を祈らずにいられない。
「くっ……」 
 身を屈め、半分血で濁ったハンカチを使い上腕を縛り上げる。片方の端を口で噛んで思い切り引っ張ると、指先を伝って地面に落ちる血の量が少しだけ減った。
 サイレンの音が遠い。随分と走ったようだ、だが血の痕が点々と残っている、誰かが気付いて追ってくるのは時間の問題だ。それに、狙撃手からもまだ逃れ切れていない。
 綱吉は慎重に背中を建物の壁に預け、狭い路地に身を寄せた。ボンゴレのボスが直接狙われたのだ、市街地を車で移動中に、進路を予め知った者が路上駐車中の車に仕込んだ爆弾を爆発させて。
 情報はきっとすぐに伝わる、各方面に。綱吉がまずしなければならないのは己の身の安全の確保と、己がまだ存命である証明。
 息を吸い、吐く。煙の色はとうに失せ、何処にでもある路地の、ちょっと据えた臭いが鼻腔を刺激した。
 狙撃の音は止んだ。しかしまだどこかで綱吉を見ている目がある。ちくちくと肌を刺す、隠そうとしない視線に息を殺し、注意深く周囲を観察しながら綱吉はどうやってアジトへ戻るか算段する。
 ボンゴレの誰かが気付いて駆けつけてくれるならばいいが、今日に限って身近な護衛を連れてこなかったことが酷く悔やまれる。舌打ちしかけ、だがハッとした綱吉は瞬きをして今の自分の考えを否定した。
 誰も、綱吉にとって近しく親しい、大切な人を巻き込まなくて良かったと。
 こんなことを口に出して言えば、考えが甘いと怒られるどころの騒ぎではないだろう。けれど心の底から、傷を負ったのが自分でよかったと思っている。車に同乗していたふたりには気の毒なことをしてしまった、だからなんとしてでも無事に自分だけでも、帰りつかなければならない。
 決意を新たにし、強い光を瞳に宿し綱吉は狭い空を睨んだ。
 と、不意に胸元を震わす振動を感じ取る。
「あっ」
 思わず声を上げて叫び、慌てて口を両手で塞いでもう一度体を丸くし、周囲を見回す。挙動不審になった綱吉は、この場に変化が現れないのを確認してホッとしてからまだ震えているものを取り出した。
 血と煙にまみれてもとの色を失い、一部切り裂かれて二度と袖を通せないところまで傷つけられているジャケットの、内ポケット。そこに収められていた携帯電話は、奇跡的に無事だった。
 急ぎ取り出し、広げる。液晶画面に踊る文字は綱吉の良く知る名前。
「もしもし!」
 息堰切らし綱吉は通話ボタンを押すと同時に電話をかけてきた相手に飛びついた。
『ツナ!』
 あちらもまた、綱吉同様に切羽詰らせた声で彼を呼ぶ。途端、安堵に胸がいっぱいになって立っていられなくなり、彼はへなへなとその場にしゃがみこんでしまった。
『無事か?』
「……俺は、平気。でも、ふたりが」
 涙まで出てきて、それを気取られないように注意深く指で払いながら綱吉は答える。意気消沈の声色に悟ったのだろう、向こう側でリボーンは暫く沈黙した。
『そうか……。それで、お前は今何処にいる?』
 やがて溜息と共に重い声が落ちてきて、綱吉は周囲を見回し狭い視界で目印になるものを探す。彼が隠れている路地の左手にある建物が、頭上に大きな看板を出していたのでそれを告げると、意外なことにリボーンは、その近くにいると綱吉に教えた。
 どうして、と目を見張るけれど、深く考えぬまま綱吉は彼が来てくれるなら安心だ、と呟いて返す。ありがとう、と言うと電話の向こうでリボーンは小さく笑った。
『今獄寺たちが事故現場に到着したらしい。お前の姿が見当たらないと騒がしかったが』
「あはは……相変わらず」
 彼らしい、と顔を青くしているだろう戦友を思い浮かべ、綱吉もまたどうにか笑うのに成功した。目尻に、涙がひとしずく。
 右腕の痛みが激しい、熱が出てきていると思われる。吐く息は熱く、湿っぽい。右腕どころか体の右半分から感覚が抜け落ちていく気分で、壁に凭れかかりながら綱吉は自分に近づいてくる足音を数えた。
 表通りとは逆方向、人気のない裏路地から長い影が伸びる。
 カチリ、という静かに響く金属音。
『そこに、いるな?』
 綱吉は振り返る。リボーンの声は電話からと、そして脳に直接響く肉声となって、多少のタイムラグを起こしながら二重になって届けられた。
 カン、と蹴り飛ばされた缶が転がる。
 ぴたりと当てられた照準、寸分違わぬように、慎重にあわせられた中央に綱吉のあどけない顔がある。
 はは、と綱吉は乾いた笑いを浮かべた。どくん、と心臓が一度大きく跳ねた後妙に静かに細波を刻んだ。
「なーんだ」
 携帯電話を遠ざける。通話状態のまま、彼はそれを地面へと落とした。軽い衝撃を受け、二度跳ねたそれはうつ伏せに倒れこんだ。
 ノイズが、耳に届く。
『ツナ?』
 リボーンの声。それは、夢か幻か。
『どうした? ツナ、返事をしろ』
 聞こえるのは、幻想か、祈りか。
 目を閉じる。
「そっか。お前かー……」
 ならば全て納得がいく。綱吉の行動を知っていたのも、綱吉だけを生かしたのも、綱吉を追い詰めたのも、すべて。
「誰に雇われた?」
「誰にも」
 静かに問う声に、静かな波が返される。
「俺の、意思だ」
「そっか」
 なら、いいや。唇だけを動かして、呟き、綱吉は自分に狙いを定める男を見上げる。
「すぐに、俺も会いに行く」
「うん」
 彼はいつから、どこから知っていたのだろう。綱吉の本当の気持ちを、薬に、人の体温に頼らなければ眠れない夜を。
 そして彼は、そんな綱吉をどんな想いで見下ろしていたのだろう。
 全身の感覚が遠い。ただ脳裏に浮かぶ光景が、まざまざと、赤く。
 美しく。
「おやすみ、ツナ」 
 囁きは、甘い蜜にも似て。