白いカーテンの半分がオレンジに染まり、残り半分は灰色の影を帯びて佇んでいた。
風はない。静まり返った広い空間をぼんやり見つめて、沢田綱吉ははて、と首を傾げた。
ここはいったい、どこだろう。真っ先に思い浮かんだ疑問に眉を潜め、二秒半後ハッとして息を呑む。慌ててスラックスのポケットを探って携帯電話を取り出せば、液晶モニターに表示されたデジタル時計は午後五時十分を指し示していた。
「うわ……え、ええー!?」
一瞬頭が理解出来ず、瞬きを繰り返した後にハッとして悲鳴をあげる。あまりの衝撃に声は上擦り、それまで静かだった心臓は一気に速度を増して暴れ回った。首の後ろを冷たい汗がつー、と流れていって、その不快な感触に鳥肌がたった。
「ちょっ、え、ウソ。ウソだろ」
一オクターブは高い声で叫んで頭を振るが、時計は刻々と数字を積み重ねていくばかりだ。枕にしていた袖の形がくっきり残る額を前髪ごと引っかいて、彼は怒濤の勢いで駆け回る心臓を鎮めようと唇をかみ締めた。
汗を吸って程よく湿った髪を軽く握ってもう一度首を振るが、現実は待ってくれない。鏡がなくとも触っただけで分かる凹凸に深いため息を零して、綱吉はがっくり肩を落として項垂れた。
「マジかよぉ……」
弱りきった声で呟いた彼に相槌を打つ存在は、生憎とこの場には存在していなかった。
理路整然と並べられた机はどれも無人で、人が座っていた形跡はどこにも見つけられない。がらんどうの空間に動くものは彼だけで、携帯電話と同じ時間を示す壁のアナログ時計だけが、コチコチと神経に障る音を響かせていた。
黒板の右隅に記された日付も七月の中旬の、とっくに通り過ぎた日のまま動いていなかった。照明が消された室内には薄い影が伸び、光の当たらない場所にはぽっかり穴が開いたような闇が広がっていた。
日暮れまでまだ相当時間があるものの、太陽は着実に地平線に近づきつつあった。
覚えている限りの最後の記憶では、室内はカーテンを引いていても照明が必要無い程の明るさだった。時間の経過を如実に思い知らされて、彼は騒然となって身震いした。
反射的に抱きしめた体から、汗ばんだ肌の温もりが伝わってきた。べたべたして不快でならず、すぐに両手を広げて力を抜けば、背中に椅子の背凭れが食い込んで痛かった。
「ちょっと、嘘だろ。どうすんだよこれー」
にわかには信じ難い現状に天を仰ぐが、見えるのはくすんだ色の天井ばかり。白く濁った蛍光灯が無慈悲に彼を見下ろし、あざ笑うかのような風が窓の外を吹き抜けた。
ひゅぉぉ、と余韻を残して去っていった風に煽られて、カーテンの一部が膨らんだ。窓枠がカタカタと音を立てて揺れて、人気がないところに生じた不気味な音色にぞわっと背筋があわ立つ。
体全体を包むけだるい暑さがサッと音立てて引いていき、視線は自然と窓側に向かった。
こんな明るい時間帯から幽霊など出るわけがない。そう信じて目を凝らし、もう何も聞こえてこないのにほっと安堵の息を零す。
「……最悪」
ぽつりと呟けば、遠ざかったはずの暑さが徒党を組んで一気に戻ってきた。
湿った髪を掻き回してもうひとつため息をつき、数時間前から一切変化のない机上のノートから目を逸らす。なにか足りないと思って左右を見渡せば、足元にシャープペンシルが落ちていた。
開いていたはずの教科書は閉ざされ、背表紙を上にして寝転がっていた。布製の筆入れはファスナーが開いたままで、蛍光ペンが数本、仲良く肩を並べてはみ出ていた。
空白が目立つノートには蛇行する線が一本走り、濡れて乾いたと思しき跡も見受けられた。まず間違いなく涎だと、気づいた瞬間顎を拭って痕跡をかき消す。
気恥ずかしさに赤くなった頬を隠して俯いて、綱吉は苛立ち紛れに床を蹴った。
上履きの底が、ワックスが塗られたばかりの床を滑った。箒でゴミを取り除き、雑巾で丁寧に拭いた上にモップで駆け回った日が、もう既に懐かしかった。
終業式の大掃除は、毎年恒例だが騒々しかった。
あれから数日が過ぎ、並盛中学校は一ヵ月半近い夏休みに突入していた。だのに沢田綱吉だけが指定の制服に袖を通し、誰も居ない教室でひとりノートを広げている。
前方を見れば横に長い黒板が、壁の半分近くを占領する形で設置されていた。時計はその上に掲げられ、その右隣には黄土色のカバーで覆われたスピーカーが、もうじきやってくる出番を無言で待っていた。
あと十五分少々経てば、チャイムが鳴る。これまでにも数回鳴っているはずなのだが、悲しいことにその何れも、綱吉は聞き逃していた。
「なんで寝ちゃうんだよ、俺ってば」
高温多湿の真夏の昼間に、空調もなしで机に突っ伏して眠るなど、かなり高度な芸当だ。そんな決して褒められたものではない能力を発揮したお陰で、彼はおおよそで三時間近く、時間を無駄にした。
濃緑色の黒板を改めて見つめる。白色のチョークで記された文字もまた、記憶が途切れる前からなんら変わっていなかった。
特別補習、という四文字が異様に輝いている。カーテンの隙間から紛れ込んだ西日が当たっているだけなのだが、現実を思い知るよう神様に言われている気分になった。
「どうしよう……」
何故先生は、途中で様子を見に来てくれなかったのだろう。ダメダメのダメツナで通っている最低ランクの生徒など、面倒見切れないとさじを投げられたか。
だったら最初から、補習など組まないで欲しかった。折角の楽しい長期休暇の三分の一近くを潰される恨みは、かなり大きい。
ただもとをただせば、こうなったのは全て綱吉の自業自得だった。
一学期の期末試験、結果は芳しくなかった。科目の半分以上が赤点で、五十点を超えた教科はひとつもなかった。当然順位はクラスどころか学年全体でもぶっちぎりの最下位で、小学校一年からやり直せとさえ言われる始末だった。
山本のよう勘で答えが導き出せたらもっと点数を稼げたのだろうが、鉛筆を転がした選択問題はどれも外れだった。
これもひとつの才能か。赤いバツ印が目立つ答案用紙を前にそう言って自分を慰めるしかなかった日を振り返り、彼は深く長いため息の末に椅子を少しだけ後ろに引いた。
机との隙間を広げ、身体を右に傾ける。腕を伸ばして前後に振れば、シャープペンシルが指先を掠めた。
「よっ、と」
午前中はみっちり授業、昼食を挟んで午後からは、今日やった分の復習を兼ねた自習時間。
最初こそは順調だったのだが、と奇跡的に折れていなかった芯をシャープペンシルの内部に押し戻し、綱吉は涎の跡が目立つノートをめくった。
そちらの方は汚いながらも文字が目立ち、頑張って講義を聞いていた形跡が窺えた。
母の弁当を食べて満腹で、冷房は無いものの室内は風が通って家にいるより幾分か涼しい。午前だけで脳は許容量を超えており、集中力も途切れがちだった。
教室は静かだけれど、グラウンドで練習する運動部の掛け声はにぎやか。程よい騒々しさと心地よさで、睡魔は瞬く間に綱吉を飲み込んだ。
昨晩なかなか寝付けず、睡眠が浅かったのも災いした。複数の要因が重なり合った結果に落胆は否めず、綱吉はまだ残る痣を撫でて首をすくめた。
額の凹凸は、一度気にし始めるとなかなか違和感が消えてくれない。しつこく溝を引っかいて、彼は背中を丸めて小さくなった。
このまま消えてしまえたら、どんなにか楽だっただろう。課題がひとつも終わっていないというのに、職員室を素通りして帰宅するなど、出来るわけが無かった。
先生への言い訳を必死に考えるが、上手く誤魔化せる自信は皆無に等しい。正直に本当のことを告げておとなしく怒られるしか、道は残されていなかった。
そうして明日から、今日を上回る地獄の日々が始まるのだろう。
「げえぇ……」
イタリアから派遣された家庭教師ことリボーンに手綱を握られるよりはマシだが、それでも辛いのに変わりはない。覚えた先から忘れていってしまう、まるでスポンジのような脳みそが恨めしくてならなかった。
時間があれば、クリアできない問題ではない。今なら睡眠学習の効果があってか、午前中に叩き込んだ数式は頭の中にまだ残っていた。
「あと、十五分」
だがそうことは上手く運ばない。卓上に置いた携帯電話と壁時計を見比べて、彼は声を絞り出して呻いた。
時計の針が真下を向き、チャイムが鳴れば一巻の終わりだ。この学校には風紀の遵守を求める凶悪な団体が存在し、下校時間を過ぎて居残っている生徒が居ようものなら、問答無用で襲い掛かってくるのだ。
曰く、風紀を破るほうが悪い。
それで殴られた過去がよみがえって、綱吉はぶるりと身震いして恐々教室後方を振り返った。
開けっ放しの扉の先に、薄暗い廊下が見えた。足音は聞こえない。まだ見回りには来ていないと安堵して、彼は残された時間を、残っている問題数で割り算した。
答えは出なかった。
「無理だって。出来っこないよ、こんなの」
分かったのは、どう足掻いたところで達成不可能だということくらい。早々に諦めの境地に至り、彼は頭を抱えて身をよじった。
ひとり百面相をしている暇があれば、一問でも解こうと努力すればよいものを。人が見たら非効率的過ぎると呆れるだろう行動を繰り返して、綱吉は肩を落として机に突っ伏した。
「……こっそり、帰っちゃおうかなー」
こんなみっともないところを、あの人に見られたくもない。間もなくやってくるだろう黒をまとった青年を思い浮かべながら、彼は首を振った。
教師の説教がなんだ、この世にはもっと怖いものが沢山ある。そう思い直して己を鼓舞して、三秒の沈黙の末、彼は意気込んで立ち上がった。
「よしっ」
うだうだ悩むのは性に合わない。潔く決意して、握りこぶしを胸にあてて勢いよく椅子を後ろに引く。
がりがりと削られた床が嫌な音を立てた。だが綱吉は構わず、机に広げていた文房具一式を集めてシャープペンシルを筆入れにねじ込んだ。
一度心を固めてしまえば、後は早い。調子に乗って鼻歌まで奏でていたら、カタン、とどこかでなにかが動く音がした。
普段なら聞き逃していた小さな音だ。だが今日は校内がいつになく静かなのもあって、普段よりもずっと大きく、物音は響いた。
「――?」
あれ、と頭の中で引っ掛かりを覚え、ノートと教科書の端をそろえていた手を止める。途端に嫌な予感に襲われて、全身の汗腺が開いてどっと汗があふれ出した。
ぞわぞわする悪寒に見舞われて、息が出来ない。四肢に鳥肌立てて身震いして、彼は口内に満ちた唾を一気に飲み干した。
幼い喉仏を上下させ、奥歯をカチカチ言わせながら背筋を伸ばす。
かつん、ともうひとつ。
はっきりと分かる足音に、綱吉は総毛立った。
指先が痙攣を起こし、持っていたものが揃って机に落ちた。ぱたんと倒れたノートの端から教科書が飛び出して、あんまりな扱いに不満げな顔を作った。
だが当の綱吉は他のことに気を回す余裕などなく、だらだら流れる汗の不快さに唇をかみ締めるしか出来なかった。
気を抜いたら叫んでしまう。変な声を出して恥をかくのだけは回避したくて、顎に力を込めて必死に耐える。
けれど。
「ねえ」
「ぎゃにゃぁ!」
斜め後ろまで接近した青年に呼びかけられたところで、箍は弾け飛んだ。
堪え切れなかった悲鳴に吃驚したのは向こうも同じだ。出しかけた手をビクッと震わせ引っ込めて、黒髪に黒のスラックス、白いワイシャツ姿の青年は眉目を顰めた。
柳眉を寄せた彼を肩越しに振り返り見て、綱吉はあわただしく視線を上下に動かした。そこにいるのが他ならぬ風紀委員長の雲雀恭弥だというのをくどいくらいに確認して、血の気の引いた顔で口をパクパクさせる。
無意識に後退を図った足が、そこにあった椅子に引っかかった。
「うあっ」
「沢田」
思っていなかった障害物の存在にたじろぎ、膝がカクンと折れた。バランスが崩れて立っていられなくなり、仰け反り気味にたたらを踏んで腕を振り回す。
掴むものを求めた指先が宙を走り、ほんのり温かくて柔らかなものに触れた。
「ひっ」
喉を引きつらせて息を吸えば、変な音が出た。心臓が飛び出しそうなくらいに跳ね回り、顔が勝手に強張る。充血した琥珀色の眼を忙しく動かして辺りを見回せば、右手を伸ばした雲雀の姿が見えた。
暗がりに端正な顔を見出して、綱吉はかぁっと赤くなった。
「ごめ、ごっ、ご!」
「危ないよ」
礼よりも先に謝罪の言葉が頭に浮かんだ。しかし舌が痺れて呂律が回らず、声はろくに音にならなかった。
それでも懸命に叫ぼうと足掻けば、腰が引けた状態の彼に引っ張られた雲雀が素っ気無く言い放った。
なにが、と思う暇も無かった。
「あぢっ」
中腰よりも更に一段階身体を低くしていた綱吉は、案の定雲雀の腕一本では自分を支えきれなかった。握っていた彼の手首から指がすっぽ抜けた瞬間、重力に引っ張られた体が床に沈む。臀部を直撃した痛みに舌を噛んでしまって、綱吉は目の前に星を散らして丸くなった。
結局恥ずかしいところを見られたと、なにもかも上手くいかない現実に打ちひしがれて目を閉じる。団子虫宜しく丸くなった彼に苦笑して、雲雀は肩をすくめた。
左袖にぶら下げた緋色の腕章を揺らし、落ち込んでいる少年の頭をぽんぽん、と撫でてやる。だがそれしきで綱吉が復活するわけがないのも、彼は十分理解していた。
「下校時間だよ」
「……まだ十分あります」
「残念。八分だ」
仕草は優しいが、言葉は辛らつだ。五時半までの残り時間を淡々と宣告されて、綱吉はぐっと息を呑んだ。
瞳だけを上向けて、交差させた腕の間から彼を窺ってみるものの、暗すぎてよく見えなかった。だが口ぶりからして、綱吉が何故夏休み中にもかかわらず学校にいるのかについては、とっくに知っているようだった。
説明する手間が省けて助かるが、恥ずかしい。絶対に馬鹿にされると悔し涙に鼻をぐずらせていたら、手を引っ込めた雲雀が見えないところで微笑んだ。
「終わったの?」
先ほどよりも若干優しく問いかけられて、綱吉はぴくん、と肩を跳ね上げた。
大袈裟に反応して以降だんまりを決め込む態度から状況を推測して、雲雀が盛大にため息をつく。呆れている雰囲気を敏感に察知して、綱吉は益々顔を上げられなくなった。
床に直接座り、膝を揃えて真ん中に顔を沈める。いっそ派手に笑い飛ばしてくれる方が有り難がったが、雲雀という人間がそんなタイプでないことくらい、綱吉は随分前から把握していた。
何故彼は風紀委員などやっているのだろう。そうでなかったら出会いすらしなかった可能性があるとは考えず、綱吉はこの世の無常さを恨んで唇に牙を立てた。
「どうせ、俺はダメダメの、ダメツナですから」
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
急に自虐的な台詞を並べられて、雲雀が面食らった顔で言い返した。しかし綱吉は聞き入れず、己の無能さ、無力さをひたすら嘆く言葉を並べ立てた。
額から陰気なキノコでも生えているのか。一瞬変な想像をしてしまって、雲雀は苦笑して肩を揺らした。
「その様子じゃ、今日の課題は終わってないみたいだね。……なにしてたの?」
時間はたっぷりあったはず。そんな言葉も聞こえてきて、綱吉は血が出るくらいに上唇を噛んだ。
前にも増して殻に閉じこもってしまった彼に嘆息し、雲雀はどうしたものかとかぶりを振った。長めの前髪を掻きあげて後ろに流し、落ちてくる毛の動きを目で追いながら肩の力を抜く。
西日が紛れ込む薄暗い中で見た少年の額には、何かに圧迫されて出来たと思われる痣が残っていた。時間の経過と共に薄くなって消えるだろう模様を瞼の裏で思い返して、雲雀は大凡の事情を察して苦笑を漏らした。
「仕方が無いね」
「うー……」
呆れ混じりに呟けば、聞こえていた綱吉が低い場所で呻いた。涙目になっているだろう彼を想像して目尻を下げて、雲雀は机上に残されていたテキストを小突いた。
課題が終わっていないというのは、下校時間を過ぎても居残っていい理由にはならない。かといって、長期休暇中に頑張って学校に出向いた結果が何ひとつ残せないようでは、彼に付き合ってくれた教師にも悪かろう。
どこで折り合いをつけるかと考えて、雲雀は人差し指で顎をなぞった。
「じゃあ、こうしよう」
「ヒバリさん?」
「今から僕が出す問題が答えられたら、君は今日のノルマをクリアしたことにしてあげる」
「えっ」
居眠りをしてサボっていたのは内密にしてやるとほくそ笑み、突拍子もない事を言い放った彼に、綱吉は大きな目をまん丸に見開いた。
ぽかんと口を開いている彼の返事を待たず、緋色の腕章を揺らした青年が堂々とした足取りで教室前方に向かった。背筋をピンと伸ばして胸を逸らし、カツカツと小気味の良い足音を響かせながら黒板を目指す。
置いて行かれた綱吉はゆっくり膝を伸ばして起き上がり、机に右手を突き立ててバランスを取った。
「ヒバリさん……?」
風紀委員長という役職は、いったいどこまで権限が与えられているのだろう。謎は膨らむばかりだが、なにはともあれ、彼の提案は有り難かった。
角が削れて丸くなっている白色のチョークを取った青年を、綱吉は固唾を飲んで見守った。
今から黒板に記される問題さえ解ければ、教師に怒られずに済むのだ。リボーンの説教も、きっと回避出来る。
願わくは簡単に解けるものであって欲しい。雲雀が即興で作り出す問題なのだから、きっとそう難しいものではなかろうと甘く考えて唇を舐め、綱吉はコクリと喉を鳴らして一歩前に出た。
教室の電気が消えているので、書かれた記号が若干読みづらい。目を細めて身を乗り出した彼は、次々に並べられていく数式に次第に表情を曇らせ、眉間の皺を深くした。
「ん、んんー?」
「はい、出来た」
自慢ではないが、視力は良い方だ。だから決して見えていないわけではないのに、綱吉は口を尖らせ変な顔をして、頻りに首を左右に傾けた。
最後の数字を書き終えた雲雀が、チョークを置いた手で黒板を叩いた。指先に付着していた粉が張り付き、半端な手形が最後に付け加えられた。
空いていたスペースに追加された数式は、一見すると算数に分類されるものだった。だが足し算と引き算に用いられる数字の代わりに、一部記号が用いられていた。
「M、+、6、=……?」
「そう。全部解けたら、今日の補習は終わりにしていいよ」
四つ並んだ問題の、一番上に置かれた内容を声に出して読み上げる。唖然としている綱吉に鷹揚に頷いて、雲雀は残り五分となった時計を見上げた。
急ぐよう、目で告げられた。自由を取り戻した雲雀の手はさりげなく背中に回されて、チョークとは全く異なるものを探り当てた。
何を目的に彼がトンファーを取り出したかについては、考えるまでもない。時間内に解けなかったら、先生や鬼の家庭教師の代わりに、この場で綱吉に鉄槌を下すつもりなのだ。
説教よりもよっぽど最悪な結末を想像してぶるりと震えて、彼は奥歯を噛み締めて問題を注視した。
四つの数式はどれも似たり寄ったりな構造をしており、一定のルールで構成されているようだった。算数ではなく、どちらかといえばクイズに近い。法則さえ見出してしまえば、答えを導き出すのはそう難しくないように思われた。
だが、その法則がなかなか思いつかない。
そもそもアルファベットに数字を足したり、引いたりしたら、何が残るというのか。
「(C+4)×7、N-3、R÷2……え、えぇえ?」
「まだ分からないの?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
銀色の凶器をちらつかせた青年に声を上擦らせ、綱吉は閉じていたノートを引っ掴んだ。床に沈んでいた筆入れを掴んでシャープペンシルを引っ張り出し、適当に開いたページの空白部分に黒板の問題を書き写す。
椅子には座らず中腰状態で紙面と睨めっこを開始した彼に、雲雀はやれやれと肩を竦めた。
「え、ええっと、えー?」
このアルファベットが何を示しているのかを考えて、真っ先に思い浮かんだのは元素記号だった。
もしそうだとしたら、完全にお手上げだ。一応理科の授業で学んだが、覚えているものといえば第一番目が水素だという事くらい。
あの記号は、確かHだった筈。しかし雲雀が提示した問題には、そのアルファベットは含まれていない。
これだけでは分からない。せめてなにかヒントが欲しくて、彼は縋る目で教卓脇に立つ青年を見つめた。
琥珀色の瞳いっぱいに涙を浮かべた少年に、彼は一寸驚いてから目を眇めた。
「こんなのも分からないの?」
「だ、だって」
「1+1はBだよ」
「――え?」
「これで分からないようなら、一度その頭をリセットする必要があるかもね」
叩けば少しはマシになるかもしれないと、愛おしげにトンファーを撫でながら呟かれた。そんな恐ろしい真似は絶対に御免だと背筋を震わせて、綱吉は危うく聞き損ねるところだった大事なヒントを胸にしまいこんだ。
普通なら、彼が告げた足し算の答えは「2」だ。だというのに、アルファベットに置き換えられている。となればその「2」こそが、「B」に該当するという話だ。
「……うん? ちょっと待てよ。あれ? えっと、えー……?」
そこでピンと来た綱吉は、一瞬だけ伸び上がって瞬きを繰り返し、すぐに首を右に倒して小さくなった。
あの雲雀がそんな単純な問題を出すだろうか。そんなわけがない、と疑り深い心がこれは罠だと耳元で囁く。しかし他に該当する法則が見付からないのも確かだった。
「まだ?」
遠くで雲雀が急かす。少しだけ不機嫌になっている声にビクッとなって、綱吉は迷っている暇は無い現実に唇を噛んだ。
あと三分。今は信じるしかないと自分の直感に賭けて、彼は何度も指を折って数字を数えた。
これまでにない集中力を発揮して、導き出された最後の一文字をノートに記す。四つ並んだアルファベットに首肯した頃には、雲雀はトンファーを置いてチョークを握っていた。
「はい、一問目」
「え、……エス!」
「次は?」
「えっと、ユー、です」
「三つ目」
「ケイ、かなあ……?」
「最後」
「……アイ」
催促されて、答えを順番に声に出す。相当するアルファベットを縦に並べて書き記した雲雀が、時計をちらりと見てから手を下ろした。
百メートルを全力疾走した後の気分で唾を飲んで、綱吉が額の汗を拭う。これで良い筈だと祈る気持ちで審判を待つ彼を見つめ、やがて雲雀はにこりと微笑んだ。
「じゃあ、上から読み上げてみて」
「へ?」
答えを出すだけで終わりではなかったのか。
予想していなかった展開に目をぱちくりさせ、綱吉はシャープペンシルを握ったままの手を右に滑らせた。
授業中、半分寝ながら書いたらしき悪筆の脇を埋める、他より筆圧の高い文字。縦に並んだアルファベット四個を改めて見つめた瞬間、彼はようやく、雲雀の本当の狙いに気がついた。
ハッと息を呑み、目を丸くして、身体の内側から湧き起こる熱にカーッと顔を赤くする。なにも言えなくて口をパクパクさせていたら、雲雀が意地悪い笑みを浮かべた。
「チャイム、鳴るよ?」
教卓に置いたトンファーに手を伸ばしながら宣告されて、ぞわっと来る悪寒が背中を駆け抜けた。
言わなければ、許して貰えない。リボーンに説教をされるのと、鈍器で力一杯殴られるのと、問題の答えを叫ぶのと、どれが一番マシかと考えて、答えは意外に早く、呆気なく導き出された。
そんなもの、天秤に掛けるまでもない。そうと言ってくれればいくらでも声に出してやるのにと、遠回しすぎる愛しい人に落胆して前髪をくしゃりと掻き回す。
変な悪戯を仕掛けて来た男への怒りを少しだけ膨らませて、綱吉は顔を上げた。鼻から息を吸い、肺に留める。
琥珀色の瞳でキッと前方を睨み付け。
余裕綽々にしている男に向かい。
「スキ、です!」
腹の底から声を響かせ、怒鳴りつける。
直後。
見計らったかのようにチャイムが鳴り始めた。
「うん。正解」
部屋中に響き渡る轟音を薙ぎ倒し、雲雀が朗らかにそう告げる。
ひと際嬉しそうにしている彼に言いたいことの大半をぐっと飲み込んで、綱吉はしなしなとその場に蹲った。
2012/07/21 脱稿